【1269】 ○ スコット・トゥロー (指宿 信/岩川直子:訳) 『極刑―死刑をめぐる一法律家の思索』 (2005/11 岩波書店) ★★★★

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死刑廃止論者に転じた弁護士作家の省察。社会契約としての死刑制度とその適正運用の困難さを考えさせられた。

『極刑―死刑をめぐる一法律家の思索』.jpg極刑 死刑をめぐる一法律家の思索.jpg  Ultimate Punishment1.jpg  Scott Turow.jpg Scott Turow
極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』['05年] "Ultimate Punishment: A Lawyers Reflections on Dealing With the Death Penalty" ['04年/ペーパーバック版]

無罪 二宮馨訳.jpg推定無罪 上.jpg '90年代の米国のサスペンス小説界で最も人気を得た作家と言えば、弁護士出身のジョン・グリシャムで、『評決のとき』『法律事務所』『ペリカン文書』などのリーガル・サスペンスは映画化作品としても知られていますが、同じ弁護士出身のベストセラー作家でも、弁護士としての実績では、『推定無罪』『立証責任』『無罪 INNOCENT』などの著者であり、また本書(原題:Ultimate Punishment: A Lawyer's Reflections on Dealing With the Death Penalty )の著者でもあるスコット・トゥロー(Scott Turow)の方が上のようです。

 2005年原著刊行の本書にも取り上げられている、トゥローが作家活動をしながら手掛けた2件の事件の内1つは、死刑囚の冤罪を立証して無罪に導いたもので(この事件をベースに『死刑判決』というリーガル・サスペンスを書いている)、もう1つは、一旦は死刑が確定した被告について、量刑の不均衡を訴え再審に持ち込み、懲役刑に減刑したというもの―まさに「やり手」と言うしかありません。

 本書はトゥローが、当初は、死刑制度に敢えて反対はしないものの、死刑制度が必要であるとも明言しかねるという曖昧な態度であったものが、次第と死刑廃止論に傾いていく過程を、上記2つの事件を巡る経験や、イリノイ州の「死刑査問委員会」のメンバーに指名されてからの見聞と考察を交えて記したもの。

 日本の死刑反対論者が書いたものに比べると、「正義はきちんと行われているか」「量刑に不均衡はないか」ということにウェイトが置かれているように思われ、これは「犯罪大国」であり「死刑大国」であるアメリカであるからこそ、より問題視されるのでしょう(特にイリノイ州では数多くの冤罪や量刑不当があった)。要するに著者は、その点に確信が持てないことから、死刑廃止論者になっていったことが窺えます。

 本書に幾つかその例が出てくるように、アメリカでは、何十人もの人間を残忍な方法で殺害した殺人鬼のような犯罪者が時折現われますが、そうした矯正不能と思われる人間を処刑せずに生かしておくことになっても、「無辜の民を殺してしまう誤り」を選ぶぐらいならば、「生かしておく誤り」の方を選ぶと。

 一方で、死刑から懲役刑に減刑された囚人の改心が目覚しいものであったことを例にあげ、罪者の改心の可能性を奪ってしまうことになる死刑制度には反対であるという論じ方もしていて、この点は、日本の一部の死刑反対論者の論と通じる処があります。

 但し、アメリカは州によって死刑制度があったり無かったりし、またイリノイ州のように制度があっても執行が停止された州などもあるわけで、そうなると大量殺人を犯しても生かされている犯罪者もいれば、偶発的な殺人で死刑に処せられた犯罪者もいたりし、この辺りの矛盾については、著者自身が州内での量刑不均衡の次に考えなければならない問題なのでしょう。翻訳者も解説において、9.11同時多発テロ以降の当局の司法審査を経ない長期の身柄拘束への批判がされていないことなどへの不満を漏らしています。

 個人的には、ケーススタディとして考えさせられる部分はあり、遺族の報復・仕返しの観点から死刑を選択するのではなく、それは副次的に考えられなければならないとする論などには頷かされる面もありましたが、犯罪や司法などのそもそものバックグラウンドが日本とは違う面もあるとの印象も受けました。

 しかしながら、死刑制度は極めて安定した秩序に依存するのであり、死刑制度存置派の人たちは、死刑があるから秩序が落ち着いていると考えるが、これは事実と異なるというトゥロー自身の主張には、頷かされるものがありました。

 つまり、これまで死刑の犯罪抑止効果を学問的に支持してきたのは、「社会的選択は、報償物に応じて合理的に意思決定する人々による行為である」と信じる自由主義市場経済学者らが中心だったとし、彼らの考え方によれば、合理的な意思決定が出来れば、人は自分を死に至らしめる危機に追い込むような選択はしないだろうから(人を殺せば死刑になるのは分かっているのだから)、合理的選択は死刑を回避する道を選ぶ-これが、彼らの理屈であるとし、その論理からすれば死刑になる人は少なくなり、やがていなくなって死刑制度の存在も無意味になるが、人間の行動は自由主義経済学者らが考えるほど合理的でも単純でもないとしています(つまり、"割に合わない"犯罪行為を犯す人が後を絶たないということ)。

 トゥローによれば、死刑制度が在るアメリカの一部の州や日本は、むしろ極めて安定した秩序の内部から生じる安全意識から死刑制度があるのであって、そこには、自分を含め誰でも被害者になり得るという不安意識は強化されているが、自分が加害者になるもしれないという意識は薄められている、つまり、全ての人は死刑を安全のため、防衛のため、公平な復讐のための利益であるとしか見ないが、死刑制度とは本来は、「もし私が他人の生命を侵した時は、私の生命が奪われることに同意します」という宣言であると-(その自覚が極刑の必要を叫ぶ人に必ずしもあるかどうかは疑問があるということか)。

 トゥローは、こうした「社会契約」としての死刑制度を念頭に置きつつ、「今後も常に極刑の必要性を求めて叫ぶケースが現れることだろう。しかしそれは本当の問題ではないのだ。それに代わる重要な問題とは、無実の者や死刑に値しない者に刑を適用してしまうことなく、非常にまれな死刑にふさわしいケースを適正に取り扱う司法制度を構築することが可能かどうか、ということである」として、死刑不要論を説いているわけです。

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This page contains a single entry by wada published on 2009年11月 6日 23:45.

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