2010年2月 Archives

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面白かった。作者が読者に対して仕掛けた読み方の「罠」が感じられた。

悪人  吉田修一.jpg 悪人 吉田修一.jpg 吉田 修一 『悪人』 上.jpg 吉田 修一 『悪人』下.jpg 映画 「悪人」3.jpg
悪人』['07年]『悪人(上) (朝日文庫)』『悪人(下) (朝日文庫)』['09年] 映画「悪人」['10年]

 2007(平成19)年・第61回「毎日出版文化賞」(文学・芸術部門)並びに2007(平成19)年・第34回「大佛次郎賞」受賞作。

 保険外交員の女性・石橋佳乃が殺害され、事件当初、捜査線上に浮かび上がったのは、地元の裕福な大学生・増尾圭吾だったが、拘束された増尾の供述と、新たな目撃者の証言から、容疑の焦点は一人の男・清水裕一へと絞られる。その男は別の女性・馬込光代を連れ、逃避行を続けている。なぜ、事件は起きたのか? なぜ2人は逃げ続けるか?

 出版社の知人が本書を推薦していたのですが、書評などを読むと、これまでの作者の作品と同様に、人と人の「距離」の問題がテーマになっているということを聞き、マンネリかなと一時敬遠していたものの、読んでみたら今まで読んだ作者の作品よりずっと面白かったし、それだけでなく、作者が読者に対して仕掛けたトラップ(罠)のようなものが感じられたのが興味深かったです。

 最初は、あれっ、これ「ミステリ」なのという感じで、芥川賞作家がミステリ作家に完全に転身したのかと。ところが、真犯人はあっさり割れて、今度は、その清水裕一と馬込光代という心に翳を持つ者同士の「純愛」逃避行になってきて、最後は、裕一が光代をあたかも"犠牲的精神"の発露の如く庇っているように見えるので、これ、「感動的な純愛」小説として読んだ人もいたかも。

 自分としては、清水祐一は「純愛」を通したというより、「どちらもが被害者にはなれない」という自らの透徹した洞察に基づいて行動したように思え、そこに、作者の「悪人とは誰なのか」というテーマ、言い換えれば、「誰かが悪人にならなければならない」という弁解を差し挟む余地の無い"世間の掟"が在ることが暗示されているように思いました。

 馬込光代の事件後の熱から覚めたような心境の変化は、彼女自身も「世間」に取り込まれてしまうタイプの1人であることを示しており、それは、周囲の見栄を気にして清水裕一を「裏切り」、増尾圭吾に乗り換えようとした石橋佳乃にとっての「世間」にも繋がるように思えました(作者自身は、「王様のブランチ」に出演した時、石橋佳乃を「自分の好きなキャラクター」だと言っていた)。

 そうして見れば、増尾圭吾が憎々しげに描かれていて(石橋佳乃の父親が読者の心情を代弁をしてみせて、読み手の感情にドライブをかけている)、清水祐一が彼に読者の同情が集まるように描かれているのも(母親に置き去りにされたという体験は確かに読み手の同情をそそる)、作者の計算の内であると思えます。

 これをもって、本当に悪いのは増尾圭吾のような奴で、清水祐一は可哀想な人となると、これはこれで、作者の仕掛けた「罠」に陥ったことなるのではないかと。
 石橋佳乃の「裏切り」も、その父親の「復讐感情」も、清水祐一の過去の体験による「トラウマ」も、注意して読めば、今まで多くの小説で描かれたステレオタイプであり、作者は、敢えてそういう風な描き方をしているように思いました。

 そうした「罠」の極めつけが、清水裕一と馬込光代の「純愛」で、これも絶対的なものではなく(本書のテーマでもなく)、ラストにある通り、最終的には相対化されるものですが、それを過程においてロマンスとして描くのではなく、侘びしくリアルに描くことで、読み手自身の脳内で「純愛」への"昇華"作業をさせておいて、最後でドーンと落としているという感じがしました。

 時間的経過の中で、人間同士の結ぼれや相反など全ての行為は相対化されるのかも知れない、但し、「世間」はその場においては絶対的な「悪人」を求めて止まないし、同じことが、「純愛」を求めて読む読者にも、まるで裏返したように当て嵌まるのかも知れないという印象を抱きました。

悪人 スタンダード・エディション [DVD]
映画 「悪人」dvd.jpg映画 「悪人」1.jpg(●2010年9月に「フラガール」('06年)の李相日(リ・サンイル)監督、妻夫木聡、深津絵里主演で映画化された。第84回キネマ旬報ベスト・テンの日本映画ベスト・ワンに選ばれ、第34回日本アカデミー賞では、最優秀主演男優賞(妻夫木聡)、最優秀主演女優賞(深津絵里)、最優秀助演男優賞(柄本明)、最優秀助演女優賞(樹木希林)、最優秀音楽賞(久石譲)を受賞。海外では、深津絵里が第34回モントリオール世界映画祭の最優秀女優賞を受賞している。原作者と監督の共同脚本だが、意識的に前半をカットして、事件が起きる直前から話は始まり、尚且つ、回想シーンをできるだけ排除したとのこと。その結果、祐一(妻夫木聡)が一緒に暮らそうとアパートまで借りた馴染みのヘルス嬢の金子美保や、石橋佳乃(満島ひかり)の素人売春相手の中年の塾講師である林完治などは出てこない。そうしたことも含め、主要登場人物のバックグラウンドの描写が割愛されている印象を受けた。加えて、光代を演じた深津絵里と、佳乃を演じた満島ひか映画 「悪人」満島.jpg映画 「悪人」柄本.jpgりの二人の演技派女優の演技の狭間で、主人公である妻夫木聡が演じる祐一の存在が霞んだ。さらに後半、柄本明が演じる佳乃の父や樹木希林が演じる祐一の祖母が原作以上にクローズアップされたため、祐一の影がますます弱くなった。原作者映画 「悪人」4.jpgはインタビューで「やっぱり樹木さん、柄本さんのシーンは画として強かったと思いますね。シナリオも最初は祐一と光代が中心でしたが、最終的に、樹木さんのおばあちゃんと、柄本さんのお父さんが入ってきて、全体に占める割合が大きくなったんですよね。あれは、僕らが最初に考えていたときよりも分量的にはかなり増えていて、自分たちでは逆に上手くいったと思っているんです」と語っている。この作品の主人公は祐一なのである。本当にそれでいいのだろうか。李相日監督は6年後、同作者原作の「怒り」('16年/東宝)も監督することになる。

李相日監督/深津絵里/妻夫木聡   深津絵里(モントリオール世界映画祭「最優秀女優賞」受賞)   
深津絵里(第34回モントリオール世界映画祭最優秀女優賞).jpg深津絵里 モントリオール世界映画祭最優秀女優賞1.jpg「悪人」●制作年:2010年●監督:李相日(リ・サンイル)●製作:島谷能成/服部洋/町田智子/北川直樹/宮路敬久/堀義貴/畠中達郎/喜多埜裕明/大宮敏靖/宇留間和基●脚本:吉田修一/李相日●撮影:笠松則通●音楽:久石譲●原作:吉田修一●時間:139分●出演:妻夫木聡/深津絵里/岡田将生/光石研/満島ひかり/樹木希林/柄本明●公開:2010/09●配給:東宝(評価:★★★☆)

朝日文庫「悪人」新装版.jpg映画 悪人ド.jpg 【2009年文庫化[朝日文庫(上・下)]/2018年文庫新装版[朝日文庫(全一冊)]】 
         
悪人 新装版 (朝日文庫)』新装版(全一冊)['18年]

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「●「山本周五郎賞」受賞作」の インデックッスへ

巧みに予想を裏切ってくれたが、本当の「恐ろしさ」はどこにあったのかが曖昧な部分も。

パレード 吉田修一.jpg 『パレード』 ['02年] パレード 吉田修一 文庫.jpg 『パレード (幻冬舎文庫)』 ['04年]

2010年映画化(監督:行定勲)
パレード 映画.jpg 2002(平成14)年・第15回「山本周五郎賞」受賞作。

 都内の2LDKのマンションで共同生活を送る4人の男女(21歳の長崎出身の大学生の良介、23歳の無職の琴美、24歳のイラストレーター兼雑貨屋店長の未来、28歳の独立系映画配給会社勤務で夜のマラソンが日課の直輝)のもとに、18歳の職業不詳の少年サトルが転がり込んでくることで、彼らの生活は徐々に変調をきたす―。

 良介、琴美、未来、サトル、直輝の順にそれぞれの独白体で話が語り継がれ、なぜ彼らが共同生活を営むようになったかが明らかにされるとともに、最後に「恐ろしい」事件&事実が明らかになるというミステリ的要素もある作品ですが、この「恐ろしさ」はホラー・ミステリの「恐ろしさ」ではないでしょう。ホラー・ミステリだとすると、それまでの描写に伏線と言えるものは殆ど無いし...。

 今風の若者達の生態が軽い巧みなタッチで描かれていて、その中に恋人紹介シーンなどがあったりし、高橋留美子の『めぞん一刻』(ちょっと旧いが)を思い出したりさえしたぐらい。殆ど事件らしい事件もなく事が進んでいくのはこの作者の特徴なのかなと思いましたが、そうした中、何かコトを起こすとすれば、実は男娼だったというサトルかなと思ったら、最後に「見事に」と言うか「巧みに」予想を裏切ってくれて、道理で語り手の順番が登場順になっていなかったと。

 現代社会の「恐ろしさ」を描いたと言うよりは、若者の風俗・気質の描写と意表を突くラストとの組み合わせで、全体としてエンタテインメントになっているという感じがしますが、それぞれを切り離してみると、途中までは共同生活を営む若者達の互いの距離の持ち方を描いたテレビドラマの脚本を読んでいるようでもあるし、一方、最後の事件などもそれ自体は映画などで使い古されたパターンであり、共にやや浅薄な印象を受けなくもありませんでした。

 やや深読みしてこの作品に本当の「恐ろしさ」を見出すとすれば、少なくともサトルという少年は直輝に関する事実を知っていたということで、それでいながらこのマンションから離れて暮らそうと思わなかったという点かも。

 サトルの独白ではそのことに触れられておらず、そうした意味での"伏線"が無いと言うか、彼は話すべきことを話していないと言うか(直輝に対する印象としては全く逆のことが書かれている)、"独白"で隠し事するかなあと。

 それではどの時点で何を契機にサトルはその事実に気づいたのか、更には、あとの3人はどうだったのだろうかという疑問も残り、この点はサトルの「未来さんも、良介くんも、琴ちゃんも知ってんじゃないの。よく分んないのよ」という言葉でボカされ、「お互いにそのことについて、ちゃんと話したわけじゃないから」で片付けられているのが、ある意味、そうしたことへの無頓着が恐いといえば恐いのかも知れませんが、物足りないと言えば物足りないような。

 多くの評者がこうした点をさほど論じないでこの作品を褒めそやすのは、この作品が純文学なのかエンタテインメントなのか、ミステリなのか単なるホラーなのか焦点を定めにくいということもあるためではないかという気がしました(作者はこのあとの作品『パーク・ライフ』で芥川賞受賞)。

 【2004年文庫化[幻冬舎文庫]】

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面白かった〜。特に後半は息もつかせぬという感じ。現時点での作者の集大成的作品。

ゴールデンスランバー1.jpgゴールデンスランバー.jpg  ゴールデンスランバー3.jpg 2010年映画化(東宝) 
ゴールデンスランバー』 (2007/11 新潮社)

 2008(平成20)年・第21回「山本周五郎賞」受賞作、並びに第5回「本屋大賞」の大賞(1位)受賞作。2009 (平成21) 年「このミステリーがすごい!」(国内編)第1位。 2009(平成21)年・第2回「ミステリが読みたい!」(早川書房主催)国内編・第1位(他に、「週刊文春」2008年度ミステリーベスト10(国内部門)で第2位)。

 仙台で金田首相の凱旋パレードが行われている時、旧友の森田森吾に何年かぶりで呼び出された青柳雅春は、「おまえは、陥れられている。今も、その最中だ」「金田はパレード中に暗殺される」「逃げろ!オズワルドにされるぞ」といきなり言われ、その時遠くで爆音がして、折しも現れた警官は青柳に向かって拳銃を構えた―。

 面白かった〜。特に後半は息もつかせぬという感じ。エンタテイメントに徹することを試みた書き下ろし作品ということですが、ということは、これまでの作者の作品は"純文学"が入っていたということ?
 それはともかくとして、本作品が直木賞候補になった時点で作者はそれを辞退してしまいましたが、"幻の直木賞候補作" と言うより"幻の直木賞作"そのものと言えるかも。

 日本を舞台としながらも、架空の政治背景を設定し、年代も近未来と過去が混ざったような曖昧なものにしていることで、却ってフィクションの世界に入り込み易かったです。
一方で、細部の描写がキッチリしているし、監視社会の姿や警察・マスコミの対応にもリアリティがあることが、作品の面白さを支えているように思えます。

 逃亡する主人公を助ける面々が、それぞれ立場は異なるものの、ある種の義侠心のようなものに突き動かされて行動していて、古風と言えば古風なパターンですが、いいんじゃないかなあ、この"熱い"雰囲気。

 個人的評価は「星5つ」ですが、強いて難を言えば、後半で或る人物が主人公を導くために現れ、この男のやっていることの事件性の方も考えてみれば本題に劣らずかなり大きいものであることが気になったのと、主人公がマスコミを利用した2つの狙い(「無実の疎明」と「身の安全の確保」)のうち、結局1つしか利用目的を果たしておらず、カタルシス効果としては十全なものになっていないことかなと。

 それでも、これまでの作者の作品の集大成的作品であるとの評判には自分としても全く異論は無く、「星5つ」の評価は変わりません。

「ゴールデンスランバー」映画.jpg映画「ゴールデンスランバー」('10年/東宝)監督:中村義洋 
出演:堺雅人/竹内結子/吉岡秀隆/劇団ひとり/香川照之

 【2010年文庫化[新潮文庫]】

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シュール且つ軽めの純文学的な匂い。テーマも含めて全部モチーフ?

