2008年8月 Archives

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全体の構成にはやや違和感を覚えたが、随所で考えさせられる点も。

私家版・ユダヤ文化論   .jpg私家版・ユダヤ文化論.jpg私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 ['06年] ユダヤ人.jpg J‐P.サルトル 『ユダヤ人 (岩波新書)

 2007(平成19)年度・第6回「小林秀雄賞」受賞作。

 ユダヤ人問題の研究を永年続けてきた著者が、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」ということを論じたもので、第1章では「ユダヤ人」の定義をしていますが、「ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない」としている時点で、「あっ、これ哲学系か」という感じでサルトル『ユダヤ人』('56年/岩波新書)を思い出し、案の定、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が"創造"した」というサルトルの考えが紹介されていました(そっか、この人、"元・仏文学者"だった。今は、思想家? 評論家?)。

 但し、「ユダヤ人とは『ユダヤ人』という呼称で呼ばれる人間のことである」という命題は、サルトルの言うほどに「単純な真理」ではないとし、レヴィナスの「神が『私の民』だと思っている人間」であるという"選び"の視点を示しています。
 レヴィナスは読んでいないので、個人的には、(お手軽過ぎかも知れないが)いい"レヴィナス入門"になりました(冒頭で著者が、自らの「学問上の師はユダヤ人」としているのはそういうことだったのか)。

 世界の人口の0.2%しかいないユダヤ人に何故、思想・哲学分野などで傑出した天才が多いのか、ノーベル賞科学系分野の受賞者数において高い率を占めるのか、といった興味深いテーマについても、サルトルとの対比で、レヴィナスの思惟を解答に持ってきていて、但し、こうしたサルトル vs.レヴィナスという形で結論めいたことが語られているのは終章においてであり、第2章から第3章にかけては、ユダヤ人陰謀史観が、「ペニー・ガム法」(自販機に硬貨を入れたらガムが出てくるのを見て「銅がガムに変化した」と短絡的に解釈してしまう考え方)に基づく歴史解釈であることを説明しています(ある種、情報リテラシーの問題がテーマであるとも言えるかも)。

 具体的には、第2章では、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義文書が19世紀末から20世紀にかけての日本人の反ユダヤ主義者に与えた影響や、エドゥアール・ドリュモンというフランス人の書いた『ユダヤ的フランス』というかなり迷妄的な本、並びに、その本に影響を受けたモレス侯爵という19世紀の奇人の政治思想や活動が紹介されていて、さながら、奇書・奇行を巡る文献学のような様相も呈しており、ある意味、この「トンデモ本」研究の部分が、最も"私家版"的であるととる読者もいるかも(自分も、半分はそうした印象を持った。実際には、「あくまでも私見に基づいて論じる」という意味だが)。

 全体の構成にはやや違和感を覚えましたが、随所にサルトル的な知性を感じ、その分既知感はあったものの、人間の嵌まり易い思考の陥弄を示しているようで、面白く読めました。
 一方で、レヴィナスの言葉を引いての著者の、ユダヤ人は自らが「神から選ばれた民」であるがゆえに、幾多の不幸をあえて引き受ける責務を負うとの考えを集団的に有している、という言説には、旧約聖書に馴染みの薄い自分には、ちょっと及びもつかない部分があったことは確か。

 本書は、学生への講義録がベースになっているそうで、「ユダヤ人が世界を支配している」というようなことを言う人間がいるが、そういう奇想天外な発想がどうして生成したかを論じるつもりが、「ユダヤ人が世界を支配しているとはこの講義を聞くまでは知りませんでした」というレポートを書いた学生が散見され、慌てて翌年に、文芸誌に「文化論」として整理し直して発表したものであるとのこと、そんな学生がいるのかなあ、神戸女学院には。

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作家がどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな...。「師匠・江川卓」乗り越えの試み?

「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する.jpg 『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する (光文社新書 319)』 ['07年]

 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を、全体で2つの小説からなる大きな作品の第1部として構想していたことは作品の序文からもよく知られており、序文で第1部を「13年前」の出来事としていることから、著者は、第2部は、第2部の「13年後」から始まり、その時代設定において書かれる続編を空想するならば、帝政末期という当時の歴史性ないし時代性にこだわらざるを得ないとしています。

 では、それがどのようなものになるかですが、アリョーシャがキリスト教的な社会主義者となって皇帝暗殺の考えにとりつかれるのではないかということは、当時巷でも噂され、また過去に何人もの研究者が唱えたことですが(日本では、著者の師匠である江川卓が示唆した)、著者は一通りその可能性も検証しつつ、アリョーシャが劇的な人格変容を遂げない限りその可能性は小さく、むしろアリョーシャではなく、第1部の「少年たち」の1人コーリャが、皇帝暗殺の実行犯になるのではないかと想像し、更に、そもそも、当時の当局の監視下にあったドストエフスキーの立場からすれば、現に生きている皇帝を暗殺するような小説が書けただろうか、それが難しいならば、どういった結末が考えられるかを考察しています(この辺り、「師匠・江川卓」を乗り越えようとしているようにもとれる)。

 本書自体、推理小説を読むような面白さはあるものの、細部にわたる「想像」は、その前提となる「想像」を土台としたものであり、著者自身、「客観的データに基づいて科学的に空想する」という立場をとったとしながらも、最初の仮説が崩れれば、話は全部違ってきてしまうことを認めています。

 個人的にも、ドストエフスキーが果たしてこんなに政治・社会状況を鏡のようにリフレクトした小説を書くだろうかやや疑問で、ドストエフスキーは(このことを著者も否定してはいないようだが)「社会主義」に共鳴しつつも皇帝支持者であり(理屈上は並存し得ない。ドストエフスキーは「考える」タイプではなく「感覚」の人だったと、中村健之介氏も言っている)、政治的・社会的事件に常に関心があったけれども、事件そのものよりも、そうした事件を引き起こした、或いはそこに巻き込まれた「人間」自体に関心があったのではないかという気がします。

 それでも著者は想像逞しく、どんどん話を進めていき、それはむしろ、ドストエフスキーがどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな感じになっていて(ドストエフスキーのハイテンションな作家性が著者に幾分のり移った感じも)、こういうオーサーシップが旺盛な翻訳者がいてもいいとは思うのですが(東京外語大の学長になるのも別に悪くない)、本書における展開自体は牽強付会の部分が多く、これはこれでスリリングではあるのですが、果たして「科学的に空想」したと言えるか疑問を感じました。

 ただ、本書でも繰り返されている『カラマーゾフの兄弟』の著者による解題(低次の「物語層」と形而上的な「象徴層」の間に、個人的な体験を露出させた「自伝層」があるという見方など)は、本編を読み解くうえで興味深iいものであるとは思います(但し、この分析も、「聖と俗」の二層構造を指摘した「師匠・江川卓」を、「二層→三層」という形で乗り越えようとしているようにもとれるのだが)。

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死の家の記録、罪と罰、白痴、悪霊、カラマーゾフの兄弟の5作品の人物造型や創作技法を"講義"。

小説家が読むドストエフスキー.jpg 『小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)』 ['06年] 加賀乙彦(かが おとひこ).jpg 加賀乙彦 氏(略歴下記)

 カトリック作家の加賀乙彦氏が、朝日カルチャーセンターで、ドストエフスキーの諸作品について、その作品構造や伏線の張り方、人物の造型法やストーリーとプロットの関係などを、小説家の立場から、創作の技法や文体の特徴に力点を置いて講義したものを、テープ起こしして新書に纏めたもの。
 『死の家の記録』、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の5作品の文庫版をテキストとしていますが、内容も平易で、語り言葉のまま活字化しており、読んでいて、カルチャーセンターに通っているような気分になります。

ドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ』('73年/中公新書)では、精神科医という立場からドストエフスキーの癲癇という病に注目しながらも、実質的には、多くの特異な性格の登場人物の分類や分析、それらの創造のヒントはどこにあったのか、といったことに力点が置かれていたような気がしましたが、それは、本書についても感じられ、講義の前半分(『死の家の記録』『罪と罰』)では、特にそう感じました。

 大作『白痴』『悪霊』については、登場人物の関係の持たせ方などにも着目し、『カラマーゾフの兄弟』の講義で、やや宗教的な問題に突っ込んで話している感じ。
 但し、全般的には、一般向けの"文学講義"ということもあってか、ツルゲーネフやトルストイといった作家たちの作品との比較、日本の作家や文学作品に影響を与えている部分などにも話が及んでおり、更には、ドストエフスキーの人生そのものや、その作家としての生活ぶりも紹介していて、そうした幅広さの分、作品自体の分析はやや通り一遍になったきらいも。

 そうした意味では、いかにもカルチャーセンターでの講義という感じもしなくはないですが、作品自体を丁寧に再構築してくれていて、内容を思い出すのにちょうど良く、ドストエフスキー作品に対するバフチンの分析(「ポリフォーニー」や「カーニバル的」といったこと)やベルジャーエフの言説(「キリスト教的な愛」+「ロシア的な愛」といったこと)をわかり易く要約してくれたりしていているのも有り難い点。
 難解とされる『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の部分の解説なども極めて平易で、入門書としては悪くなく、むしろお薦め、但し、原作を読まないことにはどうしょうもないけれど(受講生は、講義の前に読んで"予習"して講義に臨むということになっていたのではないかと思われるが)。
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加賀 乙彦
1929年、東京生まれ。本名・小木貞孝。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)の他、『フランドルの冬』『宣告』『湿原』『永遠の都』『雲の都(第一部 広場、第二部 時計台)』など著書多数。

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自らの病を通して人間本性に潜む病(不条理)を示したという解釈に共感。

永遠のドストエフスキー.jpg 『永遠のドストエフスキー―病いという才能 (中公新書)』 ['04年]

 ドストエフスキーと言えば偉大な作家であり、深遠で観念的な人物像が浮かび上がりがちですが、本書はそうした既成のイメージを排して、そのパーソナリティの特徴は病であると断定し、ドストエフスキーの文学世界を理解するということは、ドストエフスキーという病気の人間を通して人間の病を理解することであるという立場に立っています。

 彼は、病的人物たちの活躍する小説を書いただけでなく、自らが心の病を持ち、病的な想像をする人間であると自覚し、実際に、社会や世間の病的な事件に強い関心を示したということ。また、ドストエフスキーの夫人アンナは、夫の異常なまでの心配性や被害妄想に「奇妙な人」(彼女の日記より)であるとの印象を持ち、夫の感情に巻き込まれないようにすることで、何とか自分を保ったということらしいです。

 「貧しい人たち」や「永遠の夫」に見られる、若い女性に対する男性側の被虐的とも思える立場には、そうした彼の意識が反映されていると思われますが、著者は、彼自身がそこに男女関係の理想を見出していたフシがあるとしています(両作品の男性主人公は共にマゾ的だが、これは作者の嗜好であるということか。ドストエフスキーはアンナへの懺悔の手紙で、自分を「永遠の夫」と呼び、アンナはこれを嫌ったという)。

 ドストエフスキーを語る上で「てんかん」は欠かせないものですが、この心配性や被害妄想はもっと若い頃からのもので、「統合失調症」による誇大妄想からくるものであると著者は推察していて(彼には「離人症」の傾向もあった)、迫害妄想は晩年まで治らなかったようですが、それがある種、願望的なかたちで作品に反映されていたということでしょうか。

 更に、本書で興味深い指摘だと思ったのは、理不尽に犠牲となる幼い子供が繰り返し作品に登場したり、嗜虐的と言っていい酷たらしい光景が作中に少なくなかったりする点において、ドストエフスキーには嗜虐傾向も強く見られるということで、彼は社会や市井で起きた弱者が虐待されるような事件に、激しく感応したという証言があるということ。

 ドストエフスキーには、嗜虐的な人物、被虐的な人物の両方に自分を重ねて夢想することが出来る資質があり(著者はこれを「なりすます才能」「腹話術師」などと呼んでいる)、著者の論に従えば、その人物になりきって残虐な場面を夢想し、或いは、迫害妄想や服従願望をリアルに描いた―ということになりますが、彼の作品のトーンや登場人物の病的な心理描写のリアルさ(かなり異常であったり極端に非常識だったりするのに、どこかでそした人を見たような感じもある)からみて、かなり説得力のある見方であるように思えました。

