2009年12月 Archives

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詳しく書かれていて、且つ分かり易い。解説書でありながら、ロマンを掻き立てられる。

人類の進化史 埴原和郎.jpg   人類の進化.jpg  東京大学名誉教授 埴原 和郎(はにはら かずろう).jpg 埴原和郎(はにはら かずろう)
人類の進化史―20世紀の総括 (講談社学術文庫)』['04年] 『人類と進化 試練と淘汰の道のり―未来へつなぐ500万年の歴史』 ['00年]

 本書の著者である人類学者の埴原和郎(1927-2004/享年77)東大名誉教授が1991年に提唱した日本人の起源についての「二重構造論」(東南アジア系の縄文人が居住していた日本列島に、東北アジア系の弥生人が流入して混血して現在に至っているという説)は、発表当初は多くの批判を浴びましたが、「日本人の重層性」という考えは、今は主流の学説になっています。

 本書は、その埴原博士が人類の進化史全般について解説したもので、『人類と進化 試練と淘汰の道のり―未来へつなぐ500万年の歴史』('00年/講談社)を底本とし、学術文庫に収めるにあたって、'00年以降'04年までの人類学の新たな成果が書き加えられています(結果的に学術文庫の方が単行本よりややページ数が多くなっている(321p→334p))。

 「章立て」を見てもわかりますが、テーマごとに年代を区切り、500万年前に二本足で直立歩行する猿人が出現し、それが現代型ヒト(サピエンス)に進化していくまでが丹念に解説されていて、詳しく書かれているだけでなく、文章もたいへん読み易いものであり、もともと形質人類学者なので、形質(骨)に関する記述は特に丁寧ですが、それだけでなく、遺伝(分子生物)学・地球環境学など広範な学問領域の研究成果が織り込まれています。

「新人アフリカ単一起源説」に基づいて描いた新人(現代型サピエンス)の拡散
「新人アフリカ単一起源説」.jpg 個人的には、やはり、人類の「出アフリカ」の解説部分が特にロマンを掻き立てられましたが、猿人から原人にかけての進化がアフリカで起こり、エレクトス原人のグループが初めてアフリカを出たのが100万年以上前だったと考えられるとのことで、現代人はアフリカからヨーロッパ、アジアに渡った原人の子孫であるという「多地域進化説」が当初は優勢だった―ところが、そこへ、「イブ説」という「全ての現代人(サピエンス)は、およそ20万年前にアフリカで生きていたあるグループの女性の子孫だ」という遺伝子学からの学説が出てきて、様々な修正を加えられながらも現在では「単系統進化説」が優位学説であるとのこと。

 また、本書では、ネアンデルタール人についての記述が特に詳しく、ネアンデルタール人は、30万年前に原ネアンデルタール人が出現し(祖先はハイデルベルゲンシス原人ではないかと考えられているが、この原人の"故郷"がどこかについてはアフリカ説、ヨーロッパ説など諸説ある)、寒冷気候に適応しながらヨーロッパと西アジアの全域に分布していったにも関わらず3万年前までには全て絶滅してしまったとのことですが、その間に、後に「出アフリカ」を果たしたホモ・サピエンスとの間に、"交流"はあったが"混血"は無かったとのことです。

 文庫化にあたって書き加えられた4年間の人類学の研究・発見成果だけでも様々なものがありますが、とりわけ、最古の人類化石サヘラントロプス・チャデンシスの発見により人類の起源が一気に200万年も以前に遡ったことは画期的であり、他書なども併せ読むとよりよく分かりますが、猿人・原人の細分化が近年特に進んでいるように思えます。

 また、底本の段階で既に触れられてますが、「多地域進化説」が必ずしも全否定できないものとなってきていることが窺えるのが興味深く、一方で、アフリカで起きたサピエンスが、コイサンとニグロイドといった分化だけでなく、アフリカ内部においてもかなりの多様性を持ったものであったと推察されること(黒人しかいなかったわけではない)も、近年の研究成果として注目していいのではないかと思います。
 日本人の起源についての著者の「二重構造論」についても、それまで述べてきた人類全体の進化史の流れの中で分かり易く解説されていて、解説書でありながらも読みどころ満載という感じです。

埴原和郎2.png 学術文庫刊行と時同じくして著者は肺がんで亡くなっていますが、生前からダンディな合理主義者で知られ、遺言により供花・香典を固辞し会葬を執り行わなかったこと、その死がマスコミにより報じられたのは、近親者による密葬が終わった後でした。

《読書MEMO》
●章立て
第1章 サルからヒトへの関門(‐500万年前ごろ)
第2章 生き残りをかけた猿人たちの選択(500万‐100万年前ごろ)
第3章 文化に目覚めたヒトの予備軍(250万‐23万年前ごろ)
第4章 直立したヒト、アフリカを出る(170万‐20万年前ごろ)
第5章 少しずつ見えてきた現代人への道すじ(60万‐23万年前ごろ)
第6章 氷期に適応したネアンデルタール人(20万‐3万年前ごろ)
第7章 多様化していく現代型のヒト(20万‐2万年前ごろ)
第8章 集団移動と混血をくり返しながら(3万‐1万年前ごろ)
第9章 ついに太平洋を越えて(4万年前ごろ‐)
第10章 進化に学ぶヒトの未来

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震災後、街がどのように復興を遂げてきたかということにスポットしているのが特徴。

カラー版 神戸.jpg 『カラー版 神戸―震災をこえてきた街ガイド (岩波ジュニア新書)』 ['04年]

 神戸の街を紹介した本ですが、阪神淡路大震災の後、街がどのように復興を遂げてきたかということにスポットを当てているのが特徴で、震災後ちょうど10年を経ようとしている時期に刊行されたのは、1つの区切りを記すうえでも意味のあることだったのではないでしょうか。

 なぜ「神戸駅」でなく、隣り駅の「兵庫」が県名になったのかとか、なぜ「神戸駅」より「三ノ宮」の方が賑やかなのかといった、神戸の発展の歴史についての概略を知ることも出来、また、街の見所を広く紹介しているため、通常のガイドブックとしても使えます(北野異人館町やハーバーランドだけしか行かない観光客には読んで欲しい)。

 神戸に実家がある者としては、街の昔の面影がまだ脳裏にあり、本書の中にも、もっと昔の写真と10年後の現況とを対比させるような意匠があってもよかったのではないかと思いました(依然と空き地のままになっている場所など、結構あるんだよなあ)。

 神戸に対する個人的な印象としては、本書にもある「神戸株式会社」という言葉が一番ぴったりくる感じで、ワイナリーとかハーブ園とか、市営の施設(商売?)がやたら多いという気がします。
 それと六甲・有馬方面にかけての、ここ10年ばかりの高速道路網の整備には目覚しいものがあり、むしろ、やや過剰ではないかとも。
 市のキャンペーンとかも行政的と言うより"企業的"なイメージがあるし、それはそれでいいところもあるし(震災からの立ち直りの早さは、やはり神戸ならではだろう)、何となく危うい面もあるような気も。

 「親水空間を十分にとった都賀川」の写真があり、阪神淡路大震災で水道が断水し、トイレ用の水に不便した際に、都津川の水がトイレ用や洗濯用に重宝したことにより、川の水の大切さを知った住民の「都津川を守る運動」があって、川底を歩いて散歩できる、この公園が造られたとのことです。
 それが、'08年7月の集中豪雨による鉄砲水(これ、ネット動画で見ると凄まじい)で学童保育で水遊びに来ていた児童2人が流され亡くなるという事故が起きてしまったのは、哀しい皮肉としか言いようがありません。
 
 こうして見ると、本書も、ややキャンペーン的かも。但し、終わりの方で、下町の再開発における人々の意気込みや悩みをとり上げ、また、若者を中心とした地道な文化・芸術活動などに触れているのは悪くないです。