『オーデュボンの祈り』.JPGオーデュボンの祈り 文庫.jpg     オーデュボンの祈り.jpg
オーデュボンの祈り (新潮文庫)』['03年] 『オーデュボンの祈り (新潮ミステリー倶楽部)』['00年]

 2000(平成12)年・第5回「新潮ミステリー倶楽部賞」受賞作で、1996年から2000年までしか続かなかった一般公募による同賞の最後の受賞作。

 コンビニ強盗に失敗し、警察から逃げる途中で気を失った伊藤は、気づくと見知らぬ孤島にいたが、江戸時代より外界から遮断されているというその島には、島の預言者として崇められている優午という名の喋るカカシがいて、その優午は、伊藤が島に来た翌日に死体となって発見される―。

 島には、嘘のことしか喋らない画家の園山や、処刑が"島の法律"として許されている桜、太って動けないウサギという女、島で唯一外界との行き来をして商売をする轟という熊のような風体の男等々、変わった人物が住んでいて、出だしはミステリーと言うよりファンタジーという印象を強く受けました(ウサギ穴に落っこちたアリスみたい、この主人公は)。

 やや村上春樹っぽい感じで、出てくる人や生き物が皆何かのメタファーなのかと思い、そういう謎解きみたいなことを考えさせられながら、この訳の解らん夢見のような世界に付き合わされるのかと最初はややゲンナリさせられながらも、読んでいると自然とその中に入り込めてしまい、最後まで読めてしまうのが不思議でした。

 まあ、ラストは予定調和という感じでしたが、途中は作家が描きたい世界を好きに書いているような感じでありながらも、それまで鏤(ちりば)めてきた様々な要素を、(大体においては)ミステリとして収斂させているのは巧みと言うか立派と言うべきか、読後感も悪くなく、デビュー作にして既に作者がストーリーテラーとしての才覚を存分に発揮していたということかも知れません(単行本刊行時にはそれほど話題になったという記憶が無いのだが)。

 但し、やはりこの作品の特徴は、シュール且つ軽めの純文学的な匂いと言うか、前衛演劇を見ているような現実浮遊感のようなものではないかと思われ、結局、テーマも含めて全部モチーフであるという(リョコウバトにしろ音楽にしろ)そんな印象を受けました(才能だけで書いていて、テーマ性が弱い? そう感じるのは、読み手である自分自身のコンセプチュアル・スキルが弱いためだと言われれば、そうなのかも知れないが)。

 【2003年文庫化[新潮文庫]】

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独身OLの一人旅。悪くはないが、中篇でまとめた方がスッキリいったのでは。

うつくしい人 西加奈子.jpg 『うつくしい人』 (2009/02 幻冬舎)  西 加奈子.jpg 西 加奈子 氏

 32歳の独身OLの私は、他人の苛立ちに怯えながら周囲への注意を払い続けるような会社での日々に疲れ、退職をして気分転換に瀬戸内の離島のリゾートホテルへ旅に行くが、そこには、ホテル・バーテンダーの坂崎という男が働いていて、彼は冴えないけれども何となく私を安心させる。一方、暇と金を持て余しているドイツ人のマティアスという男が滞在客としていて、私と坂崎、マティアスは、ふとしたことから互いの距離を接近させる―。

 最初は、何か暗いムードの文芸小説という感じで、主人公の自意識との葛藤みたいなものに付き合わされているような感じも無くなく、更に主人公の姉に対する葛藤のような話が出てきて、ますます神経症的になってくるので、西加奈子ってこんな作風の人だったかなあと―。

 でも、一見風変わりなマティアスや坂崎の抱えているものが明らかになるにつれて、逆に「私」の方には何かゆとりが出てきたみたいで、出版社の口上に「非日常な瀬戸内海の島のホテルで出会った三人を動かす、圧倒的な日常の奇跡。心に迫る傑作長編!」とありますが、これはやや大袈裟、最後はまあ無難なところに落ち着いたという感じかなあ。

 主人公同様に作者自身が自意識と自己嫌悪に悩まされている時期にこの作品を書き始め、書き終えた時には、最悪の状況を脱していたというようなことがあとがきに書かれていますが、確かに、書くことによって自己セラピーしているような印象も受けます。

 そのためか、それほど長い作品でもないのにやや冗長に思える部分もあり、全体としてはそれほど悪くはないのですが、モチーフ的にも見ても、長編よりも中篇程度で纏めた方がスッキリいったのではないかと。

 作中に、本に挟まっていたという1枚の写真を探すため、夜中に3人がホテルの図書室の本を片っ端から開き始めるという場面があり、余談になりますが、ホテルに図書室があるのって、たまに出くわすといいなあと思います。

かんぽの宿.jpg 高級リゾートホテルではないですが、連泊が原則の湯治型の「かんぽの宿」に以前に宿泊した際に、公立図書館の処分本または滞在客が置いていった本などを集めたと思われる図書室がホテル内にあり、蔵書3,000冊と結構充実していて(自室への貸し出し可)、シーズンオフののんびりとした雰囲気の中で集中して読書できたことを、この小説を読みながらずっと思い出していました(オフとは言え、宿泊客の数の何倍もの従業員がいて無聊を託っているというのは、経営上、やや問題があるのではとも思ったが)。

【2011年文庫化[幻冬舎文庫]】

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民事再生を申請した生保会社に弁護士が管財人として乗り込んでくる話。人物造型がパターン化している。

反乱する管理職.jpg 『反乱する管理職 (100周年書き下ろし)』 (2009/01 講談社)

渋谷クロスタワー(旧東邦生命ビル).jpg 経営破綻の危機に晒された東都生命は、メインバンクの援助打ち切りと風評による資金流出が重なって、ついに外資に売却されることが決まり、外資幹部、弁護士チームが次々と乗り込んでくるが、職員代表として管財人室長を命じられた友部陽平は、この身売り劇の陰で、許されざる謀略が進んでいることを知る―。

 1999年に経営破綻した東邦生命がモデルで、その保険業務はGEエジソン生命(現在のAIGエジソン生命)に引き継がれましたが、小説では「AIC」という外資に直接売却されたことになっていて、そう言えば渋谷クロスタワーが東邦生命ビルという名称だった頃、ビルの上の方にある東天紅で食事したことを思い出したりしましたが、あの頃にはもう経営が悪化していたのかなあ(ここの東天紅もいつの間にか閉店してしまったが)。

 「講談社創業100周年記念出版」、作者としては「『金融腐蝕列島』」以来12年ぶりの書き下ろし!」、ということで、期待もそれなりにあったのですが、やや肩透かしを喰った感じも。
 外資に売却される全体経緯よりも、スポーツクラブの売却を巡る問題に焦点が当たっていて解り易いことは解り易いけれど、主人公をはじめとする登場人物の行動や性格、会話等もパターン化されたもので、今一つでした(あまり本筋に関係ない情事の場面が多いのは、読者サービス?)。

会社蘇生.jpg 民事再生を申請した企業に弁護士が管財人として乗り込んでくる話は、大沢商会をモデルにした作者の『会社蘇生』('87年/講談社)と似ていますが、あの本を読んだ時は、最近は大企業の経営が立ち行かなくなった場合でも「会社更生」の適用申請が主流だけども、「民事再生」方式で旧経営陣には辞めてもらった方がスッキリするケースもあるのではないかと思いましたが、大沢商会の管財人となった弁護士は、企業ブランドの存続に尽力した、例外的とも言えるほど立派な弁護士だったわけか...。

 本書の弁護士チーム(管財人側)にはそんな篤志は無く、管財人室長(東都側)である主人公は、不透明な資産売却や外資に追従するような強引なリストラに反発するわけですが、ちょっと「管理職の反乱」というタイトルが与える一般的イメージとは、情況が違うのではないかと。
 主人公が。会社に留学させてもらってMBAを取得したエリートであり、再就職に困らない人であるというのも、感情移入しにくい理由かも。

 エピローグの設定が'08年9月で、巨大投資銀行「ローマン・スターズ」(リーマン・ブラザーズ)が経営破綻し、「AIC」(AIG)は国有化されるというのは、時事ネタとしてはタイムリーでしたが、主人公がかつての部下と「座・和民」で飲んで、「"青年社長"って小説だな。読んでないけど」とか言いつつ、「大泉-竹井路線」(小泉-竹中路線)がこの国に与えたダメージを論じ、新聞メディア(日本経済新聞)を批判して、最後、「この店、気に入ったよ」などと言っているのは、楽屋ネタ漫才の台本を読んでいるみたいで笑ってしまいました。

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「●「直木賞」受賞作」の インデックッスへ

読後感は悪くないが、時代考証が前面に出すぎ?

鷺と雪1.jpg鷺と雪2.jpg 『鷺と雪』  (2009/04 文藝春秋)

 2009(平成21)年上半期・第141回「直木賞」受賞作。

 女子学習院に通う士族令嬢・花村英子とお抱え女性運転手・別宮みつ子〈ベッキーさん〉が活躍するシリーズの、『街の灯』『玻璃の天』 に続く第3弾・完結篇で、帝都に不穏な足音が忍び寄る昭和初期の時代、良家の令嬢の目に時代はどう映るのかを、ルンペン、ブッポウソウ、ドッペルゲンガーなどといった日常と非日常の狭間にある事象を通して、ミステリー風に描いた連作(「不在の父」「獅子と地下鉄」「鷺と雪」を収録)。

 昭和初期の上流家庭の生活を叙情的な筆致で丁寧に描くとともに、そこに"日常生活の謎"を織り込み、ライト感覚の推理小説仕立てにしていて、ちょっと小奇麗に作りすぎている感じもしますが、「不在の父」「獅子と地下鉄」と、読後感は悪くありませんでした(「鷺と雪」は、「推理」の部分よりもシリーズの「完結篇」としての位置づけの方が大きいように思える)。

 また、当時の時事・風俗・流行に関することが数多く文中に描かれていて、文学的な話題もふんだんに盛り込まれているのが楽しめましたが、ここまで頻繁にそうした話が出てくると、作者が一生懸命、史料や当時の新聞を手繰っているのが眼に浮かんでしまうような気も。

 そのことが却って、主人公そのものを、昭和初期に生きた女性ではなく、こっちの世界にいる女性であるように思わせ、そう思った途端に、今一つ入り込めず、加えて巻末に参考図書をずらり並べて、どの部分が史実でどの部分が虚構かまで補足して書いているのは、ややサービス過剰のような気もしました(日本史とか文学の勉強にはなり、楽しめもしたが、その分、作為が表面化した?)。

 これは、直木賞選考委員に対する「ここまで時代考証した」というアピールでもあるのか。それに対する功労賞的受賞とまでは言いいませんが(今までに一定数の固定ファンいるというのは実績と看做されるのだろう)、この作品が6回目の候補作でした。
 選考委員の宮部みゆき氏は「別宮は〈未来の英子〉なのです」と言っている。ふ〜ん、そういう読み方もあるのかあ。

週刊 昭和タイムズ 053号 『昭和10年』(1935年).jpg ブッポウソウの鳴き声と思われたものが実はコノハズクだったということが判明した話などは、知っている人は知っている、それなりに有名な話なのですが(「昭和タイムズ(53号・昭和10年)」という最近の雑誌にも出ていて、作中のラジオ中継番組が出ている東京朝日新聞の番組表が掲載されている)、2.26事件の数ヶ月前のことで、その組み合わせの妙から素材として取り上げたのかなあ。

月刊 昭和タイムズ 053号 『昭和10年』(1935年)

 【2011年文庫化[文春文庫]】
 

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作品のトーンの不統一が気になった。 読み進むほどスラップスティック調になっていく...。

