2009年11月 Archives

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新書らしくコンパクトにまとまった戦国史、人物列伝。また、著者の小説が読みたくなる。

孟嘗君と戦国時代.jpg孟嘗君と戦国時代 (中公新書)』['09年]宮城谷昌光(孟嘗君と戦国時代).jpg NHK教育テレビ「知るを楽しむ」

NHK知るを楽しむ 孟嘗君と戦国時代.jpg 著者が出演したNHK教育テレビの「知るを楽しむ」('08年10月から11月放送・全8回)のテキストを踏まえ、加筆修正したもので、テレビ番組を一部観て、著者の語りも悪くないなあと思いましたが、こうして本になったものを見ると、著者の小説のトーンに近いように思え、また、小説同様に、或いはそれ以上に読み易く感じました。
この人この世界 2008年10-11月 (NHK知るを楽しむ/月)

孟嘗君 1.jpg 著者の小説『孟嘗君(全5巻)』('95年/講談社)は、単行本で1500ページほどありますが、前半部分はその育ての親で任侠の快男児・風洪(後の大商人「白圭」)を中心に展開され、風洪の義弟で秦の法治国家としての礎を築いた公孫鞅(商鞅)や、天才的軍師で田文(孟嘗君)が師と仰ぐ孫臏(孫子)の活躍が描かれ、田文が活躍し始めるのは第3巻の中盤ぐらいから、つまり後半からです。

 一方、全8章から成る本書も、第1章で春秋時代と戦国時代の違いや戦国時代初期の魏の文候と孟嘗君以外の戦国の四君に触れ、第2章から第4章にかけて春秋時代からの斉の歴史を、管仲や孫臏の活躍を織り交ぜながら解説し、第5章で田文の父・田嬰に触れ、第6章では稷下を賑わした諸子百家に触れ...といった感じで、孟嘗君田文の活躍が始まるのが第7章、鶏鳴狗盗の故事が出てくるのは最終の第8章です。

 でも、これはこれで、斉を中心とした戦国時代史として読め、また、新書らしくコンパクトに纏まった人物列伝でもあり、とりわけ、第6章の諸子百家の解説は、儒家と墨家、道家と法家、名家と縦横家などの思想の違いが、それぞれの代表的人物を通して分かり易く把握できるものになっています。

 田嬰が、妾に産ませたわが子(田文)を殺すように命じ、困った田文の母が邸外で密かに育てたという話は、小説では、田文の母・青欄がその子を庭師の僕延に託し、僕延は反体制派の警察長官・射弥(えきや)にその子を託し、そこには別に女の赤ん坊もいたが、僕延が射弥宅を再訪したときは射弥は殺され、赤ん坊は2人とも消えており、2人の赤ん坊のうち、「文」という刺青のある男児の方は、没落貴族の末裔で隊商用心棒・風洪(白圭)に救われて自分の子として育てられ、十数年後に父に見え認知されるとともに、かつて射弥宅に一緒にいた女児の成人となった女性とも再会するという壮大なストーリー展開なのでが、本書では、『史記』の記事からは「誰がどのように育てたかがわからない」とあっさりしていて、次はいきなり田文が父に謁見する場面になっています(う〜ん、どこまでがあの小説の著者の"創作"なのだろうか)。

 『孟嘗君』を読んだ人には、手軽な振り返りとして楽しめ、また、読んでいない人も含め、著者の中国戦国時代小説を読みたくなる本です。

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考古学的手法に加え、史料、他諸科学の現代技術も駆使して、チンギスの実像に迫る。

ジンギス・カン 白石典之.jpgチンギス・カン―"蒼き狼"の実像 (中公新書)』['06年] チンギス・カン.jpg チンギス・カン

 著者は考古学者で、チンギス・カンはこれまで考古学の対象になったことがないにも関わらず、自ら「チンギす・カン考古学」を看板にしている、"自称"異端の研究者であるとのことです(実際は、国際的評価を得ているホープ的存在なのだが)。本書では、チンギス・カンの本当の姿に迫るために、「元朝秘史」などの史料に拠りながらも、考古学の手法で物証により史実を検証していて、更には、人工衛星によるリモートセンシングなど地理学や地質学、土中の花粉から年代分析するなどその他諸科学の現代技術をも駆使し、"蒼き狼"を巡る多くの謎について実証または考察しています。

 そもそも「チンギス・カン(王)」と「チンギス・ハーン(皇帝)」では意味合いが異なり、「ハーン」と呼ばれるようになったのは後のことで、生前は「カン」と呼ばれていたというところから始まりますが、前半部分で特に興味を惹いたのは、鉄鉱石の産出が乏しいモンゴル高原で、彼がいかにしてそれを調達し、富国強兵を進めたのかという点で、中国北部にあった「金」への征服軍が、なぜ首都を素通りして、現在の山東省に向かったのかという疑問から答えを導き出しています(そこに鉄鉱山があったから)。ただ戦いに(戦術的に)強かっただけでなく、その根底には用意周到な(戦略的な)軍備拡張計画があったのだなあと。各王子に対する分封を交通路との関係で整理しているのも、チンギスの統治戦略を理解するうえで分かり易く、そもそも、モンゴル人のウルドの感覚は、我々の持つ国家や領土のイメージとはやや異なるもののようです。
チンギス・カンの霊廟 
チンギス・カンの霊廟.jpg 「元朝秘史」を手繰りながらの解説は、版図拡大の勢いを物語り、壮大な歴史ロマンを感じさせますが、一方で、製鉄所の場所が、長年謎とされてきた居所や霊廟のあった場所と重なってくるという展開は、ミステリー風でもあります。更には、どのような建物に住み、4人の后妃との生活はどのようなものであったか、実際にどのようなものを食していたのか、などの解説は、著者自身による発掘調査の進展や現地で得られた知見と併行してなされているため、説得力を感じました。後代のカーンに比べ、意外と王らしくない素朴な暮らしをしていたというのが興味深いです。晩年は、始皇帝よろしく不老長寿の秘薬を求めたものの、結局、養生するしか長生きの方法は無いと悟ったが、狩猟での落馬が死を早める原因となったとのこと。

中国・モンゴル・内蒙古.gif 本書には、前世紀から今世紀にかけての比較的最新の考古学的発見や研究成果が織り込まれていますが、チンギスに纏わる最大の謎は、その墓がどこにあるかということで、これだけはまだ謎のままのようです。調査が進まない要因の1つとして、政治的問題もあるようですが、本書の最後の方で語られている、内モンゴルと外モンゴルの国境線による分断(これには、中国、ソ連、そして満州国を建立した日本が深く関わっているのだが)などのモンゴル現代史は、内モンゴル自治区が、近年特に政治的に不安定な新疆ウイグル自治区と同じく、中国民族問題の火種を宿していることを示唆しているように思えました。

 著者によれば、本書は、考古資料を中心に、"実証的"スタンスで執筆を始めたが、途中でそれではあまりに無味乾燥な話になってしまうことに気づき、チンギスの個性のわかるエピソードや伝説の類を織り込んだとのこと、また考古学に関する部分でも、検証を先取りするようなかたちで書いた部分もあるとのことで、歴史学者はこうしたやり方を批判するかも知れませんが、一読者としては、お陰で楽しく読めました。

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著者の厳格な姿勢が貫かれた「中公」版。推理小説を読むような面白さがある「岩波」版。

元朝秘史 中公新書.jpg 岩村 忍 『元朝秘史―チンギス・ハン実録 (中公新書 18)』 ['63年] 元朝秘史 岩波新書.jpg 小澤 重男 『元朝秘史 (岩波新書)』 ['94年]

 中公新書版『元朝秘史』は、東洋史学者・中央アジア探検家で、ヘディンの『さまよえる湖』の翻訳などでも知られた岩村忍(1905-1988)による、チンギス=ハンに関する唯一の原史料「元朝秘史」の読み解きで、「元朝秘史」は元朝全体の史料ではなく、モンゴル帝国の始祖チンギス=ハンからオゴタイ=ハンまでの歴史伝承の写本であり、主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこと(最初ウイグル文字で書かれ、後に漢字を音に充てて書き直された)。フビライ=ハンによる元朝の成立は1271年ですから、元朝成立前で話は終わっていることになります。

 なぜ「秘史」というかというと、チンギス=ハンの行ったことを非行も含め忠実に記録してあるため、正史である「元史」のように美化されておらず、あまり広く知られるとチンギス=ハンのカリスマ性を損なう可能性があったのと、チンギス=ハンの息子の中に、チンギス=ハンの妻が他国で囚われの身であった時に孕んだ子がいて、後継者の血統問題に差し障りがあるためだったらしいです。
 著者によれば、この「秘史」は、「ローランの歌」「アーサー王の死」など中世文学に比べても劣るロマンチシズムとリリシズムを湛え、関心を惹いた学者の数は日本の「古事記」どころか「史記」も及ばないとのことです。

 内容的には、"蒼き狼"と言われるあのチンギス=ハンが、いかにして人心を掌握してモンゴル族のリーダーになり、更に他のアジアのタタール族やキルギス族、ナイマン族(中央アジアにはモンゴル族だけがいたわけではない)などの部族を傘下に収めていくかが描かれていますが、登場人物の名前が似たり寄ったりのカタカナが多くて結構読むのが大変なため(原著の翻訳を見ると、ちょっと旧約聖書と似ているような感じも)、なかなか"血湧き、肉踊る"みたいな感じでは読み進めなかったというのが正直な感想。

 但し、ジャムハというチンギス=ハンの盟友で、後にチンギス=ハンと競うことになる人物がいて、著者はチンギス=ハンをドン=キホーテ型、ジャムハをハムレット型としていますが、こうした主要人物を念頭に置きつつ読むと、比較的読み易いかも知れません。

 史料の章変わりのところで、歴史的背景やどういうことがこの章で書かれているかが小文字で解説されていて、その上で本文に入っていく方法がとられていて、著者自身の考察は、この小文字の部分に織り込まれています。

 これは、読者の理解を助けるというより(それもあるが)、この「秘史」にも元々の語り手がいたわけで、例えばジャムハに対しては、同じくチンギス=ハンと競った他の部族の王や族長よりも好意的に伝承されており、そうした元の物語に入りこんでいる主観と、著者の主観を区分けするためだったと思われます。
 
 そのために「秘史」本文の方が、説明不足で読みにくい部分があり、これは著者の主観が入り込まないように翻訳した結果だと思いますが、ここまで史料と自らの主観を峻別しておいて、なおかつ、これは単なる翻訳ではなく、「わたくしの元朝秘史」だとしています。

