2012年3月 Archives

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「●写真集」の インデックッスへ

原発労働者の被曝によって受けた苦しみを如実に伝える写真集。日本のエネルギー産業の暗黒史。

原発崩壊 樋口健二写真集.jpg 『原発崩壊』(2011/08 合同出版) 樋口健二.jpg 樋口健二 氏
(26.8 x 21.8 x 1.4 cm)

 原発で働く労働者や原発の付近に住む人々の暮らしぶりを40年近くに渡って取り続けてきた樋口健二氏の、これまで発表してきた写真に、福島第一原発事故後に撮った写真を加えて、ハードカバー大型本として刊行したもの。

 中盤部分の、かつて原発施設内で働いていて骨髄性白血病やがんで亡くなった人の亡くなる前の闘病中の写真や、亡くなった後の遺影を抱えた遺族の写真、更に、亡くなるに至らないまでも、所謂「ぶらぶら病」と言う病いに苦しんでいる様子を撮った写真などが、とりわけ衝撃的です。

 それらには、樋口氏自身が取材した故人や遺族、闘病中の人たちへのインタビューも付されていて、原発作業員の多くが、原発の危険性を何となく知りながらも具体的な説明を十分に受けることなく、危険性の高いわりには無防備で過酷な環境の中で作業に従事し、知らずの内に被曝し、重い病いとの闘いを強いられたことが窺えます。

 その中には、日本で初めて原発被曝裁判を提訴した岩佐嘉寿幸さん(故人)の写真もありますが、原子炉建屋内の2時間半の作業に1回従事しただけで被曝し、重い皮膚炎に苦しみ続けることになった岩佐さんは、それが"放射能性皮膚炎"であると診断した医師の助言と協力により、国と敦賀原発(日本原子力発電)を訴えましたが、政府と日本原電が編成した特別調査団による'被曝の事実無し'との政治的判断の下、敗訴しています。

 しかし、岩佐さんのように世の表に現れた原発被曝者は氷山の一角であり、多くの原発被曝者が、原発での被曝が病いの原因だと確信しつつも、もの言えぬまま亡くなったり、生涯を寝たきりで過ごすことになった事実が窺えます。

樋口健二氏 講演会・写真展.jpg 本書によれば、1970年から2009年までに原発に関わった総労働者数は約200万人、その内の50万人近い下請け労働者の放射線被曝の存在があり、死亡した労働者の数は約700人から1000人とみていいとのこと。

 こうした原発下請け労働者の労働形態についても解説されていて、下請、孫請け、ひ孫請け、更に親方(人出し業)がいて、その下に農漁民や非差別部落民、元炭鉱夫や寄せ場の労働者などがおり、しかも、この人出し業をやっているのは暴力団であったりするわけで、ここに一つのピラミッドの底辺的な差別の構造があるとのことです。

 こうした人達は、被曝してもまず労災申請が認められることはこれまで無く、そうした働き方と犠牲の上に原発による電力供給がこれまで成り立ってきたことを思うと、あまりに歪な構造であったと思わざるを得ません(これはまさに、日本のエネルギー産業の暗黒史!)。

 結局、原発というのは、被曝労働による犠牲を抜きにしては成り立たないものなのでしょう。併せて、近隣住民の健康と生活をも破壊してきたわけで、こんなことまでして原発を存続させる意義は、どこにも無いように思われます。

樋口健二氏 講演会・写真展ポスター

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「●集英社新書」の インデックッスへ

どの地域においても地域活性化に繋がるどころかコミュニティの亀裂を深める疫病神だった原発。

原発列島を行く.jpg  鎌田 慧.jpg 鎌田 慧 氏   原発事故はなぜくりかえすのか.jpg 
原発列島を行く (集英社新書)』['01年] 高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』['00年] 

 原子化学者の高木仁三郎(1938-2000/享年62)は、ガン宣告を受けた翌年に遺書のつもりで『市民科学者として生きる』('99年/岩波新書)を書きましたが、その本の刊行された'99年9月に茨城県東海村で起きたJOCの臨界事故を受けて、'00年夏に『原発事故はなぜくりかえすのか』('00年12月/岩波新書)を口述筆記で著し、それが遺作となりました。

 高木氏の本が科学者による反原発の書であるならば、「週刊金曜日」に'99年2月5日号から'01年9月7日号までに連 載された鎌田慧氏の『原発列島を行く』は、ルポライターによる反原発の書であり、この連載の間にJOCの臨界事故があったことになります。

 JOCの臨界事故を機に、その頃の反原発の気運は、少なくとも、東日本大震災による福島第一発電所の事故の直前よりも高かったのかも知れません(片や岩波新書、片や集英社新書で、定番と言えば定番。全メディア的展開では無かったのかも知れないが)。一方、推進派はこの頃、ほとぼりが冷めるのを暫く待っていたのか―。

 早くから原発を取材してきた鎌田氏ですが、本書では、主に過疎地と言える地域にある全国の原発を隈なく巡り(核燃料サイクル基地(青森・六ヶ所村)・処分研究所(岐阜・東濃地区)含む)、その地域に原発が誘致された経緯や、金に糸目をつけない国のやり方、交付金漬けにされてしまった地方財政、押し潰された民意、失われた自然、地域住民の不安や怒り、落胆などをルポしています。

 先ず気づかされるのは、70年代から80年代にかけて、原発誘致により多額の交付金を受け、"町興し"と言って人口規模に不釣り合いな豪奢な箱モノ施設を作ったりしたこれらの地方自治体が、鎌田氏が取材した時点で、町が栄えるどころか、一向に過疎化の問題から抜け出せていないことです。

 更に、原発の誘致に際して、町や村が賛成派と反対派に分かれ、地域コミュニティに大きな亀裂を生じさせているということが、判で押したようにどの自治体にも起きていて、振り返って見れば、原発はどの地域にとっても疫病神だったということになるのではないでしょうか。

 取材の時点で、全国で運転中の原発は50基。その他に建設中4基、計画中3基で、そうすると2010年までには57基になっていたはずの計算ですが、東日本大震災前で、営業運転中は54基(本書の最後に出てくる浜岡原発4基の内、浜岡第一、第二が'09年に運転終了するなどしている)。更に、建設中は2基、着工準備中は12基という状況で、全部出来あがると68基になりますが(北村行孝、三島勇『日本の原子力施設全データ 完全改訂版』('12年/講談社ブルーバックス))、計画が中止されるものが出そうな様子です。

 鎌田氏が取材した当時でも震災前でも、稼働中の原発が全部止まったら電力供給は破綻するとの見方が当然のようにありましたが、福島第一原発の事故を受けて各原発とも定期点検やストレスチェックに入っているため、2011年3月末現在で、54基中、稼働しているのは、北海道電力の泊原発3号炉の1基だけです(これも5月に定期点検のため止まる)。
 少なくとも、夏場の電力消費のピークを除いては、原子力なしで充分やっていけるということの証ではないかとも思ったりします。

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反原発科学者の遺作。立ち上がりから杜撰だった日本の原子力開発の実態がわかる。

原発事故はなぜくりかえすのか.jpg  高木 仁三郎.jpg 高木仁三郎06.jpg
原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』 高木仁三郎(1938-2000/享年62)/原子力資料情報室の設立総会(1999年1月30日)

 『プルトニウムの恐怖』('81年/岩波新書)などで早くから原発とそれを巡る放射能汚染事故発生の危険性を訴え、原子力科学者でありながら「反原発の旗手」でもあった高木仁三郎(1938-2000)が直腸ガンと告知されたのは'98年夏のことであり、最後に書き遺しておきたいこととして『市民科学者として生きる』('99年/岩波新書)を著します。

東海村JCO臨界事故.bmp しかし、その「最後の著書」が刊行された'99年9月に、茨城県東海村でJOCの臨界事故が起きたことで、さらに「言い遺しておきたいこと」ができた著者が、闘病生活の病床で口述筆記により著したのが本書です。

東海村JOCの臨界事故

 実際に録音が行われたのが'00年の夏で、著者は同年10月、本書刊行前に帰らぬ人となってしまいましたが、すでに本書口述中に自らの死を覚悟していたと思われ、本書の最後には「偲ぶ会」での最後のメッセージが付されています。

 原子力発電の科学的・社会的な問題点と放射能汚染事故の危険性を訴える語り口は淡々としており、それでいて、JOCの臨界事故という悲惨な出来事が、原子力産業・技術・文化の様々な問題点の集積の結果として起きたものであることを、鋭く指摘しています。

 自らが原子化学者として日本原子力事業や東大原子力研究所といった企業・機関で研究に携わっていたころの原子力・放射能の危険性に対する認識の甘さや管理の杜撰さ―これは体質的なものであり、どうしてそのような体質が成り立ったか、更にそれが綿々と続いているのは何故かということを、体験的に分かり易く述べています。

 それによれば、国の原子力開発事業というものは、徹頭徹尾、科学という実態も或いは産業的基礎もないままに、上からの非常に政治的な思惑によってスタートし、更に、三井・三菱・住友といった財閥系企業や大手銀行がそれに乗っかり、「議論なし」「批判なし」「思想なし」の中で進められとのこと。この「三ない主義」は徹底されていた、と言うより、むしろ強制であったとしています。

