2008年5月 Archives

「●超心理学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●哲学一般・哲学者」 【1234】 白井 浩司 『「サルトル」入門 「●岩波新書」の インデックッスへ

楽しい講演会を聞いているような印象の本。体系的ではないが、息抜きにはちょうどいい。

だます心 だまされる心.jpg 
だます心 だまされる心 (岩波新書)』['05年]
霊はあるか―科学の視点から (ブルーバックス)』['02年]
霊はあるか.jpg 「だます」という行動を人間関係や自然界について様々な角度から捉えた本で、著者は工学博士(専門は放射線防護学、因みに、東大在学中からの筋金入りの"反原発"派)であるとともに、「ジャパン・スケプティクス」という、超常現象を批判的・科学的に究明する会の会長で、松田道弘著『超能力のトリック』('85年/講談社現代新書)でも紹介されているユリゲラーのスプーン曲げのトリックなどを公開講座で実演してみせたりもしており、『人はなぜ騙されるのか-非科学を科学する』('96年/朝日新聞社)、『霊はあるか-科学の視点から』('02年/講談社ブルーバックス)などの著作もある人です(特に後者の著作は、日本の仏教宗派の主要なものは教義上は霊は存在しないと考えている点をアンケート調査で明かしていて、「超心理学」とはまた違った観点で興味深い)。

不可能からの脱出.jpg 本書『だます心 だまされる心』では、最初の方で、人間の錯覚などを生かした手品や、それを超能力と称しているもののトリックを、著者自身の実演写真入りで解説し("物質化現象"のトリックを実演したりしている)、また、小説に現れたり、だまし絵に見られたこれまでのトリックを紹介しています。本書にある、コナン・ドイルが"妖精写真"にだまされた話は有名で、コナン・ドイルと一時期親交があった奇術師フーディーニは、インチキ霊媒師のトリックを幾つも暴いたことで知られていますが、ある人への手紙の中でコナン・ドイルのことを非常にだまされやすい人物と評しています(松田道弘著『不可能からの脱出』('85年/王国社))。
不可能からの脱出―超能力を演出したショウマン ハリー・フーディーニ』 ['85年/王国社]

 本書では更にまた、過去の有名な霊媒師や予言者という触れ込みの人の手法を明かしていますが、個人的には、実際にあったという"地震予言者"の話が面白かったです。自分宛のハガキを毎日出すことで、消印のトリックをしていたなんて!(自分に来たハガキならば、後から「2日後に地震があります」とか書いて、地震があった直後に、今度は宛名を消してご近所さんの宛名に書き換え...)。 

 特に、科学者もだまされた(と言うか、誤った方向へのめりこんだ)例として、世界的な物理学者・長岡半太郎が、水銀から金をつくり出す研究に没頭していたという話は興味深く、また、野口英世が為した数々の病原菌の発見は殆ど誤りだったという話は、分子生物学者・福岡伸一氏のベストセラー『生物と無生物のあいだ』('07年/講談社現代新書)の中でも紹介されていました。

賢いハンス.jpg この話の後に、"計算の出来る馬"として世間を騒がせた「賢いハンス」の話がきたかと思うと、旧石器発掘捏造事件(所謂"ゴッド・ハンド事件")の話やナスカの地上絵の話などがきて、英国のミステリー・サークルは2人の老画家がその全てを描いたという話は一応これに繋がりますが、更に、動物の「擬態」の話(科学者らしいが)がきたかと思うと、社会的な問題となった詐欺事件や戦争報道の捏造などがとり上げられていて、読者を飽きさせはしないけれども、体系的ではないという印象。
"計算の出来る馬"「賢いハンス」

 霊視能力などの"超能力"や簡単に出来る"金儲け"を喧宣する人に対する「そんなことできるのなら、どうしてこうしないのか」(例えば、警察に行って未解決事件の捜査協力するとか、他人にわざわざ勧めなくとも、勝手に自分だけが大金持ちになるとか)という問いかけは、単純なことながらも、そうした怪しい(ウマすぎる)話に直面したときに、冷静にその問いかけを自分に出来るかどうかが理性の分かれ目であるという点で核心を突いていると思います。

 ただ、本書全体としては、心理学半分、科学エッセイ半分という感じで、どちらかというと、楽しい講演会を聞いているような印象の本でした。あまり体系的でないということで、個人的評価は星3つとやや辛めですが、息抜きにはちょうどいいかも。

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様々な「うつ」との闘いを取材。医療機関、行政、NPO、企業などの取り組みも。

うつを生きる2.gif 『うつを生きる』 (2007/06 朝日新聞社) やまない雨はない.jpg 倉嶋 厚 『やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから...』 (2002/08 文藝春秋)

 '06年から'07年にかけて朝日新聞に断続的に連載された「うつ」関連の特集コラムを再編集したもので、複数の記者が「うつ」で悩む様々な人を取材し、彼らがそれをどう克服したか、また、医療機関や行政、NPO、企業などがどのような対応や対策を講じているかが記されています。

高島忠夫.jpg 冒頭に高島忠夫氏のことが事例として紹介されていますが(新聞なので、有名人でアイキャッチを狙った部分もあるかと思うが)、本書を読むと、26年間続いた料理番組の司会を代わった2年後に発病したとのことで、長く続けた仕事を辞めた時は、危ない時期なのだろうか。この人は、治ったと言うより、まだ闘病中でしょう。今でも毎日、抗うつ剤を服用しているとのこと。

倉嶋厚.jpg 元・気象キャスターの倉嶋厚氏も「うつ」に罹患経験者の1人として紹介されていますが、発症したのが妻が癌で亡くなった73歳の時で、この人のように伴侶の死が発症の契機となることも、やはり多いのかも(倉嶋氏のうつ病の発症と闘病の記録は、自著『やまない雨はない―妻の死、うつ病、それから...』('02年/文藝春秋)に詳しい)。

 ワイドショー「小川宏ショー」の司会を通算17年務めた小川宏氏もうつ病に罹患しているから、やはり長寿番組を終えた後の虚脱感は大きいのかなあ(妻が癌になった点では、本書の倉嶋厚氏と同じ)。

 高齢者のうつだけでなく、女性特有のうつ(中高年齢者は更年期障害と見分けにくく、また、それより下の年齢では"産後うつ"などといったものもある)や、エリート・サラリーマン、医師などがうつになった例なども取材していて、その治癒方法も、薬物療法だけでなく、認知療法や磁気療法など様々で、こうして見ると、どの療法がその人に合っているかということの見極めが難しいなあと思わざるを得ませんでした。

 うつ病から回復して職場復帰を目指す人のために、相手を人事担当者に見立てた模擬面接訓練をやっている組織もあることを知り、それだけ、復職の壁は厚いということなのでしょうか(ただ、企業側が積極的に、職場復帰支援プログラムを策定している例も紹介されてはいるが)。

 この職場復帰支援組織の人がうつ病患者の家族に説いている、本人との接し方には「温かな無関心」 という姿勢が必要という話と、同じく職場復帰支援に力を入れている不知火病院(大牟田市)の院長が退院患者に渡したメモにある、「7割の力、3割の余力」 という言葉が印象的でした。

 本書によれば、'04年に、精神科医の島悟・京都文教大教授が全国ネットのメンタルヘルスコンサルティング機構を立ち上げ、主として、社員を復職させるかどうかなどに迷う上司や人事担当者への助言を行っているそうですが、これからは、企業側からも積極的にこうした外部機関との連携・活用を進めていく必要があるように思いました。

《読書MEMO》
「やまない雨はない」...2010年3月6日単発スペシャルのテレビドラマとしてテレビ朝日系列にて放映。
ドラマ やまない雨はない.jpgキャスト
倉嶋 厚:渡瀬恒彦(青年期:内田朝陽)
倉嶋泰子:黒木 瞳(青年期:星野真里)

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現代人の「心の悩み」の代表的パターンとその治癒過程をケーススタディで知る。

「心の悩み」の精神医学.jpg 『「心の悩み」の精神医学 (PHP新書)』 ['98年]

 著者は、毎日たくさんの患者を診ている精神科医(現在、日本うつ病学会理事長)ですが、著者によれば、精神科医というのは、患者が病気であるかどうかには関心が薄く、患者の「心の悩み」をどう解決するかが最大関心事であるとのこと。そうした考えに基づき、現代人に多く見られる、或いは近年増えている症例パターンとその治療過程を、精神科外来を訪れた8人の患者のケースで紹介しています。

 それぞれの章に著者が付けたタイトルは、
 ・ パニック・イン・中央線特別快速 (パニック障害、ノイローゼ)
 ・ うつ・ウツ・鬱 (うつ病)
 ・ 耐える母 (自律神経失調症、心身症、アダルト・チルドレン)
 ・ 災難の後遺症 (PTSD)
 ・ 過食の盛典 (過食症、摂食障害)
 ・ 偉大な父の息子 (気分変調症、エディプス・コンプレックス)
 ・ 境目にいる人達 (ボーダーライン)
 ・ 濡れ落ち葉を踏みしめて(仮性痴呆症、老年うつ病)
 となっていて(カッコ内は、同じ章でノートやコラム的に解説されているもので、タイトルの指す症状とは必ずしも意味的にはイコールではない)、学術的な精神疾患の分類系統によらず、現代社会に顕著にみられる病理を横断的に取り上げていることがわかります。