歴史とh何か.jpg 著者の『歴史とは何か』('72年/中公新書)を読むと、歴史を文学や社会諸科学と対比させ、同じ史料を扱うにしても、歴史家は歴史家としての客観性を保持しなければならないとし、考証学者などに見られる「批判的歴史研究法」を"批判"していて(白石典之氏の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』('06年/中公新書)などもこの手法で書かれているのだが、「秘史」にも多くを拠っている)、ましてや歴史小説家などは勝手に面白く「物語」を書いているにすぎないといった感じです。

岩村 忍 『歴史とは何か (1972年) (中公新書)

 歴史家はそんな自由に史料に自分の思想を織り込める立場にあるものではなく、例えば、森鷗外の歴史小説における史料の記述は、その文体において冷静客観を"装っている"が、彼が「歴史」と思っていたものはドイツ的実証主義の踏襲に過ぎない云々と手厳しいです。

 「事実を事実のまま記した」部分が多いと認められる司馬遷の「史記」に対する著者の評価は高く、一方、宋代に書かれた司馬光の「資治通鑑」に対する史書としての評価はそれに比べて落ち、但し、「すべての歴史は現代史である」と言われるように、「史記」にも、書かれた時代の「現代史」的要素が入り混じっていることに注意すべきだと。
 「個人的には、ここまで言うかなあと思う部分もありましたが、今の歴史家にも当てはまるのだろうか、この厳格姿勢は。
 この人は、「司馬史観」とか「清張史観」なんてものは認めなかったのだろうなあ、きっと。(評価★★★☆)

『元朝秘史』.jpg 尚、本書では冒頭に記したように、「元朝秘史」の主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこととしていますが、「元朝秘史」がいつ書かれたのかについては諸説あり、言語学者でモンゴル語学が専門の小澤重男氏は『元朝秘史』('94年/岩波新書)で、これまである諸説の内の2説を選び、その両方を支持する(1228年と1258年の2度に渡って編纂されたという)説を提唱しています。
 
 「元朝秘史」の元のモンゴル語のタイトルは何だったのか、作者が誰なのかということも謎のようですが、これらについても小澤氏は大胆かつ興味深い考察をしていて、前者については「タイトルは無かった」(!)というのが正解であるとし、後者については、主要部分の「正集十巻」はオゴタイ=ハンに近い重臣が書いたのではなかという独自の考察をしています。 
 
 小澤氏は「元朝秘史」全巻の翻訳者でもあるモンゴル語学の碩学ですが、言語学の手法を駆使しての考察などには、この本の見かけの"硬さ"とは裏腹に、推理小説を読むような面白さがありました。
 
 但し、この本を読む前に、先に岩波文庫版の翻訳とまでもいかなくとも、岩波新書(岩村忍)版の『元朝秘史』や中公新書(白石典之)版の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』などを読んで、その大まかな内容を掴んで(或いは、感じて)おいた方が、より本書を楽しく読めるかも知れません。 
 
元朝秘史(モンゴルン・ニウチャ・トブチャァン)」)...明初の漢字音訳本のみ現存する。中央下に「蒼色狼」との漢語訳がみえる。

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レトロなヴィジュアルを楽しめ、解説はカッチリした日本文化論に。

昭和30年代モダン観光旅行.jpg 昭和30年代モダン観光旅行(帯なし).jpg 『昭和30年代モダン観光旅行』(22 x 18.2 x 1.8 cm) ['09年]

昭和30年代モダン観光旅行].jpg 昭和30年代の絵葉書を集めたもので、これ全部、グラフィック・デザイナーである著者の個人コレクションで、しかも集め始めたのが80年代初頭とのことで、と言うことは昭和50年代後半から集めたということになるから、よくそこから遡って集めたものだなあと感心させられました。

 「橋」とか「ロープウェイ」とかテーマごとに括っていて、現在は無い建物や施設、交通期間などもあり、記録的にも貴重なのではないでしょうか。

 何れもやや毒々しい原色がかって見えるのは彩色してあるからで、自分もやや時代が後の方になりますが数百枚の絵葉書のコレクションを有しており(要するに父親の出張土産の定番だっただけのことだが、著者が集め始めた頃には集めるのをやめていた)、但し、自分が持っているものの内、明らかに彩色されているものはほんの一部です。

東京今昔散歩.jpg 歴史・サイエンスライターの原島広至氏の『東京今昔散歩―彩色絵はがき・古地図から眺める』('08年/中経の文庫)にもありましたが、こうした彩色絵葉書の歴史は明治時代からあり、さらに遡るとルーツは江戸時代になることが、本書においても解説されています。

 しかし、印刷技師はやり放題とまでは言いませんが、色付けだけでなく、洋服姿の人物を浴衣姿に差し替えて温泉街らしく見せたりとか、今で言うCG加工みたいなことをしているんだなあと。

 カラー写真の無かった明治時代には流行っていたであろう"彩色"を、なぜ昭和の30年代においてもやっていたのか。
 その背景には、絵葉書は高度経済成長期に突入した日本人の観光・レジャーに対する"欲望"を照射したものであり、平板な風景を写し取るだけではその欲求を満たさず、ピクチャレスク(視覚的・絵画的)に"描かれて"いるものが求めらたというのが、著者の分析のようです。

 本書においては、ヴィジュアルを優先させるために解説文はコンパクトに纏めるよう努めたようですが、読んでみると、細かい調査がなされているのが分かり、また、折々の社会事象を詳細に追いつつ当時の日本人の生活を俯瞰していて、かなりカッチリした日本文化論に仕上がっています。
 趣味の世界を超えて研究者の領域に入っているなあ、この人。

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一見、気まぐれ、お手軽なようで、実は戦略的にこの言葉(「汚い」)を選んでいた?

「汚い」日本語講座.jpg 『「汚い」日本語講座 (新潮新書)』 ['08年]

 '06年から'07年にかけて、㈱パブリッシングリンクの電子書籍サイト「Timebook Town」('09年に終了)に連載されたもので、著者のゼミで「目くそ鼻くそを笑う」という言葉が話題に上るところから話は始まり、「汚い」とは何だろうか、というテーマでの学生との遣り取りが暫く続きます(取り敢えず、この言葉を選んでみたという感じに思えた)。

 Web本で、しかも学生との遣り取りをネタに書いていて、お手軽だなあとも思ったれども、「汚い」と「汚れている」「汚らしい」「小汚い」などとのそれぞれの違いなどの話は、辞書の上での意味の違いを超えて、感覚論、メタファー論へと拡がり、それなりに面白かったです。

 但し、前半は、著者自ら"ハウルの動く城"の如く、と言うように、話をどこへ持っていこうとしているのかよく分からず、(金田一先生がインタラクティブに授業を進めているのはよく分かったけど)ややじれったい感じも。

 それが、後半、「汚い」とは何かを更に突っ込んで、言語学から文化人類学、精神病理学、構造人類学へと話は転じて、仕舞いには人類の起源そのもの(考古人類学)へと遡って行くその過程は、もう話がどこへ行こうと、話のネタ自体が興味深かったというのが正直な感想でしょうか。

納豆.jpg 例えば、著者は、粘り気のあるものを食べるのは日本人だけであると言っても過言ではないとし、ネバネバするものは毒であるというのがホモサピエンスにとっての生物学的常識であるが、日本人は例外的にその判断基準を捨てることに成功し、お陰で納豆など食していると。

 或いは、2人でケーキを食べる時に、互いにチーズケーキとチョコレートケーキを頼むと、2人は当然のように相手の分を少しずつ分けて食べるが、2人が同じケーキを頼んだ時はそうしないのは、「比べる」理由がないからと言うよりも、そこに「共有」と「所有」の違いがあるためで、「所有」という意識は「余剰」により生まれるのではないかと。

家でやろう1.jpg 電車の中で化粧をするのが嫌われるのは、車内の空間が「共有」されていて、個人の裁量権が無いというのが一般的了解であり、その掟を守っていないためとのことらしいです(車内が混んでいれば混んでいるほど、「余剰」が無いから、空間を「共有」せざるを得なくなり、そこでの個人の「所有」は認められないということか、ナルホド)。

 20万年前にアフリカのどこかで発生したホモサピエンスが、ネアンデルタール人を凌駕したのは、言語を獲得したことに因るところが大であり、それでも15万年間はアフリカ大陸に止まっていたのが、5万年前に「出アフリカ」を果たし、その後、様々な気候風土に適応して地球上に広がっていく(ネアンデルタール人もアフリカを出たが、せいぜい現在のヨーロッパの範囲内に止まっていた)、それはホモサピエンスが、寒い地で衣服を工夫し、棲家を作り変えるなどしたためですが、そうした文明の礎もまた、言葉によるコミュニケーションが出来たからこその成果であり、ホモサピエンスはもう何万年経とうが(適応し切っているため)進化しないだろうとまで、著者は言い切っています。

 「汚い」というのは人間の原初的な感覚であり(著者は「恐い」に近いとしている)、それを察知出来るか出来ないかは生命に関わることであって、その感覚や対象となる事象を文節化された複雑な言語によって精緻なレベルで共有化出来た点に、ホモサピエンスの繁栄の源があった―ということで、最後、きちんと「汚い」というテーマに戻ってきているわけで、顧みれば、著者は当初から戦略的にこの言葉を選んでいたように思えました。

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概ねベーシック。誤用は正す一方で、「テキトーである」ことが適切であることもあると。

適当な日本語.jpg金田一 秀穂 『適当な日本語』.jpg 『適当な日本語 (アスキー新書 76)』 ['08年]

 全3章の構成で、第1章は「適切な日本語相談」は、「とどのつまり」の「とど」とは何かとか、「汚名挽回」の誤りとか、「気のおけない人」の誤用例とか、かなりベーシックな感じですが、ファミレスなどでの「こちらコーヒーになります」など使われ方に対しては、「優しく寛容に聞き流してあげましょう」とのことで、こうした"いい加減さ"を許容する姿勢が、本書のタイトルに繋がっているようです(本来的な正しさよりも、その場において適切であればいいのだと)。

  第2章の「今こそ使いたい懐かしい言葉」では、「おしたじ」とか「シャボン」など、あまりマニアックにならな程度のものが解説されていますが、「隔靴掻痒」とか「眉目秀麗」も"懐かしい言葉"になるのかなあ(「手練れ」とか「お目もじ」とか「始末がいい」とかまでいくと、時代劇の言葉になるような気がするが)。

 第3章の「パソコン&ケータイ時代の漢字選び」は、「アスキー・ドットPC」の連載がベースに加筆・修正して全回分を収録したもので、例題に対してPCの漢字変換候補からそれぞれの意味合いの違いを解説し、どれが適切かを選ぶものですが、なかなか面白い企画で、読みでもそれなりにありました。

