2010年12月 Archives

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半自伝的スラップスティック小説。カマーチョは、作者自身の一面のパロディではないか。

フリアとシナリオライター.jpg
フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)』['04年]バルガス=リョサ VARGA LLOSA.jpg Mario Vargas Llosa

 法学部の学生の僕(マリオ)は、作家になることを目指しながら、ラジオ局でニュース担当として働いているが、両親が米国にいるため、祖父母の家に下宿ながら、ルーチョ叔父さんの家に出入りするうちに、ルーチョ叔父さんの奥さんの妹フリアを愛するようになる。一方、僕の勤めるラジオ局は、ボリビアから、ラジオドラマのために「天才」シナリオライター兼監督兼声優のペドロ・カマーチョを迎え、彼のドラマ劇は、その破天荒なストーリーによって、国民的人気を博することになるが―

Mario Vargas Llosa Julia Urquidi.jpg 2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa、1936-)が1977年に発表した作品で(原題:La tia Julia y el escribidor)、「半自伝的スラップスティック小説」とありますが、主人公のマリオは18歳、フリア叔母さんは32歳とのことで、実際にバルガス=リョサは19歳で14歳年上の義理の叔母フリア・ウルキディ=イリャネスと結婚しているので(後に離婚)、その時の周囲の反対をいかにして乗り切ったかという体験が、作品に反映されているように思います(但し、かなりスラップスティック風に脚色されている模様)。

Mario Vargas Llosa y Julia Urquid Illanes,París, 7 de junio de 1964

 18世紀のイングランドで、恋人同士が結婚について親からの同意が得られそうもない場合に、イングランドからスコットランドに入ってすぐの場所にあるグレトナ・グリーンで式を挙げて夫婦になるという「グレトナ・グリーン婚」というのが流行ったというのを本で読んだことがありますが、それを彷彿させるような2人の駆け落ち婚で、「式を挙げてしまえば勝ち」みたいなのが宗教上の背景としてあるにしても、そこに至るまでもその後も、なかなか大変そう。

 これはこれでドタバタ劇風でもあり面白いのですが、より面白いのは、1章置きに挿入されているペドロ・カマーチョのラジオ脚本で(主人公も小説を習作しているが、これはつまらない内容らしい)、結婚式の当日に倒れた妹を殺そうとする兄の話、巡回中に見つけた黒人を殺すように命じられた軍曹の話、強姦の罪で捕えられながらも無実の証として法廷で一物を切り落とそうとする男の話、ネズミ駆除に情熱を燃やす男と彼を憎み襲撃しようとする家族の話、等々、かなりエキセントリックな物語が、それぞれクライマックスで、"この結末は一体どうなるのか"という感じで終わっています。

 ペドロ・カマーチョの脚本は、やがて本来別々の物語の登場人物が混在してきたり、その職業が入れ替わっていたり、死んだはずの人間が生き返ったりとおかしくなってきて、何よりも物語の展開が、大暴動や大崩壊といった天変地異盛り沢山のカタストロフィ調になってきて、とうとう彼は精神病院に送られてしまいます(何年か後に主人公が彼と再会した時には廃人か世捨て人のようになっている)。

 訳者は解説で、未熟な作家としての「僕」を描くと共に、ペドロ・カマーチョをも「未熟な作家の鏡像」として描いているのではないかとしていますが、バルガス=リョサという作家は、毎朝タイプの前に座って何も書けなくても6時間は粘ると話していて、1日10時間を執筆に充てるペドロ・カマーチョとちょっと似ているかも(ペドロ・カマーチョは、この他に1日7時間を声優・監督業に費やす、まさに「過労死」ペースの仕事ぶりだったわけだが)。

 ペドロ・カマーチョの脚本は、脚本でありながら、この作品の中では小説のスタイルで書かれていて、文体も「僕の話」とさほど変わらず、また実際に面白く(重厚なスラップスティックとでも言うか)、その中の1つだけでも中編か長編になりそうな話が9本もこの作品に挿入されているというのは、作者自身がこうした物語のスタイルに関心があるということではないかと思ってしまいます(ラテンアメリカの文学作家で、推理小説やユーモア小説を書く人は多いが)。

 作者自身が、劇中劇の形を借りて楽しみながら書いているフシがあり、また、自分はこんな面白い話をいくらでも書けるんだぞーと見せつけられた感じもします(何しろ、国民的人気を博したという設定のドラマの話を、実際に書いてみせているわけだから、やはり自信ありなんだろうなあ)。

 「書く」ということについて「書いた」小説だと思うし、そう捉えるならば、ペドロ・カマーチョを作者はどう捉えているかというのが大きなテーマであるには違いなく、個人的には、作者は必ずしもペドロ・カマーチョを「未熟な作家」と断じ切っているようには思えず、むしろペドロ・カマーチョは、作者が自分自身の一面をパロディ化したような存在ではないかという気がしました。

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「穢れを知らない無垢な天使と肉感的な美の象徴であるヴィーナスが出会えばどうなるのか」

継母礼讃 (中公文庫).jpg継母礼讃 リョサ.jpg  Emmanuelle video.jpg 夜明けのマルジュ チラシ2.jpg 夜明けのマルジュ dvd.jpg
継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)』「エマニエル夫人 [DVD]」「夜明けのマルジュ [DVD]
継母礼讃 (中公文庫)

Elogio de La Madrastra.jpg バルガス=リョサが1988年に発表した作品で(原題:Elogio de La Madrastra)、父親と息子、そして継母という3人家族が、息子であるアルフォンソ少年が継母のルクレシアに性愛の念を抱いたことで崩壊していく、ある種アブノーマル且つ"悲劇"的なストーリーの話。

candaules.jpg 当時からガルシア=マルケス、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサルと並んでラテンアメリカ文学の四天王とでもいうべき位置づけにあった作家が、こうしたタブーに満ちた一見ポルノチックともとれる作品を書いたことで、発表時は相当に物議を醸したそうですが、バルガス=リョサの描く官能の世界は、その高尚な文学的表現のため、どことなく宗教的な崇高ささえ漂っており、「神話の世界」の話のようでもあります。そのことは、現在の家族の物語と並行して、ヘロドトスの『史記』にある、自分の妻の裸を自慢したいがために家臣に覗き見をさせ、そのことが引き金となって家臣に殺され、妻を奪われた、リディア王カンダウレスの物語や、ギリシャ神話の「狩りの女神」の物語が挿入されていることでより強まっており、更に、物語の展開の最中に、関連する古典絵画を解説的に挿入していることによっても補強されているように思いました。

Candaules, rey de Lidia, muestra su mujer al primer ministro Giges, de Jacob Jordaens(「カンダウレス王室のギゲス」ヤコブ・ヨルダーエンス(1648)本書より)

Mario Vargas Llosa Julia Urquidi.jpg ただ、個人的には、バルガス=リョサの他の作品にもこうした熟女がしばしば登場し、また、彼自身、19歳の時に義理の叔母と結婚しているという経歴などから、この人の"熟女指向"が色濃く出た作品のようにも思いました。それがあまりにストレートだと辟易してしまうのでしょうが、「現代の物語」の方は、ルクレシアの視点を中心に、第三者の視点など幾つかに視点をばらして描いていて、少年自身の視点は無く、少年はあくまでも無垢の存在として描かれており、この手法が、「穢れを知らない無垢な天使と肉感的な美の象徴であるヴィーナスが出会えばどうなるのか」というモチーフを構成することに繋がっているように思いました。

Mario Vargas Llosa y Julia Urquid Illanes,París, 7 de junio de 1964

 しかし、帯には「無垢な天使か、好色な小悪魔か!?」ともあり、父親にとってこの息子は、好色な小悪魔であるに違いなく、また、継母が去った後、今度は召使を誘惑しようとするところなど、ますます悪魔的ではないかと...。「現代の物語」と、挿入されている「リディア王の話」(家臣に自分の眼の前で妻と交情するよう命じ、これを拒んだ家臣の首を刎ねた)とは、それぞれ異質の性愛を描いているように思えました。

 強いて言えば、「現代の物語」の方は、エディプス・コンプレックスの変型であり(バルガス=リョサ型コンプレックス?)、「リディア王の話」は、エマニュエル・アルサン(1932-2005)原作、ジュスト・ジャカン監督の「エマニエル夫人」('74年/仏)のアラン・キュニーが演じた老紳士マリオの"間接的性愛"のスタンスに近いと言えるでしょうか。性に対してある種の哲学(「セックスから文明社会の意味を取り除いた部分にしか、性の真理はない」という)を持つマリオにとって、エマニエルはそうした哲学を実践するにまたとない素材だった―。

