2008年6月 Archives

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「●こ 小林 恭二」の インデックッスへ 「●岩波新書」の インデックッスへ

ディベート方式の「歌合わせ」で、短歌の愉しみや特性がわかる。

短歌パラダイス.jpg 『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)』 ['97年]小林 恭二.jpg 小林恭二 氏 (作家)

俳句という遊び―句会の空間.jpg俳句という愉しみ.jpg 楽しい句会記録『俳句という遊び』、『俳句という愉しみ』(共に岩波新書)の著者が、今度は、ベテランから若手まで20人の歌人を集めて短歌会を催した、その際の記録ですが、そのやり方が、室町時代を最後に今では一般には行われていない「歌合」の古式に倣ったものということです。歌合わせ自体がどのように行われ、どのようなバリエーションがあったのか詳細の全てが明らかではないらしいですが、本書でのスタイルは、ちょっと「ディベート」に似ていて面白かったです。

 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年] 『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]

 2つのチームに分かれ、テーマ毎に詠まれた短歌の優劣を1対1で競い合うのですが、チーム内を、自ら歌を作って俎上に乗せる「方人(かたうど)」と、歌は出さずに弁護に回る「念人(おもいびと)」に分け、本来のプレーヤーである「方人」は批評には参加できず、一方、弁護人である「念人」は自分では歌を作らず、個人的に敵味方の歌をどう思おうと、とにかく自陣の歌が相手方のものより優れていることをアピールし、そして最後に、「判者」が勝負の判定を下すというもの。やっぱり、これは「ディベート」そのものではないかと。

 『俳句という遊び』の時と異なり、作者名は最初から明かされているのですが、面白いのは、思い余って作った本人が自分の歌を解説したりすると(「方人」は「念人」を兼ねることはできないので、これは本来はルール違反)、これが意外とエクスキューズが多くてつまらなく、弁護人である「念人」の自由な(勝手な?)解釈の方がずっと面白かったりする点であり、短歌という芸術の特性をよく表しているなあと。

 『俳句という遊び』の時と同様、2日がかりですが、2日目は3チームに分けて、チーム内でとりまとめをした上で作品を俎上に提出するなど、趣向を変えて競っています(1日目の方が、より「「ディベート」的ではあったが)。

 良い歌を作っても、それ以上の出来栄えの歌とぶつかれば勝てないわけで、ここでは、あの俵万智氏がその典型、著者も「運が悪い」と言ってます。(彼女は元々"題詠"が苦手なそうだが、この時作った歌「幾千の種子の眠りを覚まされて...」と「妻という安易ねたまし春の日の...」は、『チョコレート革命』('97年/河出書房新社)-これ、大半が不倫の歌だったと思うが-に収録されている。やはり、愛着があるのか)。短歌をそれほど知らない人でも、誰のどのような歌が彼女の歌に勝ったのか、見てみたいと思うのでは。

 一方、題が作者らに沿わないと良い歌が出揃わず、互いの相手方の歌に厳しい批評が飛びますが、それぞれが舌鋒鋭いものの、どこか遊びの中でのコミュニケーションとして、言う側も言われる側もそれを愉しんでいる(実際はピリピリした面もあるかと思うが、そうした緊張こそ愉しみにしている)という点では『俳句という遊び』と同じ「大人の世界」―。でも結局、負ける場合は、自陣の歌を褒める根拠が人によってバラバラになっていることが敗因となていることが多いのが、興味深いです。

 『俳句という遊び』に続いて、これまた"野球中継"風の著者の解説が楽しく、読み始めると一気に読み進んでしまう本ですが、だいぶ解ってきた頃に、「座」や「連衆」という概念に表される日本の芸術観の特性についての解説などがさらっ入っているのもいい。

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国の介護福祉政策と現場の実態の解離を考えさせられた。

介護―現場からの検証.jpg 『介護―現場からの検証 (岩波新書 新赤版 1132)』['08年] 結城康博.jpg 結城康博 氏 (ケアマネジャー・淑徳大学准教授)

 '00年の施行後7年を経た介護保険制度のもとで、介護の現場はどのようになっているかを解説しつつ、国の介護福祉政策の問題点を浮き彫りにしたもので、日本の社会保障(介護福祉)は一体どうなってしまっているのだという暗澹とした思いにさせられる本でした。

 ルポルタージュ形式で挿入されている厳しい「老老介護」の実情や入所が困難な「特別養護老人ホーム」の状況など、読んでいるだけで自らが不安を感じるぐらい...。
 一方、国の施策としては、「特養」においては相部屋を減らし個室を増やしたり(数が足りていればいいが、不足している状況では入所できない人が増えるだけ)、それなのに、通所介助には保険が効かないなど、在宅介護に対する施策に不充分な点が目立つように思いました。

コムスン問題.jpgコムスン折口1.jpgコムスン折口2.jpg こうした中、在宅のお年寄りを騙して高額商品を売りつける悪徳業者がいるというのは腹立たしいことですが、問題となった訪問介護のコムソンなどは、国に対して、家事などの「生活援助」しかしていないものを「身体介護」をしたと偽って不正請求していたわけで、利潤追求の財源は国民の納めた保険料であったことを考えると、国民はもっと怒っていいのではないかと。

コムスンの「光と影」日本経済新聞(2007.6.19朝刊)

 しかし、一方でコムソン問題の底には、ケアプランニングにおいて区別される「生活援助」と「身体介護」が実際にはそんな明確に区分できるものだろうかという問題もあり、事件の処分として「連座制」による罰則適用により1事業所ではなく会社全体の業務が継続できなくなった問題(これが他の事業者にも波及して、ある法人のある事業所でフィリピン人を使用しただけで、法人の全事業所が業務停止命令を受けるといった事態まで生むことになっている)、更には、介護業界全体の人材不足の問題などを浮き彫りにしたということがわかります(コムソンのような事業者が、この業界における低賃金・低昇給モデルを既定のビジネスモデルにしてしまったから、人材不足が生じ、外国人を使わざるを得なくなるのだが)。
 介護福祉士資格を一定期間内に取得するということを条件に、フィリピン人の介護従事者の受け入れが徐々に始まっていますが(日本語を学ぶだけでも大変だと思うが)、規制緩和の前に規制強化することはよくあることです。

 政府の対応は、社会の批判に過敏になり、それをかわすことが目的化している面もあるように思え、長期の慢性疾患の患者が入院する「療養病床」の削減(「医療型」は削減、「介護型」は漸減的に全廃へ)なども、「社会的入院」に対する批判に応えたものと言えるでしょうが、本当に介護の必要な人への病院を追い出された後のケアが薄く、本書を読むと、少数の問題意識のある自治体だけがフォローに回っている感じがします。

 著者は、大学を卒業し(修士で経済学、博士で政治学を専攻)、その後数年間、福祉施設の介護業務に従事、今年('08年)4月からは大学で教鞭をとる傍らケアマネジャーの仕事もしているという人。本書では行政担当や政治家にも取材していますが、本書自体の政策提言はやや掘り下げが浅い感じもしました。
 本書は、「現場からの告発」とも言える本。本書執筆を機に学究にウェイトを移行するようで、その部分は次の展開を期待したいです。

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師匠(見田宗介)の本より面白い。但し、後半は、共感するしない以前に、よくワカラナイ...。

不可能性の時代.jpg 『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』 ['08年]  社会学入門−人間と社会の未来.jpg 見田宗介 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['06年]

 著者は東大の見田宗介ゼミ出身の社会学者ですが、見田氏が'90年代に、戦後の時代を「現実」の反対語により「理想の時代」('45〜'60年)、「夢の時代」('60〜'75年)、「虚構の時代」('75〜'90年)と区分したのを受け、本書ではこれを補強解説していて、この部分は比較的わかり易いし、師匠の近著『社会学入門』('06年/岩波新書)よりもむしろ興味深く読めました。

 学者で言えば柳田國男・折口信夫から東浩紀・吉見俊哉まで触れ、創作で言えば、浦沢直樹の『20世紀少年』の読み解きから、松本清張『砂の器』と水上勉の『飢餓海峡』の類似点指摘まで、事件で言えば、三島由紀夫事件からオウム事件まで、或いは少年N(永山則夫)から少年A(酒鬼薔薇聖斗)まで幅広く触れていて、見田氏の言う「社会学」という学問が「なんでもあり」の学問であることをよく表しているという点では、こっちの方がむしろ「社会学入門」と言えるかも知れません。

 但し、部分部分でナルホドと思わせられる点はあったものの(例えば、柳田國男が戦後に復活を求めた「家」は、結果的に「マイホーム」に置き換わってしまった(内田隆三)とか)、他者からの引用の部分にむしろ感応させられたかも。
宮崎勤死刑囚.jpg 著者はそれらにまたひとひねり加えていて、オタク論においては、東浩紀や大塚英志を参照しながらも、M(宮崎勤)の事件をもとに独自の身体論や疎外論を展開していますが、この辺りから(共感する部分もあったことは確かだが)牽強付会気味なものを感じ始めて個人的にはついていけなくなり、酒鬼薔薇事件('97年2月)後まもなく永山則夫の処刑(同年8月)が行われたということが、秋葉原通り魔事件('08年6月)から10日もしないうちに宮崎勤死刑囚の処刑が行われたことにダブったのが、一番のインパクトだったりして...(本旨ではない細部に目が行きがちになってしまう)。

 本書において見田宗介の忠実な後継者であるようにも見える著者は、「虚構の時代」の次に来たものを「不可能性の時代」とし、現代社会の特徴として「現実から逃避」するのではなく、「現実へと逃避」する者たちがいること、大衆文化の中で、破壊的な「現実」への嗜好や期待が広く共有されていること(218p)を捉え、それはむしろ、真の〈現実〉、真の〈破局〉に向き合うことを回避する社会傾向だとしていて、こうした"逃避"の行き先である「現実嗜好」、或はその裏返しとしての「破局嗜好」は、真の破局を直視することを避けようとするものであると―(そう述べているように思った)。
 破局への嗜好を、真の〈破局〉を直視することで断ち切ることに、普遍的な連帯への手掛かり(可能性)があるといった論旨でしょうか。

文明の内なる衝突.jpg 著者の本を読むのは、『文明の内なる衝突』('02年/NHKブックス)に次いで2冊目ですが、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いたこの本においても、テロリズムとナショナリズムの同位性などの着眼点は面白かったが、解決の手掛かりが抽象的であるように思えました。
 今回もテーマの一部としてこの問題は扱われていますが、対象とする問題の範囲が広い分、結論の抽象度は更に高まったように思います。
 後半部分は、共感するしない以前に、ワカラナイ部分が多すぎたというのが正直なところです。

《読書MEMO》
●現代社会は、二つのベクトル―現実への逃避と極端な虚構化―へと引き裂かれているように見える。(中略)究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこにあるのかという想定が、何かに対する、つまり〈現実〉に対する最後の隠蔽ではないか。(中略)一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している(165-166p)

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「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(秦 郁彦)

5大決戦を戦術面・戦略面で検証。最後は、原子爆弾vs.風船爆弾という悲劇的滑稽さ。

なぜ日本は敗れたのか.jpg なぜ日本は敗れたのか2.jpg  太平洋戦争六大決戦  上  錯誤の戦場  中公文庫.jpg 太平洋戦争六大決戦  下  過信の結末  中公文庫.jpg  秦郁彦.jpg
なぜ日本は敗れたのか-太平洋戦争六大決戦を検証する(新書y)』 ['01年]/『太平洋戦争六大決戦〈上〉錯誤の戦場 (中公文庫)』『太平洋戦争六大決戦 (下) 過信の結末 (中公文庫)』 秦郁彦 氏

 『昭和史の謎を追う』など斬新かつ公正な昭和史観で菊池寛賞なども受賞している著者が、『太平洋戦争六大決戦』('76年/読売新聞社・'98年/中公文庫(上・下))、『実録太平洋戦争』('84年/光風社出版)として以前に刊行された著作の、後半第2部"エピソード編"を一部削って新書化したもので、オリジナルは四半世紀も前に書かれたということになります。

 第1部で太平洋戦争における日米戦略を概説し、「ミッドウェー」「ガダルカナル」「インパール」「レイテ」「オキナワ」の決戦をとり上げて、作戦の当否や戦力比較、勝敗の分かれ目となった両軍の判断などを分析していますが、あれっ、副題に「六大決戦」とあるのに5つしかない?(第1部は削っていないはずだが...)

失敗の本質  中公文庫.jpg 因みに、よく組織学の本として引き合いにされる戸部良一・編著『失敗の本質』('84年/ダイヤモンド社・'91年/中公文庫))は、この5つに「ノモンハン」を加えた6つをケーススタディしています。本書は、『失敗の本質』のように企業経営論に意図的に直結させるような組織論展開はしていませんが、各決戦の戦況経緯を詳説すると共に、日本軍の戦術の誤り、或いはそれ以前の戦略上の問題点を、組織論的な観点も含め考察しており、「戦争オタク本」「軍事オタク本」とは一線を画しているように思えます。
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

回避行動中の空母「飛龍」.jpg 「ミッドウェー海戦」の敗戦は、空母「赤城」が味方機の着艦を待ってから攻撃に移ろうとして逆に敵機の先制攻撃を受けたことが敗因だ(そこに日本人的感情=仲間意識が働いたことが「失敗の本質」である)とよく言われますが(操縦士の人命ではなく、その選抜的能力に着目すれば、感情論の入る余地はないのだが)、その他のミスや読み違いが数多くあり、それら以前にも作戦意図の共有化や偵察機の索敵機能などに根本的問題があったことがわかります(但し、本書の後に書かれた『失敗の本質』も、基本的な敗因考察においては同じ)。

ミッドウェー海戦で回避行動中の空母「飛龍」(本書には「赤城」とあるが誤りであると思われる)[毎日新聞社]

 著者は、「ミッドウェー海戦」には日本側の数々の失策があったが、それらが無くてもせいぜい「相討ち」だったのではないかとしていますが、ともかく日本は完敗し、これにより日清・日露戦争以来の日本の「不敗神話」は崩壊するとともに、その後のソロモン群島での消耗戦などもあって、開戦時は日本側が優位であった日米両海軍の力関係は、逆転するわけです。
 
その後に続く「ガダルカナル」「インパール」などの決戦は悲惨の極みであり、ガダルカナルでは2万人以上、インパールでは、死者数すらわからないが、おそらく同じく2万人以上の戦力を失っているとのこと。著者の、戦術論的に「まだ戦い方があった」「別のやり方があった」というのはよく分かりますが、結局「ミッドウェー海戦」で全てが決していたような気がします。エピソードの最後にある「風船爆弾」の話があり(日本がアメリカ本土を唯一に直接攻撃したもので、9千発強の風船を発し、300発ほどアメリカに到着したが、爆発したのは28発だけ。死者発生は1件6名で、オレゴン州当地に記念碑がある)、「原子爆弾対風船爆弾という、あまりに悲劇的ながらユーモラスな対照のうちに太平洋戦争は終わった」と締め括っているのが印象的でした。

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「●幻冬舎新書」の インデックッスへ

茶化し気味のタイトルだが、読んでみて「量刑相場」の問題などいろいろ考えさせられた。

裁判官の爆笑お言葉集.jpg裁判官の爆笑お言葉集ド.jpg裁判官の爆笑お言葉集25.jpg   狂った裁判官.jpg
裁判官の爆笑お言葉集 (幻冬舎新書 な 3-1)』['07年3月] 井上薫『狂った裁判官 (幻冬舎新書 い 2-1)』['07年3月]

 裁判官は、建前は「法の声のみを語るべき」とされていますが、法廷ではしばしば「説諭」や「付言」という形でその肉声が聞かれることがあり、本書では、私情を抑えきれず思わずこぼれたその本音などを(勿論、事前にじっくり練られたものもあるが)拾っていて、茶化し気味のタイトルに反して、読んでみて考えさせられるものがありました。

 その中には、心情的には重い刑を言い渡したいのに、「量刑相場」がそれを許さないという板ばさみ状態での判決に伴ったものが結構あって、裁判官がその「説諭」等に、反省の足りない被告人に対する痛烈な批判のメッセージを込めるといったことは、それなりに司法の役割の一端でもあるように思いますが、その良心に従い独立してその職権を行使すべきである裁判官が、自らの内部で量刑の軽さとのバランスをとろうとしているようにもとれるところに、「量刑相場」問題の複雑さがあるように思いました(一方、被告人を更生させるための思いやりのある発言も、本書には多く収録されている)。

裁判官はなぜ誤るのか.jpg そもそも、日本の裁判では、裁判官が法廷以外で被告人と話すことはなく、元判事の秋山賢三・弁護士が著した『裁判官はなぜ誤るのか』('02年/岩波新書)にも、「エリート意識は強いが世間のことはよく知らず、ましてや公判まで直接面談することも無い被告人の犯罪に至る心情等には理解を寄せがたい」こと、「受動的な姿勢と形式マニュアル主義から、検察の調書を鵜呑みにしがち」なことなどが指摘されていましたが、本書を読むと、真っ当な人も多いのだなあと(真っ当であってもらわないと困るが)。

