2008年4月 Archives

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「入門書」としてお薦めで、「参考書」的にも使える。殆ど「実用書」のように読んでしまった。

岡田 尊司 『パーソナリティ障害―.jpgパーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか.jpg 『パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)』 ['04年]

 米国精神医学会の診断基準「DSM-IV-TR」に沿った形で、10タイプのパーソナリティ障害を、境界性、自己愛性、演技性、反社会性、妄想性、失調型(スキゾタイパル)、シゾイド、回避性、依存性、強迫性の順に解説していますが、それぞれ「特徴と背景」「接し方のコツ」「克服のポイント」にわけて整理しているので、入門書としてもお薦めですが、後々も参考書的に使えるメリットがあります。

 必要に応じて、有名人の例なども挙げているのがわかりやすく、こうした説明方法は、特定人物に対するイメージに引っぱられる恐れもあるのですが、その前に各パーソナリティ障害の説明にそれなりに頁を割いているので、全体的にバランスがとれているように思えました。

Charlie Chaplin.jpg また、同じタイプの説明でも、例えば、「演技性パーソナリティ障害」では、チャップリン、ココ・シャネル、マーロン・ブランドの例を紹介していますが、この内、チャップリンが、他の2人と異なり、若いウーナとの結婚が相互補完的な作用をもたらし、実人生においても安寧を得たことから、人との出会いによって、パーソナリティ障害であっても人生の充実を得られることを示すなど、示唆に富む点も多かったです。

 個人的には、職場で見ている「問題社員」が、本書の「自己愛性パーソナリティ障害」の記述にピッタリ当て嵌まるので、その部分を"貪るように"読んでしまいました。
 こうした性格の人が上司や同僚であった場合の対処法としては、「賞賛する側に回る」ということが1つ示されていて、これが一番ラクなのかも(余計な仕事が増えたみたいな感じにもなるが)。
 その内、上司もかわるかも知れないし(性格ではなく部署が)。
 但し、同僚や年下の場合、ここまでやらなければならないの?という思いはあります(その点では、自分にとって満足のいくものではなかった。その「問題社員」は、職場の管理職ではなく、スタッフだったから)。

 殆ど、実用書を読むように読んでしまいました。

《読書MEMO》
●「自己愛性パーソナリティ障害の人は非難に弱い。あるいは、非難を全く受け付けない。ごく小さな過ちであれ、欠点を指摘されることは、彼にとっては、すべてを否定されるように思えるのだ。(中略)自己愛性パーソナリティ障害の人は、非難されると、耳を貸さずに怒り出す。なかなか自分の非を受け入れようとはしない」
 「自己愛性パーソナリティ障害の人は、人に教えられることが苦手である。彼はあまりにも自分を特別な存在だと思って、自分を教えることができる存在など、そもそも存在しないと思っている。ましてや、他人に、新米扱いされたり、叱られることは、彼の尊大なプライドが許さないのである」
  「過剰な自信とプライドとは裏腹に、現実生活においては子供のように無能」(104‐105p)
● 「自己愛性パーソナリティの人が、上司や同僚である場合、部下や周囲の者は何かと苦労することになる。自己愛性パーソナリティの人は、仕事の中身よりも、それが個人の手柄として、どう評価されるかばかり気にしているので、本当に改善を図っていこうと努力している人とは、ギャップが生じてしまう。自己愛性パーソナリティの人は、自分の手柄にならないことには無関心だし、得点にならない雑用は、できるだけ他人に押し付けて知らん顔している。おいしいところだけ取って、面倒な仕事や特にならない仕事には近寄ろうともしない」
 「ベラベラと調子のいい長口下を振るうが、機嫌が悪いと、些細なことでも、ヒステリニックに怒鳴り声を上げ、耳を疑うような言葉で罵ったり、見当はずれな説教をしたりするのである」
 「自己愛性パーソナリティの人にとっては、自分の都合が何よりも優先されて当然だと思っているので、周りの迷惑などお構いなし...」(119p)
●「自己愛性パーソナリティ障害の人には、二面性があり、日向と日陰の部分で、全く態度が違う。うまくやっていく秘訣の一つは、その人の日向側に身を置くということである。それは、つまり、相手の厭な側面のことは、いったん問題にせず、賞賛する側に回るということである。そうすると、彼は自分の中の、すばらしい部分をわかる人物として、あなたも、その二段階下くらいには、列せられるだろう。こうして、あなたが、すばらしい自分を映し出す、賞賛の鏡のような存在になると、あなたの言葉は、次第に特別な重みをなすようになる。あなたが、たまに彼の意志とは、多少異なる進言を付け加えても、彼は反発せずに耳を貸すだろう。ただ常に当人の偉大さを傷つけないように、言葉と態度を用いる必要がある」(120‐121p)

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波だけの写真集。癒し指向? 週末サーファー向けか?

NEW WAVES.jpg New waves―Relax.jpg  東京郊外 TOKYO SUBURBIA2.jpg 東京郊外 TOKYO SUBURBIA1.jpg(28.8 x 21.5 x 5.5 cm)
(37 x 28 x 1.8 cm)『NEW WAVES』 ['07年] 『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』['98年]
New waves―Relax 75.5(2003|05) (Magazine House mook)

 まさに「出たあ!波だけの写真集」という感じで、ハワイ、ノースショアの波を'00年から'07年まで8年間撮りつづけた記録ですが、大判(37cm×28cm)の各ページに写っているのは、ただひたすら、波、波、波...。ハワイなのに意外と曇天のもとでの写真が多いのが意外ですが、かえってしっとりとした情感があっていい。

 この写真集の写真家・ホンマタカシ氏は、木村伊兵衛写真賞を受賞した『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』('98年)や、娘の成長を記録した『Tokyo And My Daughter』('06年)など、「ハワイの波」だけでなく、いろんなものを記録風に撮ってきているなあという感じがします。

 もともと、この波だけの写真は、'01年に雑誌「relax」の特別編集企画として発表されたものですが、その間に、この手法を真似して、波ばかり写したものを写真集として刊行した別の写真家が何人かいて、それだけ、この手法は「売れ筋」だと見られたということでしょうか。

 梶井照陰(しょういん)氏という、佐渡で寺の住職をする傍ら、写真家としても活動している人の、『NAMI』('04年/リトル・モア)なども、同じパターン。佐渡の波へのこだわりはわかりますが、リトル・モア社にはかつて、ホンマ氏の作品や展覧会も手掛けた"やり手"編集者がいたので、そうした人が、これは「売れ筋」だと見たのではないかと思ったりもして...。

 実際、雑誌「relax」や他の写真家のものも含め、この「波」シリーズ見て、「心が癒された」というのが、寄せられる専らの感想だそうですが、個人的には、大胆な試みの先駆者(多分)として評価はするものの、そこまでは入り込めませんでした。
 昔、パイオニアのレーザーディスクで、波が寄せる海辺だけを延々と映し続けたものがありましたが、そちらの方が、音感的にも、「ゆらぎ効果」からくる"癒し"が得られるのでは(最近、DVDで、その名もまさに"波"というシリーズが出た!)。

 聞いた話では、この写真集は週末サーファーに人気があるそうで、海が時化たりしてサーフィンが出来ない時に、自宅でこの写真集を見て、休日の癒しとするそうです。

TOKYO SUBURBIA 64.JPG 因みに、ホンマ氏の『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』は、タイトル通り、東京の郊外の風景とそこに住まう子どたちを撮った写真集で、フツーの写真家なら選ばないようなテーマ選定かも(この写真集、1ページ1ページがハードカバーのような厚い紙質になっている! 従って、ページ数で50ページしかないのに、電話帳のように本が厚くて重いし、値段も高い!)。

東京郊外 TOKYO SUBURBIA 65.JPG 自分の住まいの近所を撮っているのかと思ったら、西へ東へあちこちで向いて撮っていたんだなあと。見ただけでは皆同じような場所に見えるのが、「郊外」の1つの特徴なのかも。しかも、10年ぐらいの時を経たところで、去年撮った写真だと言われても全然分からないという...(これもまた「郊外」の特徴か)。

東京郊外 TOKYO SUBURBIA 67.JPG 巷の評価は高いようですが、個人的には何となく面白くはあるんだけど、今一つ、意図が分かったような分からないような...。

 建売り住宅の物件案内広告に出てくるような写真に見えるものもあるんだなあ。でも、それでこそまさに「郊外」的要素を旨く抽出していることの証しなのかも。

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都会を背景にした"シティスケープス"に独特の味わい。

タイムスケープス・ジャパン.jpg 『エドワード・レビンソン写真集 「タイムスケープス・ジャパン」―針穴で撮る日本の原風景 (NC PHOTO BOOKS)』(25 x 24.2 x 1.8 cm)

 千葉・房総在住の米国人ピンホール写真家エドワード・レビンソンの作品集で、この人は1953年生まれで、1979年から日本に住んでいるので、キャリアの殆どを日本で活動していることになります(まあ、オーガニック・ライフを実践するエッセイスト・鶴田静さんの夫でもあるわけだが)。