8時間労働制導入記念碑.jpg ハーバーランドの「跳ね橋」の傍のオブジェが、川崎造船所が1919年に「8時間労働制」を導入した記念碑だとは知りませんでした。
 神戸は、パン・ケーキ・チョコレート・コーヒー・紅茶などの食文化、洋服・帽子・シューズなどのファッション、ゴルフ・サッカー・ボートなどのスポーツにおいて「日本で初めて」の地であるとのこと。
 「8時間労働制導入記念碑」の解説のところにも一言、「日本で初めて」と入れておいて欲しかったです(記念碑には「発祥の地」と刻まれている)。
 
 表紙と各章の扉絵に川西英(1894‐1965)「新・神戸百景」から抜粋した絵が使われていて、絵自体はすごくいいです。但し、ここに描かれているのは、「震災前の神戸」と言うより、昭和20年代から30年代にかけての「レトロな神戸」です。

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それぞれに興味深い、3人の"特別な"男たちの老境を紹介。

江戸人の老い.jpg 『江戸人の老い (PHP新書)』 ['01年]  第8代将軍徳川吉宗.jpg 第8代将軍・徳川吉宗

 「江戸人の」と言っても、著者自らが言うように、3人の"特別な"男たちの老いの風景を描出したもの。

「秋山記行」より.jpg 最初に出てくるのは、70歳で400字詰め原稿用紙に換算して175枚以上あろうという「遺書」を書いた鈴木儀三冶(ぎそうじ)という、中風(脳卒中)の後遺症に伏す隠居老人で、遺書の内容は、家族、とりわけ家業の質屋を老人の後に仕切る娘婿に対する愚痴が溢れているのですが、この、いかにもそこらにいそうな老人のどこが"特別"かというと、実は彼は俳詣・書道・絵画・漢詩などをたしなむ多才の文人で、「牧之」(ぼくし)という号で、各地を巡った記録を残している―。
 その表裏のギャップの意外性が興味深い鈴木牧之こと「儀三冶」、享年73。

鈴木牧之 「秋山記行」より「信越境秋山の図」(野島出版刊 複製版)

 2番目の登場は、8代将軍・徳川吉宗で、ずば抜けた胆力と体力の持ち主であった"暴れん坊将軍"も、62歳で引退し大御所となった後は、中風の後遺症による半身麻痺と言語障害に苦しんでいて、1つ年下で側近中の側近である小笠原石見守政登は、将軍の介護をしつつ、長男の新将軍・家重とその弟・田安宗武との確執など悪い話は大御所の耳には入れまいとしますが―。
 石見守の介護により、大御所・吉宗が一時的に快方に向かうと、それはそれで、事実を大御所に報告していない石見守の心配の種が増え、政務日記の改竄にまで手を染めるという、役人の小心翼々ぶりが滑稽。
 吉宗、享年68(石見守は85歳まで生きた)。

 最後に登場する、寺の住職を退き隠居の身にある十方庵こと大浄敬順は、前2人と違って老いても頗る元気、各地を散策し、68歳になるまでに957話の紀行エッセイを綴った風流人ですが、表向き女人嫌いなようで、実は結構生臭だったというのが面白いです。
 自作の歌や句を所構わず落書きする茶目っ気もありますが、実は透徹した批評眼を持ち、世に溢れる宗教ビジネスなどの偽物文化を戒め、本物の文化が失われていくのを嘆いています(よく歩く点も含め、永井荷風に似てるなあと思ったら、「あとがき」で著者もそれを指摘していた)。
 70を過ぎても郊外をめざして出歩いた敬順ですが、社交嫌いではなく、「孤独を愛する社交好き」という二面性を持っていたそうです。
 
 それぞれに、鈴木牧之(ぼくし)こと鈴木儀三冶の『遺書』、小笠原石見守の『吉宗公御一代記』、大浄敬順の『遊歴雑記』という史料が残っているからこそわかる3人の老境の実像ですが、ちょっと彼らの境遇が異なり過ぎていて寄せ集め感もあるものの、まずまず面白かったです
 個人的に一番面白かったのは、著者の筆の運びに拠るところが大きいのですが鈴木牧之の話、自分も老いたならばこうありたいと思ったのは大浄敬順、といったところでしょうか。

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著者の「殉死」についての考察の原点とも言える本。もっと早く文庫化して欲しかった。

殉死の構造 学術文庫.jpg 『殉死の構造 (講談社学術文庫)』 殉死の構造 (叢書 死の文化).jpg殉死の構造 (叢書 死の文化)』['93年]

 '08年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'93年に弘文堂から「叢書・死の文化」の1冊として書き下ろされ、その後の著者の「殉死」について考察した本の原点とも言えるものであり、15年を経ての文庫化ということになります。

 森鷗外の『阿部一族』は、明治天皇に殉死した乃木希典の事件が契機となって書かれたそうですが、乃木が殉死したのは、明治天皇への忠義のためとか、西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われ、明治天皇の慰留により命を助けられたことを苦にしたためというものではなく、日露戦争の旅順攻防戦で多くの犠牲者を出した責任感からだと考えられるとしていて(司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、日本戦争史において、乃木ほど多くの兵士を無駄死にさせた無能将軍はないとしている)、個人的にはそうあって欲しいと思いますが、ならば何故そう言わなかったのかなあ。乃木流に考えても、「陛下の軍人」を何万も死なせたわけだし。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg その『阿部一族』に出てくる殉死騒動は、鷗外が参照した史料そのものに脚色があり、実は阿部弥一右衛門はしっかり他の者と一緒に殉死していたというのは、武士と世間-なぜ死に急ぐのか』('03年/中公新書)にもありました。
 また、所謂「忠臣蔵」での赤穂浪士たちの死を覚悟した討ち入りが、主君への忠誠によるものというより、自らの武士の一分、つまり面子のためのものであったということも、『武士と世間』ほか、幾つかの新書本で触れています。

 江戸初期に小姓に殉死が多く見られたのは、心中する男女間の心性と同じものが、時に男色関係にあった主君と小姓の間にあったためだそうです。
 しかし、それほど寵愛もされなかった下級武士にも殉死者が少なくなかったのは、「殉死」のルーツは、戦国時代から江戸初期に引き継がれた「かぶき者」という荒々しい武断的な風潮にあり、戦国時代が終わって戦いの場を失った武士たちが、その「武士のアイデンティ」の発露として、主君が亡くなった際に追い腹を切るということが流行のようになったためであるとのこと。

 また「世間」も、このような戦国的武士像を武士に求めていたため、死ぬべき時にしなないと「武士の一分」が立たないということになり、元禄期の殉死になると、自分自身の意地と共に、こうした世間の評判に対する顧慮が、その大きな動機要因になっていたと考えられるとしています。

 「学術文庫」ですが読み易いです。但し、前述の通り、後で書かれたこの著者の本を何冊か読んでしまったので、自分にとっては"繰り返し"になってしまい、新味が薄かったのも正直な感想です(その分、星1つ減。もっと早く文庫化して欲しかった)。

 文中に、神坂次郎氏の元禄御畳奉行の日記』('84年/中公新書)氏家幹人氏の江戸藩邸物語』('88年/中公新書)を参照している部分がありますが、著者自身も『参勤交代』(98年/講談社現代新書)を皮切りに、一般読者向けの新書本を著わすようになり、夕刊紙の連載などもしています。

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中国で無断出版されたほどの名著? 読み易く、トピックスは豊富。父親譲りの文学の香り。

吉川 忠夫 『秦の始皇帝』.jpg 『秦の始皇帝 (講談社学術文庫)』 ['02年] 秦の始皇帝.jpg 『秦の始皇帝―焚書坑儒を好しとして (中国の英傑)』 ['86年]

 '02年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'86年に集英社から「中国の英傑シリーズ」の1冊として刊行されたもので、1937年生まれの著者の40歳代最後の仕事であるとのこと(16年を経ての文庫化ということになる)。