 「今時、病跡学?」「ドストエフスキーの偉大さを冒涜してる」等々の批判も聞かれそうですが、個人的には著者の考え方に大いに頷かされ、ドストエフスキー作品に触れてこれまで自分が抱いていた感触に裏づけを与えるが如く符号するものであるとともに、人間というものが普遍的に持つ暗部の深さについて考えさてくれる本でした(本書前書きにもそうした記述があるが、そうした人間の持つ不条理性を見事に描き切っている点が、ドストエフスキー作品が時代を超えて読まれる理由であると、著者は言いたかったのはないか)。

 但し、別々に発表したものをベースにした奇数章と、新たに書き下ろした偶数章という合体構成になっているため、各章の繋がりが必ずしも滑らかでない(あるいは重複が見られる)ように思えるのが、やや残念。

《読書メモ》
●ドストエフスキーの「考える」という能力は、感覚と想像を本体としていたと言えるだろう。いや、言葉による表現力はすぐれていたが、実はあまり「考える」ということはしていなかったのではないか。トルストイは、「ドストエフスキーはたくさんのことを感じた。しかし考えるのはだめだった」と言っている。理論はドストエフスキーにとっていわば下位にある。上位にある力は光景とイメージ」であり、かれの心身に植えつけられている異常に敏感で強い感覚が、それにふれて反応する。(114p)

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「これしかない」と言われると反発を感じるが、著者の私見とみて読めば、推理小説を読むように面白い。

『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』.bmp謎とき『カラマーゾフの兄弟』.jpg謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』 ['91年] 謎とき『罪と罰』1.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』 ['86年]

 著者の名を広く一般に知らしめた『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)に続くもので、前著でドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性を、翻訳者らしく徹底的に分析してみせた著者は、本書においても、「カラマーゾフ」という名前の分析から始め、それが「好色・放蕩」を意味し、また、「カラ=黒」、「マーゾフ=塗る」で「黒く塗る」の意でもあるとしています。

 『謎とき「罪と罰」』では、主人公の名前に黙示録の「悪魔の数字」である"666"という字が隠れているといったまさに"謎とき"はしているものの、作中にロシア正教の儀式が重要場面で象徴的に織り込まれているのに、そのことにはさほど触れられておらず、加賀乙彦氏が「江川卓はまったくキリスト教信仰というものについての関心がない」と批判していますが、本書では、同じく言葉(字義)の分析を入り口としているものの、ドストエフスキーの宗教観にもかなり触れています(特にこの『カラマーゾフの兄弟』という作品は、ドストエフスキーの宗教観抜きでは語れないものであることは明らかなのだが)。

 「カラマーゾフ」という言葉は、父フョードルと長兄ドミートリイだけでなく、キリスト者アリョーシャにも係り、そのことから、「好色・放蕩」も「黒塗り」もアリョーシャにも密接に関係する言葉であり、更に推し測って、「(アリョーシャ=)黒いキリスト者」とは何を指すかといったことから、書かれるはずであった続編において、彼が本編最後に顔を揃える12人の少年"使徒"に囲まれて未来の教団(または秘密結社)の指導者として13年後に皇帝暗殺者となり"十字架に架かる"と、大胆に推論しています。

 但し、その核となる「(アリョーシャ=)皇帝暗殺者」という将来像は、海外の研究者の間でも唱える人がいて(埴谷雄高は、江川卓が本国ロシアに先駆けて―と言っているが)、それを著者は、日本人がスムーズに受け入れることが出来るように"翻訳"したとも言えるのかも知れません。

 何れにせよ、埴谷雄高みたいな大作家がこの「江川説」に痛く感応したりしたこともあってか、日本におけるカラマーゾフ研究の特徴は、この江川卓の自由奔放な(?)「謎とき」に過ぎなかった説が(考えられる反対意見を封印するような論調もあり)"正統"みたいになっている点で、結局、亀山郁夫氏なども、この江川卓の弟子筋の人であり、師匠の考えをベースに、いかにそれを乗り越えるかというのが、亀山氏自身のテーマになっているような気がします。

 個人的には、江川卓個人の考えとみて読めば、本書は推理小説を読むように面白く(「これしかない」と言われると反発を感じるが)、これに続く亀山氏の最近のカラマーゾフ論の一連の展開は、更にヒネリを加えている(師を乗り越えようとして?)分だけ、もっと推理小説的ですが、その結果かなりアクロバティカルなものにならざるを得ないと言うか、もしドストエフスキーがもう少し長生きして続編を書いたとしても「亀山説」は"実現可能性"に乏しいような気がしています。

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書簡文の殆どが、金の工面に関わるものであったドストエフスキー。

「ドストエフスキーのおもしろさ」.jpgドストエフスキーのおもしろさ~言葉・作品・生涯.gif  ドストエフスキーの肖像(ヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ画〉.jpgドストエフスキーのおもしろさ―ことば・作品・生涯 (岩波ジュニア新書)』 ['88年]/ドストエフスキーの肖像画(ヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ画/モスクワ・トレチャコフ美術館)

 ドストエフスキーの作品や書簡から言葉を拾って、その部分を軸に、ドストエフスキーの作品やその登場人物の面白さ、更には、ドストエフスキーがどんな人物であったかを浮き彫りにしています。

 ジュニア向けということで、見開き1テーマの読みやすい体裁をとっていますが、語られている作品や人物の分析は奥深く、高校生以上向け、むしろ、一般向けと言っていいかも。
 やや、ブツ切り感はあるものの、こういう本からドストエフスキーに入っていくのも、或いは、ドストエフスキーを復習的になぞるのも一法だと思いました(本書はどうして絶版になったのだろうか?)。

 著者は、ドストエフスキーの書簡集なども翻訳しているため、手紙からの引用も多く、更には、評論や創作ノートなど、引用の幅は多岐に及んでいます。
 また、5大長編だけでなく、「分身」「死の家の記録」「虐げられた人たち」「賭博者」などのドストエフスキーを語る上で鍵となる作品や、「白夜」「ネートチカ・ネズワーノア」といった初期の小品からの引用もあります(短篇や初期作品にヒューマンなもの、叙情的なものが多いということもあるだろう)。

 全体を通して作品入門書としても読めますが、ドストエフスキーという人物を知る上では、とりわけその手紙が興味深く、彼の手紙は「文学者の手紙らしくない」と言われているそうですが、全て実用の通信文で、殆どが金の工面に関わるものであるということ、従って、一般読者を意識しないで書かれており、生活の苦しさや楽しさ、嘆きや憤りがストレートに表されています。
 他の文豪の書簡などと異なり、"芸術的香気"は無いけれども、生半可な自伝を読むよりは印象に残ると著者も言っていますが、まったくその通りだと思いました。

 個人的には、妻アンナ宛の手紙から、"賭博病"だったドストエフスキーが賭博をやめたきっかけが、亡父が恐ろしい姿で夢枕に立ったためであるとしているのが興味深かったです(一般的な説では、賭博禁止令により、ロシアにルーレットを用いる賭場が無くなったためとされていたのでは)。

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ドストエフスキーが小説で使用する言葉の二重性・多義性を徹底分析。

ドストエフスキー 江川卓.gifドストエフスキー (岩波新書)』['84年] 謎解き「罪と罰」2.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』['86年]

罪と罰.jpg 法学部出身、独学でロシア語を学び(但し、父親はロシア文学者、ロシアの収容所で亡くなっている)ドストエフスキー作品の第一級の翻訳者になったという江川卓(えがわ・たく、1927- 2001)の名が、ロシア文学者として一般に広く知られるようになったのは、'87年に読売文学書賞を受賞した『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)によると思われますが、優れた翻訳者ならではの独特の分析は、作品そのものがよりミステリアスな『カラマーゾフの兄弟』を論じた『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』('91年/新潮選書)や、更に『謎とき「白痴」』('94年/新潮選書)でも遺憾なく発揮されています。
『罪と罰』(江川卓・訳)

 但し、これらに見られる作品構成の重層的な分析、或いは、ドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性の分析は、'84年に刊行された本書で既にある程度されていて、当時としては画期的だったと思われるのですが、タイトルが単なる"入門書"や"評伝"のような印象を一般に与えたのか、この時は、研究者の間ではともかく、巷では一部においてしか話題にならなかったようです。

カラマーゾフの兄弟.jpg 「カラマーゾフ」で言えば、"カラマーゾフ"の意味が「黒く塗る」であるといったような興味深い指摘から、アリョーシャが皇帝暗殺者になるというこの作品の続編の構想の推察まで、後に「謎とき」で述べられることは既に本書で触れられているわけですが、「謎とき」シリーズが3作品に関するもので終わったのに対し、本書では、『貧しき人びと』『悪霊』などその他の作品についても触れられていて、それらについても「謎とき」の手法が展開されているのが注目されます。
『カラマーゾフの兄弟』(原卓也・訳)

 個人的に特に興味深かったのは、初期の"ゴーゴリ的"ヒューマンな作品とされている『貧しき人びと』の中で、主人公である小官吏マカール・ジェーヴシキンに、ゴーゴリの『外套』に対しては、「ワーレンカ(主人公に本を送った薄幸の少女の名)。まるでもうインチキです」と憤慨させ、プーシキンの『駅長』に対しては、貧しき人びと.jpgジェーヴシキン自身の"誤読"に基づく好感を抱かせていることを指し、これはこの2人の作家の限界を示しているものだとしていることで、主人公に文学評論させるという「メタ文学」的手法を使って、自分は既に処女作においてゴーゴリもプーシキンも超えたとしている(より高次のヒューマンな世界に作品を導いている)という自負が見られると指摘している点には、ナルホドなあと。
『貧しき人びと 』(木村浩・訳)

 本書全体としては、やはり、ドストエフスキーが用いた言葉の持つ二重性・多義性についての専門家としての分析が優れていますが、作品世界の背後にある、当時の異端や分派も含めた宗教世界についても、専門的な知識を駆使した分析に基づいて、作家や作品に与えた影響が縦横に語られており、(「謎とき」もそうだが)タイトルから受ける"入門書"のイメージを、いい意味で大きく"逸脱"したものとなっています。

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文豪の創作の秘密を、"てんかん"という持病を軸に、病跡学的観点から解明。

加賀 乙彦 『ドストエフスキイ』.jpgドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ (中公新書 338)』['73年]嫌われるのが怖い 精神医学講義.jpg 『嫌われるのが怖い―精神医学講義 (1981年)』 朝日出版社(朝日レクチャーブックス)

 作家であり精神科医でもある著者が、文豪ドストエフスキーの創作の秘密を、彼の癲癇という持病を軸に、病跡学的観点から解き明かしたもの。
 何せ、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読んで、医師としてのキャリアを刑務所の監察医からスタートすることを決心したぐらいドストエフスキーに入れ込んだ人であり、精神医学の大家・笠原嘉氏との対談『嫌われるのが怖い-精神医学講座』('81年/朝日出版社)の中でも、「病跡学にもし存在価値があるとするならば、ドストエフスキーとてんかんとの関係を文学創造の核に据えて考察することこそ、大事だと思います」と繰り返しています。

死刑囚の記録2.jpg また、監察医としての経験を通して書かれた『死刑囚の記録』('80年/中公新書)の中では、「死刑囚」と「無期囚」で拘禁ノイローゼの現れ方が、「死刑囚」には躁状態や爆発発作となって現れ、「無期囚」には拘禁ボケが見られるとしていますが、その前に書かれた本書('73年)で既に、ドストエフスキーの癲癇発作の前に異常な生命力の高揚と発作後の無気力を、それぞれ死刑囚の心理、無期囚の心理に似ているとしています。

 ドストエフスキーが18歳の時に、潜在的に期待していた父の死が実際に起こったことが、彼の癲癇発症の引き金となったとするフロイト説を、卓見としながらも一部批判していますが、結局、彼が若い頃から癲癇気質を示していたのか、何歳の時に最初の発作を経験したのか、といったことはよくわからないわけで、この辺りが、既に亡くなっている天才の病理を研究する病跡学の限界なのか、その後も病跡学というのは精神医学の中で亜流の位置づけをされているような気がします。