 200ページ足らずの新書でやや詰め込み過ぎかなという感じもあるものの、ケーススタディを中心に据え、「心の悩み」に起因する症状の発生から、それを認知し治癒に至るまでを具体的に書いているため、たいへん理解し易いものとなっています。

 90年代に書かれたものであり、「PTSD」の解釈を広くとっていることなどには当時の傾向を感じますが、全体としては、10年前に書かれたものにしては、比較的現在までを見通した"ラインアップ"になっているように思え、著者の眼の確かさを窺わせます。

 但し、それぞれについて典型例が紹介されているだけとも言え、関心がある分野については、分野ごとの入門書なり専門書を併読しないと、ふわっとした感じの理解だけで終わってしまうかも知れない本でもあります。

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『北回帰線』についての着眼点などがいい。もっと作品数を絞ってもよかった。

アメリカ文学のレッスン.jpgアメリカ文学のレッスン2.gif 『アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)』 ['00年] 北回帰線.jpg ヘンリー・ミラー 『北回帰線』

 アメリカ文学作品の紹介や翻訳で定評のある著者が、「名前」「幽霊の正体」「建てる」といった鍵言葉を設定し、その言葉から思いつく作品をいくつか挙げて解説したもので、「強引に三題噺的結びつけて語った」と前口上にあるように、キーワードからランダムに作品を拾いながら、アメリカ文学の全体像が何となく浮かび上がれば、といった感じの試みでしょうか。

 気楽に読めるけれども、それぞれの分析は鋭く新鮮で、著者自身は、1つ1つの作品について述べていることは研究者の間ではそれほど目新しいことではないと謙遜していますが、著者なりの作品評価も窺えて興味深かったです。

 但し、対象となる「アメリカ文学」と言ってもその幅が広く、メルヴィル、ヘンリー・ジェイムズ、エドガー・ポーなどから現代作家まで幅広く抽出していて、日本文学で言えば、江戸近世文学から村上春樹まで扱っているようなもので、その部分での散漫さは否めないような気もし、「破滅」「組織」「勤労」といった抽象概念をキーワードに多く選んでいるのも、少しキツイ。

 1つのキーワードについて、例えば、「食べる」であれば、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』とカーヴァーの『ささやかだけれど、役にたつこと』に殆ど費やしていて、一方で、項によっては、並列的に幾つもの作品を取り上げている箇所もあり、この辺りも、方法論的にこれで良かったのか(著者自身は、型を気にせず楽しみながら書いている感じだが)。

 結局、個人的には、「性の世界」を描いたと思われている『北回帰線』が、ミーラー自身を模した主人公の視点で眺めると、「食べること」に固執した作品と見なすことができるという論が、意外性もあり、また、よく検証されている分、最も印象に残り、同じ項のカーヴァーの作品で、子供を交通事故で亡くした両親にパン屋がパンを食べさせる話を通して、「食べること」が持つ救いを示していることを解説した部分も、紹介の仕方が旨く、印象に残りました。

 大体、各項これぐらいに作品数を絞って、作品ごとにもっとじっくり解説した方が良かったのでは。

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国境の「駆け落ち婚」の村は、今や結婚産業の町。イギリスという国の複雑さ感じさせる面も。
イギリス式結婚狂騒曲.jpg 9イギリス式結婚狂騒曲.jpg プライドと偏見.jpg
イギリス式結婚狂騒曲―駆け落ちは馬車に乗って (中公新書)』 映画「プライドと偏見」('05年/英)

グレトナ・グリーン.jpgGretna Green 鍛冶屋.jpg 本書によれば、18世紀イングランドでは、婚姻が成立する要件として、父母の同意や教会の牧師の前における儀式などが必要とされ、一方、隣地スコットランドでは、当事者の合意のみで成立するとされていたため、イングランドの恋人同士が結婚について親からの同意が得られそうもない場合に、イングランドからスコットランドに入ってすぐの場所にあるグレトナ・グリーン(Gretna Green)村の鍛冶屋で結婚式を挙げ、形だけでも同衾して、婚姻証明書を取得し夫婦になるという駆け落ち婚が行われたとのことで、これをグレトナ・グリーン婚と言うそうです。[写真:グレトナ・グリーンの「鍛冶屋」

Gretna Green3.jpgGretna Green.jpg  「式を挙げてしまえば勝ち」みたいなのも凄いですが、そうはさせまいと親が放った追っ手が迫る―などという状況がスリリングで、オペラや演劇の題材にもなり、19世紀まで結構こうした駆け落ち婚はあったようで、また20世紀に入ってからは、このグレトナ・グリーンは、そうした歴史から結婚産業の町となり(「鍛冶屋」と「ホテル」の本家争いの話が、商魂逞しくて面白い)、今も、多くのカップルがこの地で式を挙げるとのこと。[写真: グレトナ・グリーンのポスター写真

 グレトナ・グリーン婚にまつわる話が、近年映画化されたオースティンの『高慢と偏見』("Pride and Prejudice")などのイギリス文学や、ハーレクイン系のロマンス小説のモチーフとして、当時から今に至るまで度々登場することを著者は紹介していますが、女性が憧れるのが制服の似合う「士官タイプ」の美男子という具合にパターン化しているのが可笑しく、女性の方は金持ちの令嬢だったりし、何頭建てかの馬車を誂えて彼の地へ向かうわけで、日本の駆け落ちとはかなりイメージ差がある?

On the Way to Gretna Green.jpg 但し、『高慢と偏見』で駆け落ち婚を図る五女リディアは、旅費にも事欠く様であり、結局、彼女の駆け落ち婚は未遂に終わるのですが...(この作品の主人公は、映画でキーラ・ナイトレイが演じた次女エリザベスということになるのか。この家の姉妹が皆、将校好きなのが可笑しい)。

 あのダイアナ王妃も、こうしたロマンス小説(オースティンではなくハーレクイン系の方)を耽読したそうで、また、アメリカのロマンス小説にも『グレトナ・グリーンへの道』というのがあるとのこと。

小さな恋のメロディ.jpg  実際に今の時代に、そんな故事に憧れこの地で式を挙げる女性なんて、通俗ロマンス小説にどっぷり浸ったタイプかと思いきや、グレトナ・グリーンの「鍛冶屋」や「ホテル」を訪れるカップルは、自分たちの結婚が「恋愛結婚」であることの証しをその地に求めているようであり、まだまだイギリスでは、結婚は家と家がするものという古いイメージが残っているということなのでしょうか(映画「小さな恋のメロディ」('71年/英)なども、そうしたものからの自由を求める系譜にあるらしい)。

  また、北アイルランドのベルファストを舞台に、それぞれカトリックとプロテスタントの家の出の恋人同士が駆け落ちする小説『ふたりの世界』('73年)が紹介されていますが、この2人が式を挙げるのがグレトナ・グリーン。イギリスという国の複雑さを感じさせるものがありました。

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なぜアメリカ人の"巡礼地"となったのかを、文化社会学的に分析。ビジネス書としても人物評伝としても読める。
ディズニーランドという聖地.gif   ウォルト・ディズニー (1901-1966).jpg ウォルト・ディズニー(1901-1966)
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)』 
 主にアメリカのディズニーランドの歩んできた道を描いた本書は、ビジネス書としての要素もウォルト・ディズニーの評伝としての要素もありますが、タイトルの通り、いかにしてディズニーランドがアメリカ人の「聖地」となり得たのかを分析した「文化社会学」的な本としての要素が最も強いと言えます。但し、ディズニーについて米国人などが書いた大概のビジネス書よりもずっと楽しく読め、しかも、'90年の刊行でありながら、その後に刊行されたディズニー関連の多くのビジネス書よりも、含蓄にも富んだものとなっているように思われます。

 著者は、米国の大学院に学んだアメリカ研究者(文化人類学者)ですが、もともとディズニーランドにはあまり楽しくない印象を抱いていたのが、たまたま仕事で東京ディズニーランド開設に関与することになり、また、そこで知り合った人に勧められてディズニーの伝記を訳すことになったということで、ディズニーランドのコンセプト、ウォルトの個人史を通じて、ディズニー文化とアメリカ人、アメリカ社会との関わりを探るうえでは、ピッタリの人と言えるかも(ディズニーに関わりながらも、普通のライターやマニアとは異なる冷静な視線がいい)。

Disneyland Railroad.jpgSanta Fe & Disneyland Railroad.jpg ウォルト・ディズニーの幼少時代は、家庭的・経済的に暗いもので、ディズニーランドは彼にとって単なる遊園地ではなく(映画プロデューサーが本職の彼には、遊園地を作るという発想は無かった)、そうした暗いものを全部裏返しにしたような、彼にとっても「夢の国」であったということを本書で知りました。

Santa Fe & Disneyland Railroad (Disneyland Railroad)

 共同作業で機械的に生産されるようになったアニメーションの仕事で行き詰っていたときに、鉄道模型にハマり、それで心癒されたウォルトの気持ちが、「サンタフェ鉄道」(ディズニーランド鉄道)に込められているとのことで、その他にも、ディズニーランドのアトラクション1つ1つの歴史や意味合いがわかり、楽しく読めます(東京ディズニーリゾートに同じものがコピーされているというのも、本書が親しみ易く読める理由)

