【1314】 ◎ ジョー・オダネル(写真)/ジェニファー・オルドリッチ(聞き書き) 『トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』 (1995/05 小学館) ★★★★☆

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写真集が出来上がった経緯に感動。「聞き書き」者の果たした役割も大きい。

トランクの中の日本.jpg『トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』.jpgJoe O'Donnell.jpg J. O'Donnell(1922‐2007)
トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』['95年](26.8 x 23.4 x 2.2 cm)

焼き場に立つ少年.jpg ジョー・オダネル(1922‐2007/享年85)は、ホワイトハウスのカメラマンとして、トルーマンからジョンソンまで4代にわたる大統領の元で写真を撮ジョー・オダネル.jpg影し、暗殺されたケネディの棺の前でケネディ・ジュニアが敬礼する写真は世界中に配信されました。そこから遡ること18年、第二次世界大戦での日本敗戦直後の1945年9月、彼は占領軍の海兵隊のカメラマン(米国空爆調査団公式カメラマン)として佐世保に上陸し、約7ヵ月間、長崎や広島を歩き、日本と日本人の惨状をフィルムに収めることになります。

 本書はその写真集であり、ジョー・オダネルのことは、'05年2月にTBSで「原爆の夏 遠い日の少年」として放映され(ATP賞総務大臣賞、日本民間放送連盟賞テレビ報道部門賞、平成16年度文化庁芸術祭テレビ部門優秀賞受賞)、更に没後の'08年8月にNHKスペシャルで「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」とNHKスペシャル「解かれた封印 ~米軍カメラマン.jpg「解かれた封印〜米軍カメラマ2.jpgして放映されていますが(第35回放送文化基金賞(テレビドキュメンタリー番組部門)、ヒューゴ・テレビ賞ドキュメンタリー(歴史・伝記)部門金賞受賞)、彼の撮った写真で最も有名な、幼い弟を荼毘に付す順番を待つ少年をの写真「焼き場に立つ少年」(オリジナルのキャプションは「焼き場にて、長崎」)などは、軍には内密に私用のカメラで撮られたものです。

 ジョー・オダネルは本国に帰国後、それまで敵国として捉えていた日本及び日本人に対する自らのイメージの変容に戸惑い、また爆心地で目の当たりにした光景の悲惨な記憶に耐えかね、これらのネガフィルムや記録メモを自らトランクの中に封印する一方、爆心地を歩き回ったことによる被爆後遺症に悩まされ続けますが、ジェニファー・オルドリッチ(本書の「聞き書き」者)との出会いにより、戦後半世紀近く経てその封印を解き、'90年にアメリカで、92年に日本で写真展を開きます。

ジョー・オダネル1.jpg ジェニファー・オルドリッチの聞き書きを読むと、オダネルは、最初から従軍カメラマンとして赴任したのではなく、海兵隊に配属になってから「撮影」という任務を与えられたようです。最初は意気揚々と佐世保に上陸し、焼夷弾で焼け野原となった佐世保市内を見てショックを受けるものの、これで長崎・広島を取材するにあたっての"免疫"が出来たと思い、むしろ日本の文化に関心を示して、市井の日本人と交流しつつ、その生活ぶりなどを撮っていますが、その後で実際に長崎・広島に入り、原爆が投下されて間もない両市街地のあまりの惨状に、佐世保市内を見て身についたと思われた"免疫"は全くの無力だったという思いがしたとのことで、長崎・広島を見た彼の受けた衝撃の大きさがよく伝わってきます。

J. O'Donnell

 結局、戦後数十年、彼は当時の記憶を封印してはいましたが(任務とは別に密かに撮った写真であるということもあるし、それ以上に、こうした写真を公開することがアメリカ国民の一般的感情を逆撫ですることは必至であると容易に予想できたということがあるのではないか)、しかし、彼自身何の記憶も忘れ去ることは出来ずにいて、それを引き出すことによって彼を心理的に解放したのがジェニファー・オルドリッチだったとも言えます。  

 本書が出来上がるに際してジェニファーの果たした役割も大きいと思われ、戦場写真家として有名な人は多くいますが、2人の共同作業であるこの写真集が訴えかけるものの大きさという点では、それらに勝るとも劣るものではなく、また、オダネル自身もその後は平和運動家として活動しながら、日本も訪れてこの写真集に写っている人たちの何人かと再会しています。

Japan 1945  .jpg ジェニファーによる状況再現が胸を打つ「焼き場に立つ少年」の、その被写体となった少年との再会は果たせませんでしたが、少年のその後も気がかりながら、この写真が'95年のスミソニアンでの展示企画から外されて以来(長崎市に寄贈されて長崎原爆資料館に展示されている)、彼の仕事がどれぐらい米国など諸外国で知られているのかが気になります。

 米国での彼の原爆写真集の公式刊行は'08年になってからで、"Japan 1945: A U.s. Marine's Photographs from Ground Zero"というタイトルからも窺えるように、9.11同時多発テロが刊行の契機になっており、表紙には、(衝撃を緩和するためか)"生きている"幼子を背負った少年の写真が使われています。
Japan 1945: A U.s. Marine's Photographs from Ground Zero

《読書MEMO》
●本書「焼き場にて、長崎」のコメント(インタビュー・文:ジェニファー・オルドリッチ)
 (前略) 焼き場に一〇歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?

●TBS「原爆の夏 遠い日の少年」でのコメント(『写真が語る20世紀 目撃者』('99年/朝日新聞社)より抜粋(インタビュー・文:上田勢子))
 佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか?白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました...。

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