エマニエル夫人 アラン・キュニ―.jpg エマニエル夫人 チラシ.jpg 華麗な関係.jpg 夜明けのマルジュ チラシ.jpg
「エマニエル夫人」の一場面(A・キュニー)/「エマニエル夫人」/「華麗な関係」/「夜明けのマルジュ」各チラシ

エマニエル夫人の一場面.jpg 「エマニエル夫人」はいかにもファッション写真家から転身した監督(ジュスト・ジャカン)の作品という感じで、モデル出身のシルヴィア・クリステルが、演技は素人であるにしても、もう少し上手ければなあと思われる凡作でしたが、フランシス・ジャコベッティが監督した「続エマニュエル夫人」('75年)になっても彼女の演技力は上がらず、結局は上手くならないまま、シリーズ2作目、3作目(「さよならエマニュエル夫人」('77年))と駄作化していきました。内容的にも、第1作にみられた性に対する哲学的な考察姿勢は第2作、第3作となるにつれて影を潜めていきます。その間に舞台はタイ → 香港・ジャワ → セイシェルと変わり「観光映画」としては楽しめるかも知れないけれども...。でもあのシリーズがある年代の(男女問わず)日本人の性意識にかなりの影響を及ぼした作品であることも事実なのでしょう。

華麗な関係 1976ド.jpg華麗な関係lt.jpg 同じくシルヴィア・クリステル主演の、ロジェ・ヴァディムが監督した「華麗な関係」('76年/仏)も、かつてジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー、ジャン=ルイ・トランティニャンを配したロジェ・ヴァディム自身の「危険な関係」('59年/仏)のリメイクでしたが、原作者のラクロが墓の下で嘆きそうな出来でした。

「華麗な関係」('76年/仏)

夜明けのマルジュの一場面.jpg 同じ年にシルヴィア・クリステルは、ヴァレリアン・ボロヴズィック監督の「夜明けのマルジュ」('76年/仏)にも出演していて(実はこれを最初に観たのだが)、アンドレイ・ピエール・マンディアルグ(1909 -1991)のゴンクール賞受賞作「余白の街」が原作で、1人のセールスマンが、出張先のパリで娼婦と一夜を共にした翌朝、妻と息子の急死の知らせを受け自殺するというストーリー。メランコリックな脚本やしっとりしたカメラワーク自体は悪くないのですが、「世界一美しい娼婦」という触れ込みのシルヴィア・クリステルが、残念ながら演技し切れていない...。

「エマニエル夫人」●1.jpg「エマニエル夫人」●2.jpg 何故この女優が日本で受けたのかよく解らない...と言いつつ、自分自身もシルヴィア・クリステルの出演作品を5本以上観ているわけですが、個人的には公開から3年以上経って観た「エマニエル夫人」に関して言えば、シルヴィア・クリステルという女優そのものが受けたと言うより、ピエール・バシュレの甘い音楽とか(「続エマニュエル夫人」ではフランシス・レイ、「さよならエマニュエル夫人」ではセルジュ・ゲンズブールが音楽を担当、セルジュ・ゲンズブールは主題歌歌唱も担当)、女性でも観ることが出来るポルノであるとか、商業映画として受ける付加価値的な要素が背景にあったように思います(合計320万人の観客のうち女性が8割を占めたという(『ビデオが大好き!365夜―映画カレンダー』('91年/文春文庫ビジュアル版)より))。

「続エマニュエル夫人」('75年/仏) 音楽:フランシス・レイ

A Man for Emmanuelle(1969)
A Man for Emmanuelle (1969) L.jpg バルガス=リョサの熟女指向から始まって、殆どシルヴィア・クリステル談義になってしまいましたが、シルヴィア・クリステルの「エマニュエル夫人」はエマニュエル・シリーズの初映像化ではなく、実際はこの作品の5年前にイタリアで作られたチェザーレ・カネバリ監督、エリカ・ブラン主演の「アマン・フォー・エマニュエル(A Man for Emmanuelle)」('69年/伊)が最初の映画化作品です(日本未公開)。

 因みに、「エマニュエル夫人」「続エマニュエル夫人」はエマニュエル・アルサンが原作者ですが、最後エマニュエルが男性依存から抜け出して自立することを示唆した終わり方になっている「さよならエマニュエル夫人」は、オリジナル脚本です。一方で、エマニュエル・アルサン原作の他の映画化作品では、女流監督ネリー・カプランの「シビルの部屋」('76年/仏)というのもありました。

シビルの部屋 旧.jpgシビルの部屋 pabnnhu.jpg 「シビルの部屋」のストーリーは、シビルという16歳の少女がポルノ小説を書こうと思い立って、憧れの中年男に性の手ほどきを受け、その体験を本にしたところベストセラーになってしまい、執筆に協力してくれた男を真剣に愛するようになった彼女は、今度は手を切ろうとする男に巧妙な罠をしかけて陥落させようとする...というもので、原作はエマニュエル・アルサンの半自伝的小説であり、アルサンは実際にこの作品に出てくる「ネア」という小説も書いている-と言うより、この映画の原作が「ネア」であるという、ちょっとした入れ子構造。映画化作品は、少女の情感がしっとりと描かれている反面、目的のために手段を選ばないやり方には共感しにくかったように思います。

エマニエル夫人00.jpg「エマニエル夫人」●原題:EMMANUELLE●制作年:1974年●制作国:フランス●監督:ジュスト・ジャカン●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:ジャン=ルイ・リシャール●撮影:リシャール・スズキ●音楽:ピエール・バシュレ●原作:エマニュエル・アルサン「エマニュエル」●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/アラン・キューリー/ダニエル・サーキー/クリスティーヌ・ボワッソン/マリカ・グリーン●日本公開:1974/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★★)●併映:「続・エマニエル夫人」(フランシス・ジャコベッティ)/「さよならエマニエル夫人」(フランソワ・ルテリエ)

続エマニエル夫人 ド.jpg続エマニエル夫人 vhs.jpg「続エマニエル夫人」●原題:EMMANUELLE, L'ANTI VIERGE/EMMANUELLE: THE JOYS OF A WOMAN●制作年:1975年●制作国:フランス●監督:フランシス・ジャコベッティ●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:フランシス・ジャコベッティ/ロベール・エリア/ジェラール・ブラッシュ●撮影:ロベール・フレース●音楽:フランシス・レイ●原作:エマニュエル・アルサン●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/ウンベルト・オルシーニ/カトリーヌ・リヴェ/カロライン・ローレンス/フレデリック・ラガーシュ/ラウラ・ジェムサー●日本公開:1975/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★☆)●併映:「エマニエル夫人」(ジュスト・ジャカン)/「さよならエマニエル夫人」(フランソワ・ルテリエ)
続エマニエル夫人 [DVD]

さよならエマニエル夫人1977.jpg「さよならエマニエル夫人」●原題:GOOD-BYE, EMMANUELLE●制作年:1977年●制作国:フランス●監督:フランソワ・ルテリエ●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:さよならエマニエル夫人 dvd .jpgフランソワ・ルテリエ/モニク・ランジェ●撮影:ジャン・バダル●音楽:セルジュ・ゲンズブール●時間:98分●出演:シルヴィア・クリステル/ウンベルト・オルシーニ/アレクサンドラ・スチュワルト/ジャン=ピエール・ブーヴィエ/ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ/オルガ・ジョルジュ=ピコ/シャルロット・アレクサンドラ●日本公開:1977/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★☆)●併映:「エマニエル夫人」(ジュスト・ジャカン)/「続エマニエル夫人」(フランシス・ジャコベッティ)
さよならエマニエル夫人 [DVD]

UNE FEMME FIDELE 1976.jpgUNE FEMME FIDELE.jpg華麗な関係 チラシ2.jpg「華麗な関係」●原題:UNE FEMME FIDELE●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ロジェ・ヴァディム●製作:フランシス・コーヌ/レイモン・エジェ●脚本:ロジェ・ヴァディム/ダニエル・ブーランジェル●撮影:クロード・ルノワ●音楽:モルト・シューマン/ピエール・ポルト●原作:ピエール・コデルロス・ド・ラクロ「危険な関係」●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/ジョン・フィンチ/ナタリー・ドロン/ジゼール・カサドジュ/ジャック・ベルティエ/アンヌ・マリー・デスコット/セルジュ・マルカン●日本公開:1977/05●配給:東宝東和●最初に観た場所:三鷹東映(78-01-16)(評価:★☆)●併映:「エーゲ海の旅情」(ミルトン・カトセラス)/「しのび逢い」(ケビン・ビリングトン)