 著者は、司法試験受験を7度失敗したのに懲りて、司法ライターに転じたとのことで、本書が初めての新書らしいですが、その視点に斜に構えた感じは無く、冷静かつ概ね客観的であるように思え、また、緩急の効いた文章も旨いです(これ、要点をかいつまんで纏めるのは結構、訓練が要るのではないか)。

 同時期に幻冬舎新書で刊行された、元判事・井上薫氏の『狂った裁判官』の方は、現在の司法制度の実情を解説するとともに、その問題点を挙げて批判したものですが、本当に著者の言う"ひどい"事態がしばしばあることなのかやや疑問で、著者が再任拒否された恨み辛みが先行しているような感じもし、斜に構えているのはむしろこちらの方かも。
 どちらか1冊と言えば、この『お言葉集』の方がお薦め、と言うより、司法制度を考える上で(興味本位から入っても構わないので)、多くの人に手にして欲しい本です(そのつもりでつけたのであろうタイトルには、内容との違和感を感じるが)。

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「●労働経済・労働問題」の インデックッスへ 「●中公新書」の インデックッスへ

メインタイトルに呼応した"エッセイ"とサブタイトルに呼応した"論文"。

経済学的思考のセンス.jpg 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)』 ['05年] 大竹文雄.jpg 大竹文雄・大阪大学教授 (自身のホームページより)

 著者は、今年['08年6月]、「日本の不平等」研究で、47歳で第96回日本学士院賞を受賞した経済学者。前半部分は気軽に読める経済エッセイで、第1章では「女性はなぜ、背の高い男性を好むのか?」、「美男美女は本当に得か?」「イイ男は結婚しているのか?」といったことを、第2章では「プロ野球における戦力均衡(チームが強ければ強いほど儲かるのか?)」「プロ野球監督の能力(監督効果ランキング)」などの身近なテーマを取り上げ、俗説の真偽を統計学的に検証しています。

 「16歳の時の身長が成人してからの賃金に影響している」とか、「重役に美男美女度が高いほど企業の業績がいい」とか、統計的相関が認められるものもあるようですが、統計に含まれていない要素をも考察し、「相関関係」がイコール「因果関係」となるもではないことを示していて、どちらかと言うと、「経済学的思考」と言うより「統計学的な考え方」を示している感じがしました(こうした考え方を経済学では用いる、という意味では、「経済学的思考」に繋がるのかもしれないが)。

 個人的には、第2章の、大学教授を任期制にすべしとの論(自分自身もこの意見に今まで賛成だった)に対してその弊害を考察している部分が興味深く、任期制にすると新任者を選ぶ側が自分より劣っている者しか採用しなくなる恐れがあると(優秀な後継が入ってくると、自分の任期満了時に契約が更新されなくなると危惧するため。そんなものかも)。
 「オリンピックのメダル獲得予想がなぜ外れたか」などといった話も含め、このあたりは、「インセンティブ理論」に繋がるテーマになっています。

 第3章・第4章では、少し調子が変わって著者の専門である労働経済学の論文的な内容になり、第3章では「公的年金は"ねずみ講なのか"?(世代間扶養に問題があるのか)」「ワークシェアリングが広まらない理由」「成果主義が失敗する理由」などを考察し、年功賃金や成果主義の問題を、第4章では、所得格差の問題など論じています(年功賃金が好まれる理由を統計分析しているのが興味深い)。

 もともと別々に発表したものを新書として合体させたものであるとのことで、第1章・第2章と比べると文章が硬めで、最初はいかにも"くっつけた"という感じがしましたが、読んでいるうちに、エッセイ部分の統計学的な考え方やインセンティブ理論が考察の所々で応用されているのがわかるようになっていて、よく考えられた構成なのかもしれない...。

 但し、年功賃金、成果主義、所得格差、所得再配分、小さな政府、といったことを論じるには、少しページが不足気味で、所得格差の問題は「機会の不平等や階層が固定的な社会を前提として所得の平等化を進めるべきか、機会均等を目指して所得の不平等を気にしない社会を目指すかの意思決定の問題である」という著者の結論には賛同できますが、そこに至る考察が、要約されすぎている感じも(悪く言えば、プロセスの突っ込みが浅い)。

 本全体としては、「経済学的思考のセンス」がメインタイトル、「お金をない人を助けるには」がサブタイトルにきていることと、呼応してはいますが...。

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複雑な問題をわかり易く説明することのプロが、時間をかけて書いた本だけのことはあった。

まんが パレスチナ問題.jpg sadat.jpg アラファト.jpg 屋根の上のバイオリン弾き dvd.jpg さすらいの航海 dvd.jpg
まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)』['05年]「屋根の上のバイオリン弾き [DVD]」「さすらいの航海 [DVD]

 旧約聖書の時代から現代まで続くユダヤ民族の苦難とパレスチナ難民が今抱える問題、両者の対立を軸とした中東問題全般について、その宗教の違いや民族を定義しているものは何かということについての確認したうえで、複雑な紛争問題の歴史的変遷を追ったもので、周辺諸国や列強がどのようなかたちでパレスチナ問題に関与したか、それに対しイスラエルやパレスチナはどうしたかなどがよくわかります。

 最初のうちは、マンガ(と言うより、イラスト)がイマイチであるとか、解説が要約され過ぎているとか、地図の一部があまり見やすくないとか、心の中でブツブツ言いながら読んでいましたが、結局、読み出すと一気に読めてしまい、振り返ってみれば、確かに史実説明が短い文章で切られているため因果関係が見えにくくなってしまい、歴史のダイナミズムに欠ける部分はあるものの、全体としては、わかり易く書かれた本であったという印象です。

 ユダヤの少年ニッシムとパレスチナの少年アリによるガイドという形式をとっていて、(会話体の割には教科書的な調子の記述傾向も一部見らるものの)双方のパレスチナ問題に関する歴史的事件に対する見解の違いを浮き彫りにする一方で、ちょっと工夫されたエンディングも用意されています。

 著者は、広告代理店の出身で、教育ビデオの制作などにも携わった経験の持ち主ですが、複雑な問題をわかり易く説明することにかけてのプロなわけで、そのプロが、2年半もの時間をかけて書いた本、というだけのことはありました。

 読み終えて、ロンドンのロスチャイルドのユダヤ人国家建国の際の政治的影響力の大きさや、'48年、'56年、'67年、'73年の4度の中東戦争の経緯などについて新たに知る部分が多かったのと、サダト・元エジプト大統領に対する評価がよりプラスに転じる一方で、アラファト・元PLO議長に対する評価のマイナス度が大きくなりました。


 要所ごとに、「十戒」「クレオパトラ」「チャップリンの独裁者」「アラビアのロレンス」「夜と霧」「屋根の上のバイオリン弾き」「栄光への脱出」といった関連する映画がイラストで紹介されているのも馴染み易かったです。

屋根の上のバイオリン弾き.jpg屋根の上のバイオリン弾き2.jpg ノーマン・ジュイスン監督の「屋根の上のバイオリン弾き」('71年)は、もともと60年代にブロードウェイ・ミュージカルとして成功を収めたもので、ウクライナ地方の小さな村で牛乳屋を営むユダヤ人テヴィエの夫婦とその5人の娘の家族の物語ですが、時代背景としてロシア革命前夜の徐々に強まるユダヤ人迫害の動きがあり、終盤でこの家族たちにも国外追放が命じられる―。

Topol in Fiddler On the Roof
『屋根の上のバイオリン弾き』(1971).jpg 映画もミュージカル映画として作られていて、テーマ曲のバイオリン独奏はアイザック・スターン。ラストの「サンライズ・サンセット」もいい。

 主演のトポルはイスラエルの俳優で、舞台で既にテヴィエ役をやっていたので板についていますが、森繁の舞台を先に見た感じでは、やはりこの作品は映画より舞台向きではないかという気がしました("幕間"というものが無い映画で3時間は結構長い)。

Katharine Ross in Voyage Of The Damned
さすらいの航海0_n.jpgKatharine Ross Voyage Of The Damned.jpgさすらいの航海(VOYAGE OF THE DAMNED).jpg 事件的にはややマイナーなためか紹介されていませんが、第2次大戦前夜、ドイツから亡命を希望するユダヤ人937名を乗せた客船が第二の故郷を求めて旅する実話のスチュアート・ローゼンバーグ監督による映画化作品「さすらいの航海」('76年/英)なども、ユダヤ人の流浪を象徴する映画だったと思います。

 船に乗っているのは比較的裕福なユダヤ人たちですが、ナチスVoyage of the Damned1.jpgの策略で国を追い出されアメリカ大陸に向かったものの、キューバ、米国で入港拒否をされ(ナチス側もそれを予測し、ユダヤ人差別はナチスだけではないことを世界にアピールするためわざと出航させた)、結局また大西洋を逆行するという先の見えない悲劇に見舞われます。

Voyage of the Damned2.jpg この映画はユダヤ人資本で作られたもので、マックス・フォン・シドーの船長役以下、オスカー・ヴェルナーとフェイ・ダナウェイの夫婦役、ネヘミア・ペルソフ、マリア・シェルの夫婦役、オーソン・ウェルズやジェームズ・メイソンなど、キャストは豪華絢爛。今思うと、フェイ・ダVOYAGE OF THE DAMNED Faye Dunaway.jpgナウェイのスクリーン 1976年 10月号 表紙=キャサリン・ロス.jpgさすらいの航海 キャサリン ロス.jpgような大物女優からリン・フレデリック、キャサリン・ロスのようなアイドル女優まで(キャサリン・ロスは今回は両親を養うために娼婦をしている娘の役でゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。アイドル女優と言っては失礼か)、よく揃えたなあと。さすがユダヤ人資本で作られた作品。但し、グランドホテル形式での人物描写であるため、どうしても1人1人の印象が弱くならざるを得なかったという、このタイプの映画にありがちな弱点も見られたように思います。
 
「スクリーン」1976年 10月号 表紙=キャサリン・ロス
 
  
FIDDLER ON THE ROOF 1971.png『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)2.jpg「屋根の上のバイオリン弾き」●原題:FIDDLER ON THE ROOF●制作年:1971年●制作国:アメリカ●監督・製作:ノーマン・ジュイスン●脚本:ジョセフ・スタイン●撮影:オズワルド・モリス●音楽:ジョン・ウィリアムス●原作:ショーレム・アレイヘム「牛乳屋テヴィエ」●時間:179分●出演:トポル/ノーマ・クレイン/ロザリンド・ハリス/ミシェル・マーシュ/モリー・スカラ座.jpg新宿スカラ座22.jpgピコン/レナード・フレイ/マイケル・グレイザー/ニーバ・スモール/レイモンド・ラヴロック/ハワード・ゴーニー/新宿スカラ123  .jpg新宿スカラ座.jpgヴァーノン・ドブチェフ●日本公開:1971/12●配給:ユナイト●最初に観た場所:新宿ビレッジ2(88-11-23)(評価:★★★☆)

新宿スカラ座 閉館.jpg新宿ビレッジ1・2 新宿3丁目「新宿レインボービル」B1(新宿スカラ座・新宿ビレッジ1・2→新宿スカラ1(620席)・2(286席)・3(250席)) 2007(平成19)年2月8日閉館

新宿ビレッジ1・2 → 新宿スカラ2・3
 

 

「さすらいの航海」サウンドトラック
Voyage of the Damned.jpgさすらいの航海 w d.jpgサウンドトラック - さすらいの航海.jpg「さすらいの航海」●原題:VOYAGE OF THE DAMNED●制作年:1976年●制作国:イギリス●監督:スチュアート・ローゼンバーグ●製作:ロバート・フライヤー●脚本:スティーヴ・シェイガン/デヴィッド・バトラー●撮影:オズワルド・モリス●音楽:ラロ・シフリン●原作:ゴードン・トマス/マックス・モーガン・ウィッツ「絶望の航海」●時間:179分●出演:フェイ・ダナウェイオスカー・ヴェルナーオーソン・ウェルズリン・フレデリックマックス・フォン・シドー/マルコム・マクダウェル/リー・グラント/キャサリン・ロス/ジェームズ・メイソン/マさすらいの航海 マックス・フォン・シドー.jpgさすらいの航海 リン・フレデリック4.jpgさすらいの航海 ウェルズ2.jpgリア・シェル/ネヘミア・ペルソフ/ホセ・フェラVoyage of the Damned James Mason.jpgー/フェルナンド・レイ●日本公開:1977/08●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:吉祥寺スカラ座 (77-12-24)(評価:★★★)●併映:「シビルの部屋」(ネリー・カフラン)

吉祥寺東亜.jpg吉祥寺セントラル・吉祥寺スカラ座.jpg吉祥寺スカラ座・吉祥寺オデヲン座・吉祥寺セントラル・吉祥寺東宝

吉祥寺スカラ座 1954(昭和29)年、吉祥寺駅東口付近に「吉祥寺オデヲン座」オープン。1978(昭和53)年10月、吉祥寺オデヲン座跡に竣工の吉祥寺東亜会館3階にオープン(5階「吉祥寺セントラル」、2階「吉祥寺アカデミー」(後に「吉祥寺アカデミー東宝」→「吉祥寺東宝」)、B1「吉祥寺松竹オデヲン」(後に「吉祥寺松竹」→「吉祥寺オデヲン座」)。 2012(平成24)年1月21日、同会館内の全4つの映画館を「吉祥寺オデヲン」と改称、同年8月31日、地下の前・吉祥寺オデヲン座(旧・吉祥寺松竹)閉館。 

吉祥寺東亜会館
吉祥寺オデオン.jpg 吉祥寺オデヲン.jpg

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読み易いが、読み易さと理解のし易さは別。抽象的で、構成上もモザイク的な印象。

社会学入門−人間と社会の未来.jpg 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['08年] 現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 前著『現代社会の理論』('96年/岩波新書)に比べれば読み易かったですが、社会学の入門書としてはどうかなあという感じで、読み易さと理解のし易さはまた別であるというのが、本書を読み終えた感想です。

 確かに前半部分、第1章「鏡の中の現代社会」と第2章「魔のない世界」は、文化人類学的な視点などを示していて(著者の専門は文化社会学)、学問の入り口に立つ人に社会学という学問の幅の広さを理解してもらう上では良いと思いましたが(社会学は"越境せざるを得ない学問"である著者は言う)、体系的に纏まっているわけでもなく、エッセイみたいな部分もあり、第3章の「夢の時代と虚構の時代」において、現代日本の"感覚"の歴史を割合に手際よく纏めているかと思うと、第4章「愛の変容/自我の変容」で短歌評みたいになったりして、「論」としての纏まりを感じたのは第5章の「二千年の黙示録」と、約40ページ9節に分かれる「補章」の部分でしょうか。

 第5章の「二千年の黙示録」で提示しているテーマは、「関係の絶対性」をどう超えるかということであり、これは、黙示録にある"バベルの塔"の崩壊以来、2001年の同時多発テロに象徴されるような、原理主義的な"イズム"の衝突をどう克服するかということだと解釈したのですが、その結論は、「補章」の最後にあるように、この著者特有の「〈至高なもの〉を解き放つこと」的な言い方に収斂されており、これに感動するか、韜晦されたと感じるかによって、本書への評価は分かれると思いました(この著者には、熱狂的な読者が多い。一般読者だけでなく、大澤真幸、宮台真司、小熊英二ら多くの見田ゼミ出身の社会学者がいる)。

 敢えて具体的(でもないが)、解決案的記述を探せば、「補章」の"間奏"にあたるという(「補章」は交響曲構成になっているらしい)第6節で、近代社会学における「ゲゼルシャフト(社会態)からゲマインシャフト(共同態)へ」という社会様態の段階理論を止揚し(人間のこれまでの全ての社会は「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」の複層構造にあるが、ゲゼルシャフトは虚構であり、それは微分化されたゲマインシャフトの相互の関係としてのゲゼルシャフトであると)、そこに「意思以前の関係」(要するに自由がきかない関係とういうこと)か「自由な意志による関係」かという軸を入れ、その第1象限にあたる「ゲマインシャフト/自由な意志による関係」を「交響体」(ゲマインシャフトだが自由がきかない「共同体」の発展系)として捉え、そこに活路を見い出しているようです(序章で既にこのことは述べられていた)。

 やはり抽象的? 大学の講義ノートを再整理したものらしいですが、その講義科目が幾つかに渡るうえに、すでに発表済みの論文等も織り交ぜていて、結果的に各章の関係がモザイク的な感じになっているように思いました(著者の信奉者には、それが綺麗な模様に見える?)。モザイクの部分部分はそれなりに、イイこと書いてあるのだが...。

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情報化・消費化社会がもたらす環境・資源問題は既にグローバル化した"常識問題"に。
やや古く、解決糸口も見えにくい。

現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 我々が生きる「現代社会」とはどんな社会か? その基本的な特質は何か? 本書は、社会学の方法を用いてその問題に迫った"名著"とされている本―ですが、自分との相性はイマイチだったかも。

