【1113】 ○ 吉村 昭 『敵討 (2001/02 新潮社) ★★★★

「●よ 吉村 昭」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●よ 吉行 淳之介」 【536】 吉行 淳之介 『原色の街・驟雨

敵討への思いもわかるが、これだけの犠牲を払ってまでもやる価値があるかどうかも考えさせられる。
吉村昭 「敵討」.jpg敵討』['01年]吉村昭 「敵討」 新潮文庫.jpg 『敵討 (新潮文庫)』['03年]吉村昭-歴史の記録者.png吉村昭---総特集 歴史の記録者 (文藝別冊)』['08年]

かたき討ち―復讐の作法.jpg 表題作「敵討(かたきうち)」と「最後の仇討(あだうち)」の中篇2編を収録しており、何れも実際にあった敵討に材を得ていますが、この本を知ったのは、歴史学者・氏家幹人氏が『かたき討ち-復讐の作法』('07年/中公新書)の中で、敵討というものの大変さを示す事例として紹介していたためです(江戸期、仇討には藩の許可と幕府への届出を要し、敵を追う間は脱藩して浪人になる)。

 「敵討」('00(平成12)年発表)は、伊予松山藩士の「熊倉伝十郎」が、自分の伯父を何者かに殺され、更にその仇を討とうと旅に出た父も返り討ちにあったと思われるがため、父と伯父の復讐をしようと敵を求めて自らも旅に出るという復讐劇で、24歳で伯父の被災を知り、25歳から諸国を巡ってやっと敵を探し当て、念願成就したのは彼が33歳のとき(8年越し!)。
 それでも伝十郎はまだ最後に敵を討てたから良かったものの、そのまま徒労に終わって、浪人のまま人生を棒に振ってしまう場合も少なくなかったようです。

 作者は歴史小説を指向する作家として、それまでは個人史的要素の大きい敵討は小説の素材として扱ってこなかったようですが、この敵討の敵役である「本庄茂平次」という男が、天保の改革をやった老中・水野忠邦に対する"抵抗勢力"の手先として暗躍・出世した人物らしいことを文献で知り、水野忠邦の失脚と復活(老中再任)という歴史の流れに合わせるかのように彼自身も浮沈したということに関心を持ったためのようです。
 伝十郎が茂平次を見つけた時、茂平次は沙汰待ちの囚われ人だったために伝十郎は手が出せなかったのですが、その状況で伝十郎がどう出るかというのが、当時の刑罰の実施スタイルと併せて大変興味深く読めました。

 「最後の仇討」('01(平成13)年発表)は、歴史の流れに翻弄されたという意味ではもっと極端で、主人公の「臼井六郎」が政争における父の対抗グループに両親を殺されたのが10歳の時で、その直後に大政奉還があり、六郎が父を直接手にかけた人物を突き止めたのが明治9年、19歳の時。敵である「一瀬直久」なる男は新政府での裁判所判事になっていたという...。
 しかしそれでも、その4年後に彼は復讐を果たすのですが(通算13年越し!!)、明治6年に既に「仇討禁止令」が発布されていて、この復讐事件は単たる殺人事件でしかないわけで、六郎は死罪に処せられる可能性さえある―。

 要するに、敵を討とうと思ったら仇討という"制度"は無くなっていて、それでも、仇討の精神的残滓はあったということでしょうか。
 こちらの敵討は、このタイトル通り「最後の仇討」として有名ですが、「敵討」の伝十郎が、敵をなかなか見つけられないでいる苛立ちを紛らわせるために行った遊郭で貰ってしまった病気で亡くなったのに比べると、「最後の仇討」の六郎は、後半生は商人として平穏に人生をまっとうしたようで、何となくホッとさせられました。

 敵討というのがいかに大変なものであったか。それに寄せる思いもわかるけれども、これだけの犠牲を払ってまでもやる価値があるかどうか―。

 【2003年文庫化[新潮文庫]】

About this Entry

This page contains a single entry by wada published on 2009年3月 7日 23:07.

【1112】 ○ 森 鷗外 『護持院原(ごじいんがはら)の敵討―他二篇』 (1933/07 岩波文庫) ★★★★ was the previous entry in this blog.

【1114】 ◎ 熊井 啓 (原作:井上光晴) 「地の群れ」 (1970/01 ATG) ★★★★★ is the next entry in this blog.

Find recent content on the main index or look in the archives to find all content.

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1