 著者の父親は、『新唐詩選』('52年/岩波新書)などで知られる中国文学者・吉川幸次郎(1904‐1980)で、この人の『漢の武帝』('49年/岩波新書)は読み易く、また武帝という人の性格や生き様が小説のように描かれていて面白かったですが、こちらも学術文庫にしては読み易い方ではないでしょうか。
 勿論これも小説ではないのですが、史書・史料に対して明確に肯定も否定もすることなく、そのまま引いている部分が多いため、小説のように読めてしまいます(明らかに伝説的な部分は、「〜だったという」「〜したという」という表現になっている)。

 書かれたのが丁度、中国の著名な文学者・歴史家だった郭沫若(この人、文化大革命の時に"自己批判"させられた知識人の1人)が、始皇帝の実父は呂不韋であるという『史記』の記述及び通説(言わば、私生児論)に対して否定論を発表した頃で、著者は、本書第1章の「奇貨居くべし」に「始皇帝は呂不韋の子か」という副題をつけ、その郭沫若の論を紹介していますが、著者自身が、始皇帝の父親が呂不韋であることを「半月前には深く信じて疑わなかった」ためもあってか、ここでも、郭沫若の論を明確に支持することはしていません。

 始皇帝・私生児論を否定するということは、秦王朝の正当性を否定すると言うより、始皇帝の英雄性を否定することに繋がるのでしょうか。
 何れにせよ、文化大革命の時に持ち上げられた始皇帝に対するネガティブ評価ということになりますが、郭沫若の立ち位置が、寡聞にしてよくわかりません。

 白黒はっきりしない著者の姿勢に苛立ちを覚える読者もいるかも知れませんが、読者に始皇帝の「内面世界」に触れて欲しいとの思いから本書を書いたとのことで、個人的には、"親父さん"同様、自分との相性は悪くありませんでした。
 淡々と書いてあるけれども、何となく文学の香りがすると言うのか、大体、元の史書・史料の記述が文学的(小説的)なんだよなあ。

 多くの出来事を拾っていて、内容の密度は濃く、必要に応じて春秋戦国の故事、更には堯舜伝説にまで遡りますが、これは、諸国の王の顧問となった学士や参謀が、王を説得する際に故事を引くからであって、丁寧な解説であると共に、中国の思想の古(いにしえ)からの変遷を探ることが出来、更には、秦帝国に関する中世から近現代の文献研究なども織り込まれています。

 一方で、著者は70年代の訪中に続き、'82年と'84年にも兵馬俑博物館や始皇帝の陵墓を訪れるなどしていますが、考古学的な話は、始皇帝陵に関する部分にほぼ限られており、やはりこの人は、文学・思想系の歴史学者なのだなあと("親父さん"寄り?)。

 学術文庫版の冒頭に面白いエピソードがあり、それは、'89年に元本の中国語訳が、著者に無断で中国で刊行されたというもの。
 中国語版のサブタイトルは「英雄か、それとも暴君か」(本書はこれには結論を出していない)で、集英社版の元本に編集者によって付けられていたサブタイトル「焚書坑儒を好しとして」(これは無茶苦茶)に比べるとまだ良いと著者はしていますが、中国人の訳者は元本の内容に賛辞を贈っているものの、著者名が「忠夫」でなくて「中夫」になっていたということです。

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入門書としては十分。『史記』(秦始皇本紀)を検証ターゲットにしている点に特徴。

秦の始皇帝 鶴間和幸.jpg 『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま (歴史文化ライブラリー)』 鶴間 和幸 教授.jpg 鶴間和幸 氏

 中国史、とりわけ秦帝国や始皇帝の研究が専門で、「NHKスペシャル」で'00年に放映された「四大文明」の「中国-黄土が生んだ青銅の王国」の監修などもした著者による、秦の始皇帝の実像を探った本。

 研究書と解説書の中間のような本。但し、文字面(ずら)の印象と異なり、読んでみれば比較的読み易いものですが、個人的には、事前に陳舜臣氏の『秦の始皇帝』を読んでいたため、尚のこと読み易かったように思います(治世の間の歴史的に重要な事件やイベントの数が多いので、どこかで一応予習しておいた方が読み易いかも)。

 陳舜臣氏は、秦がほぼ始皇帝の一代で滅びたため、子孫による弁解も無ければ粉飾も無く、むしろ後代の人による悪意の粉飾があることに注意しなければならないとしてましたが、本書においては、史料研究と考古学研究の両面から、より学問的見地に立って、「伝説と史実のはざま」を探ることで、始皇帝の実像をあぶり出そうとしています。

 多くの資料を読み解き、始皇帝に纏わる1つ1つの伝説的な出来事についての真偽、最も真実に近いものはどれかを考察していて、こうした手法は司馬遷が『史記』において採った方法でもありますが、本書の最大の特色は、その『史記』(の「秦始皇本紀」)を最大の検証ターゲットとしていることでしょう。

 但し、基本的には、秦王制の誕生から暗殺未遂事件(その時の状況のかなり詳しい真偽分析がなされている)、六国の滅亡、皇帝としての統一事業、国を支えた思想や諸制度、国内巡行や長城建設、そしてその死までを、順を追って解説しており、その点では、入門書として十分すぎるぐらい十分であり、その合間合間のポイントとなる出来事について、その真偽を探るという形がとられています。

 始皇帝は実は呂不葦の子ではなかったのかとか、この辺りは後に作られた話の可能性が高いという一般的な説を支持していますが、灌漑工事を指導した鄭国が外国のスパイだったという一般説には、疑問を拭いきれないとしていて、また、『史記』の記述の中にも、司馬遷の個々への思い入れが照射されている部分を推察したりするなどしており、興味深いものがありました。

 本書を読んで、始皇帝の代に造られた「砂漠に埋もれた長城」があるとの説もあるがまだ見つかっていないとか、その他に史料にある幾つかの史跡も所在がわからないとか、色々とまだ分からない部分が多いのだということが分かったという印象も。

 著者自身、始皇帝の5度にわたる国内巡行の足跡を辿るように中国各地を巡り歩いており、中国古代史研究は、史料と考古学の両面からアプローチしていくのが、もはや常套的な手法になっているということでしょうか。
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鶴間 和幸(つるま・かずゆき)
1950年生まれ
1974年 東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業
1980年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学
1980年4月〜81年3月 日本学術振興会奨励研究員
1981年 茨城大学教養部講師
1982年 同助教授
1985年4月〜86年1月 中国社会科学院歴史研究所外国人研究員
1994年〜96年 茨城大学教養部教授
1996年 学習院大学文学部教授
1998年 博士(文学)取得
■研究テーマ・分野
○中国古代帝国(秦漢帝国)の形成と地域
○秦始皇帝と兵馬俑
○東アジア海文明の歴史と環境

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読みやすい。始皇帝の人柄や中国の歴史に与えた影響の大きさを実感できる。

秦の始皇帝-始皇帝の実像-.jpg秦の始皇帝』['95年/尚文社ジャパン]秦の始皇帝 文春文庫.jpg秦の始皇帝 (文春文庫)』['03年]

 「NHK人間講座」で、著者の語りにより、'94年の1月から3月にかけて12回にわたって放映された「秦の始皇帝」の内容を単行本化したもので(後に文春文庫に収録)、番組の各回のタイトルが、そのまま全12章の章題になっています。

 単行本で約200ページほどで、語りがべースになっているために読み易く、あっと言う間に読み終えてしまいますが、秦の始皇帝の人柄や、今日に至るまでの中国の歴史に与えた影響の大きさを十分に実感できます。

 小説と異なり、客観的視点から描かれていて、所々著者の考察が入るといった感じで、著者の小説にもそうした傾向はありますが、本書においては、歴史研究上諸説がある部分については、その辺りをより明らかし、可能性の部分は可能性とし、不明な部分は不明としています。

 "諸説"ある部分については、歴史学者の鶴間和幸氏の『秦の始皇帝-伝説と史実のはざま(歴史文化ライブラリー)』('01年/吉川弘文堂)を本書のあとで読んだのですが、大体、研究者も同様の見解であるようで、著者が歴史研究の基本線を押えて、話を進めていることが窺えました。