盤上の敵.jpg 『盤上の敵』単行本['99年] 盤上の敵 ノベルズ.jpg 講談社ノベルズ 盤上の敵 文庫.png 講談社文庫

 我が家に猟銃を持った殺人犯が立てこもり、妻・友貴子が人質にされていることがわかった末永純一は、妻を救出すべく奔走するが、自宅が警察とワイドショーのカメラに包囲され「公然の密室」化していることから、彼は警察を出し抜いて犯人の石割と直接交渉することを図る―。

 「人間の悪意」をテーマにした作者の新境地を拓いた作品とされているようですが、体裁はタイトルからも察せられる通りの本格推理で、確かに"息もつかせぬ"展開ではあるものの、結末がやや安易で、本格推理にありがちなリアリティの喪失が感じられました。

 それと気になったのは、作品のトーンが安定していないように思われた点で、ずっとハードボイルドっぽくいくのかと思ったら部分的にブラック・コメディ調になったりし、加えて、伏線となるべき幾つかの話が結末に向けて必ずしも収斂せず、むしろバラけている面もあって、総体的にみて、読み進めば進むほどスラップスティック調になっていくような...(筒井康隆か?)。

 でも、作者は重々しく物語を締め括っていて、従来の作者のファンにも大方の受けは良かったようで、週刊文春「ミステリーベスト10」の'99年度の7位、宝島社「このミステリーがすごい!」の'00年の8位にランクインしており、何だか自分だけ取り残されたような気がしました(波に乗れなかったということか)。

 作者は、この時点で2度ほど直木賞候補になっていますが、個人的には、この人、直木賞は獲れないのではとも思ったりしたら、結局6回目のノミネート作『鷺と雪』('09年/文藝春秋)で受賞ということになりました。

 【2001年新書版[講談社ノベルズ]/2002年文庫化[講談社文庫]】

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アンチ・カタルシスと細部の"エンタメ"(娯楽性)との組み合わせに、作者のうまさを感じた。

極北クレイマー.jpg  『極北クレイマー』 (2009/04 朝日新聞出版)

夕張市「石炭の歴史村」遊園地の大観覧車.jpg 極北大医学部第一外科医の今中良夫は、財政難の極北市にある極北市民病院に非常勤の外科医として赴任するが、院内の環境は不衛生、病棟スタッフ達は怠慢、そして経営は極北市の「赤字五つ星」に数えられるほど悪化しており、唯一誠実に職務を遂行し、患者の信頼を得ているのが産科医の三枝久広だったが、彼には、以前に手術中に妊婦が死亡したことが医療事故とされる可能性が―。

夕張市「石炭の歴史村」遊園地にあった大観覧車(2008年に解体)

 地域医療問題がテーマの小説ですが、前半部分の極北市民病院のスタッフのモチベーションの低さ、個々の勝手し放題な様の描かれ方は、ブラック・ユーモア的でもあり、なかなか「楽しめ」ました。
 これを主人公の今中がどう立て直すのかと思っていると、中盤、姫宮香織なる"エンジェル"が現われ、このキャラクターも面白く、彼女が救世主かと思いきや、あっと言う間に去って行ってしまったのがやや残念。

 中盤までが戯画調だったのに対し、後半は、医療事故問題を巡る、病院・市役所・警察などの関係者の様々な思惑が入り乱れ、サスペンス調に。
 但し、結局、病院再興もダメ、三枝医師も不幸な事態に陥り、カタルシスを期待していた読者はがっかりしたかもしれませんし、自分自身も、主人公の今中に対しては、最後までオタオタしてばかりいたという印象が拭い切れませんでした。

 でも、テーマがテーマだけに、ほろ苦い結末にすることで、安易なハッピーエンドにしてしまうよりは、問題提起上の効果はあったと言えるかも(表紙の観覧車の絵から窺える通り、作品のモデルになったと思われる夕張市の市立総合病院は、市財政の破綻とともに経営破綻した後に医療法人財団が指定管理者となり公設民営化されたが、そうした今も再建の前途は多難であるという事実がある)。

 役所関係で「派遣」と言えば、一般企業で言う「在籍出向」でしょう。姫宮香織が自ら「ハケン」ですと言っているのに、公立病院の事務長が、その派遣元(厚労省)を思いつかず、普通の人材派遣(だったら自分がオーダーしているはず)と混同することはあり得ないと思うのですが、姫宮が肩書きの力ではなく自らの知恵と行動で病院改革に先鞭をつけたとするには、事務長の平松の無頓着が前提として必要だったのかも。
 事実を知って慌てて姫宮に土下座する平松―これ、"水戸黄門"と同じで、パーツパーツでは、エンタテインメントの典型手法を幾つも入れているんだよなあ、この小説。

 問題提起を優先させるためか、全体の構成はアンチ・カタルシスにしておいて、一方で、細部においては軽妙な描写を多く取り入れて"エンタメ"(読者サービス?)し、読み物としての面白さを保っているという点には、作者の旨さを感じました。

【2011年3月文庫化[朝日文庫]】

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登場人物と等距離を置きながらも突き放してはいない。新人離れした力量。
告白 湊かなえ.jpg 湊かなえ 告白3.jpg 映画「告白」.jpg 
告白』(2008/08 双葉社)/2010年映画化(東宝)出演:松たか子/岡田将生/木村佳乃

 2009(平成21)年・第6回「本屋大賞」の大賞(1位)受賞作で、単行本デビュー作での大賞受賞は同賞では初めて(他に、「週刊文春」2008年度ミステリーベスト10(国内部門)で第1位)。

 愛娘を校内のプールで亡くした公立中学の女性教師は、終業式の日のホーム・ルームでクラスの教え子の中に事件の犯人がいることを仄めかし、犯人である少年A及び少年Bに対して恐ろしい置き土産をしたことを告げ、教壇を去っていく―。

 「小説推理新人賞」(双葉社の短編推理小説を対象とした公募新人文学賞)を受賞した第1章の「聖職者」は女性教師の告白体をとっていますが、これだけでもかなり衝撃的な内容。その後も同じくモノローグ形式で、犯人の級友、犯人の家族、犯人の少年達と繋いで1つの事件を多角的に捉え物語に厚みを持たせる一方、話は第2、第3の事件へと展開していきます。

 「本屋大賞」において、貴志祐介、天童荒太、東野圭吾、伊坂幸太郎ら先輩推理作家の候補作を押しのけての堂々の受賞であるのも関わらず、Amazon.comなどで見る評価は(ベストセラーにありがちなことだが)結構割れているみたいでした。ネガティブ評価の理由の1つには、読後感が良くない、登場人物に共感できず"救い"が見えないといったものがあり、もう1つにはプロットに現実性が乏しいといったところでしょうか。

 「登場人物に共感できない」云々という感想については、「聖職者」「殉教者」「慈愛者」といった章タイトルがそれぞれに反語的意味合いを持っていることからすれば、当然のことかも。それぞれの章の「語り手」乃至「その対象となっている人物」(第3章の「慈愛者」などは「語り手」と「対象人物」の入籠構造となっている)に対し、作者は等距離を置いているように思いました。

 それらの何れをも否定しきってしまうのではなく、内面に寄り添って描いている部分がそれぞれにあって、そのために、最初に誰かに過剰に感情移入して読んでしまった読者との間には、齟齬が出来るのではないかと。
 
 個人的には、そうした登場人物の描き方は、登場人物への読者の過度の感情移入も制限する一方で、通り一遍に拒絶するわけにもいかない思いを抱かせ、物語に重層的効果を持たせることに繋がっていて、「読後感は最悪」という「本屋大賞」に絡めた帯キャッチも、賛辞として外れていないように思えました。

 プロットに関しても、重いテーマを扱った作品は往々にして問題提起に重点が行き、エンタテイメントとしてはそう面白くなかったりすることがあるのに対し、この作品の作者はストーリーテラーとしての役割をよく果たしているように思えました。

 但し、プロット自体はともかく、モノローグ形式を貫いたがために、なぜ最後に登場する語り手が全てお見通しなのか、どうして病いの身にある、しかも有名人が、学校に忍び込んで易々と事を成し遂げることが出来るのか等々に対する状況説明部分が弱く(そこに至るまでも幾つか突っ込み所が無いわけではない)、自分としてはその点での物足りなさが残り、星1つマイナス。しかしながら新人にしては手慣れているというか、作品の持つ吸引力のようなものは新人離れしていると言っていいのでは。
Kokuhaku (2010)
Kokuhaku (2010).jpg
告白 映画.jpg(●2010年6月に中島哲也監督、松たか子主演で映画化され、キネマ旬報「2010年度日本映画ベストテン」第2位、第34回日本アカデミー賞では最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞・最優秀編集賞を受賞した一方、『映画芸術』誌選出の「2010年度日本映画ベストテン&ワーストテン」ではワースト1位に選出された。章ごとに語り手が、森口悠子(第1章「聖職者」)、北原美月(第2章「殉教者」)、下村優子(第3章「慈愛者」)、下村直樹(第4章「求道者」)、渡辺修哉(第5章「信奉者」)、最後再び森口悠子(第6章「伝道者」)と変わっていく原作のスタイルを緩やかに踏襲していている。全体としてイメージビデオ風の作りになっていて、時系列もやや原作と異なるが、もともと原作そのものが映画「羅生門」のようなカットバック方式なので、その点はあまり気にならなかった。原作は、主人公の独白である第1章「聖職者」はともかく、第2章以降、日記が小説風に書かれているなどの"お約束事"告白 映画 木村佳乃.jpgがあるが、映画ではそうした不自然さはむしろ解消されている。原作について、ラストの大学での爆破は実際にあったのかどうかという議論があるが、映画のラストシーンはロケ上の都合でCG撮影となったそうで、このことが、「実際には爆破はなく、修哉のイメージの世界での"出来事"に過ぎなかった」説を補強することになったようにも思う。主演の松たか子の演技より、助演の木村佳乃(ブルーリボン賞助演女優賞受賞)の演技の方が印象に残った。彼女が演じたモンスター・ペアレントは湊かなえ作品におけるある種の特徴的なキャラを体現していたように思う。)

告白 .jpg告白 dvd.jpg「告白」●制作年:2010年●監督・脚本:中島 哲也●製作:島谷能成/百武弘二 ほか●撮影:阿藤正一/尾澤篤史●音楽:金橋豊彦(主題歌:レディオヘッド「ラスト・フラワーズ」●時間:106分●出演:松たか子/岡田将生/木村佳乃/西井幸人/藤原薫/橋本愛/芦田愛菜/山口馬木也/能年玲奈/三吉彩花/岩田宙/刈谷友衣子/知花●公開:2010/06●配給:東宝(評価:★★★☆) 

告白 【DVD特別価格版】 [DVD]

 【2010年文庫化[双葉文庫]】

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巻き込まれ型ワンナイト・ムービーみたいだったのが、次第にマンガみたいな感じになり...。

夜は短し歩けよ乙女2.jpg夜は短し歩けよ乙女.jpg  after-hours-martin-scorsese.jpg アフター・アワーズ.jpg 『アフターアワーズ』.jpg
夜は短し歩けよ乙女』['06年](カバー絵:中村佑介)「アフター・アワーズ 特別版 [DVD]」グリフィン・ダン/ロザンナ・アークェット カンヌ国際映画祭「監督賞」、インディペンデント・スピリット賞「作品賞」受賞作

 2007(平成19)年度・第20回「山本周五郎賞」受賞作。2010(平成22)年・第3回「大学読書人大賞」も受賞。

 「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めるが、先輩の想いに気づかない彼女は、頻発する"偶然の出逢い"にも「奇遇ですねえ!」と言うばかり。そんな2人を、個性的な曲者たちと珍事件の数々が待ち受ける―。

 4つの連作から成る構成で、表題に呼応する第1章は、「黒髪の乙女」の後をつけた主人公が、予期せぬ展開でドタバタの一夜を送るという何だかシュールな展開が面白かったです。

Griffin Dunne & Rosanna Arquette in 'After Hours'
After-Hours-Scorsese.jpgIアフター・アワーズ1.jpg これを読み、マーチン・スコセッシ監督の「アフター・アワーズ」('85年/米)という、若いサラリーマンが、ふとしたことから大都会ニューヨークで悪夢のような奇妙な一夜を体験する、言わば「巻き込まれ型」ブラック・コメディの傑作を思い出しました(スコセッシが大学生の書いた脚本を映画化したという。カンヌ国際映画祭「監督賞」、インディペンデント・スピリット賞「作品賞」受賞作)。 

アフター・アワーズ 1985.jpg グリフィン・ダン演じる主人公の青年がコーヒーショップでロザンナ・アークェット演じる美女に声を掛けられたきっかけが、彼が読んでいたヘンリー・『アフター・アワーズ』(1985).jpgミラーの『北回帰線』だったというのが、何となく洒落ているとともに、主人公のその後の災厄に被って象徴的でした(『北回帰線』の中にも、こうした奇怪な一夜の体験話が多く出てくる)。映画「アフター・アワーズ」の方は、そのハチャメチャに不条理な一夜が明け、主人公がボロボロになって会社に出社する(気がついたら会社の前にいたという)ところで終わる"ワンナイト・ムービー"です。

