2008年7月 Archives

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アラブ入門書としても読めるが、観光立国を目指す「CEO」的首長や「投資家」王子の存在が興味深い。

アラブの大富豪.jpg 『アラブの大富豪 (新潮新書 251)』 ['08年] ドバイ政府観光.jpg(写真提供)ドバイ政府観光商務局 http://dubaitourism.ae/japan  

 著者はアラビア石油に勤務し、サウジアラビアに長く駐在していた人で、ジェトロのリヤド事務所長を務めた経歴もあり、アラ石を定年退職後に始めたアラブ関係のブログが契機で、経済誌の取材を受けたりし、新潮社から誘いを受け本書の慣行に至ったとのこと。

 サウジアラビアの王家の歴史や政商のルーツ、アラブ人の宗教観とビジネスの関係、今回の産油国の「オイル・ブーム」の特徴や「オイル・マネー」を巡る諸国の動き、更には、石油は枯渇しないのか、なぜ湾岸諸国の多くが旧態の王制ながら政情が比較的安定しているのか、といったことまで書かれていて、コンパクトなアラブ入門書としても読めますが、面白かったのはやはり、特定の「大富豪」に絞って解説した第2章と第3章でした。 

"The Infinity Tower"(330m)-Duabi/'Palm island' - Dubai/'Burj Dubai'(800m)
The Infinity Tower - Duabi.jpgPalm island Dubai.jpg'Burj Dubai'.jpg 第2章では、UAEの1つ、ドバイのムハンマド首長に焦点を当てていて、既に「NHKスペシャル」などでも特集されたりして、「ヤシの木リゾート」や世界一の高層ビル「ブルジュ・ドバイ」をはじめとする建設ラッシュなど、ドバイの観光開発やビジネス投資が凄いことになっているのは知っていましたが、これを牽引しているのが「ドバイ株式会社のCEO」と言われる彼であるとのことで、なかなかのやり手だなあと。
 日本でも、ドバイのことを「世界中のセレブが集う夢のリゾート」と謳った観光ガイドブックが見られるようになった一方で、峯山政宏氏の『地獄のドバイ』('08年/彩図社)などという本も刊行されており、「光」の部分だけではなく、観光立国を目指す裏には「闇」の部分もあると思いますが、それはともかく、個人的には、王族の兄弟が世界各地のリゾートで放蕩し、また競馬やギャンブルで莫大な散財をしたことが、リゾート計画の立案や投機ビジネスに生かされているというのが、ちょっと面白いと思いました。

'The Kingdom Tower' (302 m)-Riyadh
The Kingdom Tower.jpg 第3章では、サウジアラビアのアルワリード王子にスポットを当て、こちらは、王族には珍しい起業家タイプで、米国のウォーレン・バフェット並みの投資家であり(実際、「アラビアのバフェット」と呼ばれている)、世界有数の大富豪でもあるとのこと。彼の率いるキングダム・ホールディングのリャドにある本拠地「キングダム・タワー」は、投資家の憧れの地みたいになっているようです。
 個人的には、彼が起業家を目指した経緯が、王家の傍流にいて、当初は父親が国王になる見込みが無かったためというのも、これまたちょっと面白い(やはり、人間どこかハングリーなところがないと、伸びないのか)。

 著者によれば、こうしたアラブ諸国は、支配者である国王が膨大な冨を国民に分配することを役割としている「レンティア(金利生活)国家」であり、額に汗流して働かなくとも(それでいて、税金は無く、医療や義務教育も無料)国民全体が生活できるというもので、著者自身は王国の将来について、近未来の範囲では楽観的に捉えているようですが、う〜ん、どうなんだろう。本書で取り上げられているUAE各国やカタルなど、人口が小さい国では、そうかも知れないなあ(使い切れずに余ったオイル・マネーはどこに流れているのか、不思議)。

 世界の長者番付に出てこない「大富豪」も沢山いるようで、オイル・マネー潤沢の王族企業は不特定多数の個人や法人から資金を調達する必要がないため、株式上場もしなければ、財務諸表も開示していないとのこと。ビル・ゲイツの資産は殆どマイクロソフト社の彼自身の保有株の時価総額が占めているわけですが、確かにアラブの大富豪王族だと、非公開企業のオーナーである彼らの保有資産額はわからない...。

「ブルジュ・ドバイ」と世界の高層ビルの高さ比べ http://v4vikram.blogspot.com  "Al Burj "(1050m=計画中)-Duabi
Al Burj.jpg「ブルジュ・ドバイ」と世界の高層ビルの高さ比べ.gif 
 
 
 
 

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著者の本でジュニア向けで1冊と言えば、今('08年)はこれか。

宇宙はきらめく.jpg 『宇宙はきらめく カラー版 (岩波ジュニア新書 579)』 ['07年] 見えてきた宇宙の神秘.jpg カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産.jpg見えてきた宇宙の神秘』['99年/草思社]/ 『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産 (岩波新書)』〔'04年〕

わし星雲M16(へび座)「象の鼻」.jpg 天体写真に解説文章を添えた野本陽代氏の本は、最初、単行本(『見えてきた宇宙の神秘』('99年/草思社)など)からはいって、その後、岩波新書の「カラー版ハッブル望遠鏡が見た宇宙」シリーズの3冊を読みましたが、ハッブル宇宙望遠鏡が映した天体写真などは、最近ではかなりインターネット上のウェブサイトでも見ることができるようになりました。

わし星雲M16(へび座)の「象の鼻」(本書第3章「夏は天の川」より)

 ただ、美しい天体写真もさることながら、この人の解説のわかり易さはピカイチであると個人的には思っていて(全くの素人でも読める)、今回は「岩波ジュニア新書」ですが、特に今までと文調を変えておらず、要するに、元々、大多数の人が読んですんなり頭に入る書き方がされていたということの証しかもしれないと思いました。

 特に今回工夫しているのは構成の方で、四季に合わせて章立てし、章の頭に季節ごとの全天恒星図をもってきて、写真との連関を番号で示しており、実際の天体観望に役立つものとなっています。

超新星残骸N 63A(大マゼラン星雲).jpg ハッブル宇宙望遠鏡による星や星雲の写真がメインであるという点では、岩波新書のカラー版シリーズの第3冊『ハッブル望遠鏡の宇宙遺産』('04年)に内容的には最も近いかも知れませんが、こちらは太陽系まで含まれていて、(単行本の版元も潰れたりしているので)今、ジュニア向けで1冊買うとするならば、本書がお薦めと言えるのではないでしょうか、天文ファンの中にも、本書を薦める人は多いようです。

 俗事にかまける日々ですが、時に悠久の宇宙に思いを馳せるのもいいのでは。
 
超新星残骸N63A (大マゼラン星雲)(本書第5章「南天はマゼラン雲」より)

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全編カラーのマンガでわかり易く解説。写真も豊富で、且つコンパクトな点がいい。

宇宙に行くニャ!.jpg 『カラー版 宇宙に行くニャ! (岩波ジュニア新書)』 ['06年]

 何だかふざけたようなタイトルですが、これ、意外とアタリで、親子で楽しめるものになっています(子供の方は小学校高学年または中学生以上向けといったところか)。

 "全頁フルカラー"マンガで、「物知りネコ」のビーフンと、「面白いけどなぜ?」のタンメンの2匹の猫クンの「宇宙への旅」の話ですが、かけあい漫才のような両者(両猫)のやりとりが楽しいばかりでなく(ギャーギャー少しうるさくもあるが、これはまあ賑やかしということで)、説明が大変わかり易いです。

野菜ロケット.jpg 最初の「彗星」に関する説明などは、自分も初めて知ることも多く、日食や月食の起きる仕組みからロケットが飛ぶ原理やその構造まで、色々と宇宙に関する下調べも丹念で(宇宙飛行士が打ち上げと帰還のときだけ橙色の宇宙服を着るのはなぜか、なんてことも初めて知った)、また、擂りおろしニンジンとオキシドールで飛ばす「野菜ロケット」などといった簡単な科学実験の方法まで書いてあり、「自由研究」のテキスト的要素もあります。

 野菜ロケット(from JAXAクラブ)

 いざ宇宙に飛び出してからも、宇宙服を着ないで宇宙に出たらどうなるかといった素朴な疑問に丁寧に答えるなどしていて、一瞬にして血液が沸騰し、数秒から10秒ぐらいでミイラのような状態になる-という回答はちょっと怖いけれども、試した人がいないので「と考えられている」だけであるとフォローしているのは、確かにそうだなあと。

 いっぱい色んなことを説明し、間にギャグも入るため、2匹の猫クンの宇宙旅行の方は、月に行った後は、火星と土星と冥王星に行っておしまい、「残りページが少ないのギャ」ということで、この辺りの大雑把さ、いい加減さも一見「岩波」らしくないけれど、新書でコンパクトに纏めるということを主眼にしたのでしょう。

 所謂"学習マンガ"の類ということになるのかも知れませんが、携帯に便利なのが良く、また、コンパクトながらも写真が充実していて、コマのバックに天体写真を用いている箇所が数多くあり、その写真がどれも美しい。

 彗星や流星雨、火星の表面や水をたたえたクレーター、土星や地球のオーロラの写真には引き込まれるものがあり、本全体として、図書館によく置いてあるような一般的な"学習マンガ"に比べると、紙質も良く、構成もかなり垢抜けていると言えるのでは。

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新書版だが、「恒星宇宙」にテーマを絞っているため、「わかり易くて専門的」といった感じ。

恒星宇宙99の謎5.jpg恒星宇宙99の謎6.jpg
衝突する宇宙.jpg
『恒星宇宙99の謎―天文学最前線からのレポート』['77年/サンポウ・ブックス]/『衝突する宇宙』 レッド・ホイル(鈴木敬信訳)['51年]
東日本初のプラネタリウム・有楽町の東日天文館(毎日天文館)で解説する鈴木敬信(33歳)(1938年)(東京日日新聞)
鈴木敬信.jpg
 産報ジャーナルというところから刊行されていた「サンポウ・ブックス」は、「歴史と文明シリーズ」と「自然科学シリーズ」がありましたが、とりわけ"古代文明"と"宇宙"が「強かった」のではないでしょうか。