永遠のドストエフスキー.jpg 自分自身、本書を最初に読んだときは、ドストエフスキーの天才性の秘密に触れた気がして目からウロコの思いでしたが、その後、精神医学者ではなく文学者である中村健之介氏が、『永遠のドストエフスキー』('04年/中公新書)の中で、癲癇もさることながらドストエフスキーの異常なまでの心配性や被害妄想に着目しており、こちらの方がより説得力があるようにも思えました。

 但し、今回本書を読み直してみると、後半は病理としての癲癇にばかり執着するのではなく、性格学的なトータルな分析がされていて、また、登場人物と作者との関係性においても、作家らしい考察がなされていることを再認識しました(ドストエフスキーには登場人物に自分を投影させているという意識はなかったと、著者は考えているのが興味深い)。

 また本書の中でも、「私は病的な現象がすべて深遠で神聖だなどと言おうとしているのではない。癲癇者でありながら何一つ自分の体験から深い人間的意味をひきだすことのできぬ人も世には大勢いる。と言うよりほとんどの癲癇者はそうである。それに反して、ただ一人ドストエフスキイだけが癲癇という病的現象から深い透徹した人間的意味を発見し、それを文学に形象化することに成功した」(52p)のだとしています。

 これは、最近注目されているサバン症候群などにも当て嵌まる気がし、極めて稀な例ですが、異常なまでに高い言語能力を有するマルチ・リンガルのサバン症候群の人が、実は若い頃に側頭葉癲癇を発症し、「共感覚」という特殊な能力を獲得していたらしいことが、最近の脳科学の臨床例などでわかっている―。これとて、その患者が文学作品を編み出す素因には全くならないわけですが、やっぱり、癲癇という病気はその人の言語能力に何らかの影響を与えることがあるのではないかと思わせる話である気がします。

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東宝特撮怪獣映画大鑑(増補版).jpg 東宝特撮怪獣映画大鑑 増補版.jpg ゴジラ.jpg モスラ対ゴジラ1964.jpg
東宝特撮怪獣映画大鑑』(1999/03 朝日ソノラマ) 「ゴジラ」(1954)/「モスラ対ゴジラ」(1964)

 朝日ソノラマの旧版('89年刊行)の「増補版」。553ページにも及ぶ大型本の中で、'54年の「ゴジラ」から'98年の「モスラ3」までのスチールや撮影風景の写真などを紹介していますが、とにかく写真が充実(数千点)しているのと、その状態が極めてクリアなのに驚かされます。

浅野ゆう子.jpg 怪獣映画ファンサークル代表竹内博氏が、仕事関係で怪獣映画の写真が手元に来る度に自費でデュープして保存しておいたもので(元の写真は出版社や配給会社に返却)、当時の出版・映画会社の資料保管体制はいい加減だから(そのことを氏はよく知っていた)、結局今や出版社にも東宝にもない貴重な写真を竹内氏だけが所持していて、こうした集大成が完成した、まさに生活費を切り詰め集めた"執念のコレクション"です(星半個マイナスは価格面だけ)。

水野久美2.jpg若林映子2.jpg やはり、冒頭に来るのは「ゴジラ」シリーズですが、スチールの点数も多く、ゴジラの変遷がわかるとともに、俳優陣の写真も豊富で、平田昭彦、小泉博、田崎潤、佐原健二、藤木悠、宝田明、高島忠夫、女優だと水野久美若林映子(後のボンドガール)、根岸明美、さらに前田美波里や、ゴジラものではないですが浅野ゆう子('77年「惑星大戦争」)なども出ていたのだなあと。

モスラ対ゴジラ.jpgモスラ.jpgゴジラ ポスター.jpg 「ゴジラ」('54年)は、東宝の田中友幸プロデューサーによる映画「ゴジラ」の企画が先にあって、幻想小説家の香山滋が依頼を受けて書いた原作は原稿用紙40枚ほどのものであり、現在文庫で読める『小説ゴジラ』は、映画が公開された後のノヴェライゼーションです。

ゴジラ 1954.jpgゴジラs29.jpg  自分が生まれる前の作品であり(モノクロ)、かなり後になって劇場で観ましたが、バックに反核実験のメッセージが窺えたものの、怪獣映画ファンの多くが過去最高の怪獣映画と称賛するわりには、自分自身の中では"最高傑作"とするまでには、今ひとつノリ切れなかったような面もあります。やはりこういうのは、子供の時にリアルタイムで観ないとダメなのかなあ。ゴジラ 1954.jpg初めて「怪獣映画」というものを観た人たちにとっては、強烈なインパクトはあったと思うけれど。昭和20年代終わり頃に作られ、自分がリアルタイムで観ていない作品を、ついつい現代の技術水準や演出などとの比較で観てしまっている傾向があるかもしれません。但し、制作年('54年)の3月にビキニ環礁で米国による水爆実験があり、その年の9月に「第五福ゴジラ_.jpg竜丸」の乗組員が亡くなったことを考えると、その年の12月に公開されたということは、やはり、すごく時代に敏感に呼応した作品ではあったかと思います。

宝田明(南海サルベージKK所長・尾形秀人)/河内桃子(山根恭平博士の娘・山根恵美子)/平田昭彦(科学者・芹沢大助)

Gojira (1954) .jpg菅井きん ゴジラ.jpg 菅井きん(1926-2018/享年92)(小沢代議士)
Gojira (1954)
「ゴジラ」●制作年:1954年●監督:本多猪四郎●製作:田中友幸●脚本:村田武雄/本多猪四郎●撮影:玉井正夫●音楽:伊福部昭●特殊技術:円谷英二ほか●原作:香山滋●時間:97分●出演:宝田明/河内桃子/平田昭彦/志村喬/堺左千夫/村上冬樹/山本廉/榊田敬二/鈴木豊明 /馬野都留子/菅井きん/笈川武夫/林幹/恩田清二郎/高堂国典/小川虎之助/手塚克巳/橘正晃/帯一郎/中島春雄/川合玉江/東静子/岡部正/鴨田清/今泉康/橘正晃/帯一郎●公開:1954/11●配給:東宝●最初に観た場所(再見):新宿名画座ミラノ (83-08-06)(評価:★★★☆)●併映:「怪獣大戦争」(本多猪四郎)

モスラ_0.jpg 作品区分としてはゴジラ・シリーズではないですが、中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の3人の純文学者を原作者とする「モスラ」('61年)の方が、今観ると笑えるところも多いのですが、全体としてはむしろ大人の鑑賞にも堪えうるのではないかと...。まあ、「ゴジラ」と「モスラ」の間には7年もの間隔があるわけで、その間に進歩があって当然なわけだけれど(そう言えば、大映の「ガメラ」('60年)も第一作はモノクロで、かなり子供向けの内容だった)。

「モスラ」('61年)予告

モスラ51.jpg ザ・ピーナッツ(伊藤エミ(1941-2012)、伊藤ユミ(1941-2016))のインドネシア風の歌も悪くないし、東京タワー('58年完成、「ゴジラ」の時「モスラ」(61年).jpgはまだこの世に無かった)に繭を作るなど絵的にもいいです。原作「発光妖精とモスラ」では繭を作るのは東京タワーではなく国会議事堂でしたが、60もののけ姫のオーム.jpg年安保の時節柄、政治性が強いという理由で変更されたとのこと、これにより、モスラは東京タワーを最初に破壊した怪獣となり、東京タワーは完成後僅か3年で破壊の憂き目(?)に。繭から出てきたのは例の幼虫で、これが意外と頑張った? 宮崎駿監督の「もののけ姫」('97年)の"オーム"を観た時、モスラの幼虫を想起した人も多いのではないでしょうか。
モスラ4S.jpg「モスラ」●制作年:1961年●監督:本多猪四郎●製作:田中友幸●脚色:関沢新一●撮影:小泉一●音楽:古関裕而●特殊技術:円谷英二●イメージボード:小松崎茂●原作:中村真一郎/福永武彦/堀田モスラ_1.jpg善衛「発光妖精とモスラ」●時間:101分●出演:モスラ111 .jpgフランキー堺小泉博香川京子/ジェリー伊藤/ザ・ピーナッツ(伊藤エミ、伊藤ユミ)/上原謙/志村喬/平田昭彦/佐原健二/河津清三郎/小杉義男/高木弘/田島義文/山本廉/加藤春哉/三島耕/中村哲/広瀬正一/桜井巨郎/堤康久●公開:1961/07●配給:東宝●最初に観た場所(再見):新宿シアターアプル (83-09-04)(評価:★★★☆)●併映:「三大怪獣 地球最大の決戦」(本多猪四郎) 
モスラ対ゴジラ ポスター2.jpgモスラ対ゴジラ ポスター.jpg この「ゴジラ」第1作を観ると、ゴジラが最初は純粋に"凶悪怪獣"であったというのがよくわかります。「ゴジラシリーズ」の第4作「モスラ対ゴジラ」('64年)(下写真)の時もまだモスラの敵役モスラ対ゴジラ 02.jpgでした。この作品はゴジラにとって怪獣同士の闘いにおける初黒星で、昭和のシリーズでは唯一の敗戦を喫した作品でもあります。因みに、「ゴジラシリーズ」の第3作「キングコング対ゴジラ」('62年)は両者引き分け(相撃ち)とされているようです。それが、'64年12月に公開された('64年12月公開予定だった黒澤明監督「赤ひげ」の撮影が長引いたため、正月興行用に急遽制作された)「ゴジラシリーズ」の第5作「三大怪獣 地球最大の決戦」('64年)(下写真)「三大怪獣 地球最大の決戦」('64年)3.jpgになると、宇宙怪獣キングギド三大怪獣 地球最大の決戦.jpgラを倒すべく力を合わせようというモスラ(幼虫)の"呼びかけ"にラドンと共に"説得"されてしまいます。この怪獣たちが極端に擬人化された場面のバカバカしさは見モノでもあり、ある意味、珍品映画として貴重かもしれません。ともかく、ゴジラはこの作品以降、昭和シリーズではすっかり"善玉怪獣"になっています(「三大怪獣 地球最大の決戦」には、後にボンドガールとなる若林映子が、キングギドラに滅ぼされた金星人の末裔であるサルノ王女(の意識が憑依した女性)役で出ていたが、王女の本名はマアス・ドオリナ・サルノ(まあ素通りなさるの!)だった)。この作品、「四若林映子 サルノ王女.jpg三大怪獣 地球最大の決戦 (1964年)-s.jpg大怪獣」ではないかとも言わましたが、モスラ、ゴジラ、ラドンの地球の3匹がを力を合わせて宇宙怪獣キングギドラ戦に挑むことから、「地球の三大怪獣」にとっての最大の決戦という意味らしいです。

若林映子(サルノ王女)/夏木陽介・星由里子・志村喬 in「三大怪獣 地球最大の決戦」
Mosura tai Gojira(1964)
Mosura tai Gojira(1964).jpgモスラ対ゴジラ hujita .jpgモスラ対ゴジラ2.jpg「モスラ対ゴジラ」●制作年:1964年●監督:本多猪四郎●製作:田中友幸●脚色:関沢新一●撮影:小泉一●音楽:伊福部昭●特殊技術:円谷英二●時間:89分●出演:宝田明星由里子小泉博/ザ・ピーナッツ(伊藤エミ、伊藤ユミ)/藤木悠/田島義文/佐原健二/谷晃/木村千吉/中モスラ 小美人用に作られた巨大セット.jpgモスラ .jpg山豊/田武謙三/藤田進/八代美紀/小杉義男/田崎潤/沢村いき雄/佐田豊/山本廉/佐田豊/野村浩三/堤康久/津田光男/大友伸/大村千吉/岩本弘司/丘照美/大前亘●公開:1964/04●配給:東宝(評価:★★★☆)
小泉博・宝田明・星由里子・ザ・ピーナッツ/小美人用に作られた巨大セット(本多監督とザ・ピーナッツ)
「モスラ対ゴジラ」('64年)予告