 例題そのものは、「オリンピックの代表選手を会議にはかる」の「はかる」は「計る」「測る」「図る」「量る」「諮る」「謀る」のどれかといったもので、それほど難しくないですが(と言いつつ、自分が誤用していたものもあったが)、それぞれのニュアンスの違いが明解に示されていて、例えば、「勧める」と「薦める」の違いについて、本来的な意味を解説し(「薦」には「神に供えてすすめる」という意味があるとは知らなかった)、その上で、「勧めるのは行為、薦めるのは具体的なモノやヒト」だと思えばいいとのことで、実に解り易い解説です。

 通してみれば、やはり概ねベーシックであるということになり、「新たな知識を得る」と言うより「曖昧な部分の再確認」といった感じでしょうか。
 通勤電車の中でサラッと読めてしまう本です。

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日本語の曖昧さ、適当さを認識させられるクイズ集。「本」として読むと、やや軽い。

ふしぎ日本語ゼミナール.jpg 『ふしぎ日本語ゼミナール (生活人新書)』 ['06年]

 本の大部分がクイズ形式になっていますが、普通の日本語のクイズ本と異なり、その大部分に"正解"が無いのがミソです。

 気軽に読める本ですが、自分の知識を試すつもりで手にした読者が、日本語の曖昧さを考えさせられ、或いは、著者の言う"適当さ"を認識させれるようになっていると言う点では、戦略的と言えば戦略的な本かも知れません。
 
 切符にある「大人・小人」の「小人」をどう読むか、著者は、読めなくていい、意味がわかればいいのだと。「1日おき」と「24時間おき」の違いなんて、「1日=24時間」と考えれば、確かに整合しない感じもしますが、数を「かたまり」で捉えるか「長さ」で捉えるか、無意識的に識別しているわけです。「1日いて帰った」は、人によって、日帰りで帰ったのと泊って帰ったのに印象が分かれるそうですが、人よりむしろ状況によるのではないかと。

 著者があとがきで書いていますが、クイズのように選択肢で答えられるものは知識の領域であって、本を調べればすぐわかると。「本当に面白いと思えることは、日常の中で使われていて、誰も困らず、誰も不思議に思っていないような言葉の中に、考えてもわからなくなるような謎を見つけ出すこと」であると。

 本書は、「NHK日本語なるほど塾」のテキストや、NHK教育テレビの「日本語なるほど塾」(擬音語・擬態語研究者の山口仲美氏なども出演していた時期があった)の「言葉探偵」のコーナーをもとに再編集したもので、体裁がクイズ本なので、普通に「本」として読むと、やはりやや軽いかも(あっさりし過ぎ)。

 元々よくテレビに出演していた著者ですが、最近は、クイズ番組の回答者としての出演することも多いようです。回答に詰まって苦しい表情をみせたりしていますが、根っこの部分では、そんなこと知らなくても恥ずかしいことではないと思っているのかも(そう思ってでもいないと、大学の先生でクイズ番組などには出られないか)。

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エッセイ風にさらっと読めるが、著者のエッセンスが詰まっていた本。

新しい日本語の予習法.jpg新しい日本語の予習法2.jpg  金田一 秀穂.jpg 金田一秀穂 氏
新しい日本語の予習法 (角川oneテーマ21)』['03年]

 「日本」を「外国人」に教えるという日本語教師という仕事を通して、日本人であることを捨ててはならないが、「日本人的なものの見方」だけでなく、海外と日本の中間の視点も持たざるを得なくなった著者が、そうした観点から、「日本人の日本語の使い方」を書いたもの。

 しばらくぶりの再読ですが、面白いことが結構書かれていたなあと。著者の初めての"単著"だったとのことですが、その後に著者が書いた日本語に関する本(クイズ本的なものも含め)のエッセンスが本書に詰まっていたのだと再認識しました(エッセイ風にさらっと読めてしまう分、忘れていることも多かった)。

 第1部「正しい日本語?」第1章の「いろいろな日本語」に、最近の若者の言葉の乱れを書いていますが、基本的には寛容というか、著者自身が面白がっているようなところもあるものの、「アケオメ、コトヨロ」(明けましておめでとう。今年もよろしく)みたいな携帯メール言葉に出くわすと、さすがに「面白がってばかりいられなくて、少しは苦言を呈したくなってくる」と。

 第2章の「気持ちのいい日本語」で、「伸ばしあうアメリカ人・補いあう日本人」というのがあり、グループが協力的な態勢を作るに際して、アメリカ人は「お互いのいい点を発揮しあおう」、日本人は「お互いの足らない点を補いあっていきたい」と言うことが多いそうで、認め合うのが長所なのか短所なのかという日米対比が興味深いです。

 第2部「人見知りの文化」は、会話(おしゃべり)のスタイルについて書かれていますが、さらに比較文化論的な要素が強くなり、「道をきかない日本人」とかは確かにそうだなあと(著者が常に自分自身を振り返って「自分もそうだが」と言っているため、なんとなく親近感がある)。

 「ひとつの話題で盛り上がれるのは、参加者が五人までだという」のも、ナルホドそうだなあという感じで、「レストランでの注文の仕方」の日本人とアメリカ人の違いの話も、確かにそうだなあと納得、著者がアメリカでサンドイッチを注文しようとして、どういうパンを使って何を入れるか店の人にいろいろ聞かれ難渋した話も面白かったです(レストランの入り口にある料理見本は、日本独自のものらしい)。

 "単著デビュー"が「角川oneテーマ21」であるのは、親父さん(金田一春彦)の著作がこの新書に収められているヨシミなのかも知れませんが、自分で自分がこう本を出すのも、親の七光り、十四光り(祖父まで含め)によるものと思われると言っている、この腰の低さが、テレビ番組などでの好感度にも繋がっているのではないかと。

 若い頃は、高校に馴染めず、修学旅行や卒業式は欠席し、大学でもあまり勉強せず、海外放浪に出て、それが今の日本語教師の仕事に繋がっているようですが、研究論文は書いていないそうで、アカデミズムの本流と違うところにいるのは、やはり"七光り、十四光り"の重圧の反作用かな?
 
 でも、日本語の面白さをテレビ等を使って広く伝えるというやり方は、ある意味では、論文など書いているよりも影響力があるかも。
 結局は、親父さんと同じように、日本語から日本文化論・日本人論へといくのだろうなあ、この人は。

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写真が豊富。懐かしい"昭和レトロ"に混ざる、意識的に忘れ去ろうとしてこられたもの。

東京今昔探偵.jpg 建設途中の東京タワー.jpg ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD].jpg  ALWAYS 三丁目の夕日2.jpg
東京今昔探偵―古写真は語る (中公新書ラクレ)』['01年]/「ALWAYS 三丁目の夕日 豪華版 [DVD]」建設途中の東京タワー/映画「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005)

 読売新聞都内版に「東京伝説」というコラムタイトルで、'96年から'00年まで162回にわたって連載されたものの中から43回分をピックアップして纏めたもの。

日本橋白木屋火災.jpg 「東京伝説」というタイトルの如く「旧い東京」の建物や施設、風物を取材していて、基本的には、当時それらに関係した人にインタビューするようにしていますが、既に関係者の多くが亡くなっていたりして、コラムであるため字数の制限もあり、1つ1つの取材そのものはそれほど深くありません。

②スカイツリー.jpg 但し、写真が豊富で、日本橋「白木屋」火災('32年)、街頭テレビ('53年)、建設途中の東京タワー('57年)、新宿駅西口のフォーク集会('69年)、光化学スモッグ('70年)...etc. 事件・社会事象関係はさすが新聞社ならではという感じ(建設中の「東京スカイツリー」の写真も、そのうち貴重なものになる?)。

 特に、建設中の東京タワーの写真は、何だか「ゴジラ」に壊された後のようにも見えて興味深いです。実際には旧シリーズの「ゴジラ」は東京タワーを破壊しておらず(まだ出来ていなかった)、後から出てきた「モスラ」の方が先にタワーをへし折ってそこに繭を作ったりしたのですが。

ALWAYS 三丁目の夕日2005.jpgALWAYS 三丁目の夕日.jpg 西岸良平の漫画『三丁目の夕日』を原作とした山崎貴監督の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」('05年/東宝)は、この建設中の東京タワーを上手くモチーフとして組み込んでいたように思われ、話の内容も映像も(映像の方は、広大なロケセットと併せて精緻なCGを使いまくっているのだが)ともに作り物っぽいところが逆に良かったように思います。ある種「時代劇」感覚(?)。従って、話の運びとしても、「ここで泣け」みたいな作り方が気にならなくはなかったですが、原作自体がそうした作りのものであることを考えれば、むしろそれに沿っていたと言えるのかも。

屋上遊園地.jpg 本書には、その他にも、デパートの屋上遊園地の賑わいや路面電車とバスの中間みたいなトロリーバス、下町の巨大キャバレーや新宿の歌声喫茶などが盛り込まれていて、昭和レトロを満喫することが出来ます(子供のころデパートに行く最大の楽しみは、この屋上遊園地で遊ぶことだったが、どんどん縮小・廃止されていったなあ)。
銀座松屋・屋上遊園地「スカイクルーザー」(本書61p)

 個人的には、下町の方に興味を惹かれ、「千住のお化け煙突」はあまりに有名で、「京成電鉄白髭線」も聞いたことがあり、南千住の「東京スタジアム」はその跡地が近所ですが(現在は「荒川総合スポーツセンター」と同センター付属のグランド)、観客が超満員の東京スタジアムのスタンドや、そこで行われた日本シリーズのロッテ対巨人戦('70年)で長嶋が決勝ホームランを打った写真なども掲載されているためにシズル感があり、新たな感慨に浸ることが出来ました。
南千住「東京スタジアム」(1962-1972)[現:荒川総合スポーツセンター]
東京スタジアム 1962-1972.jpg 東京スタジアム1967.jpg

荒川ふるさと文化館 入り口.jpg荒川ふるさと文化館 2].jpg荒川ふるさと文化館1.jpg 因みに、荒川総合スポーツセンターの付近に「荒川ふるさと館」という施設が区立荒川図書館内にあり、昭和の下町の路地裏や民家を再現していて、まさに「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界、子どもを連れていくと楽しめます(大人の方が結構楽しんだりして...)。

現・JR隅田川駅付近
JR貨物隅田川駅.jpg 知らなかったのは、「東京俘虜収容所」(米国人捕虜収容所)の「第十分所」が南千住の旧国鉄隅田川貨物駅(現・JR隅田川駅)付近にあったということで、近所の派出所での警察官をしていたという老人が語る、敗戦と捕虜の解放時の話は生々しかったです。

 東京裁判では、第十分所に関係した憲兵や民間人が捕虜虐待などの罪でB・C級先般として裁かれたそうですが、その後、地元では「第十分所」の話はタブーとされてきたとのこと。調べてみたら、他の俘虜収容所では所長や看守に死刑判決が下った所も少なからずあったようですが、「第十分所」関係では死刑判決は無かったようです(捕虜の扱いが丁寧だったのか?)。