 著者は、現代社会を「情報化/消費化社会」として特徴づけていて、例えば、我々が商品を購入する場合に、商品の機能や性能より、デザインやイメージから選択することがあるが、そうしたイメージはテレビCMなどで植えつけられたものであり、情報を通して欲望が喚起されたともとれ、情報は無限性を持つため、消費も無限に生み出される、そして、それに応えるようにモノも生産される―、その意味においては、現代の「情報化/消費化社会」システムが社会主義システムよりも相対的に優秀かつ魅力的だったことは確かであるが(ここまでは、計画経済の限界を説いた経済学者の先行理論と変わらない)、一方で、このシステムは、「大量採取」と「大量廃棄」を伴うために、環境・公害問題、資源・エネルギー問題、貧困・飢餓問題などの危機的な矛盾と欠陥を孕む、と言っています。

 「大量生産→大量消費」という現代社会の図式は、実は「大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄」という全体図になっているのに、その始めと終わりの部分は我々の目には見えにくく、その"盲点"を指摘した点が、本書が"名著"とされている理由の1つでしょうが、本書の書かれた'96年時点では、本書に取り上げている「南北問題」とかで、「採取」と「廃棄」はそうした見えない地域へ押しやられて我々の目に触れにくかったということだろうか(個人的には、今現在ほど「環境/資源問題」がグローバルな問題になっていなかったにしても、当時においてもそれなりに問題視されていたように思うが)。

 後半部に、この「環境/資源問題」をどう乗り越えるかがテーマとして取り上げられていますが、バタイユなどを引くうちにだんだん抽象的な学術論文みたいになってきて、あまり具体的な解決案というものが、読んでも見えてきませんでした(結局、「モノからココロへ」ということが言いたかったのか?)。
 後半部では、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』 ('80年/朝日新聞社・'84年/朝日選書)から例証・反駁したゼネラル・ミルズ社のトウモロコシ原料商品「ココア・パフ」の話が唯一面白かったですが、読み物としては面白いけれど、あまりに楽観的すぎる気もして、こうした楽観性は、本書の随所に見られたような...。

 広告が商品に付加価値を付けることがやたら強調されていますが、広告があるがゆえに単一商品に対する(大量需要が生じて)大量消費が可能となり、それに応えるための大量生産が可能となり、よって商品の単価が下がるのであり(コマーシャルが流れると苦々しくテレビのチャンネルを切り替える人も多いと思うが、そうした人だって新聞の書籍広告には目を通したりする)、こうした伝達機能がなければ、商品はどれもプレミア商品にならざるを得ず、出版物の多くは稀覯本になってしまう―、本書では、広告のそうした「商品の単価を下げる」というベーシックな機能には、あまり目がいってないように思えました。

《読書MEMO》
(スーザン・ジョージ著『なぜ世界の半分が飢えるのか』より) 「私は週末に大スーパーに買い物に出かけ、ゼネラル・ミルズ社が、トウモロコシを1ブッシェル当たり75ドル4セントで売っているのを知りました(商品名は「ココア・パフ」)。先月のトウモロコシの1ブッシェル当たり生産者価格は平均2ドル95セントでしたから、消費者の手に届くまでに生産者価格の25倍になったわけです。(中略)トウモロコシ1ブッシェルを消費者に75ドル4セントで買わせるということについては、あきれた社会的な無駄使いであると申しあげたい。」(中略)
 ジョージが付記しているとおり、「アメリカの食料需給システムは、量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達している。だが、とるべき道としては、拡大か、あるいは停滞から崩壊に至るかしかないから、とにかくたべものの、「価格」を上げるほかはない。」というわけである。(中略)実際に、「豊かな」諸社会の食料需給が「量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達し」、市場的「価値」を上げるためには「おいしさ」の差異を競合するビジネスとなり、(中略)貧しい国の土地利用の形態を変え、家畜やその飼料のための土地を設定し拡大するために、人間のための(中略)土地を侵食し、「自然の災害」にさらされやすい辺地に追いやり、数億という人々の飢えの主要な原因の1つとなっている...(中略)
 この文脈自体はまったく正当なものであるが、「ココア・パフ」の事例自体には、この論理の文脈には収まりきらない部分があって、(中略)ゼネラル・ミルズ社は、この当時ブッシェル2ドル95セントであったというトウモロコシを、75ドル4セントで、25倍以上の価格で売ることに成功している。秘密の核心は、第一に(中略)食品デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。(中略)
 基本的に情報によって創り出されたイメージが、「ココア・パフ」の市場的価格の根幹を形成している。
 ゼネラル・ミルズ社が同じブッシェルのトウモロコシから25倍の売上を得たということは、逆にいえば、同じ売上を得るために、25分の1のトウモロコシしか消費していないということである。つまり、この場合、飢えた人びとのからの収奪はそれだけ少ないということである。(中略)情報化/消費化社会というこのメカニズムが、必ずしもその原理として不可避的に、資源収奪的なものである必要もないし、他民族収奪的なものである必要もないということ、このような出口の一つのありかを、この事例は逆に示唆しているということである。(143p‐145p)

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資本主義における「欲望のフロンティア拡張運動」を説く。「欲望」発生の原理論が面白い。

「欲望」と資本主義1.jpg「欲望」と資本主義2.jpg 『「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)』 ['93年]

 著者は本書で、社会主義(計画経済)と資本主義の違いについて、新たな技術や製品を開発し、新たなマーケットを開発する精神こそ資本主義のドライビング・フォースであり、これが社会主義(計画経済)には欠けていたとしています。
 では、市場経済=資本主義なのかというと、従来の経済学ではそうであったが、著者はそこで、経済学の前提にある「稀少性」という概念を裏返し、生産とは常に「過剰」なものであり、人間は「過剰」な消費を繰り返してきたのであり、それがかつてはポトラッチに蕩尽(=浪費)されていたものが、資本主義のもとでは、「欲望の拡張」によって処理されるのであると。

 本書の白眉は、資本主義における「欲望の拡張」の、その「欲望」自体は(予め誰もが持っているものではないのに)どうやって生じるのかについての考察であり、欲望の対象となるものには「価値」があり、価値の対象となるものには「効用」があり、効用とは「満足」であるが、満足は「距離」や「障害」を克服したときに得られるものである、つまり、いつでも入手できるものに人は欲望を感じない(ジンメルの欲望論)、そうすると、みんなが欲しがるものは手に入りにくいため「距離」や「障害」が出来、そこで「欲望」が生まれる―、これをフランスの哲学者ルネ・ジラールは、欲望は他人のそれを「模倣」することで発生するという言い方をしているとのこと(一応、ジンメルやジラールを援用しているが、この両者の結びつけは、著者のオリジナルと思われる)。

個人主義の運命.jpg つまりジラールは、他人を模倣することから欲望が発生すると言っているのですが(作田啓一氏の『個人主義の運命-近代小説と社会学』('81年/岩波新書)のジラールによるドストエフスキーの「永遠の夫」の解題にもこのことはあった)、欲望の充足が個人的な満足を超えた社会的効果をもたらすという点では、ジンメルの「距離」の欲望論と同じであり、つまり欲望は本質的に社会性を持ったものであると。(ウ〜ん。半分以上は先達の理論からの援用だが、でもやはり面白い)

 但し、本書の主要な論点は、資本主義における「欲望のフロンティアの拡張運動」についてであり、それが過去に(例えば産業革命前では)どのように行われてきたか、歴史的に確認するとともに、実体の伴わないまま投機的に欲望が拡大し、「技術のフロンティアと欲望のフロンティア」が乖離してしまうことへの危惧を表しています。

 本書は、バブル経済が弾ける半年前に刊行されたものです。

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昨今の経済学者とは一味異なる視座を与えてくれる「豊かさ」3部作。

「豊かさ」とは何か.jpg  「ゆとり」とは何か.jpg 「豊かさ」のあとに.jpg   飯田経夫.gif 飯田 経夫(1932‐2003/享年70)
豊かさとは何か―現代社会の視点 (講談社現代新書 581)』『「ゆとり」とは何か―成熟社会を生きる (講談社現代新書 (655))』『「豊かさ」のあとに―幸せとは何か (講談社現代新書 (723))

「豊かさ」とは何か28861.jpg  理論経済学者・飯田経夫の本で、第1章で、「日本人はもう充分豊かになっている」「自分たちの住まいをウサギ小屋というのはやめよう」といい、これは当時('80年)としては多くから反発もありそうな呼びかけですが、そう述べる論拠を著者なり示していて、この章と、続く第2章で「ヒラの人たちの頑張りと平等社会」が日本を支えているという論は、今読んでもなかなか面白いし、外国人労働者が日本に入ってきたとき、日本の"平等社会"はどう変質するかといった考察などには、興味深いものがありました。

 この人はケインズ主義者であり、第3章以下では、1930年代の資本主義の危機の中で、ケインズが何をもたらし、何を変えたかを論じていますが、アダム・スミス以来の"自由放任"を終わらせたことよりも、ケインズ以前の"厳しすぎる"規律(均衡財政や金本位制)を終わらせたことにポイントを置いており、アダム・スミスに戻る流れに繋がる新古典派も、貨幣数量説のミルトン・フリードマンら反ケインズ派も、著者は認めていないようです。

 ただ、こうした経済政策論もさることながら、経済だけでなく日本社会をその特殊性をベースに考える著者独特の洞察は、輸入経済学を"翻訳"しているばかりの昨今の経済学者とは一味異なり、新たな視座を与えてくれるものでありました。

「ゆとり」とは何か2.jpg 著者は、本書を著した後も、日本経済が好況を持続し向かうところ敵無しという状況の中で、本当の意味での豊かさを問う『「ゆとり」とは何か-成熟社会を生きる』('82年)『「豊かさ」のあとに-幸せとは何か』('84年)を著し、これは講談社現代新書における「豊かさ」3部作というべきものになっていますが、当時としては、このようなテーマに執拗に注目している経済学者は少なかったのではないでしょうか(むしろ、社会学のテーマとされていた)。

 その後、更に、『日本経済はどこへ行くのか-危うい豊かさと繁栄の中で』('86年/PHP新書)で、マネーゲームの危うさなどを指摘していますが、バブル絶頂期に書かれた現代新書の第4作『日本経済ここに極まれり』('90年)においては、タイトルに反して当時の日本の好況を安定的な実力ではないと警鐘を鳴らしつつも、この人自身、それがいつか急激に弾けるバブルのようなものであるとまでは考えていなかったようです。

経済学の終わり-「豊かさ」のあとに来るもの.jpg しかし、バブル崩壊後、バブルを煽った多くの経済学者やエコノミストが何ら懺悔の言葉を発することがなかったのに対し、『経済学の終わり-「豊かさ」のあとに来るもの』('97年/PHP新書)で、「バブルに対して警告を発することなく、むしろそれを煽りさえした経済学者・エコノミストたちの罪は重い。私自身も」と反省しています(評価★★★★)。『経済学の終わり―「豊かさ」のあとに来るもの (PHP新書)

 地元である名古屋圏の地域経済の活性化にも関心を示し、新幹線「のぞみ」開通した時に東京-名古屋間の時間的距離が縮まることを喜びながらも、名古屋圏の文化・経済特性をどう維持するかが課題であると言っていたのが、印象に残っています。

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全体としては、それほど「易しい」という感想は持てなかった。

経済学はむずかしくない9767.jpg経済学はむずかしくない.gif 経済学はむずかしくない1 -.jpg 都留重人.jpg 都留重人  経済はなぜ変動するか.jpg
都留 重人『経済学はむずかしくない(第2版) (講談社現代新書)』['74年](表紙イラスト・挿絵:和田 誠)『経済学はむずかしくない (1964年) (講談社現代新書)』 伊達 邦春『経済はなぜ変動するか (講談社現代新書 224)』['70年]

経済はなぜ変動するか975.JPG 本書『経済学はむずかしくない』と同じ講談社現代新書にあった理論経済学者の伊達邦春・早大名誉教授の『経済はなぜ変動するか』('70年)は、経済変動がなぜ生じるかを、ケインズの国民所得決定理論から始めて、ハロッドやドーマーの成長理論などを説いたもので、学部生の副読本に勝るとも劣らないカッチリした内容。

 ヒックスの景気循環モデルに結びつけての新古典派成長理論などにも解説は及んでいて、新書でもムダを省けばここまでカバーできるのかというぐらいの内容ですが、その辺りまでいくと、如何せん、自分の頭がついていかない...。

 この本の前後に、有斐閣新書の古典学派関連の本を読んでいたのですが、そちらは経済思想中心で、それに対し、本書では線形数学による解説がかなりを占めているので、新書スタイルでとっつき易いとは言え、こうした本を読み慣れていない人には、ちょっと難しいのではないかという気がしました(経済学部の学生や出身者にとってはどうなのだろうか)。

経済学はむずかしくない_0235.JPG経済学はむずかしくない_0236.JPG これに比べると、都留重人(1912‐2006、本書刊行時は一橋大学学長)の『経済学はむずかしくない[第2版]』('74年、初版は'64年で講談社現代新書の創刊ラインナップの1冊)は、一応はタイトル通りの「入門書」と言えるものであるようで、"バロメータ"という概念を中心に据え、目には見えない経済の状態を反映するバロメータにどのようなものがあるかを、平易な事例と言葉で解説しています。 

 そうしながら、ミクロ経済やマクロ経済を解説しているわけですが、ミクロからマクロへと話を進める中で、経済の重要なバロメータとして、物価や賃金、利子率や為替率を解説していて、それらの関係はまあまあ把握し易く、マクロ経済の解説も「家計」の事例から入るなど、初学者への配慮が見られます。

 しかしながら、こちらも、利潤の極大化や成長理論の話になると、すぐに微分数式などが顔を出してきて、ちょっと理解しにくいところもあり、結局、全体としては、タイトルほど「易しい」という印象は受けませんでした(元が講談社現代新書の創刊ラインナップの1冊であり、当時はまだこの新書の読者層イメージが固まっていなかったのではないか)。

経済学はむずかしくない1.jpg 本書で、都留重人は、資本主義が変わってきたからこそ、マクロ経済が生まれるようになったのであり、経済の仕組みは一度それが定着すると永久に変化しないというようなものではないとし、また、我々は、資本主義により発展してきた国にいるため、資本主義の「競技規則」に従わざるを得ないが、その中で「必然を洞察した自由」を持つべきで、そのためには資本主義の仕組みをよく知らねばならず、そのことにより、仕組みそのものをより良いものに変えていくこともできるだろうと言っています。

 ハーバード大学出身ですが、アメリカに渡った頃はマルクス主義者だったらしく、アメリカのそうした学者たちに影響を与え、彼自身も「マルクス主義的ケインズ経済学者」と言われたりした人で、自らは、自身を「リベラルな社会主義者」であると言っていたそうです(今で言えば、構造改革路線に近いということか)。

   

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'70年代後半のアメリカの文化や社会の荒廃と「格差社会」ぶりをよく捉えている。

マイ・アメリカ.jpg  マイ・アメリカe.jpg   マイ・アメリカ2.jpg
(28.8 x 21.4 x 2.2 cm)『マイ・アメリカ―立木義浩ノンフィクション (1980年)』『マイ・アメリカ (1982年)』 集英社文庫 ['82年]

 写真家・立木義春が'70年代後半にアメリカに渡り、2年間にわたってロサンゼルスやニューヨーク、その他の地方都市で当時のアメリカを象徴する風俗や社会の内側を撮ったもので、一応"写真集"ということになっていますが、ルポないし紀行文的な文章もあり、"写文集"といったところ。

MY AMERICA.jpg 「アメリカの深層部・恥部・細部をくまなく歩きまわり、鮮烈な映像でとらえたホットな報告書」と口上にあるように、今見ればやや意図的な露悪趣味も感じないことはないものの、男性ストリップに熱狂する女性たちや、アラバマのKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーなど、当時のベトナム戦争後のアメリカの文化や社会の荒廃をよく捉えていて、サウスブロンクスの少年ギャングを追った「サウスブロンクスは、この世の地獄だ。」などは、今読んでも衝撃的です。

立木 義浩 『マイ・アメリカ』.jpg 元々、集英社が版元である「日本版PLAYBOY」の企画であり、それ風の表紙に収まっているマリリン・モンローは、実は"そっくりさん"で、今は日本でも比較的知られていることかも知れませんが、アメリカにはタレントのそっくりさんだけを集めたプロダmyAMERICA.jpgクションがあり、チャップリン、ウッディ・アレン、チャールズ・ブロンソン、ロバート・レッドフォードなどの他、キッシンジャーのそっくりさんまでいるという話に、当時は驚きました。でもそう言えば、インパーソネーター(そっくりさん)を主人公にした映画が今年['08年]どこかの映画館でかかっていたのを思い出しました。

 著者は、ロスにあるモンローのそっくりさんの住まいを訪ね、それが侘びしいアパートであることに、ちょっとしんみり。それでもカメラを向けると彼女自身はモンローになり切ってしまうので、おかしいというより悲しい気分になる―。
 この程度のそっくりさんは掃いて捨てるほどいるということか。競争社会、アメリカで生きていくって大変そうだなあと思いました。

 一方で、一年中を乗馬や園遊会で過ごす「富裕層」の野外パーティーも取材していて、この人たちにとっては浪費することだけが人生であり、仕事は一切せず(仕事から遠ざけられている面もあるかも知れないが)、昔のイギリス貴族の真似事みたいなことをして日々を送っているわけです(ある意味、彼らは純粋に「資本家」であるということなのかも)。