「三大怪獣 地球最大の決戦」('64年)予告

San daikaijû Chikyû saidai no kessen(1964)                 
三大怪獣・地球最大の決戦 パンフレット.jpgSan daikaijû Chikyû saidai no kessen(1964).jpg三大怪獣 地球最大の決戦2.jpg「三大怪獣 地球最大の決戦」●制作年:1964年●監督:本多猪四郎●製作:田中友幸●脚本:関沢新一●撮影:小泉一●音楽:伊福部昭●特殊技術:円谷英二●時間:97分●出演:夏木陽介/小泉博/星由里子若林映子「三大怪獣 地球最大の決戦」.png三大怪獣 地球最大の決戦 星百合子e.jpgザ・ピーナッツ/志村喬/伊藤久哉/平田昭彦/佐原健二/沢村いき雄/伊吹徹/野村浩三/田島義文/天本英世/小杉義男/高田稔/英百合子/「三大怪獣 地球最大の決戦」6.jpg加藤春哉●時間:93分●公開:1964/12●配給:東宝●最初に観た場所(再見):新宿シアターアプル (83-09-04)(評価:★★☆)●併映:「モスラ」(本多猪四郎)
夏木陽介・若林映子(サルノ王女) in「三大怪獣 地球最大の決戦」

怪獣大戦争.jpg怪獣大戦争01.jpg 更に、ゴジラシリーズ第6作「怪獣大戦争」('65年)は、地球侵略をたくらむX星人がキングギ怪獣大戦争 土者.jpgドラ、ゴジラ、ラドンの3大怪獣を操り総攻撃をかけてくるというもので、X星人の統制官(土屋嘉男)がキングギドラを撃退するためゴジラとラドンを貸して欲しいと地球人に依頼してきて(土屋嘉男は「地球防衛軍」('57年)のミステリアン統領以来の宇宙人役か)、その礼としてガン特効薬を提供すると申し出るが実はそれは偽りで...という、まるで人間界のようなパターンの詐欺行為。「シェー」をするゴジラなど、怪獣のショーアップ化が目立ち、"破壊王"ゴジラはここに至って、遂に自らのイメージをも完全粉砕してしまった...。

怪獣大戦争011.jpg 本書にはない裏話になりますが、この作品に準主役で出演した米俳優のニック・アダムスは、ラス・タンブリンなど同列のSF映画で日本に招かれたハリウッド俳優達が日本人スタッフと交わろうとせずに反発を受けたのに対し、積極的に打ち解け馴染もうとし、共演者らにも人気があったそうで、土屋嘉男とは特に息が合い、土屋にからかわれて女性への挨拶に「もうかりまっか?」と言っていたそうで、仕舞には、自らが妻帯者であるのに、水野久美に映画の役柄そのままに「妻とは離婚するから結婚しよう」と迫っていたそうです(ニック・アダムスは当時、私生活では離婚協議中だったため、冗談ではなく本気だった可能性がある。但し、彼自身は、'68年に錠剤の過量摂取によって死亡している(36歳))。

怪獣大戦争ges.jpgニック・アダムス2.jpg「怪獣大戦争」●制作年:1965年●監督:本多猪四郎●製作:田中友幸●脚本: 関沢新一●撮影:小泉一●音楽:伊福部昭●特殊技術:円谷英二●時間:94分●出演:宝田明/ニック・アダムス/久保明/水野久美/沢井桂子/土屋嘉男/田崎潤/田島義文/田武謙三/、村上冬樹/清水元/千石規子/佐々怪獣大戦争 土屋嘉男.jpg怪獣大戦争2.jpg木孝丸●公開:1965/12●配給:東宝●最初に観た場所(再見):新宿名画座ミラノ (83-08-06)(評価:★★☆)●併映:「ゴジラ」(本多猪四郎)
中央:X星人統制官(土屋嘉男

水野久美.jpg 怪獣の複数登場が常となったのか、「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」('66年)などというのもあって(「ゴジラ」シリーズとしては第7作)、監督は本多猪四郎ではなく福田純で、音楽は伊福部昭ではなく佐藤勝ですが、これはなかなかの迫力だった印象があります(後に観直してみると、人間ドラマの方はかなりいい加減と言うか、ヒドいのだが)。

ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘ps.jpg水野久美 in「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」('66年)

ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘2.jpg シリーズ第6作「怪獣大戦争」に"X星人"役で出ていた水野久美が今度は"原住民"の娘役で出ていて、キャスティングの変更による急遽の出演で、当時29歳にして19歳の役をやることになったのですが、今スチール等で見ても、妖艶過ぎる"19歳"、映画「南太平洋」('58年/米)みたいなエキゾチックな雰囲気もありましたが、何せ観たのは子供の時ですから、南の島の島民たちが大壷で練っている黄色いスープのような液体の印象がなぜか強く残っています(何のための液体だったのか思い出せなかったのだが、後に観直して"エビラ除け"のためのものだったと判り、スッキリした)。

「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」.jpg「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」●制作年:1966年●監督:福田純●製作:田中友幸●脚本:関沢新一●撮影:山田一夫●音楽:佐藤勝●特殊技術:円谷英二●出演:宝田明/渡辺徹/伊吹徹/当銀長太郎/砂塚秀夫/水野久美/田崎潤/平田昭彦/天本英世/佐田豊/沢村いき雄/伊藤久哉/石田茂樹/広瀬正一/鈴木和夫/本間文子/中北千枝子/池田生二/岡部正/大前亘/丸山謙一郎/緒方燐作/勝部義夫/渋谷英男●時間:87分●公開:1966/12●配給:東宝(評価:★★★☆)●併映:「これが青春だ!」(松森 健)

大怪獣ガメラgamera_1.jpg この辺りまで怪獣映画は東映の独壇場ともいえる状況でしたが、'65年に大映が「大怪獣ガメラ」、'67年に日活が「大巨獣ガッパ」でこの市場に参入します(本書には出てこないが)。このうち、「大怪獣ガメラ」('65年/大映)は、社長の永田雅一の声がかりで製作されることとなり(永田雅一の「カメ」で行けという"鶴の一声"で決まったようで、湯浅憲明(1933-2004)監督はじめスタッフは苦労したのではないか)、これがヒットして、ガメラ・シリーズは'71年に大映が倒産するまでに7作撮影されましたが、本作はシリーズ唯一のモノクロ作品です(「ゴジラ」の第1作を意識したのかと思ったが、予算と技術面の都合だったらしい)。大怪獣ガメラ 船越英二.jpgあらすじは、砕氷調査船・ちどり丸で北極にやってきた東京大学動物学教室・日高教授(船越英二)らの研究チームが、国大解呪ガメラ 1965es.jpg籍不明機を目撃、その国籍不明機には核爆弾が搭載されており、その機体爆発の影響で、アトランティスの伝説の怪獣ガメラが甦るというもの。「ガメラ」の命名者でもある永田雅一の「子供たちが観て『怪獣がかわいそうだ』とか哀愁を感じないといけない。子供たちの共感を得ないとヒットしない」との考えの大怪獣ガメラ _.jpg大怪獣ガメラ 1965_.jpgもと、ガメラは子供には優しく、特にカメを大事に飼っている主人公の少年には優しいのですが、いくら何でも擬人化し過ぎたでしょうか(永田雅一は「ガメラを泣かせろ」と指示したそうな)。特撮自体は悪くなく、逃げ惑う人々のシーンの人海戦術も効いているだけに、お子様仕様になってしまったのが惜しまれます(出来上がった作品を観て永田雅一は「面白い」と言ったそうだが、映画はヒットしたわけだから、商売人としての感性はあった?)。

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「大魔神」(1966)青山良彦/高田美和/月宮於登女/藤巻潤
大魔神 1966.jpg大魔神77.jpg 「ガメラ」のヒットを受け、翌年「ガメラシリーズ」の第2作として総天然色による「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン大魔神1.jpg」('66年/大映)が作られましたが、併映の「大魔神」('66年/大映)の方が"初物"としてインパクトがあったかも。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の「巨人ゴーレム」('36大魔神2.jpg年/チェコスロバキア)で描かれたゴーレム伝説に材を得たそうですが、戦国時代に悪人が陰謀を巡らせて民衆が虐げられると、穏やかな表情の石像だった大魔神が復活して動き出し、破壊的な力を発揮して悪人を倒すというストーリーは分かりやすいカタルシスがありました。大映映画ですが、音楽は東宝ゴジラ映画の伊福部昭(1914-2006/享年91)が担当しています(同じく大映映画で伊福部昭が音楽を担当した作品に、黒澤明監督が大映で撮った「静かなる決闘」('49年)がある)。「大魔神」は、ほぼ同じパターン内容で同年にシリーズ第2作「大魔神怒る」、第3作「大魔神逆襲」が公開されています(3作で終わったのは、やや飽きられたためか)。

「大怪獣ガメラ」●制作年:1965年●監督:湯浅憲明●製作:永田秀雅(製作総指揮:永田雅一)●脚本:高橋二三●撮影:宗川信夫●音楽:山内正●時間:78分●出演:船越英二/山下洵一郎/姿美千子/霧立はるみ/北原義郎/左卜全/浜村純/北城寿太郎/吉田義夫/大山健二/小山内淳/藤山浩二/大橋一元/高田宗大怪獣ガメラ 船越英二  2.jpg彦/谷謙一/中田勉/森矢雄二/丸山修/内田喜郎/槙俊夫/隅田一男/杉森麟/村田扶美子/竹内哲郎/志保京助/中原健/森一夫/佐山真次/喜多大八/大庭健二/荒木康夫/井上大吾/三夏伸/清水昭/松山新一/岡郁二/藤井竜史/山根圭一郎/村松若代/沖良子/加川東一郎/伊勢一郎/佐原新治/宗近一/青木英行/萩原茂雄/古谷徹/中条静夫(ナレーション)●時間:87分●公開:1965/11●配給:大映(評価:★★★)
船越英二・霧立はるみ

「大魔神」(1966)  高田美和(当時19歳)
大魔神 blu-ray.jpg大魔神 高田美和.jpg「大魔神」●制作年:1966年●監督:安田公義●製作総指揮:永田雅一●脚本:吉田哲郎●撮影:森田富士郎●音楽:伊福部昭●時間:84分●出演:高田美和/青山良彦/二宮秀樹/藤巻潤/五味龍太郎/島田竜三/遠藤辰雄/杉山昌三九/伊達三郎/月宮於登女/出口静宏/尾上栄五郎/伴勇太郎/黒木英男/香山恵子/木村玄/橋本力(大魔神)●時間:87分●公開:1966/04●配給:大映(評価:★★★☆)
大魔神 Blu-ray BOX


ゴジラvsキングギドラ.jpgゴジラvsビオランテ.gif 一方、話を「大映」から「東宝」に戻して、'75年で一旦終了した「ゴジラ」シリーズは9年ぶりに再開されます。久々に作られた第16作「ゴジラ」('84年)では、ゴジラを原点の"凶悪怪獣"に戻したようですが、第17作あたりから、また少しおかしくなってくる...。

「ゴジラ vs ビオランテ」vhs.jpg 第17作「ゴジラ vs ビオランテ」('89年)は、バイオテクノロジーによってゴジラとバラの細胞を掛け合わせて造られた超獣ビオランテが登場し、一般公募ストーリー5千本から選ばれたものだそうですが(選ばれたのは「帰ってきたウルトラマン」第34話「許されざるいのち」の原案者である小林晋一郎の作品。一般公募と言ってもプロではないか)、確かに植物組織を持った怪獣は、「遊星よりの物体x」('51年/米)(「遊星からの物体x」('82年/米)のオリジナル)の頃からあるとは言え、随分と荒唐無稽なストーリーを選んだものだと...。

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ゴジラ vs キングギドラ 1991.jpg 第18作「ゴジラ vs キングギドラ」('91年)は、南洋の孤島に生息していた恐竜が核実験でゴジラに変身したという新解釈まで採り入れており(ここに来てゴジラの出自を変えるなんて)、ゴジラが涙ぐんでいるような場面もあって、また同じ道を辿っているなあと(この映画、敵役の未来人のUFOが日本だけを攻撃対象とするのも腑に落ちないし、タイム・パラドックスも破綻気味)。