SacredJapan01.jpgSacredJapan12.jpgHealing12.jpg この作品集の前半は、千葉の里山の風景など全国の自然を撮った作品や、寺社や祭りなど、日本的な聖性や神秘、習俗をモチーフに撮った作品が多く、自然と人、伝統と人との対比を表すうえで、露出の長いピンホールの特性が充分に生きていて、また、光の部分がソフトフォーカスのようになるため、見る側を包み込むような"癒し"感を醸しだしています。

JapaneseCityscapes05.jpgJapaneseCityscapes06.jpgJapaneseCityscapes04.jpg 後半は、同じくピンホールの特徴を生かして、東京などの都市の風景やそこに行きかう人々の姿をルポルタージュ風にとった"シティスケープス(Cityscapes)"というシリーズ写真が掲載されていて、背景は一転して殺風景な都会のものであるのに、スナップ風に撮られた(実際には、相当の露出時間がある)それらの写真には、前半からの流れで何となく"ホッと"させられるものもあれば、不思議な既視感や余韻を残すものあります。

JapaneseCityscapes01.jpg 前半部分は、日本人の郷愁に訴えかけるものがあり、レビンソン特有の「光と影の対話」「時間と存在」といったテーマを内在しながらも、レビンソンだけでなく多くのピンホール写真家が指向している「癒す風景」であるように思えます。
 それに対し後半部分は、都会で暮らす人の心にふっと開いて、またすぐに閉じる、小さなエアポケットのようなものを切り取った感じがあり、これも「癒し」に繋がると言えばそうなのかも知れませんが、後半の方がより味わいがあり、この写真家のキャリアが生きているのではないかという気がしました。

 写真にある"半透明"の人物の像などを見ているうちに、日本語で"影"とは、("火影"や"面影"という言葉があるように)"光"や"姿"を指す言葉であるということを、何となく思い出しました。

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母を亡くした心の穴とその埋まり具合、父子の絆を浮き立たせる計算された構成。40年ぶりに刊行の『おかあさんのばか』。
おかあさんのばか.jpgおかあさんのばか1 - コピー.jpgおかあさんのばか1 - コピー (2).jpg  たったひとつのたからもの1.jpg
おかあさんのばか―細江英公人間写真集』(24.2 x 18.8 x 1.4 cm) 加藤 浩美『たったひとつのたからもの

薔薇刑.jpg 三島由紀夫を被写体にした『薔薇刑』('63年)など、独特の感性で撮り下ろす前衛的な作品で知られる現代写真家・細江英公(えいこう)が、ある日突然母親を亡くした小学6年生の女の子と残された家族を続けた写真集で、写真もいいけれども、古田幸(みゆき)というその子の詩が多く挿入されており、これも胸を打ちます。
薔薇刑―細江英公写真集』('63年)

おかあさんのばかpos.jpgおかあさんのばか55.jpg 雑誌に連載され、水川淳三監督、乙羽信子主演による映画「おかあさんのばか」('64年/松竹)にもなり(個人的には小学校の課外授業で観たのだが、DVD化されておらずその後観る機会がないため、評価はやや曖昧)、彼女の詩をもとにした「おかあさんのばか」という合唱曲まで出来ましたが、写真集としては、'65年に英語版("Why, Mother, Why?")で海外で刊行されました。映画では、彼女の母親が水泳大会おかあさんのばか 初版.pngで泳ぎ切ったあと脳出血で倒れて亡くなる前の、成長期の娘と母親のふれあいが描かれているのに対し、40年を経て刊行されたこの写真集は、母親の死後1ヵ月、家族にぽっかり「大きな穴」があいたところから始まります。

細江英公 写真集「 Why,Mother,Why 」1965年 初版 カバー

 『薔薇刑』の写真家がどうしてこんなセンチなテーマをと思わないでもありませんが、細江英公はデビュー当時から、前衛写真とは別にヒューマンな作品を取り続けていて、また最近は、『死の灰』('07年)など社会性の高い作品もあります。

 但し、ジャンルを問わず共通して言えるのは、その計算された構成で、この写真集は、1枚1枚の写真を見ただけで家族に空いた「大きな穴」が感じられ、それが少しずつ埋まっていくのを優しく見守りながらも、その"埋まり具合"と"どうしても埋まらない部分"を測りながら撮っている感じがしました。

「おじかあさんのバカ」図2.jpg 幸さんの詩も、最初は亡き母へ怒りにも似た想い、そして生活をしなければという現実感、さらに父親や世間への眼差しと、少しずつ変化していますが、個人的には、教師をしている父親(所々で短い本人コメントが入っている)の娘へのこころ遣いがすごく感じられ、それは写真そのもからのものでもありました。写真家が娘を撮っているのに、それが時として父親の眼になっていて、今は故人となった父の娘への想いが伝わってくるのを感じました(一番感じているのは、今は結婚して子供もいるという幸さんだろう)。
  
「たったひとつのたからもの」.jpg「たったひとつのたからもの」.jpgたったひとつのたからもの.jpg 重度ダウン症の息子を母親が撮った『たったひとつのたからもの』('03年)という写真集で、最後にある父親が息子を抱きしめている海を背景にした写真は感動的でしたが、あの写真集も、最後の写真に限らず、母親が写真を撮っていることで、かえって父親の息子への想いが浮き彫りにされているような気がしました。

 あの写真集の写真を撮った加藤浩美さんという人も、ある意味、写真家であったように思います。写真作品が明治生命(現在の明治安田生命)のコマーシャルに採用されたのが出版の契機となり、'04年には松田聖子、船越栄一郎主演でドラマ化(単発)されました(ドラマ平均視聴率 30.1%)。
加藤 浩美『たったひとつのたからもの』['03年]
ドラマ「たったひとつのたからもの」(2004年・日本テレビ)松田聖子・船越英一郎主演
たったひとつのたからもの ドラマ.jpg

おかあさんのばか(水川淳三監督1964年).jpgおかあさんのばか 映画.jpg「おかあさんのばか」●制作年:1964年●監督:水川淳三●製作:樋口清●脚本:水川淳三/南豊太郎●撮影:堂脇博●音楽:真鍋理一郎●時間:87分●出演:下絛正巳/乙羽信子/深堀義一/加納『おかあさんのばか』spポスタ-.jpg美栄子/高野真二/加代キミ子/織賀邦江/榊ひろみ/長門勇/中村雅子/城戸卓/藤本三重子/朝海日出男/秩父晴子/中新井俊介/林家珍平●公開:1964/06●配給:松竹(評価:★★★☆)

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木村伊兵衛のエッセンス。昭和30年前後の内外の写真がいい。

定本木村伊兵衛(hako).jpg定本木村伊兵衛.jpg    木村伊兵衛.jpg  木村伊兵衛(1901‐1974)
(28.6 x 23 x 3.6 cm)『定本木村伊兵衛』['02年]

 木村伊兵衛の代表的写真を集めたもので、大判スペースに1ページ1作品(或いは見開きで1作品)という配置で、つまり横長サイズの写真だと基本的には下部分が空白スペースになるという贅沢な配置。
 田村武能氏ら編集にあたった写真家の、木村の作品を見る人に1枚1枚をじっくり味わってもらいたいという思いが伝わってきます。

 収められている写真の殆どはモノクロですが、個人的には、彼が'54(昭和29)年から'55(昭和30)年にかけてパリで撮ったスナップ(カラーとモノクロがある)などが好きで、昭和27年からスタートした「秋田」シリーズもいいし、昭和30年代の東京の下町を撮ったものも懐かしさのようなものが感じられていい(この人は東京・日暮里の出身)。

「西片町附近」 東京・本郷森川町 1953年
「西片町附近」 東京・本郷森川町 1953年.jpg さらにそれらを、同じ時期に、都心部の街中を撮ったものと比べると、逆にこちらの方が時代の流れを感じ(高層ビルの陰に隠れたり土台になったりして、今は見えなくなっているスポットもある)、東北地方や下町の写真は、むしろ時間の流れが緩やかであるように感じられた面もありました(さすがに、戦前の下町のスナップなどは、古色蒼然としているが)。

 ポートレートも彼の魅力の分野で、文人などを撮ったものも収められていて(写真嫌いだった泉鏡花が、緊張のあまりガチガチになって写っている。さすがの木村も、彼の緊張だけは解きほぐせなかった)、職人を撮ったシリーズ(これ、意外といいなあ)、有名な「マダムM」の写真(背表紙に使用)などもあります。
  「定本木村伊兵衛」より    つげ義春 「ねじ式」より
「定本木村伊兵衛」より.jpg「ねじ式」より.jpg 昭和40年前後に各地で撮った地方の土着の人の写真の中には、漫画家つげ義春が自作(「ねじ式」)に用いているものもあります。

 更には、戦前の沖縄や旧満州の写真など珍しいもののあり、もっと見たいと思うのですが、300ページ丸々写真に費やしているとはいえ、これだけ活動分野が多岐に渡ると、どうしてもエッセンス的なものにならざるを得ない―、まあ、それはもう仕方が無いことかも知れず、例えば秋田は秋田で、パリはパリで、それぞれをフィーチャーした作品集が刊行されているわけで...。

「母と子」 秋田・大曲 1959年.jpg「母と子」 秋田・大曲 1959年

 
 

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ピンナップ女性が、コスプレでメタリックな装飾をしている? そうとれば新しそうで古いとの見方も。