鈴木敬信2.jpg 本書は後者の1冊で、当時の天文学の権威で、フレッド・ホイルの日本への紹介やイマヌエル・ヴェリコフスキー『衝突する宇宙』の翻訳('51年)などでも知られる鈴木敬信(すずき・けいしん、1905-1993/享年87)が、一般読者向けに書き下ろしたものです(上の写真当時は東京科学博物館理学部主任。後に、海軍水路部技師などを経て東京学芸大名誉教授)。多くの入門書を著し、児童向けの科学書などの監修もしている著者ですが、本書に関して言えば、テーマを「恒星宇宙」に絞っているため、入門書でありながらかなり専門的なことも書かれています。

ダークマター.jpg 見開き各1問のQ&A形式で、「美しい星座はいつ崩れるか」「太陽にはどんな未来があるか」「光の墓場、ブラックールとは何か」「月より小さな中性子星とは何か」「宇宙の黒幕、暗黒星雲とは何か」「天の窓、散光星雲とは何か」「宇宙はどこへ膨張していくか」といった問いに、読者の興味を引くようにわかり易く、且つ詳しく解説がされています(この頃こうした本は1ページあたりの字数が多いような気がする。最近の新書は字がスカスカのものが目立つ)。

衝突する銀河団 (NASA)

「恒星宇宙99の謎」鈴木敬信.jpg 「天文学最前線からのレポート」と副題にありますが、'77年の刊行ですので、本自体は古書の類となるものです(Amazonのマーケット・プレイスでも、『衝突する宇宙』は扱っているが、本書は扱っていないみたい。但し、個人的には思い入れがある本)。

 '60年に発見されたクエーサー(表記は"クアサール"になっているが、「"クエーサー"と発音する人もいる」と書いてある)や、'67年に発見されたパルサー(これ、女子学生が発見した)などについても、かなり専門的なことまで書かれていて、超新星爆発の際に残った中性子星がパルサーの正体であることはこの頃にはわかっていたわけですが、X線パルサーが連星系の中で生まれることを図入りで詳説していたりし、わかり易くて専門的といった感じでしょうか。

 興味深いのは、「生命を宿す惑星をもつ星はどれだけあるか」という問いを設け、銀河系の星を3千億個、その内、高熱の青白色、白色、淡黄色の星を除いて太陽のような黄色〜赤色の星に限り、かつ重力の安定しない連星を除くと1千億、更に、恒星の温度と惑星の恒星からの距離において、生命許容空間に惑星を有する可能性のある恒星は2百億、更に、哺乳動物のような高等生命を宿す惑星を有する恒星の数を「20億ぐらい」と試算していることで、よく言われる「ドレークの公式」(この式も「全宇宙」ではなく「銀河系」を対象としている)と途中までの考え方は大体同じだけれど、生物進化や文明盛衰の所要時間の概念が入っていないせいか、"哺乳動物のような高等生命"との限定付きで考えた場合には、ちょっとこの数字は多過ぎるような気もしました。

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素材が"ごちゃまぜ"で、結果として、読後感の薄いものに...。

もしもあなたが猫だったら?.jpg 『もしもあなたが猫だったら?―「思考実験」が判断力をみがく (中公新書 1924)』 ['07年]

 同著者の『99・9%は仮説』('06年/光文社新書)が結構売れたのは、光文社ならではのタイトルの付け方の妙もあったかと思いますが、言っていることは割合まともで、実のところ、ある種の「科学エッセイ」に過ぎないと捉えたのですが、本書は、「思考実験」ということをテーマにしながらも、よりエッセイっぽくなっている感じがしました。

 学術的ないしマニアックな傾向にある「中公新書」にしては、まるで「岩波ジュニア新書」のような語り口で(文字も少し大きい)、この辺りから出版社サイドの「2匹目のドジョウ」狙いの意図が窺えなくもないのですが、読んでいくうちに、結構、著者の専門領域である物理学のテクニカル・タームも出てきて、ああ、やはり「中公新書」かと...。

 要するに、1週7日間に区切った構成で、後にいくほどレベルを上げているのでした(第6日に"マックスウェルの悪魔"、第7日に"アインシュタインの相対性理論"を取り上げている)。

 但し、間々に科学哲学的な話がエッセイ風に挿入され、それはそれで楽しいのですが、取り上げられている「思考実験」が、「重力がニュートンの逆二乗則からズレると宇宙はどうなるか?」「なぜ、この宇宙は、"6つの魔法数"がすべてうまく微調整されているのか?」といった物理学寄りのものと、「現代日本で親子を分離して教育したらどうなるだろうか?」「プラトンと共産主義が似ているのはなぜだろうか?」といった社会科学や哲学寄りのものが混在しているのが、ちょっと自分の肌には合いませんでした(単体では、それなりに面白い部分もありましたが)。

 こうしたテーマの並存(と言うか"ごちゃまぜ")は、前著『99・9%は仮説』でも見られたもので、著者の頭の中ではキチンと繋がっているのだろうけれども、自分自身は頭が硬いせいもあるのかも知れませんが、全体に統一がとれていないように思えてしまい、結果として、読後感も薄いものにならざるを得ませんでした。

 著者の書いたものや対談集は『99・9%は仮説』以前にも読んだことがあり、個人的には好みのサイエンス作家。ベストセラーの後に量産体制に入って、そのために1冊当たりの密度が落ちるということは、ファンとしては避けて欲しいものです。

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とりあげている「仮説」のレベルにムラがある。科学エッセイに近い「啓蒙書」?

99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方.png 『99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』 ['06年]

 自然科学においては、「法則」という名のものも含め、究極的には全てが仮説であるということはむしろ当たり前であって、「科学は全部『仮説にすぎない』」という本書は、特に新たなことを唱えているわけではなく、科学的理論というものが「仮説である」と認識するところに科学的思考の鍵があるということを言いたかったのではないでしょうか、そうした意味では、本書の趣意は「啓蒙」にあるように思えました。

 但し、著者の「白い仮説、黒い仮説」という表現にもあるように、仮説が実験や観察などにより事実との合致を検証され続けていくと、次第により正しい自然科学法則として認められるようになっていくわけであり、何でもかんでも相対化すればいいというものではなく、その中で、より客観的に確かなものをベースに、それを数学における「命題」や「定理」のように考え、次の理論段階へ進むことが、科学的進化の道筋であるということなのだと思います。

 冒頭の「飛行機がなぜ飛ぶのかまだよく理解されていない」という話は、掴みとしては大変面白いし、「仮説」がすぐに覆ることもあるというのはわかりますが(反証可能だからこそ「仮説」なのである)、「仮説」が覆る可能性がある例として「冥王星は惑星なのか」という問題をもってきていることには、少し違和感がありました(実際、本書にあるIAU国際天文連合の「冥王星が惑星から降格されることはない」という声明は、本書刊行の半年後に、IAU自体がこれを覆して、冥王星を「準惑星」に降格したのであり、時期的にはドンピシャリの話題ではあったが)。

 これって、天文学の話というより、天文学会の中の話であるように思え、それまでにも、仮説が覆った例として「絶対に潰れないと思われた山一證券があという間に潰れた」などといった例を挙げていて、この話と、冥王星の話と、例えば最後にあるアインシュタインの相対性理論も「仮説」に過ぎないという話は、同じ「仮説」でも、その意味合いのレベルが異なるように思えました。

 サブタイトルから、何かビジネスに役立つ思考に繋がる「啓蒙書」かと思って買った人もいるかも知れませんが、どちらかというと、一般の人に科学に関心を持ってもらうための科学エッセイに近い「啓蒙書」という気がしました。

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利権グループの代表としての中国の政治家たち。旧勢力は簡単には死なず。

「中国問題」の内幕.jpg 『「中国問題」の内幕 (ちくま新書 706)』['08年] ポスト胡錦涛.jpg from NHK

 日本の政治家が外交面の交渉力に劣るのは、国内での政治抗争などエネルギーが内向きに働いているためで、そのために中国の政治家のように外交面ではしたたかさを持ち得ないなどといった見方がありますが、本書を読むと、中国の政治家の方が、まるで「十八史略」の続きのような壮絶な権力抗争を続けていて、その上で外交面においてもしたたかさを発揮していることがわかり、その凄まじいエネルギーに改めて感服させられます。

温家宝.jpg 本書は、東京新聞のベテラン記者(元中国総局長)が、主に'05年からから2年余りの中国の時事問題を追ったもので、'06年以降に記事として発表したものを新書に纏めたものですが、対象時期は限定的であるものの、中国の政局の動向を通して、政治家の問題、外交問題、国内問題の本質がそれぞれに浮かび上がるようになっていると思われました。
温家宝

胡錦濤.jpg 冒頭、'07年4月に訪日した温家宝・首相の、国会演説の原稿にあった部分をわざと(?)読み飛ばしてジョークにすり替えるなどしたパーフォーマンスに潜む真意を通して、その政治的したたかさを解明していますが、本書の「主人公」は、中国№1の権力者である胡錦濤・国家主席であり、胡錦濤が前任者・江沢民の一派をいかに弱体化させるか、その腐心の過程を描いているようにも思えました。
胡錦濤

 中国には、胡錦濤の出身母体である「共産主義青年団(共青団)グループ」と、江沢民勢力の残滓であるが経済面で強い影響力を持つ「上海グループ」(上海閥)があり、更に、共産党の長老とその師弟を中心とした「太子党」も依然国の有力な地位を占めていて、収賄や汚職など"腐敗度"のひどい順で言うと、「太子党>上海閥>共青団」となるようですが、要するに、中国の政治家というのは、特定の利益団体の代表であり、新任者が前任者の腐敗を暴き、権力の座からグループごと放逐するということが繰り返され、また、各グループは権力の中枢に自らの代表を送り込むべく、常に虎視眈々と機を窺っているのだなあと。