夜は短し歩けよ乙女 角川文庫.jpg 一方、この小説は、このハチャメチャな一夜の話が第1章で、第2章になると、主人公は訳の分らない闇鍋会のようなものに参加していて、これがまた第1章に輪をかけてシュール―なんだけれども、次第にマンガみたいな感じになってきて(実際、漫画化されているが)、う〜ん、どうなのかなあ。少しやり過ぎのような気も。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 山本周五郎賞だけでなく、2007(平成19)年・第4回「本屋大賞」で2位に入っていて、読者受けも良かったようですが、プライドが高い割にはオクテの男子が、意中の女子を射止めようと苦悶・苦闘するのをユーモラスに描いた、所謂「童貞小説」の類かなと(こういう類の小説、昔の高校生向け学習雑誌によく"息抜き"的に掲載されていていた)。

 京都の町、学園祭、バンカラ気質というノスタルジックでレトロっぽい味付けが効いていて、古本マニアの奇妙な"生態"などの描き方も面白いし、文体にもちょっと変わった個性がありますが、この文体に関しては自分にはやや合わなかったかも。主人公の男子とヒロインの女子が交互に、同じ様に「私」という一人称で語っているため、しばしばシークエンスがわからなくなってしまい、今一つ話に身が入らないことがありましたが、自分の注意力の無さ故か?(他の読者は全く抵抗を感じなかったのかなあ)

(●2017年に「劇場版クレヨンしんちゃんシリーズ」の湯浅政明監督によりアニメーション映画化された。登場人物は比較的原夜は短し歩けよ乙女 映画title.jpg作に忠実だが、より漫画チックにデフォルメされている。星野源吹き替えの男性主人公よりも、花澤香菜吹き替えのマドンナ役の"黒髪の乙女"の方が実質的な主人公になっている夜は短し歩けよ乙女 映画01.jpg。モダンでカ夜は短し歩けよ乙女 映画00.jpgラフルでダイナミックなアニメーションは観ていて飽きないが、アニメーションの世界を見せることの方が主となってしまった感じ。一応、〈ワン・ナイト・ムービー(ストーリー)〉のスタイルは原作を継承(第1章だけでなく全部を"一夜"に詰め込んでいる)しているが、ストーリーはなぜかあまり印象に残らないし、京風情など原作の独特の雰囲気も弱まった。映画の方が好きな人もいるようだが、コアな森見登美彦のファンにとっては、映画は原作とは"別もの"に思えるのではないか。)
 
 

After Hours.jpgIMG_1158.jpgIアフター・アワーズ9.jpgグリフィン・ダン演じる主人公の青年がコーヒーショップでヘンリー・ミラーの『北回帰線』を読んでいると、ロザンナ・アークェット演じる美女に声を掛けられる...。 
 
「アフター・アワーズ」●原題:AFTER HOURS●制作年:1985年●制作国:アメリカ●監督:マーチン・スコセッシ●製作:エイミー・ロビンソン/グリフィン・ダン/ロバート・F・コールズベリー●脚本:ジョセフ・ミニオン●撮影:ミハエル・バルハウス●音楽:ハワード・ショア●時間:97分●出演:グリフィン・ダン/ロザンナ・アークェット/テリー・ガー/ヴァーナ・ブルーム/リンダ・フィオレンティ下高井戸京王2.jpgーノ/ジョン・ハード/キャサリン・オハラ/ロバート・プランケット/ウィル・パットン/ディック・ミラー●日本公開:1986下高井戸シネマ.jpg下高井戸東映.jpg/06●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:下高井戸京王(86-10-11)(評価:★★★★☆)●併映:「カイロの紫のバラ」(ウディ・アレン)

下高井戸京王 (京王下高井戸東映(東映系封切館)→1980年下高井戸京王(名画座)→1986年建物をリニューアル→1988年下高井戸シネマ) 


夜は短し歩けよ乙女 映画04.jpg夜は短し歩けよ乙女 映画ポスター.jpg「夜は短し歩けよ乙女」●●制作年:2017年●監督:湯浅政明●脚本:上田誠●キャラクター原案:中村佑介●音楽:大島ミチル(主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION「荒野を歩け」)●原作:森見登美彦●時間:93分●声の出演:星野源/花澤香菜/神谷浩史/秋山竜次(ロバート)/中井和哉/甲斐田裕子/吉野裕行/新妻聖子/諏訪部順一/悠木碧/檜山修之/山路和弘/麦人●公開:2017/04●配給:東宝映像事業部●最初に観た場所:TOHOシネマズ西新井(17-04-13)(評価:★★★)
TOHOシネマズ西新井 2007年11月6日「アリオ西新井」内にオープン(10スクリーン 1,775+(20)席)。
TOHOシネマズ 西新井 ario.jpgSCREEN 1 106+(2) 3.5×8.3m デジタル5.1ch
SCREEN 2 111+(2) 3.4×8.2m デジタル5.1ch
SCREEN 3 111+(2) 3.4×8.2m デジタル5.1ch
SCREEN 4 135+(2) 3.5×8.5m デジタル5.1ch
SCREEN 5 410+(2) 7.0×16.9m デジタル5.1ch
SCREEN 6 146+(2) 3.7×9.0m デジタル5.1ch
SCREEN 7 148+(2) 3.7×8.9m デジタル5.1ch
SCREEN 8 80+(2) 4.1×9.9m MX4D® デジタル5.1ch
SCREEN 9 183+(2) 4.1×9.9m デジタル5.1ch
SCREEN 10 345+(2) 4.8×11.6m デジタル5.1ch

 【2008年文庫化[角川文庫]】

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「村上作品の集大成」、「良くも悪しくも村上春樹」。共に、評として外れていないのでは?

1Q84 BOOK 1.jpg 1Q84 BOOK 2.jpg 『1Q84 (BOOK1 ・ BOOK2』 .jpg1Q84 BOOK 1』『1Q84 BOOK 2』['09年]

 2009(平成21)年・第63回「毎日出版文化賞」(文学・芸術部門)受賞作。

 スポーツインストラクターで暗殺者としての裏の顔を持つ女性・青豆と、作家志望の予備校講師で、"ふかえり"という高校生が書いた不思議な作品をリライトすることになった男性・天吾、1984年にこの2人は、同じ組織に対する活動にそれぞれが巻き込まれていく―。

 いやあ、ストーリーも明かされていない刊行前からスゴイ評判、刊行されるとやがて「これまでの村上作品の集大成」とか「良くも悪しくもやっぱり村上春樹」とか色々な風評が耳に入ってきてしまい、早く読まねばとやや焦りにも似た気持ちにさえさせられたのが情けないけれど、読み始めてみたら結構エンタテインメントしていて、作者の軽めのエッセイは好みながら小説はやや苦手な自分にとっても、今まで読んだ数少ない作者の長編の中では「面白かった」方でした(むしろ、こんなに面白くていいのか...みたいな)。

漱石と三人の読者.jpg 国文学者の石原千秋氏が『漱石と三人の読者』('04年/講談社現代新書)の中で、漱石は、「顔の見えない読者」(一般人)、「なんとなく顔の見える読者」(知識人)、「具体的な何人かの"あの人"」(文学仲間・批評家)の3種類の読者を想定し、それぞれの読者に対してのメッセージを込めて小説を書いていたという仮説を立てていますが、村上春樹も同じ戦略をとっているような...。

 「ピュアな恋愛」とか、矢鱈に"純粋性"を求めたがる時代の気風にしっかり応えている点は「一般人」向きであるし、この小説を「愛の物語」と言うより「エンタテインメント」としてそこそこに堪能した自分も、同様に「一般人」のカテゴリーに入るのでしょう。

 ただし、これまでの作品に比べ、様々な社会問題を時に具体的に、時に暗喩的に織り込んでいるのは確かで(「知識人」向き?)、そこには「原理主義」的なものを忌避する、或いはそれに対峙する姿勢が窺え、(ノンフィクションで過去にそうしたものはあったが)小説を通じてのアンガージュマン的な姿勢を今回は強く感じました。

 一方で、主人公たちは29歳にして10歳の想い出を"引き摺っている"と言うか、主人公の一方はその"想い"に殉じてしまうくらいで、モラトリアム調は相も変わらずで、メタファーもお馴染みの如くあるし、結局、「これまでの村上作品の集大成」、「良くも悪しくもやっぱり村上春樹」共に、評としては外れていないように思いました。

村上春樹「1Q84」をどう読むか.jpg 因みに『村上春樹「1Q84」をどう読むか』('09年7月/河出書房新社)という本がすぐに刊行されて、35人の論客がこの作品を論じていますが(インタビューや対談・ブログからの転載も多い)、いやあ、いろんな読み方があるものだと感心(前述の石原千秋氏も書いている)。ただ言える事は、みんな自分(の専門分野)に近いところで読み解いているということが言え、かなり牽強付会気味のものが目立ちます。
 
 この「読解本」に関しては、全体として、面白かったけれどあまり参考にならなかったというのが本音で(評価★★☆)、ただ、これだけ多くの人に短い期間で書評を書かせている(一応しっかりと(?)読んだのだろう)ということは、やはり「村上春樹」の影響力は凄いなあと(「批評家」向き?)。タイムマシンに乗って100年後の世界に行ったら、文学史年表にこの作品が載っているのかなあ。
 
映画 "The Big Sleep"(邦題「三つ数えろ」)
The Big Sleep.png大いなる眠り.jpg 余談ですが、主人公が金持ちの依頼人と屋敷の温室で対面し依頼を受けるというのは、レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』(The Big Sleep /'39年発表/'56年・東京創元社)の中にもあるシチュエーションで、チャンドラーの3大ハードボイルド小説の内、『さらば愛しき女よ』(Farewell, My Lovely '40年発表/56年・早川書房)と『長いお別れ』(The Long Goodbye '54年発表/'58年・早川書房)は、それぞれ『ロング・グッドバイ』('07年)『さよなら、愛しい人』('09年)のタイトルで早川書房から村上春樹訳が出ていますが、『大いなる眠り』は訳していません。東京創元社に版権がある関係で早川書房としては訳すことが出来ないのかなあ。―ああ、チャンドラーの自分が未訳の作品のモチーフを、ここで使ったかという感じ。(『大いなる眠り』はその後、'12年12月に早川書房より村上春樹訳が刊行された。)

●朝日新聞・識者120人が選んだ「平成の30冊」(2019.3)
1位「1Q84」(村上春樹、2009)
2位「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、2006)
3位「告白」(町田康、2005)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)

【2012年文庫化[新潮文庫]】

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「芥川賞について...」などに、文壇的なものを忌避する傾向がすでにはっきり見られる。

村上朝日堂の逆襲 2.jpg村上朝日堂の逆襲1.jpg 『村上朝日堂の逆襲』 (1986/06 朝日新聞社)

 著者が芥川賞のことをどこかで書いていたことがあったのを思い出して、『村上朝日堂』('84年/若林出版企画)を読み直してみたけれど見当たらず、「村上朝日堂シリーズ」の第2作である本書を見たら、「芥川賞について覚えているいくつかの事柄」というのがありました。

 『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』がそれぞれ候補になって、「あれはけっこう面倒なものである。僕は二度候補になって二度ともとらなかったから(とれなかったというんだろうなあ、正確には)とった人のことはよくわからないけれど、候補になっただけでも結構面倒だったぐらいだから、とった人はやはりすごく面倒なのではないだろうかと推察する」と。

 "受賞第一作"を書けと言われても困るとか、NHKに出ろと言われてもTV出演は苦手だとか、賞に伴う慣行的なものを拒否していて、受賞連絡待ちの時の周囲の落ち着かない様子に自分まで落ち着かない気持ちに置かれたことが書かれていてます(『風の歌を聴け』の時は、自身の経営するジャズ喫茶兼バーのようなところで「ビールの栓を抜いたり玉葱を切ったりしていたのだが、店内では編集者が緊張した面持ちで電話を待っているし、アルバイトの女の子たちもなんだかそわそわしているみたいだし、客の中にも事情を知っている人がいるしで、すごくやりにくい。とても仕事にならない」と)。

 結局この後、長編小説(『羊をめぐる冒険』)への方へ行ってしまい、芥川賞とは縁が無くなってしまったわけですが、そうした国内の文学賞的なものに付随するもの、文壇的なものを忌避する傾向が、もうこの頃からはっきり現れているなあと思った次第です。

 本書に出てくる「小説家の有名度について」の中では、ベルビー赤坂の待合所のベンチで奥さんの買い物待ちをしていたら、若い男の人に、「村上さん、がんばって下さい」と言われたので、思わず「はっ、がんばります!」と答えてしまい、「こうなるとプロ野球ニュースのインタビューみたいである」と。
 自分自身をカリカチュアライズしている要素が多く見られるのがこのシリーズの特徴ですが、この頃からもう、ずーっと海外で暮らしている方がいいかなあと、本気で考えていたのではないでしょうか。