ゴジラvsキングギドラ tutiya2.jpg 第17、第18作は大森一樹監督で、いくらか期待したのですが、かなり脱力させられました(第18作「ゴジラ vs キングギドラ」で怪獣映画の中で土屋嘉男を見たのがちょっと懐かしかったくらいか。山村聰も内閣総理大臣役で出ていたけれど)。この監督は商業映画色の強い作品を撮るようになって、はっきり言ってダメになった気がします。大森一樹監督の最高傑作は自主映画作品「暗くなるまで待てない!」('75年/大森プロ)ではないでし山村聰「ゴジラ vs キングギドラ」.jpgょうか。神戸を舞台に大学生の若者たちが「暗くなるのを待てないで昼間から出てくるドラキュラの話」の映画を撮る話で、モノクロで制作費の全くかかっていない作品ですが、むしろ新鮮味がありました(今年['08年]3月に、大森監督によってリメイクされた)。

 結局、ゴジラ・シリーズは'04年の第28作をもって終了しますが、「ゴジラ」シリーズ全体での観客動員数は9,925万人で、「男はつらいよ」シリーズ全48作の合計観客動員数7,957万人を上回り、歴代で最も観客動員数多い劇場映画シリーズとされています。

ゴジラ vs ビオランテ  .jpg「ゴジラ vs ビオランテ」●制作年:1989年●監督・脚本:大森一樹●製作:田中友幸●音楽:すぎやまこういち(ゴジラテーマ曲:伊福部昭)●時間:97分●出演:三田村邦彦/田中好子/小高恵美/峰岸徹/高嶋政伸/沢口靖子/高橋幸治●公開:1989/12●配給:東宝 (評価:★☆)

ゴジラvsビオランテ [DVD]

「ゴジラ vs キングギドラ」●制作年:1991年●監督・脚本:大森一樹●製作:田中友幸●音楽:伊福部昭●特技監督:川北紘一●原作:香山滋●時間:103分●出演:中川安奈/豊原功補/小高恵美/西岡徳馬/土屋嘉男/山村聰/佐原健二/時任三郎/原田貴和子/小林昭二/佐々木勝彦/チャック・ウィルソン/ケント・ギルバート/ダニエル・カール/ロバート・スコットフィールド●公開:1991/12●配給:東宝 (評価:★☆)
  
暗くなるまで待てない!47.jpg「暗くなるまで待てない」のサウンドトラックm.jpg「暗くなるまで待てない!」●制作年:1975年●監督:大森一樹●脚本:大森一樹/村上知彦●音楽:吉田健志/岡田勉/吉田峰子●時間:30分●出演:稲田夏子/栃岡章/南浮泰造/村上知彦/森岡富子/磯本治昭/塚脇小由美/大森一樹/鈴木清順●公開:1975/04●配給:大森プロ●最初に観た場所:高田馬場パール座 (80-12-25) (評価:★★★★)●併映:「星空のマリオネット」(橋浦方人)/「青春散歌 置けない日々」(橋浦方人)

「暗くなるまで待てない」サウンドトラック(吉田健志)

日本誕生.jpg ゴジラ・シリーズ以外で、役者だけで見れば何と言っても凄いのが「日本誕生」('59年)で、ヤマタノオロチが出てくるため確かに"怪獣映画"でもあるのですが、三船敏郎、乙羽信子、司葉子、鶴田浩二、東野英治郎、杉村春子、田中絹代、原節子など錚々たる面々、果ては、柳家金語楼から朝汐太郎(当時の現役横綱)まで出てくるけれど、「大作」転じて「カルト・ムービー」となるといった感じでしょうか(観ていないけれど、間違いなくズッコケそうで観るのが怖いといった感じ)。 

「日本誕生」 アメノウズメノミコ (乙羽信子)

マタンゴ.jpg 初期の「透明人間」('54年)やガス人間第1号」('60年)など"○○人間"モノや天本英夫の「マタンゴ」('63年)といった怪奇モノ、地球防衛軍」('57年)宇宙大戦争」('59年)などの宇宙モノから中国妖怪モノ、"フランケンシュタイン"モノまで、シリーズごとのほぼ全作品を追っていて、作品当りのスチール数も豊富な上に、一部については、デザイン画や絵コンテなども収められています。

 この頃東宝はゴジラ映画だけを作っていたわけではなく、クラゲの化け物のような怪獣が登場する宇宙大怪獣ドゴラ」('66年)といった作品もありました。個人的には、"フランケンシュタイン"モノでは、フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」('66年)などが印象に残っています。
 
水野久美 in 「フランケンシュタイン対地底怪獣」('65年)/根岸明美 in「キングコング対ゴジラ」('62年)
東宝特撮怪獣映画大鑑1.jpg 東宝特撮怪獣映画大鑑2.jpg

根岸明美 アナタハン.jpg根岸明美 マタンゴ.jpg赤ひげ 根岸明美 .jpg
根岸明美(1934.3.26-2008.3.11/享年73) in 「アナタハン」('53年)、「キングコング対ゴジラ」('62年)、「赤ひげ」('65年)

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自分が今まさに「海底潜望鏡」を覗いているような"シズル感"。

深海生物の謎 彼らはいかにして闇の世界で生きることを決めたのか (サイエンス・アイ新書 32) (サイエンス・アイ新書 32).jpg 『深海生物の謎 彼らはいかにして闇の世界で生きることを決めたのか(サイエンス・アイ新書32)

深海生物の謎2.jpg ソフトバンククリエイティブの"サイエンス・アイ新書"の1冊。著者の『深海生物ファイル』('05年/ネコ・パブリッシング)が好評だったもののやや値が張るため(内容から見れば高くはないのだが)、同じような構成でこれを新書化したのかなと思っていましたが、いい意味でちょっと違っていたかも。

 冒頭、三浦半島で見られる深海生物の痕跡、というやや身近な話に続いて、1993年に海洋研究開発機構が初島沖海底(水深1175m)に設置した観測ステーションのことが紹介されていて、以来14年間、この"初島沖ステーション"は継続的に深海の模様を映像で伝えてきているとのこと(このようなものがあるとは知らなかった。まるで惑星探査みたい)、本書では、このステーションによって観察された深海生物の映像を中心に、「しんかい」などの海底探査船の観測写真なども多く掲載されています。

 写真そのものの多くは、『深海生物ファイル』に掲載されていたものに比べると"派手さ"はないけれども、解説文章と併せて見ていると、深海魚やクラゲが装置に迫って来て(ぶつかってしまうのもいる)自分が今まさに「海底潜望鏡」を覗いているような"シズル感"があります。

 サカナのくせにまともに泳がず、のたうちながら海流に流されていってしまうものや、逆に、飛び立つように、或いは踊るように泳ぐナマコなど、見ていると結構、海の生き物に対する既成概念が変わる―。
 ヒラノマクラなど鯨骨に群がる生物群も興味深く、今まで、クジラの死んだ後の死体のことなんか考えてもみなかったけれど、何年、何十年にも渡って深海生物の栄養資源になっているのだなあと、ちょっと自然の摂理に感心させられました。

 『深海生物ファイル』と違ってイラストのためのページはとっていませんが、写真で深海生物の形態が見にくいものには、同じ場所にイラストが添えてあるのが親切。
 写真が、単なる形態写真ではなく、"生態"写真の観点から撮られている点、解説文が非常にわかり易い点は、『深海生物ファイル』同様、この著者ならではないかと思いました。

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写真が充実。解説・イラストもいい。深海に行けばいくほど、まるで別宇宙の生物のよう。

深海生物ファイル.jpg深海生物ファイル―あなたの知らない暗黒世界の住人たち』['05年/ネコ・パブリッシング]

 前半部が様々な深海生物を脊椎動物(所謂"深海魚")、無脊椎動物(クラゲ・イカ・タコ・ナマコなど)、節足動物(エビなど)などにジャンル分けした写真集で、後半部が、海層の深度別に区分した生物イラスト(モノクロ)と解説、前半部と後半部の相互索引機能が無いのがやや不満ですが、それ以外は満足のいく内容でした(最後に総合索引はある)。

 とりわけ、深海生物の写真が点数も多く、またよく撮れていて、この種の本や図鑑などは殆どがイラスト主体であることを考えれば、この写真の充実ぶりは相当のものだと言えるのでは。
 かなり貴重な写真も含まれているかと思いますが、ただ写真で見せるだけでなく、出来るだけその生き物の生態がわかるような写真を収めるよう配慮して掲載されているように感じました。

深海生物イラスト(イラスト:北村雄一).gif 解説は、最新の観察・研究情報を織り込みながらも、文章の端々にユーモアも感じられて親しみ易いものとなっており、なかなかの迫力であるイラストも、著者自身の描いたものです。

 魚類にしても、我々が通常思い浮かべる"サカナ"のイメージからかけ離れているものが多く、無脊椎動物や節足動物も含めると、その生態は更に不思議さを増し、深海に行けばいくほど、まるでSF世界か別宇宙の生物のようになってきます。

 たまには、こうした「暗黒世界の住人たち」に想いを馳せるのもいいかも。
 一見まったく我々の日常に関係無いように思えるけれども、ハンバーガーのフィレオフィッシュに使われているメルルーサ(アルゼンチンへイク)なども、一応"深海魚"の部類に入るのだなあと。
 
  深海生物イラスト (イラスト:北村雄一) 上から順にリュウグウノツカイ・オニキンメ・コウモリダコ・オオグソクムシ

 

「●分子生物学・細胞生物学・免疫学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●脳科学」【860】 時実 利彦 『脳の話

解説、ドキュメントともいい。日本は"名(ノーベル賞)を取り、実を失う"可能性が高いと指摘。

iPS細胞ヒトはどこまで再生できるか?.jpg 『iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?』['08年] iPS細胞ができた!.jpgiPS細胞ができた!―ひろがる人類の夢』['08年]

ヒトiPS細胞の作製.jpg 先に読んだ山中教授と畑中正一・京大名誉教授の対談『iPS細胞ができた!-ひろがる人類の夢』('08年/集英社)が、"iPS入門"としては物足りなかったのに対し、本書は複数のサイエンス・ライターによって書かれたもので、ヒトiPS細胞とはいったい何か、iPS細胞ES細胞の違いは何かといったことが、冒頭で、主に、「DNAの初期化」という概念、及び「ジェネティックス(遺伝学)」と「エピジェネティックス(後成遺伝学)」の概念対比を用いて、比較的わかり易く解説されているように思えました。

 クローンには、「受精卵クローン」と「体細胞クローン」の2種類があることは知っていましたが、未受精卵の不思議な力を使って体細胞を「初期化」することで作る「クローンES細胞」は後者に該当する、但し、これとて、「本来生まれるはずの命を奪い、代わりに患者の細胞を作らせる」という点では「受精卵クローン」同様に倫理上の問題を孕んでいるわけで、これに対し、iPS細胞は、「エピジェネティックスなDNAの初期化を、人工的に行う」ことによって、この問題をクリアしたものであるとのこと。

from JST(科学技術振興機構)

 第2章では、ヒトiPS細胞の誕生までの道のりが時系列で辿られていて、その中で、iPS細胞についての更に突っ込んだ解説もなされており、一般向けにしては少し難しく感じられるところもあったぐらい(発表時に学会とマスコミで温度差があったのも、このわかりにくさのためか?)。
  
 ただ、研究開発にむけてのドキュメントは読んで面白く、また、直接、山中教授にも取材していて、「アップル社の音楽プレーヤー」を意識したネーミングであるとかいった面白い裏話も聞きだしています。

 第3章で、ヒトiPS細胞が再生医療にもたらす可能性を、比較的現実的に探っていますが、最も気になったのはiPS研究を取り巻く問題点や課題が書かれている第4章で、とりわけ、科学研究者をがんじがらめにしている日本の官僚制度の問題点を指摘しています(研究助成金の決定方法などは、どうしようもなく"お役所"的!)。