 始皇帝だけでなく、商鞅や呂不葦、冒頓単于や蒙恬、李斯や韓非、徐福など、同時代を彩った多くの人物についてもバランス良く触れられていて、また、全体として時系列で追っているものの、万里の長城や諸子百家(法家)といったテーマごとに、繰り返し春秋戦国史から秦漢史にかけてをなぞるような解説の仕方で、これも始皇帝の時代の背景を知る上で、大いに助けになります。
 それでいて、なお且つ、小説を読むように楽しく読めるのは、さすが著者ならでは。

 焚書坑儒で「焚書」はどの程度のものであったか、実際に「坑儒」に遭ったのはどのような人たちだったのかなど、意外と思える事実が明かされる一方、不老長寿の薬を探しにいくと言って始皇帝から大金を巻き上げた徐福は本当に東征したのか(『史記』には「行かなかった」とは書いてない)、灌漑工事の技術者として韓から派遣され、不毛の地を沃野に変えた鄭国は、もともとは韓のスパイだったのか(スパイであることがバレたが、利水は国家のためになると言って始皇帝を説いて殺されずに済み、秦もお陰で国力を増した)等々、面白い話や、まだ充分に解き明かされていない謎に事欠きません。

 本書は始皇帝を単に英雄視し絶対化するのではなく、万里の長城、阿房宮、驪山陵(始皇帝が生前に造った自らの墓)を三大愚挙として挙げています。
 それにしても、六国を滅ぼし秦(Chinaの語源である)という国を築いたその超人的なエネルギーはやはりスゴイ。

 中国(もともとは国の真ん中という意味だが)が統一国家であることが"常態"であるという概念をもたらしたのが始皇帝であり、もし始皇帝が現われなかったら、中国は今も1つの大国とはならず、欧州のような多くの国々の集まりだったかも知れないと著者は言っています。
 
 【2003年文庫化[文春文庫]】

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庄内藩・酒田の足軽目付(地方警察)の活躍を『御用帳』から抽出。

足軽目付犯科帳.jpg 『足軽目付犯科帳―近世酒田湊の事件簿 (中公新書)』 ['05年]

 本書によれば、江戸時代に海運都市として栄えた庄内藩・酒田は、徳川氏の三河以来の重臣である酒井家の所領で、町政の拠点・亀ヶ崎城は城内の敷地に30人前後の町奉行や御徒目付など武士が、城下に足軽たちが住んでそうですが、足軽の小頭(小リーダー)から更に抜きん出た者が足軽目付となったそうです。

 足軽目付は藩政における下級ライン管理職みたいなもので、それでも7石前後の微禄に1石の御役手当が付き、成績次第では加増の望みもあったとのこと(「役職手当」ってこの頃からあったんだあ)、仕事内容は現在の巡査長と市役所職員を兼ねたようものので、本書は、時代小説作家である著者が、古戸道具屋の店先に10冊積まれていた『亀ヶ崎足軽目付御用帳』をたまたま掘り出したことを契機に、この、足軽目付が残した当時の「地方警察の事件簿」にあたるような史料から、当時の足軽目付たちの活躍ぶりを抜き出したものです。

伊予小松藩会所日記.jpg 本書の前に読んだ、増川宏一氏の『伊予小松藩会所日記』('01年/集英社新書)も地方都市の事件簿的要素があり、こういうのが時代小説のネタ本になるのだろうなあと思いました。
 本書は、著者自身が、「時代小説の作者とって、ネタ本を公開することは、自らの首を絞めるようなものだ」と書いていて、まさにそうした中身であり、盗難・殺人・詐欺・汚職といった犯罪事件から見世物興業を巡る騒動や女性が絡む醜聞事件まで、内容はバラエティに富んでいます。

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世.jpg目明し金十郎の生涯.jpg 中公新書には、『目明し金十郎の生涯-江戸時代庶民生活の実像』(阿部善雄/'81年)『元禄御畳奉行の日記-尾張藩士の見た浮世』(神坂次郎/'84年)など、以前からこうした藩の記録や個人の日記を読み解く趣意の本が何冊かあります。
 特に、本書と同じく時代小説作家が著わした後者は、かつてベストセラーになりましたが、本書も、『御用帳』に書かれている内容を解り易く解説するとともに、作家としての技量でシズル感を損なわないように書かれているように思いました。

 但し、事件の犯人が捕まったかどうかとか事後談的な話は、『御用帳』に記録のない限り、「どうなったかという報告はない」といった一言で済ませていて、ある意味、本書を書くにあたって小説家と言うよりは歴史家(史料研究者)の立場として臨んだとも言えます。

 しかし、そのために、1つ1つの事件が点描写になってしまって、話同士の線的な繋がりが弱いきらいもあり、膨大な史料から、「天明」期の小久保彦兵衛という"頑固親父"的な足軽目付が扱ったものを軸に事件を抽出するなどの工夫はなされていますが、『元禄御畳奉行の日記』や『目明し金十郎の生涯』が共に一気に読めてしまうような流れとインパクトだったのと比べると、こちらは個人的には、流れはやや滞り気味でインパクトも弱かったかも。

 とは言え、酒井湊の当時の賑わいが聞こえてくるような内容で、本書自体が貴重な参考資料であることには違いないと思います。

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四国のミニミニ藩の武士と領民の暮らしぶりを、代々の家老の公務日記から拾う。

伊予小松藩会所日記2.jpg伊予小松藩会所日記.jpg 『小松藩会所日記』.jpg
伊予小松藩会所日記 (集英社新書)』['01年]「小松藩会所日記」(小松町文化財指定)

 現在の愛媛県西条市にあった伊予小松藩というたった1万石の小藩で、代々の家老が公用の政務を綴った「会所日記」という史料が今も小松町に残っていて、本書は、その享保元年(1716)から慶応2年(1866年)までの150年間にわたる記録から、「武士の暮らし」ぶりを表すものと「領民の暮らし」ぶりを表すものに大きく分けて、現代に通じる事件や出来事を抽出したもの。

 ここで言う「会所」とは、家老が執務を行う建物のことで、家老の執務部屋と併せて大目付(警察長官と裁判長官を兼ねたような役目)の部屋が続いていて、この日記の内容も、今で言えば、地方役場の仕事と、地方警察の仕事を記録したようなものとなっています。

 小松藩は領民人口1万余、藩の家臣(藩士)の数は、江戸中期で70人、足軽や小者(下男)が100人程度で、幕末でも足軽や小者まで含めて200人前後だったとのことで、そうした小さな藩での武士の政務や暮らしぶりは、手続き重視という点では現代の地方役場の役人に似ていて、"宮仕え"ということを広く解釈すれば、あたかも中小企業に勤めるサラリーマンのようでもあります。

 凶作による財政難の折には、藩士の俸給が一挙に30%に切り下げられたこともあった("30%のカット"ではなく)などと記されていて、現代の中小企業だったらリストラ解雇しか考えられないのではないかと思いましたが、この頃から、"公務員"については、"クビにする"という概念はなかったのかも。
 
 生活苦のため無断で内職をする藩士も出てきますが、今で言う"公務員の兼業"みたいなもので、これは当時も禁止事項であり、見つければ藩としても処罰した。
 ところが、ついには藩自体も、中央幕府の許可なく藩札(銭預り札)を発行したりしています(黙って決めてしまっているところが、今の役所の諸々の内部慣習と少し似ている?)。
 それにしても、随分際どいやり口での自治意識の発露ではあるなあと思いましたが、全国的に飢饉が発生した際には、小松藩は、領民に一合ずつ米を配ったりして、結果として、他藩に比べ餓死者の発生率が低かったということは、善政だったということでしょうか。