The third most elaborate Pirate walk-through plan  circa 1963.gifWalt.gif ウォルトが最後に関与したアトラクションが「カリブの海賊」ですが、実際の"カリブの海賊"に勇ましい歴史などは無く(死因のトップは性病だった)、ウォルトの故郷を模したというメインストリートも、実は彼の故郷は殺風景な町並みであり、ミシシッピーの川下りで川辺に見える景色についても、同じことが言える―。つまり彼は、「本物の佳作」を作ろうとしたのでなく、「ニセモノの大傑作」を作ろうとしたのであり(ディズニーランド内の開拓時代風の建物や島などは、確かにそれらの殆どがセメントで出来ている)、そこに「死と再生」の意匠が反映されていると著者は分析しています。

 アメリカ人の方が日本人よりもアメリカの歴史を知っているだろうし、ディズニーランドにある多くのニセモノに気づくのではないかと思われますが、それでも、アメリカ人にとってディズニーランドは、どんな離れた所に住んでいても1度は行きたい「巡礼地」であり、訪れた人の多くが、ディズニーランドのゲートをくぐった途端に多幸感に包まれる...。どうしてディズニーランドが、アメリカの歴史と文化を象徴するものとしてアメリカ人に承認されるのか、本書を読み、アイデンティtティって、リアリズムじゃなくて"ドリーム(夢見=幻想)"なのだなあと(ディズニーランドででは"夢見"を阻害するものは徹底して排除されているわけだ)、そう思いました。

「ディズニーランド」.jpgディズニーランド(テレビ番組).jpg 因みに、ディズニーランドがアメリカでオープンする前年の1954年にテレビ番組「ディズニーランド」がスタートしており、日本では4年遅れで日本テレビ系列で放送が開始され、'72年まで続きました。番組の冒頭、ウォルト・ディズニー本人が喋って、ティンカー・ベルが「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の4つ中から、妖精の粉を振りかけたものがその日の番組内容のジャンルになるという趣向が懐かしく思われます。

「ディズニーランド」Disneyland (ABC 1954~61/NBC 1961~81/CBS 1981~83)○日本での放映チャネル:日本テレビ(1958~72)

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アンデスに夢を馳せ、山脈の隅々に潜むインカの囁きを聴くには充分な1冊。

インカを歩く.jpgカラー版 インカを歩く (岩波新書)』['01年]高野 潤.jpg高野 潤 氏(写真家/略歴下記)

 アンデスの雄大な自然と伝統を30年にもわたり撮り続けてきた写真家による写文集。

インカを歩く.jpg 第1章で、世界遺産である「天空の都市」マチュピチュを紹介しているのは一般的であるとして、その後インカ道を奥深く分け入り、チョケキラウという「パノラマ都市」をフィーチャーしていますが、ここも凄く神秘的で、要するにマチュピチュみたいなのが山奥にまだまだあったということなのかと、インカ文明の懐の深さに驚かされます。

 そして更に幾多の山や谷を抜け、インカ族がスペイン人に最後の抵抗を試みた際に籠もったとされるビルカバンバ地方へ。
 ここは、本当にジャングルの"奥地"という感じで、そこに至るまでに、また幾つかの大神殿があるのですが、これらを見ていると、インカ文明が「石の文明」であったことがよくわかります。

 続いて、幅広い年代の遺跡が眠る北ペルー(ここの「空中墳墓」もかなり凄い)を紹介し、更に、ペルー南部のインカ帝国の首都があったクスコ周辺や、もっとアンデスを下った地域まで、ポイントを押えながらも、広い地域をカバーしています。

 文章がしっかりしているのもさすがベテランという感じで、文献の引用が多いことを著者は予め断っていますが、非常に信頼できる記述・解説及び歴史考察ぶりとなっています。

 写真の方も、写真家らしい写真というか、トウモロコシが地に溢れる農園や海抜4千メートルにあるアルパカの放牧地、クスコから星空に望む霊山アウサンガテ峰など、そのままカレンダー写真にしたいような美しさです。

 一応、こうした写真のうち主要なものは見開きになっていますが、他にも遺跡などの写真が数多く収められていて、新書1冊にちょっと詰め込みきれなかった感じもあり、もったいないというか、気の毒な感じも。
 でも、著者が読者に願うように、「アンデスに夢を馳せ、山脈の隅々に潜むインカの囁きを聴く」には充分な1冊です。

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高野 潤 (たかの じゅん)
1947年新潟県生まれ。写真家。1973年から毎年ペル―、ボリビア、アルゼンチン、エクアドルなど主に南米太平洋側諸国のアンデスやアマゾン源流地域を歩き続ける。
南米に関する著書や写真集として、「神々のアンデス=世界の聖域18」講談社、「アンデスの貌」(教育社)、「アンデス大地」(山と渓谷社)同書はフランス、スイス、イタリアにて各国語出版される、「インカ」「どこまでも広く」「マドレの森」(以上三冊は情報センター出版局)、「アンデス=風と霧の聖蹟」(集英社)、「アンデス家族」(理論社)、「風のアンデスへ」(学習研究社)、「アンデスの抱擁」、「アマゾン源流生活」(以上二冊は平凡社)、「アンデス 食の旅」(平凡社新書)、「インカを歩く」(岩波新書)、「インカの野生蘭」(新潮社)。

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中南米最古の黄金遺跡の「発掘物語」&博物館建設に向けた小村の「村興し物語」。

アンデスの黄金―クントゥル・ワシの神殿発掘記.jpgアンデスの黄金―クントゥル・ワシの神殿発掘記 (中公新書)』 ['00年] 大貫 良夫.jpg 大貫良夫 氏 (東大教授・文化人類学者)

クントゥル・ワシ.jpg 南米ペルーの北部高地にある前インカ文明の遺跡クントゥル・ワシを、東大古代アンデス文明調査団(代表:大貫良夫氏)が1988年から6回にわたり発掘調査した際の記録で、こうした発掘調査にはフィールドにおける地元の住民の協力が必要不可欠(労働力供給、宿泊・食事等)なのですが、とにかく、この遺跡のある村は貧しく、村人はみな遺跡のことは知っていてもいつの時代のものかも知らず、「約30年前」のものかと思っていたというのにはビックリ。この神殿遺跡の建設はイドロ期(紀元前1100-700)に始まるため、「30年」どころか「3000年」も前のものなのだから。

 発掘開始の翌年には、遺跡から黄金の冠などの多くの金製の副葬品を伴う墓が幾つも見つかり、そうなると今度は村人たちは、村が貧しいだけに、「金が出た」と色めきたつ一方で、出土品は国や大都市が召し上げ、当の村には何一つ残らないのではないかと疑心暗鬼になり(今までの国内での遺跡発掘が常にそうであった)、調査隊への協力を躊躇する―。
 そこで、大貫代表は村人たちの信頼を得るため、この村に「宝物」を展示するための博物館を建設しようと提案し、村人に募金を募りますが、集まったのはたったの4万円。
 そこで、更に大貫氏は、出土した黄金の冠などの「宝物」を日本へ持ち帰り、そこで展覧会をやって博物館建設のための資金にする、「宝物」は必ず地元に戻し、最終的には、これから建設する「クントゥル・ワシ博物館」に置くようにすることを提案します。

クントゥル・ワシ博物館.jpg こうした村民との粘り強い交渉の過程がリアルに描かれており(村人は何事も村の集会で決議する。それにしても度々集まるのには感心)、本書は、中南米最古の黄金文明遺跡の発掘記録であり、前インカ文明についての入門解説書であるとともに、博物館の開設に至るまでの"村興し運動"の記録でもある(こちらの方が内容的なウェイトが高い?)と言えます。
 調査団メンバーだった関雄二氏も、「住民の遺跡保護に対する関心を高まることで、地域社会の成員としてのアイデンティティも高まり、同時に遺跡保護も可能になるという、興味深い結果がもたらされた」と、述べています。
「クントゥル・ワシ博物館」-国立民族学博物館HPより

 NHKのディレクターの1人が大貫氏の大学時代の山岳仲間だった関係もあって、この「発掘&村興し物語」には途中からカメラが入り、「NHKスペシャル・アンデス黄金騒動記」として、'95年1月に放映されています。

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水木流に視覚化、キャラクター化された面も。

妖怪画談.jpg 妖怪画談 続.jpg 『妖怪画談 (岩波新書)』 ['92年] 『続 妖怪画談 (岩波新書)』 ['93年]

 水木しげるの妖怪画集で、この人には先行して『妖怪談義』という柳田國男の著作と同名タイトルの本もあり、更に『水木しげる妖怪画集』('70年)などもありますが、この『妖怪画談』('92年)は新書で比較的入手し易いのが長所。『続・妖怪画談』('93年)では、中国の妖怪なども紹介されていますが、同じ岩波新書の『妖精画談』('96年)で、ケルト地方、北欧、ドイツ、フランス、ロシアほか海外の妖精まで追っかけて調べ、水木流の画にしています。
 『妖怪談義』は'00年にソフトカバーで復刊しているほか、『妖怪画談』も'02年に愛蔵版が刊行されています(内容がそれぞれ同じかどうかは未確認)。
「塗壁」-『続・妖怪画談』より
ぬりかべ.jpg ところで、『続・妖怪画談』には、「塗壁」(ぬりかべ)という妖怪が紹介されていて、これは、水木氏のマンガの比較的主要なキャラクターにもなっていますが(本書のデラックス版とも言える『愛蔵版 妖怪画談』('02年/岩波書店)の表紙にも、鬼太郎ファミリーの後ろにどんと構えている)、その解説に柳田國男の『妖怪談義』を参照しており、柳田國男の『妖怪談義』('77年/講談社学術文庫版)の「妖怪名彙」('38年)にある「ヌリカベ」の解説には、「筑前遠賀郡の海岸でいう。夜路を歩いていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって恐れられている。棒を以て下を払うと消えるが、上の方をたたいてもどうもならぬといふ。壱岐島でいうヌリボウというのも似たものらしい」とあります。