 全体としては、『村上朝日堂』と同じような感じで楽しめる内容。芥川賞のことについてどう書いていたか気になっただけなのに、結局、始めから終わりまで通しで再読してしまいました。


 因みに、著者が国分寺のジャズ喫茶「ピーター・キャット」('77年に同じ店名のまま、ヤクルト戦のある神宮球場に近い千駄ヶ谷に移転。本書の芥川賞譚はそこでのもの)で店主をしていた時期に、あるジャズ雑誌に書いた「ジャズ喫茶のマスターになるための18のQ&A」(「JAZZLAND」1975.8.1号)というのがあって、これがなかなか面白いです(以下、引用)。

Q1 ジャズ喫茶を始めたいと思うのですが、さしあたって一番要求される資質は何でしょうか?
A 恐れを知らぬ行動力です。

Q2 それでは一番不必要なものは?
A 知性です。

Q3 現在大学に在学中ですが、卒業はした方が良いでしょうか。
A 経験から言うと、卒業証書の表紙はメニューにぴったりです。

Q4 好きな女の子が居るのですが、ジャズ喫茶のマスターとしては結婚していた方が得でしょうか、それとも独身でいた方が得でしょうか?
A あなたが一体何を指して得とか損とか言ってるのか、よく理解できないけれど、この世の中で結婚して得をすることなど何ひとつないのです。

Q5 よくジャズ喫茶のマスターは女の子にもてるっていう話を開きます。そんな時、客の女の子には手を出していいのでしょうか?
A まったくの取り越し苦労です。

Q6 レコードは最低何故必要でしょうか?
A 度胸さえあれば15枚でOKです。

Q7 でも、「ファンキー」や「DIG」に行って、レコード棚やオーディオを見る度にガックリして、僕なんかにとても......という気分になるのですが?
A そんな所に行くのが間違っているのです。国分寺に来なさい。

Q8 僕は前衛ジャズに弱いので、それ以外のジャズを中心にやりたいのですか?
A お好きなように。

Q9 お客に文句は言われませんか?
A もちろん言う人は居ます。気にしなければいいのです。
 あなたのお店なんだし、好きなようにやってみて、儲かるのもあなた一人だし、赤字を出して首を吊るのもあなた一人なのです。

Q10 お酒を出すつもりなのですが、酔って騒ぐような人が居たらどうしたらいいのでしょうか?
A 「戦艦バウンティ」という映画が昔ありました。その中で異端分子は全員船から突き落とされていました。

Q11 「スイング・ジャーナル」に広告を出すべきでしょうか?
A もちろんです。その上に「スクリーン」と「週刊平凡」に広告を出せば効果は抜群です。

Q12 僕はコルトレーンの『至上の愛』が嫌いなので店には置かないつもりなのですが、
友人は"『至上の愛』のないジャズ喫茶なんて...と言います。どうでしょうか?
A バカは相手にしないことです。

Q13 ジャズ評論家にコネがきくのですが、レコ-ド解説やコンサートをやった方が良いでしょうか?
A テスト盤をもらうだけくらいの方が賢明です。ロシア革命の時、一番最初に銃殺されたのはジャズ評論家だったそうです。

Q14 ジャズ喫茶という職業は一生続けていくに値いするものでしようか?
A 田中角栄にとって土建業が一生続けていくに値いする職業なのか?
 川上宗薫にとってポルノ小説家が一生続けていくに値いする職業なのか?
 猫にとってキヤツト・フードが一生食べていくのに値いする食物なのか?
 非常に難しい問題です。

Q15 僕にとってジャズ喫茶はまるでなにか青春の里程標のような気がするのですが、 こういう考え方は間違っているのでしょうか?
A 間違ってはいませんが、明らかに誇張されています。

Q16 それではジャズ喫茶とは一体何なのでしょうか?
A ジャズを供給する場所です。ジャズとは何か?
 僕はそれは、人生における一種の価値基準のようなものではないかと思うのです。
 茫漠とした時の流れの中で、僕たちの人生がどんな風に輝き、どんな風に燃えつきていくのか?
 ジャズの中に沈みこんでいる時、僕たちはそんな何かをみつけだせるような気がするのです。

Q17 そういう考え方は少し誇張されすぎてはいませんか?
A すみません。その通りです。ただ僕の言いたいのは、ジャズ喫茶のマスターがそういった使命感を忘れたらもうおしまいだっていうことなのです。

Q18 ところで話はガラッとかわりますが、今年のヤクルト・アトムズはどうなるのでしょうね?
A 当然優勝します。巨人は最下位になり、王はナボナのCMから下ろされます。

 著者26歳の頃の文章ですが、この頃からユーモアのセンスがふるっています。


 【1989年文庫化[新潮文庫]】

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「●あ 安西 水丸」の インデックッスへ

初期エッセイのトーンが好き。作家のイマジネーションの原点のを探るうえでも興味深い。

村上朝日堂1.jpg 村上朝日堂2.jpg  村上朝日堂 新潮文庫.jpg
村上朝日堂』 (1984/01 若林出版企画)/『村上朝日堂 (新潮文庫)

 「村上朝日堂シリーズ」の最初のもので、'82年から'84年にかけて「日刊アルバイトニュース」に連載され、'84年に若林出版企画から刊行されたもの、ということは、連載時にリアルタイムでこの文章を読めたのは首都圏に住む人に限られていたということか。

 今やノーベル文学賞候補と言われている作家の"純文学大作"を脇に置いて、こんな"雑文集"(と自分で言っている)を今更読み直してどうなのかというのもありますが、個人的にこの人の初期エッセイのトーンが好きだから仕方がない...。

 連載テーマは毎回バラエティに富んでいますが、身近な話題が結構多いかも。中には前回のテーマを引き継いで書いている部分があって、自身の「引越し」について6回(「引越しグラフィティ」)、これは、この人、神戸から上京後は相当回数の転居をしているわけで、このテーマについては複数回に及ぶ理由が解りますが、電車の切符を失くさないようにするにはどうすればよいかということについてが4回(「電車とその切符」)、挿画の安西水丸氏を困らせるためにと選んだという「豆腐について」が4回と、どうでもいいようなことを何度も掘り下げていて、でも、水増ししているとかお茶を濁しているという感じは無く、面白いんだなあ、何れも。

 やはり優れた作家というのは、何事についても様々な観点から論を展開することができるということでしょうか(これは三島由紀夫が言っていたことだが)。と言っても、そう仰々しく構えるというようなものでは無く、例えば「フリオ・イグレシアスのどこが良いのだ!」というタイトルで2回書いていて、安西水丸氏の挿画との相乗効果で噴出すような内容。他にも、そういった笑いどころが多くあります。

吉行 淳之介.jpg 「僕の出会った有名人」というタイトルでの4回の中の1つに吉行淳之介のことが書かれていて(吉行淳之介は著者が文芸誌の新人賞をとった時の選考委員)、「我々若手・下ッ端の作家にとってはかなり畏れおおい人」、「吉行さんのそばにいる時は僕は自分からほとんど何もしゃべらないようにしている」と。でも、しっかりその立ち振る舞いを観察して感心しています(後にプリンストン大学で吉行の中篇を素材とした講義をしている)。

 ノーベル文学賞候補と目される人がこんな本も書いているという事実も面白いけれども、この作家の発想法やイマジネーションの原点のようなものを探るうえでも、個人的には興味深いものがあります。

 因みに、著者が文章を書き、安西水丸氏がイラスト(挿画)を描いている本は、「文・村上春樹/絵・安西水丸」といった作者名の表記になることが多いのですが、この『村上朝日堂』は、「付録」の2編「カレーライスの話」と「東京の街から都電のなくなるちょっと前の話」は、安西水丸氏が文を書き、村上春樹氏が挿絵を描いているため、「村上春樹/安西水丸」となっています。

 【1987年文庫化[新潮文庫]】

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大胆に翻案し、原作以上のもの(現代的なもの)を生み出す黒澤スタイルの典型作。

羅生門 チラシ.bmp「羅生門」デジタル復元・完全版(2008年).jpg羅生門ポスター.jpg 羅生門dvd.jpg 藪の中 講談社文庫.jpg
映画「羅生門」ポスター/「羅生門 [DVD]」/『藪の中 (講談社文庫)』['09年]
羅生門 デジタル完全版 [DVD]」['10年]
映画「羅生門」チラシ(左) 

羅生門1.bmp 平安末期、侍(森雅之)が妻(京マチ子)を伴っての旅の途中で、多襄丸という盗賊(三船敏郎)とすれ違うが、妻に惹かれた盗賊は、藪の中に財宝があると言って侍を誘い込み、不意に組みついて侍を木に縄で縛りつけ、その目の前で女を手込めにする。『羅生門』.jpg 翌朝、侍は死骸となって木樵り(志村喬) に発見されるが、女は行方不明に。後に、一体何が起こり何があったのかを3人の当事者達は語るが、それぞれの言い分に食い違いがあり、真実は杳として知れない―。

羅生門2.bmp 1951年ヴェネツィア国際映画祭「金獅子賞」並びに米国「アカデミー外国語映画賞」受賞作で、共に日本映画初の受賞でした。原作は芥川龍之介の1915(大正4)年発表の同名小説「羅生門」というよりも、1922(大正11)年1月に雑誌「新潮」に発表の短編「藪の中」が実質的な原作であり、「羅生門」は、橋本忍と黒澤明が脚色したこの映画では、冒頭の背景など題材として一部が使われているだけです。

京マチ子 羅生門.jpg 原作は、事件関係者の証言のみで成り立っていて、木樵、旅法師、放免(警官)、媼(女の母)の順に証言しますが、この部分が事件の説明になっている一方で、彼らは状況証拠ばかりを述べて事件の核心には触れません。続いて当事者3人の証言が続き、多襄丸こと盗人が、侍を殺すつもりは無かったが、女に2人が決闘するように言われ、武士の縄を解いて斬り結んだ末に武士を刺し、その間に女は逃げたと証言、一方の女は、清水寺での懺悔において、無念の夫の自害を自分が幇助し、自分も死のうとしたが死に切れなかったと言います。 そして最後に、侍の霊が巫女の口を借りて、妻が盗人を唆して自分を殺させたと―。

「羅生門」.jpg羅生門3.bmp 芥川龍之介の原作は、タイトルの通り誰の言うことが真実なのかわからないまま終わってるわけですが、武士が語っていることが(霊となって語っているだけに)何となく侍の言い分が真実味があるように思いました(作者である芥川龍之介は犯人が誰かを示唆したのではなく、それが不可知であることを意図したというのが「通説」のようだが)。

羅生門4.bmp京マチ子.jpg 映画では、原作と同様、盗人、女、侍の証言が再現映像と共に続きますが、女の証言が原作とやや異なり、侍の証言はもっと異なり、しかも最後に、杣売(そまふ)、つまり木樵(志村喬)が、実は自分は始終を見ていたと言って証言しますが、この杣売の証言は原作にはありません。

 その杣売(木樵)の証言がまた、それまでの3人の証言と異なるという大胆な設定で、杣売(木樵)の語ったのが真実だとすれば、京マチ子が演じた女が最も強くなっている(怖い存在になっている?)という印象であり、黒澤明はこの作品に、現代的であるとともに相当キツイ「解」を与えたことになるかと思います(その重いムードを救うような、原作には無いラストが用意されてはいるが)。

京マチ子(1959年)[共同通信]

 個人的には、そのことによって原作を超えた映画作品となっていると思われ、黒澤明が名監督とされる1つの証しとなる作品ではないかと。因みに、同様に全く個人的な印象として、原作を超えていると思われる映画化作品を幾つか列挙すると―(黒澤明とヒッチコックはまだまだ他にもありそうだが、とりあえず1監督1作品として)。

・監督:溝口健二「雨月物語」('53年/大映)>原作:上田秋成『雨月物語』
・監督:ビリー・ワイルダー「情婦」('57年/米))>原作:アガサ・クリスティ『検察側の証人』
・監督:アルフレッド・ヒッチコック 「サイコ」('60年/米)>原作:ロバート・ブロック『気ちがい(サイコ)』
・監督:ロベール・ブレッソン「少女ムシェット」('67年/仏)>原作:ジョルジュ・ベルナノス『少女ムーシェット』
・監督:スティーヴン・スピルバーグ「ジョーズ」('75年/米)>原作:ピーター・ベンチリー『ジョーズ』

 この「羅生門」は、ストーリーの巧みさもさることながら、それはいつも観終わった後で思うことであって、観ている間は、森の樹々の葉を貫くように射す眩い陽光に代表されるような、白黒のコントラストの強い映像が陶酔的というか、眩暈を催させるような効果があり(宮川一夫のカメラがいい)、あまり思考力の方は働かないというのが実際のところですが、高田馬場のACTミニシアターでは、そうした自分のような人(感覚・情緒的映画観賞者?)のためを思ってか、上映後にスタッフが、ドナルド・リチーによる論理的な読み解きを解説してくれました(アットホームなミニシアターだったなあ、ここ。毎回、五円玉とミルキー飴をくれたし)。