The Gynoids (Paperback).jpg
 ガイノイド.jpg 
ガイノイド』['95年](ペーパーバック 36.1 x 25.4 x 1.3 cm ) 『ガイノイド』 ['93年](ハードカバー)/『ガイノイド』 ['93年](ペーパーバック 37 x 26.8 x 1 cm)

aibo.gif イラストレーターで、SONYのAIBOのデザインでも知られる空山基(はじめ)の作品集ガイノイド・シリーズの一番初期のもの。ペーパーバック版('95年)の2年前にハードカバー版(トレヴィル社)が出ていています。

air.jpg 『セクシー・ロボット』('88年)という画集で国内外に知られるようになった空山基(多くの人が、彼の描くメタリックな女性ロボットの絵、またはそのマネモノを見ているはず)ですが、「ガイノイド」とは、SF的発想に基づく機械人間系ロボット、つまりサイボーグの女性版とのことです。

 この人はもともと80年代にピンナップ画からスタートした人ですが、その時すでに、ピンナップ画はノスタルジアの類になっていて、そこで、新世紀のエロティシズムを探究した結果、「ガイノイド」という発想をSFから取り込んだことのようですが、どちらかと言うと、この作品集の初期シリーズは、ピンナップ女性が、コスプレ的にメタリックな装飾をしているようにも見えます(エアーブラシの技術はピカ一。新聞広告の車の光沢なども、全てエアーブラシで仕上げをしていることを知っている人はどれぐらいいるだろうか)。

 ボンデージ・モチーフを入れているのも特徴ですが、そのスタイルがヨーロピアン・クラシカルという感じで(全然「新世紀的」ではない)、こういうの、外国人の嗜好には合うのかも知れないが、日本人向きではない。
 実際、外国人女性ばかり描いた作品集は海外で売れていて、日本では、ボンデージからも外国人からも離れて、単にメタリックなロボットか(アート誌の表紙とか)、ただ肉感的な日本人ピンナップを(二見文庫のカバー絵とか)描くような仕事ぶりが見られます。

メトロポリス.jpg ペーパーバック版の表紙にある絵をはじめ、フリッツ・ラングの「メトロポリス」('27年)をモチーフにした作品がいくつかありますが、以前この映画をドイツ文化センターに見にいったとき、手塚治虫が観客として来ていました。
 「ロボット愛」ということでは、手塚治虫の方が、より根が深いかも。手塚治虫は成熟した女性を作品の主人公にすることはなく、女に成り切っていない少女ばかりをヒロインにしましたが、「ロボット」というのは、女に成り切れないという意味では少女の表象ともとれ、手塚治虫にとっての「ロボット」は、時に少女と等価であったのではないでしょうか。
メトロポリス」(1927年) DVD

 一方、空山基の絵のベースにあるのは、やはり80年代のピンナップのような気がし、それにクラシカル・ボンデージが加味されているとすれば、新しそうで実は古いというのが、この作品集の特徴ではないかと思います。

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"うつ"の底が抜けると躁になる。つまり、躁の方が深刻だということか。

問題は、躁なんです.jpg 『問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ (光文社新書)』 ['08年] 「狂い」の構造.jpg 春日武彦・平山夢明 『「狂い」の構造 (扶桑社新書 19)』 ['07年]

 "うつ"よりも頻度が低いために見過ごされ易い"躁"についての本ですが、著者は、うつ病が「心の風邪」であるならば躁病は「心の脱臼」であるとし、"うつ"の対極に躁があるのではなく、"うつ"の底が抜けると躁になるとしていて(つまり、躁の方が深刻だということ)、その3大特徴(「全能感」「衝動性」「自滅指向」)を明らかにするとともに、有吉佐和子、中島らもなどの有名人からハイジャック事件の犯人まで、行動面でどのようにそれが現れるかをわかり易く説いています。

中島らも.jpg有吉佐和子.jpg 有吉佐和子が亡くなる2カ月前に「笑っていいとも」の「テレフォンショッキング」に出演し、ハイテンションで喋りまくって番組ジャックしたのは有名ですが(橋本治氏によると番組側からの提案だったそうだが)、当時、本書にあるような箍(たが)が外れたような空想小説を大真面目に書いていたとは...。中島らもの父親が、プールを作ると言って庭をいきなり掘り始めたことがあったというのも、ぶっ飛んでいる感じで、彼の躁うつは、遺伝的なものだったのでしょうか。

黒川 紀章.jpg 著者によれば、躁の世界は光があっても影のない世界、騒がしく休むことを知らない世界で、最近では老年期にさしかかった途端にこうした状態を呈する人が増えているとのこと、タイプとしてある特定の妄想に囚われるものや、所謂「躁状態」になるものがあり、後者で言えば、(名前は伏せているが)黒川紀章が都知事選に立候補し、着ぐるみを着て選挙活動をした例を挙げていて、その人の経歴にそぐわないような俗悪・キッチュな振る舞いが見られるのも、躁の特徴だと(個人的に気になるのは、有吉佐和子、黒川紀章とも、テレビ出演、都知事選後の参院選立候補の、それぞれ2カ月後に亡くなっていること。躁状態が続くと、生のエネルギー調整が出来なくなるのではないか)。

黒川紀章(1934-2007/享年73)

 不可解な犯罪で(アスペルガー症候群のためとされたものも含め)、躁病という視点で見ると行動の糸口が見えてくるものもあるとしていますが、やや極端な事例に偏り過ぎで(しかも、自分が直接診た患者でも無いわけだし)、一般の"躁"の患者さんから見てどうなのかなあ。罹患した場合、普段隠している欲望が歯止めなく流れ出していく怖さを強調する一方で、そうした事態に対する患者の内面の苦しみには、今一つ踏み込んでいないように思えます。

 (名前は伏せているが)中谷彰宏氏のように「○○鬱病の時代」とか言って素人が二セ医学用語を振り回すのは確かにどうしようもなく困ったものですが(この発言が本書を書くきっかけになったと「週刊文春」の新刊書コーナーで語っている)、著者自身も、時代の気質の中でこの病を捉えようとしている面があり、その分、社会病理学な視点も含んだ書きぶりになっていて、その点が入門書としてはどうかなあという印象もありました。

 著者自身は、「躁に関心があるのは、怖いもの見たさのようなものがある」といったことを、同じ文春の誌面で語っていて、そのことは、作家・平山夢明氏との対談『「狂い」の構造-人はいかにして狂っていくのか?』('07年/扶桑社新書)を読むと、人間の狂気そのものへの著者の関心が窺えます。但し、この対談では、平山氏の異常性格犯罪に対するマニアックな関心の方が、それ以上に全開状態で、著者が平山氏と歩調を合わせて、自らの患者になるかも知れない人間を「ヤツ」呼ばわりしているのが気になった。

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重症うつ病の"現場"を見てきているという自信が感じられる内容。「うつ病」の怖さを痛感。

うつ病.jpgうつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書 690)岩波 明.jpg 岩波 明 氏(精神科医/略歴下記)

Hemingway.bmpMargaux Hemingway.jpgMargaux Hemingway in Lipstick.jpg 自殺したヘミングウェイが晩年うつ病でひどい被害妄想を呈していたとは知らなかったし、近親者にうつ病が多くいて、彼の父も拳銃自殺しているほか、弟妹もそれぞれ自殺し、孫娘のマーゴ・ヘミングウェイ(映画「リップスティック」に主演)までも薬物死(自殺だったとされてる)しているなど、強いうつ病気質の家系だったことを本書で知りましたが、うつ病を「心のかぜ」などというのは、臨床を知らない人のたわごとだと著者は述べています。
Ernest Hemingway/Margaux Hemingway

 ただし本書によれば、こうした遺伝的気質などによる「内因性うつ病」と、心因的な「反応性うつ病」を区分する従来の二分法は症状面からの区別が困難で、内因性うつ病でも近親者の死など身近な出来事が誘引として発症することがあるため、DSM‐Ⅳではこれらは大うつ病という用語で一括りにされており、一方、軽症うつも、「神経症性うつ病」と従来呼ばれていたのが気分変調症(ディスサイミア)」と呼ぶようになっているとのこと。こうした病名は時代とともに変わるようでややこしい。
 実際、「軽症うつ」という概念は、「大うつ病」「気分変調症」を除く"軽いタイプのうつ病"という意味で最近まで用いられており(時に「気分変調症」も含む)、本書はどちらかと言うと、「軽症うつ」を除くディスサイミア以上の重い症状を扱った本と言えるのでは。

 うつ病(ディスサイミア)の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者の例が詳しく報告されていて、うつ病(ディスサイミア)の怖さを痛感させられショッキングであるとともに、その供述があまりに不確かで、(このケースもそうだが)抗うつ剤を大量服用したりして事故に至るケースも多いようで、こうした事件の事実究明の難しさを感じました(この事件についても著者は"失火"の可能性を捨てていない)。

 こうした犯罪と精神疾患の関係も著者の研究テーマであり、そのため著者の本は時に露悪的であると評されることもあるようですが、無理心中事件などの中には、実際こうしたうつ病に起因するものがかなり多く含まれていて、周囲が異常を察知し、また薬の服用を過たなければ防げたものも多いのではないかと改めて考えさせられました。