 水木氏はこれを、目と足を備えた壁のような画に描いていて、水木氏自身、戦時中に,南方で「ぬりかべ」に出会った(色は白ではなく黒だった)と書いていますが、'07年になって、川崎市民ミュージアムの学芸室長の所有する妖怪画が、アメリカのある大学の図書館に寄贈されている妖怪画と一致することが判り、後者に「ぬりかべ」と名があることから、これが「塗壁」を描いたものであるとされ、その姿は、水木氏の画とは全く異なり、中国風の「巨大な狛犬」のようなものに見えるものです(柳田の解説とも符号しないように思える)。  

 どこから食い違ってきたのか自分は専門家ではないのでよくわかりませんが、水木氏は、「柳田國男のあたりのものは愛嬌もあり大いに面白いが、形がないので全部ぼくが作った」と述べていて、水木氏の段階で、個人的な体験や見聞の影響も含めた創作が多分に入っているのは間違いなく、他の妖怪たちも皆、水木氏のマンガに配置されるとちょうど収まるようデフォルメのされかたをしているのは、それほど深く考えなくとも、見た感じでわかることではないでしょうか。

 だからと言って、水木氏がインチキだというのではなく、柳田國男だって画にしなかっただけで、想像逞しく大いに"創作"していた部分はあったに違いないという気がし、"妖怪"というのは、元々がそうした想像力の産物だから、時と共に変遷するものなのだろうなあと。

水木しげるさん死去(11月30日).jpg朝日新聞「号外」2015年11月30日



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オバケと幽霊の違い、3つ言えますか?

妖怪談義.jpg               修道社 妖怪談義.jpg         柳田国男.jpg  柳田 國男
妖怪談義 (1977年)』 講談社学術文庫 『妖怪談義』(1956年12月/修道社) 

 学生時代に、サークルの同級生に、柳田國男の生家近くの網元の息子がいて、そこで『遠野物語』をテーマに読書会合宿をしましたが、大きな梁のある古色蒼然とした家屋で、シズル感満点でした(彼は今、新聞記者になってイラクにいる)。
 本書もその頃に読んだ本で、民俗学者の柳田國男が、明治末期から昭和初期にかけての自らの妖怪に関する論考(民俗学的エッセイ?)を1冊に纏めたもの。オリジナルは1956年の刊行ですが、荒俣宏氏は本書を「妖怪学の基本書」と言っています。

 妖怪とは化け物、つまりオバケのことであり、本書では、何故オバケを研究するのかということをはじめ、幽霊とオバケの違い、オバケは古い神が落ちぶれた姿であるという柳田の考え方などが示されるとともに、川童、小豆洗い、団三郎、狐、ひだる神、ザシキワラシ、山姥、山男、狒々、チンコロ、大人弥五郎、一つ目小僧、天狗などに関する伝聞が紹介されており、また、それらの起源についての彼自身の考察などが記されています。

 柳田によれば、日本人が第一に持っている感情は畏怖感、つまり恐怖の感情であり、それが様々に変化してオバケを生み出したということで、オバケを研究することは、日本の歴史における畏怖や恐怖の原始的な文化の型を捉え明らかにしていくことであり、それにより、日本人の人生観や信仰、宗教の変化を知ることができるのではないかとしています。

 但し、柳田の「妖怪は神の零落した姿である」との考えに対しては、まず初めに神のみが存在し、妖怪は最初いなかったということになり、おかしいのではないかという反駁もあり、個人的には、イスラーム文化における「ジン(一種の妖怪)」に、まさに妖怪型のジンもいれば、善玉のジンもいる(イスラームの土俗信仰は多神教だった)ように、神と妖怪は表裏一体のものとして同時に併存したのではないかと考えます。

 因みに、本書によれば、オバケと幽霊の違いは―、
 第1にオバケは出現する場所が大体定まっているため、そこを避けて通れば一生出くわすことなないけれども、幽霊の方は、「足がないという説があるにもかかわらず、てくてくと向こうからやってきた」こと、
 第2に、化け物は相手を選ばず、「むしろ平々凡々の多数に向かって、交渉を開こうとしていたかに見える」のに対し、幽霊は、これぞと思う者だけに思い知らせようとするものであり、暗い野路を通る時に"幽霊"が出るのではとビクつく人は、人に恨まれる覚えがないならば、オバケと幽霊を混同しているのだと。
 オバケと幽霊の第3の違いは「時刻」であり、幽霊は"丑みつ時"が知られていますが、実際には"丑みつ時"に限らずいろいろな折に出るらしく、一方オバケの方は、大概は宵と暁が多いとのこと。「人に見られて怖がられるためには、少なくとも夜ふけて草木も眠るという暗闇の中へ出かけてみたところで商売にならない」とのことです。

【1977年文庫化[講談社学術文庫]/2013年再文庫化[角川ソフィア文庫]】

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「●か 香山 リカ」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ  ○レトロゲーム(闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光)

何でもかんでも「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく...。

なぜ日本人は劣化したか.gif 『なぜ日本人は劣化したか』 (2007/04 講談社現代新書)

闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光.png闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光.jpg  かつて、ゲームの世界では、RPGでは「ファイナルファンタジー」「ドラゴンクエスト」などの大作があり、個人的にはドラクエよりもFFの方が好きでしたが、ギリシャ神話の世界観をベースにした「ヘラクレスの栄光」というゲームも、出た当初は「ドラクエのパクリ」などと揶揄されたものの、やってみればなかなか味わい深いものがありました(シリーズ第1作「闘人魔境伝ヘラクレスの栄光」('87年)は、ギリシャ神話に出てくるヘラクレスの12功業をモチーフにして、諸悪の根源ハデスを倒しビーナスを救い出すという筋立て)。

 こんな思い出を言うのは、たまたま昔のゲームのことを思い出したことぐらいしか本書には個人的に印象に残る部分が無かったからかも。著者によると、こうしたRPGのビックタイトルは最近出てなくて、売れているのは「脳トレ」のような「短時間で手軽に遊べる」「脳年齢が若返る」といったゲームばかりだそうです。

 著者は、こうしたゲームの傾向をもって「コンテンツが劣化している」と言っています。でも、RPGをやる人と「脳トレ」をやる人とでは、勿論どちらも単なる時間潰しでやることはあるだろうけれども、本来的にはそれをやる目的が違うのではないかという気がします。なので、「ヘラクレスの栄光」はストーリー等において(個人的見解ではあるが)「ドラクエ」を凌駕しているとか、大人向きだとか言えるかもしれませんが、レトロなRPGが今の「脳トレ」より大人向きだったとか進んでいたという言い方はしないように思います(そもそも比較の対象にならない)。

 著者はゲームに関して劣化したとするのと同様に、言葉の乱れを指して日本語は劣化しているとし、地べたに座り込む若者を見て体力も劣化しているとし、ともかくおしなべて日本人の考える力が劣化し、知性は退廃していると本書で述べています。

 「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく、「劣化」を連呼するだけ連呼して特に解決案を示さず、「これをなんとか食い止めねばならない」で終わっているため、拍子抜けしてしまいます。

いまどきの「常識」.jpg 一時、著者が「愛国心」について書いたものを何冊か読みましたが、『〈私〉の愛国心』('04年/ちくま新書)において精神分析のタームを濫用しながら"素人政治談議"、"床屋談議"をしているのにやや辟易し、それでも、『いまどきの「常識」』('05年/岩波新書)などは、世相をざっと概観するには手軽だったかなあという気もしました。

 しかし、本書においては、評論家がテレビや雑誌の限られた時間やスペースの枠内で、一般向けにどうでもいいようなコメントをしている(著者自身、その一員になりつつある?)、そうしたものを、ただ繋ぎ合わせただけという感じがします。

 最近の著者は、この類の本を量産しているようで、講談社現代新書でもこれが初めてではないようですが、新書が「劣化」しているのか?「売れるものはよいもの」という考えを著者は批判していますが、本人はどうなの、と言いたくなります(商売目的の粗製乱造なのか、本気で世直ししたいと思っているのか?)。

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民俗学的アプローチから歴史哲学的考察を展開。ユニークな視点を示している。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか.gif 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)』 ['07年]

 著者は世の中の近代化の流れに背を向け、20代から群馬の山奥の小村に入り、その地において、自然や風土と共同体や労働との関係についての過去と現在を見つめ、自から思索をしてきた異色の哲学者で、里山の復活運動などの"身体的"実践も行ってきている人。
 本書は、日本人がキツネに騙されたという話は何時頃まであったのかという、民俗学的な切り口から入り、実際、キツネの騙し方のパターンの分類などは、そうした興味から面白く読めました。