 かつて日本人が夢中になり、今は懐かしさをもって語られるもの、そうしたものの中に、「第十分所」のように意識的に忘れ去ろうとしてこられたものもあることを知ったのは収穫でした。

ALWAYS 三丁目の夕日 dvd.jpgALWAYS 三丁目の夕日09.jpg「ALWAYS 三丁目の夕日」●制作年:2005年●製作総指揮:阿部秀司●監督:山崎貴●脚ALWAYS 三丁目の夕日3.jpg本:山崎貴/古沢良太●撮影:柴崎幸三●音楽:佐藤直紀●原作:西岸良平「三丁目の夕日」●時間:133分●出演:吉岡秀隆/堤真一/薬師丸ひろ子/小雪/堀北真希/小清水一揮/須賀健太/もたいまさこ/三浦友和小日向文●公開:2005/11●配給:東宝(評価:★★★★)
ALWAYS 三丁目の夕日 通常版 [DVD]

「ALWAYS 三丁目の夕日」三浦友和.jpg 「ALWAYS 三丁目の夕日」小日向文世.jpg

「ALWAYS 三丁目の夕日」相関図.jpg

「ALWAYS 三丁目の夕日」('05年)/「ALWAYS 続・三丁目の夕日」('07年)/「ALWAYS 三丁目の夕日'64」('12年)
「ALWAYS 三丁目の夕日」2005.jpg 「ALWAYS続・ 三丁目の夕日」2.jpg 「ALWAYS 三丁目の夕日'64」2012.jpg

《読書MEMO》
●東京スタジアム
日本テレビ系列「ザ!鉄腕!DASH!!」2008年11月30日放映「 歴史探偵~昭和の映像から現在の場所を探し出せるか!」東京スタジアム/現:荒川総合スポーツセンター
東京スタジアム2.jpg 荒川総合スポーツセンター.bmp      
1970年の日本シリーズのポスター(ロッテの対戦相手は当初まだ決まっていなかったが(左)、その後巨人に決定)
1970年の日本シリーズのポスター.jpg
1970年11月1日日本シリーズ第4戦 ロッテvs.巨人(東京スタジアム)
1970年11月1日日本シリーズ第4戦1.png

1970年の日本シリーズ第4戦.jpg3回表、巨人・長嶋茂雄は左越えに2打席連続ホーマーを放つ。
第4戦
11月1日 東京 入場者31515人
巨 人 3 0 2 0 0 0 0 0 0 5
ロッテ 4 0 2 0 0 0 0 0 X 6
(巨)渡辺秀、●高橋一(1敗)、山内新、倉田-森、吉田孝
(ロ)成田、○佐藤元(1勝)、平岡、木樽-醍醐
本塁打
(巨)高田1号ソロ(1回成田)、長嶋3号2ラン(1回成田)、王2号ソロ(3回成田)、長嶋4号ソロ(3回成田)
(ロ)井石2号3ラン(1回渡辺秀)

ロッテはこの試合6-5で勝ち、シリーズ唯一の白星だった。

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自分が大人になる頃にはこうなっていると信じていた時期があった"懐かしい未来"。

昭和少年SF大図鑑 カバー.jpg 昭和少年SF大図鑑.jpg   「エア・カー時代」 小松崎 茂(雑誌「少年」昭和36年1月号.jpg
昭和少年SF大図鑑 (らんぷの本)』 ['09年] 「エア・カー時代」 小松崎 茂(雑誌「少年」昭和36年1月号口絵)
フィフス・エレメント [DVD] 2013.jpg フィフス・エレメント70f.jpg フィフス・エレメント mira.jpg ゲイリー・オールドマン.jpg
フィフス・エレメント [DVD] ミラ・ジョヴォヴィッチ/ゲイリー・オールドマン
 昭和20年代から40年代の少年向け雑誌やプラモデルの箱を飾った空想未来絵図を集めたもので、本郷の弥生美術館で展覧会も行われましたが、その弥生美術館で学芸員をしている女性による編集及び本文解説。

 この方面での画家と言えば、個人的には小松崎茂(1915-2001/享年86)の印象がかなり強いのですが、本書を見ると、小松崎茂が第一人者であったことは間違いないようですが、中島章作、伊藤展安、梶田達二、高荷義之、中西立太、南村喬之と、多彩な人たちがいたのだなあと。

 今見ると、これらの概ね楽天的な、時には物理の法則を逸脱したようなイラストには微笑ましい印象も受けますが、子供時代の一時期においては、自分たちが大人になる頃にはほぼ間違いなくこういう時代が来るのだと、「予測図」より「予定図」みたいな感じで半ば信じていて、素敵な夢を見させて貰いました。

 本書は、そうした夢を描いていた頃の自分を思い出させる、"懐かしい"未来図とでも言えるでしょうか。

「ブレードランナー」('82年/米)/「フィフス・エレメント」('97年/仏)
Blade Runner (1982) ages.jpgFifth Element Cars.jpg 自動車に代わってエアカーが飛び交う様などは、リドリー・スコット監督(「エイリアン」('79/米))の「ブレードランナー」('82年/米)やリュック・ベッソン監督(「グラン・ブルー」('88年/仏・伊))の「フィフス・エレメント」('97年/仏)などの映画の中ではお目にかかれていますが、実現するのはいつのことになるのでしょう。

ポリススピナー.jpg 「ブレードランナー」のハリソン・フォード演じるデッカートが操るポリススピナー(左)に比べて、15年後に作られた「フィフス・エレメント」のパトカーやブルース・ウィリス演じるコーベンが運転するタクシー(上)の方がややキッチュに描かれているのが興味深いです(映画自体も、変てこな悪役ジャン=バティスト・エマニュエル・ゾーグを演じゲイリー・オールドマン.jpgゲイリー・オールドマンやラジオDJ役のクリス・タッカーの怪演が楽しめた、肩の凝らない娯楽作品。この作品でも「ディーバ」(歌姫)がモチーフになっているなあ、リュック・ベンソンは)。

 ただ、この本にある、当時描かれた未来図の全てが荒唐無稽だったとは言えず、臨海副都心構想に近いアイデアやリニアモーターカーの原型など、かなり"いい線"いっているものあります。

 "明るい未来図"ばかりでなく、昭和40年代に入ると、公害問題などの世相を反映して"恐ろしい未来図"も結構出てきて、小松崎茂などは、地球温暖化で極地の氷が溶けて関東地方の大部分が水没する想像図なんてのも描いていて先見性を感じますが、だからと言って人間がエラ呼吸器を手術で植え付け、水中生活に適した身体に変えていくというのは、ちょっと行き過ぎ?

Minority Report.jpgTom Cruise  in Minority Report.jpg 同じくネガティブな未来図として描かれている類で、コンピュータに人間の生が支配されたり、コンピュータによって人間の思考や行動が監視される社会などというのは、ウォシャウスキー兄弟の映画「マトリックス」('99年/米)やスティーヴン・スピルバーグ監督の「マイノリティ・リポート」('02年/米)など、近年のSF映画にも類似したモチーフを看て取れます。
Minority Report (2002)

 但し、「マイノリティ・リポート」(原作は「ブレードランナー」と同じくフィリップ・K・ディック)は、プリコグと呼ばれるヒト個人に予知能力が備わっていることが前提となっていますが、この発想は昔からあったかもしれません。「マイノリティ・リポート」や、同じくフィリップ・K・ディック原作の「トータル・リコール」('90年)が「サターンSF映画賞」を獲って、「ブレードランナー」が賞を逃しているというのは、選考委員としては失策だったのではないでしょうか(因みに、フィリップ・K・ディック本人は、自作の初映画化である「ブレードランナー」」の公開直前で脳梗塞で53歳で急逝していて、完成版を観ることはなかった)。

田中 耕一 記者会見2.jpg 今、若者たちが映画で受身的に観ている様な仮想未来社会を、かつての子供たちは、少年雑誌のイラストで見て、自ら想像力を働かせイメージを膨らませていたのだろうなあ(彼らにとって、これらのイラストの乗り物などは、頭の中では映画のように動いていたに違いない)と思わされます。そして、その中には、今、科学技術の最前線で研究開発に勤しんでいる科学者や技術者もいるのだろうなあと思いました('02年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏が小松左京原作の「空中都市008」の愛読者だったと自ら言っていた)。
    
ブレードランナー チラシ  22.jpg「ブレードランナー」1982 ンロード.jpg「ブレードランナー」1982 .jpg「ブレードランナー」●原題:BLADE RUNNER●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督:リドリー・スコット●製作:マイケル・ディーリー ●脚本:ハンプトン・フィンチャー/デイヴィッド・ピープルズ●撮影:ジョーダン・クローネンウェス●音楽:ヴァンゲリス●時間:117分●出演:ハリソン・フォード/ルトガー・ハウアー/ショーン・ヤング ●日本公開:1982/07●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:二子東急(83-06-05)(評価:★★★★☆)

フィフス・エレメント.jpgクリス・タッカー.jpg「フィフス・エレメント」●原題:THE FIFTH ELEMENT(Le Cinquie`me e'le'ment)●制作年:1997年●制作国:フランス●監督・脚本:リュック・ベッソン●撮影:ティエリー・アルボガスト●音楽:エリック・セラ●時間:渋谷パンテオン.jpg126分●出演:渋谷パンテオン 2.jpgブルース・ウィリス/ミラ・ジョヴォヴィッチ/ゲイリー・オールドマン/イアン・ホルム/クリス・タッカー/ルーク・ペリー●日本公開:1997/09●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:渋谷パンテオン(97-10-24) (評価:★★★★)フィフス・エレメント [DVD]
渋谷パンテオン 東急文化会館1F、1956年オープン。2003(平成15)年6月30日閉館。
    

マイノリティ・リポート06.jpg「マイノリティ・リポート」●原題:MINORITY REPORT●制作年:2002年●制作国:アメリカ●監督:スティーヴン・スピルバーグ●製作:ボニー・カーティス/ジェラルド・R・モーレン/ヤン・デ・ボン/ウォルター・F・パークス●脚本:ジョン・コーエン/スコット・フランク ●撮影:ヤヌス・カミンスキマイノリティ・リポート シドー.jpgー●音楽:ジョン・ウィリアムズ●原作:フィリップ・K・ディック ●時間:145分●出演:トム・クルーズ/コリン・ファレル/ササマンサ・モートン マイノリティ・リポート.jpgマンサ・モートン/マックス・フォン・シドー/ロイス・スミス/スティーヴン・スピルバーグ●日本公開:2002/12●配給:20世紀フォックス (評価:★★★)

トム・クルーズ/サマンサ・モートン(「ミスター・ロンリー」('07年/英・仏・米))


【2014年・2019年新装版】

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写真も素晴しいが、体験と専門知識に裏打ちされた文章の内容がまたいい。