 そうした政治家の権力争いと平行して、国内には「格差問題」などがあり(内地では依然「人身売買」が横行していて「奴隷制度」があるとの言われ方もしているとのこと)、更に、外交では、「歴史問題」「台湾問題」などがありますが、本書を読むと、日本に対する「歴史問題」は"外交カード"としての要素もあり(確かに江沢民は日本首相の靖国参拝問題などに執着したが、それが国内からの批判を受ける要因にもなった)、中国が本当に固執しているのは「台湾問題」(更には「チベット問題」)であるように思えました。

江沢民.jpg 元々は、あの鄧小平が、「自分の次は江沢民、その次は胡錦濤」と指名したのが現在に至っているわけで、江沢民が胡錦濤への権力移譲を渋ったのも、自分が胡錦濤を選んだわけではないからですが(「上海閥」から「共青団」への権力移行になってしまう)、但し、彼は既に「歴史問題」で求心力を失っていた―。
江沢民

習近平李克強合傳.jpg習近平.jpg習近平夫人の彭麗媛.jpg では、今や胡錦濤の天下かと言うと、'07年10月の中全会(全人代の事前党大会)で、自らが後継に推す"改革派"の李克強より上位に「太子党」を母体とする"既得利益擁護派"の習近平(清華大学卒の理系エリートで、夫人は軍所属の有名歌手・彭麗媛)をもってこざるを得なくなっている―(議会に投票制を採用した結果でもあるが)、本当に、この国の"旧勢力"というのはシブトイ。
習近平と夫人の彭麗媛

 本書はここまでですが、その後、'08年3月にチベット暴動が起き(胡錦濤は'89年のチベット暴動の時にチベットの党書記をしており、武力鎮圧した事で昇進した)、5月には胡錦濤自身が来日して「友好」をアピール、それから1週間もしないうちに四川大地震が起きるなど、中国情勢は目まぐるしい...。
 

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文化大革命以降、意外な日本映画が中国で大反響。その背景を分析。

中国10億人の日本映画熱愛史2.jpg君よ憤怒の河を渉れ 高倉・原田 2.jpg 君よ憤怒の河を渉れ (1976年3.jpg
君よ憤怒の河を渉れ [DVD]」('76年)高倉健・原田芳雄/中野良子・大滝秀治
中国10億人の日本映画熱愛史-高倉健、山口百恵からキムタク、アニメまで』['06年] 

追捕.jpg君よ憤怒の河を渉れ.jpg 文化大革命以降の中国国内における日本映画の歴史を解説したもので、何よりも、文革直後に中国で公開された数少ない映画が、中国の一般の人々や映画人に与えた影響が絶大なものであったことを本書で知りました。その代表というのが、今は日本では殆ど顧みられることのない作品「君よ憤怒の河を渉れ」('76年/製作:大映、配給:松竹)で、西村寿行の原作を佐藤純彌が監督したこの作品は、'78年に中国で「追捕」というタイトルで公開されるや大反響を呼び、中国人の約80%以上が観たということで(スゴイ!)、主演の高倉健、中野良子は今でも中国で人気があるそうです。

サンダカン八番娼館 望郷.jpg これに続いたのが、山崎朋子の原作を熊井啓が監督した「サンダカン八番娼館・望郷」('74年製作)で、主演の栗原小巻の中国での人気は今でも高いそうですが、その後も「愛と死」('71年/中村登監督)、「人間の証明」('77年/佐藤純彌監督)、「砂の器」('74年/野村芳太郎監督)などが中国に輸入され、高い人気を博したとのこと(「愛と死」を80年代に日本人が観れば、既にノスタルジーの対象であったものが、当時の中国人にはオシャレに見えた。この点が、今の日本の"韓流ブーム"とは異なるところ)。

 本書では、中国に輸入された日本映画とその影響を、「第5世代」と呼ばれる中国の新映画人の台頭など国産映画の動向と併せて解説し、何故それら日本映画が中国の人々に受け入れられたのかを分析していて、先に挙げたものは、中国に輸入された日本映画の初期のものに過ぎないのですが、とりわけ反響が絶大であっただけに、その「ウケた理由」には自ずと興味が持たれます(こうしてみると、芸術性はあまり関係ないなあ)。

山口百恵 赤い疑惑.jpg 中国における高倉健の人気は、ハリウッドスターを含めた海外映画俳優の中で今でもトップという圧倒的なものだそうですが、女優で最大人気は、'84年から中国で放映されたTVドラマ「赤い疑惑」シリーズの山口百恵だそうで、殆どカリスマのような存在。

コン・リー.jpg 大物女優の鞏俐(コン・リー)なども、中国が本当にオリジナルな芸術性を持った作品を作り始めた第五世代の代表的監督・張芸謀(チャン・イーモウ)の初期作品「紅いコーリャン」('87年)に出演した頃は、中国国内で「中国の山口百恵」と言われているという話を聞いた覚えがあります(本書によれば、その後すぐに彼女はそのイメージから脱却したそうだが、スピルバーグがプロデュースした「SAYURI」('05年)に、チャン・ツィイーと共に日本人女性役で出ているというのが興味深い。本来は日本人がやる役だけれど、ハリウッド進出は中国女優の方が既に先行している)。

 著者は映画芸術論を専門とする中国人の学者で('94年以降、日本在住)、本書は初めから日本語で書かれたもの。知らないことだらけで興味深く読めたけれど、1行当たりの"漢字含有率"がどうしても高くなってしまうのは、本の内容上、仕方がないことなのか。

君よ憤怒の河を渉れ poster.jpg君よ憤怒の河を渉れ 高倉・原田.jpg 冒頭で掲げた「君よ憤怒の河を渉れ」は(原作は「ふんぬ」だが映画タイトルには「ふんど」のルビがある。因みに監督の佐藤純彌は東大文学部卒)、高倉健の東映退社後の第一作目(当時45歳)で、高倉健が演じるのは、政界黒幕事件を追ううちに無実の罪を着せられ警察に追われる立場になる東京地検検事・杜丘冬人(上君よ憤怒の河を渉れ 池部s.jpg司の伊藤検事正を池部良が演じている)。原田芳雄が演じる彼を追う警視庁の矢村警部との間で、次第に友情のようなものが芽生えてくるのがポイントで、最後は2人で黒幕を追い詰め、銃弾を撃ち込むという任侠映画っぽい結末でした(検事と警官で悪を裁いてしまうという無茶苦茶ぶりだが、その分カタルシス効果はあったか)。健さんは逃亡過程においては、馬を駆ったりセスナ機を操縦したりと007並みの活躍で、その間、中野良子や倍賞美津子に助けられるという盛り沢山な内容です。

Kimi yo fundo no kawa wo watare (1976)
Kimi yo fundo no kawa wo watare (1976) .jpg君よ憤怒の河を渡れ  .jpg そこそこ面白いのですが、B級と言えばB級で、なぜこの映画が中国で受けたのか不思議というのはあります。中国人の約80%以上が観たというのが大袈裟だとして、たとえそれが30%であったとしても、最も多くの人が観た日本映画ということになるのではないでしょうか。張藝謀(チャン・イーモウ)監督のように、この映画を観て高倉健に恋い焦がれ、その想いがコラボ的に高倉健が主演することになった「単騎、千里を走る。」('05年)に結実したということもあります。やっぱり、中国で文革後に実質初めて公開された日本映画という、そのタイミングが大きかったのでしょう。今観ると、意外と2時間半の長尺を飽きさせずに見せ、また70年代テイスト満載の映画でもあり、その部分を加味して星半個オマケしておきます。
君よ憤怒の河を渉れ 大和田.jpg 君よ憤怒の河を渉れ nakano.jpg
大和田伸也/高倉健/原田芳雄                 高倉健/中野良子
君よ憤怒の河を渉れsp.jpg「君よ憤怒の河を渉れ」1.jpg「君よ憤怒の河を渉れ」●制作年:1976年●監督:佐藤純彌●製作:永田雅一●脚本:田坂啓/佐藤純彌●撮影:小林節雄●音楽:青山八郎●原作:西村寿行「君よ憤怒の河を渉れ」●時間:151分●出君よ憤怒の河を渉れ-s.jpg君よ憤怒の河を渉れ 倍賞.jpg演:高倉健/原田芳雄/池部良/大滝秀治/中野良子/倍賞美津子/岡田英次/西村晃/田中邦衛/伊佐山ひろ子/内藤武敏君よ憤怒の河を渉れ s.jpg君よ憤怒の河を渉れ 大滝秀治s.jpg君よ憤怒の河を渉れ サントラ.jpg/大和田伸也/下川辰平/夏木章/石山雄大/松山新一/木島進介/久富惟晴/神田隆/吉田義夫/木島一郎/浜田晃/岩崎信忠/姿鉄太郎/沢美鶴/田畑善彦/青岡田英次 君よ憤怒の河を渉れ.jpg木卓司/田村貫/里木佐甫良/阿藤海(阿藤快)/松山新一/小島ナナ/中田勉、/飛田喜佐夫/細井雅夫/千田隼生/宮本高志/本田悠美子●公開:1976/02●配給:松竹 (評価:★★★☆)

岡田英次(主人公・杜丘を自殺させようとする医師・堂塔)
君よ憤怒の河を渉れ 池部3.jpg池部良(杜丘の上司・伊藤検事正)/原田芳雄/高倉健

《読書MEMO》
君よ憤怒の河を渉れ415.jpg

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「エコノミック・アニマル」の本来の意味には、素直に「へぇ〜」だったが...。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった.jpg 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)』 ['04年]