 日本でも近年「格差社会」論争が盛んで、アメリカに比べてどうのこうのと言った言い方もありますが、元々アメリカと比べるのがおかしいのでは、という気持ちになります。

 【1980年単行本[集英社]/1982年文庫化[集英社文庫]】

●インパーソネーター(そっくりさん)を主人公にした映画
ミスター・ロンリー」 ('07年/英・仏・米)
ミスター・ロンリー dvd.jpg ミスター・ロンリー 01.jpg ミスター・ロンリー07.jpg

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素材(話題)は古いが、"ケータイ"カメラ時代に考えさえられる点も。

映像のトリック2.jpg映像のトリック.jpg  秋葉原通り魔事件.jpg
映像のトリック (講談社現代新書)』['86年] 秋葉原通り魔事件 NHKスペシャル「追跡・秋葉原通り魔事件」(2008.6.20)より

 『写真のワナ』('94年/情報センター出版局)や『疑惑のアングル』('06年/平凡社)などの著書がある"告発系"(?)フォトジャーナリストである著者が、まだ共同通信社の写真部に在籍していた頃の著書で、'86年2月刊。

心霊写真.jpg 報道写真のウソを、太平洋戦争時から直近までの事例で以って説明していて、新書にしては写真が豊富です。但し、戦争中の報道写真なんてウソの報道ばかりであることは想像に難くなく、写真合成のひどさ(いい加減という意味も含めて)は、最近読んだ、小池壮彦氏の『心霊写真』('02年/ 宝島社新書)を髣髴させるものがありました("心霊写真"は世間を騒がせただけだが、本書にある"戦争報道写真"などは当時の日本国民を欺いたわけで、ずっと罪は重いと言えるが)。

『カプリコン・1』(1977).jpgCapricorn One.jpgCapricorn 1.jpg アメリカなどの戦勝国も、朝鮮戦争やベトナム戦争を含め、同じようなこと(報道統制・映像による虚偽行為)をしていたことがわかり、そう言えば、スタジオの中でいかにも火星着陸に成功したかのように演出してみせる、ピーター・ハイアムズ原作・脚本・監督、エリオット・グルード主演の「カプリコン・1」というSF映画(と言うより、完全な政治映画)などもあったなあと思い出したりもしました(この映画は米英両国の合作製作で、NASAは当初協力的だったが、試写で内容を知ってから協力を拒否した。アメリカ本国での公開は日本での公開より半年遅かった)。
"Capricorn One" (1977)

 "直近"の出来事では、日航機墜落事故'85年8月)で遺族に頭を下げている日航社長の姿勢が、実はカメラマンを意識したものであったとか、そのほか、グリコ・森永事件'84年)でのCGによる捜査写真の問題点などを扱っていますが、この頃が、CG写真やデジタルカメラ(本書では「電子カメラ」)の草創期だったのだなあ、と事件と共に思い出すとともに、今となっては話題(素材)が古すぎて、昔の新聞を読んでいるみたいな感じも。

豊田商事事件.jpg  本書は"トリック"というテーマには限定せず、ロス疑惑事件の三浦和義"疑惑人"逮捕('85年9月)前後の過熱報道など様々なケースを取り上げていますが、多くの報道陣の目の前で殺人が為された豊田商事事件(永野会長刺殺事件)('85年6月-何だか、事件が続いた時期だった)について、現場に居合わせたカメラマンの、夢中でシャッターだけ切り、急に身の危険を感じて逃げるべきかその場に居るべきか、という考えが一瞬頭の中をよぎったものの、後は冷静さを失い、結局自らはどうすることも出来なかったという証言を載せているのが関心を引きました。

豊田商事・永野会長刺殺事件 (本書より) 1985.6.19 毎日新聞(朝刊)

 これは、カメラマンだからこそ、撮るべきだったか、止(と)めるべきだったか、結局、後で悩むわけで(悲惨な戦争の報道でカメラマンが被写体に対して、撮影するしない以前の問題として何かしてやれなかったのかとよく非難されるパターンと同じ)、最近は一般の人が常に"ケータイ"というカメラを持っており、駅のホームで落下事故や飛び込みがあると、助けるわけでも人を呼びにいくわけでもなく、一斉に"ケータイ"で写真を撮り始めるという―(その写真を早速友人たちに転送している彼らは、後で思い悩むことがあるのだろうか)。

秋葉原通り魔事件 ケータイ.jpg 何だか現代社会の疎外を象徴する殺伐とした「お話」だと思っていたら、秋葉原通り魔事件が今月('08年6月8日)に起き、その際に居合わせた群集の一部が、一斉に"ケータイ"カメラを現場に向けているという光景が見られ、「現実」のこととしておぞましく感じられました。そんな中、ある30代の男性が、倒れた被害者を救助すべく、素手で口に手をこじ入れ気道確保をしたうえで、他の通行人と協力して心臓マッサージや人工呼吸を試み、到着した救急隊に被害者を引き渡したが、この人は写真が趣味で、当日も首からカメラをぶら下げていたにも関わらず、「目の前に倒れている人を救助したい一心」で、事件の写真は1枚も撮らなかった―という記事が読売新聞にあり、多少救われたような気持ちになりました。

カプリコン1.jpg「カプリコン・1」●原題:CAPRICORN ONE●制作年:1977年●制作国:アメリカ/イギリス●監督・脚本・原作:ピーター・ハイアムズ●製作:ポール・N・ラザルス3世●音楽:ジェリー・ゴールドスミス●出演:エリオット・グールド/ジェームズ・ブローリン/ブレンダ・バッカロ/サム・ウォーターストーン/O・J・シンプソン/ハル・ホルブルック/カレン・ブラック/テリー・サバラス●時間:124分●日本公開:1977/12●配給:東宝東和●最初に観た場所:池袋文芸坐 (78-12-13) (評価:★★★)●併映「ネットワーク」(シドニー・ルメット)

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中学受験への問題提起? それとも、受験必勝法? 主題分裂気味な面も。。

中学受験、する・しない?.jpg 『中学受験、する・しない? (ちくま新書)』['01年] 秘伝 中学入試国語読解法.jpg 石原千秋 『秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)』 ['99年]

ウディ・アレンのすべて.jpg 以前に、受験生の父親が書いた中学受験に関する本で定評のあるものとして、作家・三田誠広氏の『パパは塾長さん』('88年/河出書房新社)、国文学者・石原千秋氏の『秘伝 中学入試国語読解法』('99年/新潮社)、テレビ局社員・高橋秀樹氏の『中学受験で子供と遊ぼう』('00年/日本経済新聞社)を読みましたが、本書はこれらの後に出た本の中では好評のようで、個人的には、ボブ・グリーンやマイク・ロイコのコラム翻訳、或いはブロードウェイ・ミュージカルの入門書やウディ・アレンの評伝などで親近感のある著者の書いたものであるということもあり、また、タイトルの「する・しない?」にも少し惹かれて手にしました。

 著者自身、2人の娘の中学受験を経験したわけですが、前3著ほど、そのことについて詳しく書かれているわけではなく、また、どこの学校を受けて、どこに入ったというような学校名も書かれておらず、「中学受験のあるべき姿」を一般論として論じています。

 本書で著者が強調していることは、偏差値に振り回される時代は終わり、子どもの性格に合った塾や学校選びをせよということであり、例えば、大学受験をしなくてすむ大学附属校などの出身者は、おっとりした性格の人が多いなどというのは、当たっているような気がしました。

 私立の中・高一貫校は、本書が書かれた頃には既に人気の的になっていたわけで、著者は、公立校復権の気運に対し、所得による教育の不公平性を排除するために、有名大学への進学を目指した公立の中・高一貫校を一部に作るのはいい、但し、そうした学校をやみくもに増やして、公立学校の中に再び偏差値によるピラミッドを作ることはやめるべきだと言っています。

 私立の受験日を平日にもってくるべきではない、受験科目数を減らすべきだなどの提言はマトモですが、あとがき的に書かれている程度で、そのほかには言い切れてない部分も少なくなく、全体としてインパクトが弱いような...。
 そもそも、一方で、「現在の日本の中学受験の『勝者』となる方法」を本書のテーマとして挙げていて、「中学入試偏差値一覧」(これ、見易い)なども載せているため、主題分裂気味な面もあり、少なくとも「する・しない?」の「しない」は、最初から除かれているような感じ(私立の小学校受験については、公立ので「いろいろなタイプの人たちと交流することが大事」だというのが著者の意見)。

 麻布中学の国語問題を載せ、その長文の長さと難易度の高さに、「嫌でも大変でも、これが現実」としていますが、読者をびっくりさせているだけのような気もし、石原千秋氏が、中学受験の国語問題を多く取り上げながら、それらに潜む一定の価値観への指向性を指摘した『秘伝 中学入試国語読解法』の方が、"批判"と"実用"の両方を(巧妙に)兼ね添えていると言えます。
 専門分野の違いもあるかと思いますが、だったら、受験英語についての問題点を指摘してみてはどうかなあ(既にやっておられれば、失礼しました)。

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「日本人論」ブーム以前に、斬新な日本人論を展開。

日本人の意識構造m.jpg日本人の意識構造(1970).jpg  日本人の意識構造.jpg日本人の意識構造2.gif  会田雄次(あいだゆうじ).jpg 会田雄次(1916‐1997/享年81)
日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (1970年)』 『日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (講談社現代新書)』 ['72年]

日本人の意識構造 (講談社現代新書)2.jpg 子どもを危険から守る時、日本人は必ず前に抱きかかえるのは何故か。日本人が危険に対して咄嗟に背を向ける形になるのに対し、アメリカ人は子どもをまず後ろに跳ね除け、危険と対峙する形をとるそうで、本書では、普段は意識されることがないこうした動作の民族的固有性、例えば、西洋鉋(かんな)は押して削るが、日本の鉋は引いて削る(日本刀も引いて斬る)といったことなどから、日本人論を展開しているのがまず興味深かったです。

 著者によれば、日本人は、敵は後ろからやってくると考えており、戦国時代の戦さも、背後から仕掛けるのが主流の戦法だったとのこと(これは近代戦においてはほぼ通用しない)、例えば、組織においても、組織の内側に敵を求めるのが日本人の特質であり(専ら後方の敵ばかり気にしている)、また、ヨーロッパなどでは平和や家庭は「作る」もの、「建設するもの」であるのに対し、日本では、平和や家庭は「守る」ものになり、「平和になる」というように、自己の決断でさえ自然発生的なものとして表すのも、日本人の特徴であるとのこと。

 こうした日本人の意識の柔弱さ、欠点とも思われる部分を小気味良いまでに次々と明らかにしていて、一方で、短期決戦、突貫工事に力を発揮する日本人、壮大な長期目標が無いと意欲が湧かない西洋人、というように、それぞれの長所・短所という捉え方もしていて、読み進むとむしろ、英国人の自己中心主義や権威主義(家柄主義)、米国人男性がいかに妻や家庭に縛られ不自由にしているか、などが述べられていて、特に教育において、英国の名門大学(オックスフォード・ケンブリッジ)と日本の東京大学(帝大)の、そこに属する人の社会的地位の意味合いの違いについては、考えさせられるものがありました(読んでると、だんだん日本っていいなあ、みたいな気分になってくる)。

 個人的には、著者に対し保守派の論客というイメージを持っていましたが、本書でもナショナリズムの復権を訴えてはいるものの、そこに政治性はあまり感じられず、むしろ、ちょっと外国人と接触しただけで「国際人」になった気分になるオメデタイ人たちに対し、日本人と西欧人のいかに異なるかをもっと認識せよと(多分にシニカルに)言っているように思えました。『アーロン収容所』を再読して以降、「西洋人が別の生き物に見えた」という著者独自のトラウマのようなものを感じ、但し、著者の指摘する日本人と西洋人の意識構造の違いというのは、そうしたことを割り引いても、確かにナルホドと思わせるものがあります。

 本書後半は論考集で、結果として本としては若干寄せ集め気味の構成ですが、この中にも、ベネディクトの『菊と刀』における西洋人の「罪の意識」と日本人の「恥の意識」という単純な論理展開に、西洋人にも「監視の意識」はあると反駁している部分などがあり、これらは'65(昭和40)年ぐらい、つまり『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などによる日本人論ブームが起こる以前に書かれた日本人と西洋人との比較論であることを思うと、その独自性、先見性は再評価されてもよいのではないかと思われます。

 【1972年新書化[講談社現代新書]】

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禅の伝道者としての面目躍如。禅の入門書としても日本文化論としても読める。

鈴木 大拙 『禅と日本文化』.JPG禅と日本文化.jpg   禅と日本文化1.bmp    鈴木大拙 没後40年.jpg
禅と日本文化 (岩波新書)』 (1940)/『禅と日本文化 (1948年) (岩波新書〈第75〉)』/『鈴木大拙 (KAWADE道の手帖)』('06年/河出書房新社)

 仏教学者の鈴木大拙(1870‐1966)が、禅とは何か、禅宗が日本人の性格を築きあげる上でいかに重要な役割を果たしたかを外国人に理解してもらうために、禅と日本文化の関連を、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句の各テーマについて論じたもので、英米で鈴木大拙が行った講演をベースに、北川桃雄(1899‐1969)が翻訳し、1940(昭和15)年に刊行されたものです。

 内容的には、禅の入門書としても読めますが、日本文化にいかに禅というものが染み込んでいるかという日本文化論としても読め、外国人に説明的に話されているのと、一度英語で記されたものを和訳したものであるため、文章の主格・従格がはっきりしていることもあって読み易いと思われます。
 例えば、「禅と美術」の章で、〈わび〉の真意は「貧困」(ポヴァティー)である、などとあり、外国人に限らず、今の一般的日本人にとっても、こういう風に説明してもらった方が、はいり込み易いかも。
 但し、それだけではなく、「禅と茶道」の章では、〈さび〉と〈わび〉は同義であるが、そこには美的指導原理が在り(これを除くとただのビンボーになってしまう)、〈さび〉も〈わび〉も貧乏を美的に楽しむことである、更に、〈さび〉は一般に個々の事物や環境に、〈わび〉は通常、貧乏、不十分を連想させる生活状態に適用される、とあります。

 禅の問答話も多く紹介されていて、これを聞いた外国人は、それらの話の展開が西洋的なロジックと全く逆であるため、一瞬ポカンとしたのではないでしょうか。その辺りを、日本の文化や芸術に具象化されているもので解説する(この時点で、外国人よりは日本人の方が、イメージできるだけ理解し易いのでは)、更に、必要に応じて、先の〈さび〉と〈わび〉の説明のような概念整理をしてみせる(ここで何となく外国人も理解する)、といったことを丁寧に繰り返しているような感じで、禅の伝道者(advocator)としての面目躍如といったところ。

 鈴木大拙の業績の要は、まさにこの点にあったと思われるのですが、外国人を惹きつける魅力を持った彼の話には、20代後半から12年間アメリカで生活して西洋人と日本人の違いを体感してきたこともあり、また、仏教に対する造詣だけでなく、東西の宗教や文化・芸術に対する知識と理解があったことがわかり、この人自身は、禅者であったことは確かですが、併せて、傑出した知識人であったことを窺わせます。
 79歳からも9年間西欧に渡り、仏典の翻訳の傍ら、フロム、トインビー、ハイデガー、ヤスパースら20世紀を代表する知識人に禅や老荘思想を伝授し、大拙の元秘書だった岡村美穂子氏によると、'66年に96歳で亡くなる前日まで、仕事に励んでいたとのこと(死因は腸閉塞)。

禅と日本文化 対訳.jpg 個人的には、最初に本書を読んだ時に、第1章の「禅の予備知識」を入門書として重点的に読みましたが、第2章以下の各文化との関連については、読み込み不足だったと思われ、今回の読書でもその印象は残っており(星半個マイナスは自分の理解度の問題)、また何度か読み返したい本です。

 岩波の旧赤版ですが、復刻されているので入手し易い部類ではないかと思われます。個人的には、汚れナシのものを古本屋で200円で購入、再読しました。'05年には、講談社インターナショナルより対訳版も刊行されています。

対訳 禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture』 ['05年/講談社インターナショナル]

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実践と学識に裏打ちされた、「自己責任論」の過剰に対する警鐘。

反貧困.jpg反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)』['08年]湯浅 誠.jpg 湯浅 誠 氏 (NHK教育「福祉ネットワーク」(2007.12.19)「この人と福祉を語ろう 見えない『貧困』に立ち向かう」より)

 著者が立ち上げたNPO法人自立生活サポートセンター〈もやい〉には、「10代から80代まで、男性も女性も、単身者も家族持ちや親子も、路上の人からアパートや自宅に暮らしている人まで、失業者も就労中の人も、実に多様な人々が相談に訪れ」、〈もやい〉では、こうした貧困状態に追いやられてしまった人々のために、アパートを借りられるように連帯保証人を紹介したり、生活保護の申請に同行したりするなどの活動をしているとのことです。
 本書には、その活動が具体例を以って報告されているとともに、こうした活動を通して著者は、日本社会は今、ちょっと足をすべらせただけでどん底まですべり落ちていってしまう「すべり台社会」化しているのではないかとしています。
ルポ貧困大国アメリカ.jpg 冒頭にある、生活困窮に陥ってネットカフェや簡易宿泊所を転々とすることになった夫婦の例が、その深刻さをよく物語っていますが、ネットカフェ難民自体は、既にマスコミがとりあげるようになった何年か前から急増していたとのこと。「帯」にあるように、本書でも参照している堤未果氏の『ルポ 貧困大国アメリカ 』('08年/岩波新書)に近い社会に、日本もなりつつあるのかも、と思わせるものがります。