海野和男写真展ポスター(2009年1月・銀座Nikom Salon).jpg昆虫の世界へようこそ.jpg 『昆虫の世界へようこそ (ちくま新書)』 ['04年]

 今年('09年)の1月に東京と大阪で写真展が開催された、長野県小諸市にアトリエを構え、自然を記録している昆虫写真の第一人者・海野和男氏による写文集で、小諸近辺の身近な昆虫から熱帯の稀少な昆虫まで、その多彩な、また珍しい生態を写真に収めています。

 まず第一に、どの写真も極めて美しく、昆虫の目線で撮られたものがくっきりとした背景と相俟って、時に神秘的でさえありますが、どうしてこのような写真が撮れるのかと思ったら、著者なりの工夫の跡が記されていて、魚眼レンズを使っており、魚眼レンズは被写界深度が深いため、昆虫に焦点を合わせても、背景がそれほどボヤけないとのこと、より接写レベルが高くなると、今度はデジタルカメラ(またはデジタル一眼レフ)を使い、これも通常の一眼レフカメラなどより被写界深度が深いので昆虫撮影に向いているとのこと。
 まさに、被写界深度ぎりぎりのところでのテクニックが、こうした不思議な作品を生んでいるのだなあと。

 もう1つ、本書の更なる魅力は文章の内容で、昆虫を追って世界中を巡った自らの体験のエッセンスが詰まっていて読む方もわくわくさせられると共に、解説そのものが近年の科学的な研究に裏打ちされたものであること。
 それもそのはず、著者は大学で昆虫行動学を学んだ人で、但し、それらの表現は分かり易いものであり、また、昆虫の大きさや感覚、能力を人間に置き換えた喩え話などは、空想を刺激して楽しいものでもありました。

昆虫 驚異の微小脳.jpg 例えば、本書の2年後に刊行された昆虫学者・水波誠氏の『昆虫―驚異の微小脳』('06年/中公新書)の中に、「複眼の視力はヒトの眼より何十分の1と劣るが、動いているものを捉える時間分解能は数倍も高い。蛍光灯が1秒間に100回点滅するのをヒトは気づかないが、ハエには蛍光灯が点滅して見える。映画のフィルムのつなぎ目にヒトは気づかないが、ハエには1コマ1コマ止まって見えるのだ」とありましたが、本書では、「私たちにはスムーズに見えるテレビも、カマキリに見せたら、こんな性能の悪いテレビをよく平気で見られるなと思うかもしれない」(16p)とあります。

 「1センチメートルほどのこのアリ(グンタイアリ)が人と同じ大きさだとすると、実は時速120キロメートル近い速度で歩き続けていることになる」(27p)、「ハラビロカマキリは交尾中にオスがメスに頭からバリバリと食べられてしまうことが多いらしい。それでもオスはけなげにも交尾を続ける。昆虫の場合脳がなくなっても身体の各部を制御する神経節が生きていれば、このようなことが可能なのだ」(97p)等々、他にも興味深い話が満載。

 昆虫の生態を体験的に知っているだけでなく、その機能等についての知識もきちんと持っていて、それでいて「かもしれない」「らしい」といった控えめな表現が多いのは、謙遜というより、まだまだ未知のことが多い自然界に対する、著者なりの畏敬の念の表れであるとみました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真.jpg もし、著者の撮った昆虫写真をもっと大判で見たい、或いは、どこでどのようにして撮ったのか詳しく知りたいというのであれば、より「写真集」的性格の強い『デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真―WILD INSECTS』('06年/ソフトバンククリエイティブ)などはおススメではないでしょうか。

 新書に比べれば、2,600円と少し値は張りますが、国内外の昆虫写真を収めた著者の作品の厳選集で、親子ででも楽しめるものになっているかと思います。
 表紙のテングビワハゴロモやヒョウモンカマキリなどカラフルな昆虫も多く紹介されていますが、個人的には、15センチメートルにもなるサカダチコノハナナフシの迫力が最も印象に残りました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真 -wild insects』 ['06年]

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ポピューラーなものからマニアックなものまで多彩。読み解きに引き込まれた。

i偏愛文学館s.jpg 偏愛文学館 文庫.jpg  倉橋 由美子.jpg 倉橋 由美子(1935‐2005/享年69)
偏愛文学館 (講談社文庫)』['08年]
偏愛文学館 』['05年]

 倉橋由美子(1935‐2005/享年69)が39冊の小説を取り上げた「文学案内」で、'96-'97年に雑誌「楽」(マガジンハウス)にて「偏愛文学館」として連載され、その後'04-'05年に文芸誌「群像」(講談社)にて連載再開されたものを1冊にしたものですが、彼女は『星の王子さま』の新訳を亡くなる前月に脱稿し、刊行直前の6月10日に亡くなっていて、本書も奥付では'05年7月7日初版とあり、こちらも著者自身は刊行を見ずに逝ってしまったのでしょうか。

 安部公房と並んでカフカの薫陶を受けた作家として、或いは、大江健三郎と並んで学生時代にデビューした作家として知られ、更には、日本的な私小説を忌避し、今で言う村上春樹に連なるようなメタフィジカルな世界を展開した作家として知られていますが、一筋縄ではいかない作家が自ら"偏愛"と謳っているだけに、自分には縁遠い作家の作品が並んでいるのかなと思いきや、意外とポピュラーな作品が多く、「読書案内」であることを意識したのかなあと。

 夏目漱石は『吾輩は猫である』と並んで愛でるべきは『夢十夜』であるとか、内田百閒の短編では「件(くだん)」が一番の傑作であるとしていたり、『聊斎志異』を愛してやまないとか、うーん、何だか親近感を覚えてしまい、丁寧な読み解きに引き込まれました。

 中盤の外国文学作品の方が、作品の選択自体に"偏愛度"の高さが感じられ、入手不可能に近い本を取り上げるのは気が引けるがとしつつ、マルセル・シュオブ「架空の伝記」を取り上げていて(話の中身は面白そう)、ジョン・オーブリーの「名士小伝」もそうだし、海外の作家で2回登場するのがイーヴリン・ウォーだったりします(日本の作家で2回登場するのは、この人の場合、やはり吉田健一)。

 一方で、そうした外国作品の中にジェフリー・アーチャーの『めざせダウニング街10番地』なんてのがあるのがちょっと意外で(日本の作品の中にも、宮部みゆきの『火車』があり、映画「太陽がいっぱい」と結末が似ているとしている)、読者を意識してと言うより、本人が本当に読むことを満喫しているのが伝わってきます。

 自殺した作家を原則認めないとしながらも、太宰治、三島由紀夫、川端康成は別格みたいで、よく知られている作品でも、作家の読み方はやはり奥が深いなあと思わされる面が随所にありました。
 一方で、カミュの『異邦人』の読み方などには、自分と相容れないものがありました。
 
 別々の雑誌の連載の合本であるためか、1作品について10ページ以上にわたり解説されているものもあれば3ページ足らずで終わっているものもあり、あれ、これで終わり? もっと読みたかった、みたいな印象も所々で。
 (単行本には、どちらの雑誌に掲載されたものか典拠が無いのが、やや不親切。結果的に追悼出版となり、刊行を急いだ?)

 【2008年文庫化[講談社文庫]】

《読書MEMO》
●紹介されている本
夏目漱石『夢十夜』
森鴎外『灰燼・かのように』
岡本綺堂『半七捕物帳』
谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』
内田百閒『冥途・旅順入城式』
上田秋成「雨月物語」「春雨物語」
中島敦『山月記・李陵』
宮部みゆき『火車』
杉浦日向子『百物語』
蒲松齢『聊斎志異』
蘇東坡『蘇東坡詩選』
トーマス・マン『魔の山』
フランツ・カフカ『カフカ短篇集』
ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』『シルトの岸辺』
カミュ『異邦人』
ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』
ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』
マルセル・シュオブ「架空の伝記」
ジョン・オーブリー「名士小伝」
サマセット・モーム『コスモポリタンズ』
ラヴゼイ『偽のデュー警部』
ジェーン・オースティン『高慢と偏見』
サキ『サキ傑作集』
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』
イーヴリン・ウォー「ピンフォールドの試練」
ジェフリー・アーチャー『めざせダウニング街10番地』
ロバート・ゴダード『リオノーラの肖像』
イーヴリン・ウォー『ブライツヘッドふたたび』
壺井栄『二十四の瞳』
川端康成『山の音』
太宰治『ヴィヨンの妻』
吉田健一『怪奇な話』
福永武彦『海市』
三島由紀夫『真夏の死』
北杜夫『楡家の人びと』
澁澤龍彦『高丘親王航海記』
吉田健一『金沢』

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面白く読めたが、いろいろな階層レベルの話を一緒に論じてしまっている印象も。

その日本語が毒になる!.jpg その日本語が毒になる!帯.jpgその日本語が毒になる! (PHP新書 521)』['08年]

 ベテランの量産型ミステリー作家が、日本語の使われ方についてそのモンダイな部分を指摘したもので、「何様のつもりだ」「おまえが言うな」「いかがなものか」「だから日本人は」「不正はなかったと信じたい」といった、言っても言われても心が傷つく言葉の数々を挙げ、その背後にある人間心理や日本人特有の文化的・社会的傾向を指摘しており、そうした意味では、日本語論と言うよりコミュニーケーション論的色合いが強く、さらに、日本人論・日本文化論的な要素もある本です。

 面白く読め、読んでいて、耳が痛くなるような指摘もあり、反省させられもしましたが、日本語の問題と言うよりその人の人間性の問題、また、その言葉をどのような状況で用いるかというTOPの問題ではないかと思われる部分もありました(実際、第2章のタイトルは「人間性を疑われる日本語」、第3章のタイトルは「普通なようで変な日本語」となっている)。

 「二度とこういうミスが起こらないようにしたい」といった定型表現が、いかに謝罪行為を形骸化してるかということを非難しており、確かに「訴状が届いていないのでコメントできない」という言い回しをいつも腹立たしい思いで聞いている人は多いのではないでしょうか(にも関わらず、使われ続けている)。一方で、ファミレスのレジで聞かれる「1万円からお預かりします」など、よくある"日本語の乱れを指摘した本"などでは批判の矛先となるような言い回しに対しては、「旧来の日本語にはない進化形」として寛容なのが興味深いです。

 後半に行けば行くほど、言葉の使われ方を通しての日本文化論、社会批判的な様相を呈してきて、「無口は美学」というのが昔はあったが、本来は「いちいち言わないとわからない」のが人間であると。但し、「おはようございます」に相当する適切な昼の言葉が無いということから始まって、「日本語の標準語は、構造上の欠陥から自然なコミュニケーションをやりずらくしている」とし、再び「日本語」そのものの問題に回帰しているのが、本書の特徴ではないかと。

ことばと文化.jpg 言語学者の鈴木孝夫氏は、日本の文化、日本人の心情には、「自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向」があり、「日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるといえる」(『ことばと文化』('73年/岩波新書))としていますが、その趣旨に重なる部分を感じました。

日本人の論理構造.jpg 第4章のタイトルは「恐がりながら使う日本語」で、「伝統的に口数の少ない日本人は言葉というたんなる道具に過剰な恐怖を感じる民族」であり、「思ったことを言えず心に溜め込んではストレスとなり、言ったことが相手を傷つけてはいまいかとまたストレスになる」と言っていますが、日本語がそれ自体を発することの禁忌性を持つことについては、ハーバード大学で日本文学を教えていた故・板坂元が「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」と、まさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか、という切り口で、同様の指摘しています(『日本人の論理構造』('71年/講談社現代新書))。

 日本語そのものの特質が、日本文化や日本人の性向と密接な繋がりがあることは疑う余地も無いところですが、本書からは、いろいろな階層レベルの話を一緒くたにして論じてしまっているとの印象も受けました。

 でも、会社のお偉方から「どうだ、メシでも食わんか」と言われて「美味しいごはんを食べながら、よくない話を聞くほど身体に悪いものはない」なんて、その気持ち、よくわかるなあ。相手も恐がっているわけか。

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確かに分かり易いが、分かり易さゆえにプロパガンダ的役割を担っている?