 一般に日本人を否定的に捉えたものとされる「日本人は12歳の少年」(マッカーサー元帥)、「エコノミック・アニマル」(ブット外相)、「ウサギ小屋」(EC報告書)といった表現の真意はどこにあったかを探り、それが必ずしも日本人の意識やその暮らしぶりを否定的に捉えたものではなかったことを明かした前段(1・2章)部分が、裏づけ調査も綿密で、インパクトもありました。

 マッカーサーの言葉は、同じ敗戦国ドイツとの対比において、民主主義の歴史が長いドイツが国際ルールを破って戦争したのは、"大人"が意図的にやった選択(民主主義を手放したこと)に誤りがあったものであり、ドイツ人の性格自体は"大人"であるゆえに変えようがなく、それに対し、日本での民主主義の歴史は浅く、これまで世界のことも十分に知らなかった日本人は、これからの教化によって変わり得る(成長し得る)といった意味合いだったらしい(これって、褒めているのかどうかはやや微妙ではないか)。

パキスタン元外相アリー・ブット(後に首相)と娘のベナジル・ブット(後に首相)(AFP).jpg 表題にある、当時のパキスタンの外相アリー・ブット氏が日本人記者との話の中で使った"Economic Animal "の"Animal "は、例えば「政治」を得手とする人物を評して"Political Animal"というように(学生時代に勉学が振るわなかったのに大物政治家となったチャーチルがそう呼ばれた)、「日本人はこと経済活動にかけては大変な才能がある」という「褒め言葉」だったとのことで、これには素直に「へぇ〜」という感じ(これが日本人批判と誤解されたためか、彼が政争に破れた時に日本人からあまり同情されなかったというのは気の毒)。「ウサギ小屋」というのが、フランスでは、都市型の集合住宅の一形態を指すにすぎないもので、貶める意味を持たないということも初めて知りました。

 パキスタン元外相アリー・ブット(後に首相となり絞首刑に)と娘のベナジル・ブット(後に首相となり暗殺される)(AFP)

 ただ、中盤は、漱石の英国留学時代の話に自分の英国留学の思い出を重ねたりしてエッセイ風であり、終盤は、ダイアナ妃やブッシュ親子の英語の用い方など、ややトリビアルな話になり、テーマも、国同士のコミュニケーション・ギャップという観点から、単なる「英語表現」の問題に移った感じ。

 後者のテーマが1冊を貫いていると見れば、サブタイトルの「誤解と誤訳」には違わぬ内容ではあるかも知れないけれど、何となく本としての纏まりに欠くように思ったら、別々に雑誌などに発表したものを纏めて1冊にしていたのでした。
 「日本人は12歳」、「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」に関しては、'93年と'95年に雑誌「文藝春秋」に発表されたもので、著者(前バンクーバー総領事)は、随分前から言ってたんだなあ、このことを―(この部分だけでも、一応の読む価値はあると思うが)。

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物価から昭和ヒトケタの時代の"サラリイマン"など庶民の生活を探った労作。

「月給百円」のサラリーマン.jpg 「月給百円」のサラリーマン 2.jpg
「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)』['06年]

 著者は共同通信社の中国総局に勤務する記者であるとのことですが、そういった人が個人で、昭和ヒトケタの時代の日本人の暮らしぶりを、モノの価格を中心にミクロ的な観点から調べ上げたもので、その精緻な調査ぶりには脱帽させられます。最近の講談社現代新書は、本によって密度の濃い薄いの差が激しいように思うのですが、これは濃い方で、庶民生活史としては第一級史料的なものに仕上がっているのではないでしょうか。

 大正から昭和になって不況があり、デフレ後は物価安定期が続いたとのことで、昭和ヒトケタの時代の物価は、目安として大体2千倍すれば今の物価に該当するとのこと。だから、「月給百円」というのは今の20万円で、その頃は今で言う年収240万円ぐらいで、まあまあ何とか生活できたらしい(本書を読み進む上では、この「2千倍」計算を頭の中で何度となく繰り返すことになる)。但し、モノの価格が2千倍なのに対し、ヒトの収入の方は5千倍に上がっているそうで(500万円が平均ということか)、やはり、日本人の暮らしは確実に豊かになったと捉えるべきなのでしょう。

 因みに、当時と今と比べて、"2千倍"比率を超えて相対的に大きく価格上昇しているのは、住宅(地価)と教育費(大学授業料など)であるとのことで、地価はともかく大学授業料は、大学出が超エリートだった当時と比べると(但し、やがて大学を出ても就職できないような状況も生まれるが)、今は大学進学がかなり普通のことになっているだけに、やはり、今の授業料高はおかしいのではと、個人的には思った次第。

 著者による調査は、日常の生活物価だけでなく、一流企業の初任給や軍人の俸給から花街の玉代まで多岐に及んでいて、どの会社も国立大(帝大)卒と私立大卒では同じ大卒でも初任給が違った、などといったことから、身売りしてきた娼妓の前借りが平均千百円(今の2百万円ぐらいか)だった、ということなどまで、様々なことを本書で初めて知りました。

 数字だけでなく、間に挿入されている庶民生活や風俗に関する記述も興味深く(「援助交際」や「サラ金」なども当時からあった)、但し、本書は"サラリイマン"など一般の都市生活者を中心に書かれていて、一方で、資本家と労働者、都市と農村の貧富の差が今以上にずっと大きいものであったことを指摘することも忘れてはいません(そうした点で、今の中国が1930年代の日本によく似ていると指摘しているのが興味深い)。

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「ゲットー」→「強制収容所」→「絶滅収容所」という流れと痕跡を消された収容所。

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌.jpg  ロシア・ウクライナ・1942.jpg ナチ部隊のウクライナでの虐殺行為(1942年)(トルーマン大統領図書館)
ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書 (1943))』 ['08年]

 ヒトラー政権下でナチ・ドイツにより行われたユダヤ人大量虐殺=ホロコーストの全貌を、広範な史料をもとに、丹念に時間軸に沿って検証した労作。

 本書を読むと、ナチ・ドイツはポーランド占領('39年)までは、ユダヤ人の「追放」を考え、それまでの過渡期として「ゲットー」(ユダヤ人強制居住区)に彼らを押し込め、将来の移送先としてソ連を想定していたのことです(当初は"マダガスカル"という案もあったが)。

 それが、独ソ戦において一旦はレニングラードまで侵攻したしたものの(この間にも、バルト3国やロシアでは多くのユダヤ人や共産主義者がナチにより射殺されている(右写真=本書より))、このロシア戦線が膠着状態に入ると、「最終解決策」として強制収容所のユダヤ人を虐殺することに方針転換していったことがわかります(最後まで「追放」を主張したナチ将校もいた)。 

ベルゲン=ベルゼン(Bergen-Belsen)強制収容所の死体埋立て場の一つ(トルーマン大統領図書館 Truman Library,Acc.jpg また、「強制収容所」とは建前はユダヤ人を強制労働させるものであったものですが、それでも、ベルゲン・ベルゼンなど基幹13収容所だけで100万人近くものユダヤ人が病気などで命を落としたとのこと。
ベルゲン・ベルゼン強制収容所の死体埋立場 (トルーマン大統領図書館)

 一方、大量殺戮に方針転換してからヘウムノに最初に設けられた('41年)「絶滅収容所」は、まさにユダヤ人の殺害のみを目的としたもので、こうした「絶滅収容所」としては、犠牲者110万人と見積もられるアウシュヴィッツが有名ですが、アウシュヴィッツと同時期に設けられたベウジェッツ、ソビブル、トレブリンカの3つ「絶滅収容所」の犠牲者数の合計は175万名とアウシュヴィッツでの犠牲者数を上回っていること、これら3収容所は、ナチがユダヤ人労務者に解体させ、最後に彼らも殺害したため、ほとんど痕跡が消されてしまっていること、こうした収容所の多くは現在のポーランドにあり、ドイツ系ではなくポーランド系のユダヤ人が最も多く犠牲になったことなどを初めて知りました(3つの「絶滅収容所」を設けたラインハルト計画は、記録映画「SHOAH」('85年)で世に知られるようになった)。

 ナチの政策史だけでなく、ナチの個々の将校や収容所長などの施策の違いや、収容所内での人々の様子、大量殺戮の模様なども、戦犯裁判などの史料や生存者の証言などをもとに丹念に調べていて、努めて冷静に事実のみを追っている分、逆に一気に読ませるものがあるとともに、繰り返される虐殺の犠牲者数の多さには、「一人の死は悲劇だが、数百人の死は統計でしかない」という言葉さえも思い出されました。

アドルフ・アイヒマン.jpg 最後にホロコーストの研究史が概説されていて、ユダヤ人を大量殺戮することがいつどのように決定されたのか、ホロコーストを推進した中心は何だったのかについてのこれまでの論議の歴史的推移が紹介されており、後者の問題については、ヒトラー個人のイデオロギーに帰する「意図派」と、当時のナチ体制の機能・構造から大量殺戮がユダヤ人問題の「最終解決」になったとする「機能派・構造派」が元々あったのが、後に、ナチ体制の官僚制を、組織や規律の下での課題解決に専念することに傾斜する近代技術官僚的な「絶滅機構」だったとする捉え方が有力視されるようになったとのこと。
アドルフ・アイヒマン (1906-1962)

 個人的には、この見方を最も体現したのが、戦後アルゼンチンに脱走し、'60年にモサドに捕まり、イェルサレム裁判で死刑判決を受けたアイヒマンではなかったかと思いました。先の「一人の死は...」はアイヒマンの言葉。彼は、典型的なテクノラート(言い換えれば「有能な官吏」)だったと言われているとのことです。 

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なぜ、返せなくなるような人たちに貸したのかを、アメリカの社会構造から分析しているのが興味深い。
サブプライム問題の正しい考え方.jpgサブプライム問題の正しい考え方2.jpg
サブプライム問題の正しい考え方 (中公新書 1941)』['08年]