Rashômon(1950) 「羅生門」(1950) 日本映画初のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞受賞。
Rashômon(1950).jpg
 
羅生門 森雅之.jpg 羅生門 京マチ子.jpg 
森 雅之(侍・金沢武弘)           京マチ子(金沢武弘の妻・真砂)

羅生門 志村喬.jpg羅生門 加東大介.jpg「羅生門」●制作年:1950年●監督:黒澤明●製作:箕浦甚吾●脚本:黒澤明/橋本忍●撮影:宮川一夫●音楽:早坂文雄●原作:芥川龍之介「藪の中」●時間:88分●出演:三船敏郎/森雅之/京マチ子/志村喬/千秋実/上田吉ニ郎/加東大介/本間文子●公開:1950/08●配給:大羅生門-00.jpg映●最初に観た場所:高田馬ACTミニ・シアター.jpgACTミニ・シアター2.jpg早稲田通りビル.jpg場ACTミニシアター(84-12-09)(評価:★★★★☆)●併映:「デルス・ウザーラ」(黒澤明)
高田馬場(西早稲田)ACTミニシアター 1970年代開館。2000(平成12)年3月26日活動休止・閉館。

『藪の中』講談社文庫.jpg 芥川の「藪の中」と「羅生門」は、岩波文庫、新潮文庫、角川文庫、ちくま文庫などで、それぞれ別々の本(短編集)に収められていますが("やのまん"の『芥川龍之介 羅生門―デカい活字の千円文学!』 ('09年)という単行本に両方が収められていた)、'09年に講談社文庫で両方が1冊入ったもの(タイトルは『藪の中』)が出ました。講談社が製作に加わっている中野裕之監督、小栗旬主演の映画「TAJOMARU(多襄丸)」('09年/ワーナー・ブラザース映画)の公開に合わせてでしょうか。「藪の中」を原作とするこの映画(要するに「羅生門」のリメイク)の評価は散々なものだったらしいですが、「藪の中」という作品が映画「羅生門」の実質的な原作として注目されることはいいことではないかと思います。

藪の中 (講談社文庫)』['09年]


ACTミニシアターのチラシ.gifACTミニシアターのチラシ http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20070519/p1 大山昇子氏「女おいどん日記」より

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片岡千恵蔵の今風な演技と、対照的な演技の1人2役。肩が凝らずに楽しめる一品。

赤西蠣太ビデオ.jpg 赤西蠣太vhs.jpg 赤西蠣太01.jpg  ちくま日本文学021 志賀直哉.jpg
「赤西蠣太 [VHS]」「赤西蠣太 [VHS]」片岡千恵蔵 in「赤西蠣太」 『志賀直哉 [ちくま日本文学021]』['08年]

赤西蠣太.jpg赤西蠣太より.gif 江戸の伊達家の大名屋敷に着任した赤西蠣太(片岡千恵蔵)は、風采が上がらず胃弱のお人好し侍だが、実は彼は、江戸にいる伊達兵部(瀬川路三郎)と原田甲斐(片岡千恵蔵・二役)による藩転覆の陰謀の証拠を掴むという密命を帯びて送られてきた間者(スパイ)であり、彼の目的は、同じく間者として送り込まれていた青鮫鱒次郎(原健作)と集めた様々な証拠を、無事に国許へ持ち帰ることだった。江戸藩邸を出奔する理由として蠣太らは、蠣太が邸内随一の美人である小波(毛利峯子)に落とし文をして袖にされ、面目を保てなくなったというストーリーを練る―。

赤西蠣太より2.jpg 原作は、伊達騒動に材を得た志賀直哉が1918(大正7)年9月に『新小説』に発表した時代小説で、志賀直哉が生涯において書いた時代小説はこの作品だけだそうですが、伊丹万作が二枚目役者・片岡千恵蔵に醜男・赤西蠣太の役を配して、ユーモラスな作品に仕上げています。

赤西蠣太より.jpg 角川文庫、新潮文庫、ちくま文庫などに収められいる原作は20ページほどの小品ですが、それが1時間半近い作品になっているわけで、蠣太と隣人との武士の迷い猫の押し付け合いや、なかなかラブレターがうまく書けない蠣太の様子などのユーモラスなリフレインを入れて多少は時間を稼いでいるものの(それらも赤西蠣太の人柄を表すうえで無駄な付け加えという風には感じない)、概ね原作に忠実に作られていると見てよく、ある意味、志賀直哉の文体が、如何に簡潔で圧縮度が高いものであるかを示していることにもなっているように思えました。

野良猫を盥回しする角又と赤西 .jpg 赤西蠣太(実は偽名)の名は原題通りですが、原作における「銀鮫鱒次郎」が原健作が演じる「青鮫(蒼ざめ?)鱒次郎」になっているほか、志村喬が演じる「角又鱈之進」など、主要な登場人物の名前に魚編の文字を入れるなどして、原作の"遊び"を更に増幅させています(意外なことに蠣太に恋心を抱いていたことが判明する「小波」(ささなみ)は、原作では「小江」(さざえ)。何だか"磯野家"みたいになってしまうけれど、同じ海関係なのでこのまま使っても良かったのでは?)。
野良猫を盥回しする角又鱈之進(志村喬)と赤西蠣太(片岡千恵蔵)
青鮫鱒次郎(原健作)は捕えられ、赤西には追っ手が差し向けられる
赤西蠣太16.jpg赤西蠣太ess.jpg赤西蛎太    6.jpg しかし、この映画の白眉とも言える最大の"遊び"は、謀反の黒幕である原田甲斐(山本周五郎の『樅の木は残った』ではこの人物に新解釈を加えているが、この作品では型通りの「悪役」として描かれている)、つまり主人公にとってのある種「敵役」を演じているのもまた片岡千恵蔵その人であるということです。当時の映画作りにおいて一人二役はそれほど珍しいことではないですが、これはよく出来ている!

赤西蠣太 [片岡千恵蔵2.jpg "赤西蠣太"としての演技が、同僚の下級武士の演技より一段とすっとぼけた現代的なサラリーマンのような感じであるのに対し(千恵蔵の演技だけ見ていると、とても戦前の作品とは思えない)、"原田甲斐"としての台詞は、官僚的な上級武士の中でも目立って大時代的な歌舞伎調の文kataoka22.jpg語になっているという、この対比が面白いと言うか、見事と言っていいくらいです。事前の予備知識がなければ、同じ役者が演じているとは絶対に気づかないかも。因みに片岡千恵蔵は、2年後の「忠臣蔵 天の巻・地の巻」('38年/日活京都)では、浅野内匠頭と立花左近の二役を演じています。

赤西蠣太 京橋映画劇場.jpg酒井邸で原田は刃傷し、殺される .jpg 原作は、伊達騒動の経緯自体は僅か1行半で済ませていますが、映画では、当時から見ても更に時代の旧い無声映画風のコマ落とし的描写で早送りしていて、伊達騒動自体は周知のこととして細かく触れていないという点でも原作に忠実です。 
酒井邸で原田甲斐(片岡千恵蔵=二役)は刃傷し殺される

お家騒動は落着し、赤西は小波と再会する.jpg 一方で、「蠣太と小江との恋がどうなったかが書けるといいが、昔の事で今は調べられない。それはわからず了いである」として原作は終わっていますが、映画では、蠣太が"小波"の実家を訪ね、結婚行進曲(作中にもショパンのピアノ曲などが使われている)が流れるところで終わるという、微笑ましいエンディングになっています。
お家騒動は落着し赤西は小波(毛利峯子)と再会する

 全体を通して肩が凝らずに楽しめる一品で、原作者である志賀直哉が観て、絶賛したという逸話もあります。実際、原作より面白いと言えるかもしれません。 

「赤西蠣太」撮影中の風景.JPG「赤西蠣太」撮影中の風景(左より片岡千恵蔵、上山草人、監督の伊丹万作 (「千恵プロ時代」より))

片岡千恵蔵e1.JPG片岡千恵蔵(1903-1983)in「多羅尾伴内」シリーズ

赤西蠣太 poster.jpg「赤西蠣太」●制作年:1936年●監督・脚本:伊丹万作●製作:片岡千恵蔵プロダクション●撮影:漆山裕茂●音楽:高橋半●原作:志賀直哉「赤西蠣太」●時間:84分●出演:片岡千恵蔵/杉「赤西蠣太」vhs.jpg山昌三九/上山草人/梅村蓉子/毛利峯子/志村喬/川崎猛夫/関操/東栄子/瀬川路三郎/林誠之助/阪東国太郎/矢野武男/赤沢力/柳恵美子/原健作/比良多恵子●公開:1936/06●配給:日活●最初に観た場所:京橋フィルムセンター(08-11-16)(評価:★★★★)●併映:「白痴」(黒澤明)赤西蠣太 [VHS]

小僧の神様(岩波文庫).jpg赤西蠣太―他十四篇0_.jpgちくま日本文学021 志賀直哉.jpg【1928年文庫化・1947年・2002年改版[岩波文庫(『小僧の神様 他十篇』)]/1955年再文庫化[角川文庫(『赤西蠣太―他十四編』)]/1968年再文庫化・1985年改版[新潮文庫(『小僧の神様・城の崎にて』)]/1992年再文庫化[集英社文庫(『清兵衛と瓢箪・小僧の神様』)]/1992年再文庫化[ちくま文庫(『ちくま日本文学全集』)]/2008年再文庫化[ちくま文庫(『ちくま日本文学021志賀直哉』)]/2009年再文庫化[岩波ワイド文庫(『小僧の神様―他十編』)]】   
赤西蠣太―他十四篇 (1955年) (角川文庫)』/『志賀直哉 [ちくま日本文学021]』['08年]
『小僧の神様 他十篇』 (1928年文庫化・1947年改版・2002/10 岩波文庫)(「城の崎にて」「赤西蛎太」など所収)

 
《読書MEMO》
田中小実昌 .jpg田中小実昌(作家・翻訳家,1925-2000)の推す喜劇映画ベスト10(『大アンケートによる日本映画ベスト150』('89年/文春文庫ビジュアル版))
○丹下左膳餘話 百萬兩の壺('35年、山中貞雄)
赤西蠣太('36年、伊丹万作)
○エノケンのちゃっきり金太('37年、山本嘉次郎)
○暢気眼鏡('40年、島耕二)
○カルメン故郷に帰る('51年、木下恵介)
○満員電車('57年、市川昆)
○幕末太陽傳('57年、川島雄三)
○転校生('82年、大林宣彦)
○お葬式('84年、伊丹十三)
○怪盗ルビイ('88年、和田誠)

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実験しながら話す、元祖「でんじろう先生」? 解り易く格調高い。

ロウソクの科学』.jpgロウソクの科学旧版.jpg ロウソクの科学改訂版.jpg ロウソクの科学(角川文庫).jpg 
[旧版](矢島祐利:訳)/『ロウソクの科学 改訳 (岩波文庫)』(竹内敬人:訳)/『ロウソクの科学 (角川文庫)』(三石巌:訳)

マイケル・ファラデー.bmp 1860年(エジソンが電球を発明する19年前)の暮れに、「ファラデーの法則」で有名なマイケル・ファラデー(1791‐1867)が、少年少女のために行なったクリスマス講義6講を纏めたもので、この時ファラデーは70歳だったとのことですが、子供たちに科学へ関心抱いて欲しいという思いが伝わってくる生き生きとした話しぶりには、自らを「青年」と呼ぶに相応しいみずみずしさが感じられます。

 第1講で牛脂や鯨油、蜜蝋、パラフィンなどから作られた様々なロウソクを見せながらその製法を説明し(当時、ロウソクは今よりずっと生活に密着したものだっただろう)、ロウソクはなぜ燃えるのかという話に入っていき、毛管引力(表面張力)、毛管現象を解説、以下、全講を通じて、ロウソクを通して様々な科学(主に化学)現象を解説していきます。

 第2講では炎の明るさと空気(酸素)の関係を実験的に示し、燃焼によって水が生じることを、第3講ではロウソクが燃えた後に残るものは何かを、第4講では燃焼によって生じた水の成分、水素と酸素を電極装置で分離採取し、その特性を明らかにしています。第5講では空気中の酸素の性質とロウソクから生ずる二酸化炭素の性質を説き、第6講では石炭の燃焼で炭素が空気中に溶け込むことを実験解説すると共に、ロウソクの燃焼は人間の呼吸と似たような現象であるとしています。

ファラデーのクリスマス講演.jpg 少年少女達の目の前で自ら(時に助手を使いながら)実験し、それに基づいて解説しているので、当時のファラデーの話を聴いた子供達は、かなり引き込まれたのではないでしょうか。自分達だってこんなやり方での授業は殆ど受けたことがなく、テレビで見る「米村でんじろう先生」とか「平成教育委員会」の実験に思わず魅入ってしまうのと同じ要素が、この講義録にはあるかと思われます(「平成」でやっていたのと全く同じ実験があった)。プレゼンテーターとしても卓越していますが、単に解り易いだけでなく、格調が高い!