「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った?.jpg             未納が増えると年金が破綻するって誰が言った.jpg
「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った? ~世界一わかりやすい経済の本~ (扶桑社新書)

 新書で縦書き2段組というコンパクトな体裁ながらも、パンダとかクマのイラストが出てきて図解と併せて解説するパターンは、『経済のニュースが面白いほどわかる本 日本経済編』('99年/中経出版)以降のシリーズのスタイルを踏襲しています。

 扱っているテーマは、「なぜ人は宝くじの行列に並んでしまうのか?」、「なぜアメリカの住宅ローン問題で私たちの給料まで下がるのか?」、そして表題の「未納が増えると年金が破綻するって誰が言った?」の3つで、前フリ(?)として、『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』('08年/小学館)のテーマをもってきているようですが(小学館の本の広告が扶桑社新書のカバーに入っているのはタイアップ広告?)、最も「経済」に近いテーマであるサブプライムローン問題の話よりも、表題の「年金」の方に多くページを割いています。

 著者自身も、一番書きたかったのは「年金」についてだったとしており、これは著者が首相直轄の「社会保障国民会議」のメンバーだったことに関係しているようですが、年金のことを何も知らないで委員になって、1年後には年金について解説した本が書店に並んでいるというのは、さすが著者ならでは。
 読んでみて、年金の仕組みを語るにはあまりに少ないページ数ではあるものの、コンパクトで分かり易かったです(その分かり易さが問題の部分もあるが)。

 「社会保障国民会議」において、「未納が増えると年金が破綻する」と言った日経新聞の論説委員に対し、保険料の徴収率が65%だろうが90%だろうが、年金財政に殆ど影響は無いというデータを示してやり込めたようなことが書かれていますが、この背景には、年金財政は収入より支出が多くなる構造のため、現在の未納者が年金を納めて受給権を得ると、それだけの給付しなければならず、従って年金財政上において未納者は"問題にならない"ということがあり、むしろ、赤字構造の制度そのものがおかしいのでは。

 更に、「税方式」を主張する日経側に対する批判が展開されていますが、本書にあるように、年金財源を消費税化すれば厚生年金の負担が減るので、企業側は負担減となり、結果的に従来の企業負担分も含め、我々庶民の負担が重くなるというのも、ある程度知られているところ。

 著者の論理の展開はオーソドックスなのですが、但し、細かいところは(国によって?)ボカされていて、例えば、未納者(保険料免除者)が本来支払うべき国民年金保険料を厚生年金が実質的に肩代わりしていることなどは省かれているし(保険料免除者というのも、おかしなマニュアル本も出てたりして、その実態が気になるところ)、また、現在の完全未納者が将来において受給権を獲得する確率をどう見積っているのかも不明です(国民年金保険料を納めなくてもまず罰せられることはない現況を鑑みると、厚労省の思惑は、未納者は未納のままでいてくれることを願っているともとれる)。

 また、将来給付について、「物価スライドがあるから大丈夫」的な言い方は、本当に"大丈夫"なのかなあと。
 過去分を再評価により大盤振る舞いしてきたツケで年金財政が厳しくなったわけで、将来において急激な物価上昇があったとしても、それに給付がついていけるか(これも、年金積立金があるから大丈夫との論で切り替えしてくるのだろうが)。

 一般書であるため、ここはあまり細部にまで立ち入って書く場でもないのかも知れず、若い読者に年金について関心を抱いてもらうには、変わり映えのしない定型的な解説書の中にこうした切り口の本があってもいいのかなとは思います(従って、一般書としては"一応は○"という感じ)。

 但し、'04年改正の「マクロ経済スライド」を過剰に高く評価しているなど、いろいろな面で国(厚労省)のプロパガンダ的役割を担ってしまっている印象も受けなくもなく、やっぱりちょっと気になるんだよなあ。

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行った場所(コスタリカ)が良かった? 写真が美しく、書き下ろしの文章も悪くない。

コスタリカ共和国.bmp茂木 健一郎 『熱帯の夢』.jpg熱帯の夢.jpg
熱帯の夢 (集英社新書ヴィジュアル版)』['09年] 
著者と日高敏隆 氏 (撮影:中野義樹/本書より) 
茂木健一郎/日高敏隆.jpg 脳科学者である著者が、'08年夏、著者自身が碩学と尊敬する動物行動学者の日高敏隆氏らと共に、中米・コスタリカを11日間にわたって巡った旅の記録。

 著者は子供の頃に昆虫採集に没頭し、熱帯への憧憬を抱いていたとのことですが、コスタリカには蝶だけでも1千種を超える種類が棲息していて、その他にも様々生物の多様性が見られるとのことで、本書の旅も、熱帯の昆虫などを著者自身の目で見ることが主目的の旅と言えるかと思います。

 中野義樹氏の写真が素晴しく、珍しい生態で知られるハキリアリや、羽の美しいことで知られるモルフォチョウといった昆虫だけでなく、ハチドリやオオハシ、世界一美しいと言われるケツァールなどの鳥類も豊富に棲息し、何だか宝石箱をひっくり返したような国だなあ、コスタリカというのは。イグアナとかメガネカイマン(ワニ)、ナマケモノまでいる。

 中米諸国の中においては、例外的に治安がいいというのがこの国の良い点で(1948年に世界で初めて憲法で軍隊を廃止した)、その分、野生生物の保護に国の施策が回るのだろうなあ。勿論、観光が国の重要な産業となっているということもあるでしょうが。

 そうした土地を、コスタリカ政府から自然調査の許可を名目上は取り付けた動物学者らと10人前後で巡っているわけで、"探検"と言うより"自然観察ツアー"に近い趣きではありますが、部外者がこういう所へいきなり行くとすれば、こうしたグループに帯同するしかないのかも。

 著者にしても、この本を書くこととのバーターの"お抱え旅行"とも取れなくもないですが、最近の著者の新書に見られる語り下ろしの「やっつけ仕事」ではなく、本書は書き下ろし(一部は集英社の文芸誌「すばる」に掲載)。

 この人、ちゃんと"書き下ろし"たものは、"語り下ろし"の本とは随分トーンが異なるような(いい意味で)感じで、"語り下ろし"はテレビで喋っているまんま、という感じですが、本書を読むと、エッセイストとして一定の力量はあるのではないかと(コスタリカという"素材"や美しい写真の助けも大きいが)。

 クオリア論はイマイチだけど(これも日高氏と同様に著者が尊敬する人であり、また、同じく昆虫好きの養老孟司氏から、クオリア論は「宗教の一種」って言われていた)、多才な人であることには違いないと思います。
 もじゃもじゃ頭で捕虫網を持って熱帯に佇む様は、「ロココの天使」(と体型のことを指して友人に言われたらしい)みたいでもありますが。                               

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一般社会人が身につけておきたい精神医学の知識。"新型うつ病"を"ジャンクうつ"と断罪。

ビジネスマンの精神科.gif岩波 明 『ビジネスマンの精神科』2.JPG   うつ病.jpg
ビジネスマンの精神科 (講談社現代新書)』['09年] 『うつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書)』['07年]

 タイトルからすると職場のメンタルヘルスケアに関する本のようにも思われ、「中規模以上の企業」に勤めるビジネスマンを読者層として想定したとあり、実際、全11章の内、「企業と精神医学」と題された最終章は職場のメンタルヘルスケアの問題を扱っていますが、それまでの各章においては、うつ病、躁うつ病、うつ状態、パニック障害、その他の神経症、統合失調症、パーソナリティ障害、発達障害などを解説していて、実質的には精神医学に関する入門書です。タイトルの意味は、一般社会人として出来れば身に着けておきたい、精神医学に関する概括的な知識、ということではないかと受け止めました(勿論、こうした知識は、職場のメンタルヘルスケアに取り組む際の前提知識として重要であるには違いない)。

 基本的にはオーソドックスな内容ですが、うつ病の治療において「薬物療法をおとしめ、認知療法など非薬物療法をさかんに推奨する人」を批判し、例えば「認知療法を施行することが望ましい患者は、実は非常に限定される」、「そもそも、認知療法を含む非薬物療法は急性期のうつ病の症状に有効性はほとんどない。かえって症状を悪化させることもある」といった記述もあります(前著『うつ病―まだ語られていない真実』('07年/ちくま新書)では、高田明和氏とかを名指しで批判していたが、今回は名指しは無し。名指ししてくれた方がわかりやすい?)。

 その他に特徴的な点を挙げるとすれば、「適応障害」は一般的な意味からは「病気」とは言えないとしているのは、DSMなどの診断基準で"便宜的"区分として扱われて売ることからも確かに"一般的"であるとしても、「適応障害よりもさらに"軽いうつ状態"を"うつ病"であると主張する人たちがいる。その多くは、マスコミ向けの実態のない議論である」とし、「"新型うつ病"という用語がジャーナリズムでもてはやされた時期があった」と過去形扱いし、「分析すること自体あまり意味があるように思えないが、簡単に述べるならば、"新型うつ病"は、未熟なパーソナリティの人に出現した軽症で短期間の"うつ状態"である。(中略)精神科の治療は必要ないし、投薬も不要である」、「こうした"ジャンクなうつ状態"の人は、自ら病気であると主張し、これを悪用することがある。彼らはうつ病を理由に、会社を休職し、傷病手当金を手にしたりする」(以上、98p-99p)と断罪気味に言っていることでしょうか。

