【1128】 ○ 三島 由紀夫 『葉隠入門―武士道は生きている』 (1967/09 カッパ・ブックス) ★★★☆

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三島なりの読み込み方。「武士道とは死ぬ事と見付けたり」の次段階にある享楽主義。

『葉隠入門―武士道は生きている』.jpg『葉隠入門―武士道は生きている』4.jpg葉隠入門.png 葉隠入門 文庫.jpg
葉隠入門―武士道は生きている (カッパ・ブックス)』『葉隠入門 (新潮文庫)
(粟津 潔 装幀/横尾忠則 画)
1969.5.13 東京大学・全共闘学生とのティーチインにて
三島 由紀夫.jpg 1967年「カッパ・ブックス」(カッパ・ビブリア)の1冊として刊行されたもので、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」という言葉で名高い「葉隠」は、佐賀鍋島藩に仕えた山本常朝が武士道における覚悟を説いた修養の書ですが、三島由紀夫はこれを戦争中から読み出していつも自分の周辺に置き、以後20年間折にふれて読み感銘を新たにした本は「葉隠」1冊であると本書で書いています。

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 「葉隠」については、歴史学者の山本博文氏が『男の嫉妬‐武士道の論理と心理』('05年/ ちくま新書)の中で、山本常朝は主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物を言っていて、これは裏返せば、戦乱の世が去り泰平の時代が続くと、大した論功も無い輩が抜擢人事の対象になったりする、そうしたことへの「嫉妬心」の表れであるとの批判がありますが、著作というものは概して、中身を超えて執筆動機まで探り始めるとキリがないような気もします。

 興味深いのは、三島のこの本が「武士道は生きている」というサブタイトル付きで光文社のカッパ・ブックスから刊行('67年)されていることで、当時の人は、丁度今はやりの「○○の品格」といった新書本と同じく、「軽佻浮薄の世情への批判」+「人生論的エッセイ」といったやや軽い感じで本書を読んだのではないでしょうか。ところが、本書刊行の3年後に三島は自決し、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」というのを実践してしまったわけで、彼は本気で「葉隠」に傾倒していたのかとビックリした―。

 個人的には、三島が自身の内で育んだ美意識や死生観に相通じるものを、三島なりの方法で「葉隠」から読み取ったということであって、「葉隠」がアプリオリにあって三島がこれによって死に導かれたということではないと思います。

葉隠入門―武士道は生きている (カッパ・ブックス)2.jpg葉隠入門―武士道は生きている (カッパ・ブックス)4.jpg葉隠入門―武士道は生きている (カッパ・ブックス)3.jpg 三島が本書において「葉隠」を、「行動哲学」「恋愛哲学」「生きた哲学」という3つのフェーズで捉えていることも興味深く、「行動哲学」の帰結には死がありますが、「恋愛哲学」では女色より男色を上位に置き、それはそのまま忠義に転化するとしていて、更に「生きた哲学」とは、人間の一生は「誠に纔(わずか)の事」であるため、「好いた事をして暮らすべきなり」という理念が「葉隠」の「武士道とは死ぬ事と見付けたり」の次の段階としてあるとしており、三島独自の享楽主義(エピキュリアニズム)論が展開されています。
葉隠入門―武士道は生きている (1967年) (カッパ・ビブリア日本人の知恵〈2〉)

 「葉隠」ではまともな男女間の恋愛は説いていないのかというと、「忍ぶ恋」を至上のものとして説いており(但し、これは衆道の世界にも当てはまることなのだが)、その他にも酒席での心得や二日酔いの対処法、欠伸(あくび)のかみ殺し方まで説いていて至れり尽くせりですが、おおもとのところでは常に死生観に行き着き、それは一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きよということであると同時に、一方で、その根底に人の生というものに対する透徹したニヒリズムがあることを三島は読み取っているように思われ、この辺りも、「葉隠」が三島の琴線にふれた所以ではないかと思います。

 本書後半は「葉隠」の抄訳になっているので、三島の捉え方とは別に、自分なりにこれを味わってみるのもいいかも知れません。

 【1983年文庫化[新潮文庫(『葉隠入門』)]】

《読書MEMO》
●朝毎に懈怠なく死して置くべし。
 (訳:毎朝、ゆるみなく、死んでおくべきである)
●意地は刀の身の如し。内にばかり納め置き候へば、錆もつき刃も鈍り、人が思ひこなしものなり。
 (訳:意地とは刀の抜き身のようなもので、内にばかり納めておくと錆がつき、刃も駄目になって、人が馬鹿にするものである)
●端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙しき事もなく、求むることも無し。この一念を守って暮らすまでなり。
 (訳:結局のところ重要なのは、現在の一念、つまりひたすらな思いより外には何もないということである。一念、一念と積み重ねていって、つまりはそれが一生となるのである)
●人間一生誠に纔(わずか)の事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして苦を見て暮らすは愚かなる事なり。
 (訳:人間の一生なんてみじかいものだ。とにかく、したいことをして暮らすべきである。つかの間ともいえるこの世にあって、いやなことばかりして苦しいめにあうのは愚かなことである)
●道すがら考ふれば、何とよくからくった人形でなきや。糸つけてもなきに、歩いたり、飛んだり、はねたり、言語(もの)迄も言ふは上手の細工なり。来年の盆には客にぞなるべき。さてもあだな世界かな。忘れてばかり居るぞと。
 (訳:道すがらに考えたのだが、人間とは、またなんとよくできた人形ではないか。糸をつけてもいないのに、歩いたり、飛んだり、跳ねたり、ものまでいうのはいかにも手のこんだ作り方である。けれど、来年の盆には、死んでお客さまにでもなってしまうだろう。さてもむなしい世の中ではないか。人々は、そうしたことは、とんと忘れてしまっているのだ)

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