【1297】 ○ 山本 博文 『殉死の構造 (2008/09 講談社学術文庫) 《 殉死の構造 (叢書 死の文化)』 (1993/12 弘文堂)》 ★★★☆

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著者の「殉死」についての考察の原点とも言える本。もっと早く文庫化して欲しかった。

殉死の構造 学術文庫.jpg 『殉死の構造 (講談社学術文庫)』 殉死の構造 (叢書 死の文化).jpg殉死の構造 (叢書 死の文化)』['93年]

 '08年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'93年に弘文堂から「叢書・死の文化」の1冊として書き下ろされ、その後の著者の「殉死」について考察した本の原点とも言えるものであり、15年を経ての文庫化ということになります。

 森鷗外の『阿部一族』は、明治天皇に殉死した乃木希典の事件が契機となって書かれたそうですが、乃木が殉死したのは、明治天皇への忠義のためとか、西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われ、明治天皇の慰留により命を助けられたことを苦にしたためというものではなく、日露戦争の旅順攻防戦で多くの犠牲者を出した責任感からだと考えられるとしていて(司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、日本戦争史において、乃木ほど多くの兵士を無駄死にさせた無能将軍はないとしている)、個人的にはそうあって欲しいと思いますが、ならば何故そう言わなかったのかなあ。乃木流に考えても、「陛下の軍人」を何万も死なせたわけだし。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg その『阿部一族』に出てくる殉死騒動は、鷗外が参照した史料そのものに脚色があり、実は阿部弥一右衛門はしっかり他の者と一緒に殉死していたというのは、『武士と世間-なぜ死に急ぐのか』('03年/中公新書)にもありました。また、所謂「忠臣蔵」での赤穂浪士たちの死を覚悟した討ち入りが、主君への忠誠によるものというより、自らの武士の一分、つまり面子のためのものであったということも、『武士と世間』ほか、幾つかの新書本で触れています。

 江戸初期に小姓に殉死が多く見られたのは、心中する男女間の心性と同じものが、時に男色関係にあった主君と小姓の間にあったためだそうです。しかし、それほど寵愛もされなかった下級武士にも殉死者が少なくなかったのは、「殉死」のルーツは、戦国時代から江戸初期に引き継がれた「かぶき者」という荒々しい武断的な風潮にあり、戦国時代が終わって戦いの場を失った武士たちが、その「武士のアイデンティ」の発露として、主君が亡くなった際に追い腹を切るということが流行のようになったためであるとのこと。

 また「世間」も、このような戦国的武士像を武士に求めていたため、死ぬべき時にしなないと「武士の一分」が立たないということになり、元禄期の殉死になると、自分自身の意地と共に、こうした世間の評判に対する顧慮が、その大きな動機要因になっていたと考えられるとしています。

 「学術文庫」ですが読み易いです。但し、前述の通り、後で書かれたこの著者の本を何冊か読んでしまったので、自分にとっては"繰り返し"になってしまい、新味が薄かったのも正直な感想です(その分、星1つ減。もっと早く文庫化して欲しかった)。

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世.jpg江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg参勤交代.jpg 文中に、神坂次郎氏の『元禄御畳奉行の日記』('84年/中公新書)と氏家幹人氏の『江戸藩邸物語』('88年/中公新書)を参照している部分がありますが、著者自身も『参勤交代』(98年/講談社現代新書)を皮切りに、一般読者向けの新書本を著わすようになり、夕刊紙の連載などもしています。

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