 そうしたことに疑問を感じた科学者も当初は少なからずいて、著者もその一人でありそうしたことから反原発に転じましたが、反原発に転じなくとも多くの優秀な科学者が他分野の研究に転じ、上から指示を唯々諾々と守る、思想無き体制順応型の技術者や科学者だけが"エリート"として後に残った末に、国・企業と一体となって、所謂「原子力村」という特殊な社会を形成していったようです。

 著者は20代の頃からそうした実態を生身で体験していたわけですが、自分たちが研究に携わっていたころ安全管理意識の希薄さ、実験研究等における放射能管理の杜撰さなども語っており、そうした意味では、著者の研究人生を反省と共に振り返るものともなっている一方で、特定の科学者に見られる思考回路の科学的な弱点を指摘し、更には、科学者として「自分の考え」を持つことの重要さを訴えています。

 また、こうした科学者個々に対する啓蒙だけでなく、国・政府機関などの原子力行政の在り方の問題点を指弾するものとなっており、更に一方では前著同様に、原子力科学の入門書にもなっており、プルトニウムをはじめとする様々の放射能性物質の特性やその危険性が、分かり易く解説されています。

 原子力推進派の科学者の中には、著者のことを蛇蝎の如く嫌う人も多くいたかと思われますが(そうした人には著者の死は安堵感を与えたかも知れない)、一方で、その科学的水準の高さ、指摘の的確さに密かに畏敬の念を抱いていた人もいたように聞きます。

 東日本大震災による福島第一原発事故が起きてみれば、ある意味、予見的な著者であったとも言えますが、本書刊行以前にも多くの原発事故及び事故隠しが行われていたことが本書の中で一覧に示されており、むしろ、本書におけるプルトニウムの危険性の記述を読んで、本書刊行の契機となったJOCの事故が、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すためのMOX燃料を巡る事故とであったことを思うと、更に先々の危険を予言している本であるとも言えます(その予言が的中しないことを祈るのみだが)。

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"原子力村、原子力マフィア"と言われる面々を、実名を挙げて"再整理・再告発"。

原発の闇を暴く.jpg原発の闇を暴く (集英社新書)』(2011/07) 原発の闇を暴く2.jpg

広瀬隆 明石昇二郎.jpg  東日本大震災による福島第一原発事故は、「想定外の天災」などではなく「人災」であるとして、30年以上前、チェルノブイリ事故直後に『危険な話』(′87年/八月書館、'89年/新潮文庫)を刊行した作家・広瀬隆氏(67歳)と、10年前に浜岡原発事故のシミュレーションを連載し、『原発崩壊』(′07年/金曜日)を刊行したルポライター・明石昇二郎(49歳)の2人が、「あってはいけないことを起こしてしまった」構造とその責任の所在を、"実名"を挙げて徹底的に曝した対談です。
広瀬隆・明石昇二郎 両氏(本書刊行と同時に東電を刑事告発した際の記者会見('11年7月15日)

 まず 第1章「今ここにある危機」で、メディアに出ない本当に怖い部分の話や子供たちの被曝の問題を取り上げ、「半減期」という言葉などに見られる、報道の欺瞞を指摘しています。

 そして、第2章「原発崩壊の責任者たち」では、原子力マフィアによる政官産学のシンジケート構造を暴いていく中で、根拠の無い安全・安心神話を振り撤き、リスクと利権を天秤にかけて後者を選択した「原子力関係者」たちを列挙していますが、100ページ以上に及ぶこの章が、やはり本書の"肝"でしょうか。

 放射能事故による汚染は「お百姓の泥と同じ」との暴言を吐いた人物、「不安院」と揶揄される保安院の構造的問題、「被曝しても大丈夫」を連呼した学者たち、耐震基準をねじ曲げた"活断層カッター"―何れも「実名」を挙げてその責任を追及しています。

 冒頭には、事故当初、専門家・解説者としてNHKなどのテレビに出続けた原子力推進派の「御用学者」の名が挙がっており、その筆頭格が、関村直人・東大大学院工業系研究科教授と、岡本孝司・東大大学院教授(東大工学部原子力工学科卒)とされています(今は、ウェッブで「原発業界御用学者リスト」なるものを閲覧出来るが、出来れば彼らがテレビに出る前に知っておきたかったところ)。

 こうした人達は4月終り頃にはもう殆どテレビには出なくなってはいましたが、やはり、事故直後の一般の人々が最も原発事故に関心を寄せ、真剣に不安を抱いている時期に、能天気な楽観説を唱え続けた罪は重いように思えます。

 第3章「私たちが考えるべきこと」では、原発がなくても停電はせず、独立系発電事業者だけでも電気は足りるということ、電力自由化で確実に電気料金は安くなり、必要なのは電力であって、原子力ではないということを訴えています。

 広瀬氏は、『FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン』('05年/朝日新書)に続く事故後の著書で、内容的には両者の発言とも、これまでの2人の著作と重なる部分も多々あり、やはり、原子力村、原子力マフィアと言われる面々を、実名を挙げて"再整理""再告発"している点が、本書の最大の特長かと思われます(この方面に関しては、集英社は大手では岩波書店と並んでアグレッシブか)。

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情報公開が遅れる理由の全てを解明できなくとも、こうした事後検証はやはり必要。

検証 福島原発事故・記者会見2.jpg    ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか 01.bmp
検証 福島原発事故・記者会見――東電・政府は何を隠したのか』(2012/01 岩波新書)/『テレビは原発事故をどう伝えたのか (平凡社新書)

 震災並びに福島第一原発の事故後、政府や保安院、東電の記者会見に出続けた2人のフリージャーナリストによる本(日隅一雄氏は弁護士でもあるが)。

 連日のように見られたドタバタの記者会見と後から後から出てくる新事実。そのうち、また何か隠しているのではないなと思いながら報道を眺めることが常態化してしまいましたが、それだけではだめで、やはり、誰が情報を操作したのかまでは行かなくとも、どれだけ情報の提供が遅れたのかくらいは最低限、こうした事後検証が必要でしょう。                福島第一事故の評価 最悪の「レベル7」に引き上げ(ANN 11/04/12)

  事故後1ヵ月も経って、4月12日にようやっと事故評価を「レベル5」から最悪の「レベル7」に引き上げたというのもヒドイ話であるし、核燃料のメルトダウンは早くから多くの専門家がその可能性を示唆していたにも関わらず(但し、当初テレビ出演し解説をしていた御用学者らは何れも根拠の無い楽観論を展開していたわけだが)、東電がメルトダウンを正式に認め、保安院がこれを追認したのが5月12日と、事故後2ヵ月経ってから。

 SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のシミュレーション結果の公表も大幅に遅れたわけですが、これらの情報の早い公表を止めたのは誰なのか?

 「想定外」の大津波が必ずしも「想定外」だはなかった面もあるのに、それを承知の上で東電や政府、保安院が、まるで合言葉のように「想定外」という言葉を繰り返すようになったのはなぜか?

 MOX燃料使用の3号機では事故当初からプルトニウムの放出が懸念されたが、保安院や東電は記者会見で「プルトニウムは放出されにくい」との回答を繰り返すばかり。東電が原発敷地内からプルトニウムが検出されたことを発表したのは3月29日で、政府が敷地外の浪江町でのプルトニウム検出を明かしたのは9月30日。

 その他にも、作業員の被曝上限の引き上げの安全性に関わる問題や、汚染水の海への放出の責任者の不明確さなど、幾つかのテーマごとにわけて、国や東電、保安院の記者会見を追検証しています。

 その中には、マスメディアの記者会見等を受けての報道のあり方も含まれており、いち早く報じたとこころや反応が緩慢だったところ、政府発表をそのまま横流しにし、その不正確さ(乃至ウソ)が明らかになっても、自らの報道のあり方を振り返る気配は見られなかったところなどもあり、そうしたことも含めて検証するとなると、やはりマスメディアには難しく、本書の著者らのようなフリージャーナリストに頑張ってもらうしかないのでしょうか。

 今回の原発事故報道でこうしたフリージャーナリストの果たした役割は大きかったと思われますが、本書によれば、こうしたフリージャーナリストのうち、尖鋭的な一部の者を狙い撃ちにして記者会見から締め出すといったことも行われたとのことです。

 どうせ経産省の官僚筋や保安院、東電などがその本意を明かさずに政治家に上申してそうしたことが行われたのでしょうが、そういう戦術に易々と乗せられてしまうところに、政権の"青さ"を感じます。

ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか2.jpg 本書のほかに、福島原発事故の報道の在り方を検証したものとしては、メディア文化、オーディエンス研究を専門とする伊藤守氏の『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(2012年3月/平凡社新書)がつい最近刊行さており、NHKおよび民放各局の事故の推移や政府発表に対する報道の対応がどうであったか、またそれらのテレビ局に出演していた所謂「専門家」と呼ばれる人たちがどのような発言をし、それに対して聴き手であるアナウンサーやキャスターがどのような反応を示したかなどが、こと細かく検証されています。