 本書によれば、「日本の省庁には長期的な研究戦略がない」とのことで、実際、本書刊行後の'08年7月に出された、政府の総合科学技術会議という作業部会が半年もかかってまとめた研究推進策というのが、現実の後追いに過ぎず、何の戦略性も無いということで非難を浴びています。

 山中氏の研究成果を追う海外勢(各国政府・医薬品メーカー・科学者)の勢いには凄まじいものがあり、このままだと、「山中はノーベル賞をとるかもしれないが、実際に再生医療がもたらす利益の多くはアメリカが持っていくことになりそう」、「日本は"名を取り、実を失う"可能性が高い」と本書にもあります。

「●分子生物学・細胞生物学・免疫学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【972】 田中 幹人 『iPS細胞 ヒトはどこまで再生できるか?
○日本人ノーベル賞受賞者(サイエンス系)の著書(山中 伸弥)

楽しく読めたが、iPS細胞を理解するうえではやや物足りない。

iPS細胞ができた!.jpg 『iPS細胞ができた!―ひろがる人類の夢』 (2008/05 集英社)

 '07年11月にヒト細胞からのiPS細胞作製成功を発表した山中伸弥・京大教授に対して、畑中正一・京大名誉教授が聞き手になって、iPS細胞とはどのようなものか、iPS細胞が出来たときの模様やそこに至る道のり、克服しなければならない問題は何か、再生医療などにおいて今後どういった可能性を秘めているか、などを聞いた対談。

 こうした研究開発"秘話"のような話が好きなので、楽しく一気に読めましたが、もともと正味150ページぐらいしかなく、活字もやけに大きくて、通勤電車で片道 or 1往復の間に読める?
 「ヒトiPS細胞成功」のニュースが新聞に報道されたその日から、集英社の編集者がこのことを本にしたいと動いたようですが、やがて山中教授は「時の人」となり、以降ずっと多忙を極める日々が続いているようで、1回きりの"決め打ち"対談で無理矢理1冊の本にしたような感じも。

 でも、当事者が登場して語っているので、シズル感は満点。神戸大学医学部卒、大阪市立大学助手、奈良先端技術大学院大学助教授(後に教授)というコースは、失礼だけれど、ノーベル賞コースらしくないのでは。それが、世界の天才たちを差し置いて、少なくとも日本人科学者の中ではノーベル賞候補の筆頭に一気に躍り出たというのは痛快でもあります。

 ただ、米グラッドストーン研究所での研究員としての経験がやはり生きているみたい。それと、この人柄。学生時代は柔道とラグビーを、今はランニングが趣味のスポーツマンですが、いかにも、若い有意な研究者たちが慕ってついてきそうな感じがします。

 ES細胞とiPS細胞の違いなどを、解説書と異なり、対談の中で本人に語らせているので、アウトラインの説明がラフなまま、いきなり専門的な話になったりする部分があり、iPS細胞の入門書としては、別のものも読んだ方がよいでしょう。他の学者たちとの研究の差別化のポイントなどは、本人の語りによって、より実感を持って伝わってはきますが。

 それと、iPS細胞の再生医療における可能性に対して畑中氏の寄せる期待が、あまりに楽観的なのも気になりました。
 技術的な問題だけでなく、諸外国に比べ厳しい国内の規制の問題、国の支援のあり方の問題などあるはず。それらに深く触れずに終わっているのは、いわば"ご祝儀対談"であるためでしょうか?

《読書MEMO》
山中 伸弥 ノーベル賞.jpg山中 伸弥 ノーベル賞2.jpg山中 伸弥 氏 2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞

「●司法・裁判」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1264】 チームJ 『日本をダメにした10の裁判
「●集英社新書」の インデックッスへ

「重くはない」ことが、必ずしも「軽い」ということにはならない。刑罰の背景にある社会特質。

日本の刑罰は重いか軽いか.jpg日本の刑罰は重いか軽いか.jpg   王 雲海.jpg 王 雲海 氏
日本の刑罰は重いか軽いか (集英社新書 438B)』['08年]

法廷.png 中国・米国・日本の刑罰制度を比較しており、冒頭、刑罰とは何か、なぜこの3国の制度を比較するのかなど、やや理屈っぽく感じられましたが、タイトルに呼応する、第3章の「日本の刑罰は重いのか」、第4章の「日本の刑罰は軽いのか」にきて、ぐっと興味を引かれました。

 経済犯罪について、米国の会社経営者の場合は終身刑の宣告もあり得て、中国だと死刑もあるのに対し、執行猶予付きで済むのが日本の経営陣(インサイダー取引きなども同様)、薬物犯罪だと、アヘン戦争の苦い経験を持つ中国は非常に厳しく、売買を仲介しただけで死刑になることもあり、米国も終身刑を辞さないが、日本は普通の刑罰で済んでしまう―こうして見ると、「日本の刑罰は軽い」ということになりそうですが、確かに「重くはない」が、「軽い」ということには必ずしもならないようです。

 と言うのは、軽犯罪については、中国法では「小さなこと」を相手にしないとのことで、刑法の中で犯罪として定められているのはあくまで「大きなこと」だけ。これに対し、小さなことも漏らさず網羅するのが日本法で、条例レベルだと、迷惑防止条例などがその例。一方、米国は、小さなことに関心を払ったり払わなかったり、時期や地域、事柄によってムラがあるそうです(米国が発祥のストーカー規制法やセクハラ規制法も、州によって設けていない州もある)。

 米国は、死刑適用だけでなく法執行全般に偶然さが伴う、所謂「撒餌式」の法執行で(「FOXクライムチャンネル」で婦人警官が売春婦に変装して男性を検挙しているのを放映していたけれど、ああした"囮捜査"などは「撒餌式」の典型。本書によれば、人件費のかかる割には効果が得られてないらしい)、一方、中国は「キャンペーン式」、一定の期間や地域において特定の犯罪に厳罰が適用されるということで、まるで、「交通安全強化月間」みたいだなあと(但し、たまたまその時期に引っかかると、死刑になったりするから怖い)。これに対し、日本は犯罪の適用が広範な、言わば「魚網式」の法執行であり、そういう意味では、日本の刑罰は決して「軽い」とは言えないと著者は言っています。

 結局、刑罰の背景にはそれぞれの社会特質があり、「権力社会」中国、「法律社会」米国、「文化社会」日本、という著者の分析は、スンナリ腑に落ちる結論でした。

 中国の人民陪審員として、死刑判決を言い渡された被告の様や、銃弾で脳の飛び散った処刑後の姿に立会い(中国は世界の死刑執行の8割を占めると言われる)、裁判官志望から法学研究者に進路を転じたという著者の述懐には、死刑制度について考えさえられる点もありました。

《読書MEMO》
●米国の刑事事件は90%が司法取引で処理され、公式な裁判にはならない。残り10%のうち、約5%は裁判官による裁判で審理され、陪審による裁判になる刑事事件はせいぜい約5%程度(86p)
●中国の死刑罪名の約半分は、経済や金銭のための死刑罪名(97p)
●今の日本では、国民の8割近くが死刑の存置に賛成しているが、これほど高い死刑支持率を保っているのは、日本の死刑執行は(中略)極めて密室的やり方で行われ、ごく少数の関係者以外には誰も死刑執行の場面や状況を見ることも知ることもできないからであろう。もし死刑囚に対する絞首の生々しい場面や過程を一般国民が見聞きできるようになったら、日本での死刑支持率はかなり下がるのではないか(220p)

「●国際(海外)問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1771】 富坂 聰 『中国の地下経済

タイトル通りなのは最初だけ。広く問題をとりあげた分、新聞の纏め読みのような印象。

藤村 幸義 『老いはじめた中国』.jpg 『老いはじめた中国 (アスキー新書 049)』 ['08年] 「小皇帝」世代の中国.jpg 青樹明子 『「小皇帝」世代の中国 (新潮新書)』 ['05年]

 第1章ではタイトル通りで、中国という国の人口が日本以上に急ピッチで高齢化していて、それは「一人っ子政策」によるものですが(中国は人口増加が横ばいとなり、少子化問題が国の大きな問題となった現在も、この政策を廃してはいない)、そのことが労働経済や教育にもたらす影響を分析しており、人口の減少が始まるのは日本より少し先ですが、そのスケールが大きいだけに、こっちまで心配になってくるような内容。
 本書にある、一人っ子は「小皇帝」などと呼ばれて大事に育てられたために、甘やかされすぎて「超わがまま」な傾向にあるといった話は、広東衛星ラジオ放送キャスターの青樹明子氏による『「小皇帝」世代の中国』('05年/新潮新書)といった本もあり、既知の人も多いのでは。

三峡ダムの建設地周辺で発生した山崩れ.jpg 第2章では環境問題を扱っていて、三峡ダム建設で120万人の住民が立ち退き移転させられたのはよく知られていることですが、治水上、更にそれを上回る230万人以上もの人を移転させる必要が出てきているとのこと(ダムの水位を下げればこの数字は違ってくるが)、石炭採掘による地盤沈下なども各地に起きていて、ずっと経済最優先でやってきて、二酸化炭素排出量もアメリカを抜いて世界一になり、本当にこの国の環境政策は大丈夫なのかなという気になってきます。
三峡ダムの建設地周辺で発生した山崩れ (写真:㈱大紀元)

 第3章以降は、主に経済問題を扱っていて、こうして見ると、タイトルに沿った内容は、第1章だけではなかったかと...。結果的には、中国が今抱えている問題を俯瞰するうえでは悪くはないのですが、「サーチナ」に連載されたものがベースになっているということもあって、やや新聞やネット記事を纏め読みしているような感じ(範囲が広い分、1つ1つが浅い)。

 先日、スポーツジャーナリストの松瀬学氏のこわ〜い中国スポーツ』('08年/ベースボール・マガジン社新書)という本を読みましたが、かつて『汚れた金メダル-中国ドーピング疑惑を追う』('96年/文藝春秋)という本を書いたりしていた割には、今回は、タイトルから想像されるような当局批判は見られず、最近気になるのは、中国当局のお墨付きをもらった人が中国に関する本を書いているのでは、と思える点です(松瀬氏は北京五輪の取材を予定する一方、最近は、『五輪ボイコット-幻のモスクワ、28年目の証言』('08年/新潮社)という本を上梓していて、矛先をロシアに変えた?)。

 本書の著者についても、元日本経済新聞・北京支局長(現在は拓大教授)で、今も、中国経済学会理事、日中関係学会理事という人らしいですが、そう言えば、随所で当局の政策に懸念を示しながらも(それさえも、中国政府高官などが自らも了解している範囲内に見える)、将来については意外と楽観的に書かれているような。

白岩松(中央电视台主持人).jpg 後半は、'07年の温家宝首相来日に合わせて中国の国営テレビが作った「岩松看日本」 という番組での白岩松というTVキャスターの日本取材記の話が唯一面白かったけれど、この人、渡辺淳一、浜崎あゆみ、村上龍、栗原小巻など中国で人気のある日本人にインタビューをしたのは本書にある通りですが、日本の一般の家庭を訪問してゴミの分別方法を見て、日本人の環境問題意識の高さに仰天している、そうしたことを別の本か何かで読んだのですが、こうした話は本書では省かれているのが物足りない。  
白岩松(中央電視台・主持人)

「●スポーツ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2301】 増田 俊也 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

タイトルの印象と異なり、「スポーツ紙のスポーツ面」のごくフツーのコラム記事という感じ。

松瀬 学 『こわーい中国スポーツ』.jpgこわ~い中国スポーツ.jpg           姚明.jpg 劉翔.gif 
こわ~い中国スポーツ (ベースボール・マガジン社新書 7)』['08年]/姚明 LONG-NET.com 劉翔 LONG-NET.com

 北京オリンピックの最中に本書を読んでいますが、本書は北京五輪開幕の1年前の記念イベントの取材から始まっていて、当局がいかに国家のイメージアップを図るために張り切っているか(或いは苦慮しているか)が、「人工消雨」「マナー講座」「マスコット」作戦などを通して述べられていて、取材規制などからもピリピリしたものが伝わってきます。