ファラデーのクリスマス講演

 この講演をした場所は「王立研究所」ですが、角川文庫版の訳者・三石巌の解説によると、彼自身は貧しい鍛冶屋の次男に生まれ、製本屋の小僧をしていたのが、何事にも探求心の強い彼を見て、製本屋の主人が、彼が屋根裏部屋で化学実験をすることを励ました―そして、たまたま製本屋を訪れた客に、王立研究所で化学の講義があることを教えてもらい、その講演を聴いて科学に一生を捧げることを誓い、後に数多くの化学や物理の法則・原理を発見したというから、スゴイ人です。

 貧困は環境の1つの要素に過ぎず、本人の情熱や周囲の人の思いやり、思わぬ人との出会いが、その人の人生を大きく変えるということでしょうか。
 
 【1933年文庫化・1956年改版[岩波文庫(矢島祐利:訳)]/1962年再文庫化[角川文庫(三石巌:訳)]/1972年再文庫化[講談社文庫(吉田光邦:訳)]/1974年再文庫化[旺文社文庫(日下実男:訳)]/2010年再文庫化[岩波文庫(竹内敬人:訳)]】

《読書MEMO》
●2019年ノーベル化学賞受賞・吉野彰さん(「ロウソクの科学」で目覚めて...)2019.10.10
ノーベル賞  吉野彰さん ロウソクの科学1.png

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「●光文社新書」の インデックッスへ

何か物申すというより、ケータイを通しての若者のコミュニケーション行動、消費行動分析。

原田 曜平 『近頃の若者はなぜダメなのか』.jpg原田 曜平 『近頃の若者はなぜダメなのか』 .jpg
近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」 (光文社新書)』['10年]

 著者は、大手広告代理店・博報堂に勤務する32歳のマーケティングアナリストで、今の若者に携帯電話がどのような使われ方をしているのかを「7年をかけて、10代半ば〜20代後半の若者、約1000人に実際に会って、じっくりと話を聞いて」分析したとのこと。今の若者には他者に対して過剰に気遣いする傾向が見られ、ケータイを通してかつての「村社会」と似た「新村社会」とでも言うべきものが出来上がっていて、その中で若者達は、その「新村社会」における"空気"を読みながら、浅く広い人間関係を保っているという分析は、なかなか興味深かったです。

 「大人になってからケータイを持ち始めた30代以上」が本書のターゲットということですが、前半部分は、足で稼いだ情報というだけあって、若者へのインタビューなどにシズル感があって面白かったです(「私、今日『何キャラ』でいけばいいですか?」には笑った)。

 次第に「博報堂生活総合研究所」らしい(いかにもパターン化された?)分析が目につくようになり(思いつきで言っているのではなく、データの裏付けがありますよということなのだろうが)、「どちらかというと、クライアント(広告主)向けの10代・20代の若者のコミュニケーション行動、消費行動分析のプレゼンテーションっぽくなっていっているように思えました。

 著者自身は人情味あふれる下町の出身で、若い頃は青山や渋谷といった街の華やかさに憧憬を抱いていたようですが、今の若者は、ファッションなどにおいて洗練されているように見えても、必ずしもそうしたお洒落な街をテリトリーとしているわけではなく、地元に引きこもってそれで充足しているタイプが多いとのこと。

 しかも、そこに、かつて著者自身が経験したような濃密な人と人との交わりがあるわけではなく、何となく、著者自身の「こんなのでいいのかなあ」という嘆息のようなものが伝わってはきますが、"私情"はさておき"分析"を続けるといった感じで、ましてやタイトルにあるように、それでは「ダメ」だと言い切っているわけでもなければ(むしろ、そうした既成の「若者論」自体を批判している)、踏み込んで社会学的な分析を行っているわけもありません(その意味ではタイトルずれしているし、その上に物足りない)。

 だんだんと書籍からの引用、他書との付き合わせが多くなり、そこで参照されている本が、三浦展氏の『下流社会』('05年/光文社新書)だったりしますが、三浦展氏もマーケッター出身であり、社会に対して何か物申すというより、"市場分析"(若者のコミュニケーション行動・消費行動分析)といったトーンがその著書から感じられ、本書の「観察」主体の姿勢は、「携帯電話を使う時、ふと立ち止まるかどうかが世代の分かれ目」と言っていた三浦氏の「観察」姿勢とやや似ているなあと。

 後半部分も若者へのインタビューなどは出てきますが、それらが著者自身の社会論や若者論へ収斂していくというものでもなく、引き続き、更に細分化して(悪く言えば散発的に)現象面を追っているという感じがしてならず、結局、オジさんたちに対する"現代若者気質"講義(乃至プレゼン)は、世の中いろいろな若者がいますよということで終わってしまったような印象を受けました。

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読みどころは、「いじめ」問題にフォーカスした第1章か。

友だち地獄.jpg  友だち地獄 3.jpg
友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)』 ['08年]

 著者によれば、現在の若者達は、「優しい関係」の維持を最優先にして、極めて注意深く気を遣い合いながら、なるべく衝突を避けよう慎重に人間関係を営んでおり、その結果、「優しい関係」そのものが、山本七平言うところの「空気」の流れを支配し力を持つため、その空気の下での人間関係のキツさに苦しみ、生きづらさを抱え込むようになっているとのことです。

 全5章構成の第1章では、「いじめ」問題にフォーカスし、そうした「優しい関係」がいじめを生み出すとしていて、「優しい関係」を無傷に保つために、皆が一様にコミュニケーションに没入する結果、集団のノリについていけない者や冷めた態度をとる者がいじめの対象となり、一方で、対人距離を測れず接近しすぎる者も、空気を読めない(KYな)者として、いじめの対象になるとしています。

 以下、第2章では、「リストカット」にフォーカスし、高野悦子『二十歳の原点』南条あや『卒業式まで死にません』を比べつつ、若者の「生きづらさ」の歴史的変遷を辿り、その背後にある自己と身体の関係を探るとともに、第3章では、「ひきこもり」にフォーカスし、或るひきこもり青年が発した「自分地獄」という言葉を手掛かりに、「ケータイ小説」ブームなどから窺える、現在の若者達の人間関係の特徴、純粋さへの憧れと人間関係への過剰な依存を指摘し、そこから第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」へと繋げ、更に第5章で「ネットによる集団自殺」を取り上げ、それはケータイ的な繋がりの延長線上にあるものだとしています。

いじめの構造.gif 個人的には、第1章の「優しい関係」を維持しようする集団力学がいじめを生み出すとした部分が最もしっくりきて、陰惨ないじめが(被害者側も含め)"遊びモード"で行われるということをよく説明しているように思え、同じ社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』('09年/講談社現代新書)が、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が場の情報となり、それがいじめを引き起こすとしているのと共通するものを感じました(章後半の、若者はなぜ「むかつく」のかということについては、『いじめの構造』の方がよく説明されているように思う)。

 但し、第2章以下で様々な社会現象を扱うにあたって、「優しい関係」というキーワードで全てを説明するのはやや無理があるようにも思われ、第2章の高野悦子と南条あやの「身体性」の違いの問題、第3章の若者が希求する「純粋性」の問題などは、それぞれ単独の論考として読んだ方がいいように思えました。

近頃の若者はなぜダメなのか.jpg 第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」は、博報堂生活総研の原田曜平氏の近著『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』('10年/光文社新書) などに比べれば、社会学者らしい洞察が見られる分析ではあったものの、ここでも身体論が出てくるのにはやや辟易しました(「計算機も脳の延長である」とした養老孟司氏の『唯脳論』風に言えば、ケータイは身体の延長と言うよりもむしろ脳の延長ではないか)。

 全体として章が進むにつれて、他書物からの引用も多くなり、それらを引きつつ、牽強付会気味に仮説と「検証」を組み合わせているような感じもしました(文章的には破綻しておらず、むしろキッチリしていて且つ読み易く、その辺りは巧みなのだが、類似する論旨の他書を引いても検証したことにならないのでは)。

 まあ、こうやって仮説を立てていくのが、社会学者の仕事の1つなのでしょうが、検証面がちょっと弱い気もしました。
 著者の頭の中ではしっかり整合性がとれているのだろうけれど、読む側としては、社会における若者そのものよりも、むしろ社会学者の若者観のトレンドが分かったという感じでしょうか。

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「群生秩序」という視点から、社会学的に「いじめの構造」を鋭く分析。

いじめの構造.gifいじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]内藤 朝雄.png 内藤朝雄 氏

 いじめが何故起こるのかということを社会学的に分析した本で、著者には『いじめの社会理論』('07年/柏書房)という本書で展開されている分析のベースとなっている本がありますが、個人的はその本は読了していないものの、本書を読めば、大体、著者の考え方は解るのでは。

 自分が以前に読んだ本田由紀・後藤和智両氏との共著『「ニート」って言うな!』('06年/光文社新書)の中で著者は、「最近の若者は働く意欲を欠いている」「コミュニケーション能力に問題があり他者との関わりを苦手とする」「凶悪犯罪に走りやすい」といった根拠の希薄な「青少年ネガティブ・キャンペーン」と相俟って「ニート」が大衆の憎悪と不安の標的とされていることを指摘していて、なかなか明快な分析であると思ったのですが、本書においても、既存の「いじめ問題」に対する教育学者や評論家の論調の非論理・不整合を指摘しつつ、この問題に対し、より社会学者らしい突っ込んだ分析を展開しています。

 著者によれば、いじめの場においては、市民社会の秩序の観点から見れば秩序が解体していることになるが、(著者の命名による)「群生秩序」というもの、つまり群れの勢い(ノリ)による秩序という観点から見れば、むしろ「秩序の過重」が見られるとのこと。また、寄生虫が宿主の行動様式を狂わせることを喩えに、学校という小社会の中では、社会が寄生虫化することが起こりうるとも。

 つまり、学校の集団生活によって「生徒にされた人たち」の間では、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が、場の情報(「友だち」の群れの情報)となって、それが個の中に入ると、個の内的モード(行動様式)をいじめモードに切り替えてしまい、内的モードの切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が更に次の時点の生徒達の内的モードを切り替えるということが繰り返され、心理と社会が誘導し合うグループが生じるのだといいます。

 「生徒にされた人たち」は、存在していること自体が落ちつかないという不全感(むかつき)を抱いていて、それが群れを介して誤作動することで全能感に切り替わり、全能感を味わうための暴力の筋書きに沿ってなされるのがいじめ行為であり、逆にいじめの対象が逆らったりしてこの全能感が否定されると、更なる暴発が発生することになると。

 全能感の類型などを細かく定義しており、個人的には必ずしも全て100%納得できた説明ではなかったのですが、実際に起きた様々な(どうしたこうしたことが起きてしまうのだろうという陰惨な)いじめ事件をケーススタディとして、それらに対して一定の解を与える手法で分析を進めているため、それなりの説得力を感じました。

 とりわけ、「投影同一化」という心理的作用によって、いじめがいじめる側の過去の体験の「癒し」となっているという分析は腑に落ち(この論理で児童虐待における「虐待の連鎖」のメカニズムも説明できるのではないか)、また、いじめられる側のいじめる側に呼応してしまうメカニズムについても解説されています(往々にして、加害者だけでなく、被害者や教師も、ある種のメンバーシップに取り込まれていることになる)。

 抽象的な社会・心理学的理論だけ展開して終わるのではなく、打開策も示されていて、短期的政策としては、「学校の法化」(学校内治外法権を廃し、学校内の事も市民社会同様に法に委ねること)と「学級制度の廃止」(とりわけコミュニケーション操作系のいじめに対して)を掲げています。

 本書にあるように、教師までもがこうしたメンバーシップに取り込まれているような状況ならば、学校は聖域だというのは却って危険な考え方であるということになり、また、学級という濃密な人間関係の場がいじめの原因になっているのならば、そうしたものを解体するなり結びつきを弱める方向で検討してみるのも、問題解決へ向けての足掛かりになるのではないかと思われました(どこかの学校で実験的にやらないかなあ)。

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死刑の実態だけなく、被害者遺族、元裁判官などを広く取材。考えさえられる点が多かった。

死刑 読売新聞社会部.jpg 『死刑』 ['09年]

  '08年から'09年に読売新聞社会面に4部構成で連載された特集「死刑」に加筆して纏めたもので、第1章では、死刑囚に対する刑の執行がどのように行われるかが、第2章では、たとえ加害者が死刑に処せられても癒されることのない被害遺族の思いが、第3章では、死刑を選択した元裁判官の判断の重さと彼らにかかる心理的重圧が描かれ、最後の第4章では、今後の死刑制度のあり方を諸外国との制度比較の中で模索しています。

 本書自体は、死刑廃止を訴えているわけでも存置論を唱えているわけでもなく、死刑制度の関係者の声を広く集め(延べ約380人を取材)、それを読者の前に投げかけるというスタイルをとっていますが、取り上げられているケースの1つ1つは、簡潔ながらも何れも重いものでした。