夜明けのマルジュの一場面2.jpg「夜明けのマルジュ」●原題:LA MARGE●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ヴァレリアン・ボロヴズィック●製作:ロベール・アキム/レイモン・アキム●撮影:ベルナール・ダイレ夜明けのマルジュ 09.jpgンコー●音楽:ロベール・アキム●原作:アンドレイ・ピエール・ド・マンディアルグ「余白の町」●時間:93分●出演:シルヴィア・クリステル/ジョー・ダレッサンドロ/ミレーユ・オーディベル/アンドレ・ファルコン/ドニス・マニュエル/ノルマ・ピカデリー/ルィーズ・シュヴァリエ/ドミニク・マルカス/カミーユ・ラリヴィエール●日本公開:1976/10●配給:富士映画●最初に観た場所:中野武蔵野館(77-12-15)(評価:★★☆)●併映:「続 個人教授」(ジャン・バチスト・ロッシ)

NEA 1976_01.jpgシビルの部屋 新.jpg「シビルの部屋」●原題:NEA●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ネリー・カプラン ●製作:ギー・アッジ●脚本:ネリー・カプラン/ジャン・シャポー●撮影:アンドレアス・ヴァインディング●音楽:ミシェル・マーニュ●原作:エマニュエル・アルサン「少女ネア」●時間:106分●出演:アン・ザカリアス/サミー・フレイ/ミシュリーヌ・プレール/フランソワーズ・ブリオン/ハインツ・ベネント/マルタン・プロボスト●日本公開:1977/09●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:池袋・テアトルダイヤ(77-12-24)(評価:★★☆)●併映:「さすらいの航海」(スチュアート・ローゼンバーグ)シビルの部屋 [DVD]

【2012年文庫化[中公文庫]】

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「女が愛しているのは快楽だけだという事実」を突き付け、「愛の行為の果て」を描いた映画。

Hécate(1982).jpgヘカテ/ダニエル・シュミット.jpg ヘカテ/エレンディラ.jpg
Hécate(1982) 輸入版DVDジャケット「ヘカテ [DVD]」/VHS「エレンディラ/ヘカテ」

 1942年、スイスのベルン。フランス大使館主催のパーティの人混みの中で、ある男がひとりもの想いに沈んでいた。その男ジュリアン・ロシェル(ベルナール・ジロドー)は10年前、フランスの植民地である北アフリカの地に赴任、熱い太陽の下で退屈な日々を送っていたが、あるパーティでテラスで風に吹かれていたクロチルドという女性(ローレン・ハットン)に出会い、その魔性の魅力に溺れていく。やがて、彼はクロチルドに大きな秘密があることを知る。それが秘密と呼んでいいものなのか、彼自身にもわからないのだが。彼は、ギリシャ神話に登場する女神ヘカテヘカテ パンフ.JPGを思い浮かべた。犬を従えて闇を歩く夜の魔女ヘカテ―。

エレンディラ サンリオ文庫.png かつてレンタルビデオで「エレンディラ」と「ヘカテ」の2本組みというのがありましたが、何だか凄い組み合わせだなあと(エレンディラの祖母とヘカテことクロチルドの"魔女"セットか)。「エレンディラ」はガルシア=マルケス原作、「ヘカテ」はポール・モラン(1888-1976/享年88)原作で、この作家は外交官としてアフリカに赴任していたこともあり、亡命先のスイスでの、ココ・シャネル(1883-1971/享年87)へのインタヴュー取材などでも知られています。

HECATE by  Daniel Schmid.jpgHecate.jpg 「ヘカテ」というのは、ギリシャ神話に出てくる、男を、子供を、更に世界をも支配する巨大な魔力を持つ、神秘的で残酷な女神のことだそうで、主人公の男にとってクロチルドはまさに「ヘカテ」であり、パンフレットにある批評の「恋とは永遠に不確か」(映画評論家・渡辺祥子)、「恋に乱れる男たちの愚かさよ」(画家・合田佐和子)と言うよりむしろ、「女が愛しているのは快楽だけだという事実」(翻訳家・小沢瑞穂)を突き付け、「愛の行為の果て」(作家・辻邦生)を描いた映画とも言えるかも。

Hécate(1982) 2.jpg クロチルド役のローレン・ハットン(Lauren Hutton、1943年生まれ)は、アローレン・ハットン.bmpメリカン・ヴォーグの専属モデル出身の女優で、特別にグラマーでも美人でもないですが、服の着こなしがいいのか、ダニエル・シュミット(1941-2006/享年64)のカメラ指示がいいのか、シュミットの映像美にマッチしており、この作品では、アンニュイなセクシーさを充満させています。
 後に、61歳でヌードになったことで話題になり、更に、'08年には、65歳にして、スペイン大手ファッションチェーン、マンゴのアルジェリアで新規ショップのオープンに際して、親善大使並びにイメージ・キャラクターに起用されています(やはり、この人も"魔女"か)。

マンゴの広告キャンペーンに登場したローレン・ハットン(2008年・65歳)

HECATE 1982.jpg この映画で、ベルナール・ジロドー演じる外交官が赴任した国は同じ北アフリカでもモロッコのようですが、いずれにせよ、辺境の地で無聊を託っている折に、目の前にこんな女性が現れ、その女性が、恋人、愛人、情婦、更には貴婦人としても完璧であれば、男はずぶずぶ深みに嵌っていくだろうなあと思わせるものがあり、実際、この映画の主人公の男は次第に嫉妬心のコントロールが出来なくなって、狂気に駆られていきます。

 後に狂気から覚めた男が、シベリアの地で今は世捨て人同様となった彼女の夫と見(まみ)え、「君も、僕と同類さ。あれに噛まれた犬なんだ」と言われる場面は、何とも怖いと言うか、しんみりさせられると言うか...(原作の原題は「ヘカテとその犬たち」)。

異邦人パンフレット.jpg 映画の、北アフリカの砂漠の町という舞台設定が、何と言ってもいいです。パンフレットにある、筈見有弘(1937-1997/享年59)の、映画における「文化果つる辺境のロマンチシズム」というのは、マレーネ・デートリッヒ主演の「モロッコ」('30年)、ジャン・ギャバン主演の「望郷」('37年)あたりから連綿とあって、マルチェロ・マストロヤンニ主演の「異邦人」('68年)などもそうであり、この作品も、その系譜にあるとの解説に頷かされました。
 

Hécate(1982) 1.jpg「ヘカテ」●原題:HECATE●制作年:1982年●制作国:フランス/スイス●監督:ダニエル・シュミット●製作:ベルント・アイヒンガー●脚本:ダニエル・シュミット/パスカル・ジャルダン●撮影:レナート・ベルタ●音楽:カルロス・ダレッシオ●原六本木駅付近.jpg俳優座劇場.jpg作:ポール・モラン「ヘカテとその犬たち」●時間:108分●出演:役 - ベルナール・ジロドー/ローレン・ハットン/ジャン・ブイーズ/ジャン=ピエール・カルフォン/ジュリエット・ブラシュ●日本公開:1983/08●配給:ヘラルド・エース●最初に観た場所:六本木・俳優座シネマテン(83-10-17)●2回目:自由が丘・自由劇場(84-09-15)(評価:★★★★)●併映(2回目):「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(ボブ・ラフェルソン)
六本木・俳優座シネマテン(六本木・俳優座劇場内) 1981年3月20日オープン。2003年2月1日休映(後半期は「俳優座トーキーナイト」として不定期上映)。

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「魔術的リアリズム」の真骨頂。『百年の孤独』の余韻を引いているような作品群。

La increíble y triste historia de la cándida Eréndira y de su abuela desalmada.jpgエレンディラ サンリオ文庫.png エレンディラ ちくま文庫.jpg エレンディラ 映画250.jpg
エレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)』『エレンディラ (ちくま文庫)』映画「エレンディラ」('83年/メキシコ・仏・西独)
スペイン語ペーパーバック(2010)

エレンディラ 映画cf.jpeg 14歳の美少女エレンディラは、両親を早く亡くし祖母に育てられたが、自らの過失による火事で家を焼き、その償いとして、祖母とテント生活の旅をしながら売春させられる。テントの前には男達が群がり商売は繁盛、祖母が1日に何十人もの客を取らせるため、エレンディラはボロボロになってしまうが、何度か逃げ出す機会があったものの、結局は自分から祖母の元に戻っていく―。(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」

 ボリビアの作家、G・ガルシア=マルケス(1928-)が1978年に発表した作品集で、中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の他に、「大きな翼のある、ひどく年取った男」「失われた時の海」「この世でいちばん美しい水死人」「愛の彼方の変わることなき死」「幽霊船の最後の航海」「奇跡の行商人、善人のブラカマン」の各短篇6作を所収。