 '07年末から'08年にかけて世界経済を混乱に陥れたサブプライムローン問題については、すぐさま何冊かの関連書籍が刊行され、'07年11月には『サブプライム問題とは何か』(春山昇華 著/宝島社新書)といった新書も出ており、'08年4月での本書の刊行は、必ずしも早いものではないかもしれませんが、但し、さすが中公新書というか、経済学者(建設省OB)と実務家(住宅金融支援機構の研究員)という2人のプロが組んで、カッチリした解説を施したものとなっています。

subprime lending.jpg とりわけ、サブプライムローンの破綻原因を、お金を返せない人(必ずしも低所得者のことを指すわけではない)に貸したのがそもそもの誤りだったと断定し、なぜそんなことになったのかを、アメリカの人種問題なども含めた社会構造の分析にまで踏み込んで解説しているのが、本書の特長と言えます。

 サブプライムというのは、「プライム(優良)」に及ばないという意味で、過去に延滞履歴があるような信用度が低い人向けのローンであり、アメリカの通常の住宅ローンの大部分が、金利を長期固定したものであるのに対し、サブプライムは、殆どが最初の数年だけ固定金利で、あとは変動金利で返済額が急増するリスクがあるというもので、それを信販会社の延滞者ブラックリストに載ったことのあるような人に融資するわけですから、安易に選ばれて返済不能に陥る危険を回避するために、予め金利が高めに設定されていたとのこと。                                                        Photo by Mark A. Cizler
 それが、2000年代に入り、ITバブル崩壊や同時多発テロなどで米国内の景気後退懸念が高まり、FRBが金利引き下げ策をとったため、ローン金利も下がって借り易くなってしまい、金融リテラシーの低い黒人やヒスパニックなどの利用がどっと増えたとのことで、証券化され世界中の投資機関の投資対象先になっていたことも、影響がグローバルに及んだ(特に欧州)原因のようです。

 サブプライムローンの主な借り手(返せなくなった人たち)は、住宅価格の高騰とその後のバブル崩壊の影響が大きかったフロリダのヒスパニック層、'05年にハリケーン被害を受けたルイジアナやミシシッピの黒人層、自動車産業の低迷で景気が沈滞しているミシガンやオハイオなど五大湖周辺都市の白人ブルーカラーなどで、ロケーション毎にアメリカの社会問題が反映されているような感じです。

 個人的には、こうした前半部分が興味深く読め、中盤の国際金融問題との関連を論じた部分はかなり専門的(一般の読者はここまで知る必要もないのでは)、後半の日本の住宅金融システムへの示唆なども、この時期に刊行するならばここまで論じておかねばという意欲が感じられるものの、金融リテラシー問題や"サブプライムに似たもの探し"において日米同列で論じるのはやや強引な気もし、証券化の技術問題は、まあこれからといった感じでしょうか。

 今後、日本がすべきこととして、内需拡大、給与水準引き上げ、高所得者の税負担の強化と一般の社会保障負担の抑制などを挙げているのには、ほぼ賛成です。

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読ませ所はあったが、こういう挟み方はちょっと...。
こんなに使える経済学.jpg こんなに使える経済学 6.jpg   経済学的思考のセンス.jpg
こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書 701)』['08年] 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)』['05年]

 大阪大学の大竹教授の研究グループ(社会経済研究所)のメンバー約20名が執筆分担して、「週刊エコノミスト」に連載した経済エッセイを新書に纏めたもので、社会制度の設計はインセンティブを無視しては成り立たず、そのような仕組みを考えるうえで、経済学的思考法は"使える"―との考えのもとに、肥満や喫煙のメカニズムを解いたり、出世や談合、耐震偽装といった問題を経済学の視点から分析したりしています。

 身近な話題が多く、「美男美女への賃金優遇は不合理か」とか「出世を決めるのは能力か学力か」といった話も、統計分析の考え方を主眼に話を進めているので、どうやって統計を取るのか? とりあえず結果は?という方へ関心が行き、すんなりは入れるのではないかと思われます。

大相撲.jpg 個人的には、「談合と大相撲の共通点とは」という章の、千秋楽に7勝7敗の力士が8勝6敗の力士と対戦した場合の勝率は8割に近く、翌場所、同じ力士に当たった際の勝率は4割に半減する、といったデータなどは興味深かったです。

 ただ、基本的には、大竹氏の『経済学的思考のセンス』('05年/中公新書)の前半部分の手法を、執筆分担制にしただけの"二番煎じ"であり、前著はまだ後半部分において、労働経済学の観点から公的年金やワークシェアリング、年功賃金や成果主義、或いは所得格差の問題を考える際に、こうした統計学的な考え方やインセンティブ理論を応用してみせていたのですが、本書は、単なる軽い読み物で終わってしまっている気も...。

 連載の新書化だからしょうがないかな(前著も、連載と他の発表論文の組み合わせだったが)と思いきや、いきなり、「不況時に公共事業を増やすべきか」などというモロなテーマが出てきて、書いているのは、大竹氏の研究所の先輩にあたる小野善康氏(巻末の執筆者一覧で、1961年生まれになっていたが、これは1951年生まれの誤りでしょう)であり、しっかり小野流の「構造改革論」を展開しています。

 読ませ所はあったわけですが、こういう挟み方はちょっと...と思うのは、偏狭過ぎるでしょうか。

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良くまとまってはいるが、その分「教科書」の域を出ない。

日本の経済.jpg 『日本の経済―歴史・現状・論点 (中公新書 1896)』 ['07年]

 多分に「教科書」的な本であり、前半部分は経済史で、戦後復興期から高度経済成長期、更に70年代のニクソンショック・第一次オイルショックによる停滞期から80年代バブル期までを、データ等を駆使しながら要領良く纏めていて、中盤から後半にかけて、90年代のバブル期及びそれ以降の問題の検証に入り、国際経済関係を含む日本の経済の現状分析だけでなく、日本企業における組織風土の問題や雇用問題、財政・社会保障問題まで言及されています。

 バブル期の問題分析において、「投機は価格の安い時に買い、高い時に売るのだから価格安定機能がある」というフリードマンの命題に対し、これは、「価格の波が、投機家の行動とは別個に、事前に決まっている」という想定に基づくもので、「値が上がるから買い、買うから値が上がる」という"買い上がり"の投機行動が数年にわたる価格上昇をつくり、逆に下降局面では、「カラ売りして値を下げ、安くなったところで買い戻して差益を得る」という"売り叩き"の投機が値崩れを生むといったように、「価格の波」以外の過程では投機は波を促進・拡大するとして、フリードマン理論の論理的急所を突き、投機が社会に破壊的作用を及ぼす危険を帯びることを指摘している(129p)のが解り易く、では何故その時に政府や日銀は金融引き締めに入れなかったということについては、「資産価格は狂乱状態にある一方で、一般価格はまったく落ち着いていたこと」を第一の理由に挙げています(133p)。
 著者が言うように、バブルにおいては、さほど必要ないところに国・企業・個人のカネが投資され、結局、個人ベースで見た場合、バブルの乗り切り方(回収率)の違いで、所得格差は拡大したのだろうなあと。

 この辺りから、経済史の講義は終わり持論の展開が主となるのかなと思いましたが、その後の不況の二番底('97〜'02年)や小泉内閣による構造改革の分析などは、比較的オーソドックスであるように思え、後に来る日本的企業経営、雇用と職場、社会保障の問題なども、時折思いつきみたいな私論が挟まれることはあるが(事務職の給与を全額、手当にしてはどうかとか)、全体としてテキストとしての体裁を維持しようとしているのか、論点整理に止まっているものが多いような気がしました。

 例えば、少子化問題への対策を個人の問題ではなく政府の問題とするような論調も、年金などの社会保障の税負担化論も既出のものの域を出ておらず、やはりありきたり(因みに、国民年金は、保険料納付率が上がればそれだけ受給権者が増え、より赤字になる構造なのだけどなあ)。
 最後の「金融政策をめぐる論点」(岩田規久男氏 vs. 翁邦雄氏・吉田暁氏)も、これまでと同様よく纏まっていますが、ここに来てやっとこの著者の立場を知り(読み手である自分自身が鈍いのか、紙背への読み込みが足りないせいもあるが)、最初から旗幟鮮明にしてくれた方が有難かったかも(「教科書」だから、それはマズイのか?)。

《読書MEMO》
●貨幣供給の原理についての理解では、内生説(翁邦雄氏・吉田暁氏)が正しい。外生説(岩田規久男氏)は、マネーサプライはベースマネーの何倍かになる(結果的にはそうなる)という「信用乗数論」の初級教科書での説明用であって、それが現実だと思ったら大間違いである(287p)

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絶賛している人も多い本だが、素朴な疑問も。

不況のメカニズム.jpg 『不況のメカニズム―ケインズ「一般理論」から新たな「不況動学」へ (中公新書)』 ['07年]

 経済学における「ケインズ派」と「新古典派」の論争はいつまで続くのやらという感じですが、本書は、サブタイトルにあるように、ケインズの『一般理論』を解体し、新たな「不況動学」を構築するのが目的であり、「新古典派」の唱える「市場原理主義」については、不況下に苦しむ人びとをさらに苦境に追い込むとしてハナから批判していますが、一方、ケインズの『一般理論』にも誤りがあったとしています。

 新古典派によれば、不況は供給側の原因(生産力の低さや価格・賃金調整の不備)で起こるのであり、生産力が低いままで、更に物価や賃金が下がらなければ、商品は売れず雇用は増えない。だから、不況から脱出するには、生産力を上げると同時に、価格と賃金を下げることが必要になってくる―と。