 国の社会保障制度(雇用・社会保険・公的扶助の「3層のセーフティネット」)が綻んでいるのが明らかであるにも関わらず、個人の自助努力が足りないためだとする「自己責任論」を著者は批判していますが、一方で、「貧困」の当事者自身が、こうした「自己責任論」に囚われて単独で頑張りすぎてしまい、更に貧困のスパイラルに嵌ってしまうこともあるようです(「もやい(舫い)」〉というネーミングには、そうした事態を未然に防ぐための「互助」の精神が込められている)。
 著者は、こうした横行する「自己責任論」に対する反論として、個々の人間が貧困状況に追い込まれるプロセスにおいて、親世代の貧困による子の「教育課程からの排除」、雇用ネットや社会保険から除かれる「企業福祉からの排除」、親が子を、子が親を頼れない「家族福祉からの排除」、福祉機関からはじき出される「公的福祉からの排除」、そして、何のために生き抜くのかが見えなくなる「自分自身からの排除」の「5重の排除構造」が存在すると指摘していて、とりわけ、最後の「自分自身からの排除」は、当事者の立場に立たないと見えにくい問題であるが、最も深刻な問題であるとしています。

グッドウィル・折口会長.jpg 個人的には、福祉事務所が生活保護の申請の受理を渋り、「仕事しなさい」の一言で相談者を追い返すようなことがままあるというのが腹立たしく、また、違法な人材派遣業などの所謂「貧困ビジネス」(グッドウィルがまさにそうだったが)が興隆しているというのにも、憤りを覚えました。
 折口雅博・グッドウィル・グループ(GWG)前会長

 著者自身、東大大学院在学中に日雇い派遣会社で働き、その凄まじいピンはねぶりを経験していますが、実体験に基づくルポや社会構造の変化に対する考察は、実践と学識の双方をベースにしているため、読む側に重みを持って迫るものがあります。

 結局、著者は博士課程単位取得後に大学院を辞め、〈もやい〉の活動に入っていくわけですが、今のところ学者でも評論家でもなく社会活動家であり、但し、今まではNPO活動の傍ら「生活保護申請マニュアル」のようなものを著していたのが、2007年10月には「反貧困ネットワーク」を発足させ、更に最近では本書のような(ルポルタージュの比重が高いものの)社会分析的な著作を上梓しており、今後、「反貧困」の活動家としても論客としても注目される存在になると予想されます。

(本書は2008(平成20)年度・第8回「大佛次郎論壇賞」受賞作。第14回「平和・協同ジャーナリスト賞」も併せて受賞)


《読書MEMO》
●「どんな理由があろうと、自殺はよくない」「生きていればそのうちいいことがある」と人は言う。しかし、「そのうちいいことがある」などとどうしても思えなくなったからこそ、人々は困難な自死を選択したのであり、そのことを考えなければ、たとえ何万回そのように唱えても無意味である。(65p)
●〈もやい〉の生活相談でもっとも頻繁に活用されるのは、生活保護制度となる。本人も望んでいるわけではないし、福祉事務所に歓迎されないこともわかっている。生活保護は、誰にとっても「望ましい」選択肢とは言えない。しかし、他に方法がない。目の前にいる人に「残念だけど、もう死ぬしかないね」とは言えない以上、残るは生活保護制度の活用しかない。それを「ケシカラン」という人に対しては、だったら生活保護を使わなくても人々が生きていける社会を一緒に作りましょう、と呼びかけたい。そのためには雇用のセーフティネット、社会保険のセーフティネットをもっと強化する必要がある。(132‐133p)

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「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」―。確かに、と思わせる。

俳句という遊び―句会の空間.jpg 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年]  俳句という愉しみ.jpg  『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]           

飯田龍太の時代.jpg 『俳句という遊び』は、飯田龍太(1920‐2007)ら8人の俳人が会した句会の記録で、句会どころか俳句自体が個人的にはあまり馴染みのない世界であるにも関わらず(メンバーの中でも名前を知っているのは高橋睦郎ぐらい)、著者(作家の小林恭二氏)の軽妙な導きのお陰で、読んでいる間中ずっと楽しめました(自ら"野球中継"に喩えていますが、ホントそんな感じ。或いは、将棋のユーモラスな盤解説みたいな感じも)。

飯田龍太の時代―山廬永訣 (現代詩手帖特集版)』 ['07年]

 俳句は17文字しか使えないだけに、様々な決め事があるのでしょうが、そうした俳句に関する細かい知識が殆どなくとも十分に楽しめ、むしろ、17文字しかないだけに、俳人たちの一語一句に込める思いの深さに感嘆させられます(メンバーの批評や著者の解説を読んで、初めてナルホドと思うのだが)。

 ただ、本人の思い入れとは別に、一旦作者の手を離れると、同じ句でも、「なんだ、これ」と首を傾げる人も入れば、作者以上に(?)鋭い読みをして絶賛したりする人もいたりするのが面白いです。
 「正選」と併せて「逆選」もしているので、句会のメンバーから酷評され、著者も「何ら意味がない」「あえなく撃沈」みたいに書いている句もありますが、そうした中にも嫌味がなく、大人のコミュニケーションだなあという感じ。
 作者は、論評が終わった後に名乗るシステムで、「この句はここが弱い」とか言ってる評者が、実はその作者だったりするのもおかしい。
 俳句とは、こうしたコミュニケーションの文学なのだ―、そういうことを、知らず知らずのうちに理解させてくれる本でもあります。

 それでも、2日がかりで8人の俳人が評点の累計を競っているだけに、終わった後は、皆、疲れた〜という感じ(やはり、そうだろうなあ)。
 なのにこれに懲りず、新書本にすることを前提に、多少メンバーを入れ替えて、何年か後にもう1度句会をやっています(こちらは、『俳句という愉しみ』に収録)。

 1冊目の『俳句という遊び』の方の句会は、飯田龍太を求心力として催されている感じもするのに対し、2冊目の『俳句という愉しみ』は、飯田が抜け、物理学者で元東大総長の有馬朗人らの俳人、或いは歌人などが加わって、よりオープンな感じ。でも、有馬朗人にしてもそうですが、1冊目の飯田龍太にしても、上座に鎮座しているような雰囲気は全然なく、どちらも飄々としたいい感じで、そうしたものが全体の「座」のムードを楽しくしています。

 「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」(『俳句という愉しみ』(144p))―。確かに、と思わせるものがありました。

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中国民族に根ざす思想と芭蕉にまで至るその系譜。宇宙・生命の起源論にまで及ぶテーマ。

「無」の思想.jpg無の思想 旧カバー.jpg 『無の思想―老荘思想の系譜 (講談社現代新書 207)』 ['69年] 

 中国で初めて「自然」の哲学を立てたのは老子・荘子ですが、本書によれば、「自然」の第一義は、「他者の力を借りないで、それ自身の内にある働きによって、そうなること」であり、この「他者」を人為または意識的な作為として捉えるとき、そこに「無為自然」の思想が現れる、つまり「自然」にとって「他者」は人為であり、人為を対立者として排除することが「無為自然」であるとのことです。

「無」の思想―老荘思想の系譜 3.jpg 「無」の思想―老荘思想の系譜4.jpg

 しかし、「老子・荘子」は、それぞれ一代で出来上がったものではなく、従って、そこに現れる「無為自然」の考え方にも、法や道徳で人を束ねようようとする為政者に対する批判としての自然回帰を説いた"虚無自然"(老子)から、形而上学的認識論としての"無差別自然(万物斉同)"(荘子)、中国民族の運命観に根ざす"運命自然"(荘子)、後の"数理自然"(陰陽五行説)、"本性自然"(性善説・性悪説)に繋がるものなど、同じ「無為自然」でも幾つかの異なる概念パターンが見られるようです。

 更には、これら「無為自然」とは別の、儒教の"則天自然"や列子、淮南子に見られる「有為自然」の考え方も見られるとのこと、更に更に、これも有為自然の1つですが、練習によって得られる"練達自然"(荘子)というものさえ説いていて、これは六朝時代以降の仏教に影響を及ぼしているとのことですが、何れにせよ、「老荘」に見られる諸概念は多岐広範であるとともに、中国人の死生観、宗教観・人生観に深い影響を及ぼしていることがわかります。

 仏教の中でも禅宗は最も老荘思想に近いものと考えられますが、著者は、老荘思想は「無為自然」のウェイトが高く、禅宗は「有為自然」のウェイトが高いのがそれぞれの違いだと言っており、確かに、座禅を組むということは、努力を伴う人為であり、有為自然と言えますが、一方、浄土教の「自然」(じねん)の概念は、親鸞の「自然法爾」までは「無為自然」に近いようです。

 本書後半では、こうした老荘の自然が、江戸時代の荻生徂徠ら儒学古学派や賀茂真淵、本居宣長らに与えた影響を探り、最後に、松尾芭蕉における「荘子」の影響と、彼の後期の「運命自然」観(「有為自然」である俳諧を捨て、「無為自然」の境地に)を考察していて、ここはなかなか興味深かったです。

 それと、冒頭で、「荘子」の脚注者としては現存最古である晋(3世紀)の郭象の荘子の読解に着目していて、郭象が、万物の主宰者の存在を否定するに止まらず、一般の物の生成には原因が存在しないという、独特の主張をしているというのが興味深かったです。
 老荘思想の根本には、「有は無から生まれる」という考えがありますが、郭象は、脚注者でありながら、「無は有を生じることはできない」としていて、老荘が「無」を唱えたのは、「有は有自身から生まれるもので、有を生じせしめるような他者は無い」という意味なのだと踏み込んで解釈しています(形而上学的には、こっちの方が洗練されている)。
 一見「老荘」を我田引水に解釈しているようで、実は「自然」の第一義に適った考え方であり(著者はこれを「無因自然」と呼んでいるが、同じ頃インドに無因論子という外道哲学の一派があり、偶然に同じようなことを言っていたらしい)、本書のメインタイトルに最も近いテーマであるとともに、宇宙や生命の起源論にまで及ぶ壮大なテーマでもあるように思えました。

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第一級資料を丹念に参照した社会文化史。読み物としても楽しめる内容。

心霊写真.jpg 『心霊写真 (宝島社新書)』 ['00年] 心霊写真―不思議をめぐる事件史.jpg 小池 壮彦 『心霊写真 不思議をめぐる事件史 (宝島社文庫)』 ['05年]
心霊写真は語る (写真叢書)
心霊写真は語る.jpg 「心霊写真」について"多角的"に論じた『心霊写真は語る(写真叢書)』(一柳廣孝・編/'04年/青弓社)は、8章から成る分筆で、執筆陣の殆どは大学教員、その人たちの専門は社会学や文化人類学、心理学や精神医学であり、「心霊写真」というのは、今や学問的には、主として社会心理学、文化社会学、社会文化史などの対象となっているのだということがわかります。

 写真は豊富ですが、内容的には論文集のような寄せ集め的印象で、但し、作家の小池壮彦氏が受け持った最終章が全体を締めるとともに、学者ではないせいもありますが、「心霊写真」ブームに対する愛着のようなものが文章に滲み出ていたように思いました。

 その小池氏の肩書きは、本書『心霊写真』では「怪談史研究家」となっており、内容的にも本書は、日本近代史を「心霊写真」に関する話題で振り返ったものとなっています。

 「心霊」という言葉は、"news"を「新聞」とした名訳で知られる中村正直が、"intellect"を「心霊」と訳したことに始まるそうで、当時、「心霊」とは「心理」のことだったとか(今で言う「心霊」は、当時は「神霊」だった)。ところが、あの西周が(彼は"intellect"を「智」と訳している)、"Psychology"を「心理学」と訳し、これが学問分野として成立する過程で、「心霊」の方は、今日の「超心理」に当たる語として使われるようになったとのこと。それ以前は、「心霊写真」は「幽霊写真」と呼ばれていたそうですが、「霊魂不滅説」は認めないが「念写」を認めるといった人もいたりするため、大正時代頃から「心霊写真」と呼ばれるようになったとのこと(だから、霊の存在を必ずしも前提としない)。

 要するに、それ以前の明治時代から「心霊写真(事件)」自体はあったわけで、それが大正時代にはブームとなり、いっそこれをエンタテインメントとして楽しもうという風潮さえあったとのこと。つまり、その頃には、写真師が為す作為的な「心霊写真」のカラクリなどは殆ど解明されていたのに、一方で、巧みな「物語的」尾ひれがついて、日本人の心性と結びつく「慰安哲学」のようなものが、そこにはあったのでしょう、それは昭和になっても続き(戦前のブームは、敢えて取り締まることをしない国策的放任の影響もあったらしい)、写真に写る「幽霊」の正体が、現像ミスやトリックの産物であることは、戦前までには明らかになっていたにも関わらず、戦後も常に"ゾンビ"のようにブームは復活して、'70年代の「心霊ブーム」は、大正時代のそれと変わらないものであったというから(また、新聞が面白おかしくそれらを伝えている)、人間というのは時代を経ても変わらないものだなあと思いました(「心霊テレビ」とか「心霊ビデオ」とか、相手方の"ゾンビ"も生き残りをかけてメディアを選んでいて、なかなかしぶとい)。

 著者は、こうした「まがい物」であればあるほど流布するという「心霊ブーム」を、どことなく楽しんでいるようですが、グルのような人物とそれに帰依する集団が誕生するような状況に対しては、一線を越えたものとして、人一倍の危惧の念を抱いていることがわかります。宮崎勤死刑囚.jpgそれと、'89年に発覚した「宮崎勤事件」の時の雑誌報道にあったような、「彼の写真の背後に殺害された少女の姿が...」といった(どう見てもそんなものは写ってなかった)騒ぎに対しても、怒りを露わにしています。'80年代以降の「心霊写真」ブーム特徴として、それまでのような文学性(物語性)が排除されて、単なる投稿写真ネタになってしまったとのことで、そろそろ、こうしたブームは終わるべき時がきたのではないか、としています(本当に、コレ、"ゾンビ"のように終わらないものなのかも知れないが)。

 実質的には「超心理学」の本と言うより、「文化社会学」の本(記録)ですが、第一級資料を丹念に参照していて、かつ、読み物としても楽しめる内容に仕上がっています。

 【2005年文庫化[宝島社文庫(『心霊写真―不思議をめぐる事件史』)]】

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ノンフィクションをスパイ小説タッチで書く手腕に感心。当時より、今の方が身近な問題に。

カッコウはコンピュータに卵を産む 上.bmp カッコウはコンピュータに卵を産む 下.bmp   WarGames.jpg "Wargames" [1983]
カッコウはコンピュータに卵を産む〈上〉』 『カッコウはコンピュータに卵を産む〈下〉

 天文学研究の傍ら、研究所のシステム管理の責を負うことになった主人公が、システムの使用料金合計が僅かに合わないことの原因の究明に当たるうちに、コンピュータにハッカーが侵入していることが判明、このハッカー、研究所のコンピュータを足場に、国防総省のネットワークを経由して各地軍事施設やCIAのコンピュータに侵入していて、どうやらドイツが発信元らしいことは判ったが、当局はまだ調査に動かない。その間にもハッカーは、米国の軍事施設やドイツ駐留米軍基地に侵入するなど世界を自在に駆け巡ってスパイ活動していて、そこで主人公は、ハッカーの正確な居場所を突き止めるために一計を案じる―と、まるで手に汗握るスパイ小説のような話ですが、本書は実際にあった国際ハッカー事件の記録であり、そのハッカー相手に奮闘した天文学者が'89年に自ら書き下ろしたものです(原題:The Cuckoo's Egg: Tracking a Spy Through the Maze of Computer Espionage)。

ウォー・ゲーム.jpg かつて、80年代前半に、「ウォー・ゲーム」('83年)という映画がありました。

映画 「ウォー・ゲーム

 パソコン少年が偶然繋がった正体不明の相手とネット上で米ソ核戦争ゲームをするのですが、実はその相手は、北米防空司令部が核攻撃を自動化したコンピュータであり、相手は仮想のソ連の攻撃を演出しているのに、少年の攻撃は、実際の作戦命令として実行されようとしていたというもの。
 ハラハラさせられる一方で展開に少しご都合主義な点もあり、映画としての出来はイマイチ、そのバックグラウンドも当時はやや荒唐無稽に思えたのですが、後にその背景モチーフは予見的なものだったとして再評価され、映画全体の評価も併せて上昇するに至りました。
 本書などは、まさに「ウォー・ゲーム」再評価の原動力の1つになったかも(セキュリティ・システムは20年前と今では全然違うだろうが、それでも、国の関係機関が運用するサイトがハッカー攻撃に遭ったりしているではないか)。

 実際にあった"電子スパイ事件"という、読者を惹きつけるソース(元ネタ)ではあるにしても、どうして小説家でもない若者がノンフィクションをこう小説のようなタッチで書けるのか、上下2巻約600ページを飽きさせずに読ませる手腕には関心させられます(翻訳もこなれている。本書は草思社の代表的ベストセラーの1つとなった)。

 ハッカーに狙われるほどのものではないにしても、フィッシングなどのネット被害は珍しいものではなくなっており、自分自身、クレジット・カードを持ち歩いてもいないのに、盗まれたのと同じような状況になっていることをカード会社から知らされた経験があり(要するに勝手に使われている)、金融機関やプロバイダから個人情報が流出することもある昨今、個人の情報リテラシーの問題だけでは片付けられない気がします。
 オークションなどのネット商取引で、色々なサイトを行き来している人は、そのサイトの作成者自身に悪意が無くとも被害に遭うことがあり、ご用心、ご用心というところでしょうか(何だか、本の出来に感心している場合ではなくなってくる)。

「ウォー・ゲーム」.jpgウォー・ゲーム ちらし.bmp「ウォー・ゲーム」●原題:WAR GAMES●制作年:1983年●制作国:アメリカ●監督:ジョン・バダム●製作総指揮:レオナード・ゴールドバーグ●製作:ハロルド・シュナイダー●脚本:ウォルター・F・パークス/ローレンス・ ラスカー●音楽:アーサー・B・ルービンスタイン ●時間:114分●出演:マシュー・ブロデリック/ダブニー・コールマン/ジョン・ウッド●日本公開:1983/12●配給:MGM/UA●最初に観た場所:テアトル新宿 (84-09-16) (評価:★★★)●併映:「大逆転」(ジョン・ランディス)

"Wargames" [1983]

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シリーズ中、特に充実した内容。回答者のコメントを読むのが楽しい。

ミステリーサスペンス洋画ベスト150.jpg大アンケートによるミステリーサスペンス洋画ベスト15074.JPG  『現金(げんなま)に体を張れ』(1956).jpg
大アンケートによるミステリーサスペンス洋画ベスト150 (文春文庫―ビジュアル版)』['91年]表紙イラスト:安西水丸/「現金(げんなま)に体を張れ」(1956).