 財政難の小藩であっても参勤交代の大名行列はやらねばならず、あの加賀藩の大名行列は総勢4,000人の大行列だったとのことですが(自分は「加賀百万石祭り」の提灯行列に参加したことがあるが、今の「百万石祭り」はかつての大名行列の一部を再現しているに過ぎないということか)、この小松藩のものは総勢で100人ほどで、しかも7割が荷物運搬係、「下ぁにい!」と掛け声をかける槍を持った奴がいるわけでもなく、まるで「気勢のあがらぬ運送業者の隊列と似ていた」とのこと。江戸に着いた途端に出奔(逃亡)した小者がいたという話と併せ、何だか侘しいなあ。

 後半部の「領民の暮らし」編の方は、駆け落ちから始まって、不倫と情死、不思議な出来事や領民同士の喧嘩、違法賭博などが続き、「三面記事」的事件簿という感じで、それらがヴィヴィッドに描かれている分、前半部とは違った楽しみ方が出来ました。
 著者は、将棋史、賭博史の研究家で時代小説作家とかではないのですが、こういうのが時代小説のネタ本になるのだろうなあ。

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第2部・第3部は、「武士道」と『葉隠』のそれぞれに対する著者の考え方のエッセンス。

『葉隠』の武士道.gif 『『葉隠』の武士道―誤解された「死狂ひ」の思想 (PHP新書)』 ['01年]

 全3部構成で、第1部「鍋島家の家風」で『葉隠』の口述者・山本常朝の属した鍋島藩の家風について解説し、第2部「武士を取り巻く世界」で、『葉隠』を中心に、当時の武士らしさとはどのようなものであったかを探り、第3部「『葉隠』の「思想」」で、「鍋島家」と「武士社会・世間」というそれらの背景ベースに、『葉隠』の根底にある思想の実態を批判的に検証しています。
 今回は再読でしたが、読んでいて、かなり驚いたり、目から鱗が落ちる思いをしたはずなのに、細かい内容は結構忘れているものだなあと。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg 第2部「武士を取り巻く世界」では、武士にとって戦場で手柄をあげることも討ち死にすることも同等に名誉なことであり、そのために、江戸時代に入っても、死ぬ(法的に処罰を受ける)とわかっていて争い(喧嘩を含む)に臨むケースもあり、要する、に面子にこだわっただけ命は軽かったし、その「武士の一分」は、価値観としては、法の論理(喧嘩両成敗など)をも上回るものだったということが書かれています。

 著者によれば、赤穂浪士の討ち入りなども、主君の怨念を晴らすためではなく、そのままでは浪士たちが武士としての面目を保てないがためになされたということで、この第2部の部分は、著者の『武士と世間―なぜ死に急ぐのか』('03年/ 中公新書)(個人的評価 ★★★★☆)にそのまま引き継がれています。

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 一方、第3部「『葉隠』の「思想」」では、『葉隠』という書の背後に見え隠れする功利主義や自己弁護を抽出し、鍋島綱茂が常朝に必ずしも信を置いていなかったことを、著者自身も頷けるとしていますが、要するに、『葉隠』というのは、隠遁した老人が説く処世術に過ぎず、そこにあるのは見せかけの忠義または傍観者的態度だと手厳しい非難をしていますが、この部分は。著者の『男の嫉妬―武士道の論理と心理』('05年/ ちくま新書)(個人的評価 ★★★)に引き継がれているように思います。

 但し、『男の嫉妬』の方は、そうした『葉隠』の記述に、常朝という人の持つ、根拠が脆弱な割には高いプライドだけでなく、「男の嫉妬心」が窺えるとしていて、その心性に踏み込んでいて、個人的には、果たしてそこまで言えるかなあとも思いました。
 その点、本書は、そこまではさほど踏み込んでおらず、『葉隠』は姑息な「ただのことば」として孤立して、「我々は、『葉隠』を決して評価してはならない」という結語で終わっているだけで、こちらの方が、論としてすっきりしているように思えます。

葉隠入門.png また、本書でも俎上に上っている三島由紀夫『葉隠入門―武士道は生きている』('67年/カッパ・ブックス)(個人的評価 ★★★☆)については、確かに三島は、『葉隠』の理想の武士像に自分を重ねて、アナクロ的な死を選んだのかも知れませんが、『葉隠』の処生術的な要素は充分に認識していて、むしろそれを面白がっている風でもあります。
 三島はその部分と「死に狂い」の部分を分けて(或いは表裏で)考えたのではないでしょうか。『葉隠』にエピキュリアニズムさえ見ています。
 但し、そのエピキュリアニズムは「一念を持って生きよ」というストイシズムの裏返しであり、小事に煩わされたりトラブルに巻き込まれることなく、大事に敢然とした行動がとれるよう備えよという解釈だと思うのですが。

サムライとヤクザ.png 本書を読んでいて、「喧嘩」を介して、武士の論理とやくざの論理に共通項が見られる(自己の面子が潰され時に、しかるべき報復ができるかどうかという価値観)との記述があり、これも、著者がどこか別のところでも書いていたのではないかと思ったら、著者の本ではなく、氏家幹人氏の『サムライとヤクザ-「男」の来た道』('07年/ちくま新書)(個人的評価 ★★★)でした(タイトルそのものだった)。
 氏家氏の本を読んだと時はやや疑問符だったけれど、やはりそうなのかなあ。

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正しく使えているようで使えていない敬語表現。やはり難しいなあと。

バカ丁寧化する日本語.jpg 『バカ丁寧化する日本語 (光文社新書)』 ['09年] かなり気がかりな日本語.gif 『かなり気がかりな日本語 (集英社新書)』 ['04年]
 
 著者の前著『かなり気がかりな日本語』('04年/集英社新書)を読んで、自分の話し方や文章の書き方を振り返って冷や汗の出る思いをしたのですが、今度は本書を読んで、自分は敬語の使い方がある程度出来ているつもりでいたのが、実はよく分かっていないまま使っていた表現が結構あったなあと。

 「バカ丁寧化」しているという視点がユニークですが、例えば、「おかげさまで〜させていただきました」といった「させていただく」という表現は、本来は自分に恩恵を与えてくれた誰かを特定して、その人を持ち上げることで自分を謙譲している表現であり、これを、神仏・世間・周囲の一般の人々に対し広く感謝の念を表す「おかげさまで」と同じように使うのは、胡散臭いと言うか耳障りであると。

 確かに、「おかげさまで退院させていただきました」と知人や友人には言わず(退院を許可したのは知人や友人ではなく医師だから)、そのくせ、放送番組の元アナウンサーなどが「おかげさまで番組を担当させていただきました」と言っているのは、一般の手本となるべき職業にあった人の表現としてはいかがなものかと(アナウンサーをその番組に起用したのはプロデューサーだから)。 でも、番組を続けることが出来たのは、番組を広く支えてくれた一般視聴者のおかげであるとも言えなくもないような気がするのですが、著者は、このアナウンサーは自分の表現が適切であるかどうかを考えた方がいいとと手厳しいです。

 敬語の本来の用法として若干問題があっても、言葉の適材適所への配慮がなされていればよしとし、実際に用法的におかしくても慣例的に相手への敬意を表す表現として根付いているものの例も挙げていますが、誤用法である上に、慇懃無礼になってしまったり、心のこもらない表現になったりしているのはダメであるとのことで、その辺りの線引きについては、かなり厳格な方ではないでしょうか。 世間での実態と理論的裏付けの両面から検証していて、「奥さん」とか「ご主人」という表現は、「実情にそぐわないが使われ続けている日本語」という括りに入れています。

 後半部分では、「二方面への敬語」というものについて論じられていて、「そのことは秋田先生が校長先生に申し上げてくださいました」といったのがこれに該当するのですが(校長を最も立て、秋田も一応立てている)、それが「そのことは秋田先生が校長先生に言ってくださいました」となると、秋田への軽めの尊敬語になるが校長は全く立ててないことになり、更に「そのことは秋田先生が校長先生におしゃってくださいました」となると、秋田への尊敬語になるが校長は全く立ててないことになると。どれが誤りであるというのではなく皆誤りではないのですが、その場の状況に応じてどれが適切な表現であるかは違ってくると。