 著者はジャーナリズム論が専門でないながらも、事故報道に対する批判的な視点を織り込み、刊行されたばかりということもあって本書に対する評価も高いようですが、大体「原発推進派」の専門家を呼んでくれば、そうした事故の重大さを過小評価したコメントをすることはミエミエなわけで、その学者や専門家が何を話したかもさることながら、テレビ局がどうして事故当初、そんな人ばかりを解説者・コメンテーターとして呼んできたのか(バイアスを排除する意図からか、その「専門家」の出自については触れられていない)ということの方が、より大きな問題であるように思いました。

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ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超え、脱原発への道筋を示している。

原発のコスト 岩波新書.jpg 『原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)』 大島 堅一.jpg 大島 堅一 氏

 40代半ば中堅の環境経済学者による著書で(朝日新聞社主催の2012(平成24)年度・第12回「大佛次郎論壇賞」受賞)、第1章で東日本大震災による福島第一原発の事故では一体何が起きたのかを振り返り、環境被害の深刻さ、人体への影響、生活への影響を検証しています。

 続く第2章では、被害補償をどのように進めるべきかを論じていて、事故費用を①損害賠償費用、②事故収束・廃炉費用、③原状回復費用、④行政費用に区分し、それぞれ試算しています。

 それによると、①の住民の被害に直接関わる費用である「損害賠償費用」を、直接的な被害だけでなく、営業費用(実害と風評被害)や就労不能による損害、財産価値の喪失・減少など経済的被害なども併せた「被害の総体」を賠償する費用と捉えると、それだけで5.9兆円になり、これに②~④を加えると8.5兆円になるとしていますが(④の行政費用は、国や自治体が行う防災対策と放射能汚染対策、それに放射能汚染により出荷できなくなった食品の買い取り費用も含まれる)、廃炉費用を東京電力の試算を基に1.68兆円と見積もっているものの、これは1号機から4号機の被害状況が十分確認されていない段階での試算であり(チェルノブイリ原発の廃炉費用は19兆年かかっていることからもっと増える可能性がある)、更には、この「8.5兆円」という数字には、③の原状回復費用は"試算不能"として含まれていません(放射性廃棄物貯蔵施設の建設費用だけで80兆円かかるという報道もあるとのこと)。

 そこで次には、このうちの何がどこまで賠償されるかということが問題になってきますが、原子力損害賠償制度というのは、事業者である東京電力の過失責任であった場合、賠償措置が一定の限度額を超えると国が補完援助することになっていて、更には、新たな損害賠償スキームとして登場した原子力損害賠償支援機構は、仕組み上は、この東京電力への援助に上限を設けず、必要があれば何度でも援助できるようにして、東京電力が債務超過に陥らせないようにするようになっているとのこと。こうなると、著者が言うように、東京電力を守るための機構であり、また、原賠法が事業者の責任を明確にした上での国の援助を定めていたのに、東京電力の責任もどんどん曖昧になっていくのではないかなあ(それが、機構を設立した目的なのかもしれないが、最終的な負担は国民の税金にかかってくるため、東京電力にオブリゲーションが無いまま、負担増だけが国民に強いられるというのは解せない)。

 第3章では、原子力は水力・火力に比べ発電コストが安いとされているが、本当にそうなのかを検証していて、この計算のまやかしは以前から言われていたかと思いますが、本書では、原子力発電に不可欠な技術開発コスト、立地対策コストを政策コストとして勘案すると、火力や水力よりも電力コストは高くなることを計算によって示しています(一キロワット当たり、原子力は10.25円、火力は9.91円、水力は7.19円)。

 これらに加えて、原子力発電には、原子力事故後に発生するコスト(事故コスト)が高く、これを事故リスクコストとして計算すること自体に無理あり、更には、核燃料の使用後に発生する使用済燃料の処理・処分にかかる所謂バックエンドコスト(総合資源エネルギー調査会がこれを18.8兆円と計算しているが、実際の額はもっと高くなると想定される)まで含めると、その「経済性」は疑われるとしていますが、尤もだと思いました。

 このようにコストがかかる上に、危険でもある原子力発電ですが、第4章では更に踏み込んで、こうした中、原子力複合体(所謂「原子力村」)がいかにして「安全神話」を作り上げてきたかが検証されていて、そこには反対派の徹底排除を進めるうちに、推進する当事者の側で、危険性を問題視すること自体がタブーとして形成されてしまったというのが実態であるとの分析をしています。

 著者は、日本においてはこの原子力複合体(原子力村)の力があまりにも強すぎるとしながらも、最終第5章では、福島第一原発事故により脱原発に対する国民の支持が圧倒的に高まっており、また原発に頼らなくとも少し節電するだだけで電力供給を賄うことは可能であるとして(節電コストと節電による節約額の方が大きい)、原発を止める道筋を提唱すると共に、脱原発のコストを計算し、更には、再生可能エネルギー普及政策の考え方を示しています。

 環境経済学ってこういうことを計算するのかと初めて知りましたが、あとがきによれば、こと原子力政策については批判的に研究している専門家は極端に少なく、時として孤独な作業を強いられるとのこと、しかも本書は、ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超えており、事故の経緯や安全性の問題など、著者自身の専門を超える範囲についても相当の勉強をした痕跡が窺えました。

 こうした学者がいることは心強いですが、同じ志を持った研究者がより多く出てくることを期待したいと思いました(著者は、現在は立命館大学教授。私立大学にもっと頑張って欲しい)。

原発コスト4割高.jpg 2011年11月23日 朝日新聞・朝刊

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脱原発の教科書であり、学際的集大成。今後の議論の継続・発展を望む。

原発を終わらせる.jpg    石橋 克彦.jpg 石橋克彦 氏(2011年5月23日参議院行政監視委員会)
原発を終わらせる (岩波新書)』(2011/07)

 地震学者・石橋克彦氏を編者とした14本の小論文集で、東日本大震災、福島第一原子力発電事故後、原発を巡る識者の共著の刊行は珍しくありませんが、事故後3ヵ月そこそこで、これだけの専門家(原子力工学の専門家、技術者、社会学者、地方財政論の専門家など。原発を長く取材してきたジャーナリストをも含む)の論文を集めることが出来るのは、岩波ならではかもしれません。

 全4部構成の第Ⅰ部が福島第一原発の現状、第Ⅱ部が原発の技術的問題点、第Ⅲ部が原発の社会的問題点、第4部が脱原発の経済・エネルギー戦略となっていて、口上には「原発を終わらせるための現実的かつ具体的な道を提案する」とありますが、どちらかと言うと、今回の事故を検証し、あらためて原発の何が問題なのかを多面的に考えるものとなっています。

 個人的に特に印象に残ったのは、冒頭の原発の圧力容器の設計に携わった田中三彦氏の「原発で何が起きたのか」で、この人には『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言』('90年/岩波新書)という20年前の著書もありますが、今回の事故後に発表された東電の発表データを分析して、改めて1号機の耐震脆弱性を指摘しており、津波の前に地震で既に電源トラブルと原子炉の損傷があり、1号機原子炉は危険な状態に陥っていたと考えられるとしており、この指摘は、「津波対策をすれば原発は安全になる」という発想を根本から崩すものとして注目されるべきかと思います(実際、その後多くの識者がこの考えを支持した)。

 その他に、金属材料学が専門の井野博満・東大名誉教授も、「原発は先が見えない技術」と題した論文の中で、「圧力容器の照射脆化」の問題を取り上げると共に、高レベル廃棄物の地層処分(ガラス固化体)における「オーバーパックの耐食性」について、「1000年後もオーバーパックの健全性は保たれる」という財団法人原子力安全研究委員会の報告を、そうした「予測」を必要とする人達の「期待」に沿った安全ストーリーを作り上げているに過ぎないとしています。

 また、本書編者で地震テクトニクスが専門の石橋克彦・神戸大学名誉教授は、「地震列島の原発」と題した論文の中で、冒頭の石橋論文を受けて、福島第一原発は、地震動そのものによって「冷やす」「閉じ込める」機能を失うという重大事故が起きた可能性が強いとし、耐震基準の変遷を追いながら、その問題点を指摘しています(福島第一原発の耐震性を審議する委員会で896年の貞観地震の大津波を考慮するよう東電に求めたが、東電はこれを無視した―と巷で言われているのは事実では無く、委員会そのものが最終報告に津波の危険性について考慮を求めることを入れなかったため、津波対策は最初から対象外だったとのこと)。それにしても、地震地帯の真上に54基もの原子炉を造っている国なんて、日本ぐらいなんだなあ(116-117pの図)。

 論文の多くが根拠を明確にするために、所謂「論文形式」に近い形で書かれていて、専門度も高いために素人にはやや難解な部分もありましたが、自分なりに新たな知見が得られた箇所が多くありました。

 脱原発の教科書であり、学際的集大成。願わくば、もっと早くにこうした本が刊行されても良かったのではと思われ、今後も、こうした研究者間相互の情報共有が進み、更に問題の解決に向けての議論が継続・発展することを望みたいと思います。