 これに対しケインズ派は、不況は需要側の原因で起こり、需要不足の下では価格や賃金が調整されても売れ残りや非自発的失業は残るため、企業が効率化や人員整理を進めれば、需要は更に減り、不況が深刻化する、そこでケインズ派は「人為的に需要を作って余った労働力に少しでも働く場を確保すること」が不況からの脱出策になる―と。

 著者は新古典派の考えには与せず、一方でケインズを、「需要不足の可能性に注目することによって、不況における政策の考え方に重要な示唆を与えたことにある」と評価しながらも、「結局ケインズは、物価や貨幣賃金が調整されても発生する需要不足を論証することには、必ずしも成功しなかった。さらに消費の限界を設定するために安易に導入した消費関数がケインズ経済学の中心的な位置を占め、無意味な乗数効果が導かれ濫用されて、金額だけを問題にする財政出動の根拠となった」と批判しています。

 著者によれば、ケインズの、「民間が行う消費や投資の決定に任せていては需要不足の解消は不可能であり、政府の介入によって投資を増やすしかない」という不況対策理論は、初めから需要不足を前提とする仮説に基づいている点で論理的欠陥があり、だったら本当に失業手当よりも公共事業の方がいいのか(「災害でも戦争でもいいから」とケインズは言ったらしいが)、投資が次々と連鎖的に新たな所得を生み出すというのは幻想ではないかとしています。

 ケインズ理論の誤謬検証を通じての新たな「不況動学」論として、著者の理論の展開は論理的にはカッチリしていますが(本書を絶賛している人は多いし、著者自身も「不況システム」の分析にかけては絶対的な自信がある模様)、机上論のような感じも...(この部分は専門的でやや難解。正しいのかどうかよく判らず、その意味では、自分には評価不能な面も)。
 公共事業は、失業という人的資本の無駄を減らすだけではなく、実際に有意義な物やサービスを生んだ場合にのみ意味を持つというのが著者の結論であり、「良い公共事業とよくない公共事業」論とでも言えるでしょうか。

 著者は、リフレ派のインフレ・ターゲット論を、「どのようにして人々にインフレ期待を持たせるかという肝心の点については、明確な方法がわからない」と批判していますが、著者の論についても「どのような公共事業が"良い公共事業"と言えるのか明確にわからない」ということが言えるのではないでしょうか。

 基本的には、『景気と経済政策』('98年/岩波新書)の続きみたいな感じで、その間に、小泉純一郎内閣('01‐'06年)の「構造改革」路線があったわけですが、"聖域"があり過ぎて、「構造改革」論の正誤を検証できるところまでいかなかった気がします。
 だから、こうして「ケインズ派」と「新古典派」の論争は続くのだなあ。

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さらっと読める現代「インド入門」。多民族・多宗教・多言語国家であることを再認識。

インドビジネス.jpgインドビジネス3.jpg 島田 卓 (インド・ビジネス・センター代表取締役社長).jpg
インドビジネス―驚異の潜在力 (祥伝社新書)』島田 卓(たかし)氏(インド・ビジネス・センター代表取締役社長)

india it.jpg 本書によれば、11億の人口を抱えるインドは、その平均年齢がたいへん若く、毎年1200万人の新たな労働人口が生じているとのこと(高齢化の進む日本とは違いすぎ!)、しかも、彼らの多くが英語を能くし、数学に強く、IT(情報技術)力が高い―。

 60年代から始まった米国へのインド人の頭脳流出が、80年代からの米シリコンバレーのIT革命の原動力になったことは知られていますが、その頭脳がインドに還流し、今、インドITの発展に貢献しているそうで、教育熱も盛んで、インド工科大学は、「IIT(インド工科大学)に落ちたらMIT(マサチューセッツ工科大学)へ行け」と言われるぐらい難関だそうです(中国にも、清華大学という理科系分野の殆ど全てにおいて国内最高のレベルを占める特異な大学があるが、国内需要と教育熱が難易度を高めるという点で似ていると思った)。          

 本書は、インドでのビジネスを経験した著者(現在、インド・ビジネス・センター代表取締役社長)が、インドビジネス・コンサルタントの立場から、インドの政治・経済・産業の現況やインド人のビジネスの考え方を示したもので、このタイトルで〈日経文庫〉などから刊行されていれば、経済主体の解説で終わってしまっていたかも知れませんが、一般向け新書として刊行された本書では、歴史・民族・文化から社会・宗教・慣習等まで、幅広い話題をとり上げ、インドというものを多角的に捉える助けになるとともに、読み物としても読みやすいものになっています。

 とりわけ、前半部分のインド人のビジネス場面で見られる国民的特徴を紹介した部分が面白く、インド人が日本人と接するときは、最初は低姿勢で従順だが、実は彼らは大変プライドが高く、また論議好きで(インドでは「沈黙は金」ではなく「死」であるとのこと)理屈っぽいというのが元々のところであるようで、第一印象で甘く見ると後で痛い目に逢う?

 多少、著者個人の体験から来る主観もあるでしょうが、本書は後半に行けば行くほどデータブック的になってくるだけに、この前半部分の、やや放言的?なトーンは、読者を引きつけ、読後にインド及びインド人についての何らかイメージを読者に持ってもらう意図としては悪くないと思い、日本はインドのソフトパワー(人材)への投資(企業でのインターン受け入れなど)をすべきだなどの提言が盛り込まれているのもいいです。

インド紙幣.jpg 本書を読んで、インドという大国の今後の台頭を予感させられましたが、この国が多民族・多宗教・多言語国家であることも再認識させられたことの1つで、言語で言えば、地方言語を含めると300近くあるとのこと、国会議員が議場では同時通訳のヘッドフォンをしていて、紙幣には17の言語で金額が表記されているというのにはビックリしました。
  
 インドは映画大国でもありますが、サタジット・レイの「大地のうた」3部作みたいな"教養映画"は少数で、殆どがミュジカール映画とのことです。日本でもヒットした「踊るマハラジャ」などはまだストーリーが凝っている方で、2時間ぶっ続けで踊っているシーンばかりのもあるようです(一応その中に典型的な勧善懲悪ストーリーなどが組み込まれていたりはするが)。

アイシュワリヤ・ラーイ
アイシュワリヤ・ラーイ2.jpgアイシュワリヤ・ラーイ.jpg しかし映画女優は美人が多く、例えば本書でも紹介されているミス・ワールドにもなったアイシュワリヤ・ラーイ(1973年年生まれ)という女優は、いつまでも奇麗だと思います(ニックネームはアイシュ。ロレアルのLUX Super Rich のCMに出ていた。ダンスも上手い)。過去に出演している映画はともかく("ボリウッド"系娯楽映画が殆ど)、ビジュアル的にはインドの自信とプライドを体現しているような女優だと思います。

シュリヤー・サラン.bmpヴァルシャ.bmpプリヤンカー・チョープラー.jpg この他にもインド映画界には、シュリヤー・サラン(1982年生まれ)、ヴァルシャといった美人女優が数多くいて、この辺りの女優は"ボリウッド"だけでなく"ハリウッド"にも進出していて、最近では20世紀最後のミス・ワールド優勝者女優のプリヤンカー・チョープラー(1982年生まれ)のハリウッド進出が見込まれているそうです。

左からシュリヤー・サラン/ヴァルシャ/プリヤンカー・チョープラー

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実感できる全国試験の過酷さ。試験にまつわる幽霊譚などの説話的な話が面白い。
 
科挙―中国の試験地獄.jpg          科挙 中公文庫BIBLIO.jpg     宮崎市定.bmp  宮崎 市定(1901- 1995/享年93)
科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))』['63年]/『科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)』['03年]

 中国で隋の時代(587年)から清代(1904年)まで続いた科挙制度(元代に一時廃止)について、特に、それまでの「郷試」「会試」に加えて、天子自らが試験を行うという名目の「殿試」が行われるようになり、制度的に最も完成した(複雑化した)清朝の末期の制度の仕組みを中心に解説しています。

  「郷試」の前にも「科試」というものがあり、明代からはその前に「県試」「府試」「院試」「歳試」という学校入学試験(学校試)が設けられていて、まさにサブタイトルにある "試験地獄"ですが、その凄まじさは、本書にある「郷試」「会試」の実施手順を読むと、より実感します。
 「郷試」「会試」ともそれぞれ続けて3回試験があり、全国試験である「会試」の場合、試験前日から会場に入り、1回について2日かけて答案を作成するという作業が9日間続くので、殆ど監禁されている状態が何日も続くといった感じです。 

 試験科目が四書五経など儒学一本、それも暗記したものを書き写すのが主なので、近代化の時代と共に終わる運命にあった制度ですが、幅広い階層のほぼ誰もが受験出来て官吏への登用機会があるという点では、著者の言うようにそれなりの意義はあったと思えます。
 隋代の昔に制度化されていることを思うと尚更で、官吏養成システムである科挙は、「文民制度」の始まりとも言えるようです(著者によれば、中国で宋代以降、殆ど軍事クーデターが無かったのは、科挙による文民統治的な官僚制度が整備されていたためとのこと)。

 本書で大変面白かったのは試験や採点に纏わる説話的な話で、試験場に女の幽霊が現れて、昔自分を捨てた男が試験に集中出来ないように邪魔をするとか、試験官がたいしたことのない答案であるために落とそうとしたら「だめだ」という声が聴こえて落とせず、実はその答案を書いた男は善行の礼として若い女性から肉体提供の申し出を受けたが「だめだ」と自分に言い聞かせて勉強にうち込んだマジメな男だったとか、その逆に、いいと思って○にしたら夢に閻魔様が現れ×にしろと、そこで×をつけたが、やはりいい答案なので○に改めようとしたが×を書いた墨が落ちず結局落第させたが、その答案の主は素行の悪いことで評判の男だったことが後で判ったとか...。