 確かに、そうなのだなあと。でも、「二方面への敬語」って、考え始めるとますます難しくなるような気がし、しかしながら、考えないで使っていて果たして自分はきちんと使っているかというと言われると自信が無くなり、やはり、こうしたことも時々意識した方がいいのだろうなあと。敬語ってやっぱり難しい。

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難解な著作の著者、孤高の哲学者というイメージとはまた違った、人間味ある人柄。

ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出4.JPGウィトゲンシュタイン   .jpgウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出.jpg
ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (講談社現代新書)』['74年]『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー)』['98年]

Ludwig Wittgenstein( 1889-1951).jpg 冷徹な分析的知能と炎のような情熱を併せ持ち、20世紀最大の哲学的天才と言われるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein、1889‐1951)の評伝で、著者は、かつて彼の学生であり、後に公私にわたって彼と長く親交のあった米国の哲学者であり、評伝と言うより、サブタイトルにある「思い出」と言った方が確かにぴったりくる内容。

中央公論社・世界の名著第58巻.jpg ウィトゲンシュタインの著作でまともに完結しているのは『論理哲学論考』しかないそうですが(小学生向けの教科書を除いて―哲学研究に挫折して田舎で小学校の教師をしていた時期がある)、『論考』という本は、部分部分の考察は独創的でありながらも、全体を通してはかなり難解な論文であり、これ読んで分かる人がどれぐらいいるのかと思ったりもしました(評論家の立花隆氏は若い頃最も影響を受けた本として『論考』を挙げている)。

 その『論考』を未消化のまま読み終えた後で本書を読んで、むしろウィトゲンシュタインの"人柄"に興味を惹かれました。

世界の名著〈58〉ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド (1971年)

 難しい顔した大学の先生風かと思いきや、(確かに難しそうな顔をしているのだが)アカデミズムの虚飾的な雰囲気を嫌い、英国や北欧の田舎で隠遁生活みたいな暮らしぶりをしていた時期もあり、統合失調質(ジゾイド)人格障害の典型例としてよくその名が挙がりますが、確かに「孤高の人」という感じはするものの、本書の著者をはじめ近しい人に対しては、その家族をも含め、思いやりを以って(どちらかと言うと他人にお世話されることの方が多かったので、"感謝の念を以って"と言った方が妥当かも)接していたことが分かります。

IMG_2858.JPG ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでバートランド・ラッセルの学生であったこともあり、ラッセルが教えていて、生徒の中に自分より優秀な人間がいることが分かり教授を続けるのを辞めた、その「自分より優秀な学生」というのがウィトゲンシュタインだったというのを、別のところで読んだことがありますが、本書によれば、哲学だけでなく、美学・建築・音楽など様々な分野での才能があり、また、推理小説と映画が好きだったようです(映画を身る時、いつも最前列に座り、「こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする」と著者に囁いたというエピソードには、個人的に共感した)。

 ウィトゲンシュタインが『論考』でテーゼとしているのは、「成立している事態の全体が世界である」ということであり、彼は、「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、言い換えれば、世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れないと言っているのですが、これは『論考』における第一段階の更に前段階ぐらいに過ぎず、更にどんどん深い《論理的‐哲学的》考察へと入っていき、しかも、後に、自ら『論考』自体を自己否定していて、過去の自分の業績に固執しない、と言うより、殆ど過去を振り返らない性質であったと言えます。
 常に思索の壁を突き破ろうと邁進するその姿勢は、俗っぽい表現の印象評価になってしまいますが、生涯を通じて「脳の壁」に挑戦し続けた人という感じがします。

板坂元.jpg 訳者は、ハーバード大学で日本文学・日本語を教えていた板坂元で、同著者(N・マルコム)による『回想のヴィトゲンシュタイン』('74年/教養選書)という似たタイトルの本(哲学者の藤本隆志の訳)がありますが、同じ元本を同時期に別々の訳者が訳した偶然の結果であるとのこと、哲学者ではない板坂元が本書を訳したのは、本書にも見られる、異国の地で苦悶しながらも真摯に学生と向き合う教育者としてのウィトゲンシュタインの姿への共感からではないかと思われます。
板坂 元 (1922-2004)

 【1998年・再新書化[平凡社ライブラリー]/(藤本隆志:訳)1974年[教養選書(『回想のヴィトゲンシュタイン』)]】

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○日本人ノーベル賞受賞者(サイエンス系)の著書

その後をノーベル賞の受賞状況で振り返ってみると...(まあまあ、いい線?)。

日本の科学者最前線―発見と創造の証言.jpg  ノーベル物理学賞 日本人3氏 .jpg 2008年10月8日付「朝日新聞」
日本の科学者最前線―発見と創造の証言 (中公新書ラクレ)』 ['01年]

森の人四手井綱英.jpg 日本の森林生態学の草分け的存在で、「里山」という言葉の生みの親でもある四手井綱英(しでい・つなひで)氏の訃報(1911.11.30〜2009.11.26/享年97)が入ってきて、本人が書いた本は読んだことが無いのですが(作家の森まゆみ氏が書いた評伝『森の人 四手井綱英』('01年/晶文社)がある)、他でも名前を見た気がすると思ったら、この本がその内の1つでした。

 '00年1月から3月まで読売新聞の夕刊に連載された、54人の科学者へのインタビュー「証言でつづる知の軌跡」を書籍化したもので、科学の最先端分野でどのような研究がなされてるかを俯瞰することが出来きるという点では手っ取り早く、但し、元が新聞コラムであり、字数制限もあるため、1人1人の研究成果の解説は浅いものにならざるを得ません(後にノーベル賞を受賞する益川敏英氏が、この当時から英語嫌い、海外にいくのが嫌いだったとか、人柄を表すエピソードは楽しめる)。それでも、前書きにあるように、「日本にも独創的な科学者が、こんなにもいるということ」を、それなりに認識させられた記憶があります。

利根川 進.jpg ノーベル賞が科学者の絶対的な業績指標だとは思いませんが、サイエンス系のノーベル賞は、平和賞や経済賞、文学賞に比べれば、まだ幾らかは客観的指標になり得るのかなと個人的には思っていて、この54人の中にも後のノーベル賞受賞者が結構いるなあと。

 このリストの中で、連載当時のノーベル賞受賞者は、江崎玲於奈氏('73年/物理学賞)と利根川進氏('87年/医学・生理学賞)しかいませんでした。それが、連載のあった年に白川英樹氏が受賞し('00年/化学賞)、そして本書刊行直後に野依良治氏が受賞('01年/化学賞)、更に、小柴昌俊氏の受賞('02年/物理学賞)と続きました。

ノーベル物理学賞を受賞した(左から)小林誠、益川敏英、南部陽一郎の3氏.jpg その後暫く日本人の受賞は無く、それが、'08年になって、小林誠・益川敏英両氏と南部陽一郎氏の物理学賞の受賞が相次ぎました(南部陽一郎氏はアメリカ国籍)。現在は海外で研究活動をしている人も含め、皆、日本の大学で学んだか卒業した人ですが、全員、国立大学出身で私立大学卒はいません['09年現在]。

小林誠、益川敏英、南部陽一郎の各氏

田中 耕一 記者会見3.jpg下村脩.bmp この間のサイエンス系のノーベル賞受賞者で、本書のリストに無いのは、島津製作所の田中耕一氏('02年/化学賞)と"オワンクラゲ"の下村脩氏('08年/化学賞)ということになります('08年は、前記小林誠・益川敏・南部陽一郎氏と下村脩氏の合わせて4人が受賞)。

田中耕一氏/下村脩(おさむ)氏

梶田隆章 小柴昌俊12.jpg 54人から既に受賞していた2人を除くと52人、'09年現在、その内の6人がノーベル賞を受賞したことになります。リストには、数学などノーベル賞の対象外の分野や対象になりにくい分野の研究者が挙げられていることを考えれば、まあまあ、いい線(?)ではないでしょうか(リスト中の研究者では、その後やや間が空いて、中村修二氏('14年/物理学賞、アメリカ国籍)、大村智氏('15年/医学生理学賞)と続く)。一方で、'08年7月には小柴昌俊氏の愛弟子で、小柴氏が'09年のノーベル賞受賞は確実としていた戸塚洋二氏が壮絶なガン死を遂げており、こちらは97歳で亡くなった四手井綱英氏とは対照的に66歳という若さでした(その後、小柴研究所での戸塚洋二氏のいわば弟弟子にあたる梶田隆章氏が受賞('15年/物理学賞))
梶田隆章氏・小柴昌俊氏