《読書MEMO》
●目次
はじめに                        石橋克彦
Ⅰ 福島第一原発事故
    1 原発で何が起きたのか           田中三彦
    2 事故はいつまで続くのか          後藤政志
    3 福島原発避難民を訪ねて         鎌田 遵
Ⅱ 原発の何が問題かー科学・技術的側面から    
    1 原発は不完全な技術            上澤千尋
    2 原発は先の見えない技術         井野博満
    3 原発事故の災害規模            今中哲二
    4 地震列島の原発               石橋克彦
Ⅲ 原発の何が問題かー社会的側面から
    1 原子力安全規制を麻痺させた安全神話 吉岡 斉
    2 原発依存の地域社会            伊藤久雄
    3 原子力発電と兵器転用
        ―増え続けるプルトニウムのゆくえ  田窪雅文
Ⅳ 原発をどう終わらせるか
    1 エネルギーシフトの戦略
        ―原子力でもなく、火力でもなく     飯田哲也
    2 原発立地自治体の自立と再生       清水修二
    3 経済・産業構造をどう変えるか       諸富 徹
    4 原発のない新しい時代に踏みだそう    山口幸夫

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講演会のトーンで書かれていて分かり易い。元原発設計者が原発によるエネルギー供給の不可能性を述べている。

福島原発事故はなぜ起きたか.jpg 『福島原発事故はなぜ起きたか』 (2011/06 藤原書店)   原発を終わらせる.jpg 『原発を終わらせる (岩波新書)』(2011/07)

 本書は、福島原発事故が起きた2011年3月11日から1ヵ月余り経った4月16日に明治大学リバティホールで開催された講演会「いま原発で何が起きているのか―東京電力福島第一原子力発電所事故と原発立国のこれから」(ちきゅう座・現代史研究会主催)及び4月26日に町田市民フォーラムで開催されたシンポジュウム「いま、福島原発で何がおきているのか?」(原発事故を考える町田市民の会主催)の講演と質疑応答を再構成したものです。

井野博満.jpg 井野博満・東京大学名誉教授(金属材料学)を編者として3人の筆者から成り、第1章「福島原発事故の原因と結果」では、井野氏が福島原発事故について科学的・専門的に解説するとともに、事故の収束が見えない現状から、今後どのような経過が考えられるのか、詳説しています。

外国人記者向けの会見で話す井野博満・東大名誉教授(右)と元原子炉プラント設計者の後藤政志氏(asahi.com)

 第2章「福島原発で何が起こったのか」では、元原発設計技術者である後藤政志氏が、原子炉格納容器設計に関わった経験をもとに、反省の意も込めて、原発の欠陥と問題点を、やはり詳しく解説しています。

 第3章「放射線被曝の考え方」では、高木学校医療被ばく問題研究グループの瀬川嘉之氏が、放射能被曝について科学的に解説するとともに、東日本及び関東を含む200km圏内の人が、想定される放射能汚染被害に対してどのように対応すべきかを説いています。

 かなり専門的に突っ込んだ部分もありますが、これらの後に、シンポジウムでの一般市民と3氏の間での質疑応答が収録されていて、基本的な質問や不安に分かり易く答える形になっています。

 また、最後に「事態の進展」として、井野氏が、事故後3ヵ月を経て、講演では触れられなかった新たな進展に触れています。

 更に巻末には、井野氏が代表を務める「柏崎刈羽原原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」が「『福島原発震災』をどう見るか―私たちの見解」として2011年3月23日、4月7日、5月19似に発表したレポート及び新潟県知事、柏崎市長らに充てた要請書、並びに福島原発事故及び放射能汚染の経緯を時系列で追った表が付されています。

 講演会やシンポジュウムがベースになっているということで、かっちりした科学的な内容ですが、講演会のトーンで書かれているため分かり易く、話が専門の科学・技術分野に及ぶ箇所は、図解や写真を多用するなどして読者の理解を助けるように配慮されていて(これらも、講演会で一般市民に解説するために用いたものであると思われる)、震災後3ヵ月余りでの刊行としては、よく纏められているように思いました。

 個人的には、元原発設計技術者である後藤氏が、原子炉格納容器をベントしなければならない事態になった時のためにフィルターをつけるべきだったのに(フランスなどではそうしている)その辺の議論が曖昧になって結局つけなかったために、大量の放射能を拡散させることになったことを悔やむとともに、絶対に安全だと言いながら、こうした放出弁を設けていることの矛盾を指摘しているのが印象的でした。

 更には、質疑応答の中で、「今後、地震が来るたびに、仮に壊れていないとしても今後の安全を確認するために年単位で止まることを原子力プラントは覚悟しなければいけないということです。そうすると、本当に経済的なのか、エネルギー源として適切なのかどうかと思っているんです。地震国日本においては、原発はエネルギー供給することができないという結論に達したと私は思っています」と述べているのも印象に残りました。

 因みに、地震学者・石橋克彦氏を編者とした14人の科学者・技術者の小論文集『原発を終わらせる』('11年7月)では、後藤政志氏が、第1章の「福島第一原発事故」の概要解説のうち「事故はいつまで続くのか」のパートを執筆し、井野博満氏の方が、第2章「原発の何が問題かー科学・技術的側面から」で「原発は先の見えない技術」と題して、自分の専門科学分野である「圧力容器の照射脆化」の問題、高レベル廃棄物の地層処分(ガラス固化体)における「オーバーパックの耐食性」の問題を解説していますので(本書と総論・各論の分担が入れ換わっている)、こちらも併せて読まれるとよいかと思います。

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プルサーマル導入を巡る国・東京電力との壮絶な「闘い」を前知事がつぶさに綴る。

福島原発の真実.jpg          佐藤栄佐久(前福島県知事)外国人記者クラブ会見.png
福島原発の真実 (平凡社新書)』   佐藤栄佐久(前福島県知事)外国人記者クラブ会見(4月18日)

 著者は前福島県知事で、知事在任中は東京一極集中に異議を唱え、原発問題、道州制などに関して政府の方針と真っ向から対立、「闘う知事」として県民の圧倒的支持を得ますが、第5期18年目の'06年9月、県発注のダム工事をめぐる汚職事件で追及を受けて知事を辞職、その後逮捕され、第一審で有罪判決を受けます。

 しかし、この逮捕劇が、反原発であった著者を知事の座から引き摺り降ろすための"でっち上げ"事件であったことの経緯は、前著『知事抹殺―つくられた福島県汚職事件』('09年/平凡社)に詳しく書かれています('09年10月に、控訴審で「収賄額ゼロ」認定を受けるも、有罪判決は覆らず)。

 東日本大震災による福島第一原発事故を受けて出版された本書では、冒頭に郡山市にて被災した著者自身の体験が描かれていますが、本編の内容の大部分は、福島第一原発におけるプルサーマル計画の実施を巡って、県にプルサーマル受入れを迫る国及び東京電力と著者との間で繰り広げられた壮絶な「闘いの記録」となっています。

 当初は原発に対して比較的中立的な立場だった著者ですが、90年に入って原発誘致の在り方に明確に違和感を覚えるようになり、やがて福島第一原発のプルサーマル計画の実施に際して、国及び東京電力の次々と前言を翻し、平気でウソをつき、畳み掛けるように誘致を迫る県民不在の姿勢に、心底怒りを覚えるようになります。

 しかしながら本書ではそうした感情的なトーンは極力抑えられ、政府(内閣府・経産省・資源エネルギー庁)や東京電力、原子力委員会・原子力安全委員会や原子力安全・保安院、更には地方自治体の、それぞれの当事者・関係者の誰がいつどのような発言をしたかを淡々と綴ったドキュメントの体裁をとっていて(おそらくバックアップしている人がいると思われるが、その時々の詳細且つ精緻な記録となっている)、それが却って迫力のあるものとなっており、同時に、国や東京電力が原子力政策を強引に進めるために地方自治体を籠絡する"やり口"がつぶさに見てとれます。

 資源エネルギー庁が地方交付金をMOX燃料はウラン燃料の2倍に、プルサーマル発電はウラン燃料発電の3倍にするというのは、まさに地方自治体を交付金で"麻薬漬け"にしてまでもプルサーマルを導入しようとする国の意図の表れであり(真っ先に陥落したのが佐賀県、その後も佐賀県は、政府・九電のいいなりのまま、やらせ公開討論会などを開いたりしたわけだ)、福島県知事であった著者は、こうした国の"やり口"に対して反旗を翻しますが、そこに待ち受けていたのがでっち上げられた汚職事件であり、後任の佐藤雄平知事は易々とプルサーマル受入れに同意してしまう―という、ドキュメントでありながらも小説を読むように一気に読めてしまう内容でしたが、小説ではなく現実の話だから、やりきれない気持ちになります。

 こうして見ると、「国」と言っても、内閣府や経産省を動かしているのは大臣ではなく経産官僚であり、この経産官僚というのが"顔が見えない"だけに歯痒いのですが、例えば、原子力安全・保安院も「資源エネルギー庁の特別の機関」とはされているけれども、結局は経産官僚の出先機関のようなものだったのかと(資源エネルギー庁と違って殆ど文系だし)。