 映画通と言われる約400人からとったミステリー・サスペンス洋画のアンケート集計で、『洋画ベスト150』('88年)の姉妹版とも、専門ジャンル版とも言えるもの('91年の刊行)。

 1つ1つの解説と、あと、スチール写真が凄く豊富で、一応、"ベスト150"と謳っていますが、ランキング200位まで紹介しているほか、監督篇ランキングもあり、個人的に偏愛するがミステリーと言えるかどうかというものまで、「私が密かに愛した映画」として別枠で紹介しています。また、エッセイ篇として巻末にある、20人以上の映画通の人たちによる、テーマ別のランキングも、内容・写真とも充実していて、このエッセイ篇だけで150ページあり、全体では600ページを超えるボリュームで、この文春文庫の「大アンケート」シリーズの中でもとりわけ充実しているように思えます。                                                         
第三の男.gif『恐怖の報酬』(1953) 2.jpg太陽がいっぱい.jpg 栄えある1位は「第三の男」、以下、2位に「恐怖の報酬」、3位に「太陽がいっぱい」、4位「裏窓」、5位「死刑台のエレベーター」、6位「サイコ」、7位「情婦」、8位「十二人の怒れる男」...と続き、この辺りのランキングは順当過ぎるぐらい順当ですが、どんな人が票を投じ、どんなコメントを寄せているのかを読むのもこのシリーズの楽しみで、時として新たな気づきもあります。因みに、ベスト150の内、ヒッチコック作品は17で2位のシドニー・ルメット、ビリー・ワイルダーの6を大きく引き離し、監督部門でもヒッチコックは1位です。
第三の男
第三の男2.jpg第三の男 観覧車.jpg 「第三の男」1949年・第3回カンヌ国際映画祭「パルム・ドール」受賞作)はグレアム・グリーン原作で、大観覧車、下水道、ラストの並木道シーン等々、映画史上の名場面として語り尽くされた映画ですが、個人的にも、1位であることにとりあえず異論を挟む余地はほとんどないといった感じ。この映画のラストシーンは、映画史上に残る名シーンとされていますが、男女の考え方の違いを浮き彫りにしていて、ロマンチックとかムーディとか言うよりも、ある意味で強烈なシーンかもしれません。オーソン・ウェルズが、短い登場の間に強烈な印象を残し(とりわけ最初の暗闇に光が差してハリー・ライムの顔が浮かび上がる場面は鮮烈)、「天は二物を与えず」とは言うものの、この人には役者と映画監督の両方が備わっていたなあと。この若くして過剰なまでの才能が、映画界の先達に脅威を与え、その結果彼はハリウッドから締め出されたとも言われているぐらいだから、相当なものです。
恐怖の報酬
恐怖の報酬3.jpg『恐怖の報酬』(1953).jpg恐怖の報酬1.bmp 「恐怖の報酬」1953年・第6回カンヌ国際映画祭「パルム・ドール」、1953年・第3回ベルリン国際映画祭「金熊賞」受賞作)は、油田火災を消火するためにニトログリセリンをトラックで運ぶ仕事を請け負った男たちの話ですが、男たちの目の前で石油会社の人間がそのニトロの1滴を岩の上に垂らしてみせると岩が粉微塵になってしまうという、導入部の演出が効果満点。イヴ・モンタンってディナー・ショーで歌っているイメージがあったのですが、この映画では汚れ役であり、粗野ではあるが渋い男臭さを滲ませていて、ストーリーもなかなか旨いなあと(徒然草の中にある「高名の木登り」の話を思い出させるものだった)。この作品は、'77年にロイ・シャイダー主演でアメリカ映画としてリメイクされています。
太陽がいっぱい」(音楽:ニーノ・ロータ
太陽がいっぱい PLEIN SOLEIL.jpg 「太陽がいっぱい」は、原作はパトリシア・ハイスミス(1921- 1995)の「才能あるリプレイ氏」(『リプリー』(角川文庫))で、'99年にマット・デイモン主演で再映画化されています(前作のリバイバルという位置づけではない)。『太陽がいっぱい』(1960).jpgこの淀川長治2.jpg映画の解釈では、淀川長治のホモ・セクシュアル映画説が有名です(因みに、原作者のパトリシア・ハイスミスはレズビアンだった)。あの吉行淳之介も、淀川長治のディテールを引いての実証に驚愕した(吉行淳之介『恐怖対談』)と本書にありますが、ルネ・クレマンが来日した際に淀川長治自身が彼に確認したところ、そのような意図は無いとの答えだったとのことです(ルネ・クレマン自身がアラン・ドロンに"惚れて"いたとの説もあり、そんな簡単に本音を漏らすわけないか)。(●2016年にシネマブルースタジオで再見。トムがフィリップの服を着て彼の真似をしながら鏡に映った自分にキスするシーンは、ゲイ表現なのかナルシズム表現なのか。マルジュがフィリップに「私だけじゃ退屈?そうなら船をおりるわ」とすねるのは、フィリップの恋人である彼女が、男性であるトムをライバル視してのことか。再見していろいろ"気づき"があった。) 
            
 個人的に、もっと上位に来てもいいかなと思ったのは(あまり、メジャーになり過ぎてもちょっと...という気持ちも一方であるが)、"Body Heat"という原題に相応しいシズル感のある「白いドレスの女」(27位)、コミカルなタッチで味のある「マダムと泥棒」(36位)、意外な場面から始まる「サンセット大通り」(46位)、カットバックを効果的に用いた強盗劇「現金(げんなま)に体を張れ」(51位)、「大脱走」を遥かに超えていると思われる「第十七捕虜収容所」(55位)、これぞデ・パルマと言える「殺しのドレス」(70位)(個人的には「ボディ・ダブル」がランクインしていないのが残念)、チャンドラーの原作をボギーが演じた「三つ数えろ」(92位)、脚本もクリストファー・リーブの演技も良かった「デス・トラップ/死の罠」(94位)、ミステリーが脇に押しやられてしまっているため順位としてはこんなものかも知れないけれど「ディーバ」(101位)、といった感じでしょうか、勝手な見解ですが。

kathleen-turner-body-heat.jpg白いドレスの女1.jpg白いドレスの女2.jpg白いドレスの女.jpg 「白いドレスの女」は、ビリー・ワイルダーの「深夜の告白」('48年)をベースにしたサスペンスですが、共にジェイムズ・M・ケインの『殺人保険』(新潮文庫)が原作です(ジェイムズ・ケインは名画座でこの作品と併映されていた「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の原作者でもある)。この映画では暑さにむせぶフロリダが舞台で、主人公の弁護士の男がある熱帯夜の晩に白いドレスの妖艶な美女に出会い、彼女の虜になった彼は次第に理性を奪われ、彼女の夫を殺害計画に加担するまでになる―という話で、ストーリーもよく出来ているし、キャスリーン・ターナーが悪女役にぴったり嵌っていました。 kathleen-turner-body-heat(1981)

マダムと泥棒1.jpgマダムと泥棒.jpg 「マダムと泥棒」は、老婦人が営む下宿に5人の楽団員の男たちが練習部屋を借りるが、実は彼らは現金輸送車を狙う強盗団だった―という話で、これもトム・ハンクス主演で'04年に"The Ladykillers"(邦題「レディ・キラーズ」)というタイトルのまま再映画化されています。イギリス人の監督と役者でないと作り得ないと思われるブラック・ユーモア満載のサスペンス・コメディですが、この作品でマダムこと老婦人を演じて、アレック・ギネスやピーター・セラーズといった名優と渡り合ったケイティ・ジョンソンは、後にも先にもこの映画にしか出演していない全くの素人というから驚き。この作品は、本書の姉妹版の『洋・邦名画ベスト150 〈中・上級篇〉』('92年/文春文庫ビジュアル版)では、洋画部門の全ジャンルを通じての1位に選ばれています。

現金に体を張れ.jpg 「現金に体を張れ」(原題:THE KILLING)は、刑務所を出た男が仲間を集めて競馬場の賭け金を奪うという、これもまた強盗チームの話ですが、綿密なはずの計画がちょっとした偶然から崩れていくその様を、同時に起きている出来事を時間を繰り返カットバック方式でそれぞれの立場から描いていて、この方式のものとしては一級品に仕上がっており、また、人間の弱さ、夢の儚さのようなものもしかっり描けています。 スタンリー・キューブリック (原作:ライオネル・ホワイト) 「現金(ゲンナマ)に体を張れ」 (56年/米) ★★★★☆

『パルプ・フィクション』(1994) 2.jpgPulp Fiction(1994) .jpg 本書刊行後の作品ですが、同じくカットバックのテクニックを用いたものとして、ボスの若い妻(ユマ・サーマン)と一晩だけデートを命じられたギャング(ジョン・トラヴォルタ)の悲喜劇を描いたクエンティン・タランティーノ監督の1994年・第47回カンヌ国際映画祭「パルム・ドール」受賞作「パルプ・フィクション」があり(インディペンデント・スピリット賞作品賞も受賞)、テンポのいい作品でしたが(アカデミー脚本賞受賞)、カットバック方式に限って言えば、「現金に体を張れ」の方が上だと思いました(競馬場強盗とコーヒー・ショップ強盗というスケールの違いもあるが)。

Pulp Fiction(1994)

deathtrap movie.jpgdeathtrap movie2.jpg 「デス・トラップ 死の罠」の原作は「死の接吻」「ローズマリーの赤ちゃん」のアイラ・レビンが書いたブロードウェイの大ヒット舞台劇。落ち目の劇作家(マイケル・ケイン)の許に、かつてのシナリオライター講座の生徒クリフ(クリストファー・リーヴ)が書いた台本「デストラップ」が届けられ、作家は、金持ちの妻マイラ(ダイアン・キャノン)に「この劇はクリストファー・リーブ superman.jpg傑作だ」と話し、盗作のアイデアと青年の殺害を仄めかし、青年が郊外の自宅を訪れる際に殺害の機会を狙う―(要するに自分の作品にしてしまおうと考えた)。ドンデン返しの連続は最後まで飽きさせないもので、「スーパーマン」のクリストファー・リーブが演じる劇作家志望のホモ青年も良かったです(この人、意外と演技派俳優だった)。
「デス・トラップ 死の罠」00.jpg クリストファー・リーブ/マイケル・ケイン

映画「ディーバ].jpgディーバ.jpg 「ディーバ」は、オペラを愛する18歳の郵便配達夫が、レコードを出さないオペラ歌手のコンサートを密かに録音したことから殺人事件に巻き込まれるというもので、1981年12月にユニフランス・フィルム主催の映画祭「新しいフランス映画を見るフェスティバル」での上映5作品中の1本目として初日にThe Space (Hanae Mori ビル5F)で上映されるも、その時はすぐには日本配給には結びきませんでした。しかし、'81年シカゴ国際映画祭シルヴァー・ヒューゴー賞を受賞し、'82年セザール賞で最優秀新人監督作品賞(ジャン=ジャック・ベネックス)のほかに、撮影賞(フィリップ・ルースロ)、Jean-Jacques Beineix's Diva.jpgディーバ_5455.JPG音楽賞(ウラディミール・コスマ)など4部門で受賞したことなどもあり、日本でも遅ればせながらフランス映画社配給で'83年11月にロードショーの運びとなりました('82年4月にアメリカでも公開)。個人的には'84年に名画座(大井武蔵野館)で観て、'94年に俳優座シネマテンでのリバイバル上映を観ました。デラコルタ(スイス人作家ダニエル・オディエのペンネーム)の原作は、ジグゾーパズル好きで、波を止めようと考えているゴロディッシュという不思議な男と、彼にくっついて回るアルバ(原作では13歳のフレンチガール)という少女を主人公にしたセリノアール6部作になっているそうで、「ディーバ」はその中の一篇です(この作品のみが翻訳あり)。新潮文庫に翻訳のある原作と映画を比べてみるのも面白いかと思います。


POWER PLAY OPERATION OVERTHROW.jpgパワー・プレイ.jpgPower Play by Peter O'Toole.jpg「パワー・プレイ (1978).jpg 「私が密かに愛した映画」で「パワー・プレイ」を推した橋本治氏が、「すっごく面白いんだけど、これを見たっていう人間に会ったことがない」とコメントしてますが、見ましたよ。

Power Play (1978).jpg ヨーロッパのある国でテログループによる大臣の誘拐殺人事件が起き、大統領がテロの一掃するために秘密警察を使ってテロリスト殲滅を実行に移すもののそのやり方が過酷で(名脇役ドナルド・プレザンスが秘密警察の署長役で不気味な存在感を放っている)、反発した軍部の一部が戦車部隊の隊長ゼラー(ピーター・オトゥール)を引き入れクーデターを起こします。クーデターは成功しますが、宮殿の大統領室にいたのは...。「漁夫の利」っていうやつか。最後、ピーター・オトゥールがこちらに向かってにやりと笑うのが印象的でした。

「パワー・プレイ」輸入版ポスター(上)/輸入盤DVD(右)
                            

第三の男 ポスター.jpg「第三の男」●原題:THE THIRD MAN●制作年:194日比谷映画・みゆき座.jpg日比谷映画.jpg9年●制作国:イギリス●監督:キャロル・リード●製作:キャロル・リード/デヴィッド・O・セルズニック●脚本:グレアム・グリーン●撮影:ロバート・クラスカー●音楽:アントン・カラス●原作:グレアム・グリーン●時間:104分●出演:ジョセフ・コットン/オーソン・ウェルズ/トレヴァー・ハワード/アリダ・ヴァリ/バーナード・リー/ジェフリー・キーン/エルンスト・ドイッチュ●日本公開:1952/09●配給:東和●最初に観た場所:千代田映画劇場(→日比谷映画) (84-10-15) (評価:★★★★☆)
千代田映画劇場 東京オリンピック - コピー.jpg
日比谷映画内.jpg
千代田映画劇場(日比谷映画) 1957年4月東宝会館内に「千代田映画劇場」(「日比谷映画」の前身)オープン、1984年10月、「日比谷映画劇場」(1957年オープン(1,680席))閉館に伴い「日比谷映画」に改称。2005(平成17)年4月8日閉館。

千代田劇場 「東京オリンピック」('65年/東宝)封切時
                                                     
「恐怖の報酬」.bmp恐怖の報酬.jpg恐怖の報酬3.jpg「恐怖の報酬」●原題:LE SALAIRE DELA PEUR●制作年:1953年●制作国:フランス●監督・脚本:アンリ・ジョルジュ・クルーゾー●撮影:アルマン・ティラール●音楽:ジョルジュ・オーリック●原作:ジョルジュ・アルノー●時間:131分●出演:イヴ・モンタン/シャルル・ヴァネル/ヴェラ・クルーゾー/フォルコ・ルリ/ウィリアム・タッブス/ダリオ・モレノ/ジョー・デスト●日本公開:1954/07●配給:東和●最初に観た場所:新宿アートビレッジ (79-02-10) (評価:★★★★)●併映:「死刑台のエレベーター」(ルイ・マル)