 民話や伝承のエピソードがベースになった作品が多く含まれているそうですが、「魔術的リアリズム」の作家と呼ばれるように、現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、独特の神話的な作風を生んでおり、それが、砂漠とジャングルと海が隣接するボリビアの風土を背景にしたものであるだけに、なおさらにエキゾチックなイマジネーションを駆りたてます。

美しい水死人.jpg 「大きな翼のある、ひどく年取った男」で、地上に堕ちて着て、村人に奇妙な見世物のように扱われる、老いた"天使"を描いたかと思うと、「この世でいちばん美しい水死人」では、村に漂着した"土左衛門"の美しさを村の女達が賛美するという、ちょっと日常では考えられないと言うか、人々の日常の中に非日常、非現実がいきなり入り込んだような話が続きます。

美しい水死人―ラテンアメリカ文学アンソロジー (福武文庫)

 「大人のための残酷な童話」として書かれたそうですが、個人的には、「愛の彼方の変わることなき死」と「奇跡の行商人、善人のブラカマン」が面白かったです。

 「愛の彼方の変わることなき死」は、上院議員オナシモ・サンチェスが、選挙運動期間中に少女と淫行に及ぶというもので、彼は、そのことがスキャンダルとなり、6ヵ月と11日後に自らが死ぬことになることを正確に予知しながらも、まさに今、少女を傍に侍らせているのですが、自らの宿命に抗し得ない人物を描いているように思いました。

 「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は、奇跡を起こすと言ってインチキ商品を売り歩く悪徳商人ブラカマンに師事したばかりにひどい目に遭う「ぼく」の話ですが、このブラカマンというのが、最初は単なるインチキ男に過ぎないのが、だんだんその行為が本当に超常現象的になってきて、「ぼく」にまで神のような力が備わってしまうというもの。

 この作家は、何だか、極端に常軌を逸した話が好きなんだなあ(それが面白いところでもあるが)。もう、こうなってくると、人間的にいい人だとか悪い人だとかいう道徳的なことは超越してしまい、また、あまりに乾いているため、悲惨さや残酷さといったものも超えてしまっている感じです。

 それは「エレンディラ」(Erendira)にも言え、エレンディラは、彼女を救おうとする美男子だがややひ弱な青年ウリセスとの恋に落ち、ついに祖母を殺そうとしますが、これが、大量に毒を盛った誕生祝いのケーキをまるごと食べても死なず(髪の毛は全部抜けるが)、こうなるともう魔女に近い。更に、爆弾でも死なず、鬘(かつら)が黒焦げになっているだけというのは、まるでカトゥーン・アニメのようなユーモア。

 最後は、ウリセスが肉包丁で祖母に止めを刺しますが、祖母の死を確認したエレンディラは何処かへ去って行き、ウリセスはただ泣くばかり―。
 エレンディラが自分を虐待し続けてきた祖母に、深層心理では深く依存していたことが窺え、神話的であると同時に、人間心理の本質を突いた作品でもあります(虐待被害者にとって、虐待者が同時に庇護者でもあるというのは、現実にもあるなあ)。

エレンディラ95.jpgエレンディラ 映画.jpgエレンディラ 映画チラシ.bmp 「エレンディラ」は、1983年にルイ・グエッラ監督によりイレーネ・パパス(祖母役)主演で映画化され、日本でもPARCOの配給で公開されましたが、チェックしていたものの見損なってしまい、今はビデオも絶版となりDVD化もされていないということで、やはり、こうした映画は、観ることが出来るその時に観ておくべきだったなあと今更ながらに思います。

エレンディラ 舞台.jpg蜷川幸雄.jpg '07年に蜷川幸雄氏により舞台化されていますが、オリジナルの「エレンディラ」の話に「大きな翼のある、ひどく年取った男」の話を織り込んで、ウリセスを天使にするという、相当に手を加えた脚色になっているようです(祖母役は嵯川哲朗)。

 「エレンディラ」の中にも、上院議員オナシモ・サンチェスや悪徳商人ブラカマンの名が出てくるように、これらの話がある土地で同じ時期に起きた出来事であるかのような構成になって、『百年の孤独』('72年発表)の余韻を引いているような作品という印象を持ちました(短篇については、これらの作品の何れかが『百年の孤独』に挿入されていても不自然ではないかも)。

 エレンディラ VHS.jpg
VHS「エレンディラ」
  
ヘカテ/エレンディラ.jpg
VHS「エレンディラ/ヘカテ」  
 

 【1988年再文庫化[ちくま文庫]】

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幻想的な世界を描いて巧み。時に人生の哀感を、時に情念の凄まじさをも描く。

カルロス・フエンテス 『アウラ・純な魂 』.jpgアウラ・純な魂.gif カルロス・フエンテス.jpg
フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)』Carlos Fuentes(1918-2012

aura.jpg メキシコの作家カルロス・フエンテス(Carlos Fuentes、ガルシア=マルケスと同じ1928年生まれ)の作品集で、1962年発表の中篇「アウラ」、同じく中篇「純な魂」他、初期の短篇4編(「チャック・モール」「生命線」「最後の恋」「女王人形」)を収めています。

 フエンテスは、父親が外務省勤務だったため、幼いころから国外各地を転々したとのことですが、そうした欧米の文化との対比で、祖国の文化を見つめ直す視点が作品の底にあり、その辺りがそれぞれの作品にどう反映されているかは、訳者・木村榮一氏の解説に詳しく書かれています。

 但し、そこまで読み取れなくとも、リアリスティックな不気味さと、現実と夢が混ざったような幻想性を併せ持ち、それでいて、時に人生の哀感を、時に人の情念の凄まじさを感じさせるような作風は、木村氏の名訳も相俟って大いに堪能することが出来、話の展開の旨さという点でも、短篇の名手とされるフリオ・コルタサル(1914-1984)に比肩するものがあるように思いました。

チャック・モール.jpg「チャック・モール」 タイトルは、古代インディオの遺跡に見られる人物石像のことで、溺死した知人の公務員の手記に、その男がある店でチャック・モールを購入したその日から、チャック・モールが次第に男の正気を蝕んでいく様が、シュールに描かれていたという話。
 木村氏は、この作品を深く文化論的に解説していますが、SF的な楽しみ方も出来るのでは。

「生命線」 それに比べるとこちらは、銃殺刑に処せられる4人のメキシコ革命軍兵士達の心の揺れを描いたものであり、ぐっと重さを増しますが、個人的には、コルタサルの「正午の島」を読んだ時と同様、本当にこの男たちは、一旦は脱走したのだろうか、男達が死ぬ直前に見た夢と解せなくもないと思ったりもしました。

「最後の恋」 成功し富を得た老人が、若い愛人を連れて海辺のリゾートに滞在しているが、老人の眼の前で、女は若い男と楽しそうに振舞っている―老人の若者への嫉妬と言うより、"若さ"への渇望と諦念が滲む作品で、老人の心理描写の細やかさが素晴らしいです(作者がこれを書いたのは30代前半)。

「女王人形(La muneca reina)」 青年が15年前の幼い頃に一緒に遊んだ少女アミラミアは、今22歳になっているはず。その淡くも切ない想い出に惹かれ、彼女のメモを頼りに、現在の住まいと思われる家を訪れるが、そこには棺に不気味に横たわる人形が。そして、再度の訪問で青年が見たものは―。
 文章も展開も素晴らしく、表題作2作に勝るとも劣らぬゴチック小説の傑作。

「純な魂」 兄ファン・ルイスと妹クラウディアは、かつて濃密な愛情で結ばれていたが、兄は過去を振り切るかのように欧州で暮らし、次々と入れ替わる恋人のことを妹に手紙で書き送る(但し、そこには、恋人と妹の同一視が見られる)。いよいよ、兄がある女性と結婚することになったその時、それまで寛容な母親のような態度をとっていた妹は―。
 木村氏の、欧州文明への傾斜とメキシコ的なものへの回帰を対比させた深遠な解説は別として、サイコススリラーとして読める作品では。

Aura / Carlos Fuentes.jpg「アウラ」 青年歴史家のフェリーペは、新聞広告で高報酬が目を引いた、老夫人の住む邸で彼女の亡き夫の著作を完成させるという仕事に就くことができたが、そのコンスエロ夫人邸には、老夫人の姪にあたるアウラという名の、緑の目をもつ美しい少女がいた―。

Aura /Carlos Fuentes (イメージ/スペイン)