 現在治療を受けたり通院したりしている人にも自分がどんな治療を受けているのかがわかる様に、抗うつ剤の種別や副作用について専門医の立場から詳しく書かれている一方、素人や専門医でない人の書いたうつ病や抗うつ剤に関する著書の記述の危うさに警鐘を鳴らし(高田明和、生田哲の両氏は名指しで批判されている)、更に、精神科医であっても重症例の臨床に日常的に携わっていない学者先生のものもダメだとしていて、重症のうつ病の"現場"を見てきているという自信とプライドが感じられる内容です。

リップ・スティック.jpg 因みに、冒頭で取り上げられているマーゴ・ヘミングウェイが主演した映画「リップスティック」は、レイプ被害に遭った女性モデル(マーゴ・ヘミングウェイ)が犯人の男を訴えるも敗訴し、やがて今度は妹(マリエル・ヘミングウェイ)も同じ男レイプされるという事件が起きたために、自分と妹の復讐のためにそのレイプ犯を射殺し、裁判で今度は彼女の方が無罪になるというもの。

マーゴ・ヘミングウェイ リップスティック 映画パンフ.jpg あまり演技力を要しないようなB級映画でしたが(マーゴ・ヘミングウェイが演じている主人公は、うつ気味というよりはむしろ神経症気味)、大柄でアグレッシブな印象のマーゴ・ヘミングウェイを襲うレイプ犯を演じていたのが、ヤサ男の音楽教師ということで(「狼たちの午後」('75年/米)で同性愛男性を演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされたクリス・サランドンが演じてている)、このキャラクター造型は、今風のストーカーのイメージを先取りしていたように思います。

Killer Fish.jpg マーゴ・ヘミングウェイは、この後、B級映画「キラーフィッシュ」(別題「謎の人喰い魚群」または「恐怖の人食い魚群」、'78年/伊・ブラジル)とかにも出ていますが(劇場未公開、'07年にテレビ放映)、B級映画専門で終わった女優だったなあ。

 彼女が自殺した日は、祖父アーネスト・ヘミングウェイが自殺した日から35年後の、同じ7月2日だったそうです。


リップスティック.jpglipstick.jpg 「リップスティック」●原題:LIPSTICK●制作年:1976年●制作国:アメリカ●監督:ラモント・ジョンソン●製作:フレディ・フィールズ●脚本:デヴィッド・レイフィール●撮影:ビル・バトラー●音楽:ミッシェル・ポルナレフ●時間:89分●出演:マーゴ・ヘミングウェイ/クリス・サランドン/アン・バンクロフト/ペリー・キング/マリエル・ヘミングウェイ/ロビン・ガンメル/ジョン・ベネット・ペリー●日本公開:1976/09●配給:東宝東和●最初に観た場所:高田馬場パール座 (77-12-16) (評価:★★)●併映:「わが青春のフロレンス」(マウロ・ポロニーニ)

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岩波明 イワナミ・アキラ
1959昭和34)年、横浜市生れ。東京大学医学部卒。精神科医。医学博士。東京都立松沢病院を始めとして、多くの精神科医療機関で診療にあたり、東京大学医学部精神医学教室助教授を経て、ヴュルツブルク大学精神科に留学。現在、埼玉医科大学精神医学教室助教授を務める。著書に『狂気という隣人』『狂気の偽装』『思想の身体 狂の巻』(共著)、訳書に『精神分析に別れを告げよう』(H.J.アイゼンク著・共訳)などがある。

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憂うつだが好きなことには元気が出る、過食・過眠、イライラする...若い女性に多いうつ病。

気まぐれ「うつ」病.jpg 『気まぐれ「うつ」病―誤解される非定型うつ病 (ちくま新書 668)』 ['07年] 貝谷久宣 (かいや ひさのり).gif 貝谷久宣 (かいや ひさのり)赤坂クリニック理事長(略歴下記)

うつ2.jpg 著者は、パニック障害をはじめ不安障害を専門とする精神科医で、パニック障害の治療で知られるクリニックの理事長を務めるなど、社会不安障害の研究・治療の第一人者ですが、その著者が書いた「非定型うつ病」(かつて「神経症性うつ病」と呼ばれたタイプ)の本です。

 普通のうつ病では、何があっても元気が出ないのに対し、非定型うつ病の場合は、何か楽しいことがあると気分が良くなるなど、出来事に反応して気分が明るくなるのが大きな特徴で、タ方になると調子が悪くなったり、過食・過眠気味になったり、イライラして落ち着かないなどの傾向もみられるそうですが、20〜30代でかかるうつ病では、多くがこの非定型タイプと考えられ、特に若い女性に多いとのこと。

 「非定型うつ病によくみられる随伴症状」として、〈不安・抑うつ発作〉〈怒り発作〉〈フラッシュバック〉〈過去・現在混同症候〉〈慢性疲労症候群〉といった症状をあげていて、「不安・抑うつ発作の特徴は、わけもなく涙が出ること」といった観察は、数多くの臨床をこなしてきた著者ならではのものと思われました。

うつ3.jpg 但し、掲げられている13の症例の読み解きは、自分にはかなり難しく思え、それぞれ共通項も多いものの、症候の現れ方や治り方が多様で、他の病気や人格障害と重なる症状もあり、実際、医者に境界性人格障害などの診断を下されることもあるというのは、ありそうなことだなあと(こうなると、患者にすればもう、クリニックの選び方にかかってきて、そこで誤ると、症状を増幅しかねないということか)。

 普通のうつ病では、とにかく休養をとることが重要、周囲の人が頑張れと言って励ますと、本人が自分自身を追い込んでしまうので良くないとされていますが、非定型うつ病の場合は、少し励ますことが本人のためになり、決まった時間に起きて会社に行く方が良かったりするようで(休職を取り消して回復した症例が紹介されている)、一方で、普通のうつ病が多くの場合、重症期を過ぎて回復期に自殺する危険があるのに対し、非定型うつ病では、周囲の人に助けを求めるサインとして、衝動的に自殺を企てる恐れがあるそうで(リストカットを繰り返すのはこのタイプに多い。これも、症例で紹介されている)、大体、人見知りをするようなタイプの人が発症することが多いようです。

 こうなると、うつ病(「執着性格」と相関が高い)とは別の病因による独立した症候群ではないかという仮説も成り立ちそうですが、著者はそこまでは踏み込まず、むしろ、治療の実際において使われる薬など、治療法の部分にページを割いています。
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貝谷久宣 (かいや ひさのり)
医療法人 和楽会 心療内科・神経科/赤坂クリニック理事長
1943年名古屋生まれ。1968年名古屋市立大学医学部卒業。マックス・プランク精神医学研究所(ミュンヘン)留学。岐阜大学医学部助教授・岐阜大学客員教授・自衛隊中央病院神経科部長を歴任。1993年なごやメンタルクリニックを開院。1997年不安・抑うつ臨床研究会設立代表。医療法人 和楽会 なごやメンタルクリニック理事長。米国精神医学会海外特別会員。国際学術雑誌『CNS Drugs』編集委員。
主な編著書/[新しい精神医学/HESCO] [新版 不安・恐怖症―パニック障害の克服/講談社健康ライブラリー] [脳内不安物質/講談社ブルーバックス] [対人恐怖/講談社] [社会不安障害のすべてがわかる本/講談社]

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「●光文社新書」の インデックッスへ(『医者にウツは治せない』)

体験者が書いた本の中ではベストの部類。偏りがなく読みやすい小野氏の本。疑問を感じた織田氏の本。

あなたの大切な人が「うつ」になったら.jpg     医者にウツは治せない.jpg
あなたの大切な人が「うつ」になったら―治すために家族や友人ができること、できないこと』 織田 淳太郎 『医者にウツは治せない (光文社新書)

 うつ病の体験者が書いた「うつ」の本の内の幾つかには、余りにその人個人の体験に引きつけて書かれているため、その点を注意して読んだ方が良いものがあるように思えます。例えば、スポーツ・ノンフィクション作家の織田淳太郎氏が書いた『医者にウツは治せない』('05年/光文社新書)などは、医者の診断力に疑念を呈し(誤診や的確でない薬物投与は少なからずあると思うが、極端なケースばかり例示している)、生物学的治療(薬物療法)を否定し、ウツは自分で治そうとのことで「呼吸瞑想法」などを提唱していますが、これは著者が「うつ」と言うより「適応障害」であったためと思われ、最近の研究成果などは度外視し、多くの面で自らが俗説に流され、少数事例を以って過剰に一般化しているように思えました(評価★☆)。同じ光文社新書に精神科医が書いた「うつ」の本もあるのですが...。
                    
 それらの「うつ」の体験本の中で、この著者(小野一之氏)が書いた本は、「うつ」治療の学術的状況や、実際に行われている治療をよく精査していて、自分の体験を語ることで説得力を持たせつつも、自らの言説の裏をしっかりとっている、という印象を受けます。

「うつ」は、ゆっくり治せばいい!.jpg 著者は、出版社に勤務していた44歳の時に「軽症うつ」を発症し、その後、退職してフリーのエディターになってからも「軽症うつ」を抱えて生きている人で、本書では、うつ病にはどのようなものがあり、どのような原因で発症するのかを概説したうえで、配偶者や恋人、親や子供、部下や同僚が「うつ」になった時、周囲の人はどのように対応し、また、本人と接したらよいのか、距離感をどう保てば良いのかなどが、わかりやすく書かれています。読みやすいだけでなく、サポートする側のつらさも踏まえて、しかも感情論に流されず書いている点が、他のうつ病の体験者が書いたものより優れていていると思いました。
小野 一之「うつ」は、ゆっくり治せばいい!