 但し、取材規制に対するボヤキみたいなものはあるものの、話は政治批判の方へは行かずに競技や選手の方へ行き、メダル大国を目指しての中国スポーツ界の奮闘ぶり、とりわけ、バスケットボールの姚明(ヤオミン)、110mハードルの劉翔などスター選手にフォーカスしています。

郭晶晶 LONG-NET.com  Rendb.com
郭晶晶(グオ・チンチン).jpg郭晶晶(グオ・チンチン)2.jpg この2人に次ぐ有名アスリートとして、女子飛び込みの郭晶晶(かく・しょうしょう/グオ・チンチン)を取り上げていますが、この化粧品会社のCMモデルもこなす美人選手のスキャンダラスな話題にはほとんど触れずにさっと流し、むしろ、バレーボールや柔道、卓球など、その他の競技における監督・選手の強化ぶりなどにページを割いていて、まさに、「スポーツ紙のスポーツ面」の極々フツーのコラム記事といった感じです。

 実際、スポニチ(大阪)連載の記事がベースになっているのですが、この際、「芸能面」的要素もあってもよかったのでは。何だか、当局に気を使っているような気さえしてきます(この人、比較的身内が集まる小規模な講演会では、「北京オリンピックの光と影」などという演題で話をしているのだが)。

 元共同通信社の記者で、学生時代は早稲田大学ラグビー部の選手、政治的観点やドーピング問題からスポーツ界を取材した本もありますが(『汚れた金メダル―中国ドーピング疑惑を追う』('96年/文藝春秋))、本書はあくまでも「中国のスポーツ」を純粋に取材したものだったのか―(タイトルと内容のイメージがずれる)。

 このまま、スポーツ記事みたいに読み手のアスリートマインドに訴えるだけで終わるのかなと思いきや、最後の方で、世界のスポーツ用品メーカーやプロ・スポーツ団体が、いかに中国市場に参入し、ビジネスで成功を収めようと奮闘しているかが紹介されていて、そうか、「政治」ではなく「経済」の方にいったのかと。
 確かに、多くの内政問題を抱える中国がオリンピック開催国となった背景には、諸外国の中国という巨大市場への経済的動機付けが大きく働いていると思いますが、本書での解説はかなり表面的なものに止まっている感じでした(日本企業で北京五輪大会全体の公式スポンサーになれたのは「コクヨ」だけだったのか。一体、何をサプライするのだろうか)。

 プロ野球のロッテの親会社が、中国リーグのあるチームのスポンサーを検討していたが、ユニフォームの背中に「楽天」というロゴが入ることになるため断念したという"余談"が面白かったです(「ロッテ」の中国語表記は「楽天」)。

《読書MEMO》
北京五輪2008
 2008年8月17日に行われた女子3m飛板飛込み決勝で、郭晶晶は金メダルを獲得 [写真左/エキサイトニュース]、翌18日に行われた男子110メートルハードル1次予選で、劉翔は足を痛めレースを棄権 [写真右/産経ニュース]。
17日夜に行われた女子3m飛板飛込み決勝で、中国の郭晶晶選手が金メダルを獲得.jpg 110メートル障害1次予選で足を引きずり、レースを棄権する劉翔.jpg


  

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「●フランスの3大写真家」の インデックッスへ

今もパリの片隅で写真の人物たちがこうして息づいているような...。

Robert Doisneau1.jpgパリ ドアノー写真集.jpg   ドアノー写真集 パリ遊歩.jpg パリ遊歩 1932-1982.jpg
パリ ドアノー写真集 (1)』(30 x 22.6 x 1.4 cm)['92年]『パリ遊歩―1932-1982』 (20.8 x 15.6 x 5.2 cm) ['98年]

 『パリ』は、リブロポート刊行のロベール・ドアノー(Robert Doisneau 1912-1994)の写真集の1冊で、この人の作品で最も知られているのは、表紙にもある、ライフ誌の"パリの恋人"という企画で発表された「市庁舎前のキス」('50年)でしょう。

 同じくパリをよく題材にした写真家アンリ・カルチェ=ブレッソンは裕福な家庭の出身ですが、ドアノーは貧しい家庭の出身です。広告業界からフォトジャーナリズムの世界に進み、戦場写真なども撮っていますが、やがて、カルティエ=ブレッソン流の所謂「決定的瞬間」を掴まえる名手との評判が次第に高まっていきました。しかし、この写真が有名になると、実は彼に頼まれてモデルを務めたという多くの人からモデル代やネガの要求があり、実際には多くの人に自ら声かけして何枚もこうした写真を撮っていたことが後に判明、この写真の女性も女優であり、後にドアノーからネガを贈られています。

Robert DOISNEAU2.jpgROBERT DOISNEAU.jpg そうであってもいい写真には違いない、但し、この写真は、この人の作品に「お洒落」というイメージが主として伴う一因になっているように思え、このパリ写真集を見ると、むしろ「お洒落」というより「エスプリ」に満ちた楽しい写真が多いような気がします(ヌード写真を街角にかざして、通りがかりの人の反応を撮るといったようなこともやっている)。

 但し、一方で、パリの暗い部分もモチーフにしていて、浮浪者やアル中っぽい感じの人も多く撮っており、これらの哀感が漂う写真も、ある種"攻撃的"なエスプリと言えなくもなく、また、この人が撮る夜の居酒屋など写真には、喧騒と退廃に満ちた何とも言えないシズル感があります。

Robert Doisneau2.jpg 個人的には、この写真集の後半に出てくる、あまりドアノーの代表作として通常は前面に出てこないような、無頼の"マドロス"風の男や(これもモデル?)、公園で力技を披露する"ストロングマン"、サーカスの"軽業師"、ストリップ小屋の"ダンサー"や、肉屋のいかにも"ブッチャー"という感じの親爺さんなどの写真から、何となく、今もパリの片隅で彼らがそうして息づいているような印象を受け(自分自身がタイムスリップしたような感じ)、心に残りました。

 ドアノーのパリ写真集は、この後『パリ遊歩 1932‐1982』('98年/岩波書店)というのが出ていて、大判ではないですが665ページもあり、各ページに大体1葉、キッチリ作品が収められており、量的には圧倒されるとともに、これを見ても、やっぱりこの人の持ち味は「エスプリ」だなあと思わされるものでした。

 その約600葉の写真のほぼ全てに、撮影場所と撮影年が記されているのが親切ですが、ページ数が多い割にはソフトカバー(但し、函入り)、且つ絶版で価格がプレミア価格になっているのがやや難であるといった感じで(ソフトカバーなので何れ入手し易い価格に落ち着く?)、今回は図書館でたまたま見つけることができて幸運でした。

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「●フランスの3大写真家」の インデックッスへ

1930年代の妖しげでしっとりとした夜のパリを"演出"。

やさしいパリ.jpg         ブラッサイ写真集成.jpg   ブラッサイ.jpg Brassai (1899‐1984)
ブラッサイ やさしいパリ』(31.6 x 23.8 x 1.6 cm)['91年]『ブラッサイ写真集成』(32.2 x 25.6 x 4 cm)['05年]

ブラッサイ やさしいパリ.jpgブラッサイ やさしいパリ1.jpg 妖しげな夜のパリの風景を撮って魅力あるブラッサイ―"ブラッサイ"というのは、「ブッブラショブ(トランシルバニア地方の地名)から来た男」という意味で、彼はハンガリー人だったけれども、後にフランスに帰化したとのことでした。

 1930年頃までピカソ、ダリ、ブラックらともに 画家、彫刻家、ジャーナリストとして活躍していたのが、雑誌に書く記事の挿し絵の代わりに経費削減のため写真撮影を開始したというから、面白いものです。

"Brassai Paris: 1899-1984 (Taschen 25th Anniversary Special Editins)" (30.9 x 24.5 x 2.1 cm)['08年]

ブラッサイ写真集成2.jpg 三脚の前に立つ"自写像"からもそのことが窺えるように、構図をキッチリ決め込んで撮るタイプだったらしいですが、でも、この『やさしいパリ』にある写真はスナップっぽいものも結構あるような...。でも、何れも決して隠し撮りやドキュメントではないらしく、最初に彼の撮りたいイメージがあり、 撮影前にモデルらとの雰囲気作りを行なって多くの要素を計算した上で撮っていたとのこと。それでいて、ここまで自然な雰囲気で写真が撮れるのが不思議です(モデルと言っても普通の人なわけだし、子供などもスゴくよく撮れている)。

 昼間の写真もいいけれども、やはり夜の盛り場などアンダーグランドな世界を撮った写真が、しっとりした感じでいいです。なにせ、1930年代のパリですから...。

「プレ・カトラン」の仮面舞踏会 1947年.jpgBrassaï2.jpgBrassaï3.jpg ただ、夜のパリの猥雑なムードを伝える写真群としては、『ブラッサイ写真集成』('00年原著刊行、'05年/岩波書店)などの方が充実しているかもしれません。

 1930年代の夜のパリと言えば、ヘンリー・ミラーとかもいた頃ですが、彼はミラーとも親交があり(異邦人同士で通じ合えた?)、この写真集には、ブラッサイの撮ったミラーの写真や、ミラーがブラッサイに寄せた文章などもあります。その内容が、まさに「天才が天才に感応した」といった感じで、一流の写真(家)評になっています。 

「プレ・カトラン」の仮面舞踏会 1947年

 『ブラッサイ写真集成』の方は、こうした貴重な文書が収められているだけでなく、ブラッサイのデッサンや造形作品も収められていて、写真自体も、ピカソの仕事場などを撮ったものから昆虫や花蕊、結晶などを取った科学写真のようなピカソ、グラン=ゾーギュスタン通り 1939年.jpgものまで幅広く、この写真家の創作領域、モチーフの領域の広さが窺えます(「集成」の趣旨に沿っていて、ブラッサイの全貌を知るにはいいが、写真集としてはやや拡散感も)。

 箱入りの立派な製本ですが、値段も高いので、資料的興味がある人は、書店より先ず図書館で探してみては。

 これと比べると、『やさしいパリ』の方は、ページ数が少ないところへパトリック・モディアーノの詩文が挿入されいたりもして、やや掲載作品数が少ないかなという感じも。彼の詩文を読まなくとも、写真を見ているだけで、充分、叙情的な気分に浸れます。

ピカソ、グラン=ゾーギュスタン通り 1939年

「●自閉症・アスペルガー症候群」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1801】 佐々木 正美/梅永 雄二 『大人のアスペルガー症候群
「●LD・ADHD」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

専門的な内容を含みながらも入手しやすい本。特に小中学校の教育現場の人に読んで欲しい。

発達障害の子どもたち.jpg 『発達障害の子どもたち (講談社現代新書 1922)』 ['07年]

発達障害の豊かな世界.jpg 発達障害の子どもたちの療育に長く関わってきた著者による初めての新書で、最初に出版社から新書を書かないかと誘われたときは、既に発達障害の豊かな世界』('00年/日本評論社)という一般向けの本を上梓しており、また、著者自身の臨床に追われる殺人的なスケジュールのため逡巡したとのことですが、外来臨床で障害児を持つ親と話しているうちに、まだまだ本当に必要な知識が正しく伝わっていないのではないかとの思いを抱き、改めて、「発達障害に対する誤った知識を減らし、どのようにすれば発達障害を抱える子どもたちがより幸福に過ごすことができるようになるのか、正しい知識を紹介する目的」(46p)で本書を書いたとのこと。

 一般書でもあるということで、最新の脳科学的な見地など、読者の知的好奇心に応えるトピックも盛り込まれていますが、メインである発達障害に関する記述(発達障害を、認知全般の遅れである「精神遅滞・境界知能」、社会性の障害である「広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)」、ADHDやLDなどの所謂「軽度発達障害」、そして「子どもの虐待」にもとづく発達障害症候群の4つのグループに分けてそれぞれ解説)については、手抜き無しの密度の濃い内容です(そのため、専門用語に不慣れな初学者にはやや難しい部分もあるかも)。

