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才能が浪費され気味というか、作者が意図するテーマにまで昇華し切れていない。
『向日葵の咲かない夏』['05年] 『向日葵の咲かない夏 (新潮文庫)』['08年]
夏休みを迎える終業式の日、欠席した級友のS君の家を訪ねた僕(ミチオ)は、S君が首を吊って死んでいるのを見つけ、教師に連絡する。しかし、通報を受けた警察が駆けつけると、S君の遺体は忽然と消えており、そのS君は、1週間後、あるものに姿を変えて僕の前に現れる―。
作者の、ホラーサスペンス大賞受賞作『背の眼』に続く長編第2作で、主人公が小学4年生、彼とやりとりをする妹が3歳ということで、ジュブナイルっぽいミステリかと思って読んでいたら、いきなり死者の甦りがあって、しかも途中から児童性愛の話が出てきたり動物殺しがあったりで、やっぱりホラーサスペンスだったのかと...。
ところが更に読み進むと、かなり突飛な枠組み状況ではありながらも本格ミステリのスタイルを維持し、ミステリとして「禁じ手」に近い手法をいっぱい使いながらではあるものの、ちゃんと最後は辻褄を合わせて完結させていて、この辺りはなかなかの才能ではないかと思わせるものがありました。
その「禁じ手」とは、語り手の主観が小説の謎解きの枠組み内に入り込んでいることで、所謂"叙述トリック"の中でもかなりアンフェアな類と見る向きもあるようですが、作者はこの作品を書いている時、ミステリにフェアとかアンフェアといったものがあるということを意識しなかったし、また"叙述トリック"などという言葉も知らなかったそうです。
同じような手法を用いているものは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』以来(あれはミステリではないか)、近年もありますが(京極夏彦(『姑獲鳥の夏』や歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』もそれに該当するのでは)、本格ミステリでこうしたことをやることについては賛否があるかも知れないし、この作品のように文芸的な要素もそれなりにあると尚更かも。
個人的にむしろ引っ掛かったのは、作者はこの作品を"救いの物語"として書いたつもりだそうですが、それが、プロットにおける作者の巧みさが目立つがゆえに、ストーリー的には単に"後味の悪い怪奇譚"ととられる危うさも孕んでいるのではないかということです。
勿論、作者が"後味のいい"作品を書こうとしているのでないことは明らかですが、実際に読み終えて"後味の悪さ"が逆説的効果をもたらすというよりは、ただ単に何に釈然としない印象だけが残りました。
この作者が書きたいのは、単なるホラーサスペンスやミステリである前に、読後に何かが残る「小説」なのでしょう。でも、器用さばかり目立って、作品としての厚みがあまり感じられないのはなぜ?
才能が浪費され気味というか、作者が意図する作品のテーマにまで昇華し切れていないのではないかなあ。
文庫本帯の「このミステリーがすごい!」第1位というのは、'09年の総合得票数作家ということだったのか(『カラスの親指』と『ラットマン』の2作がそれぞれ6位と10位に入っているため)。紛らわしいなあ。
【2008年文庫化[新潮文庫]】