 東電が福島第一・第二原発の点検結果を改竄し、それに対する(東海村JOC臨界事故を「教訓」に導入された内部告発制度に基づく)内部告発が'00年にあったそうですが、告発を受けた当時の通産省も、'01年に発足してそれを引き継いだ保安院も立ち入り調査を行わず、逆に東電に告発者氏名と告発内容資料を渡して2年間放置していたというのは、まさに犯罪行為ではないでしょうか(保安院の解体は当然にしても、もっと責任を追及されて然るべし)。

 あとがきには、震災による福島第一原発事故の前年('10年)6月にも、福島第一原発事故2号機で、冷却水を循環させるポンプが止まって電源喪失し、原子炉の水位が2メートルも下がるという事故があったのに、その教訓が何ら生かされなかったとありますが、これだけ事故隠し・データ改竄を続ける中で、そうした危機感が完全に麻痺していたとも言えるし、著者が言うように、その根底には、「原子力は絶対に必要である。だから、原子力発電は絶対に安全だということにしないといけない」という考え方があったのでしょう。

 今回の福島第一原発事故はまさに人災であり、その背景には官僚が全てを支配する日本の統治機構の問題があるとの思いを、本書を読んで更に強く感じました。

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原子力科学者の立場から、原発の危険性を解説。分かり易くコンパクトに纏まっている。

原発のウソ.jpg 『原発のウソ (扶桑社新書)原発のウソ2.jpg

 原子力学術界における「反原発」の旗手的存在である著者の、『放射能汚染の現実を超えて』('11年5月/ 河出書房新社)に続く福島第一原発事故後の単著で、新書という体裁もあって手軽に読め、且つ、原発の危険性を知る上での入門書としても、たいへん分かり易くコンパクトに纏まっています。

 まず第1章で、当時、発生して間もなかった福島第一原発の事故が、どこに重大な問題点があって今後どうなっていくのかを見通し、以降、第2章から第7章にかけて、放射能とは何か、放射能汚染から身を守るにはどうすればよいかが解説され、更に、国や電力会社が言うところの原発の"常識"は"非常識"であるということ、原子力が「未来のエネルギー」であるとされているのは疑問であること、地震列島・日本に原発を建ててはいけないということ、結論として、原子力に未来はないということが説かれています。

 解明されつつある低レベル被曝の危険性に着目し(御用学者達が「修復効果説」や「ホルミンス効果説」を唱え、50ミリシーベルト以下の低レベル被曝は何ら問題無しとしているのに対し、「低線量での被曝は、高線量での被曝に比べて単位線量あたりの危険度がむしろ高くなる」という近年の研究結果を紹介している)、更に、チェルノブイリ原発事故の放射能物質観測データを基に、風と雨が汚染を拡大することを示すと共に、放射能被曝を受けた場合の年齢別危険性(20~30歳代の大人に比べ、赤ん坊の放射線感受性は4倍)を示して、乳幼児や子ども達への放射能の影響を危惧しています。

 また、原発事故が起きても電力会社が補償責任を取らないシステムについても言及し(米国でも同じことのようだ)、結局そのツケは国民に回されると述べているのは、原子力損害賠償支援機構法(東電の経営と原発の運営を支援する法律?)の成立や東電の国有化検討で、まさにその通りになりつつあります。

 原発を造れば造るだけ電力会社は儲かってきた背景には、資産の何%かを利潤に上乗せしていいという「レートベース」というものが法律で決められていて、資産を増やすために電力会社は原発を造り続ける―では、その費用はどうなるかと言うと、電力利用者が払う電気料金に上乗せされているわけで、結局、日本は世界で一番電気代の高い国になっているというのは、原子力発電がスタートした際の、将来「電気料金は2000分の1になる」とか言っていていた宣伝文句が全くの出鱈目であったことを思い知らされます。

 このように原発は決してコストの安い電力源ではないばかりでなく、原発が「エコ・クリーン」であるというのもウソで、発電時に二酸化炭素を排出しないとはいうものの、そこに至るまでの資材やエネルギーの投入過程で莫大な二酸化炭素が排出されているとのこと、更には、発生した熱エネルギーの3分の2は海に放出されているため、地球温暖化に多大に"寄与"しているとのことです。

 やがて石油資源が枯渇するから原子力発電の推進を―という国の謳い文句もウソだったようで、石油より先にウランが枯渇するとのこと、原子力を牽引してきたフランスにすら新たな原発建設計画は無く、それなのに日本が原子力を捨てることができないのは、電力会社だけでなく、三菱、日立、東芝といった巨大企業が群がって利益を得ているからだとしています。

 日本は、国際公約上、余剰プルトニウムを保持できない国であり、「プルトニウム消費のために原発を造る」という発想のもとで造られた高速増殖炉でも事故が頻発していることからしても核燃料サイクル自体が破綻しているにも関わらず、使用済み核燃料の再処理工場がある青森県六ヶ所村近くにMOX原発・大間原子力発電所を造ろうとしていますが、大間原発の安全面での危険性はかなり高いとのことで、今回の震災で計画の行方がどうなるか注目されるところです。

 そもそも、地震地帯に原発を建てているのは日本だけで、それが54基もあって、浜岡原発などは「地震の巣」の真上に立っており、更に原発より危険なのが使用済み核燃料をため込んでいる再処理工場で、ここが震災に遭ったらどうなるかと思うと空恐ろしい気がします。

 著者の言うように、原発は末期状態にあり、原発を止めても電力供給に軽微な影響しかないのならば、もう原発は止めにすべきではないかと個人的にも思いますが、原発を廃炉にしても、巨大な「核のゴミ」がそこに残り、放射性廃棄物は何百年も監視が必要で、それは誰にも管理できる保証はない―こうなると、何故こんなもの造ってしまったのかとつくづく思いますが、高度経済成長期において、「原子力=夢のエネルギー」という幻想に日本全体が浮かされたのかなあ(手塚治虫が生前に、自作「鉄腕アトム」は原子力などの科学的将来に対してあまりに楽天的で、自分の作品を顧みて一番好きだとは思わないといった発言をしていたのを思い出した)。

 本書を読んで、自分達の子孫のためにも、原発の廃絶を訴えていかなければならないのだろうと思いました。

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案全対策強化も過渡期的措置であって、どうやって廃炉に持ち込むかが今後の課題になるのでは。

福島原発メルトダウン 朝日新書.jpg FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン2.jpg   福島第一原発3号機水素爆発.jpg
FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン (朝日新書)』   福島第一原発3号機水素爆発(2011年3月14日)

  『東京に原発を!』('86年/集英社文庫)、『原子炉時限爆弾』('10年/ダイヤモンド社)など、日本における大地震による原発事故発生の危険性について警鐘を鳴らしてきた著者が、「福島原発事故」発生後、朝日新聞社の要請を受けて著した新書です。

 基本情報の部分では前著と重なる部分も多いですが、原子力発電に関する入門書としても読め、また、目の目で繰り広げられる原発事故の様に沿って書かれている分、切迫感もあります。

 水素爆発など専門家ならば当然予見できたはずの危険は予め報道されず、実際3月12日午後3時36分に1号機、2日後の14日11時1分に3号機、15日6時14分には4号機の使用済み核燃料プールでと次々と水素爆発が起きたわけですが、そうしたものは全て起きてから過去形で、原因はこうだったのではないかとか報道されているところなどは、やはり、政府のマスコミを巻き込んだ情報操作を感じるなあ(3号機の水素爆発は核爆発だった可能性が高いそうだが)。

 福島第一は、GEが東京電力に警告したにも拘らず、コスト削減のため、余裕のない脆弱な冷却システムを設計せざるを得なかった欠陥品―というのには、ちょっと驚きです。
 
 どうやら事故解説でテレビに出演していた専門家とやらも、"御用学者"ばかりだったみたいだし、気象庁発表のマグニチュードが8.4→8.8→9.0という風に変わっていったのも、政府や原発推進派の政治家、東京電力など「想定外」という物言いを擁護するための、政治的介入だった可能性があるとの指摘には、確かにそうかもと思わざるを得ません(従来は「気象庁マグニチュード」を使っていたが、今回は「モーメントマグニチュード」というのに変えたそうだ。そんなのあり?)。

 放射能の数値についてもトリックが使われていて、安全性がやたら強調されるのは、「放射線の有効利用」を飯のタネにしてきた専門家らが、その危険性を訴えるはずが無いからであり、また、そもそも、内部被曝量というのは、生体解剖でもしない限り実態は不明であり、測定による数値化は不可能または無意味なものだそうです(その辺りも、分かり易く解説されている)。

 4つのプレートの境目にある日本の国土は、東海大地震、南海大地震が周期的に発生していて、静岡県の浜岡原発というのは地質学上も危ない場所にあるわけですが、首都圏と中部・関西の中間にあることから、原発震災が起これば、それら巨大都市圏に一斉に死の灰が降り注ぐ可能性があるとのこと(原発から放出された放射能の雲は、風速毎秒2メートルでも3日間で500キロメートル拡がるそうだ。日本の中枢部は全滅?)。