Rosanna Gamson and Contradanza perform Aura by Carlos Fuentes.jpg 溝口健二監督の「雨月物語」('53年)にインスパイアされた作品だそうで、夫が60年前に亡くなったというところで「幽界譚だな」と分かるかとは思うのですが(但し、ラストに予期せぬ宿命的な結末が...)、夢と現実の混ざり合った部分の描写が巧みで(その多くはベッドシーン...)、ぐいぐい引き込まれました。この作品は、スペイン語圏では、映画化されたり(何種類ものイメージフィルムをインターネット上で見ることができる)、舞台・オペラ・舞踊として数多く演じられているようです(写真右:Rosanna Gamson and Contradanza perform "Aura" by Carlos Fuentes)。

 「純な魂」も「アウラ」も、女性の情念の凄まじさが滲み出ている傑作ですが、例えば「純な魂」が、欧州に出向く機内での妹クラウディアの、兄に対する心の中での語りかけで、「アウラ」が、青年フェリーペに対する「君は」という語りかけで、それぞれ終始貫き通されているという、語り口の旨さというのも感じました。

 「アウラ」イメージ・フィルム

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「仮に地球人の姿をしている宇宙人」を演じるデヴィッド・ボウイが、かなり宇宙人っぽい。

地球に落ちてきた男.jpg 地球に落ちてきた男 dvd.jpg THE MAN WHO FELL TO EARTH.jpg Christiane F. - Wir Kinder vom Bahnhof Zoo (1981) .jpg Senjô no merî Kurisumasu (1983) .jpg
「地球に落ちて来た男」パンフレット「地球に落ちて来た男 [DVD]Christiane F. - Wir Kinder vom Bahnhof Zoo (1981)  Senjô no merî Kurisumasu (1983)

地球に1.JPG 砂漠化した故郷の星に妻子を残し、地球にやってきたニュートン(デヴィッド・ボウイ)は、発明家として巨万の富を築き、ロケットを建造して家族の待つ星に帰ろうとするが、地球で知り合い、愛し合うようになったメリー・ルー(キャンディ・クラーク)を残して宇宙に飛び立とうとする直前、政府組織に捕らえら、拷問じみた人体実験と軟禁生活の中で、数十年を過ごす―。

 「ブレードランナー」の原作者であるフィリップ・K・ディックらに影響を与えたSF映画ですが、特撮(と言えるほどのものでもない)部分は、ニュートンが回想する故郷の星の家族が"着ぐるみ"みいたいだったりして(しかも、お決まりの"キャット・アイ")、むしろ、地球人の姿を借りている主人公の宇宙人を演じているデヴィッド・ボウイ自身の方が、表情や立ち振る舞いがよほど宇宙人っぽく見えました(相当な集中力を要求される演技だと思う)。

地球に2.JPG 世間がニュートンを忘れた頃、彼は拘禁状態を解かれ(依然、軟禁状態にはある)外界に戻りますが、もはや誰も彼を覚えておらず、メリー・ルーとの再会も、お互いの心の中に無力感を刻むだけのものとなり、故郷の星に戻ることもできず、巨万の富を抱えたままでひっそりと生きて行くしかない―(ラストでは、軟禁状態をも解かれ、ニュートンにとっての次なる世界が展開されるかのような終わり方になっているが...)。

地球に3.JPG パンフレットの解説によれば、これはSFと言うよりも愛の物語であるとありましたが、メリー・ルーがニュートンとの数十年ぶりの再会で心を開くことが出来なかったのは、彼女が年齢を加えているのに、ニュートンの方は一向に年をとっていないという隔たりのためで、時を共有するというのは、一緒に年齢を重ねていくということなのだなあと。「時」というのも、この作品のテーマの1つであると言えるかもしれません。

地球に落ちて来た男 深夜の告白1.jpg地球に落ちて来た男 深夜の告白2.jpg 富を得れば得るほど孤独になり、何のために地球に来たのかもだんだんわからなくなり、酒に溺れていく(宇宙人もアル中になる!)ニュートン―。人間の疎外というものを描いた作品でもあるように思いました。

アメリカン・グラフィティAmericani.jpg デヴィッド・ボウイの日本初公演は1973年ですが、映画「地球に落ちて来た男」では、「アメリカン・グラフィティ」('73年/米)でデヴィッド・ボウイより先に日本に"映画お目見え"したキャンディ・クラークも、本作メリー・ルー役で、カントリー・ガール風にいい味出しています(2人でピンポンをするシーンなんか、良かったなあ)。

デヴィッド・ボウイs.jpg デヴィッド・ボウイは、本作が映画では日本初お目見えでしたが、この作品の前後に「ジギー・スターダスト」('73年/英、ボウイのステージと素顔を追ったドキュメンタリー。日本での公開は'84年)、「ジャスト・ア・ジゴロ」('81年/西独、未見)に出ていて、その後「クリスチーネ・F」('83年/西独、ドイツの麻薬中毒少女をドキュメンタリー風に扱った映画)、「ハンガー」('83年/英、カトリーヌ・ドヌーヴが吸血鬼女、デヴィッド・ボウイがその伴侶という設定)、大島渚監督の「戦場のメリー・クリスマス」('83年/日・英)と続きます。因みに、「ジギー・スターダスト」は1972年にデヴィッド・ボウイがリリースしたアルバム名であり、異星からやってきた架空のスーパースター「ジギー」の成功からその没落までを描いたというそのコンセプトは、3年後に作られた「地球に落ちて来た男」にほぼ反映されたとみていいのではないでしょうか。
ジギー・スターダスト dvd.bmp  ジギー・スターダスト パンフ.gif ジギー・スターダスト パンフ3.jpg ジギー・スターダスト パンフ2.jpg ジギー・スターダスト アルバム.jpgジギー・スターダスト [DVD]」/「ジギー・スターダスト」パンフレット/「ジギー・スターダスト発売30周年記念アニヴァーサリー・エディション

クリスチーネ・F [DVD]
クリスチーネ・F dvd.jpg映画「クリスチーネF」.jpg 「クリスチーネ・F」は、西ベルリンの実在のヘ麻薬中毒の少女(当時14歳)の手記『かなしみのクリスチアーネ』(原題: "Wir Kinder vom Bahnhof Zoo", 「われらツォー駅の子供たち」)をベースに作られ映画ですが、主人公のクリスチーネも、同じ14歳の女友達も、共に薬代を稼ぐために売春していて(この女友達はヘロインの過剰摂取で死んでしまう)、更に、男友達も男娼として身体を売っているという結構すごい話で、クリスチーネをはじめ、素人を役者として使っていますが、演技も真に迫っていて、衝撃的でした(因みに、手記を書いたクリスチアーネ・フェルシェリノヴ(1962年生まれ)は、2010年現在生きていて、一旦は更生したものの、最近また麻薬に手を出しているという)。

CHRISTINE F.jpg この頃の「西ドイツ」映画には、日本に入ってくるものが所謂"芸術作品"っぽかったり(「ノスフェラトゥ」('78年)、「ブリキの太鼓」('79年)、「メフィスト」('81年))、歴史・社会派の作品だったり(「リリー・マルレーン」('81年)、「マリア・ブラウンの結婚」('79年))、重厚でやや暗めのものが多く、また、娯楽映画の中にもアナーキーな部分があったりして(「ベルリン・ブルース」('86年)、「ベルリン忠臣蔵」('85年))、共通して独特の暗さがありましたが、この作品は、テーマの暗さがそれに輪をかけているような感もあります。

 デヴィッド・ボウイは、クリスチーネが訪れるベルリンのコンサートシーンOriginal Soundtrack.jpgに出てくるだけですが、元々デヴィッド・ボウイとドイツの縁は深く、70年代半ばに長年の薬物使用による中毒で精神面での疲労が頂点に達し、更にドイツでのライブがナチズムを強く意識したステージ構成になっていたため世間のバッシングを浴びたりもした彼でしたが、ツアー終了後、薬物からの更生という目的も兼ねてそのままベルリンに移住し創作活動を行っていた時期があります。映画ではデヴィッド・ボウイが音楽でクリスチーネを元気づけ、立ち直りに向かわせるような位置づけになっていて、当時(80年代初め)はまだデヴィッド・ボウイに対してどことなく反社会的なイメージがあったために、やや意外な印象を受けました(実はいい人なんだあ、みたいな)。
Christine」Original Soundtrack CD (2001年)
 
ハンガー 映画.bmp リドリー・スコット監督の弟トニー・スコットの初監督作品でもある「ハンガー」では、デヴィッド・ボウイは、「地球に落ちてきた男」で演じた「歳を取らない」宇宙人役とは真逆で、吸血鬼に若さを奪われ「急速に老いていく男」を演じています。