 『うつ病―まだ語られていない真実』には、「気分変調症(ディスサイミア)」の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者が報告されていて(これ読むと、かなり重い病気という印象)、うつ病や気分変調症と、適応障害やそれ以外の"軽いうつ状態"を厳格に峻別している傾向が見られ、個人的には著者の書いたものに概ね"信を置く"立場ですが、自分は重症うつ病の"現場"を見てきているという自負が、こうした厳しい姿勢に現われるのかなあとも。

 但し、個人における症状を固定的に捉えているわけではなく、適応障害から「気分変調症」に進展したと診断するのが適切な症例も挙げていて、この辺りの判断は、専門医でも難しいのではないかと思わされました。

 その他にも、「精神分析」を「マルクス主義」に擬えてコキ下ろしていて(何だか心理療法家そのものに不信感があるみたい)、フロイトの理論で医学的に証明されたものは1つもないとし、フーコーやラカンら"フロイトの精神的な弟子"にあたる哲学者にもそれは当て嵌まると(125p)。
 
田宮二郎.jpg 入門書でありながら、所々で著者の"持ち味"が出るのが面白かったですが、
一番興味深かったのは、「躁うつ病」の例で、自殺した田宮二郎(1935-1978/享年43)のことが詳しく書かれていた箇所(72p-77p)で、彼は30代前半の頃から躁うつ病を発症したらしく、テレビ版の「白い巨塔」撮影当初は躁状態で、自らロケ地を探したりもしていたそうですが、終盤に入ってうつ状態になり、リハーサル中に泣き出すこともあったりしたのを、周囲が励ましながら撮影を進めたそうで、彼が自殺したのは、テレビドラマの全収録が終わった日だったとのこと。
 躁状態の時に実現が困難な事業に多額の投資をし、借金に追われて、「俺はマフィアに命を狙われている」とかいう、あり得ない妄想を抱くようになっていたらしい。
 へえーっ、そうだったのかと。

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死刑廃止論者に転じた弁護士作家の省察。社会契約としての死刑制度とその適正運用の困難さを考えさせられた。

『極刑―死刑をめぐる一法律家の思索』.jpg極刑 死刑をめぐる一法律家の思索.jpg  Ultimate Punishment1.jpg  Scott Turow.jpg Scott Turow
極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』['05年] "Ultimate Punishment: A Lawyers Reflections on Dealing With the Death Penalty" ['04年/ペーパーバック版]

無罪 二宮馨訳.jpg推定無罪 上.jpg '90年代の米国のサスペンス小説界で最も人気を得た作家と言えば、弁護士出身のジョン・グリシャムで、『評決のとき』『法律事務所』『ペリカン文書』などのリーガル・サスペンスは映画化作品としても知られていますが、同じ弁護士出身のベストセラー作家でも、弁護士としての実績では、『推定無罪』『立証責任』『無罪 INNOCENT』などの著者であり、また本書(原題:Ultimate Punishment: A Lawyer's Reflections on Dealing With the Death Penalty )の著者でもあるスコット・トゥロー(Scott Turow)の方が上のようです。

 2005年原著刊行の本書にも取り上げられている、トゥローが作家活動をしながら手掛けた2件の事件の内1つは、死刑囚の冤罪を立証して無罪に導いたもので(この事件をベースに『死刑判決』というリーガル・サスペンスを書いている)、もう1つは、一旦は死刑が確定した被告について、量刑の不均衡を訴え再審に持ち込み、懲役刑に減刑したというもの―まさに「やり手」と言うしかありません。

 本書はトゥローが、当初は、死刑制度に敢えて反対はしないものの、死刑制度が必要であるとも明言しかねるという曖昧な態度であったものが、次第と死刑廃止論に傾いていく過程を、上記2つの事件を巡る経験や、イリノイ州の「死刑査問委員会」のメンバーに指名されてからの見聞と考察を交えて記したもの。

 日本の死刑反対論者が書いたものに比べると、「正義はきちんと行われているか」「量刑に不均衡はないか」ということにウェイトが置かれているように思われ、これは「犯罪大国」であり「死刑大国」であるアメリカであるからこそ、より問題視されるのでしょう(特にイリノイ州では数多くの冤罪や量刑不当があった)。要するに著者は、その点に確信が持てないことから、死刑廃止論者になっていったことが窺えます。

 本書に幾つかその例が出てくるように、アメリカでは、何十人もの人間を残忍な方法で殺害した殺人鬼のような犯罪者が時折現われますが、そうした矯正不能と思われる人間を処刑せずに生かしておくことになっても、「無辜の民を殺してしまう誤り」を選ぶぐらいならば、「生かしておく誤り」の方を選ぶと。

 一方で、死刑から懲役刑に減刑された囚人の改心が目覚しいものであったことを例にあげ、罪者の改心の可能性を奪ってしまうことになる死刑制度には反対であるという論じ方もしていて、この点は、日本の一部の死刑反対論者の論と通じる処があります。

 但し、アメリカは州によって死刑制度があったり無かったりし、またイリノイ州のように制度があっても執行が停止された州などもあるわけで、そうなると大量殺人を犯しても生かされている犯罪者もいれば、偶発的な殺人で死刑に処せられた犯罪者もいたりし、この辺りの矛盾については、著者自身が州内での量刑不均衡の次に考えなければならない問題なのでしょう。翻訳者も解説において、9.11同時多発テロ以降の当局の司法審査を経ない長期の身柄拘束への批判がされていないことなどへの不満を漏らしています。

 個人的には、ケーススタディとして考えさせられる部分はあり、遺族の報復・仕返しの観点から死刑を選択するのではなく、それは副次的に考えられなければならないとする論などには頷かされる面もありましたが、犯罪や司法などのそもそものバックグラウンドが日本とは違う面もあるとの印象も受けました。

 しかしながら、死刑制度は極めて安定した秩序に依存するのであり、死刑制度存置派の人たちは、死刑があるから秩序が落ち着いていると考えるが、これは事実と異なるというトゥロー自身の主張には、頷かされるものがありました。

 つまり、これまで死刑の犯罪抑止効果を学問的に支持してきたのは、「社会的選択は、報償物に応じて合理的に意思決定する人々による行為である」と信じる自由主義市場経済学者らが中心だったとし、彼らの考え方によれば、合理的な意思決定が出来れば、人は自分を死に至らしめる危機に追い込むような選択はしないだろうから(人を殺せば死刑になるのは分かっているのだから)、合理的選択は死刑を回避する道を選ぶ-これが、彼らの理屈であるとし、その論理からすれば死刑になる人は少なくなり、やがていなくなって死刑制度の存在も無意味になるが、人間の行動は自由主義経済学者らが考えるほど合理的でも単純でもないとしています(つまり、"割に合わない"犯罪行為を犯す人が後を絶たないということ)。

 トゥローによれば、死刑制度が在るアメリカの一部の州や日本は、むしろ極めて安定した秩序の内部から生じる安全意識から死刑制度があるのであって、そこには、自分を含め誰でも被害者になり得るという不安意識は強化されているが、自分が加害者になるもしれないという意識は薄められている、つまり、全ての人は死刑を安全のため、防衛のため、公平な復讐のための利益であるとしか見ないが、死刑制度とは本来は、「もし私が他人の生命を侵した時は、私の生命が奪われることに同意します」という宣言であると-(その自覚が極刑の必要を叫ぶ人に必ずしもあるかどうかは疑問があるということか)。

 トゥローは、こうした「社会契約」としての死刑制度を念頭に置きつつ、「今後も常に極刑の必要性を求めて叫ぶケースが現れることだろう。しかしそれは本当の問題ではないのだ。それに代わる重要な問題とは、無実の者や死刑に値しない者に刑を適用してしまうことなく、非常にまれな死刑にふさわしいケースを適正に取り扱う司法制度を構築することが可能かどうか、ということである」として、死刑不要論を説いているわけです。

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死刑制度の入門書(立場的には反対派)。現在に続く執行逓増の潮流を予見的に捉えていた。
なぜ「死刑」は隠されるのか?.jpg なぜ「死刑」は隠されるのか2.jpg
なぜ「死刑」は隠されるのか? (宝島新書)』 ['01年]

 本書を読んだのは'01年刊行後の間もない頃ですが、この本に引用されている、連続企業爆破事件の死刑確定囚・大道寺将司の手記(「キタコブシ」'96.10.31)にある"獄中の隣人"で、北関東での幼女誘拐殺害事件で「一審・二審とも無期判決」を受けながらも冤罪を訴え続けている人というのは、菅家利和氏ではないでしょうか。

冤罪.jpg 「足利幼女殺害事件」で殺人罪に問われ無期懲役刑として17年半服役した(逮捕から数えると19年)後に、今回の再審請求(過去には棄却され続けた)でDNA鑑定が誤りだった可能性が高いとして、今年('09年)6月に釈放された人です。

 大道寺死刑囚は彼のことを、警察官や検察官から「お前が殺したんだろう」と決めつけられたら反論できないくらい気が小さくて、自己主張するような人ではない上に、「以前、ぼくは彼をかなりの難聴者だと思ったことがあります。というのは、看守や雑役囚が彼に話しかける時、一度では済まず、必ず二度三度、同じことを繰り返すからです」と書いていて、それほど耳が遠くて弁護士との意思疎通が問題なく行われたかどうかにも疑念を呈しています。

冤罪 ある日、私は犯人にされた』 ['09年]

 う〜ん、最初読んだ時は、"蓋然性"の問題としてしか捉えていなかったけれど、ホントに冤罪だったわけで、今改めて読むと恐ろしい、これは最大の人権侵害だなあと。これが死刑囚で執行済みだったら大変なことになっていたと(20年近くも拘留したことでさえ、取り返しのつかないことだが)。

 本書は朝日新聞の記者が長年の取材をもとに死刑制度について書いたもので、死刑制度の入門書として読め、但し、著者は「死刑廃止運動のために執筆したものではない」としているものの、死刑制度には反対の立場であることは、本書の内容から窺えます。

 "解説的な部分"とは別に、「被害者感情」のみを極大化し、応報主義、厳罰主義を唱えるマスコミや、それに踊らされる世間が、実質的に「死刑制度」を支えているというのが"主張部分"のポイントで、そもそも殺人事件の場合は被害者は亡くなっているわけで、「被害者遺族感情」を問題にすべきだが、その被害者遺族の感情というのは多様で、また、時間の経過とともに変化する場合もあることを例証しています(この部分は考えさせられた)。

 「被害者の人権」=「加害者の処罰」にはならないはずだと言うのは理解でき、「被害者感情」の増幅が死刑制度の矛盾点を見えにくくさせているというのは確かだと思いますが、著者は別のところでの発言の一部が「被害者には人権は無い」と言っていると字義通りにとられてバッシングに遭っており、もう少し、上手に持論を展開できなかったものかと。