 著者によれば、キツネに騙されたという話を聞かなくなったのは1965年頃だということで、そうなった理由として、
  ① 高度経済成長には経済的価値のみが唯一の価値となり、自然・神・歴史と自分との連携意識が衰えた、
  ② 科学的真理を唯一の真理とする合理主義により、科学的に説明できないことは迷信やまやかしとして排除された、 
  ③ テレビ゙の普及で与えられた情報だけ事実として受け取るようになり、自然の情報を読み取る能力が衰えた、
  ④ ムラの中で生きていくための教育体系(通過儀礼や年中行事など)が崩れ、受験教育一辺倒になった、
  ⑤ 自然や共同体の中の生死という死生観が変化し、個人としての"人間らしさ"を追求するのが当然になった、
 などを挙げていて、かくして日本人は「キツネに騙される能力」を失った―という、騙されなくなったことを精神性の"衰退"とする捉え方をしているわけです。

 本書を読み進むとわかりますが、本書でのこうした民俗学的な話は、歴史とは何かという歴史哲学へのアプローチだったわけで、著者によれば、日本人は、西洋的な歴史観=幻想(歴史は進歩するものであり、過去は現在よりも劣り、量的成長や効率化の追求が人を幸せにする)をそのまま受け入れた結果、国家が定めた制度やシステムが歴史学の最上位にきて、「キツネに騙された」というような「ムラの見えない歴史」は民俗学の対象とはなっても歴史としては扱われていと、そのことを指摘していて、そこでは、人間にとって大切なものは何かと言う価値観の検証も含めた歴史学批判が展開されており(645年に大化の改新があったことを知って何がわかったというのか)、併せて、近代的な価値観の偏重に警鐘を鳴らしているように思えました。
日本人の歴史意識.jpg
 著者は、民俗学の宮本常一、歴史学の網野善彦などの思想に造詣が深いようですが、個人的には、今まで読んだ本の中では、網野善彦の『日本中世の民衆像』('80年/岩波新書)などもさることながら、それ以上に、方法論的な部分で、西洋史学者・阿部謹也『日本人の歴史意識』('04年/岩波新書)を想起させられるものがありました(中世の民衆の「世間」観を考察したこの本の前半部分は、「日本霊異記」から10話ほどが抜粋され、その解説が延々と続く)。

 本書後半部分の思索は、人にとって「生」とは何か、その営みの歴史における意味は?ということにまで及んで深いが、一方で"キツネ"というアプローチが限定的過ぎる気もし、1965年という区切りの設定も随分粗っぽい。それでも、ユニークな視点を示しているものであることには違いなく、コミュニティ活動のヒントになるような要素も含まれている(具体的にではなく、思考のベクトルとしてだが)ように思えました。

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人間は日々作り替えられているのだ...。読み易く、わかり易い(藤原正彦の本と少しだぶった)。

生物と無生物のあいだ_2.jpg生物と無生物のあいだ.gif            福岡伸一.jpg 福岡 伸一 氏 (略歴下記)
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)』 ['07年]

 2007(平成19)年度「サントリー学芸賞」(社会・風俗部門)受賞作であり(同賞には「政治・経済」部門、「芸術・文学」部門、「社会・風俗」部門、「思想・歴史」部門の4部門があるが、元々人文・社会科学を対象としているため、「自然科学」部門はない)、また、今年(2008年)に創設された、書店員、書評家、各社新書編集部、新聞記者にお薦めの新書を挙げてもらいポイント化して上位20傑を決めるという「新書大賞」(中央公論新社主催)の第1回「大賞」受賞作(第1位作)でもあります。

 刊行後1年足らずで50万部以上売り上げた、この分野(分子生物学)では異例のベストセラーとか言うわりには、読み始めて途端に"ノックアウトマウス"の話とかが出てくるので、一瞬構えてしまいましたが、読み進むにつれて、ベストセラーになるべくしてなった本という気がしてきました。

Rudolf Schoenheimer (1898-1941).jpg プロローグで、表題に関するテーマ、「生物」とは何かということについて、「自己複製を行うシステム」であるというワトソン、クリックらがDNAの螺旋モデルで示した1つの解に対して、「動的な平衡状態」であるというルドルフ・シェ―ンハイマーの論が示唆されています。

Rudolf Schoenheimer (1898-1941)

 本編では、自らのニューヨークでの学究生活や、生命の謎を追究した世界的な科学者たちの道程が、エッセイ又は科学読み物風に書かれている部分が多くを占め(これがまた面白い)、その上で、DNAの仕組みをわかり易く解説したりなどもしつつ、元のテーマについても、それらの話と絡めながら導き、最後に結論をきっちり纏めていて、盛り込んでいるものが多いのに読むのが苦にならず、その上、読者の知的好奇心にも応えるようになっています。

 著者は、シェーンハイマーの考えをさらに推し進め、「生命とは動的平衡にある流れである」と再定義しています。
 ヒトの皮膚も臓器も、細部ごとに壊されまた再生されていて、一定期間ですっかり入れ替わってしまうものだとはよく言われることですが、本書にある、外部から取り込まれたタンパク質が身体のどの部位に蓄積されるかを示したシェーンハイマーの実験には、そのことの証左としての強いインパクトを受けました(歯も骨も脳細胞までも、常にその中身は壊され、作り替えられているということ)。

ダークレディと呼ばれて―二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実.jpgマリス博士の奇想天外な人生.jpg また、シェーンハイマーという自殺死した天才学者に注目したのもさることながら、科学者へのスポットの当て方がいずれも良く、ノーベル生理学・医学賞をとったワトソンやクリックよりも、無類の女性好きでサーフィン狂でもあり、ドライブ・デート中のひらめきからDNAの断片を増幅するPCR(ポメラーゼ連鎖反応)を発明したというキャリー・マリス博士(ワトソン、クリックらと同時にノーベル化学賞を受賞)や、ワトソン、クリックらの陰で、無名に終わった優秀な女性科学者ロザリンド・フランクリンの業績(本書によれば、ワトソンらの業績は、彼女の研究成果を盗用したようなものということになる)を丹念に追っている部分は、読み物としても面白く、また、こうした破天荒な博士や悲運な女性科学者もいたのかと感慨深いものがありました(著者は、キャリー・マリス、ロザリンド・フランクリンのそれぞれの自叙伝・伝記の翻訳者でもある)。 『マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)』 『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実

若き数学者のアメリカ 文庫2.jpgワープする宇宙.jpg アメリカでスタートを切った学究生活やそこで巡り合った学者たちのこと、野口英世の話(彼の発表した研究成果には間違いが多く、現在まで生き残っている業績は殆ど無いそうだ)のような、研究や発見に纏わる科学者の秘話などを、読者の関心を絶やさずエッセイ風に繋いでいく筆致は、海外の科学者が書くものでは珍しくなく、同じ頃に出た多元宇宙論を扱ったリサ・ランドール『ワープする宇宙』('07年/日本放送協会)などもそうでしたが、科学の"現場"の雰囲気がよく伝わってきます。 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く
 日本では、こうした書き方が出来る人はあまりいないのでは。強いて言えば、数学者・藤原正彦氏の初期のもの(『若き数学者のアメリカ』『心は孤独な数学者』など)と少し似てるなという気がしました。 『若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

 俗流生物学に当然のことながら批判的ですが、今度´08年5月から、その"代表格"竹内久美子氏が連載を掲載している「週刊文春」で、著者も連載をスタート、更に、脳科学者の池谷裕二氏も同時期に連載をスタートしました。
 どうなるのだろうか(心配することでもないが)。竹内久美子氏は、もう、連載を降りてもいいのでは。
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福岡 伸一(ふくおか・しんいち)
1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ロックフェラー大学およびハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授を経て、青山学院大学 理工学部化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。研究テーマは、狂牛病 感染機構、細胞の分泌現象、細胞膜タンパク質解析など。専門分野で論文を発表するかたわら一般向け著作・翻訳も手がける。最近作に、生命とは何かをあらためて考察した『生物と無生物のあいだ』(講談社)がある。

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周辺学界にこそ柳田の後継者はいた。「現代風俗研究会」もその1つ?