 この他にも、スーザン・サランドンとカトリーヌ・ドヌーヴとのラヴシーンといったのもありましたが、個人的には、全体的にイマイチ入り込めなかった...。日本でもそんなにヒットしなかったように思いますが、ガラッと作風を変えた次回作「トップガン」('86年/米)がヒットして、もう、トニー・スコットがこのような映画を撮らなくなったということもあってか、この作品自体はカルト的な人気はあるようですトニー・スコットは2012年に病気を苦に橋から飛び降り自殺した)

戦場のメリークリスマス ブルーレイ.jpg デヴィッド・ボウイが日本で再びブレイクすることになったのは、「ハンガー」より先に公開された大島渚監督作品「戦場のメリークリスマス」('83年/日・英)によってであって、音楽の方は、同じく役者として出演していた坂本龍一が担当していました。

 ヴァン・デル・ポストが日本軍俘虜収容所での体験を描いた小説がベースになっていて、日英の文化的相克のようなものが描かれている作品ですが(「戦場にかける橋」などとは違った意味で、それぞれの良いところ、悪いところが描かれているのには好感を持てた)、両者の溝を超えるものとしての人間と人間の繋がりが、ヒューマニズムと言うよりはホモ・セクシュアルを匂わせるようなものになっているところが大島監督らしいところ(役者名で言えば、トム・コンティとビートたけしの関係、デヴィッド・ボウイと坂本龍一との関係。ボウイが坂本龍一にキスするシーンが話題になったが、それは、映画の文脈の中でまた異なる意味を持つ)。但し、何か"日本的"と言うか"ウェット"な感じがするかなあと(大島渚監督は後の作品「御法度」(司馬遼太郎原作)でもホモ・セクシュアルを扱っている)。

 作家の小林信彦氏によれば、デヴィッド・ボウイの役は、はじめ大島監督は、ローバート・レッドフォードを考えていたのが、レッドフォードは「オーシマを尊敬している」が、脚本が自分向きでないとして断ったとこと、日本人側の俳優も、滝田栄と緒方拳でやるつもりだったが2人とも大河ドラマ出演のため出られず、勝新太郎、若山富三郎、菅原文太、三浦友和...と"口説いて"、結局、坂本龍一とビートたけしになったとのことです。坂本龍一は勿論、ビートたけしも当時は役者としてのキャリアは殆ど無く(監督としても、デビュー作「その男、凶暴につき」を撮るのは6年後)、大島渚監督の前で硬くなっている感さえあり、その点、デヴィッド・ボウイの演技面は貫禄充分でした(但し、個人的には、この作品にあまり合っているように思えない)。

 それにしてもデヴィッド・ボウイは、アメリカ、西ドイツ、イギリス、日本と、様々な国の監督のもとで映画に出演してるなあ。

ハンガー dvd.jpgハンガー パンフ.jpg    戦場のメリークリスマス dvd.jpg戦場のメリークリスマス パン.jpg 戦場のメリークリスマス 6.jpg 
ハンガー [DVD]」パンフレット 「戦場のメリークリスマス [DVD]」/パンフレット

「地球に落ちて来た男」●原題:THE MAN WHO FELL TO EARTH●制作年:1976年●制作国:アメリカ●監督:ニコラス・ローグ●製作:マイケル・ディーリー/バリー・スパイキングス●脚本:ポール・メイヤーズバーグ●撮影: アンソニー・B・リッチモンド●音楽:ジョン・フィリップス●原作:ウォルター・テヴィス●時中野武蔵野ホール.jpg間:119分●出演:デヴィッド・ボウイ/キャンディ・クラーク/リップ・トーン/バック・ヘンリー/バーニー・ケイシー●日本公開:1977/02●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:中野武蔵野館 (78-02-24)●2回目:中野武蔵野館 (78-02-24)●3回目:三鷹オスカー(86-07-06)(評価:★★★★)●併映(1回目):「魚が出てきた日」(ミカエル・カコヤニス)併映(2回目):「ハンガー」(トニー・スコット)/「ジギー・スターダスト」(D・A・ペネベイカー) 中野武蔵野館 (後に中野武蔵野ホール) 2004(平成16)年5月7日閉館 

david-bowie-1973.jpgZIGGY STARDUST movie.jpg「ジギー・スターダスト」●原題:ZIGGY STARDUST●制作年:1973年●制作国:イギリス●監督:ドン・アラン・ペネベイカー●撮影:ジェームズ・デズモンド/マイク・デイヴィス/ニック・ドーブ/ランディ・フランケン/ドン・アラン・ペネベーカー●音楽:デヴィッド・ボウイ●衣装デザイン:フレディ・パレッティ/山本寛斎●時間:90分●出演:デヴィッド・ボウイ/リンゴ・スター(ノンクレジット)●日本公開:1984/12●配給:ケイブルホーグ●最初に観た場所:三鷹オスカー(86-07-06)(評価:★★★)●併映:「地球に落ちて来た男」(ニコラス・ローグ)/「ハンガー」(トニー・スコット)

クリスチーネ・Fes.jpg「クリスチーネ・F」●原題:CHRISTINE F●制作年:1981年●制作国:西ドイツ●監督:ウルリッヒ・エーデル●製作:ベルント・アイヒンガー●脚本:ヘルマン・ヴァイゲル/カイ・ヘルマン/ホルスト・リーク●撮影:ユストゥス・パンカウ●音楽:ユルゲン・クニーパー/デヴィッド・ボウイ●原作:クリスチアーネ・ヴェラ・フェルシェリノヴ「かなしみのクリスチアーネ(われらツォー駅の子供たち)」●時間:138分●出演:ウルリッヒ・エーデル/ナーチャ・ブルンクホルスト/トーマス・ハウシュタイン/イェンス・クーパル/ヘルマン・ヴァイゲル/デヴィッド・ボウイ●日本公開:1982/06●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:荻窪オデヲン座(82-12-11)(評価:★★★☆)●併映:「グローイング・アップ ラスト・バージン荻窪オデオン座 - 2.jpg荻窪駅付近.jpg荻窪オデヲン.jpg荻窪東亜会館.jpg」(ボアズ・デビッドソン)
荻窪オデヲン座・荻窪劇場 1972年7月、荻窪駅西口北「荻窪東亜会館」B1にオープン。1991(平成3)年4月7日閉館。(パンフレット「世にも怪奇な物語
菅野 正 写真展 「平成ラストショー hp」より

三鷹オスカー  復活.jpg三鷹オスカー2.jpg「ハンガー」●原題:THE HUNGER●制作年:1983年●制作国:イギリス●監督:トニー・スコット●製作:リチャード・シェファード●脚本:ジェームズ・コスティガン/アイヴァン・デイヴィス/マイケル・トーマス●撮影:スティーヴン・ゴールドブラット●音楽:デニー・ジャガー/デヴィッド・ローソン/ミシェル・ルビーニ●時間:119分●出演:カトリーヌ・ドヌーヴ/デヴィッド・ボウイ/スーザン・サランドン/クリフ・デ・ヤング/ダン・ヘダヤ/ウィレム・デフォー●日本公開:1984/04●配給:MGM●最初に観た場所:三鷹オスカー (86-07-06)(評価:★★★)●併映:「地球に落ちて来た男」(ニコラス・ローグ)/「ジギー・スターダスト」(D・A・ペネベイカー)

戦場のメリークリスマスsen-mer2.jpg戦場のメリークリスマスド.jpg「戦場のメリークリスマス」●制作年:1983年●制作国:日本・イギリス・オーストラリア・ニュージーランド●監督:大島渚●製作:ジェレミー・トーマス●脚本:大島渚/ポール・メイヤーズバーグ●撮影:杉村博章●音楽:坂本龍一●原作:ローレンス・ヴァン・デル・ポスト「影さす牢格子」「種子と蒔く者」●時間:123分●出演:デヴィッド・ボウイ/坂本龍一/ビートたけし/松竹セントラル123.jpg松竹セントラル123.jpg松竹セントラル.jpgトム・コンティ/ジャック・トンプソン/内田裕也/三上寛/ジョニー大倉/室田日出男/戸浦六宏/金田龍之介/内藤剛志/三上博史/本間優二/石倉民雄/飯島松竹セントトラル 銀座ロキシー.jpg松竹セントラル 閉館のお知らせ(1999年).jpg大介/アリステア・ブラウニング/ジェイムズ・マルコム●日本公開:1983/05●配給:松竹富士=日本ヘラルド●最初に観た場所:銀座・松竹セントラル(83-06-04)(評価:★★★)
松竹セントラル・銀座松竹・銀座ロキシ-(→松竹セントラル1・2・3) 1952年9月、築地・松竹会館にオープン。1999年2月11日松竹セントラル1・2・3閉館。

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もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法がシュルレアリズムだったということか。