 地盤が脆弱な日本における原子力発電所の危険性について、『東京に原発を!』でも『原子炉時限爆弾』でも浜岡原発をメインに取り上げていますが、本書では最後に、北海道から鹿児島まで14の原発を取り上げおり、これ読むと、浜岡原発のみならず、どこもかしこも皆危ないようです。

 もう、これから原発を新たに作るなどということは論外であり、案全対策の強化も過渡期的措置であって、これらをどうやって廃炉に持ち込むかが今後の課題になるのではないかと思いました。

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原子力学術界における反原発の旗手が福島原発事故の直前に著した本。原発の危険性を説いて分かり易い。

隠される原子力・核の真実.jpg 九電やらせ・玄海原発プルサーマル公開討論会('05年12月25日)質問者は実は東電社員ばかり
隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ』(2011/01 創史社)

 原子力の平和利用を志して原子力研究に身を投じながらも、原子力を学ぶことでその危険性に気づき、長年に渡ってそのことを訴え続け、また、放射線被害を受ける側に立って活動を続けてきた、今や原子力学術界における「反原発」の旗手的存在である著者ですが、東日本大震災による福島第一原発の事故前にも関連の多くの著作があり、本書は東日本大震災の数ヵ月前に刊行されたものです。

 被曝の影響と恐ろしさ(とりわけ、看過されがちな低線量被曝の危険性について)、核によってもたらされる環境破壊と生命の危険、日本が進めている核開発の全体像、原子力発電自体の危険性、地球温暖化説が原子力に悪用されたということ、原発が死の灰を生み続けるということ、実際には原子力から簡単に足を洗えるということ、再処理工場が膨大な危険を抱えていることなどを解説し、最後に、エネルギーの消費量をこれ以上増やしても、人類は寿命が伸びるわけでもなければ幸せになるわけでもなく、エネルギー消費型の社会を一刻も早く改めるべきだと訴えています。

 これだけの内容で160ページ弱とコンパクトに纏まっていて、中学生・高校生にも読めるような分かり易さ。一部に解説がやや専門的な内容に踏み込む部分もありますが、そうした箇所はグラフや図表などを用いていて、一般読者の理解の助けとなるよう配慮されており、そうした中、チェルノブイリ原発事故による汚染の広がりを福島原発に当て嵌め、その放射能汚染域を日本地図上で示した図はあまりに「予言」的です。

 プルトニウム再利用のための核燃料リサイクル計画は杜撰を極めており、高速増殖炉「もんじゅ」は試験運転時にナトリウム漏れ事故を起こし('95年)、いまだに1キロワット時の発電すらしておらず、すでに1兆円の金をドブに捨てているとのこと、高速増殖炉の利用は追えば追うほど遠ざかる「夢」となっており、それがすぐにでも出来ると今でも言い続ける学者らがいるのに対し、著者は「正直に言えば、こういう人たちは全員刑務所に入れるべきだと私は思います」とまで書いています。

 原発において電力供給に利用される熱エネルギーは3分の1で、残りの3分の1は海に放出され、しかも、原発を動かし続けるために莫大なエネルギーが費やされていて、多くのリスクも伴う―では一体何のために原発を造り続けるのか? 枯渇されると予測される石油はその「限界」とされる年数が年ごとなぜか「延長」されているし、そもそも日本の電力は不足しているのか? そうした国の原発推進政策に多くの疑問を投げかけ、また、警鐘を鳴らしています。

 著者の所属は「京都大学原子力研究所」。定年間近にして「助教」とは、かつての反公害運動の宇井純・東大「助手」を想起させますが、まだ「京大」だから在籍できるのであって、「東大」だったらとっくに辞めさせられていたと、著者自身が語っていていたという話も聞いたことがあります。

小出裕章.bmp大橋弘忠.bmp 九州電力玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)3号機のプルサーマル発電計画について、佐賀県が'05年12月に公開討論会を主催した際、九電が動員した社員や関連会社員らが参加者全体の半数近くも出席していて、導入推進側に有利な"やらせ質問"をするととともに、参加者アンケートにも"積極"回答していたことが明らかになったのは、東日本大震災後の同原発の運転再開を巡る九州電力の"やらせメール事件"が明るみに出た直後の昨年('11年)7月のこと(5年以上前の全国で最初に行われたこのプルサーマル公聴会の時から"やらせ"は常態化していたわけだ)、その公聴会においてプルサーマル原発の危険性を訴えて頑張っていたのが著者で、一方の、「反対派は地震が起きたら危ないと言うが、チェルノブイリのようなことは起こるはずがない。安全ということを確かめられている」と言って小出助教をせせら笑った東京大学の大橋弘忠教授は、福島原発の事故後はマスコミには一切登場していません。

九電やらせ・玄海原発プルサーマル公開討論会 小出裕章・京大助教(助手) vs. 大橋弘忠・東大教授(平成17年12月25日)

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原爆、原発、劣化ウラン弾によってもたらされる内部被爆のメカニズムと、その隠蔽された危険性を明かす。

内部被曝の脅威 ちくま新書.jpg 『内部被曝の脅威 ちくま新書(541)』['05年]  肥田舜太郎.jpg 肥田 舜太郎 医師

 広島で被曝後、60年間にわたり内部被曝の研究を進めてきた肥田舜太郎医師と、社会派ジャーナリスト鎌仲ひとみ氏の共著。

 全5章構成のうちの第1章と第4章が、鎌仲氏による、イラクの劣化ウラン弾による被曝被害者の実情、及び、アメリカの原爆実験・原子力発電によってもたらされたと考えられる被曝被害状況などのリポートで、第2章と第3章が、肥田医師による、広島で原爆が投下された際の経験、自身が医師として被曝者の治療に当たった際のこれまで考えられなかったような特異且つ悲惨な死亡例と、振り返ってみればそれが内部被曝による原爆症によるものであったことを踏まえ、内部被曝とは何か、そのメカニズムと原発事故によってもたらされる可能性があるその脅威を解説、最終第5章は、唯一の原爆被爆国であるわが国が果たすべき役割についての両者の対談となっています。

 肥田医師の被爆体験及び被曝者の治療体験の記述には凄まじいものがありますが、爆心地から離れた場所にいて大量の放射線を浴びたわけではないのに、或いは、被爆後の爆心地に立ち寄っただけで直接"ピカ"には遭わなかったのに、その後に体調不良を訴え、猛烈な倦怠感を催し(外見的異状はないのに働けなくなるため「ぶらぶら病」と呼ばれた)、やがて動けなくなり、暫くして亡くなったケースなどが紹介されていて、当時はただただ不可思議に思っていたのが、研究を進めるうちに、呼吸や飲食を通じて体内に取り込まれた放射性物質が微妙な放射線を長時間にわたって体内から照射し続け、それが原爆症を引き起こしたり、何年も経ってからガンの発症を引き起こしたりしているという確信に至るようになります。

 原爆爆発と同時に放射された強烈な放射線に被曝して大量に即死させられた体外被曝とは対照的に、時間をかけて"ゆっくりと殺される" 内部被曝については、この言葉自体が、核兵器とその医学的被害に関心を持つ一部の医師の間で最近ようやく使われるようになったに過ぎないということです。

 体外被曝では透過性の低い放射線は届かず、主に透過性の高いガンマ線で被曝しますが、それは一過性のものであるため、壊された細胞(DNA)は修復されやすいが、内部被曝では、透過性の低いアルファ線、ベータ線のエネルギーがほとんど体外に逃げることなく人体に影響を与えることから、体内に摂取された際に危険なのはむしろアルファ線、ベータ線を出す核種であるとのことです。

 その内部被曝のメカニズムを科学的に解説する中で、むしろ低線量放射線の方が高線量放射よりも危険性が高いという「ベトカウ理論」を紹介するとともに、マウスを使った実験結果や実際の臨床報告などによる検証を行っています。

 肥田医師は、本書の大きな狙いは、「微妙な放射線なら大丈夫」という神話のウソを突き崩すことにあるとしていますが、よく年間何ミリシーベルトだとか、毎時何マイクロシーベルトまでなら大丈夫だとか言われているのも体外被曝のことで、少しでも体内に入ったら長期的に被曝し続けるため、微量な被曝であれば大丈夫というのは、本書によれば間違いということになります。

 それにも関わらず、今回の福島原発事故に関して政府や学者が「(外部被曝線量が)年間何ミリシーベルトなら大丈夫」と言っているのは、内部被曝のことを全く考慮していないわけであって、これを「ベトカウ理論」に対する学者の見解の相違ということで片付けてしまっていいのか、原発推進を飯のタネにしている御用学者らが言っている「大丈夫」説だけに、不安を覚えます。

 鎌仲氏の後半のリポートの中には、コロンビア川ほとりに9つの原子炉が建設されたハンフォード核施設の風下地域の住民の放射能汚染の実態と、それを隠蔽しようとする政府に対し、立ちあがって国を訴えた住民たちの闘いの記録がありますが、原子力大国アメリカは「被曝大国」でもあることを、新たに知ることができました。

