【1538】 ◎ 坂口 安吾 『堕落論 (1947/06 銀座出版社) ★★★★☆

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「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、著者の意図がより明確に。
堕落論 銀座出版社 1947年6月初版.gif 堕落論 角川文庫.jpg 堕落論 角川文庫2.jpg  坂口 安吾  .jpg
堕落論 (1947年)』/『堕落論』(角川文庫・旧版)/『堕落論 (角川文庫クラシックス)』 坂口 安吾(1946年12月、蒲田区安方町の自宅二階にて)

坂口 安吾 『堕落論』2.jpg 昭和21(1946)年4月、当時40歳の坂口安吾(1906-1955)が発表した「堕落論」は、文庫で十数ページばかりのエッセイですが、戦争が終わって半年も経たない内に書かれたとは思えないくらい、当時の世相堕落論0.JPGの混沌を透過して世間を見据え、日本人の心性というものを抉っており、久しぶりの読み返しでしたが、その洞察眼の鋭さに改めて感服させられました。

堕落論 (新潮文庫)』(今後の寺院生活に対する私考/FARCEに就て/文学のふるさと/日本文化私観/芸道地に堕つ/堕落論/天皇小論/続堕落論/特攻隊に捧ぐ/教祖の文学〔ほか〕)

堕落論』(角川文庫・旧版)(日本文化私観/青春論/堕落論/続堕落論/デカダン文学論/戯作者文学論/悪妻論/恋愛論/エゴイズム小論/欲望について/大阪の反逆/教祖の文学/ 不良少年とキリスト)
   
 人間は堕落する生き物あり、ならばとことん堕落せよと説いていることから、人生論的エッセイという印象がありましたが、こうして読み返してみると、ヒト個人と日本をパラレルに論じていて、日本人論、日本文化論的な要素も結構あったかも。

 武士道に関する記述において、仇討が、仇討の法則と法則に規定された名誉だけによるものだったという指摘などは鋭く、「生きて捕虜の恥を受けるべからず」というのも同じ事であり、日本人は実はこういう規定がないと、戦闘に駆りたてられない心性の民族なのだと(戦争中にはこれが「玉砕」の発想に繋がってしまったのではないか)。

 その考え方を敷衍させ、天皇制を「極めて日本的な(独創的な)政治的作品」と見ているのが興味深く、日本の政治家達(武士や貴族)は、自己の隆盛を約束する手段として、絶対君主の必要を嗅ぎ付けたのだとし、だから天皇は、社会的に忘れられた時にすら、政治的に担ぎだされてくると指摘しています(豊臣秀吉が衆楽に行幸を仰いだように)。

 戦時下の米軍の爆撃に大いに恐怖を感じていたことを告白しながらも、「偉大な破壊を愛していた」とも言い、「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが充満していた。(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない」とし、「だが、堕落ということの驚くべき平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持ちがする」としています。

 徳川幕府が赤穂四十七士に切腹を命じたのは、彼ら生き延びて堕落し、美名を汚すことがあってはならぬという慮りであり、人は生きている限り堕落するものであると。但し、「戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。(中略)人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことは出来ない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と言っているように、「堕落」を肯定的に捉えています。

坂口安吾-風と光と戦争と.jpg これを同年(昭和21年)12月に発表の「続堕落論」と併せて読むと、まず「続堕落論」では、満州事変から始まる天皇を無視した軍部の独走を、「最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた」としてより直截に批判するとともに、「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、という。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ! 我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか」と、より手厳しくなっています。

 更に、「私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全な道義」から転落し、裸となって真実の台地へ降り立たなければならない。我々は「健全な道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない」とし、「天皇制だの武士道だの(中略) かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出直す必要がある」としています。 『坂口安吾: 風と光と戦争と (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

 但し、「堕落論」の末尾で、「だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう(中略)墜ちぬくためには弱すぎる。(中略)武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ。そして人のごとく日本もまた墜ちることが必要であろう。墜ちる道を墜ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」としていたのと同じく、「続堕落論」の末尾でも、「人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かララクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるだろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ」としています。

堕落論_5623.JPG こうして見ると「堕落論」と「続堕落論」の趣旨は同じであり、一貫してある種"反語"的に論じられているため、自分自身、著者の意図をどこまで本当に把握し得ているのか心許無さも若干ありますが、「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、より著者の言わんとするところが明確に見えてくるように思いました。


 銀座出版社刊行の昭和22年版は、古書店を廻れば今でも入手可能(ベストセラーとなったため相当数刷られた?)ですが、文庫では、「日本文化私観」「青春論」「堕落論」「続堕落論」「デカダン文学論」「戯作者文学論」「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」「大衆の反逆」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」の13篇を収めた「角川文庫」が定番でしょうか。

 今年['11年]4月に角川の「ハルキ文庫」の一環として創刊された「280円文庫」は、デフレ時代を反映してかその名の通りの価格で手頃であり、一応こちらも「堕落論」「続堕落論」「青春論」「恋愛論」の4篇を収録しています。

【1957年再文庫化・2007年改版[角川文庫]/1990年再文庫化[集英社文庫]/2000年再文庫化[新潮文庫]/2008年再文庫化[岩波文庫(『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』)]/2011年再文庫化[280円文庫(ハルキ文庫)]】

《読書MEMO》
●角川文庫版収録分・各発表年月
「日本文化論」昭和17年3月発表
「青春論」昭和17年7月発表
「堕落論」昭和21年4月発表
「続堕落論」不明
「デカダン文化論」昭和21年10月発表
「戯作者文学論」昭和22年1月発表
「悪再論」不明
「恋愛論」不明
「エゴイズム論」不明
「欲望について」昭和21年9月発表
「大阪の反逆」昭和22年4月発表
「教祖の文学」昭和21年6月発表
「不良少年とキリスト」昭和22年7月発表

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