ユビュ王1.jpg       アルフレッド・ジャリ 戯曲ユビュ王.jpg  ユビュ王.jpg  アルフレッド・ジャリ.jpg Alfred Jarry
ユビュ王―Comic』('98年/青土社)/『ユビュ王―戯曲 (1965年)』/『ユビュ王 (1970年)

ubu.gif ユビュ親父はユビュおっ母に唆され、ボルデュール大尉と結託し王を暗殺、王冠を手に入れたユビュ親父は、貴族たちを次々と処刑して、桁外れな税金を徴収し、ボルデュール大尉を投獄するが、ボルデュールは脱獄、亡き王の従兄ロシア皇帝と共に、ブーグルラス王子(王家の生き残り)即位のために挙兵する。すぐさまユビュ親父も兵を挙げ戦場へ向かった思いきや、一人そそくさと戦場から逃げ出し、洞窟へ逃れる。ユビュおっ母も後を追って洞窟へ。そこへ兵を連れたブーグルラスが襲いかかり、ユビュ親父は、また逃げていく―。
King Ubu by Alfred Jarry, Marionetteatern 1964 Direction: Michael Meschke(Germany)

 1896年12月にパリ「制作座」で初演された、アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873-1907/享年34)の戯曲で(原題:Ubu-Roi)、もともとは政治劇などによく見られる人形劇だったとのことですが、「制作座」では人間(ちゃんとした役者)が演じて、観客の間にも批評家の間にも混乱と賛否両論の渦を引き起こしたとのことです(その後も今に至るまで、役者が着ぐるみを着て演技するパターンが続いている)。

悪魔の涎・追い求める男.jpgユビュ王2.jpg 個人的には、最近読んで面白かったアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914-1984)が、最も影響を受けた作家がジャリであるとのことで、久しぶりの再読(但し、今回はコミック版)。 
 最初に読んだのは学生時代で、竹内健訳の現代思潮社版('65年初版、'70年新装版、2013年改版)、'70年版の装丁は赤瀬川原平氏。ジャリ自身の描いたイラストもありましたが、本書は、フランツィシュカ・テマソン(1907-1988)という、生涯にわたってこの作品に関わり続けた英国の女流画家によるコミック版です。ちょっとピカソ風の画風で(ピカソ自身もこの戯曲をモチーフとしたイラストを残している)、この戯曲のシュールな雰囲気をよく伝えています。

 この作品のラストシーンは、船の甲板の上で、そこには、次の目的地へ向かうユビュ夫妻とその一味の姿があり、「もしもポーランドがなければポーランド人があるまい!」というユビュ親父の言葉に象徴されるように、アナーキズムが作品の根底にあるわけですが、20世紀になってアンドレ・ブルトン(1896-1966)らによって再評価されたように、シュルレアリズムの先駆と看做されている面の方が強いのではないでしょうか。

 コミック版の訳者・宮川明子氏による解説は、こうした経緯並びにジャリの生涯について詳しく書かれていて、ジャリ自身が自らをユビュ親父と(裏返し的に)同一視していたことが(又は、そう振舞っていたことが)わかり、興味深いものでした。

ジャリ.jpg ジャリは、自然と自転車とフェンシングを愛した野生児であったものの、貧困とアルコール中毒のため34歳で亡くなっていますが、宮川氏の解説では、後段はジャリ自身のことを「ユビュ親父」と呼んでいます。

 この作品そのものは、ストーリーは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純、ユビュ親父やユビュおっ母の奇怪な行動と、合間に挿入される強烈にギャク的な台詞などから、ドタバタ劇という印象を受けなくもありません。

 最近の上演に関しては、役者が観客席に入り込み、効果音のための小道具を配ったり、ユビュ王が貴族を放逐する場面では、観客を場外へ追い出したりして(そこで休憩になる)、「ロッキー・ホラー・ショー」的な、観客参加型の演劇として上演されているようです。

 もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法が(後世に言うところの)シュルレアリズムだったということなのでしょうが、う~ん、シュルレアリズムって解らない、解らないからシュルレアリズムなのか。 

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コルタサルの「悪魔の涎」に想を得た作品。ポップな背景のもと、人間の孤独と疎外を描く。

blow-up-pt.jpg欲望 パンフ.jpg 欲望 ポスター.jpg 欲望.jpg from Blow-Up.jpg 「欲望」パンフレット/「欲望」ポスター 「欲望 [DVD]」 デヴィッド・ヘミングス/ヴェルーシュカ

 ファッション・カメラマンのトーマス(デヴィッド・ヘミングズ)が、公園で隠し撮りしたカップルの写真を自宅のラボで現像してみると、そこには偶然、殺人者と死体が小さく写っていた。現場に戻ると確かに死体があり、この事実を共有しようと友人を訪ねている間に、写真も死体も消えてしまう―。

 イタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニ(1912‐2007)が、海外(英国)で初めて撮った作品で、カンヌ国際映画祭グランプリ(現在の最高賞悪魔の涎・追い求める男.jpgパルム・ドールに該当)、全米映画批評家協会賞作品賞受賞作。アルゼンチンの作家のフリオ・コルタサル(1914‐1984)の幻想短篇小説「悪魔の涎」に触発されてこの映画を作ったとのことです。コルタサルは作家生活の殆どをフランスで過ごした作家であり、但し、その作品は母国語であるスペイン語で書かれていて―となると、何だか作品の背景は、伊・英・仏・南米と入り混じっていて、素地としては結構インターナショナルであるということになります。

欲望8.jpgBlow-Up2.jpg 但し、映画のトーンは、それまでのアントニオーニ作品とはうって変わってほぼ完全にブリティッシュ調で、「スウィンギング・ロンドン」と言われた当時のロンドンのポップな風潮を反映しており(郷に入れば郷に従え?)、当時としては最先端モードのファッションなども盛り込みヴェルーシュカ 欲望.jpg(さらに当時世界最高の欲望 ジェフ・ベック.jpg欲望 ジミー・ペイジ.jpgスーパーモデルと言われたヴェルーシュカを起用するなどして)、今観るとモダンなレトロ感が溢れています。また、音楽はハービー・ハンコックが担当し、ジェフ・ベックとジミー・ペイジがダブルリードとして加っていた当時の「ヤードバーズ」のライブシーンなどの貴重映像もあります(ジミー・ペイジにとってはレッド・ツェッペリン結成の前年に当たる)。

ジェフ・ベック/ジミー・ペイジ

ヴェルーシュカ(身長190cm)

欲望07.jpg 原作(と言えるかどうか)「悪魔の涎」の舞台はパリで、映画の舞台はロンドン、原作の主人公は翻訳家(コルタサル自身がモデルか)で写真は「趣味」ということなのに対し、映画では「プロ」写真家ですが、写真に撮られたカップルの片割れの女性が、主人公に気づいてフィルムをよこすよう迫るのを主人公が拒絶し、自分で写真を大判に現像してみるところなどは、原作も映画も共通しています。

 原作の方は、主人公が自分で引き延ばした写真の中の女性が動き出して、彼を脅かし始めるという、現実の非現実の混在したコルタサルならではの幻想的な作りになっていますが、映画では、撮欲望 dvd.jpgヴァネッサ・レッドグレイブ.jpgられた女(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)が彼のもとを訪れ、ヌードモデルになることと交換条件でフィルムをよこすよう要求したため、カメラマンはその話の乗ったフリして、愉しむだけ愉しんで偽フィルムを彼女に渡し、後で不審に思って写真を引き伸ばし(Blow Up)てみると、そこに殺人の現場と思われる場面が写っていたという展開。
Vanessa Redgrave
ヴァネッサ・レッドグレーヴ -02.jpg こう書くと完全に推理小説仕立てのようですが、主人公のカメラマンはこの事件情報を仲間や世間の人々に伝えようとするものの、誰も彼の話に関心を示すものは無く、不条理かつ人間疎外的な世界を照射したようなシークエンスの連続の中をひたすら彷徨するという流れになっていて、ミステリとして完結するわけではなく、こうした点はいかにもアントニオーニらしいなあと思わされます(「情事」('60年)なども、冒頭に女性が行方不明になり、どこへ消えたのか皆が探すが、いつの間にか途中から、そうしたミステリ的要素はどこかにいってしまう)。

BLOW-UP 1967  .jpg 顔を白塗りした若者のグループがテニスコートに現れ、ボールもラケットも持たずに黙ってプレイを始め、観客達はありもしないボールを眼で追うといった非リアル且つ抽象的なシーンが多く、今だとちょっとベタかなあという気もしますが、このカメラマン、結構売れっ子で若い女性達とよろしくやっているけれども、実は孤独なんだということは伝わる―こうした一見華やかな職業人を通して、人間の孤独や疎外を象徴的に普遍化する切り口は旨いと思いました。

