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作家がどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな...。「師匠・江川卓」乗り越えの試み?
『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する (光文社新書 319)』 ['07年]
ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を、全体で2つの小説からなる大きな作品の第1部として構想していたことは作品の序文からもよく知られており、序文で第1部を「13年前」の出来事としていることから、著者は、第2部は、第2部の「13年後」から始まり、その時代設定において書かれる続編を空想するならば、帝政末期という当時の歴史性ないし時代性にこだわらざるを得ないとしています。
では、それがどのようなものになるかですが、アリョーシャがキリスト教的な社会主義者となって皇帝暗殺の考えにとりつかれるのではないかということは、当時巷でも噂され、また過去に何人もの研究者が唱えたことですが(日本では、著者の師匠である江川卓が示唆した)、著者は一通りその可能性も検証しつつ、アリョーシャが劇的な人格変容を遂げない限りその可能性は小さく、むしろアリョーシャではなく、第1部の「少年たち」の1人コーリャが、皇帝暗殺の実行犯になるのではないかと想像し、更に、そもそも、当時の当局の監視下にあったドストエフスキーの立場からすれば、現に生きている皇帝を暗殺するような小説が書けただろうか、それが難しいならば、どういった結末が考えられるかを考察しています(この辺り、「師匠・江川卓」を乗り越えようとしているようにもとれる)。
本書自体、推理小説を読むような面白さはあるものの、細部にわたる「想像」は、その前提となる「想像」を土台としたものであり、著者自身、「客観的データに基づいて科学的に空想する」という立場をとったとしながらも、最初の仮説が崩れれば、話は全部違ってきてしまうことを認めています。
個人的にも、ドストエフスキーが果たしてこんなに政治・社会状況を鏡のようにリフレクトした小説を書くだろうかやや疑問で、ドストエフスキーは(このことを著者も否定してはいないようだが)「社会主義」に共鳴しつつも皇帝支持者であり(理屈上は並存し得ない。ドストエフスキーは「考える」タイプではなく「感覚」の人だったと、中村健之介氏も言っている)、政治的・社会的事件に常に関心があったけれども、事件そのものよりも、そうした事件を引き起こした、或いはそこに巻き込まれた「人間」自体に関心があったのではないかという気がします。
それでも著者は想像逞しく、どんどん話を進めていき、それはむしろ、ドストエフスキーがどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな感じになっていて(ドストエフスキーのハイテンションな作家性が著者に幾分のり移った感じも)、こういうオーサーシップが旺盛な翻訳者がいてもいいとは思うのですが(東京外語大の学長になるのも別に悪くない)、本書における展開自体は牽強付会の部分が多く、これはこれでスリリングではあるのですが、果たして「科学的に空想」したと言えるか疑問を感じました。
ただ、本書でも繰り返されている『カラマーゾフの兄弟』の著者による解題(低次の「物語層」と形而上的な「象徴層」の間に、個人的な体験を露出させた「自伝層」があるという見方など)は、本編を読み解くうえで興味深iいものであるとは思います(但し、この分析も、「聖と俗」の二層構造を指摘した「師匠・江川卓」を、「二層→三層」という形で乗り越えようとしているようにもとれるのだが)。