民俗学の熱き日々―柳田国男とその後継者たち.jpg 『民俗学の熱き日々―柳田国男とその後継者たち (中公新書)』 ['04年] 柳田国男.jpg 柳田國男

 柳田國男(1875‐1962/享年87)は、ほぼ独力で日本の民俗学を開拓し、また思想家としても後世に多大の影響を及ぼしたとされる人ですが、その個人としての業績が燦然と屹立する一方で、山口昌男が「柳田に弟子なし」と指摘したように、その影響力が誰によって引き継がれたのかが不明であるという面もあり、本書では今一度、民俗学や思想面での彼の系譜がどこに見られるのかを、文献や資料をあたって検証しています。

 柳田の幼年期の祠での神秘体験とそれに関する記述の変容などは面白い(自ら脚色している!)ものの、本全体としてはタイトルの割には地味で、読んでいて柳田の学界内での保守的な姿勢を知るにつれ柳田が嫌いになりそうな気もし、山口昌男も指摘したように、彼は、分野を異にする「異邦人」を歓待する一方で傘下の弟子に「危険な遊戯」を禁じた(つまり、彼自身の学究分野や学説を超えることを禁じた)、その結果、独創的な継承者が育たなかったということのようです。

 但し、本書で「周辺の人々」「読者群像」として紹介されている、彼の人物や書物に触れて大きな影響を受けた人の中には、「周辺の人々」として今西錦司(1902‐92)、貝塚茂樹(1904‐87)、梅棹忠夫(1920‐)らがおり、「読者群像」として桑原武夫(1904‐88)、中野重治(1902‐79)、花田清輝(1909‐74)などがいて、そのビッグネームの連なりとジャンルの幅広さに改めて驚かされます。

 柳田の本に刺激されてニホンオオカミの絶滅に関する伝聞を地方に聞いて回った今西錦司の初期の仕事は、殆ど民俗学者のそれであり、今西は後に、『遠野物語』を自在に論考し、独自の生態学理論を打ち出すのですが、その今西から『遠野物語』を借りて読み、今西より遥かに早くそれについて言及したのが、仏文学者の桑原武夫だったとか、こうした柳田を軸に交錯した関係が興味深く、結局、著者の言わんとしているのは、柳田の影響は民俗学と言う分野だけでなく、むしろ周辺学界に大きな影響を与え、強いて言えば、それらの人々が「後継者」だということのようです。

 そう言えば、「現代風俗研究会」というのがあって、初代会長が桑原武夫、第2代会長は仏文学者・社会学者の多田道太郎(1924-2007)で、なぜフランス文学者が「風俗研究」なのかという不思議さもありましたが、何となく解ったような...。
 本書の著者の父親で、哲学者・評論家でマンガ評論でも知られてる鶴見俊輔氏も「現代風俗研究会」の草創期からのメンバーです。

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遺伝主義批判・平等主義の人類学者による幅広い観点からの入門書。「人種」は現代の神話に過ぎない?
文化人類学の世界 C.クラックホーン 講談社現代新書.jpg文化人類学の世界.gif クライド・クラックホーン 2.jpgClyde Kluckhohn.jpg Clyde Kluckhohn
文化人類学の世界―人間の鏡 (講談社現代新書 255)』 ['71年]

 米国の人類学者クライド・クラックホーン(1905-1960)の『人間のための鏡("Mirror for Man")』(原著は'49年刊行)の訳本(光延明洋訳/サイマル出版会)とほぼ同時期に新書として刊行された、言語学者・外山滋比古氏らによる同本の抄訳で、原著では自然人類学、文化人類学の双方を扱っているところを、入門書として文化人類学に関する部分を主に抽出して訳したとのことですが、自然人類学についての記述も一部含まれていて、人類学とは何をする学問なのかを、人類と文化、人種、言語、習慣などとの関係を説きながら、幅広い観点から解説しています。

 文化人類学というと、何かフィールド・ワークを通して"決定論"的な法則を探ろうとする学問のようなイメージがありますが、人類学者が、例えば「性格」というものを見る場合(人個人としてではなく社会集団として見る)、社会の構成員が社会的存在として持つ欲望や欲求を"取捨選択"して作り上げた結果として、それを見るのだと著者は言っています。
 つまり、「性格」は大部分が学習(教育)の産物であり、学習はまた多くの部分が文化によって決められ、規制されているのだと。

 教育は「文化を道徳として教える」が、それは例えば、文化にとって良い習慣には褒美を与え、悪い著者には苦痛や罰を与えればいいだけのことで、ただし、著者によれば、文化は選択可能であり、人間は教育次第でどんな人間にでもなれると言っており、ここに著者独自の平等思想があります。

 クラックホーンは遺伝主義を批判したことでも知られていますが、ある子供が有能で魅力的な人物にならなかったとしても、悪い事を親や祖先のせいにしてしまえばそれでお仕舞いで、遺伝主義は「悪いのは俺ではなく自然だ」という考えを擁護し、優生学的な偏見の温床になるというのが彼の考えであり、同じ運命を享受しながらも成功した人間は幾らでもおり、人は運命に逆らう力を持っているという彼の考えは、サルトルとレヴィ=ストロースが対立論争した実存主義と構造主義の関係構図とは対照的に、実存主義に近いものを感じました。

 個人的には、自然人類学に関して書かれている部分が面白く感じられ(「人種」に関する箇所)、
 ●ユダヤ人は、これまで住んだことのある国々の人と完全に混血しているので、いかなる肉体的特性によっても人種として他から区別できない
  (日本人と韓国人だって、理屈から言えば同じことが言える面もあるかも)
 ●家系図は無意味であり、祖先が半分ヨーロッパ系の人なら、シャルル大帝を系図に入れてよいことになる
  (2人の父母、4人の祖父母、8人の曾祖父母、16人の高祖父母と、"尊属"は前世代になるほど増えていくため、必然的にそうなる)
 ●知能指数200の人は、黒人にも白人にも同じ割合でいる
  (確か、ゴンドリーザ・ライス国務長官って200以上あるって聞いたことがある。政治的脚色もあるかも知れないが...)
 等々、なるほどと思わされました(その「なるほど」の中には、多分にこえrまで自分が無意識に抱いていた偏見に気づかされたものもあった)。
 クラックホーンは本書の中で、「人種」を指して「現代の神話」と言っています。

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「アフリカを行く」と言うより、アフリカに「野生動物を撮りに行く」。撮影と"狩り"は似てる。

アフリカを行く.jpgカラー版 アフリカを行く.jpg
カラー版 アフリカを行く (中公新書)』 ['02年]

 本書にはアフリカの野生動物の、まさに野生で生きるままの姿を撮った写真が満載されていますが、著者は、もともと映画や本などを通して、アフリカの自然への憧憬を抱き、動物を描くイラストレーターを目指していたとのことで、写真家になってからも30年にわたりアフリカの自然を撮り続けている人です。

 文章がしっかりしていて、アフリカで野生動物と出くわした時の緊張感や、弱肉強食の世界を目の当たりにした時の衝撃、動物写真を撮るときの苦労などがよく伝わってきます。
 根底に古典的な「サファリ(狩猟)」感覚を感じるのは、著者が「ハタリ!」('61年)などの映画に影響を受けたことを告白しているせいもあるでしょうが、撮影というものが"狩り"とプロセスにおいて殆ど変わらないものであるからではないでしょうか(少なくとも、本書を読むとそう感じられる)。

 ビクトリア瀑布などの大自然、多様な現地部族、都市部の瀟洒な生活なども紹介されていますが、やはりメインは野生動物であり、撮影もケニアやタンザニアなどの自然公園でのものが主なので、書名から、アフリカ各地の歴史・地誌・文化を巡る旅を想起した人には、肩透かしのものとなっているかも知れません(写真集としても、新書版なので、野生動物写真を収めるにはちょっと迫力不足かも)。

カバ大集合.jpg NHKの「ダーウィンが来た!」で、アフリカで川が干上がり、僅かに残った水場に多数のカバが殺到した様子を撮った「壮絶1200頭!カバ大集合」というのを見て、"集合"と言うより、水場にカバを"敷き詰めた"みたいな感じでなかなか凄かったですが、どこかで見聞きしたことがあったなあと思ったら、この本の中であったことを思い出し、久しぶりに取り出してみた次第。
 NHKの番組ホームページ(撮影の裏話が面白い)で調べたら、撮影場所はタンザニアのカタビで、本書での撮影場所は、ボツワナのオカヴァンコ・デルタ、カタビは世界最大のカバ集合地、オカヴァンコ・デルタは世界最大の内陸デルタ地帯だそうです。

NHK「ダーウィンが来た!生きもの新伝説」'08年4月放送:「壮絶1200頭!カバ大集合」

 本書にもある、オカヴァンコ・デルタをモコロ(丸木舟)で行く旅は、地元の観光ツアー・コースになっていて、探検気分を味わいたい人には人気のようです(あまり、野生動物の生態に影響が出なければいいが)。

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若者の精神病理を示す"流行語"を再整理し、総括概念を提唱。過渡期的産物の本?