 これまで自分が読んだ死刑制度に関する本の多くが、"知られざる"処刑の現実を描いて、「国家」が人の命を奪うことの意味を問う傾向にありましたが、本書も第1章では、"死刑の変遷と現実"を追うと共に、様々な死刑囚や苦悩する刑務官の姿などを取材しています。

 この中では、執行当日の朝になって告知することが、本当に死刑囚の苦しみを減じることになっているのかという問題提起が考えさせられました(昔は、拘置所の取り計らいで数日前に告知し、死刑囚同士の"お別れ会"のようなこともあったという)。

読売新聞連載「死刑」 第2部・かえらぬ命・(5)より.jpg 本書の特徴的な点は、類書が、被害者遺族の感情については事件ごとの付随的な記述に止まる傾向がある中で、第2章「かえらぬ命」で、被害者遺族を綿密に取材し、その声を数多く集めていることでしょう。

2008年12月16日付 読売新聞朝刊

 その中にある、「死刑が執行されて10年経っても、犯人が許せない。犯人は死刑になったら終わりだが、私たちは死ぬまで事件を引きずって生きていく。無期懲役にされたようなものだ」という言葉は重く、加害者がまだ生きていると思うだけでやるせない憤りを覚えるというのが大方の被害者遺族の感情である一方で、加害者に死刑が執行されたことによって被害者遺族が何か達成感のようなものを得たかというと、必ずしもそうではないことが窺えます。

 中には、加害者を極刑に処することを望まず、生きて償って欲しいと思っている遺族もいて、親兄弟を殺された場合と我が子を殺された場合、或いは、事件直後と時間が経過してからなどにおいて、遺族感情にはかなり幅があるように思えました。

 加害者からの謝罪の手紙の封を切ることさえしない遺族が多い一方で、そうした手紙を読んだことを契機に、加害者に会って直接の謝罪の言葉を聞きたいと考えるようになり、刑が確定しても、希望する遺族には加害者と会える仕組みを作るべきだと思うようになったという遺族の言葉には考えさせられました。

 日本の場合、被害者と加害者の接見及び確定囚との接見は許されていませんが、死刑囚の男性と若い女性の交流を描いた韓国の作家・孔枝泳(コン・ジヨン)『私たち幸せな時間』(蓮池薫:訳/'07年/新潮社)には、そうした場面が出てきます(小説の主人公は処刑されるが、韓国では'98年以降は執行が停止されている)。

 第3章では、これまで守秘異義務上、殆ど取り上げられることのなかった、死刑判決を言い渡した裁判官の心情が取材されていて、これも貴重な証言集だと思いました。

 この中で、名古屋で姉妹が6人の犯行グループに拉致され、生きたまま焼き殺された「ドラム缶殺人事件」(2000年4月(平成12年)事件発生)で、主犯格の2人に死刑判決を下した名古屋高裁の裁判長の証言が出てきますが(共に最高裁で死刑が確定し'09年1月執行)、犯人グループ内での力関係を疑問の残らないところまで調べ上げるため、一審(死刑判決)より更に踏み込んで精査したことが書かれています。

 一方で、今日('10年2月16日)の朝日新聞社会面の特集「死刑と無期の境」では、この事件の死刑囚の1人を取り上げ、カトリックの洗礼を受け、本人は刑を受け入れる覚悟はしていたものの、「命令されてやったことを裁判長に分かってもらえれば無期懲役にできたのではないか」という担当弁護士の後悔のコメントが紹介されています。

 隠されている部分が多いだけに、どういった取材記事に触れるかによって、事件や死刑囚に対するイメージがかなり異なってくる面もあるように思いました。

【2013年文庫化[中公文庫(『死刑 - 究極の罰の真実』)]】

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"内部告発"っぽいが、『予習という病』のようなアザトイ本の多い中では、まともなスタンス。

中学受験の失敗学 2.jpg瀬川 松子 『中学受験の失敗学』.JPG 瀬川 松子 『亡国の中学受験』.jpg 予習という病.gif
中学受験の失敗学 (光文社新書)』['08年]/『亡国の中学受験 (光文社新書)』['09年]/高木幹夫+日能研『予習という病 (講談社現代新書)』['09年]

 本書『中学受験の失敗学-志望校全敗には理由(わけ)がある』('08年/光文社新書)では、中学受験に取りつかれ、暴走の末に疲れ果ててしまう親たちを「ツカレ親」と名づけ、親たちをそうした方向へ駆り立てている、中学受験の単行本や受験雑誌、更に、受験塾の指導のあり方を批判しています。

 大手塾で受験指導し、その後、家庭教師派遣会社に転職して受験生を抱える家庭に派遣され、多くの「ツカレ親」を見てきた著者の経験に基づく話はリアリティがあり、モンスターペアレントみたなのが、学校に対してだけでなく、塾や家庭教師派遣会社に対してもいるのだなあと。

 塾や家庭教師の志望校設定には営利的判断が含まれていることがあり、くれぐれも、そうした受験産業の"カモ"にされて、無謀な学習計画や無理な目標設定で我が子をダメにしないようにという著者のスタンスは、至極まっとうに思えました。(評価★★★☆)

 この本が最後に「ダメな勉強法」を示していて、著者がまだ受験指導の現場にいた余韻を残しているのに比べると、続編の『亡国の中学受験-公立不信ビジネスの実態』('09年/光文社新書)は、やや評論家的なスタンスになっているものの、基本的には同じ路線という感じで、タイトルの大仰さが洒落だったというのは洒落にならない?(タイトル通り、きちんと「亡国論」を書いて欲しかった)。

 前著では、受験塾と私立中学の裏の関係なども暴いていましたが(既に組織に属していないから"内部告発"とも言い切れないのだが)、本書では、公立中学への不信感を煽り、私立中高一貫校への幻想を抱かせる、私立中学と受験塾の"戦略"に更にフォーカスしていて、中学受験のシーズンになるとNHKのニュースなどで、報道と併せてトレンド分析のコメントをしている森上研究所とかいうのも、日能研の応援団だったのかと(知らなかった)。(評価★★★)

 その点、高木幹夫+日能研『予習という病』('09年/講談社現代新書)は、日能研の社長が書いているわけだから、分かり易いと言えば分かり易い(皮肉を込めて)。予習をさせないというのは、日能研もSAPIXも同じですが、それが本当にいいかどうかは、授業の程度と生徒の学力の相関で決まるのではないでしょうか、普通に考えて。それを、「福沢諭吉は予習したか?」みたいな話にかこつけているのがアザトイ(「ツカレ親」である妻を持つ夫向け?)。

 実際、塾にお任せしている分、教材の量やテストの数、、夏期講習や冬期講習などの補講は多くなり、それだけの費用がかかるわけで、週末ごとのテストに追われ、ついていけなくなると、結局はどうしても予習(親のアシスト)が必要になり、さもなくば、わからないままに授業を聞いて試験を受けるだけの繰り返しになってしまう...。

 日本社会の中で、未来学力でものを考えられる環境は「私学の中高一貫校」しかないと言い切っていて、そりゃあ、自社の売上げ獲得のためにはそう言うでしょう。大手進学塾の多くは似たようなことをやっているわけだけど、こんな露骨な宣伝本を新書で出してしまっていいのかなあ。(評価★☆)

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写真集が出来上がった経緯に感動。「聞き書き」者の果たした役割も大きい。

トランクの中の日本.jpg『トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』.jpgJoe O'Donnell.jpg J. O'Donnell(1922‐2007)
トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録』['95年](26.8 x 23.4 x 2.2 cm)

焼き場に立つ少年.jpg ジョー・オダネル(1922‐2007/享年85)は、ホワイトハウスのカメラマンとして、トルーマンからジョンソンまで4代にわたる大統領の元で写真を撮ジョー・オダネル.jpg影し、暗殺されたケネディの棺の前でケネディ・ジュニアが敬礼する写真は世界中に配信されました。そこから遡ること18年、第二次世界大戦での日本敗戦直後の1945年9月、彼は占領軍の海兵隊のカメラマン(米国空爆調査団公式カメラマン)として佐世保に上陸し、約7ヵ月間、長崎や広島を歩き、日本と日本人の惨状をフィルムに収めることになります。

 本書はその写真集であり、ジョー・オダネルのことは、'05年2月にTBSで「原爆の夏 遠い日の少年」として放映され(ATP賞総務大臣賞、日本民間放送連盟賞テレビ報道部門賞、平成16年度文化庁芸術祭テレビ部門優秀賞受賞)、更に没後の'08年8月にNHKスペシャルで「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」とNHKスペシャル「解かれた封印 ~米軍カメラマン.jpg「解かれた封印〜米軍カメラマ2.jpgして放映されていますが(第35回放送文化基金賞(テレビドキュメンタリー番組部門)、ヒューゴ・テレビ賞ドキュメンタリー(歴史・伝記)部門金賞受賞)、彼の撮った写真で最も有名な、幼い弟を荼毘に付す順番を待つ少年をの写真「焼き場に立つ少年」(オリジナルのキャプションは「焼き場にて、長崎」)などは、軍には内密に私用のカメラで撮られたものです。

 ジョー・オダネルは本国に帰国後、それまで敵国として捉えていた日本及び日本人に対する自らのイメージの変容に戸惑い、また爆心地で目の当たりにした光景の悲惨な記憶に耐えかね、これらのネガフィルムや記録メモを自らトランクの中に封印する一方、爆心地を歩き回ったことによる被爆後遺症に悩まされ続けますが、ジェニファー・オルドリッチ(本書の「聞き書き」者)との出会いにより、戦後半世紀近く経てその封印を解き、'90年にアメリカで、92年に日本で写真展を開きます。

ジョー・オダネル1.jpg ジェニファー・オルドリッチの聞き書きを読むと、オダネルは、最初から従軍カメラマンとして赴任したのではなく、海兵隊に配属になってから「撮影」という任務を与えられたようです。最初は意気揚々と佐世保に上陸し、焼夷弾で焼け野原となった佐世保市内を見てショックを受けるものの、これで長崎・広島を取材するにあたっての"免疫"が出来たと思い、むしろ日本の文化に関心を示して、市井の日本人と交流しつつ、その生活ぶりなどを撮っていますが、その後で実際に長崎・広島に入り、原爆が投下されて間もない両市街地のあまりの惨状に、佐世保市内を見て身についたと思われた"免疫"は全くの無力だったという思いがしたとのことで、長崎・広島を見た彼の受けた衝撃の大きさがよく伝わってきます。

J. O'Donnell

 結局、戦後数十年、彼は当時の記憶を封印してはいましたが(任務とは別に密かに撮った写真であるということもあるし、それ以上に、こうした写真を公開することがアメリカ国民の一般的感情を逆撫ですることは必至であると容易に予想できたということがあるのではないか)、しかし、彼自身何の記憶も忘れ去ることは出来ずにいて、それを引き出すことによって彼を心理的に解放したのがジェニファー・オルドリッチだったとも言えます。  

 本書が出来上がるに際してジェニファーの果たした役割も大きいと思われ、戦場写真家として有名な人は多くいますが、2人の共同作業であるこの写真集が訴えかけるものの大きさという点では、それらに勝るとも劣るものではなく、また、オダネル自身もその後は平和運動家として活動しながら、日本も訪れてこの写真集に写っている人たちの何人かと再会しています。

Japan 1945  .jpg ジェニファーによる状況再現が胸を打つ「焼き場に立つ少年」の、その被写体となった少年との再会は果たせませんでしたが、少年のその後も気がかりながら、この写真が'95年のスミソニアンでの展示企画から外されて以来(長崎市に寄贈されて長崎原爆資料館に展示されている)、彼の仕事がどれぐらい米国など諸外国で知られているのかが気になります。

 米国での彼の原爆写真集の公式刊行は'08年になってからで、"Japan 1945: A U.s. Marine's Photographs from Ground Zero"というタイトルからも窺えるように、9.11同時多発テロが刊行の契機になっており、表紙には、(衝撃を緩和するためか)"生きている"幼子を背負った少年の写真が使われています。
Japan 1945: A U.s. Marine's Photographs from Ground Zero

《読書MEMO》
●本書「焼き場にて、長崎」のコメント(インタビュー・文:ジェニファー・オルドリッチ)
 (前略) 焼き場に一〇歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じつと前を見続けた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?

●TBS「原爆の夏 遠い日の少年」でのコメント(『写真が語る20世紀 目撃者』('99年/朝日新聞社)より抜粋(インタビュー・文:上田勢子))
 佐世保から長崎に入った私は小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目に入りました。男たちは60センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広場で遊んでいる子供たちの姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意思が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。少年は焼き場のふちに5分か10分も立っていたのでしょうか?白いマスクの男たちがおもむろに近づき、背中の赤ん坊をゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気づいたのは、少年があまりキツくかみ締めているため、唇の血は流れることもなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去って行きました...。

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