太陽がいっぱい 和田誠.jpg「ポスター[左](和田 誠
太陽がいっぱい15.jpg太陽がいっぱい ポスター2.jpg太陽がいっぱい ポスター.jpg「太陽がいっぱい」●原題:PLEIN SOLEIL●制作年:1960年●制作国:フランス●監督:ルネ・クレマン●製作:ロベール・アキム/レイモン・アキム●脚本:ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン●撮影:アンリ・ドカエ●音楽:ニーノ・ロータ●原作:パトリシア・ハイスミス 「才能あ文芸坐.jpg文芸坐ル・ピリエ.jpgるリプレイ氏」●時間:131分●出演:アラン・ドロン/マリー・ラフォレ/モーリス・ロネ/ エルヴィール・ポペスコ/エルノ・クリサ/ビル・カーンズ/フランク・ラティモア/アヴェ・ニンチ●日本公開:1960/06●配給:新外映●最初に観た場所:文芸坐ル・ピリエ (83-02-21)●2回目:北千住シネマブルー・スタジオ(16-02-23) (評価:★★★★)
文芸坐ル・ピリエ (11979(昭和54)年7月20日、池袋文芸坐内に演劇主体の小劇場としてオープン)1997(平成9)年3月6日閉館

「白いドレスの女」.jpg「白いドレスの女」●原題:BODY HEAT●制白いドレスの女8.jpg作年:1981年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ローレンス・カスダン●製作:フレッド・T・ガロ●撮影:リチャード・H・クライン●音楽:ジョン・バリー●原作:ジェイムズ・M・ケイン 「殺人保険」●時間:113分●出演:ウィリアム・ハート/BODY HEAT.bmpキャスリーン・ターナー/リチャード・クレンナ/テッド・ダンソン/ミッキー・ローク/J・A・プレストン/ラナ・サウンダース/キム・ジマー●日本公開:1982/02●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:三鷹オスカー (82-08-07) ●2回目:飯田橋ギンレイホール(86-12-13)(評価:★★★★☆)●併映(1回目):「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(ボブ・ラフェルソン)

THE LADYKILLERS 1955.jpgマダムと泥棒2.jpg「マダムと泥棒」●原題:THE LADYKILLERS●制作年:1955年●制作国:イギリス●監督:アレクサンダー・マッケンドリック●製作:セス・ホルト●脚本:ウィリアム・ローズ●撮影:オットー・ヘラー●時間:97分●出演:アレック・ギネス/ピーター・セラーズ/ハーバート・ロム/ケイティ・ジョンソン/シル・パーカー/ダニー・グリーン/ジャック・ワーナー/フィリップ・スタントン/フランキー・ハワード●日本公開:1957/12●配給:東和 (評価:★★★★)

現金に体を張れ01.jpgthe killing.jpg現金に体を張れ1.jpg「現金に体を張れ」●原題:THE KILLING●制作年:1956年●制作国:アメリカ●監督:スタンリー・キューブリック●製作:ジェームス・B・ハリス●脚本:スタンリー・キューブリック/ジム・トンプスン●撮影:ルシエン・バラード●音楽:ジェラルド・フリード●原作:ライオネル・ホワイト 「見事な結末」●時間:83分●出演:スターリング・ヘイドン/ジェイ・C・フリッペン/メアリ・ウィンザー/コリーン・グレイ/エライシャ・クック/マリー・ウィンザー/ヴィンス・エドワーズ●日本公開:1957/10●配給:ユニオン=映配●最初に観た場所:新宿シアターアプル (86-03-22) (評価:★★★★☆)

パルプフィクション5E.jpegパルプ・フィクション4.jpg「パルプ・フィクション」●原題:PULP FICTION●制作年:1994年●制作国:アメリカ●監督・脚本:クエンティン・タランティーノ●製作:ローレンス・ベンダーパルプフィクション スチール.jpg●原案:クエンティン・タランティーノ/ロジャー・エイヴァリー●撮影:アンジェイ・セクラ●音楽:カリン・ラットパルプ・フィクション ジョン トラボルタ.jpgマン●時間:155分●出演:ジョン・トラヴォルタ/サミュエル・L・ジャクソン/ユマ・サーマン/ハーヴェイ・カイテル/アマンダ・プラマー/ティム・ロス/クリストファー・ウォーケン/ビング・ライムス/ブルース・ウィリス/エリック・ストルツ/ロザンナ・アークエット/マリア・デ・メディロス/ビング・ライムス●日本公開:1994/09●配給:松竹富士 (評価:★★★★)
ジョン トラボルタ(1994年・第20回ロサンゼルス映画批評家協会賞「主演男優賞」
「パルプ・フィクション」カイテル.jpg ハーヴェイ・カイテル
   
「デス・トラップ 死の罠」8.jpegDEATHTRAP 1982 2.jpg「デス・トラップ 死の罠」●原題:DEATHTRAP●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督:シドニー・ルメット●製作:バート・ハリス●脚本:ジェイ・プレッソン・アレン●撮影:アンジェイ・バートコウィアク●音楽:ジョニー・マンデル●原作:アイラ・レヴィン●時間:117分●出演デス・トラップ 死の罠.jpg「デストラップ」ケイン.jpg:マイケル・ケイン/クリストファー・リーヴ/ダイアン・キャノン/アイリーン・ワース/ヘンリー・ジョーンズ/ジョー・シルヴァー●日本公開:1983/09●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:テアトル吉祥寺 (86-02-15) (評価:★★★☆)●併映「殺しのドレス」(ブライアン・デ・パルマ)


ディーバ  チラシ.jpgディーバ 1981.jpg「ディーバ」●原題:DIVA●制作年:1981年●制作国:フランス●監督:ジャン=ディーバ dvd.jpgジャック・ベネックス●製作:イレーヌ・シルベルマン●脚本:ジャン=ジャック・ベネックス/セルジュ・シルベルマン●撮影:フィリップ・ルースロ●音楽:ウラディミール・コスマ●原作:デラコルタ●時間:117分●出演:フレデリック・アンドレイ/ウィルヘルメニア=ウィンギンス・フェルナンデス/リシャール・ボーランジェ/シャンタル・デリュアズ/ジャック・ファブリ/チュイ=アン・リュー●日本公開:1981/12●配給:フランス映画社●最初に観た場所:大井武蔵野館 (84-06-16)●2回目:六本木・俳優座シネマテン(97-10-03) (評価:★★★★)●併映(1回目):「パッション」(ジャン=リュック・ゴダール)
 
「パワー・プレイ 参謀たちの夜」  .jpgPOWER PLAY OPERATION OVERTHROW 1978 .jpg「パワー・プレイ 参謀たちの夜」●原題:POWER PLAY OPERATION OVERTHROW●制作年:1978年●制作国:イギリス/カナダ●監督:マーティン・バーク●製作:クリストファー・ダルトン●撮影:オウサマ・ラーウィ●音楽:ケン・ソーン●時間:110分●出演:ピーター・オトゥール/デヴィッド・ヘミングス/バリー・モース/ドナルド・プレザンス/ジョン・グラニック/チャック・シャマタ/アルバータ・ワトソン、/マーセラ・セイント・アマント/オーガスト・シェレンバーグ●日本公開:1979/11●配給:ワールド映画●最初に観大塚駅付近.jpg大塚名画座 予定表.jpg大塚名画座4.jpg大塚名画座.jpgた場所:大塚名画座 (80-02-21) (評価:★★★☆)●併映:「Z」(コスタ・ガブラス)

大塚名画座(鈴本キネマ)(大塚名画座のあった上階は現在は居酒屋「さくら水産」) 1987(昭和62)年6月14日閉館

《読書MEMO》
- 構成 -
○座談会 それぞれのヒッチコック
○作品編 ここに史上最高最強の151の「面白い映画」がある
○監督編 人をハラハラさせた人たち
○エッセイ集-映画を見ることも、映画について読むことも楽しい(一部)
 ・原作と映画の間に (山口雅也)
 ・どんでん返しの愉楽 (筈見有弘)
 ・ぼくの採点表 (双葉十三郎)
 ・映画は見るもの、ビデオは読むもの (竹市好古)
 ・わたしの「推理映画史」 (加納一朗)
 ・法廷映画この15本- 13人目の陪審員 (南俊子)
 ・襲撃映画この15本-なにがなんでも盗み出す (小鷹信光)
 ・ユーモア・パロディ映画この20本-笑うサスペンス (結城信孝)
 ・10人のホームズ、10人のワトソン、10人のモリアティ、そして8人のハドソン夫人 (児玉数夫)
 ・世界の平和を守った10人の刑事 (浅利佳一郎)
 ・世界を震えあがらせた10人の悪党 (逢坂剛)
 ・サスペンス映画が似合う女優10人 (渡辺祥子)
 ・フランス人はなぜハドリー・チェイスが好きなのか (藤田宜永)
 ・主題曲は歌い、叫ぶ (岩波洋三)
 ・『薔薇の名前』と私を結んだ赤い糸 (北川れい子)
 ・マイケル・ケインはミステリー好き (松坂健)
 ・TV界のエラリー・クイーン (小山正)
 ・394のアンケートを読んで (赤瀬川準)

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60年代、70年代の名画が中心。新たな気づきが得られる批評文。

eiganoehonn.jpg   映画の絵本〈3〉.jpg 映画の名画座.jpg 
映画の絵本―マイ・シネマ,マイ・イラスト (1981年) (旺文社文庫)』 『映画の絵本―マイ・シネマ マイ・ドリーム (2) (旺文社文庫)』『映画の絵本〈3〉イラスト映画館へどうぞ (旺文社文庫)』『映画の名画座―259本だてイラスト・ロードショウ (現代教養文庫)

20世紀の366日.jpg イラストレーターによる映画批評で、1作品につきイラストと文章で各1ページずつが大体の基本構成で、イラストもさることながら、批評文がたいへん凝縮されたものとなっています。

 他の著作を見ても分かるように、もともと国内レベルからグローバルレベルまでの政治風刺画が多い人(常に風刺の急先鋒にいる人)ですが、本書に関しては、純粋に映画批評、芸術批評として各作品を捉え、それに政治的なテーマが付随してくることもある、といったスタンスです。

橋本 勝 『20世紀の366日』 ['96年]

映画の絵本1.jpg '81年刊行の第1集は、チャップリン作品から始まり、「泥の河」('80年)まで、'83年刊行の第2集は、同じくチャップリン作品から始まり、「サン・ロレンツォの夜」('82年)で終わっていて、共に60年代-70年代のよく知られた作品が主となっています。

 娯楽映画も取り上げらていますが、フェリーニやゴダール、ベルイマンやミケランンジェロ・アントニオーニ作品などの"通"好みと思えるものも多く取り上げられており、今だからこそ名作クラシックとされているこれらの作品も、もしかしたら80年初頭の段階では、映画ファンの多くにごく馴染みの作品だったと言えるのかもしれません。    
  「禁じられた遊び」       「生きる」
禁じられた遊び.jpg生きる 志村喬 伊藤雄之助.jpg 映画の解釈が深く、第1集では「禁じられた遊び」で、死の意味もわからないうちに親を失った幼児のする"お葬式ごっご"に「真の死への畏敬」を見い出す点などは、まだオーソドックスな方かも知れませんが、黒澤明の「生きる」で、志村喬より伊藤雄之助のメフィストフェレス的役回りに注目しています。
「幸福の黄色いハンカチ」
「幸福の黄色いハンカチ」1978.jpg「幸福の黄色いハンカチ」2.jpg また、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」('77年/松竹)を、「これを見て、ヤクザ映画の輝ける悲運のヒーローだったあの健さんが、幸せの健さんへと堕落したとみる人はよっぽど幸せなマイホームパパ」とし、この話は「嘘」を描いてもっともらしいところが秀逸なのであり、「山田監督は人情でなぜ悪いと居直っていますが、これはあくまで愛の神話であって、人情の神話ではありません」と断言、「健さんのヤクザ映画にみられた禁欲的フ「幸福の黄色いハンカチ」19772.jpg「幸福の黄色いハンカチ」倍賞.jpgェミニズムは、ここでは一夫一妻制のエロチシズムに見事に変質しています」という読み解きも興味深く、他にも、娯楽映画なども含め、新たな視点に気づかせてくれる解説が多くあり、映画評論としても第一級のものであるように思えます。
   
映画の絵本27.JPG 第2集でも、「シェーン」でジャック・パランスが演じたウィルソンの内面を同じく孤独に生きるシェーンと対比したり、「エデンの東」をホームドラマとしか見れない宗教オンチの日本人を皮肉ったり、「ジョーズ」のロバート・ショー演じるクイントの憎悪に社会を反映させたり、著者ならでは読み解きは健在で、こうした独自の読み解きが「マイ・シネマ」というサブ・タイトルに繋がっているわけです。

 雑誌の連載などではなく、著者が若いときからこつこつ書き(描き)溜めてきたものがかなりを占めているようで、いきなり文庫で刊行されたみたいですが、なかなか見られなくなっている名画も多いだけに、単行本で復映画の名画座0.JPG刻してもよさそうな気もしました。また、それだけの内容・レベルのものだと思います。実際、文庫ではありますが、この2冊の後に刊行された第3弾『映画の絵本3―イラスト映画館へどうぞ』('86年/旺文社文庫)との3冊分を併せた内容の『映画の名画座-259本だてイラスト・ロードショウ』(現代教養文庫)が'90年に刊行されました。しかしながら、版元の社会思想社がほどなく倒産してしまったため(もともと、旺文社文庫が文庫自体が'87年に廃刊されたため現代教養文庫に移ってきたのだったが)、今のところ古書市場でしか手に入らない状況です(或いは図書館の書庫にあるかもしれない)。1冊で3冊分を収めているので、保存版としては便利です。

映画の名画座―259本だてイラスト・ロードショウ (現代教養文庫)

 
  
禁じられた遊び3.jpg禁じられた遊び  .jpg「禁じられた遊び」●原題:JEUX INTERDITS●制作年:1952年●制作国:フランス●監督:ルネ・クレマン●脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ポスト●撮影:ロバート・ジュリアート●音楽:ナルシソ・イエペス●時間:86分●出演:ブリジッド・フォッセー/ジョルジュ・プージュリー/スザンヌ・クールタル/リュシアン・ユベール/ロランヌ・バディー/ジャック・マラン●日本公開:1953/09●配給:東和●最初に観た場所:早稲田松竹 (79-03-06)(評価:★★★★☆)●併映:「鉄道員」(ピエトロ・ジェルミ)

『生きる』.jpg「生きる」●制作年:1952年●監督:黒澤明●製作:本木莊二郎●脚本:黒澤明/橋本忍/小国英雄●撮影:中井朝一●音楽:早坂文雄●原作:レフ・トルストイ「イワン・イリッチの死」●時間:143分●出演:志村喬/小田切みき/金子信雄/関京子/浦辺粂子/菅井きん/丹阿弥谷津子/田中春男/千秋実/左ト全/藤原釜足/中村伸郎/渡辺篤/木村功/伊藤雄之助/清水将夫/南美江/阿部九洲男 /宮口精二/加東大介/山田巳之助●日本公開:1952/10●配給:東宝●最初に観た場所:大井武蔵野館 (85-02-24) (評価★★★★)●併映「隠し砦の三悪人」(黒澤明)
     
映画パンフレット 「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」.gif「幸福の黄色いハンカチ」1.jpg「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」●制作年:1978年●監督:山田洋次●製作:名島徹●脚本:山田洋次/朝間義隆●撮影:高羽哲夫●音楽:佐藤勝●原作:ピート・ハミル「黄色いリボン」(『ニューヨーク・スケッチブック』所収)●時間:108分●出演:高倉健/倍賞千恵子/桃井かおり/武田鉄矢/赤塚真人/梅津栄/三崎千恵子/笠井一彦/里木左甫良/小野泰次郎/河原裕昌/たこ八郎/山本幸栄/川井みどり/長谷川英敏/谷よしの/羽生昭彦/渥美清●日本公開:1977/10●配給:松竹 (評価★★★★)
映画パンフレット 「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」
「幸福の黄色いハンカチ」渥美.jpg 渥美清(新得警察署の警察官・渡辺勝次)

シェーン last.jpgシェーン9.jpg「シェーン」●原題:SHANE●制作年:1953年●制作国:アメリカ●監督:ジョージ・スティーブンス●音楽:ヴィクター・ヤング●原作:ジャック・シェーファー「シェーン」●時間:118分●出演:アラン・ラッド/ヴァン・ヘフリン/ジーン・アーサー/ブランドン・デ・ワイルド/ジャック・パランス/ペン・ジョンスン/エドガー・ブキャナン/エミール・メイヤー●日本公開:1953/10●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:高田馬場パール座(77-12-20) (評価★★★☆)●併映:「駅馬車」(ジョン・フォード)

iエデンの東H.jpg「エデンの東」●原題:EAST OF EDEN●制作年:1955年●制作国:アメリカ●監督・製作:エリア・カザン●脚本:ポール・オスボーン●撮影:テッド・マッコード●音楽:レナード・ローゼンマン●原作:ジョン・スタインベック●時間:115分●出演:ジェームズ・ディーン/ジュリー・ハリス/レイモンド・マッセイ/バール・アイヴス●日本公開:1955/10●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-02-18)(評価:★★★☆)●併映:「理由なき反抗」(ニコラス・レイ)