正常と異常のはざま.gif 『正常と異常のはざま―境界線上の精神病理 (講談社現代新書)』 ['89年]

正常と異常のはざま 境界線上の精神病理.jpg 精神医学者が、「正常と異常の間」を指す「境界線」の視点から、主に病める現代の青春群像を巡って語ったもので、"現代"と言っても本書の刊行は'89年ですが、この頃から既に、極端な精神病状を示す患者は減っていて、逆に、青春期危機、青い鳥症候群、登校拒否や家庭内暴力など、つまり、正常と異常の境界領域に位置する人が、とりわけ若者を中心に多くなってきていたことが窺えます。

 そうした、若者の精神病理を示す言葉として、その他にも青春期痩せ症(摂食障害)、リストカット・シンドローム、アパシー・シンドローム、ピーターパン・シンドロームなどの様々な病態、症候群が、若者特有のものとして注目されていた時期でもあり、著者は、こうした、あたかも流行語のように氾濫する言葉を、1つ1つ症例を挙げて丁寧に解説しています。

 その上で、これら若者特有の病理を総括的に捉える概念として「青春期境界線症候群」というものを提唱し、それは、子供から大人への過渡期に起きる心の病気で、人格形成の歪みを主因として常軌を逸脱するが、軽症から重症まで幅は広く、と言っても、重症でも生涯にわたって病院と縁が切れないといったものではなく、また、これは社会的不安や変化を背景として多発傾向にある「現代病」であるとしています。

 若者の間で蔓延する精神病態に対し、「現代病」という観点から着目した点は先駆的ですが、用語には現時点ではノスタルジーを感じるものもあり、今ならば、「引きこもり」などが入ってくるのかも(「引きこもる」という言葉自体は本書でも使われているが)。

ボーダーライン障害.jpg 精神医学上の「境界例」と「青春期境界線症候群」の各種との対応関係を整理していますが、この辺りからかなり専門的な話になってきて難しい。
 難しく感じるのは、「境界例」(ボーダーライン)というものの位置づけが、元々、'67年にカーンバークが神経症でも精神病でもないある種の人格障害として「境界線パーソナリティ構造」を提唱したまではともかく、「境界性パーソナリティ障害」としてDSM‐Ⅲ('80年)に組み入れられるに至って、問題行動を横断的に捉えた、単なる診断カテゴリーになってしまった(結果として、「境界」という言葉も、「当初は精神病と神経症の中間にあると考えられたから、そう呼ぶのであって、今では歴史的な意味しか持たない」と言う人もいる)からではないかという気がします。

 本書の中で著者は、発達論から見た「境界例」の発症メカニズムを探ろうとしていますが、実際には「境界例」は外見的な診断カテゴリーとして定着して、観察的基準においてのみその後も修正が行われてきたのであり、その意味では、本書は過渡期的な内容の本になってしまっている面もあります。
 「境界例」を社会における「境界の不鮮明化」とのアナロジーで論じている点も、ちょっとキツイかなあという感じがしましたが、治療に「育てなおし」という概念を入れ、健常な生活へと帰還する道しるべを提供している点は、評価されるべきものであるかと思います

《読書MEMO》
●躁うつ病については、近頃では躁・うつの病相が緩やかになり、典型的な躁病はほとんど見られなくなった。その反面、今日の高度に文明化した余裕のないストレスフルな社会状況を反映して、神経症的な不安や葛藤をはらむ「神経症性うつ病」や、心気症状や心身症状を呈する「仮面うつ病」が増えている。すなわち、(躁)うつ病の発病率は高くなっているが、その一方で正常と異常の中間的な軽症の病像へと変化を生じ、その大半がこれまでの「精神病」の範疇には入らなくなっているのである(17‐18p)
●最近の約30年間を顧みると、そこには、人間一人一人の力ではいかんともしがたい社会の大きなうねりがあり、怒濤のごとく押し寄せてきていることが指摘できる。その社会の大きなうねりは、要するに戦後の制度解体、高度な文明化、経済成長などによってもたらされたもので、生きる規範が不確かとなった"境界不鮮明"、強いていえば"境界喪失""の状態といえるだろう(24‐25p)
●最近の目まぐるしく変化する社会では、大人と子供、男性と女性、世代間の境界、社会的な役割、仕事と遊び、そして季節や昼夜など、ありとあらゆる面で"境界の不鮮明化"が起こり、正常と異常の区別がわからなくなっている。そのために、異常現象や心の病気が急激に増えているのである。こういう正常と異常のはざまについては、これまでにもたびたび論じられ、まさに20世紀後半における精神医学の中心テーマとなっていた。そこで、本書では、原点に戻って、現象的にも、病理的にも共通する「境界線」という視点を導入することで、正常と異常のはぎまを総括的に理解し、それぞれにある微妙な鑑別点や、本来の発達をベースとする治療的アプローチ、家族や周囲の者の留意点などについて述ベてみた(241‐242p)

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日米のサポートに対する根本的な取り組み姿勢、発想の違いを痛感。

学習障害(LD)―理解とサポートのために.jpg 『学習障害(LD)―理解とサポートのために (中公新書)』['02年] アメリカ障害児教育の魅力―親が見て肌で感じた.jpg 佐藤恵利子 『アメリカ障害児教育の魅力―親が見て肌で感じた』 ['98年/学苑社]

学習障害.jpg 学習障害の子供に対する教育面でのサポートのあり方について書かれた本で、著者は障害児教育の専門家で、公立学校での教職経験もあり、またUCLAで教鞭をとったこともある人で、とりわけアメリカで行われている障害児教育の様々な取り組みが本書では紹介されています。

 以前に、『アメリカ障害児教育の魅力-親が見て肌で感じた』('98年/学苑社)という、自閉症の我が子を連れてアメリカに行き、ウィスコンシン州の地元の特殊学級で学ばせた佐藤恵利子さんという人の体験記を読み、日米の障害児教育の差に愕然としましたが、たまたま行ったところがそのような手厚いケアをする学校だったのではという思いもあったものの、本書を読むと、根本的にアメリカと日本では、障害児教育への取り組み方が違うように思えました。

 日本では、まず児童を学習障害の有る無しで区分し、障害のある子に特殊教育を施すという考え方ですが(結果として、「普通学級」に入れることが目的化しがちである)、アメリカでは、教科や学習内容ごとの得手不得手によって区分し、その子の不得手な教科について特殊教育を行うという考え方であり、学校の中にそうした「リソースルーム」という特殊学級があって、ある教科についての特別な教育的ニーズのある子は、その時間帯だけ、そこで授業を受ける―というのが、一般的なシステムのようです。

 一見、日本の「通級」システムと似ていますが、言語障害、情緒障害などのカテゴリー別の設置ではなく、あくまでもその科目を学習するのに困難を感じている子が利用できるものであり、校内に設置されている比率も日本とは全然違うし、そこで教えているのは障害児教育の資格を持った複数の教師であり、「リソースルーム」を巡回する教師も複数配置されていて、外部の専門家と連携してサポートを受けるようなシステムもあるということです。

 日本でも学習障害児に対するサポート体制は徐々に整いつつあるかと思われますが、根本的に、画一的教育というのが伝統的な日本の教育スタイルであっただけに、本書を読むと、その辺から発想の転換が求められるような気がし、但し、また、こうしたことを実現するには、行政レベルでの人的資源の投下が必要であるように思いました。

 学習障害の入門書としても読めなくはありませんが、サバン症候群などについてはそれほどの頻度で見られるものでもなく、むしろ、そうしたある分野について特殊な能力に恵まれている「ギフテッド」と呼ばれる子供たちを、どう社会に活かすかということをアメリカという国は考えていて、そのことが、子供たち個々のニーズに沿った教育をするという意味で、「リソースルーム」と同じ発想にある点に注目すべきでしょう。

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「メランコリー親和型うつ病」というものを通して、"日本人という「うつ病」"を考える。

うつを生きる.jpgうつを生きる (ちくま新書)』['02年]日本人という鬱病.jpg 芝 伸太郎『日本人という鬱病』['99年]

メランコリー.jpg うつ病の中に「メランコリー親和型うつ病」という種類があり、これは、律儀、几帳面、生真面目、小心な、所謂、テレンバッハが提唱したところの「メランコリー親和型性格」の人が、概ね40歳以降、近親者との別離、昇進、転居、身内の病気などを契機に発症するものですが、職場での昇進などを契機に責任範囲が広がると、全てを完璧にやろうと無理を重ね、結果としてうつ病に至る、といったケースは、よく見聞きするところです。

 著者は、「メランコリー親和型性格」というのは平均的な日本人の性格特徴であり、和辻哲郎の『風土』など引いて、それに起因するうつ病というのは、日本の"風土病"であるとも言えるとして、これは、前著『日本人という鬱病』('99年/人文書院)のテーマを引き継ぐものです。
 また、日本の社会における「贈与」(ボランティア活動なども含む)とは、「交換」と密接に結びついていて(結局は、どこかで相手に見返りを要求している)、そうしたことが「うつ病の発生母地」になっていると。
 確かに、うつ病による休職者などは、会社に対して借りを作っていうような気分になりがちで、ある種の経済的な貸借関係の中に自らの休職を位置づけてしまいがちな傾向があるのかも。
 では、どうして日本人がそうした心性に向かいがちなのかを、本書では、文学、哲学、経済など様々な観点から考察し、貨幣論やマックス・ウェーバーの社会学にまで言及しています。

木村 敏.jpg 「メランコリー親和型性格」をキーワードに日本人論を展開したのは、著者の師であるという木村敏(1931- )であり、その他にも、中井久夫、新宮一成ら"哲学系"っぽい精神病理学者を師とする著者は、一般書という場を借りて、自らの思索を本書で存分に展開しているように思えます。
 うつ病本体から離れて、形而上学や日本人論にテーマが拡がっている分、一般のうつ病経験者などが本書を読んだ場合、どこまでそれに付き合うかという思いはありますが、これが意外と共感を呼ぶようです。
 それぐらい、「メランコリー親和型性格」というものを指摘されたとき、それが自分に当て嵌まると感じる人が、うつ病経験者には多いということなのかも知れません。

 そうした性格を否定するのではなく肯定的に捉えている点も、本書が共感を呼ぶ理由の1つだと思いますが(その点でタイトルの「生きる」に繋がる)、思考しながら読み進むことで、そうした自らの心性を対象化し、ものの考え方が良い方向に変容するという効果もあるのかも知れないとも思いました。