 最終章の両者の対談にある鎌仲氏の、「本来であれば、日本は唯一の『自覚的な被爆国』として、被爆とは何たるかを世界に知らしめる役割を担うべきであったはずなのに、その責務を放棄して、現在のような原子力発電所大国になってきてしまって、核武装論まで出てきてしまっている。なぜこんなことになったんでしょうね」という問いかけに対し、肥田医師は、被爆の問題を、人間の生命との関わり合いの中で捉えていないことに原因の一端があるとしていますが、そうした人々の中には医療関係者や法律の専門家の多くが含まれるとのこと、優秀な人って意外とイマジネーション力が弱かったりすることがあるのか。

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「福島原発事故」が実際に起こってみると、まさに予言的な本だったと認めざるを得ない。

東京に原発を!.jpg 『東京に原発を! (集英社文庫)』['86年]

 単行本(同タイトル)は、'79年の「スリーマイル島原発事故」の発生を受けて'81年にJICC出版局から刊行されていますが、本書は、その後の'86年4月に発生した「チェルノブイリ原発事故」を受けて、単行本を大幅に加筆修正し、同年8月に集英社文庫として刊行されたものです(今から25年前か)。

 20年前に、著者が『赤い楯―ロスチャイルドの謎(上・下)』('91年/集英社)を発表した頃、渋谷のジァン・ジァンに著者自身によるトークショーを聞きに行って、やや過剰な「陰謀説」的傾向を感じたのですが、その印象もあってか、著者の他の著作にも、やや「怖がらせ」系の印象を抱いてしまいました。

 しかしながら、振りかえってみれば本書では、原発事故は必ず起きるとし、日本ではそれが大地震と共に訪れるということをはっきり予言していて、実際に東日本大震災による「福島原発事故」が起こってみると、まさに予言的な本だったと認めざるを得ません。

 原子力発電のプロセスなどが図解で分かり易く解説されていて、そうした基本知識を得るうえでも古さを感じさせず(40年間同じ原子炉を使っているわけだから変わり様がないか)、併せて、水循環技術や圧力調整技術、放射能抑制の仕組みの脆弱さを指摘している箇所は、これもまた、その危険性が遂に現実のものとなったとの思いに駆られます(核燃料棒の隙間って3ミリしかないんだあ)。

 原子力発電所そのものの危険性ばかりでなく、放射能の人体への影響や使用済み核燃料の危険性についての説明も詳しく(むしろ、こっちの方が怖いか)、となると、青森県下北半島の再処理工場が大震災に見舞われた際にどうなるかということが心配になります。

 最終的には、そこに保管されている使用済み核燃料もどこかへ廃棄することになり、但し、その廃棄先は宇宙がいいか、地底がいいか、海底がいいかと諸論あるようですがベストなものはない―こうなると、捨て場所が無いのに何故こんなもの作ってしまったのかという気持ちになります。

 「原発安全神話」が作られたものであることは、今や周知の事実ですが、著者はこの頃から、本当に原発が安全ならば、東京に原発を作れば最も効率がいいはずであると言って(原子力発電においては、発生する熱エネルギーの3分の2は、利用されることなく海に放出されているとのこと、更に、福島から東京に送電するために莫大な費用がかかっているとのこと)、それが反語的なタイトルとなっているわけです。

 事実に裏付けられたぞっとさせられる記述が多々ある一方で、やや「怖がらせ」系のニュアンスが一部見受けられますが、この問題に関しては、それぐらい「怖がった」方がいいのかもしれません。

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朝日版は「写真集」、産経版は「記録」として、それぞれ"保存版"に値する内容。

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朝日新聞社『報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災』 産経新聞社『闘う日本 東日本大震災1カ月の全記録

 '11年3月11日発生の東日本大震災の翌月4月下旬頃には、新聞社各社が報道写真集を出し、また震災報道にフィーチャーした縮刷版や関連のグラフ誌なども前後して刊行されましたが、個人的には、朝日新聞社と産経新聞社からそれぞれ刊行のこの2冊が目につきました。

朝日新聞社『報道写真全記録』.bmp 朝日版は「写真集」と銘打っているだけあって、大判誌面全体を使った写真が、自然災害の脅威とその被害の甚大さを生々しく伝えており、被災した人々のうちひしがれた様子も痛々しく(廃墟と化した街を背に路上に座り込む女性の写真は海外にも配信されたが、その他にも、「愛娘たちの遺体が見つかった現場近くでお菓子やジュースをまく母親ら」などの写真は涙をそそる)、その中で何とか復興への光明を見出そうと懸命な人々の姿に、思わず感動を誘われました。

大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で、女性 が道路に座り込んで涙を流していた=3月13日午前10時57分 / 朝日新聞 恒成利幸撮影

 新聞本紙で報道された記事・データ部分は中ほどに纏める形になっていて、そこには、震災後1ヵ月間の新聞報道の時系列に沿った形での記事や被害マップがありますが、時間と共に把握された被害状況がどんどん拡がっていく様が手にとるようにわかり、一度新聞で見たことがあるとは言え、振り返ってみると更に生々しく感じられました。

 産経版は「写真集」ではなく「記録」と銘打っていますが、こちらも写真の点数は多く、但し、殆どが記事との組み合わせになっている構成。1つ1つの写真のキャプションも丁寧で、福島第一原発事故の事故後1ヵ月の推移だけでも詳しく纏められており、その他、原発事故現場で復旧にあたった人々の様子や(「保安院の人たちは逃げた」とある)、チェルノブイリの現況なども記されています。

 更に、「子供たちが、消えた」として、石巻市立大川小学校にフォーカスした写真群があり、その惨状には思わず目を覆いたくなりますが、やはり、正視し、記憶しておくべきことなのでしょう。

 「闘う日本」と題しているように、産経版の方が、被災した人、復旧に当たる人、外国から救援に駆け付けた人など「人」をよく撮っているし、首都圏のパニック状況や、過去の震災の記録など、写真や記事のテーマの切り口も多角的で、本書のための新たな編纂努力が窺えるように思いました。

 但し、朝日版の大判写真の迫力は、やはりストレートに訴えるものがあり、朝日版は「写真集」、産経版は「記録」として、それぞれ"保存版"に値する内容だと思います。

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中小企業の経営者向けに人事の要諦から実務までを分かり易く解説。

中小企業のための人事労務ハンドブック.jpg 『中小企業のための人事労務ハンドブック (DO BOOKS)』(2011/08 同文館出版)

 社会保険労務士であり中小企業診断士でもある著者によって、中小企業向けに書かれた人事労務全般の手引書ですが、この手の類書の多くが主に人事労務の実務担当者向けに書かれているのに対し、本書の場合は、中小企業の経営トップや経営管理者を読者層として想定して書かれているのが特徴です。

 経営資源にはヒト・モノ・カネの3つがあるとされていますが、著者によれば、特に創業して間もない中小企業などにおいては、事業を拡大していくために、どうしても「カネ」のことで頭が一杯で、「ヒト」のことは"二の次"と考えている経営者が少なからず見られるとのことです。そうなってしまう理由は、ヒトよりもカネに関する知識を持った人が経営者の周りにいるためであり、更には、ヒトは"不可測"な経営資源であるためとしています。

 本書ではまず、ヒト・モノ・カネの中で一番大切な経営資源はヒトであると明言し、ヒトには投資が必要であり、ヒトを育てるには手間がかかり、またヒトには心があることを念頭に置かなければならないと戒めています。

 そのうえで、リーダーシップ理論(PM理論、ライフサイクル理論など)やモチベーション理論(X理論・Y理論、動機付け・衛生要因理論など)を分り易く紹介・解説し、こうした理論を習得し、それを実践に役立てることを説いていますが、このような"前置き"がされている点が、類書と比べてユニークと言えばユニークであり、本来的であると言えば本来的です。

 序章において、こうした人的資源管理の要諦を説いたうえで、本編では、採用における要員計画の立て方から説き起こし、更に、雇い入れ、勤務時間、給与、労働保険・社会保険管理、その他労務管理から退職・解雇に至るまで、これら多岐にわたる人事労務の仕事において、実務に欠かせない知識や情報を50項目に分類し、順次解説しています。

 個人的には、「給与」のところで、中小企業には「職能資格制度」は向かず、「役割等級制度」がお薦めであるとしている点に興味を引かれ、この点は概ね同感です。賃金制度については、範囲給型の号俸給を提唱しながらも、全等級を「昇給」対象とする方式と併せて、上位等級については「昇給」の概念を無くし、洗い替え方式とするパターンも提示しています(後者はかなりドラスティックなものとなる)。

 評価制度については、目標管理制度とリンクさせた運用を提唱する一方で、評価要素の類型を挙げて解説しながらも、従業員規模の小さな会社では必ずしもそれら全てを評価表に盛り込む必要は無く、能力効果的要素と情意効果要素を統合してしまうなど、シンプル且つ自社にとって使い勝手のよい評価制度にすればそれでよいとするなど、柔軟かつ現実対応的な内容となっています。