 著者の持論は、前著にもあるように「ゆっくり治す」ということ、とにかく、周囲の人はすべてを受け入れることが肝要で、薬物治療については著者も「薬物ではうつは治らない」との考えながらも、必要とする人もいるので、服用する場合には、長く服用を続けるのではなく、少しずつ減らすことをするよう勧めています。また、生活のリズムを整えることが必要で、スポーツの効用なども説いています。

 あることについて専門雑誌誌などの記事にする場合、ライター以上にテーマの周辺を精査するタイプのエディターがいて、ライターの記事が偏向しないように注意を払っているケースがありますが、そうしたタイプのエディターは概ね優れていると思えることが多く、本書は、著者のエディターとしての良質の部分が生かされているように思えます。

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最初に読むうつ病の本としてならば、オーソドックスで読みやすい。

うつ病をなおす.jpg 『うつ病をなおす (講談社現代新書)』 ['04年] 野村総一郎.jpg 野村 総一郎 氏(防衛医科大学教授) NHK教育テレビ「福祉ネットワーク」 '05.05.28 放映 「ETVワイド-"うつに負けないで"」より

うつ.jpg 「うつ病」の入門書であり、「うつ病」をうつ病性障害」、「双極性障害(躁うつ病)」、「気分変調症の3タイプに分け、代表的症状をわかり易く解説していますが、この内「うつ病性障害」が「大うつ病」と訳されているのに対し、このタイプを「うつ病」と呼び、いろいろなタイプを総括した呼び名を「気分障害」とした方が良いのでは、といった著者なりの考えも随所に織り込まれています。

 「特殊なうつ病」や、うつ病ではないがうつ病に関連があると言われているタイプについても、「仮面うつ病」、「子供のうつ病」、「マタニティーブルー」や、「軽症うつ病」(「気分変調症」以外の「小うつ病」、「短期うつ病」など)、「双極2型障害」(ウツが重く躁が軽い)、「季節性うつ病」(冬だけ発症する)、「血管性うつ病」(高齢者に発症、アルツハイマーとは症状が異なる)などの解説がされていて、改めてウツには様々なタイプがあることを知りました。

 患者の側に立って書かれている本でもあり、趣味・気晴らしもウツ気分の時はかえってエネルギー枯渇を招き、症状を悪化させることがあるといった指摘などもされています。
 うつ病の人は休養するのが一番なのだが、「休むなんてとんでもない」というのがうつ病者独特の考え方であり、そこで著者の場合は、そうした努力好きの性格を利用して、「休暇を取る」ことだけに向けて「努力」してもらうよう説得するとのこと。
薬.jpg
 薬物療法についても、症状のタイプ別に「治癒アルゴリズム」という概念を用いて、一般に抗うつ剤や安定剤がどの段階でそのように処方されるかがわかり易く書かれているほか、精神療法については、それぞれに患者との相性の違いがあるとしながらも、その中で、元来うつ病の治療と予防を目的として作られた「認知療法」に的を絞って解説しています。

 最初に読むうつ病の本としてはオーソドックスで読み易いものであるともに、網羅的でありながらさらっと読める分、やや物足りなさも。
 最後に「うつ病」の病因について「こだわり遺伝子」という仮説を示していて、「物事の重みづけができない」ため「全てをやって初めて成功すると感じる」、逆にそれが出来ないと不全感に囚われストレスに見舞われるという、遺伝子に根ざす「こだわり」がその原因ではないかとしているのが、興味深い考察に思えました。

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「サディスティック・パーソナリティ障害」についての知識面で得るところがあった。

サディスティックな人格―身のまわりにいるちょっとアブナイ人の心理学.jpg サディスティックな人格―.jpg  Theodore Millon.jpg Dr. Theodore Millon
サディスティックな人格―身のまわりにいるちょっとアブナイ人の心理学』 ['04年] 

Disorders of Personality DSM-IV and Beyond.jpg やたらキレて部下に怒鳴り散らす、或いは延々と小一時間ばかりも(それぐらいで済めばまだいい方)説教する"クセ"がある人を職場で見たことがありますが、自信家で実際に仕事は出来て押し出しも強いので、要職を歴任している、しかし、行く先々の部署で部下は次々と辞めていき、そして最後は自分も辞めざるを得なくなったのですが、「役員候補なのにもったいなかった」と見る人もいれば、「もともと病気(癪)持ちなんだ」と見る人もいて、本書を読んで、あれは"クセ"とか"病気"とか言うより、「人格障害」だったのかなあと。

 本書は、臨床心理士である著者が、「サディスティック・パーソナリティ障害」「受動攻撃性パーソナリティ障害」について書いた本で、これらは、著者が日本に紹介している、人格障害理論の世界的権威で元ハーバード大学精神医学教授のセオドア・ミロン(Theodore Millon、米国精神医学会の診断基準DSM-IIIにおける人格障害部門の原案作成者)がパーソナリティ障害の類型とした14のタイプに含まれるものですが、当初、DSMに入っていたものが、DSM-IV以降、削られているとのこと。本書では、ミロンの著書(『パーソナリティ障害-DSM-IVとそれを超えて』) などをベースに、この2つの性格障害について、例を挙げながら解説しています。 "Disorders of Personality: Dsm-IV and Beyond (Wiley-Interscience Publication)"

 個人的には、「サディスティック・パーソナリティ障害」は「自己愛性パーソナリティ障害」の攻撃が外に向かうタイプと変わらず、それが、DSMから削られた理由だと思っていましたが、本書を読んで、やはり違うなと(ミロンは、「反社会性パーソナリティ障害」に近いものとしているが、実際、本によっては、「自己愛性」とグループ化しているものもある)。
山口美江0.jpg 冒頭で著者によって取り上げられているタレント(山口美江(1960-2012/享年51))などは、言われてみれば確かにミロンが、「サディスティック・パーソナリティ障害」のサブタイプの1つに挙げている「キレるサディスト-癇癪持ち」にピッタリ嵌まります(ような気がする)。
 ミロンはその他に、暴君系サディスト、警官役サディスト"など幾つかのサブタイプを挙げていますが、こうして見ると、権威や権力志向に直結し易い分、職場においてはかなりやっかいなタイプだなあと思いました。

 一方、「受動攻撃性」というのは、これもまた難物で、表れ方としては、すね者であったり天邪鬼であったりするのですが、受身でいながら主体性を実感したいというのが根底にあるとのこと、但し、本書を読んでも、「サディスティック・パーソナリティ障害」ほどは明確に性格障害としてのイメージが掴みにくく、むしろ、対人心理学のテーマであるような気も正直しました(ミロン自身が、精神医学ではなく臨床心理学の出身)。

 「予備知識が無くても読めるアカデミックなもの」から、完全に「一般読者向けのもの」へと、執筆途中で方針転換したとのことで、個人的には「サディスティック・パーソナリティ障害」について得るところがあり、海外の専門書を平易に解説してくれているのは有難いが、使い回しの内容もある割には価格(2,100円)が少し高いのでは? この後、同じテーマで新書なども書いているので、そちらと見比べて購入を決めた方がいいです。

 因みに、著者が講師を勤めたの最近の市民講座(ウェブ講座)におけるパーソナリティ障害の講義では、ミロンのパーソナリティ分類から11個を選び、元東大学医学部助教授の安永浩が提案した性格類型である「中心気質」を加え、下記の12個を解説していますが、こうなると、先生ごとに分類の仕方は異なってくるということか...。

 ① 自己愛性 (プライドが高く理想を追うお殿様な人たち)
 ② 依存性 (自信がなく他人に助けてもらうために調子を合わせる)
 ③ 自虐性 (禁欲的でまじめだが苦労ぶりをアピールする一面も)
 ④ 加虐性 (自信家で競争心の強い仕切りたがり屋)
 ⑤ 強迫性 (手抜きをしない完璧主義者だが慎重過ぎ柔軟性に欠ける)
 ⑥ 演技性 (社交的な目立ちたがり屋、ノリはいいが計画性・ポリシー欠如)
 ⑦ 反社会性 (自主独立の改革者にもなりうるが既存のルールを軽視しがち)
 ⑧ 回避性 (繊細だが対人関係に過敏、内面に閉じこもる)
 ⑨ 中心気質 (熱中人間、飾り気がなく素朴で小技に乏しい)
 ⑩ シゾイド性 (物静かで社交嫌い、観念活動を好む)
 ⑪ 拒絶性 (自尊心はあるが周囲に逆らうあまのじゃく)
 ⑫ 抑うつ性 (安全志向だが悲観的でめげやすい)