 個人的に興味深かったのは、不況(depression)とうつ病(同じく、depression)の相関についての考察で、「メランコリー親和型うつ病」というのは、返済不能な負債を負った際などに発症するものであり、会社で給与カットやリストラに遭ったりして発症するものではなく、折角昇進(昇給)させてもらったのに、それに見合った仕事ができていない、などといった状況で発症すると。
 だから、不況下では、それ以外の精神疾患は増えるかも知れないが、「メランコリー親和型うつ病」は減ると―。

 そんな機械的に割り切れるものかなという気もしますが(リストラした会社に対する負債は無いが、家族や援助者への負い目などはあるのでは?)、「メランコリー親和型うつ病」の特性を考えるうえでは、わかりやすく、また興味深い仮説かも知れないと思いました。

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新味が無く、むしろキーワードへの牽強付会が目につく。

キャラ化するニッポン.jpg 『キャラ化するニッポン (講談社現代新書)』 ['07年]

 バンダイのキャラクター研究所の所長とかいう人が書いた本で、日本は「キャラ化」の方向へ向かっていると述べていますが、「キャラクターにハマる」ことと、「自らをキャラクター化する」ことを一緒くたに論じていて、その辺りの違いを、「キャラ化」というタームを軸に多くの事例を引くことで韜晦させてしまっている感じがし、何か、プランナーがプレゼンでスポンサーのお偉いさん達を煙に巻くときのやり方に似てる感じもしましたが、新書として読むとなると、牽強付会が目に付きました。

あなたは人にどう見られているか.jpg Amazonによると、この本を読んでいる人が他に読んでいる本として『あなたは人にどう見られているか』('07年/文春新書)などがあり、「キャラとしての私」というのは、要するに、そういうことを意識するというだけのことではないでしょうか。

 「仮想都市におけるアバターとしての私」などを通して、現実生活においても、「生身の私」と「キャラとしての私」のヒエラルキー逆転が起こるかもしれないという著者の論は、テクノロジーの面では講談社のブルーバックスなどにより詳しく書かれたものが多くあり、分析面においては、既に多くの社会学者や評論家が述べていることで、あまり新味がありませんでした。

カーニヴァル化する社会.jpg 結局、著者は何を最も言いたかったのか、世の中に警鐘を鳴らしたかったのか、自らの"洞察"を世に示したかっただけなのか、その辺りもはっきりしません。

 テーマはやや異なりますが、'76年生まれの社会学者・鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』('05年/講談社現代新書)もそうだったように、1つのキーワードに引きつけて何でもかんでも一般化してしまう傾向と、他書からの引用が多いわりには(むしろ、そのことにより)説得力が無いというのが、本書からも感じられたことでした(それぞれの著者にとって初めての「新書」であり、今後に期待したい)。

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分析は多面的で鋭いが、「特殊」か「普遍」かテーマが見えてきたところで終わっている印象。

「かわいい」論.jpg「かわいい」論 (ちくま新書)』['06年]Cawaii!(カワイイ) 2008年6月号.jpg 雑誌「Cawaii!(カワイイ)」

 ポケモンやセーラームーンなどのキャラクター商品で世界を席巻する「かわいい」大国ニッポンにおける「かわいい」とはそもそも何なのか、それが日本から発信されたことの意味を問ううえで、改めて「かわいい」を徹底分析した本。

 太宰治の「女性徒」から枕草子にまで遡って「かわいい」の来歴を探り、大学生のアンケート調査などからこの言葉の持つ多面性を示すほか、古今東西の芸術からグロテスクなものと隣り合わせにある「かわいい」の位置を示し、日本人の心性にある「小さく幼げなもの」への志向や、ノスタルジー、スーヴニール(記念品)としての「かわいい」、成熟することへの拒否の表現としての「かわいい」...etc 極めて多面的に「かわいい」の本質に迫ろうとしています。

CUTiE 2008年5月号.jpgゆうゆう 2008年6月号.jpg 但しここまでは、テーマの周囲をぐるぐる回ってばかりいるようにもやや感じていたのが、その後の女性誌における「かわいい」の分析において、ティーン層向け雑誌「Cawaii!(カワイイ)」、「CUTiE」から「JJ(ジェイジェイ)」、更には中高年向けの「ゆうゆう」までとりあげ、中高年向けの雑誌にも「大人のかわいさが持てる人」といった表現があることに着目しているのが興味深かったです。

雑誌「CUTiE」/雑誌「ゆうゆう」

 本書によれば、TⅤアニメの国内消費量は10%で、残り90%は海外での消費であり、日本発「かわいい」は消費社会のイデオロギーとして世界中に浸透し、例えば本書に紹介されている「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」の如く、すっかり無国籍化されたかのように見えますが、一方で、米国などでは「キティちゃん」の卒業年齢が比較的早期にあるのに、東南アジアでは、大人になっても受容されるなど、その受け入れられ方に、地域によって差異があるという。

「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」/ムック「もえるるぶ」
ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ.jpgもえるるぶCOOL JAPAN オタクニッポンガイド.jpg 「かわいい」が日本の「特殊」な文化なのか((「かわいい」へのこだわりや、そこからいつまでも抜け出せないこと)、それとも「普遍」的なものなのか、興味深いテーマが見えてきたところで、本書は終わってしまっているような観もあります。

 '80年代に浅田彰、中沢新一らと並んでニューアカブームの旗手とされ、また、サブカルチャーにいち早く注目した著者の(映画論、漫画・アニメ論は近年の社会学者の必須アイテムみたくなっているが、この人の場合、年季の入り方が違う)、本書におけるスタンスは意外と慎重だったという印象。
                                    

 全体を通して鋭い分析がなされていて、秋葉原の「オタク」文化や池袋の「腐女子」文化の取材は面白く、また、「かわいい」がもたらす"多幸感"が、政治的道具になり得ることを示した終章は重いけれども、「分析」にページを割いた分、テーマが見えてきたところで終わっているという印象が、どうしてもしてしまうのですが。

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日本人に対する「縮み」志向という捉え方は、その役割を終えていない(四方田犬彦)。

「縮み」志向の日本人 (1982年).jpg 「縮み」志向の日本人.bmp    「縮み」志向の日本人2.jpg 「縮み」志向の日本人3.jpg  李御寧(イー・オリョン).bmp 李御寧 氏
学生社['82年]/学生社['84年改版版]/講談社文庫 ['84年]/講談社学術文庫 ['07年]

 日韓両国の文化に造詣の深い李御寧(イー・オリョン)氏による、韓国文化との比較を念頭においた日本文化論。

 日本文化の根底にはものごとを縮小する原理が横たわっていることを、一寸法師の説話、万葉集、扇、神棚、石庭、俳句などの文化・伝統面だけでなく、電卓、LSI技術など、日本が得手とする技術開発までも引き徹底検証してみせていて、盆栽、生け花、床の間からパチンコ、ウォークマンまで、こう次々と指摘されると、日本人が「小さいもの」への志向・嗜好・思考傾向を持っていることを認めざるを得ず、何だか初めて自分たちの民族的心性を知らされたような思いで、むしろ痛快でした。

 著者が日本の縮小志向の代表例として挙げている者に俳句がありますが、 韓国にも短詩型文学はあるものの、17文字で完結する俳句に比べ3倍ほどの長さがあり、やはり俳句は世界で最も短い文芸型なのだ―、こうしたことからも、日本には"極端な"「縮み」志向があると著者は言い、その「縮み」志向を更に、入籠型(込める)、扇型(折り畳む)、姉さま人形型(削り取る)、折詰弁当型(詰める)、能面型(構える)、紋章型(凝らせる)の6つの類型に分けて解説しています。
 例えば「削り取る」は、漢字から部首だけを取り出してひらがなを作ったことなどもそれに該当し、「構える」は能における動作の簡略化がもたらす演劇的効果などに、「凝らせる」は、昔で言えば家紋や屋号、今で言えば名刺にそれが現れていると―。なるほど、なるほど、という感じ。

 著者は更に、雪月花を愛でる慣習などを引きながら、日本人は自然と全面的に対峙するのではなくて、その美の一部を切り取って引き寄せることが重視してきたのであり、日本の「縮みの歴史」は「ハサミの歴史」でもあったのではないかと述べています。

「かわいい」論.jpg この本を久しぶりに読んだのは、四方田犬彦氏が『「かわいい」論』('05年/ちくま新書)の中で本書をとり上げ、彼自身は文化資本主義的な考え方に与するものではなく(本書の李氏の論調は、日本人は単一民族であり一枚岩であることが前提となっている)、また、盆栽が日本よりもヴェトナム・中国の方が盛んであるように、「小さいもの」への憧憬は日本独自のものとは言えないとしながらも、韓国人と日本人のものの考え方の違いを理解するうえで、本書が大いに参考になったとしていることで思い出したためであり、四方田氏は、日韓の文化交流で両国の文化の違いが曖昧になったかのように見える現代でも、日本人に対する「縮み」志向という捉え方は、その役割を終えていないとしています。
 但し、四方田氏が自著で日本人の「小さいもの」志向の1つとして取り上げている「プリクラ」などは、韓国に上陸するや、より多様な発展を遂げたという現象も片やあるわけで、四方田氏は李御寧先生の顰め面が浮かぶと述べていました。

 【1984年文庫化[講談社文庫]/2007年再文庫化[講談社学術文庫]】

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