 著者の論には様々な意見もあるかと思うし、表題の「なぜ隠されているのか?」ということに本書が必ずしも充分に応えているようには思えませんが、本書で着目している、90年代前半の3年間続いた執行ゼロ状態から、後藤田正晴が法務大臣になってからの執行の復活と年2回の複数執行は、現在に続く執行逓増の潮流を予見的に捉えていたように思われます。

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昆虫の「微小脳」の世界の奥の深さに、ただただ驚くばかり。

昆虫 驚異の微小脳.jpg 『昆虫―驚異の微小脳 (中公新書)』 ['06年]

 ヒトなどの哺乳類とは全く違う方向に進化し、「陸の王者」として人類と共に進化の双璧を成す昆虫―本書では、昆虫の小さな脳を「微小脳」と呼び、哺乳類の大きな脳「巨大脳」と対比させつつ、その1立方ミリメートルに満たない昆虫の脳の特徴や行動の秘密を解き明かそうとしていますが、着想から5年、執筆を始めてからでも3年をかけての上梓とのことで、並みの新書のレベルを超える充実した内容となっています。

 視覚(複眼・単眼)の仕組みから始まって、飛翔、嗅覚、記憶と学習、情報伝達、方向感覚などのメカニズムを、現代生物学の最先端の研究成果をもとに解説しており、著者の最初の研究テーマは昆虫の「視覚」であり、そこから「嗅覚」にいき、更に「記憶と学習」へと向かっていったようで、とりわけそれらについて詳しく解されていて、内容の専門性も高いように思われました。

 特にニューロンなど伝達系統の話には難解な箇所も少なくありませんでしたが、全体を通して書かれている内容がまさに「驚異」の連続であり、また、文章自体も一般向けに平易な表現を用い、更に重要なポイントは太字で示すなどの配慮もされているため、興味を途切れさせずに最後まで読めます。

 例えば、教科書によく出ていた(国語の教科書だったが)「ミツバチの8の字ダンス」の話なども詳しく解説されていて、餌場の在り処を仲間に伝えるメカニズムだけでなく、それでは方向や距離はどうやって記憶したのかといったことまで書かれていて、そうだよなあ、覚えていなければ伝えられないし、その覚えるということ自体が、「微小脳」のもと、どういうメカニズムが働いているのか不思議と言えば不思議。
 本書はそうした謎も解き明かしてくれ、ミツバチが「方向」を太陽の位置で見定めているのは知っていましたが、「距離」についてはビックリ(実験による検証方法も興味深い)、更に、太陽の位置だって時間と共に変わるだろうと疑問に思っていましたが、これに対する答えもビックリと、まさに"ビックリ"の連続でした。

 ヒトの脳をスーパーコンピュータに喩えれば、昆虫の脳はまさに超高機能の集積回路、どちらが優れているとは必ずしも言い切れないのだなあと。
 しかし、ゴキブリの脳手術をして、記憶をつかさどる部分がどこにあるのかテストするとか、何だか気の遠くなるような実験を繰り返してここまでいろいろなことが解り、それでもまだ解らないことが多くあるということで、昆虫の「微小脳」の世界の奥の深さには、ただただ驚くばかりでした。

《読書MEMO》
●複眼の視力はヒトの眼より何十分の1と劣るが、動いているものを捉える時間分解能は数倍も高い。蛍光灯が1秒間に100回点滅するのをヒトは気づかないが、ハエには蛍光灯が点滅して見える。映画のフィルムのつなぎ目にヒトは気づかないが、ハエには1コマ1コマ止まって見える(8p)
●解像力でみれば複眼は進化の失敗作(45p)
(但し)時間的解像度が高い(48p)
オプティカルフロー(画像の流れ)のパターンを捉えることで、高速アクロバット飛行の制御を実現している(66p)
ミツバチもヒトと同じ錯視を示す(69p)
単眼は空と大地の(明暗の)コントラストを検知している(76p)
●雄の蚕蛾は、嗅覚器官である触覚にわずか数分子が当たっただけで性フェロモンを検知できる(125p)
ゴキブリはヒトに匹敵するほどの優れた匂い識別能力をもつ(130p)
●ゴキブリにはゴールの周囲の景色を記憶する能力がある(163p)
●コオロギの匂い学習能力は、ラットやマウスなどの哺乳類の学習能力にひけを取らない(193p)
●(ミツバチの距離の把握は)オプティカルフロー(働きバチが経験した像の流れ)の量が距離の見積りに使われている(235p)、ミツバチは陳述記憶をもつ(239-241p)
●ハチやアリは、1日の時間を知り、その時刻の太陽の位置を覚えている(245p)

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わかり易い。「スノーボールアース仮説」の検証過程をスリリングに解説。

凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語.jpg  田近 英一.jpg  田近 英一 氏 (経歴下記)  全球凍結-大型生物誕生の謎.jpg 全地球凍結.jpg
凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語 (新潮選書)』['09年]「NHKスペシャル地球大進化 46億年・人類への旅 第2集 全球凍結 大型生物誕生の謎 [DVD]」  川上 紳一 『全地球凍結 (集英社新書)』 ['03年]

 かつて地球の表面は完全に氷で覆われていたという「スノーボールアース仮説」(全球凍結仮説)は、'04年にNHKスペシャルとして放映された「地球大進化-46億年・人類への旅」の「全球凍結-大型生物誕生の謎」で広く知られるところとなったのではないでしょうか。本書は、この「スノーボールアース仮説」の成立とそれがもたらした地球史観を解り易く紹介した本です。

 スノーボールアース仮説は、'92年にカリフォルニア工科大学のジョー・カーシュビンク教授がアイデアとして専門誌に発表し、その後は封印されていたのが、'98年にハーバード大学のポール・ホフマン教授が、ナミビアでの地質調査の結果をもとにこれを支持する論文を科学雑誌「サイエンス」に投稿したわけですが、本書は、その発表を見逃していた著者のもとに、ホフマン教授から当の「サイエンス」誌が送られてきたところから始まります。

 そして、当初は"奇説"とも看做されていたこの仮説が、様々な反論を退けて、次第に有力な学説であると認知されるようになるまでを、本書は丹念に追っていますが、著者自身も、'99年のカーシュビンク、ホフマン両教授が企画した米国地質学会の特別セッションに参加するなどして、そうした論争の只中におり、そのため本書はシズル感のある内容であると共に、考えられる様々な反論に、緻密な論理構成で論駁を加えていく様はスリリングでもありました。

 とりわけ、全球凍結が起こる原因となる、温室効果を生む大気中の二酸化炭素の量が変化する要因について詳しく解説されていて、火山活動や大陸の風化作用、海底堆積物の形成など、大気や海洋と固体地球との相互作用が、大気中の二酸化炭素の循環的な消費プロセスを形成していることが解ります。

 生物の光合成作用もこの「炭素循環」に関与していて、光合成により大気中の二酸化炭素が取り込まれ有機化合物が形成され、その結果、植物プランクトンなどの死骸の一部は二酸化炭素を含んだ海底堆積物となり、それが海洋プレートと共に大陸の下に沈み込み、沈み込み帯の火山活動によって再びマグマと共に大気中に放出される―この「炭素循環」が、大気中の二酸化炭素量、ひいては大気温を調節し、生命にとってハビタブルな環境を生み出しているわけですが、普段"地震の原因"ぐらいにしか思われていないプレートテクトニクスが、我々の誕生に重要な役割を果たしているというのは、興味深い話ではないでしょうか。

 全球凍結は、こうした温室効果バランスがずれる「気候のジャンプ」により起こり(全球凍結を1つの安定状態と看做すこともできるのだが)、判っているもので6億年前と22億年前に起きたとのことですが、「全球」凍結のもとで生命が生き延びてきたこと自体が、「全球」凍結説への反駁材料にもなっていて、本書では、この仮説にまた幾つかのパターンがあって(赤道部分は凍結していなかったとか)、その中での論争があること、その中で有力なものはどれかを考察しています。
 著者の考えでは、現在の地球が全球凍結しても、地中海やメキシコ湾の一部は凍らないかもしれないとし、全球凍結状態においても、こうした生命の生存に寄与する「ホットスポット」があった可能性はあると。

 終盤部分では、全球凍結が無ければ、地球上の生物はバクテリアのままだったかも知れないと、全球凍結が生物進化に多大の影響を及ぼしていることを解説すると共に、太陽系外の惑星にもスノーボールプラネット乃至オーシャンプラネットが存在する可能性を示唆しており、そうなると地球外生命の存在の可能性も考えられなくもなく、今後の研究の展開が楽しみでもあります。

川上 紳一教授.jpgスノーボールアース  ウォーカー.jpg全地球凍結.jpg 本書を読んだのを契機に関連する本を探してみたら、本書にも登場する川上紳一岐阜大学教授の『全地球凍結』('03年/集英社新書)が6年前に刊行されていたのを知り、NHKスペシャル放映の前に、もうこのような一般書が出されていたのかと―(川上紳一氏は、毎日出版文化賞を受賞した女性サイエンスライターのガブリエル・ウォーカーの『スノーボール・アース』['04年/早川書房、'11年/ハヤカワ・ノンフィクション文庫]の邦訳監修者でもあった)。

 川上氏の『全地球凍結』でも田近氏の本と同様、全球凍結を巡る論争の経緯をしっかり追っていますが、川上氏は'97年に南アフリカのナンビアで、ポール・ホフマン教授らと共に、全球凍結仮説を裏付ける氷河堆積物の地質調査のあたった人でもあり、それだけに地質学的な観点から記述が詳しく、その分、新書の割には少し難度が高いかも知れず、また、やや地味であるため目立たなかったのかなあ("全球凍結"と"スノーボールアース"の語感の差もあったかも)。

 '03年刊行のこの本の段階で既に、全球凍結状態においても、「ホットスポット」があった可能性なども示唆されていて、内容的には田近氏と比べても古い感じはしないのですが、読み易さという点でいうと、やはり田近氏のものの方が読み易いと言えるかと思います。

_________________________________________________
田近 英一
1963年4月 東京都出身
1982年3月 東京都立西高等学校卒業
1987年3月 東京大学理学部地球物理学科卒業
1989年3月 東京大学大学院理学系研究科地球物理学専攻修士課程修了
1992年3月 東京大学大学院理学系研究科地球物理学専攻博士課程修了
1992年4月 東京大学気候システム研究センターPD(日本学術振興会特別研究員)
1993年4月 東京大学大学院理学系研究科地質学専攻助手
2002年7月 東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻助教授
2007年4月 東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻准教授
2008年8月 文部科学省研究振興局学術調査官(併任)

受賞歴
2003年 山崎賞奨学会 第29回山崎賞
2007年 日本気象学会 堀内賞

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