JAWS/ジョーズes.jpg「JAWS/ジョーズ」●原題:JAWS●制作年:1975年●制作国:アメリカ●監督:スティーヴン・スピルバーグ●製作:デイヴィッド・ブラウン/リチャード・D・ザナック●脚本:ピーター・ベンチュリー/カール・ゴッドリーブ●撮影:ビル・バトラー●音楽:ジョン・ウィリアムズジョーズ 03.jpg●原作:ピーター・ベンチュリー●時間:124分●出演:ロイ・シャイダー/ロバート・ショウ/リチャード・ドレイファス/カール・ゴットリーブ/マーレイ・ハミルトン/ジェフリー・クレイマー/スーザン・バックリーニ/ジョナサン・フィレイ/クリス・レベロ/ジェイ・メロ●日本公開:1975/12●配給:CIC●最初に観た場所:新宿ローヤル (82-12-28) (評価★★★★)

「●映画」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【825】 毎日新聞社 『昭和外国映画史
「●か 川本 三郎」の インデックッスへ「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ「●は行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●シドニー・ルメット監督作品」の インデックッスへ 「●「ロサンゼルス映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「狼たちの午後」) 「●ジーン・ハックマン 出演作品」の インデックッスへ(「ヤング・フランケンシュタイン」) 「●ハリソン・フォード 出演作品」の インデックッスへ(「アメリカン・グラフィティ」) 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外のTVドラマシリーズ」の インデックッスへ(「ボストン・リーガル」)

名脇役たちを通して'60‐'70年代が一気に甦ってくる本。

傍役グラフィティ.jpg傍役グラフィティ2.gif Roy Scheider.jpg Peter Boyle.jpg Marty Feldman.jpg John Cazale.jpg Ed Lauter.jpg Charles Martin Smith.jpg
傍役グラフィティ―現代アメリカ映画傍役事典 (1977年)』/Roy Scheider /Peter Boyle/Marty Feldman/John Cazale/Ed Lauter/Charles Martin Smith

JAWS/ジョーズ5.bmpJAWS/ジョーズ4.bmp 今年('08年)2月に「JAWS/ジョーズ」でお馴染みのロイ・シャイダーが亡くなりましたが、TVドラマ「サード・ウォッチ」にロシア・マフィア役で出ていて、何だか凄みが増した感じだったけれども、既にその時はガン闘病中だったのか。エルモア・レナード原作の「デス・ポイント/非情の罠」(『五万二千ドルの罠』)に主演していますが、「ジョーズ」とか「デス・ポイント」みたいに、ちょっとビクついている感じの役の方が似合っていた気もします。

 ロイ・シャイダーを思い出したついでに、「ニューシネマ以降10年のアメリカ映画に登場した愛すべきバイプレーヤー200人」をとりあげたという本書を取り出してパラパラめくっていると、旧知に再会したような感じで、結構ノスタルジックな気分になりました。 個人的に"好み"のところでは―、           

YOUNG FRANKENSTEN.jpg『ヤング・フランケンシュタイン』(1974) 2.jpg『ヤング・フランケンシュタイン』(1974).jpg ピーター・ボイルは、「タクシードライバー」('76年/米)でトラビス(デ・ニーロ)を気遣う先輩タクシー運ちゃんぶりが良かったけれど(この映画にはハーヴェイ・カイテルもポン引き役で出ていた)、その前のメル・ブルックジーン・ワイルダー1.jpgス監督、ジーン・ワイルダー主演(脚本も務めた)の「ヤング・フランケンシュタイン」でボイルが演じたのは、何とボリス・カーロフ顔負けのフランケンシュタイン(この映画の奇妙な執事、ギョロ目のマーティ・フェルドマンの怪演も印象的)。ボイルは、「X‐ファイル」にもゲスト出演していましたが、この人も最近亡くなった...。

「ヤング・フランケンシュタイン」2.jpg この映画はシェリイ夫人の原作及び古典的ホラー映画のパロディですが、アインシュタインに似た博士(ジーン・ワイルダー)やその助手(テリー・ガー)も快演(怪演)しているほか、オリジナルの「フランケンシュタイン」にも出てくる小屋に住む盲ヤング・フランケンシュタイン ジーン・ハックマン.jpg目の老人役は、ラストに小さくクレジットされているだけで大概の人は気づかないのですがジーン・ハックマンであるという遊びもありました。

ジーン・ハックマン(右)
ジーン・ワイルダー/マデリン・カーン
「ヤング・フランケンシュタイン」マデリンカーン.jpgヤング・フランケンシュタイン.gif「ヤング・フランケンシュタイン」●原題:YOUNG FRANKENSTEN●制作年:1975年●制作国:アメリカ●監督:メル・ブルックス●製作:マイケル・グラスコフ●脚本:ジーン・ワイルダー/メル・ブルックス●撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド●音楽:ジョン・モリス●原作:メアリー・シェリイ●時間:108分●出演:ジーン・ワイルダー/ピーター・ボイル/マーティ・フェルドマン/テリー・ガー/マデリーン・カーン/クロリス・リーチマン/リチャード・ヘイドン/ジーン・ハックマン●日本公開:1975/10●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:飯田橋ギンレイホール (78-12-14) (評価:★★★★)●併映:「サイレントムービー」(メル・ブルックス)

狼たちの午後7.bmp狼たちの午後8.bmp狼たちの午後 ポスター.gifDog Day Afternoon.jpg狼たちの午後2.jpg "おでこのジョン"ことジョン・カザール「狼たちの午後」での鬱々とした演技が良く(アル・パチーノが上手いのはさすがだが、この映画でのチャールズ・ダーニングもいい)、「ディア・ハンター」('78Meryl Streep and John Cazale 2.jpg年)に起用された際に、彼がガン宣告を受けたため出演させることを渋った製作側に対し、降板に反対するロバート・デ・ニーロらに口説かれ、治療を受けながら演じたという、その「ディア・ハンター」が彼の遺作となりました(無名時代に共演したメリル・ストリープと婚約中だった)。

dog_day_afternoon_9.png狼たちの午後.jpg この「狼たちの午後」は、実際にあった銀行強盗をモチーフに作られた作品ですが、撮影のかなりの部分はアドリブで撮られていて、アル・パチーノの演技の旨さもさることながら、その"妻"を演じたクリス・サランドンは、冒頭の僅か10分そこそこの登場で(銀行に押し入ったとたんに怖くなって逃げ出してしまう)アカデミー助演男優賞候補になったというオマケも付きました(犯人の内2人が同性婚していたのは事実らしい)。

アル・パチーノ(第1回ロサンゼルス映画批評家協会賞「主演男優賞」受賞)
「狼たちの午後」●原題:DOG DAY AFTERNOON●制作年:1975年●制作国:アメリカ●監督:シドニー・ルメット●製作:マーティン・ブレグマンほか●脚本:「狼たちの午後」.jpgフランク・ピアソン●撮影:ジヴィクター・J・ケンパー●時間:125分●出演:アル・パチーノ/ジョン・カザール/チャールズ・ダーニング/クリス・サランドン/キャロル・ケイン/ランス・ヘンリクセン/ジェームズ・ブロデリック/ペニー・アレン/サリー・ボイヤー●日本公開:1976/03●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:池袋文芸坐 (77-12-14) (評価:★★★★)●併映:「セルピコ」(シドニー・ルメット)

『ロンゲスト・ヤード』(1974).jpg『ロンゲスト・ヤード』(1974)2.jpgEd Lauter.jpg ド・ローターは「ロンゲスト・ヤードの鬼看守役で、バート・レイノルズと拮抗した演技を見せていましたが(「X‐ファイル」にも出ていた)、この人や「十二人の怒れる男」のリー・J・コップなどは、"脇役"の域を超えているかも。ジャック・ウォーデンも、「十二人」の1人でしたが、「ジャスティス」で判事役をやったほか、「評決」でポール・ニューマンと組む弁護士役をやるなど、裁判絡みの役が結構あったなあと。

Burt Reynolds THE LONGEST YARD.jpgロンゲスト・ヤード.jpg 「ロンゲスト・ヤード」は看守対囚人のフットボールの試合を描いた男臭い映画でしたが(主演のバート・レイノルズはフットボール選手出身。三鷹オスカーで観たレイノルズ主演の3本立てでは、この作品の役が一番ハマっていた)、007の敵役ジョーズ役リチャード・キールなんていうのも出ていました(この作品は'05年にリメイクされた)。

「ロンゲスト・ヤード」●原題:THE MEAN MACHINE (THE LONGEST YARD)●制作年:1974年●制作国:アメリカ●監督:ロバート・アルドリッチ●製作:ロバートエヴァンスほか●撮影:ジョセフ・F・バイロック●音楽:フランク・デ・ヴォル●原案:アルバート・S・ラディ ●時間:121分●出演:バート・レイノルズ/エディ・アルバート/マイケル・コンラッド/リチャード・キール/エド・ローター/ジム・ハンプトン/ハリー・シーザー/ジョン・スティードマン/アルバート・S・ラディ/トレイシー・キーナン・ウィン/バーナデット・ピーターズ●日本公開:1975/05●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:三鷹オスカー (78-07-20) (評価:★★★★)●併映:「トランザム7000」(ハル・ニーダム)/「デキシー・ダンスキングス」(ジョージ・G・アビルドセン)

アメリカン・グラフィティ.jpg  ボー・ホプキンスなどは、ジョージ・ルーカス監督の「アメリカン・グラフィティ」のファラオ団のリーダーでしたが、すでに「ワイルドバンチ」で、ペキンパー一家の1人だったわけか。

アメリカン・グラフィティ [DVD]

 「アメリカン・グラフィティ」では、少しひ弱な感じのチャールズ・マーティン・スミスも印象に残りました。
アメリカン・グラフィティAmerican Graffiti.jpgアメリカン・グラフィティ チラシ.jpgCharles Martin Smith.jpgCharles Martin Smith

 彼はラストで、ベトナムで戦死したことになっていたなあ。リチャード・ドレイファスら演じた4人組の内の1人、ロン・ハワードが演じたスティーヴは"事故死"になっていましたが、ロン・ハワード自身は後に監督となり「アポロ13」「ダビンチ・コード」を撮ります。この映画撮影当時、プロの役者として活動しいたのは実はロン・ハワードのみで、但し、当時はまだ無名です。リチャード・ドレイファス、ハリソン・フォード、チャールズ・マーティン・スミスらは、役者としての実績すら殆どありませんでした。チャールズ・マーティン・スミスは、「アンタッチャブル」でも死んでいく役で、どこまでも"脇"でした。

『ワイルドバンチ』(1969).jpgワイルドバンチ.jpg 因みに「ワイルドバンチ」は、本書が最も注目する脇役"宝庫"の映画であり、主役級のウィリアム・ホールデンのほかに、アーネスト・ボーグナイン、ローバート・ライアン、ウォーレン・オーツ、エドモンド・オブライエン、ベン・ジョンソン、ジェイミー・サンチェス、エミリオ・フェルナンデスらが、プロデューサーとの衝突でハリウッドを干されていたサム・ペキンパーのもとに集結して作った西部劇作品(これだけ出ていれば、ボー・ホプキンスが出ていたことをすぐに思い出せないのも無理ない)。無法者たちの織り成す殺戮劇はヤクザ映画に通じるところがありますが、ペキンパーは本来は「滅びの美学」というより「暴力の虚しさ」を説きたかったのではないかと思います(深作欣二の「仁義なき戦い」も一応はそういうことになっているのだが)。

アメリカン・グラフィティ図1.jpgチャーリー・マーチン・スミス2.jpg「アメリカン・グラフィティ」●原題:AMERICAN GRAFFITI●制作年:1973年●制作国:アメリカ●監督:ジョーハリソン・フォード アメリカン・グラフィティ.jpgジ・ルーカス●製作:フランシス・フォード・コッポラ/ゲイリー・カーツ●脚本:ジョージ・ルーカス/グロリア・カッツ/ウィラード・ハイク●撮影:ロン・イヴスレイジ/ジョン・ダルクイン ●時間:110分●出演:リチャード・ドレイファス/ロン・ハワード/チャーリー・マーチン・スミス/キャンディ・クラーク/ポール・ル・マット/シンディ・ウィリアムズ/ ウルフマン・ジャック/ボー・ホプキンス/ハリソン・フォード/ケイ・レンツ/マッケンジー・フィリップス/キャスリーン・クインラン●日本公開:1974/12●配給:ユニバーサル●最初に観た場所:早稲田松竹 (77-11-05) (評価:★★★★)●併映:「タクシードライバー」(マーチン・スコセッシ)

THE WILD BUNCH_02.jpgTHE WILD BUNCH.jpg「ワイルドバンチ」●原題:THE WILD BUNCH●制作年:1969年●制作国:アメリカ●監督:サム・ペキンパー●製作:フィル・フェルドマン●脚本:ウォロン・グリーン/サム・ペキンパー/ロイ・N・シックナー●撮影:ルシアン・バラード●音楽:ジェリー・フィールディング●時間:110分●出演:アーネスト・ボーグナイン/ローバート・ライアン/ウォーレン・オーツ/エドモンド・オブライエン/ベン・ジョンソン/ジェイミー・サンチェス/エミリオ・フェルナンデス/ストローザー・マーティン/L・Q・ジョーンズ/アルバート・デッカー/ボー・ホプキンス●日本公開:1969/08●配給:ワーナー・ブラザーズ●最初に観た場所:池袋文芸坐 (88-03-13) (評価:★★★★)●併映:「リオ・ブラボー」(ハワード・ホークス)

William Shatner&Candice Bergen in Boston Legal.jpgボストン・リーガル1.jpgウィリアム・シャトナー.jpg 挙げていくとキリがありませんが、脇役から主役級になった人、TVドラマで活躍している人もいるし、映画からテレビに移って役柄のイメージが変わった人もいます。

ウィリアム・シャトナー2.jpgWilliam Shatner&Candice Bergen in Boston Legal

 何せ、「スター・トレック」(元々はテレビシリーズだったわけだが)のカーク船長、ウィリアム・シャトナーが「ボストン・リーガル」で法律事務所長をコメディタッチで演じているぐらいだから...(共演は、キャンディス・バーゲン!それと、ジェームズ・スペイダー演じるアラン・ショアが役どころとしてはいい。彼はこのシリーズで、プライムタイム・エミー賞の最優秀主演男優賞を2度獲っている)。

「ボストン・リーガル」 Boston Legal (ABC 2004~2008) ○日本での放映チャネル:FOX CRIME(2007~2011)

 亡くなった人もいれば、まだまだ頑張っている人もいるし、ロン・ハワードのように監督になった人も...。'60年-'70年代が一気に甦ってくる本です。

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トリックもさることながら、犯罪が成立するための心理的側面や人間の感性を重視。

推理小説を科学する.jpg  『推理小説を科学する―ポーから松本清張まで (ブルーバックス (B‐532))』['83年]

 推理小説の古典作品について、その要となるトリックが果たして科学的であるか否かを考察した本で、なかなか面白かったです。著者は、「生体情報学」という大脳生理学、電子工学、心理学などの学際領域を扱う学問が専門だそうですが(本書は1983年の刊行で、今で言う「生体情報学」とは少し違うのでは?)、この本の執筆中に体調を崩し、残念ながら、出版される前に亡くなっています。

 とり上げられている作品には本格派推理小説が多いのですが、多くが批判の対象になっていて、江戸川乱歩の『化人幻戯』や鮎川哲也の『準急ながら』、高木彬光の『刺青殺人事件』、松本清張の『点と線』など国内のものから、ガストン・ルルーの『黄色い部屋』やクロフツ『樽』など海外のものまで27作品が俎上に上っており、トリック自体に物理的に無理があるとしているものもありますが、むしろ、机上の計算では可能だが、人間の心理面や感性を考えたときに、あまりに不自然である、という見方をしているものが多いです。この点は、自分自身が推理小説を読んでいて、理屈はそうだが何となく現実離れしていると感じることがある部分を、見事に言い当ててくれているような気がしました。

ウィチャリー家の女.jpg ロス・マクドナルドの『ウィチャリー家の女』に対する評価もそうですが(この作品も、人間の直感力が看過されている点では批判されている)、作中の優れた心理的な綾(=言葉のトリック)の部分などは賞賛していて、必ずしも作品そのものも一緒に貶しているわけではなく、好感が持てます。
 但し、ヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』のように、作中でいい加減な科学知識をふりまわしているものに対しては、科学者としての憤りを感じたのか、手厳しくこき下ろしています。

推理小説を科学する.jpg こうした中、坂口安吾の『不連続殺人事件』や夏樹静子の『天使が消えて行く』には、心理的トリックが素晴らしいとして最上級の評価を与えていて、トリック自体が科学的であるかどうかということよりも、やはり、犯罪が成立するための心理的側面を重視していることがわかります。
 となると、犯罪が成り立つかどうかは、きっちりした論理問題ではなく蓋然性の問題になってくると言えなくもないのですが、個人的には、著者のこうした人間心理重視のスタンスには、共感するものがありました。

  

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