 その他にも、宇宙物理学の小田稔('01年3月逝去)、「サル学」の伊谷純一郎('01年8月逝去)、人類学の埴原和郎(04年10月逝去)、情報伝達酵素発見の西塚泰美('04年11月逝去)の各氏が亡くなっていて、ノーベル賞を貰うには、業績もさることならば、ある程度長生きしなければならないのかなあと(南部陽一郎氏は87歳での受賞で、受賞対象の業績は40年も前に発表されたもの)。

 やはり、戸塚洋二氏はとりわけ無念だったことでしょう。個人の名誉もさることながら、自分がやった研究の成果がより多くの人に認知され、それが後継の励みになることを望んでいたでしょうから。ただ、先月('09年11月)96歳で死去した俳優の森繁久弥氏に国民栄誉賞が贈られることになりましたが、「死者に与えない」というルールは、死者まで候補にすると収集がつかなくなるという事情もあるかと思いますが、ノーベル賞の一つの見識とみることもできるのではないかと思っています。

《読書MEMO》
●科学者54人のリスト 青字は読売新聞連載後にノーベール賞を受賞した人[2015年現在](緑字は連載前に既に受賞)
【生命科学】
・伊藤正男  「長期抑圧」現象の発見、記憶の謎に迫る
・小西正一  聴覚の立体地図を作る
・増井禎夫  細胞分裂の仕組み解明に先駆的成果
・浅島 誠  分化を導くたんぱく質の発見
・竹市雅俊  細胞接着因子を特定
・日沼頼夫  白血病を起こすウイルス発見から人類学へ
・西塚泰美  情報伝達酵素を発見
・宮田 隆  分子レベルで進化に迫る
・太田朋子  分子進化の「ほぼ中立」説を提唱
私の脳科学講義.jpg●利根川進  「抗体の多様性」の謎を解明

【医学】
・石坂公成  アレルギーが起こる基本的仕組みを解明
生命の意味論.jpg・多田富雄  免疫の調節機構の存在を裏付け
・岸本忠三  免疫物質の遺伝子を特定
・谷口維紹  世界初のインターフェロン(β)遺伝子解析
・杉村 隆  発がん物質をつきとめる
・大河内一雄 血清肝炎の抗原をつかまえる
大村智 2億人を病魔から守った化学者.pngノーベル生理学医学賞 大村智氏.jpg●大村 智(2015年ノーベル医学生理学賞)  熱帯病の特効薬作る放線菌を発見
・原田正純  胎児から成人までの水俣病の実態に迫る

【化学】
・向山光昭  合成化学で世界をリード
●野依良治(2001年ノーベル化学賞)  「不斉合成」理論の形成と実証
・中西香爾  天然化合物の構造を動的に解明
・岸 義人  猛毒物質パリトキシンンを人工合成
・樋口隆昌  樹木の硬さの謎に挑む
・鈴木昭憲  昆虫の変態ホルモンを解明
・井口洋夫  電気を通す炭素化合物を発見
●白川英樹(2000年ノーベル化学賞)  導電性ポリマーの開発

【生態学】
・伊谷純一郎 独自の手法で、サルの社会構造を解明
・青木淳一  日本のダニ研究を世界のトップレベルに
人類の進化史 埴原和郎.jpg・埴原和郎  日本人のルーツを骨から探究
・四手井綱英 森林生態学を創設、地球環境保護へ

【地質・気象】
・丸山茂徳  まったく新しい地球観「超プルーム」提唱
・平 朝彦  地層の記録からプレートの沈み込みを実証
・真鍋淑郎  全地球を覆う気候モデルを開発
・阿部勝征  津波メカニズムの解明と災害情報
・金森博雄  「リアルタイム地震学」を提唱

【工学】
ノーベル賞 中村修二.jpg赤の発見 青の発見.jpg●中村修二(2014年ノーベル物理学賞)  夢の青色光源を発明
・西澤潤一  光通信の基本を考案
・嶋 正利  世界初のマイクロプロセッサ開拓
・坂村 健  国産OS「トロン」を開発
・池田武邦  超高層ビル時代を開拓
・藤島 昭  光触媒の応用へ道開く
・飯島澄男  カーボンナノチューブを発見
●江崎玲於奈 エサキ・ダイオードを生み出す

【宇宙】
・小田 稔  宇宙から届くエックス線の謎を解く
・林忠四郎  極微の素粒子から極大の宇宙を構想
「相対性理論」の世界へようこそ.jpg・佐藤勝彦  宇宙膨張のメカニズムを解明

【物理】
ノーベル物理学賞を受賞した(左から)小林誠、益川敏英、南部陽一郎の3氏.jpg●南部陽一郎(2008年ノーベル物理学賞) 物理学の「標準理論」構築に貢献
●小林誠/益川敏英(2008年ノーベル物理学賞) 素粒子理論で革新的成果をあげる
・近藤都登  実験物理学で「トップクオーク」の存在証明
ニュートリノの夢 岩波ジュニア新書.jpg小柴 昌俊.jpg●小柴昌俊(2002年ノーベル物理学賞)  「ニュートリノ天文学」を切り拓く
・戸塚洋二  素粒子「ニュートリノ」の質量を確認
・外村 彰  干渉型電子顕微鏡で磁力の謎に挑む

【数学】
・広中平祐  複雑な図形から方程式を導き出す

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「史記」誕生の背景がわかり易く描かれ、勇将たちの男気がストレートに伝わってくる。

李陵 史記の誕生1.jpg 李陵 史記の誕生2.jpg 李陵 史記の誕生3.jpg 久松文雄1.png
李陵―史記の誕生〈上〉 (コミック人物中国史)』『李陵―史記の誕生〈中〉 (コミック人物中国史)』『李陵―史記の誕生〈下〉 (コミック人物中国史)』['90年] 久松文雄氏(2009)

李陵 ド.jpg 漢の武帝の時代、匈奴との戦いで敵軍の捕虜となった友人の武将・李陵を弁護して武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられた太史令・司馬遷は、歴史の真実を書き残すために「史記」を書き始める。一方、最初は匈奴の王・且鞮候(しょていこう)単于からの仕官の誘いを拒んでいた李陵は、誤報により祖国で裏切り者扱いにされて家族を殺され、やがて単于の娘を娶り左賢王となるが、一方、北海(バイカル湖)のほとりには、同じく匈奴に囚われながらも祖国への忠節を貫いた武人・蘇武がいた―。

 「史記」の誕生に纏わる司馬遷、李陵、蘇武などの人物像を描いた、久保田千太郎・作、久松文雄・画の歴史コミックで、オリジナル単行本は'83年10月の講談社刊(全4巻)。

李陵 2.jpg李陵・山月記.jpg この「李陵」の話自体は、中島敦の小説『李陵』でもそのまま取り上げられていて、よく知られているところです。波乱万丈のストーリーですが、大筋において「史記」や「漢書」に書かれて書かれている通りではないでしょうか。

小説十八史略 3.jpg 且鞮候単于の軍事参謀をしていた漢人は李陵ではなく、早々に匈奴側に寝返った李緒で、それが誤って李陵が匈奴軍を指導していると漢の側伝えられ、武帝が李陵が裏切ったと思ったのは「史記」にある通りですが、陳舜臣氏の『小説・十八史略』でも、李緒は漢では無名の軍人で、李将軍と聞けば、漢では李陵のことと思い込むのは当然であろうとしています。