 労働保険・社会保険の諸手続きについても役所への提出書類の書き方などが分かりやすく示されており、病欠者や療養休職者への対処なども、中小企業の実情に応じたアドバイスがされているとともに、「勤怠不良、成績不良の労働者の辞めさせ方」などの突っ込んだ解説もなされています。

 中小企業の人事労務は、経営トップが実務面も含め積極的に関与していくしかなく、そのためには、トップが自ら人事労務に必要なことを勉強する必要があるというのが著者の考えですが、まさに、そうしたニーズ応えるためのハンドブックとして、見易く分かりよいものとなっているように思いました。

 経営トップに限らず実務担当者が読んでも参考になるかと思いますし、社会保険労務士などが中小企業に対し、手続業務だけでなく、経営・人事のより広い観点から相談業務やコンサルティング(制度設計)を行うための参考書としても使えるものとなっており、お薦めできる本です。

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「コーチング・アワセルブズ」という「第三世代」のマネジメント教育の方法を物語風に解説。

ミンツバーグ教授のマネジャーの学校.jpg 『ミンツバーグ教授の マネジャーの学校』(2011/09 ダイヤモンド社)

 IT企業のマネジャーであった著者(フィル・レニール Phil LeNir)は、自分のいた会社が買収の憂き目に遭い、リストラや経費削減で職場モラールが低下する中、ミドルマネジャーが元気を取り戻し、活き活きと仕事するにはどうすればよいかを模索していた。そんなある日、母親の再婚相手が経営学者であったことを思い出して、義父のもとへ相談に行く―。

 その(著者の義父にあたる)経営学者というのが、偶然にも『MBAが会社を滅ぼす』で有名なヘンリー・ミンツバーグ教授であったわけですが、本書は、著者がミンツバーグの教えに従い実践した「コーチング・アワセルブズ」というマネジャー育成方法について、自分の職場への導入の実際から、その浸透により得られた効果までが、実体験に基づき物語風に綴られていて、たいへん読みやすいものとなっています。

 「コーチング・アワセルブズ」というプログラムの要となるのは、マネジャーたちが互いに自身のマネジメント経験を語り、それを振り返る「内省(リフレクション)」であり、これを習慣化し、そこから今まで気づかなかった学びを得るとことで、各自がマネジャーとしての大局観を養うとともに、マネジャー同士のコミュニティシップを形成し、組織変革の起点にしていくというのがその狙いです。

 重光直之氏の解説にもあるとおり、ミンツバーグはかねてより、マネジメント教育は「自分の経験を内省する」ことを中心にすべきであると主張しており、こうした自身の唱える「日々の自分の経験から学ぶ」マネジメント教育の方法を、教室において座学で理論を学ぶ「第一世代」のマネジメント教育、アクションラーニングなど実際のプロジェクトを教室に持ち込む「第二世代」のマネジメント教育に対し、「第三世代」のマネジメント教育としています。

 本書からも窺えるように、実際の経緯としては、以前からミンツバーグが提唱していたマネジメント教育の在るべき姿を、著者が実践に落とし込むことにより、「コーチング・アワセルブズ」というスタイルが出来あがったわけであり、著者自身は会社を辞め、この手法を広めるための会社を設立し、解説の重光直之氏の属する会社は、その日本におけるパートナーとなっています(日本では「リフレクション・ラウンドテーブル」という名称で展開)。

 そうなると、この本は"宣伝本"ではないかと見るむきもあるかもしれませんが、著者の実体験を書くことで、そのノウハウがほぼ開示されているため、内製的に実施することが可能であるように思われ、また、これからの企業内研修の在り方にユニークな示唆を提供しているように思えました。実際に日本でも、一部の大手企業では導入済みであるとのこと、社内研修の担当者などは、本書から、マネジメント研修の実施方法についての新たなヒントが得られるかもしれません。一読して損はないかと思います。

 「コーチング・アワセルブズ」、次回の管理職研修で採り入れてみようかなあ。

マネジャーの実像.jpg 因みに、ミンツバーグ自身の近著『マネジャーの実像』(日経BP社 2011年1月刊)の中でも、この「コーチング・アワセルブズ」は紹介されていましたが、本書自体は、彼の膨大な経営思想を網羅的に要約したものではなく、あくまでも「コーチング・アワセルブズ」とういうマネジャー育成プログラムにフォーカスして、それを、ごく分かりやすく紹介したものであると言えます。

 ただし、巻末にはミンツバーグの主著が紹介されており、また、自然をこよなく愛するという彼の人柄などにも触れられており、経営思想の泰斗をこれまでより身近に感じることで、本書が彼の著作への手引きとなるかもしれません。

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ドラッカーによって書かれることの無かった"幻のリーダーシップ論"を一番弟子が再構築。

1ドラッカー先生のリーダーシップ論.pngドラッカー先生のリーダーシップ論 帯.jpg 『ドラッカー先生のリーダーシップ論』(2010/12 武田ランダムハウスジャパン)

 ドラッカーの教え子、友人、弟子として30年間に渡りその薫陶を受けた著者が、彼の著作、講義、対話をもとに、ドラッカーがもしリーダーシップ論を書いていれば、このような内容になったのではないかとの想定のもとに書いた本で、ピーター・ドラッカー財団(リーダー・トゥ・リーダー・インスティチュート)のお墨付きも得ている本。

 実際ドラッカーは、「リーダーシップはこの上なく大切であり、これに代わり得るものはない」「マネジメントはリーダーシップである」として、早くからリーダーシップに言及していたにも関わらず、彼の著作にはリーダーシップにテーマを絞って書かれた単独の著作はありません(『チェンジ・リーダーの条件』('00年/ダイヤモンド社)という本があるが、あれは上田惇生氏が、ドラッカーの過去の著作からマネジメントに対する彼の考えを抜き出して編訳したエッセンス版)。

 これは、ドラッカーが、先の言葉にもあるように、マネジメントとリーダーシップを近しいものであると永らく考えていたためで、リーダーシップをマネジメントと切り離して論じるべきであると考えるようになったのは晩年のことであるためであり、但し、リーダーシップに関する単著を著す前に亡くなってしまったということのようです。

ドラッカー カリスマ性.jpg 本書を読むと、その他にも、「リーダーシップは学んで身につけられる」との結論に至ったのも晩年のことで、それまで彼は"素質論"だったということが分かり、"カリスマ"に対してもかつては忌避していたのが(ヒットラーが政権を取った数日後に祖国を離れ渡英したことに符号する)、晩年になって、中立的な立場になるなど、いろいろリーダーシップに対する考えが変遷しているのが窺え、興味深く重いました(手近な入門書の多くは、最初からリーダーシップに関する彼の考えが定まっていたかのように書かれているものもあるなあ)。

 著者自身が自らの調査に基づき、また、ドラッカーの著作に立ちもどりながら編み出したリーダーシップの8項目の原則を掲げていますが、それらは、①どこまでも誠実さを貫く、②仕事の内容をよく知る、③期待することを言葉で表す、④並々ならぬ努力をもって仕事に打ち込んでいることを示す、⑤よい結果を期待する、⑥部下に十分配慮する、⑦私利よりもミッションを優先させる、⑧自らが先頭に立つ、となっており、ドラッカーに見せたところ、賛同の意を示したとのことです(とりわけ①の誠実さということに対して)。

 著者にはこれまでにも、ドラッカーのマネジメント論や、そのマネジメント論に基づくリーダーシップ論についての著作があり、本書は『ドラッカー先生の授業』('08年/武田ランダムハウスジャパン)の続編と言えるもので、内容は理論的に高度であるとは言え、比較的新しい事例なども織り込まれていて、読み易いものとなっています。

 著者自身がドラッカー研究を通じて纏めた、効果的なリーダーシップのドラッカー・モデルというべきものが冒頭にあり、これは、訳者あとがきで橋本碩也氏が再度、ドラッカーのリーダーシップ論の真髄として5点に纏めていますが、それらは次の通りです。
 ①リーダーはすべての基盤となる戦略を自分自身で策定すること
 ②リーダーには、誠実さと倫理が備わっていることが不可欠
 ③軍隊で教えるリーダーシップをモデルとすること
 ④モチベーションについての心理的な原則を理解し、応用すること
 ⑤マーケティングの考え方を自分自身のリーダーシップに採り入れること

 本書は、この5点を章ごとに纏めて解説する形をとっていますが、④に「軍隊で教えるリーダーシップをモデルとすること」とあるのは、実は著者は、ドラッカー一番弟子であるとともに、かつて空軍大将にまで上り詰めた人であり、ドラッカーとの会話を通じて、ドラッカーが軍隊で教えるリーダーシップを高く評価していたことを知ったことによるもので、⑤にの「マーケティングの考え方を自分自身のリーダーシップに採り入れること」とあるのと共に、興味深く思いました。

 その他にも、「リーダーシップの7つの大罪」「従業員はコストではなくボランティアとみなす」などといった興味深い記述があり、ケーススタディとしてドラッカーが大学での講義で教えた事例なども網羅されていて、通り一遍のドラッカー入門書とは一味違った、読み応えのある本でした。

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