バーキン.jpgBlowup.jpg 主人公のカメラマンがモデル達と裸になってふざけ合う場面に、無名時代のジェーン・バーキン(Jane Birkin)が出ていて、18歳で出演した「ナック」('65年)は、映画そのものは日本でも話題になりましたが、彼女自身はまだそんな有名ではなかったです(この映画でも、どちらか言うと、金髪のバーキンより茶髪のジリアン・ヒルズ(Gillian Hills)の方が日本人受けしたのではないか)。

ジェーン・バーキンx.jpg ジェーン・バーキンは1946年12月14日ロンドン生まれで17歳の時グレアム・グリーンの戯曲「彫刻の像」で初ステージを踏み、この作品撮影当時は19美しき諍い女  ジェーン・バーキン.jpg歳。この映画に出た翌年にフランスに渡ってセルジュ・ゲンズブールと結婚し、「ナイル殺人事件」('78年/英)や「地中海殺人事件」('82年/英)にも出ていましたが、個人的に映画で観たのは「美しき諍い女(いさかいめ)」('91年/仏)が最後で、今は人道支援活動をしたり、娘のシャルロット・ゲンズブールのステージママ的存在でもあるようです。

ミシェル・ピコリ/ジェーン・バーキン in「美しき諍い女」(1991)

blow-up.bmp blow-up3.jpg  Jane Birkin.jpg

yokubou.jpg   「欲望」●原題:BLOW-UP●制作年:1967年●制作国:イギリス/イタリア●監督:ミケランジェロ・アントニオーニ●製作:カルロ・ポンティ●脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ/トニーノ・グエッラ/エドワード・ボンド●撮影:カルロ・ディ・パルマ●音楽:ハービー・ハンコック●原作:フリオ・コルタサル「悪魔の涎」●時間:111分●出演:デヴィッド・ヘミングス/ヴァネッサ・レッドグレイヴ/サラ・マイルズ/ジェーン・バーキン/ジリアン・ヒルズ/ヤードバーズ(ジミー・ペイジ(ベース)/ジェフ・ベック(ギター)/キース・レルフ(ボーサラ・マイルズ.jpgカル、ハープ)/ジム・マッカーティ(ドラムス)/クリス・ドレヤ(ギター)/ヴェルーシュカ・フォン・レーエンドルフ●日本公開:1967/06●配給:MGM●最初に観た場所:新宿アートビレッジ(79-02-03)(評価:★★★★☆)●併映「さすらい」(ミケランジェロ・アントニオーニ)

サラ・マイルズ

ジェーン・バーキン(Jane Birkin)
ジェーン・バーキン3.jpg ジェーン・バーキン2.jpg ジェーン・バーキン.jpg

《読書MEMO》
ヴェルーシュカ(Veruschka、2017、age78)
ヴェルーシュカ 78.jpg

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現実と非現実が入り混じった幻想的な作風の短編集。「正午の島」が良かった。

『悪魔の涎・追い求める男』.JPG悪魔の涎・追い求める男.jpg  フリオ・コルタサル.jpg Julio Cortázar、1914-1984
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集.jpg 『石蹴り遊び』『遊戯の終わり』などの作品で知られるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(Julio Cortázar、1914-1984)の短編集で、表題作2編は、1959年刊行の『秘密の武器』からの抜粋であるなど、作家の幾つかの短編集から訳者が10編を抽出して編んだものですが、どれも面白かったです。

 30歳代後半からパリに移住し、作家人生をフランスで全うしているので、作品もフランスが舞台になっているものが多く、やや他のラテンアメリカの作家とは毛色が異なる気もしますが、原著はスペイン語で書かれているため、"ラテンアメリカ文学"作家ということになるのでしょう。

 若い頃はエドガー・アラン・ポーに耽溺し、作家生活の初期にフランス文学に傾倒してフランスへの憧憬を抱きフランスに渡ったとのことですが、自らのエッセイでアルフレッド・ジャリのシュールレアリズムに影響を受けたと書いているように、現実と非現実が入り混じった幻想的な作風がこの短編集でも窺え、個人的には、安部公房、星新一、筒井康隆など日本の作家の作品を想起させるようなものもありました。個々に見ていくと―。

「続いている公園」 僅か2ページの短編。小説を読んでいる男がいつの間にか小説の中に...。アラン・ポー的、と言うより、このブラック・ユーモアは、むしろ星新一のショートショートみたいかなあ。

「パリにいる若い女性に宛てた手紙」 間歇的に口から子兎を吐き出すという奇病のため、女性から借りたアパート部屋が兎だらけになってしまうという、シュール極まりない男の話。安部公房みたいかなあ。だらだら手紙など書いていないで、早く病院に行った方がいい?

「占拠された屋敷」 兄妹の暮らす家が徐々に得体の知れない何者かに占拠され、仕舞いには2人は自分たちの家を追い出されてしまうという...。カフカ的な不条理の世界で、筒井康隆の作品にもありそうな...(筒井康隆の初期作品に「二元論の家」というのがあった)。コルタサルのこの作品の日本での初出は、早川「ミステリマガジン」1989年7月号。

「夜,あおむけにされて」 オートバイ事故に遭った男の、夢と現実の入り混じった臨死体験的な意識の流れ。すでにこの男が死んでいるとすれば、吉村昭の「少女架刑」だなあ、これは。

blowup3.jpg欲望 パンフ.jpg「悪魔の涎」 公園でふとしたことから男女を盗み撮りした男は、その写真の世界へ引きずり込まれる...。この作品は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」('66年/英・伊)の原作として有名ですが、ラストは、ジョエル・コーエン監督の「バートン・フィンク」('91年/米)と雰囲気的に似ているかも。「悪魔の涎」とは、ゴッサマー(晴れた秋の日などに空中を浮遊する蜘蛛の糸)のことです。

映画「欲望」('66年)

「追い求める男」 才能がありながらも薬物に耽溺し破滅に向かうサックス奏者(チャーリー・パーカーがモデルのようだ)を、ジャズ評論家で、彼の伝記作家でもある男の眼から、作家自身と対比的に描いた作品で、他の作品と異なり、オーソドックスな文芸中編であると同時に、ある種の「芸術家論」かなあ。

La autopista del sur.jpgLa autopista del sur,200_.jpg世界文学全集 第3集.jpg「南部高速道路」 高速道路で渋滞がずっと何カ月も解消しなかったらどうなるか。そこにやがて原始コミュニティのようなものが発生して...。ガルシア=マルケスに、「1958年6月6日、干上がったカラカス」という、乾季がずっと続いたらどうなるかという記事風の作品があったのを想起しました。因みにこの作品は、作家・池澤夏樹氏による個人編集の「短篇コレクションI―世界文学全集第3集」に収められている南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇の冒頭にきています。
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

飛行機から見た南の島.jpg「正午の島」 スチュワードの男は、いつも飛行機から正午に見えるある島に何故か執着し、ついに休暇を取ってその島を訪れ、仕事を辞めてその島に住んでもいいと思う。そして、その計画を実行に移し、島の生活にも慣れたところへいつもの飛行機が...。ラテンアメリカ文学らしくないと言えばそうとも言え、ラテンアメリカ文学らしいと言えばそうとも言える(ドッペルゲンガーも魔術的リアリズムの系譜?)、賛否割れそうな作品ですが、個人的にはこの短編集の中では一番面白かったです。解釈は自由ですが、アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」(ロべール・アンリコ監督の「ふくろうの河」の原作)みたいに、男が死ぬ直前に見た夢のようなものだと解するのがスジなのでしょう。(この作品のPhilippe Prouff 監督による映画化作品"L'île à midi(La isla a mediodía、The Island at Noon)"(2014、38min)が2015年にフランスで公開された。)

「ジョン・ハウエルへの指示」 演劇を観に来た評論家の男は、なぜかその劇の舞台に立たされ、ジョン・ハウエルという男の役をさせられる羽目に。そのうち半分以上ハウエルになり切ってしまい、人格分裂みたいな状況に...。
 シュールな悲喜劇ですが、人生ってこんな要素もあるかもと思わせる作品。

「すべての火は火」 ローマ時代と現代の2つの物語が並行し、やがて2つの話が、電話が混線するように、時空を超えて混ざり合っていく短編。筒井康隆みたい。

 ボルヘスと並んで、ラテンアメリカ文学における短篇の名手とされているようですが、どちらも幻想的かつ実験的な作品が多いという点では共通しており、ボルヘス作品が、加えて"高邁的(時に無意味に高踏的)"だとすると、コルタサルは、加えて"エンタテインメント的"であるように思いました。

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