《読書MEMO》
●章立て
 第1部 サディスティック・パーソナリティ障害
 第1章 サディスティック・パーソナリティとの出会い
 第2章 サディスティック・パーソナリティはどうつくられるのか
 第3章 サディスティック・パーソナリティの基本的特徴
    3.1 まわりの人は落ち着けない
    3.2 威嚇的な対人関係
    3.3 視野の狭い主義主張をふりかざす
    3.4 サディストの自己イメージは「ファイター」
    3.5 他人はみんな「狼」
    3.6 相手を傷つけても罪悪感を免れる心理テクニック
    3.7 攻撃性が強すぎて不安定
    3.8 感情が沈みこむことはなく、常に興奮と苛立ちに満ちている
 第4章 サディスティック・パーソナリティの六タイプ
    4.1 キレるサディスト
    4.2 暴君系サディスト
    4.3 警察役サディスト
    4.4 臆病サディスト
    4.5 自己抑制的なサディスト
    4.6 マゾヒスティックなサディスト
    4.7 ノーマルなサディスト
    4.8 サディスティック・パーソナリティと他のパーソナリティ障害との違い
 第5章 【応用編】長崎女児殺害事件とサディスティック・パーソナリティ
第2部 受動攻撃性パーソナリティ障害
 第6章 受動攻撃性パーソナリティとは何か
 第7章 受動攻撃性パーソナリティはどうつくられるのか
 第8章 受動攻撃性パーソナリティの基本的特徴
    8.1 憤慨を露わにする
    8.2 へそ曲がりな対人行動
    8.3 斜に構えた現実認識
    8.4 「不遇な人生」という自己規定
    8.5 揺らぎと迷いに満ちた心的活動
    8.6 代用的な発散によってしか心理的バランスがとれない
    8.7 休む間もない不安定さ
    8.8 苛立ちやすさ
 第9章 受動攻撃性パーソナリティの四タイプ
    9.1 サボタージュ・タイプ
    9.2 当り散らすタイプ
    9.3 評論家タイプ
    9.4 不安定タイプ
    9.5 ノーマルな受動攻撃性パーソナリティ
 第10章 【応用編】綿矢りさ『蹴りたい背中』と受動攻撃性パーソナリティ

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患者から聞きだした解離の主観的体験から、不思議な病像の特徴と構造を分析。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理.jpg 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書 677)』 ['07年]

 解離性障害と言うと、多重人格者犯罪など、一般人とはかけ離れた、想像もつかないような人格を思い浮かべがちで、5つの中核的な症状(健忘・離人・疎隔・同一性混乱・同一性変容)を聞いても、今一つぴんと来ない―。解離性障害を描いた映画もあったが、あまりに綺麗に作られているような...。

パンズ・ラビリンス.jpg ところが、多くの解離性障害を診てきた専門医である著者は、我々が過去の出来事を想起する際などにも「離れたところから自分を見ている」ように出来事を思い出すことを指摘し、一般人の時空の認知などにも、ふっと似たような状況が現れることを示していて、これはなかなか新鮮な指摘でした。

 映画「パンズ・ラビリンス」('06年/メキシコ他)

 著者は、解離性障害の既成の定義(5つの中核的な症状)に飽き足らず、自らの臨床経験をもとに、患者から聞きだした解離の主観的体験から、その幾つかの特徴に迫り(副題の「うしろに誰かいる」というのも、その特徴の1つである「気配過敏症状」の代表例)、更に、解離の症状を、空間的変容と時間的変容にわけて、それぞれの構造を分析しています。

 本書によれば、解離性障害は、幼児期の虐待などの心的外傷によって引き起こされることが多いようですが、ボーダーライン(境界性人格障害)や統合失調症などと似た症状を呈することが多く、その診断が難しいようです(著者自身、解離の主観的体験が解離に特異的なものであるとは考えていないという)。

宮沢賢治.jpg 中盤の「解離の構造分析」のところは、哲学的考察も含んでやや難解でしたが、後半に、宮沢賢治の作品を「解離」を通して読み解く試みがなされていて、これがたいへん興味深いものであり、また「解離」とは何かを理解する上で助けになるものでした。

臨死体験 上.jpg 宮沢賢治作品のこうした側面は、以前に河合隼雄氏が指摘していた記憶があり、また、立花隆氏も『臨死体験』('94年)で、体外離脱体験者でなければ書けない部分を指摘していたように思いますが、本書では、かなり突っ込んで、その辺りに触れています(但し、賢治を解離の病態とすることには、著者は慎重な立場をとっている)。

24人のビリー・ミリガン下.jpg でも、やはり、ダニエル・キースの『24人のビリー・ミリガン』ではないが、多重人格症状を示す患者に対し、本書にも事例としてあるように、各人格を交代で呼び出してカウンセリングする様などを思い受かべると、実に不思議な気がし、著者自身、解離性ヒステリーの患者に初めて出会ったとき、「世にはこんなにも不思議な心の世界があるんだ」と心の中で呟き、後に総合病院の精神科で、多彩な解離の病像を繰り広げる患者とまみえて、この世界に引き寄せられたことを、あとがきで告白しています。

《読書MEMO》
●解離の主観的体験(65P)
離隔 世界がスクリーンに映る映像のように見え、著しくなると、視野の中心しか見えなくなり、更に、体外離脱の方向に向かうと、視野が拡大して、その中に自分がいる。
気配過敏症状 家の中で一人でいるとき、誰かがいるという気配を感じる。トイレや風呂で除かれている気がする。後ろに意地悪い人がいる。
対人過敏症 駅や電車の中、デパート、病院の待合室など、人が大勢いるところで、漠然とした緊張や怯えを感じる。
影が見える 目の前を影がさっと過ぎる。視野の端に、影らしきものがさっと動く。
表象幻視 過去の記憶や想像などが、まるで見えるかのように頭に浮かんだり、次々と展開したりする。
体外離脱体験 自分の体から抜け出して隣の部屋へ行ったり、夜の空を飛んだりする。
自分を呼ぶ声が聴こえる 誰もいないのにどこからか自分を呼ぶ声がする。
思考・表象が湧き出る 空想が湧き出る。頭の中にいろいろな映像が出てきて収拾がつかなくなる。

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『人格障害の時代』の前半は「人格障害」の入門書として読みやすい。後半は要注意?

人格障害の時代.jpg          自己愛型社会.jpg        岡田 尊司.jpg 岡田 尊司 氏 (略歴下記) 
人格障害の時代 (平凡社新書)』['04年]『自己愛型社会―ナルシスの時代の終焉 (平凡社新書)』['05年]

 本書の前半部分は、「人格障害」の入門書として読み易いものでした。
 DSM‐Ⅳ(米国精神医学会の診断基準)に定義される10タイプの人格障害について、いきなりそれらを個々述べるのではなく、「自己愛」や「傷つきやさ」、「両極端な思考」など、それらに共通する特徴を最初に纏めています。

 また「妄想・分裂」もその特徴であるとしていて、米国の精神医学者カーンバーグが、こうした「妄想・分裂」を特徴とする人格障害を、神経症レベルと精神病レベルの境界段階にある「境界性人格構造」として理論化したのですが、この考えに従えば、人格障害の多くがこの境界レベルにあると言えると(但し、狭義の"境界性"は、現在は、人格障害の1つのタイプとして位置づけられている)。

ウィトゲンシュタイン2.jpg 引き続き、3群10タイプの人格障害を、妄想性、統合失調型(スキゾタイパル)、統合失調質(シゾイド)、自己愛性、演技性、境界性、反社会性、回避性、依存性、強迫性の順に、それぞれ典型的な臨床例を挙げて解説していますが、症例とは別に、ヴィトゲンシュタイン(シゾイド)、ワーグナー(自己愛性)、マドンナ(演技性)、ゲイリー・ギルモア死刑囚(反社会性)といった有名人に見られる人格障害の傾向を解説に織り込んでいたりして、興味深く読めます(但し、ヴィトゲンシュタインは、近しかった人による評伝を読んだ限りでは、個人的な印象は少し異なるのだが)。
ヴィトゲンシュタイン

MADONNA.gif 特にマドンナの"演技性人格障害"に関しては、「診断概念より、マドンナの方が、ずっと先をいっている」としています(『マドンナの真実』という本をもとにしているのだが)。
 彼女は厳格で保守的な家庭に生まれましたが、幼い頃に母が他界し、その頃から父親に対する執着が強まり父親を独占しようとしていたそうで、それが、彼女が9歳の時に父親が家政婦に来ていた女性と再婚したために、堅物だと思っていた父に裏切られたという思いから、性的放縦や非行に走るようになったとのこと。それでも学校の成績は良かったが(彼女のIQは140超だそうな)、失われた親の愛を性的誘惑によって取り戻したいという願望が彼女をスターの道に導き、スターになってからもあらゆる男性に対する誘惑行為を果てしなく繰り返すが満たされない―ということらしく、このタイプは、映像メディアの世界に多いそうです。
マドンナ

 著者は、「人格障害の角度から社会を眺めることは、現代社会のまったく新しい理解を提供すると思っている」(11p)とのことで、本書の後半は、うつ病や依存症などと人格障害との相関を述べていて、まだこの辺りはいいのですが、非行、引きこもり、児童虐待、幼児性愛などとの関連を述べつつ、これらの増加傾向が社会の変化と無関係ではないことを強調するあまり、恣意的な分析も入った哲学的・主観的な社会論になっているきらいも大いにあります。
 このことは、『人格障害の時代』という本書のタイトルからも充分に予想できたことですが、本書の後半は、自分なりの批評眼をもって読む必要があるかも。