 中でも、「第4の発達障害」と言われる「虐待による障害」は、著者が最近の臨床を通して注目している点であり、学童を中心とする被虐待児の8割に多動性行動障害が見られたという報告も本書で紹介されていますが、一般的な広汎性発達障害やADHDに比べ、器質的な障害が明確に見られることが多く、また、ADHDの現れ方も異なるため、治療や療育のアプローチも異なってくるなど、対応の難しさが窺えます。

 一方で、実際の小中学校などの教育現場で、こうした児童が学究崩壊を引き起こす原因となっていることも考えられ、純粋なADHDであれば「軽度発達障害」として対応すべきであるし、仮に虐待が原因の"ADHD様態"であれば、家庭環境との相関が高いことが考えられ、これはこれで、単に「躾け問題」として扱うのではなく、「障害」としての知識と対応が必要になるかと思いました(解離性障害などを併発していないか、といったチェックが出来る教師やスクールカウンセラーが、はたしてどれだけいるだろうか)。

 誤った知識から自らが偏見に囚われていることはないか、障害児を持つ親たちがそれをチェックするためにも読んで欲しい本ですが、専門的な内容を含みながらも新書という入手しやすいスタイルで刊行されたわけで、今まで「発達障害」にあまり関心の無かった多くの人にも、特に小中学校の教育現場にいる人に読んでもらいたい本であり、その思いを込めて星5つ。

《読書MEMO》
●(PTSD、フラッシュバックなど)強いトラウマ反応を生じる個人は、(脳機能の器質障害もあるが)もともと扁頭体が小さい。マウスなどの実験により、小さい扁頭体が作られる原因は被虐体験らしいことが現在最も有力な説となっている。(37p)
●注意欠陥多動性障害(ADHD)と広汎性発達障害の一群であるアスペルガー障害との併発は、より重大な問題である「社会性の障害」の方が優先されるため、注意欠陥多動性障害の症状とアスペルガー障害の症状との両者があれば、「多動を伴ったアスペルガー障害」という診断になる。(42p)
●適切な特別支援教育を持ってきちんと就労し、幸福な結婚と子育てが可能になった者と、その逆の道を辿った者とその道のりを見ると、発達障害の適応を決めるものは実は「情緒的なこじれ」であることが見えてくるのではないか。(59p)
●自閉症の認知の特徴...①情報の中の雑音の除去が出来ない ②一般化・概念化という作業が出来ない ③認知対象との間に心理的距離が持てない(79p)
―「遠足の作文を書きましょう」という課題を与えられてパニックに。遠足といっても、どこが遠足なのかわからない(学校に集まって、バスに乗って、バスの中でゲームがあり、目的地について、集会や班ごとの活動があり、弁当を食べて...どこを書けば良いのかわからない)(86-87p)
●あまりに対応に困る多動児は、基盤に「社会性の障害」を抱えている(つまり高機能広汎性発達障害である)ことが多い。(104p)
●子どもの心の問題に対応する専門家として登場したスクールカウンセラーの大半は、当初、発達障害の知識も経験も欠落していて役に立たなかった。(中略)今や学校カウンセラーが機能するか否かは、発達障害への知識と経験を持ち、彼らへの対応ができるか否かによって決まるとまで言われるようになった。(105p)
●今日の日本で、小学校に実際に出かけて低学年の教室を覗くと、(中略)授業中にうろうろと立ち歩いたり、前後の生徒にちょっかいを出したりを繰り返す「多動児」が、4〜5人ぐらいは存在するのが普通である。(129p)
●(被虐待児は)状況によって意識モードの変化が認められる⇒虐待の後遺症としての「解離性障害」(157p)

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読者に虐待問題をケーススタディ的に考えさせるものとなっている。

ルポ 児童虐待.jpg 『ルポ 児童虐待 (朝日新書 122)』 ['08年]

 朝日新聞大阪本社編集局の虐待問題取材班による新聞連載を新書に纏めたもので、幼児、児童に対する身体的虐待、精神的虐待、ネグレクト(性的虐待はまた異なる問題を孕んでいるとして、本書では扱っていない)を、虐待事件の事例及び周辺関係者について取材していますが、事件の背景にある家庭環境や児童相談所の現況(人手不足!)だけでなく、虐待児童を預かる「児童養護施設」や虐待児童を育てる里親、そうした子を生徒に持った教師、虐待の連鎖を断ち切ろうとする人たちの支援組織や、この問題に力を入れている医療機関にまで取り上げていて、その取材範囲は広く及んでいます。
 こうした連載を新書に取り纏めると、通常はどうしても"ぶつ切り"感を伴うものになりがちですが、本書では、冒頭1つの虐待事例に50ページもの紙数を割くなどして、読者に虐待問題をケーススタディ的にじっくり考えさせるものとなっているように思えました。

 それにしても、冒頭の事例は深刻。
 読み進むうちに、虐待をした母親が子ども時代に虐待を受けていたことが明らかになり、「ああ、またアダルト・チルドレンか」と、最初はややゲンナリもさせられました。
 個人的には、母親の幼児期の被虐体験に重きを置き過ぎることにはあまり同調しかねるのですが、それは、被虐体験のある人は親にはなれないというような理屈になりかねない気もするからであり、一方で、幼児期の被虐体験を乗り越えて社会に一歩を踏み出した若者などのことも本書後半で紹介されていることなどから見ても、結局、本人次第であって、子どもを死なせたりすれば、一般の過失致死や殺人と同等に扱うべきではないかと...。

 しかし、本書のこの事例の母親の場合、子どもを虐待している時の記憶自体が飛んでしまっているようで、ある種、解離性障害を呈していると言えますが(本書後半にも、虐待を受け、「四重人格」状態となった子どもの例が出てくる)、こうなると、責任能力をどこまで問えるか。
殺さないで 児童虐待という犯罪.jpg 子どもが泣き叫ぶなどのストレス刺激で瞬時に別人格になって子どもに暴行をふるい、その後は何事もなかったかのように穏健な態度に戻る...ちょっと何か取ろうとして手を伸ばしたら、子どもが思わず防御姿勢をとるのを見て、初めて、子どもが自分の暴力を恐れていることに気づくといった例も。
 
 以前に読んだ毎日新聞の児童虐待取材班の『殺さないで-児童虐待という犯罪』('02年)では、児童虐待は犯罪であるという立場で貫かれているルポであり、個人的には取材班のその姿勢に共感しましたが、本書は事実のルポルタージュに徹し、判断や問題点については読者に考えさせるかたちをとっているように思えました。

児童虐待 現場からの提言.gif 児童相談所の抱える問題などは、本の最後の座談会で、弁護士の岩城正光氏や元児童相談所相談員の津崎哲郎氏が、警察や司法の関わりを強化することを訴えていますが、正論だと思います。
 既に川崎二三彦氏が、『児童虐待―現場からの提言』('06年/岩波新書)の中で、司法(家裁)や警察が問題に立ち入りたがらない傾向にあるため、児童相談所が、「福祉警察」的な役割と「カウンセリング・支援」的な役割という、相反する役割を一手に担わなければならなくなっていることを明確に指摘しており、人手不足の問題もさることながら、こっちの方が本質的な問題ではないかと思われます。

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全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているのだが...。

ケータイ世界の子どもたち.jpg
ケータイ世界の子どもたち21.jpg

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944) 』['08年]

魔法のiらんど.jpg 今は小学生ぐらいから "ケータイ・デビュー"することがごく普通になってきていますが、親が日常で使っているのを見れば、子どもも自然とそうなるのでしょう。中学生などは、自宅からでも置き電話を使わず、メールで友だちと連絡を取り合うことが普通みたいだし...。つまり彼らは、電話としてよりも、メールやゲームでケータイを使用しているわけですが、本書を読んで、小中学生にとってケータイの世界が、かなりウェイトが大きいものになっているということがわかりました。本書で「人気ベスト3」として紹介されている、「モバゲータウン」や「プロフ」、多くの"ケータイ小説"を生んでいる「魔法のiらんど」など、それぞれに凄い数の利用者がいるわけです。

 著者が本書執筆中の'08年3月に、千葉県柏市で「プロフ」の書き込みを巡って中学生同士の殺人未遂事件があり、本書刊行とほぼ同時期の'08年5月には、政府の「教育再生懇談会」が、「小中学生の携帯電話使用に関して何らかの使用制限をするべき」との提言を出していて、著者も、文科省の「ネット安全安心全国推進会議」とかいうものの委員であるらしい。

 本書でも、ケータイが犯罪に使われた例をあげ、子どものコミュニケーション能力の伸長に支障をきたす原因となっているような論調が見られたので、最後に、「だから、子どもにケータイを持たせるのはやめましょう」と訴える、その系の"御用学者"かなとも思いましたが、読み終えてみると必ずしもそうでもなかったみたい。

 地域で行われている子どもたちのケータイの利用を抑制する運動なども紹介していますが、どちらかと言うと著者自身は、親には、子どもにケータイを持たせる際に、危険性もあることの注意を促し、濫用させないようにする約束事を定めるのがよいとし、行政や企業にはフィルタリングの徹底を求め、全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているといった感じでしょうか。

 但し、現代の教育やしつけの問題への言及が拡がり過ぎて(著者の専門は教育学)、それら全てをケータイを起点にして論じるのはちょっと強引に感じられ、それでも言っていることはまあまあ正論なのかも知れませんが、「教育テレビ」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこない。「モバゲー」を問題ありとする一方で、やたら「魔法のiらんど」の肩を持っているように思われる点も、少し気になりました。

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考察は深いが、"オーバー・ゼネラリゼーション"が目立つ。哲学エッセイ的要素も。

「痴呆老人」は何を見ているか.jpg 『「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)』 ['08年] 大井 玄.jpg 大井 玄 氏

 「痴呆」というものがどういったものであるかを、「周辺症状」と「純粋症状」がごっちゃになっている世間の偏見を正して改めて定義・解説していて(「認知症」という言葉が用語として不完全であるため、「痴呆」という言葉を敢えて用いたというのもよくわかった)、「周辺症状」が取り沙汰される程度に差が生じる背景には「文化差」があるとの指摘からの、欧米における延命治療拒否の背景に「自立性尊重」の倫理意識があるという話への流れは、終末医療の在り方への1つの問題提起となっているように思えました(日本の文化的・倫理的土壌では延命治療をしないことはなかなか難しいだろうけれど)。

 また、「痴呆」状態にある老人を通して、「私」とは何か?「世界」とは何か?という著者自身の考察がなされていて、それはそれで深いものであり、但し、我々は皆多かれ少なかれ「痴呆」であるという見方(この見方そのものはわからないでもないが)から、論の運び方がややオーバー・ゼネラリゼーションが目立ったように思えました。
 ブッシュ大統領の9.11テロ後の「我々の味方でない者は全て敵」的な態度が、パニック状態に陥った認知症の老人と同じであるとか。この本って、社会批評本?だったの、という感じ。

 本書にある、医師として「痴呆」老人と真摯に向き合った体験は重いけれども、そこからの哲学的考察は主観的なものであり、科学との結びつけにおいても、例えば、「痴呆」老人と外部環境の関わりを、ゾウリムシの繊毛による食物獲得反応に擬えて、ゾウリムシも「痴呆」老人も(多かれ少なかれ我々も)主観により「世界を構築している」としていますが、ゾウリムシの「主観」と一緒にされたのでは...。

 結構、Amazon.com.などでも評価の高かった本ではないかと思いますが、個人的には、こうした医療体験の話や医学知識の部分と哲学(非科学?)や社会批評との間を、"オーバー・ゼネラリゼーション"(過剰な普遍化作用)により行き来するのが自分にとって相性が悪く、頷ける部分も多々あったものの、全体的には最後まで読みづらさが抜けませんでした。

 著者は、東大医学部からハーバード大に渡り、その後、東大医学部教授、国立環境研究所所長を務め、その間、臨床医の立場を維持しながら国際保健、地域医療、終末期医療に携わってきたこの分野の大ベテランであり権威でもある人。
 前著『痴呆の哲学』('04年/弘文堂)を平易にし、新たな視点をも加えたものとのことですが、思い出話的な語り口もあって、「東大退官記念」エッセイみたいな感じも。

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