 こうした話が生まれるのは、著者も考察しているように、試験が試験官の主観に左右される記述試験で、かなり"裏口"などの不正も行われていたようで、なぜあの人が落ちるのか、なぜアイツが受かるのか、みたいな話があって、そのことを「天網恢恢疎にして漏らさず」的発想(これは儒家ではなく老子)で合理化しているようにも思え、体制側から発生した面もあったかも。

 でも、そうした話が面白かった―。受験生の前に女幽霊が現れて合格を予言し、「あなたに地元の知事になってもらって自分を殺した男の罪を暴いてほしい」と言ったのが、実際その通り郷試・会試とも合格し、知事になった彼は過去の事件を暴いて女の怨みを晴らし、地元民からは名代官と言われたたとか(『聊斎志異』ではないが、何だか人間臭い幽霊譚が好きなのだなあ、中国人は)、試験に合格して喜びのあまり一時的に気の触れたヤサ男を正気に戻すために、普段彼を苛めていた乱暴者に頼んで(頼まれた男も、既に挙人となった男を乱暴に扱うことを最初は渋ったが)とりあえず一撃してもらったら正気を取り戻したとか(これは落語みたいな話)、大いに楽しめてしまいました。

 【1984年文庫化[中公文庫]/2003年再文庫化[中公文庫BIBULIO]】

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現代の官僚的組織に照らすと示唆に富む点は多いが、その前にまず読み物として面白い。

宦官―側近政治の構造.jpg 『宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)』 ['03年] 宦官2.jpg 『宦官―側近政治の構造 (中公新書 (7))』 ['63年]

アンリ・カルティエ=ブレッソン 宦官 1949.jpg 中国の歴史に不可視の闇のように影を落とす「宦官」―中国史の本を読んでも、宦官自体がどういうものであって、何故そうしたものが中国にいたのかということについてはあまり書かれていないことが多いですが、三田村泰助(1909‐1989)による本書は、そうした宦官という不思議な存在を知る上では、まさに「基本書」と言えるもの(1963(昭和38)年・第17回「毎日出版文化賞」受賞)。

 前半は、この「作られた第三の性」について、その起源(宦官は殷の時代からあったが、中国だけのものではなく、古代エジプトやイスラム国家にもいた)から去勢の仕方(死亡する者も多かった)や生態、後宮の管理者、官吏としての役割、その隆盛と興亡などが史料をもとに解説され、最初、刑罰としてあったものが出世の手立てとしてのものに変遷していく様が語られています。

 アンリ・カルティエ=ブレッソン 「宦官」 1949 (本書扉写真)

 この部分は、"文化人類学" 的であるとともに"中国性愛史"的要素もあって大いに興味を引かれますが、宦官は、若い頃は美貌でも、「年をとってくると、その風貌が痛ましくおどけたようになってきて、(中略)ちょうど男の仮装をした老婦人とそっくりになる」「大方のものは年をとるにしたがって肉が落ち、急激にたくさんの皺がよってくる。実際肥満しているものは少ない。40歳でも60歳くらいに見えるのはそのためである」とのこと、扉にあるカルティエ=ブレッソンの宦官を撮った写真がこれにピッタリあてはまるように思えました(しかし、楊貴妃を処刑した高力士や大遠征した鄭和は、何となくこうした"お婆さん"イメージには沿わないなあ)。

 後半は、宦官勢力が政治に大きな影響を及ぼした前漢・後漢、唐、明の3期の政治史を辿り、宦官の政治への関わり方や皇帝に及ぼした影響を解説していますが、著者が、漢の高祖が晩年の孤独の癒しを宦官に求めたことを例に、「これまでの歴史では、宦官が君主の心身を柔らかくさせるソファのような存在であったことを、不当に無視してきたきらいがある」(新書92p)と言っているのは興味深く、皇帝というのは孤独であり、それゆえに宦官に依存したり傾斜したりするのだなあと。

 しかし、大体、宦官が政治に関わりすぎると、民政はともかく権力上層部は混迷するようで、唐代に君主が2人も宦官に謀殺されていることはよく知られている通りです。
 あとがきでは、著者は、宦官を企業の秘書室に喩えていて、まあ、労働基準法的に言えば、「機密の事務を取り扱う者」といったところでしょうか、「機密事務取扱者」が直接政治に関わり始めると「側近政治」となり、ろくなことがないようです。
 宦官同士の連帯というものが共通の被差別意識により非常に強固なものであったこと、皇帝が2人も宦官に殺された唐代は、中国史においても行政機構が精緻化を1つ極めた時代であったことなどを、現代の官僚的組織に照らして考えると、示唆に富む点は多いように思いました。

 それ以前に先ず、読み物として前半・後半ともにそれぞれ極めて面白かったのですが。

 【1983年文庫化[中公文庫]/2003年再文庫化[中公文庫BIBULIO]】

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「蘊蓄本」と言えばそれまでだが、構成は工夫されている『漢字の常識・非常識』。
 
漢字の常識・非常識.jpg  漢字遊び.gif   『難字と難訓』.jpg
加納 喜光『漢字の常識・非常識 (講談社現代新書)』['89年] 山本昌弘『漢字遊び (講談社現代新書 (783))』['85年] 長谷川 滋成『難字と難訓 (講談社現代新書)』['88年]

 講談社現代新書には、漢字読み書き大会(写研主催)で"漢字博士"になった山本昌弘氏の『漢字遊び』('85年)という本がありましたが、テスト問題形式で、漢字のパズル本といった感じ(読めるけれど書けない字が多かった)。「海」という字が「あ・い・う・え・お」と読めるということ(海女のア、海豚のイ、海胆のウ、海老のエ、海髪(おご)のオ)など、新たに知った薀蓄多かったけれども、どこまでも薀蓄だけで構成されている本という印象も。 
 また、漢文学者・長谷川滋成氏の『難字と難訓』('88年)は、難字の字源解説にウェイトを置き、こちらは白川静の本などに通じるものがありました。

 これらに対し、中国の医学・博物学史が専門である加納喜光氏による本書 『漢字の常識・非常識』('89年)は、漢字の用法にまつわる古代から現代までのエピソード(文化大革命で中国の漢字がどのように変化したかなども紹介されている)をパターン別に紹介していて、その応用としてのクイズなども含まれていますが、蘊蓄が楽しめるとともに、読み物としてもそこそこに味わえるものでした。

 こうして見ると、日本に入ってからかなり柔軟に用法が変わったものも多い(代用や誤用で)ということがわかり、例えば「気迫」などは意味を成しておらず(気が迫る?)、元々「気魄」の代理として用いられたものだとのこと(「緒戦」→「初戦」、「波瀾」→「波乱」などもそう)。
 「旗色鮮明」が「旗幟鮮明」の誤用であることは判るとして、「弱冠29歳」などというのも、「弱冠」は二十歳の異名だそうだから、ちょっと離れすぎで、今までさほど意識しなかったけれど、誤用と言えるかも。

 「忸怩」「齷齪」「髣髴」「齟齬」など著者は"双生字"と洒落て呼んでいますが、共通部位のある字をカップルにして用いて初めて意味を成すものなのだそうです(「檸檬」「葡萄」「蝙蝠」など、意外と多い。「婀娜」「揶揄」「坩堝」などもそう)。
 これらに対し、"雌雄"の組み合わせを"陰陽字"と呼んでいて、「翡翠(ひすい=カワセミ)」「鴛鴦(えんおう=オシドリ)」などがそうですが、「鳳凰」「麒麟」というのも"陰陽字"であるとのこと(同時に"双生字"でもあるものが多い)。「虹」はオスのにじで、メスのにじを表す字が別にあるそうです。
 また、「卓袱(しっぽく)料理」の「卓袱」に「台」をつけると「卓袱(ちゃぶ)台」になるけれども、こういうのは、"二重人格"の字と言えるようです。

 「虫」が病気のシンボルであるというのは興味深いですが、「蟲惑」の「蟲」が、虫を使った呪術を表わすということは、白川静も言っていました。
 知らなかったのは、「美人」が宮廷の女官名であったということ(項羽の「虞美人」などもそう)、「夫人」も同じく女官名でしたが、美人より遥かに位は上だったそうな。

 この手の本は「蘊蓄本」と言えばそれまでで、(本書は構成が工夫されている方だが、それでも)読んでもさほど残らないのだけれども、その分、何回でも読み返せる?

《読書MEMO》
●山本昌弘 『漢字遊び』
①画数最大は「龍×4」の64画 →「雲×3+龍×3」の「たいと」84画説も
②読み方の多い漢字は「生」 200通り近くあるという説も
③「子子子子子子子子子子子子」→「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」
④「海海海海海」→「あいうえお」
⑤「髯」はほお、「髭」は口、「鬚」はあごのひげ
⑥漢字の2番目の音は「イウキクチツン」の7つのみ(苦痛いんちき)
⑦「春夏冬ニ升五合」→「商いますます繁盛」

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日本人の言語表現を通し、その心性を浮き彫りに。一番驚いたのは、著者の博覧強記ぶり。

日本人の言語表現862.JPG日本人の言語表現.gif     日本語 金田一春彦.jpg
日本人の言語表現 (講談社現代新書 410)』['75年]  『日本語』岩波新書['57年]

 日本人の言語表現が諸外国人に比べてどのような特色を持つかを論じた本で、著者は、自著『日本語』('57年/岩波新書)が日本語の「ラング」(言語体系)の特色を論じたのに対し、前著『日本語の生理と心理』('62年/至文堂)をベースとした本書は、日本語の「パロール」の性格を考えたものだと言っています(「パロール」とは何かと言うと、言語活動には「ラング(言語)」と「パロール(発話)」があり、「ラング」を言語体系とすれば、「パロール」は個人の意思や思想を伝えるために発する「お喋り」と言ってもいいだろう。この分類をしたソシュールは、言語学は「ラング」のみを対象とすべきだとしたが、そうした意味においても、本書は、「日本語論」であると同時に「日本人論」であると言える)。