 本書の翌年に刊行された『自己愛型社会-ナルシスの時代の終焉』('05年/平凡社新書)では、古代ローマ、オランダ、アメリカの各社会を自己愛の肥大した「自己愛型」社会として捉えていますが、個人の症候である「自己愛型人格障害」で使われる"自己愛型"という意味を、そのまま国家社会に当て嵌めて論じているのは、ややオーバーゼネラリゼーションであるような気がし、こうしたやや強引な点も、この著者にはあるのではないでしょうか。

 歴史蘊蓄を披瀝している部分は"勉強"になりましたが、歴史コンプッレックスのある人が読むとそのまま書かれていることの全てを真に受けてしまうのではないかと、老婆心ながら思った次第。
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岡田 尊司 (おかだ たかし)
 1960年香川県生まれ。精神科医。医学博士。東京大学哲学科中退、京都大学医学部卒業。同大学院高次脳科学講座神経生物学教室、脳病態生理学講座精神医学教室にて研究に従事。現在、京都医療少年院勤務。著書に『人格障害の時代』(平凡社新書)『パーソナリティ障害』(PHP新書)。心のエクササイズのため、小笠原慧のペンネームで小説を執筆。『DZ』『手のひらの蝶』(ともに角川書店)『サバイバー・ミッション』(文藝春秋)などの作品がある。

《読書MEMO》
●人格障害の共通項(32p)
 1.自分への強い執着(自己愛)/2.傷つきやさ・過剰反応/3.両極端な思考
●人格障害のタイプとケース
妄想性:信じられない病(ケース:夫になったストーカー)
統合失調型(スキゾタイパル):常識を超えた直感人(ケース:不思議な偶然に悩む女性)
統合失調質(シゾイド):無欲で孤独な人生(ケース:聖人君子)
自己愛性:賞賛以外はいらない(ケース:パニック発作に悩むワンマン経営者)
演技性:天性の誘惑者にして嘘つき(ケース:嘘で塗り固めた虚栄人生)
境界性:今その瞬間を生きる人(ケース:愛を貪る少女)
反社会性:冷酷なプレディター(ケース:反逆した教師の息子)
回避性:傷つきを恐れる消極派(ケース:冷たい女の正体)
依存性:他人任せの優柔不断タイプ(ケース:ローン地獄の女性)
強迫性:生真面目すぎる頑張り屋(ケース:女王蜂に見捨てられた働き蜂)

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本のある生活、本をめぐる交友を通しての、本というものに対する様々な視点がいい。

本を読む兄、読まぬ兄.jpg  お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き.jpg お母さんは「赤毛のアン」が大好き.jpg 弟の家には本棚がない.jpg 犬は本よりも電信柱が好き.jpg
本を読む兄、読まぬ兄 [吉野朔実劇場]』  『お父さんは時代小説が大好き―吉野朔実劇場 (吉野朔実劇場)』 『お母さんは「赤毛のアン」が大好き―吉野朔実劇場 (吉野朔実劇場)』 『弟の家には本棚がない―吉野朔実劇場 (吉野朔実劇場)』 『犬は本よりも電信柱が好き (吉野朔実劇場)

 漫画家・吉野朔実が、日常での自分と本との付き合いをエッセイのように描いた「本の雑誌」連載のコミックシリーズで、もうこれで5冊出ています。
 シリーズの最初で、芥川や漱石をとり上げたかと思うと、『羊たちの沈黙』のようなサイコサスペンスやサイエンス系・心理学系の本をとりあげたりしていて、次に何が出てくるかわからない面白さがありましたが、総じてミステリーが多いのは、やはり漫画家としてストーリーテイリングの参考になるのか(波瀾がありそうで結局は何も無かったというような小説には、結構手厳しかったりする)と思ったけれど、このシリーズ第5冊を読んで、改めて、このあちこちにジャンルが跳ぶのはシリーズを通して健在だったなあと(実際には、本の中身より、本のある生活、本をめぐる交友などを通しての、本というものに対する様々な視点の部分が面白いのだが)。

 シリーズ第1冊の『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』('96年)では、ケストナーの『飛ぶ教室』をめぐる対談で、この本が泣けるのは、「一杯のかけそば」が泣ける話だということと、どう違うのかを(思い出し泣きしながら)論じていたりしていて、神経症患者を描いたオリーバー・サックスの『妻を帽子とまちがえた男』に新鮮な興味を覚え、この辺りから、精神医学への興味が始まっているのかな。

 シリーズ第2冊『お母さんは「赤毛のアン」が大好き』('00年)の「私はこれを"読みきった自慢"」という、「難解だったり起伏が無かったりする本を我慢して最後まで読んだことの自慢」は笑えて、でも、出版業界ってさすが読書家の人が多いよなあ、と改めて感じた次第。

 シリーズ第3冊『弟の家には本棚がない』('02年)は、中勘助に関するエッセイの部分が良く、この辺りからしばしば精科医の春日武彦さんが登場し、結局、この人も著者の交友サークルの1人ということか(著者と春日氏の対談集が本になっているが)、春日さんの人柄までわかってしまう。

 シリーズ第4冊『犬は本よりも電信柱が好き』('04年)の「電車の中は誤解でいっぱい」という、電車の中で読む本を巡る鼎談(ドストエフスキーの『悪霊』を読んでいたら"宗教の人"から名刺を渡されたとか)も面白く、こうなってくると、もっと対談やエッセイ部分を増やしてもいいような気もしました。

 そして昨年['07年]刊行のシリーズ第5冊『本を読む兄、読まぬ兄』('06年)、「お札の絵柄がマンガのキャラクターだったら」という話が一番笑えた。
 作家・平山夢明氏との対談がありますが、ページ数が少なくてちょっと物足りなく、ついでに、平山氏と春日氏の対談本(『「狂い」の構造』('07年/扶桑社新書))も読んでしまいました。

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用語の適用は変遷しているが、メンタルヘルス担当者が今読んでも、参考となる点は多い。

軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理.jpg軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理.jpg軽症うつ病.jpg  笠原 嘉2.gif
軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理 (講談社現代新書)』['96年]笠原 嘉 氏

退却神経症.jpg 著者は、日本で最初に「軽症うつ」という概念を提唱した人で(「うつ」と紛らわしい「退却神経症」というものを概念として提唱したのも著者)、本書では、人に気づかれにくい、また、自分でも気づきにくいタイプのうつ病である「軽症うつ」ついて、とりわけ、ひとりでに起こる「内因性うつ」について、患者サイドに立って、わかりやすく解説しています。

 但し、本書で取り上げられている「軽症うつ」は、最近では、「大うつ病」(狭義の「うつ病」)以外のうつ病として「気分変調症」と呼ばれているようで、それでは「軽症うつ」という言葉が使われていないかというと、ある時は、「大うつ病」と「気分変調症」以外の病的なうつ状態を指す言葉として、またある時は、「大うつ病」以外の病的なうつ状態(「気分変調症」含む)を指す言葉として使われているようで、ややこしい。
 更に、「内因性うつ」と「心因性うつ」を無理に区別しようとしないのも最近のトレンドのようです(本書でも、ある出来事が引き金となって「内因性うつ」が発症することがあることを事例で示している)。

 少し古い本だけに、こうした用語の適用の変遷には一応の注意を払わねばならないという面はありますが、「ゆううつ」の要素として、「ゆううつ感」のほかに「不安・いらいら」「おっくう感」をあげ、回復期において「おっくう感」が一番最後まで残り、仕事などに復帰しても何故かヤル気が出ないことがあるといった指摘は鋭いです。

 職場のメンタルヘルス対策として、復帰者の受け入れ体性をつくる際に、原則として今までの職場に復帰させ、ならし出勤からスタートするといった、最近、人事関係の専門誌によく書かれていることが、すでに本書では提唱されているなどはさすがであり、その他にも、うつ病が何事も几帳面にやり遂げないと気がすまない「執着性格」と相関が高いことや、回復期に「三寒四温」的な気分変調が見られることなど、職場のメンタルヘルス(保健推進)担当者などが今読んでも、参考になることが多いと思われます。

《読書MEMO》
●急性期治療の七原則(149p)
(1) 治療対象となる「不調」であって、単なる「気の緩み」や「怠け」でないことを告げる。
(2) できることなら、早い時期に心理的休息をとるほうが立ち直りやすいことを告げる。
(3) 予想される治癒の時点を告げる。
(4) 治療の間、自己破壊的な行動をしないと約束する。
(5) 治療中、症状に一進一退のあることを繰り返し告げる。
(6) 人生にかかわる大決断は治療終了まで延期するようアドバイスする。
(7) 服薬の重要性、服薬で生じるかもしれない副作用について告げる。

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質・量とも圧巻。画家に近い素養? "異才"が"正統"になったという面もあるかも。

アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集成.jpgアンリ・カルティエ=ブレッソン写真集成.jpg カルティエ=ブレッソンのパリ2.jpg Henri Cartier-Bressonia (1908-2004).jpg
(29.4 x 27.6 x 4.4 cm)『アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集成』『カルティエ=ブレッソンのパリ』(『Henri Cartier-Bresson: À Propos de Paris』)Henri Cartier-Bresson (1908‐2004/享年95)