 李陵も李緒に対して好感はもっていなかったようですが、家族を誅殺された憎悪の捌け口が李緒に向けられたのは自然の成り行きかも。但し、『小説・十八史略』では、李緒に直接手を下したのは本書のように李陵ではなく、李陵に同情する誰かであり、以前から李陵の助太刀を申し出る者は何人かいて、その内の誰が李緒を殺ったかということについて李陵は見当がついていたが、単于に問われても、その者を守るためにその名を口にしなかったとあります。

 この事件のために暫く李陵が北方へ引き下がっていたのは、殺された李緒の支持者の中に、彼が取り入った且鞮候単于の母大后がいたためで、その高齢の母親が亡くなり、胡地に戻った李陵は、且鞮候単于の跡をついで単于となった息子の左賢王を補佐するため右校王となる―李陵が捕虜になったのがB.C.99年、一族を殺されたのがB.C.97年、この間に司馬遷の宮刑があり、且鞮候単于の死と左賢王の即位、李陵の右校王就任がB.C.96年、この年、司馬遷が釈放されるなど、短い間にいろいろあったのだなあと。

 戻太子の乱(B.C.91年)というのは親子関係の悲劇だと思いますが、ちょうどそれが起きた頃、李陵は北海で蘇武と再開していたわけで、その蘇武が祖国に帰還したのが、本書では武帝の死(B.C.87年)の直ぐ後になっていて、蘇武の抑留期間は13年とありますが、通説では19年でないでしょうか(李陵が捕虜になる前年のB.C.100年に捕虜となり、漢へ帰還したのはBC81年)。

 司馬遷が、後代に歴史書の手本とされる「史記」を著すことになった背景がわかり易く描かれているとともに、且鞮候単于父子と李陵の男気の通い合い、蘇武とは異なる道を選ばざるを得なかった李陵の苦悩などがストレートに伝わってくるコミックに仕上がっているかと思います。

スーパージェッターモノクロ2.jpgスーパージェッター モノクロ.jpg 久松文雄氏(1943年生まれ)は、手塚治虫のアシスタントとして出発し、アニメ「スーパージェッター」「少年忍者風のフジ丸」「冒険ガボテン島」などの作画で知られる漫画家で、"原作付き"のものを専門にしており、「スーパージェッター」は前番組の「エイトマン」同様、まだ売れっ子になる前のSF作家らが脚本を書き、久松文雄氏が作画したもので(後に久松氏に原作権が認められた)、TV放映と同スーパージェッター2.jpg時期に「週刊少年サンデー」に連載された『スーパージェッター』はアニメのコミカライズであり、また「風のフジ丸」は白土三平の作品がベースとなっていますが、こうした空想科学SFの作画者である一方で歴史物の作画を得意とし、現在は「古事記」の全巻漫画化に取り組んでいます。
「スーパージェッター」●プロデューサー:三輪俊道●構成・監修:河島治之●音楽:山下毅雄(主題歌)作詞・加納一朗/作曲・山下毅雄/歌・上高田少年合唱団●原作:久松文雄●出演(声):市川治/松島みのり/熊倉一雄/田口計/樋口功/中村正/西桂太/中曽根雅夫●放映:1965/01~1966/01(全52回)●放送局:TBS


 【1983年単行本[講談社(『史記5〜8―李陵(中国歴史コミック)(全4巻)』)]/1989年文庫化[講談社(『李陵―史記(スーパー文庫)』)]/1990年単行本[文藝春秋(『李陵―史記の誕生(コミック人物中国史)(上・中・下)』)]/1995年再文庫化[講談社漫画文庫(『史記7〜9―李陵(上・中・下)』)]】

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実質的には伍子胥と范蠡の物語(それぞれに孫子が絡む)。"創作"を含むが面白い。

呉越1.jpg 呉越2.jpg 呉越3.jpg呉越燃ゆ―孫子の兵法〈上〉 (コミック人物中国史)』『呉越燃ゆ―孫子の兵法〈中〉 (コミック人物中国史)』『呉越燃ゆ―孫子の兵法〈下〉 (コミック人物中国史)

 今から2500年前、南方の大国・楚では、奸臣・費無忌が平王に取り入り、忠臣の伍奢と伍尚を謀殺、伍尚の弟・伍子胥は呉へ亡命し、軍師・孫子と共に公子光を助け呉王を刺殺、光は呉王闔廬となり、伍子胥は、闔廬を説得し楚を攻略、平王の墓を暴き復讐を果たす。しかしこの隙に、越の太子・勾践と軍師・范蠡が呉に戦いを仕掛けてきて、反撃を開始した呉軍は越へ侵入するが、范蠡の奇略にあい大敗、闔廬も殺される。越への復讐に燃える呉王夫差と伍子胥は、ついに越軍を破り会稽山に追いつめる―。

 「史記」の「呉越の争い」を描いた、久保田千太郎・作、久松文雄・画の歴史コミックで、オリジナル単行本は'84(昭和59)年6月講談社刊の全4巻。

呉越燃ゆ―孫子の兵法.jpg 後にそれぞれ「春秋五覇」の1人に数えられる呉王夫差と越王勾践が、自国の存亡を賭け、智謀の限りを尽くしたこの争いは、「臥薪嘗胆」の故事でも知られていますが、このコミック物語の前半の主人公は、知勇に優れた武将である呉の伍子胥(ごししよ)で、後半の主役は、名軍師として鳴らした越の范蠡(はんれい)と見ていいでしょう。

 その2人に比べると、伍子胥が仕えた夫差は、臆病なくせに功にはやる若者であり、范蠡が仕えた勾践は、自信家で戦さを好む性格が後に災いしたように描かれており、とりわけ夫差の呉王になってからの暗君ぶりは甚だしく、「西施の顰に倣う」(この故事成語の解説は出てこなかったけれど)で知られる、范蠡から送り込まれた美女・西施(せいし)との愛欲に溺れ、奸臣・伯嚭の讒言に乗せられ、伍子胥を殺してしまいます(伍子胥、無念!)。

小説十八史略 1.jpg 薪の上に練ることで復讐心を失わないようにする「臥薪」は、一般に強い復讐心を表すとされていますが、本書では伍子胥が驕慢な夫差に進言したものとなっており、作家の陳舜臣氏も『小説・十八史略』の中で、夫差の執念の弱さを物語るエピソードと解せなくもないとしています(因みに、勾践の"会稽の恥"を雪ぐための「嘗胆」も、自らの発案ではなく、范蠡の進言によるものとなっていて、勾践にも夫差と同じような意志の弱さがあったことが見てとれる)。

 文藝春秋版は、サブタイトルに「孫子の兵法」とあり、孫子(孫武)自身も活躍しますが、孫子が呉王闔廬や伍子胥を助け、楚を壊滅させたのは史実であるとしても、呉王夫差から死を賜った伍子胥の無念を晴らすべく、越の軍師・范蠡に策を授け、夫差を敗死させたというのは本当なの?

 ただ、全体を通してストーリー的には面白く、孫子の多彩な兵法のごく一部のみしか描かれていないのは不満ですが、田舎に隠遁している時の孫子の恐妻家ぶりとか、再婚して還暦近くなって子をもうけた時の喜びぶりとかは、孫子の意外な側面を見せています(これも"創作"の要素が強いと思えるが)。

 かつての呉王夫差と同じ愚を繰り返そうとしている越王勾践に国の先行きを読み、宰相の位を辞して越を去り、斉国で事業家として成功した范蠡の生き方などは、社長が無能だから自分の会社はダメなのだと思っているサラリーマンなどが読むと、ちょっと考えさせられるかも。

 【1984年単行本[講談社(『史記9〜12―呉越燃ゆ(中国歴史コミック)(全4巻)』)]/1989年文庫化[講談社(『呉越燃ゆ―史記(スーパー文庫)』)]/1990年単行本[文藝春秋(『呉越燃ゆ―孫子の兵法(コミック人物中国史)(上・中・下)』)]/1995年再文庫化[講談社漫画文庫(『史記4〜6―呉越燃ゆ(上・中・下)』)]】

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