 古今の様々な使用例を引き、日本語表現の「言い過ぎず、語り過ぎず」「努めて短く済ます」、「なるべく穏やかに表し」「間接表現を喜ぶ」といった特徴と、その背後にある日本人の心性を浮き彫りにしていますが、本書の特徴は何といっても、その使用例の"引用"の多さにあるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『大鏡』『古今著聞集』『源平盛衰記』『義経記』『梁塵秘抄』『徒然草』といった古典から、西鶴の『武道伝来記』『諸国話』『世間胸算用』、或いは『里見八犬伝』『浮世風呂』などの江戸文学、『葉隠』や『奥の細道』から洒落本まで、更に、歌舞伎(『絵本太功記』『仮名手本忠臣蔵』『白波五人男』など)、狂言、浄瑠璃、謡曲、落語、浪曲、常磐津に至るまで、近代文学では、永井荷風(『濹東綺譚』)、芥川龍之介(『貝殻』)、尾崎紅葉(『金色夜叉』)、夏目漱石(『坊ちゃん』)、泉鏡花(『婦系図』)、志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)、小泉八雲といった近代文学、これに山崎豊子の『華麗なる一族』など現代文学も加わり、ラジオ・テレビなどのアナウンサーやタレント(黒柳徹子や大橋巨泉も出てくる)の言葉使いなども例として引いています。

ことばと文化.jpg「甘え」の構造5.jpg日本人とユダヤ人.jpg日本人の論理構造.jpg日本人の意識構造(1970).jpg 更に、べネディクト『菊と刀』、会田雄次『日本人の意識構造』『日本人の忘れもの』、板坂元『日本人の論理構造』、ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』、土井健郎『甘えの構造』、南博『日本人の心理』など、先行する多くの日本人論を参照し、祖父江孝男、鶴見俊輔、上甲幹一(『日本人の言語生活』)、渡辺紳一郎、清水幾太郎、ドナルド・キーン、鈴木孝夫など多くの学者・評論家の言説も引いています(これらは、ほんの一部に過ぎない)。

 あまりに引用が多すぎて、解説がコメント的になり、「論」としての印象が弱い感じもしますが、作品のエッセンスを読み物的に一気に読ませて、全体のニュアンスとして日本語の「喋り」の特質を読者に感覚的に掴ませようとする試みともとれなくもありません(ちょっと、穿った見方か?)。

 個人的には、「辞世の句」とかいうのは日本においてのみ顕著に見られるもので、新聞などに俳壇や歌壇があって一般の人が投稿するなどというのも外国人から見ると驚きであるというのが印象に残りましたが、元々、俳句・短歌というのが日本独特の短詩型だからなあ(鈴木大拙、李御寧、板坂元などの日本人論にも、俳諧論は必ず出てくる)。
むしろ、一番驚いた(圧倒された)のは、著者の博覧強記ぶりだったかも。

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日本語独特の表現の底にある日本人の価値観を探り、日本文化論・日本人論へと展開。

日本人の論理構造2857.JPG日本人の論理構造.jpg 板坂 元 『日本人の論理構造』.jpg 板坂元.jpg 板坂 元 (1922-2004)
日本人の論理構造 (講談社現代新書 258)』 ['71年]

 「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」ってまさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか? こんな切り口から入って、日本語の言葉の背後にある日本人独特の論理や価値観を探り出した本。

 著者の板坂元は、当時ハーバード大学で日本文学を教えていて、本書では先ず、英語には訳せない言葉を分析対象にしており、「なまじ」「いっそ・どうせ」「せめて」といった言葉をとりあげていますが(確かに英訳できないだろうなあ)、それらの分析がなかなか興味深かったです。

 日本語においては「れる・られる」「なる」といった自然発生的な感覚の表現(感じられる・考えられる・思われる・なりました・決まりました...etc.)が多いのは(この受身的表現も外国人には不可思議なものらしい)、"責任逃れ"する日本人の心性ともとられるけれども、"奥ゆかしさ"を重んじる日本人の心性の表れと見る方が妥当だろうと。

 「やはり」とか「さすが」というのも、日本語独特のニュアンスを含むわけで、無精髭で有名な男が格式ばった場に望んだ際に、「さすがに彼も髭を剃ってきた」「さすが、彼は髭を剃らずに来た」と相反する状況で使えるというのは、面白い指摘でした。

 著者によれば、日本語には、皮膚感覚的表現(手応え・滲み滲み...etc.)が多い一方で、空間(位置)感覚的言葉は少ないらしく(確かに、英語の前置詞などは種類も多いし用法もはなはだ複雑)、こうしたところから更に、日本文学における情景描写のあり方や浮世絵、連歌・俳諧など文学・芸術論に話は及び、後半になればなるほど、本書は、日本文化論、日本人論の色合いを強めていきますが、本書の刊行時、ちょうど『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などの刊行もあって、世の中は日本人論ブームだったわけです。

日本人の人生観.jpg日本人の言語表現.gif 本書での著者の博学を駆使した日本語論は、金田一春彦『日本人の言語表現』('75年/講談社現代新書)と読み比べると面白いかと思いますが(この人の博学ぶりも"超"級)、著者の場合、長年アメリカで教鞭をとってきただけあって、英語圏との比較文化論的な視点において、多くの示唆に富んだものであると言えます。

 例えば、「明日、試験があった」という表現が成り立ってしまう(手帳にメモを見つけた際など)ような「時制」に対する日本人の感覚から敷衍して、常に「歴史」の流れの外側に身を置き、「歴史」を「思い出」としてしまう日本人の心性を指摘している点などは、山本七平『日本人の人生観』('78年/講談社)にある指摘に通じるものを感じました。、

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要領を得た解説と相俟って、細部の細やかさや奥行きの深さが実感しやすい。

フェルメールの秘密.jpg フェルメール 全点踏破の旅.jpg 朽木ゆり子『フェルメール全点踏破の旅 (集英社新書ヴィジュアル版)』['06年]
(28 x 23.2 x 1.2 cm) 『フェルメールの秘密 (イメージの森のなかへ)』['08年]

 近年、17世紀の画家ヨハネス・フェルメール(1632‐1675/享年43)がブームで、今年('08年)8月には7点の作品が上野の東京都美術館にやってくるということ(何しろ、生涯で30数点しか描いていない)。

恋するフェルメール.jpg 美術ノンフィクション作家の朽木ゆり子氏の『フェルメール 全点踏破の旅』('06年/集英社新書ヴィジュアル版)なども人気度アップに寄与したのでしょうが、「旅」と謳う通り美術紀行として堪能できるほか、作品1つ1つの意匠や来歴がコンパクトに纏められているので、入門書としても手頃。レイアウト的に見易いし、"ヴィジュアル版"の名に反さない綺麗な写真が収められていますが、ここまでくると"画集"的な要素を求めてしまい、そうした意味では、絵が小さいのが難(新書版だから小さいのは当たり前なのだが)。

有吉 玉青『恋するフェルメール―36作品への旅』['07年]『恋するフェルメール 37作品への旅 (講談社文庫)』['10年]

 その他に、故・有吉佐和子の娘である有吉玉青氏の『恋するフェルメール』('07年/白水社)というのもあり、彼女もやはり17年かけて"全点踏破"したとか。熱心なファンがいるのだなあと感心させられます。

名画を見る眼.jpg 高階秀爾氏によると、彼の作品が脚光を浴びるようになったのは死後2世紀ぐらい経てからで、それまで長きにわたり埋もれていたようですが、氏の『名画を見る眼』('69年/岩波新書)に紹介されているルネッサンス期から印象派初期までの代表的な画家15人の中にも、このフェルメールは入っています。

フェルメール「画家のアトリエ」.jpg 利倉隆氏の『フェルメールの秘密』('08年/二玄社)は、"イメージの森のなかへ"というシリーズの1冊ですが、「ルソー」「レオナルド」「ゴッホ」と並んで刊行されたもので、同じオランダの先輩画家レンブラント(1606‐1669)を差し置いたことになります。
 "イメージの森"と表象される本の構成が面白く、代表作「絵画芸術の寓意(画家のアトリエ)」の解説の仕方がその典型ですが、絵の部分部分(一葉一木)を見せていき、最後に全体(森)を見せていて、驚異的なまでに描き込まれた細部と全体との見事な調和が、インパクトを以って感じられるようになっています(フェルメールは、作品ごとに大きさが随分異なるのも特徴だが、小さいものは"細密画"の観もある)。

 解説はオーソドックスですが、簡潔ながらも要領を得ていて、収録点数は全作品ではないですが、雰囲気的には鑑賞が主眼の「美術書」に近いのではないでしょうか(小中学校の授業みたいな語り口であり、本の構成自体も含め「教材的」とも言えるかも)。
 構図やそこに込められた寓意については、岩波新書の高階氏の本や朽木氏の『フェルメール全点踏破の旅』でも知ることが出来、『全点踏破の旅』でも独特の色使いはわかりますが、この細部の細やかさや奥行きの深さは、本書のような大型本だと、より実感しやすいと思います。

 高階氏は、「フェルメールの作品は、すべてが落着いた静寂さのなかに沈んでおり、一見派手ではないが、決して忘れることのできない力を持っている。彼の本領である光の表現にしても、同時代のレンブラントのようなドラマティックな激しさはなく、また、同じ室内の描写と言っても、ベラスケスのような才気もみられないが、そこには飽くまでも自己の世界を守り抜く優れた芸術家のがあるようである」(『名画を見る眼』)と言っていますが、本書は、その"小宇宙"に触れることができる1冊であるかと思います。

 価格(1,995円)の割には掲載点数の少ないのがやや難かも知れませんが、リブロポートから出ている本格的な画集などになると、もっと値段が張ることになります(2万円)。
 但し、ブームのお陰で、本書のような比較的入手し易い価格の作品集兼解説書のような本が多く出ています。

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