【1255】 ◎ 伊東 乾 『ニッポンの岐路 裁判員制度―脳から考える「感情と刑事裁判」』 (2009/04 洋泉社新書y) ★★★★☆

「●司法・裁判」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1820】 森 炎 『量刑相場

「感情を揺さぶる証拠」が「衆愚」を招く危険性を、実証的に指摘。

ニッポンの岐路 裁判員制度―33.JPGニッポンの岐路裁判員制度.jpg
ニッポンの岐路裁判員制度~脳から考える「感情と刑事裁判」~ (新書y)

 '09年5月から裁判員制度がスタートし、それに先駆けて賛否両論、多くの議論があり、書籍も多く出版されましたが、本書も単なる制度の入門書では無いという意味ではその一環にあるとも言えます。

 但し類書と異なるのは、著者が作曲家・指揮者であり、東大の物理学科卒であり、大学でマルチメディア論を教えていると言う、まさにマルチ人間ではあるものの、取り敢えず「司法」に関しては"素人"であるということでしょうか。

 更に、著者は、自らを、裁判員制度に対して賛成・反対どちらの立場でもないとし、敢えて言えば「裁判員制度現実派」であるとのことで、実際に「模擬裁判」の見学ツアーに参加したり、賛成・反対両派の意見を取材していますが、そうした観点から、裁判員制度における裁判の進め方で考えられる幾つかの問題点を指摘しています。

 その核となるのが、「感情を揺さぶる証拠を認めるか」というもので、この問題のケーススタディとして、米国のビデオ証拠判例を取り上げており、これは、サラ・ウィアーという女性(当時19歳)が惨殺された事件の裁判で、生前の被害者の思い出(誕生パーティ、ピクニック、卒業式など)を編集した20分ほどのビデオが提出され、このビデオの編集したのは、被害者の養母で、自身も弁護士である女性ですが、彼女による被害者の生涯を振り返っての朗読が、アイルランドのシンガーソングライター、エンヤの曲とともに流れるというもの。

 被告には死刑判決が下りましたが、この音楽付きビデオが陪審員の心を動かして正確な判断を誤らせたとして、被告は判決の無効を訴え、その後10年以上にわたって争われたものの、'08年に米国最高裁は、「音楽付き思い出ビデオ」は被害者の証拠として採用されうるとの判断を下したとのこと。

 人間が物事から受ける印象が、視覚などの外部情報によっていかに左右され易いものであるかを(「いかにマインド・コントロールされ易いか」とも換言できる)、著者はプレゼンテーションの技法でもって、検察側の「論告・求刑」モデルなどに当て嵌め解説していますが、"解説"と言うより"実証"してみせていると言った方がいいかと思えるぐらい説得力がありました("マルチメディア、メディアリテラシー論教授"の面目躍如!)。

ニッポンの岐路裁判員制度 帯.jpg 因みに、帯にある「性奴隷」の文字は、'08年4月に東京都江東区のマンションで起きた若い女性の惨殺・死体遺棄事件(当初は証拠死体が見つからず、「現代の神隠し事件」と呼ばれた)で、被告の犯行動機の中にあった言葉を検察側が実際にプレートにしたもので、この事件の審理においても、被害女性の愛くるしい赤ちゃんの頃の表情や、子ども時代のスナップ、楽しかった学生時代のアルバム写真などが、モニターに次々映し出される一方、被告が被害者の遺体を捨てたマンションのゴミ箱や、ゴミが運ばれていく埋立地の写真なども映し出されたとのこと(この裁判は裁判員によるものではないが、「わかりやすさ」を目指す裁判員制度の予行演習的な意味合いもあったようだ)。

 著者は、本書の末尾において、この「性奴隷」という3文字を黒字と赤字の両方で示してみせていますが、確かに著者の言う通り、同じ文字でも全く印象が異なり、結局、プレゼンテーション次第で裁判員に大きく異なる印象を与えることが可能であることを示唆しています。

 何気なく手にした本でしたが、結果として、深く考えさせられ、一方で、裁判員制度は是か非かという議論に隠れて、こうしたマインド・コントロール的な証拠提出の問題について、巷ではさほど論じられていないように思われるのが気がかり。

 著者の"中立的"な立場とは裏腹に("中立的"な立場に沿って?)、本の帯には「民主か? 衆愚か?」ともあり、本書を読む限りにおいては、何らかの規制やルール作りをしないと「衆愚」に転ぶ可能性が高いことを、本書自体が訴えているようにも思えました。

About this Entry

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1