Henri Cartier-Bresson2.jpg 世界的な写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908‐2004)が亡くなる前月に刊行された作品集で、同じ岩波書店からその後も、彼の写真集『ポートレイト 内なる静寂』('06年)『こころの眼』('07年)などが刊行されていますが、本書は「集成」と呼ぶにふさわしく、質・量とも圧巻で、30年代のスペイン・メキシコ旅行の際の写真から、第二次世界大戦中のフランス、大戦後のヨーロッパ各地、アメリカ、インド、中国、ソ連、インドネシアなどの撮影旅行の成果まで(この中には、欧米の大手ニュース雑誌の表紙を飾ったものも幾つかある)、幅広い作品が収められています(定価1万1千円。但し、増刷しないのでプレミアがついている)。

Madrid, Spain.jpgアンリ・カルティエ=ブレッソン サルトル.jpgアンリ・カルティエ=ブレッソン ジャコメッティ.jpg  更には、文化人・有名人の肖像写真や(マルローやサルトル、ベケット、ジャコメッティ、マティスらを撮った写真は有名)、70年代以降、写真を離れて没頭したデッサン画(何となくドラクロア風)なども多く収められています。

サルトル/ジャコメッティ

 まさに「決定的瞬間」(この言葉、今橋映子氏によると"誤訳"であり、実際は「 かすめ取られたイマージュ」という意味らしいが―『フォト・リテラシー』('08年/中公新書))。何故こんな写真が撮れるのだろうか? まず、その場にいた、ということが第一条件ですが、それにしても不思議です。「私はそこにいた。すると、その時、世界が姿を見せたのだ」とカルティエ=ブレッソンは言うのです。

 個人的には、30年代から50年代にかけてのフランスやその他欧州諸国で撮られたスナップ・ショットっぽい作品が好きで、何だか昔のヨーロッパ映画を見ているような気持ちになってきます。

カルティエ=ブレッソンのパリ.jpg パリの写真だけをスナップを中心に収めたものに『カルティエ=ブレッソンのパリ』('94年/みすず書房)があり、「集成」とダブるものも多いが、これも楽しめます。

Henri Cartier-Bresson.jpg これらの写真を見て、見ているうちに、必ずしも歴史的に知られたシークエンスでなくとも、その時代やそこに生きた人々への想いが湧いてくるのですが、どこまでが計算されているのか、よくわからない。きっと、充分に計算されているのだろうけども、普通の人間ならば、計算している間に"決定的瞬間"は過ぎ去っていってしまうわけで...。

 40年代にロバート・キャパらと写真家集団「マグナム・フォト」を結成し、50年代初頭にはフォト・ジャーナリズムを熱く語っているにも関わらず、70年代半ばには、自身のことを「お粗末な写真リポーター」とし、写真の世界から足を洗いました。Henri Cartier-Bresson picture_1_45.jpgと言うより、自らの名声にも過去の作品にも背を向け(「自分はフォ・トジャーナリストであったことは一度も無い」とも言っている)、プロヴァンスに引き籠って、画家になっているのです。

 若い頃の彼のポートレイト(数少ないのだが)には才気を感じますが、強面(こわもて)という感じではなく、むしろ少しナイーブな感じで、この辺りは、日本におけるスナップ・ショットの天才・木村伊兵衛と似ている(木村がパリにカルティエ=ブレッソンを訪れたとき、彼は超売れっ子で多忙を極めていたが、人を介して木村のために、色々とパリ市中の撮影の手配をしてあげている)。

Henri Cartier-Bresson Portraits by Henri Cartier-Bresson.jpg カルティエ=ブレッソンも木村伊兵衛もストリート写真からスタートした人ですが、こうした風貌の人の方が、対象にすっと受け入れられ易いのかも。

Ile de la Cite, Paris.jpg ジャン・ルノアールの映画作品、例えばモーパッサン原作の 「ピクニック」('36年)(光と影の使い方が印象派風!)などの助監督もしていて、本質的には、ジャーナリストというより、画家・詩人に近い素養の人なのだろうなと思います。

シテ島

 但し、写真は一瞬の勝負であり、間違いなく、フォト・ジャーナリズムの世界に大きな足跡を残しているわけで、"異才"と言うより他になく、あまりに多くのフォロアーが出たために、むしろ、その"異才"が"正統"になったという面もあるかもしれません。

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"葬送のセレモニー"の意義について考えさせられた。

誕生死.jpg 『誕生死』['02年]
読売新聞 2002.8.23(朝刊)
誕生死 読売新聞2002.8.23(朝刊).jpg 赤ちゃんを流産・死産・新生児死で亡くした親たちの手記が紹介されている本で、'02年に刊行された際に反響を呼びましたが、特に同じ経験をした人から強い共感が寄せられたそうで、それだけ、同じ体験をし、独り悩んだり葛藤したりしている人が多いと言うことでしょうか。

 出産準備のための本は多くあっても、それは無事に出産することを前提に書かれているものばかりであり、それだけに、経験者のその時の哀しみの大きさは計り知れないものだと思いますが、こうして手記の形で自分の身に起きたことを対象化し、心情を吐露することは、哀しみを浄化する働きもあるのかも。

 少なくともこの本に登場する親たちは、哀しみを乗り越える糸口を見出し、強く生きているように思え、例えば、その後も子どもを産み、兄弟がいたことをわが子にオープンにしているケースが多いことを見ても、それが窺えます。

 この本が出来上がったきっかけは、こうした経験をした母親の1人がインターネットの自らのホームページにその経験を綴ったことからだそうですが、アメリカなどではこうした共通の哀しい体験をした人のサークルやコミュニティが数多くあり、日本の場合は、交通遺児の会は以前からあり、また最近では、犯罪被害者や家族が自殺した人の集まりなどもありますが、この分野はまだまだではないでしょうか。     

stillborn.jpg  死産や新生児死の場合、哀しみを受け入れ、それを乗り越える手立てとして、ささやかながらでも"葬送のセレモニー"を行うということが1つあるのではと、本書を読んで思いました。外国では、医師の側から、亡くなった子を兄弟に抱っこさせたり、家族みんなで一緒に写真を撮ったりするよう勧めてくれるそうで、別れの時間をゆっくり過ごせるような配慮がされていると、本書のあとがきにあります。

 流産・死産・新生児死を総称して"STILLBORN"(それでもなお生まれてきた)と呼ぶそうですが、この言葉で検索すると、そうした葬送のセレモニーの写真などを掲載したホームページが幾つもあることがわかります。

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普段何気なく使っている漢字にこんな意味が込められていたのかとビックリ。

白川 静 『漢字百話』.jpg漢字百話.jpg  漢字百話2.jpg 白川 静.jpg 白川 静(1910‐2006/享年96)
漢字百話 (中公新書 (500))』['78年]『漢字百話 (中公文庫BIBLIO)』['02年]

 漢字の成り立ちについて10章×10話に纏めたもので、「百話」と言うより「百講」に近いですが、1話ごとにさらに幾つもの漢字の起源が紹介されていて、その数は膨大です(索引が欲しかった気もする)。しかし、単なる項目主義ではなく、漢字の成り立ちが「記号」「象徴」「宗教」「霊」「字形」「字音・字義」などといった観点から体系的に説明されているため、漢字学に学術的に迫りたい人をも満足させるものとなっています。

 一方で、雑学的関心でただただ"日めくりカレンダー"的に読んでも楽しい本で(自分はどちらかと言うとこの読み方)、末尾では漢字教育のあり方や漢字の将来についても論じていますが、個人的には、漢字の起源を呪術や宗教、霊との関連で説明した部分が興味深く、普段何気なく使っている漢字にこんな意味が込められていたのかとビックリさせられました。

 漢字のもとにあった金文や甲骨文字などの象形文字を、単なる図形でなく、シンボルとして捉えているのが白川漢字学の特徴と言えるかも―。

 「字」は家の中にいる子を表すが、この家は廟屋であり、氏族の子が祖霊に謁見し、生育の可否について承認を受ける儀礼を意味し、その時に幼名がつけられるので、字はアザナであるとのこと。

 「告」は、牛が人に何事か訴えかけるために口をすり寄せている形だとされているが、この字の上部は木の枝(榊)を表し、「口」はそれに繋げられた祝詞を入れる器を表すことから、神に告げ訴えることであるとのこと。

 かつて見る行為は呪術的なものであり、呪力を強めるために目の上を彩ったところから「眉」の字があり、呪術をなす巫女は「媚」と呼ばれ、戦さで敵方に勝つと、呪能を封じるため敵方の巫女は戈(ホコ)で殺され、それが軽蔑の「蔑」という字(上部は眉を表す)、「道」は異族の首を携えて往くことを意味するとのこと。

 「新」は斤(オノ)で切った木に辛(ハリ)が打ち込まれたもので、これを見ている形が「親」だが、この木は位牌を作るための神木で、これを見ているのは親を失ってこれを祀る子であるはずとのこと(この辺りの解釈が、いかにもこの人らしい)。

 こうした話が、ぎっちり詰まった本。最近では、『白川静さんに学ぶ漢字は楽しい』、『白川静さんに学ぶ漢字は怖い』('06年・'07年/共同通信社))といった本なども出版されていて、没後まだまだ続く「白川漢字学」ブームといったところですが、それらの本のソースも、大体この本に収められています。

【2002年文庫化[中公文庫BIBLIO]】

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