【856】 ○ 会田 雄次 『敗者の条件―戦国時代を考える』 (1965/03 中公新書) ★★★☆

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戦国はヨーロッパ流の「食うか食われるか」の時代。マキャベリズムの実践者だった信長と秀吉。

敗者の条件2.jpg敗者の条件 改版 (中公文庫 あ 1-5)』文春文庫['07年改版版]敗者の条件.jpg敗者の条件―戦国時代を考える (中公新書 (62))』['65年] 
 
会田雄次(あいだゆうじ).jpg 西洋史学者・会田雄次(1916‐1997)が書いた日本史の本で、晩年は右派の論客として鳴らした人ですが、学者としても40代で既に専門分野の枠を超えていた?
 でも何故、イタリア・ルネッサンスの専門家が日本の戦国武将のことを書くのか?

会田雄次 (1916‐1997/享年81)

アーロン収容所.jpg そのあたり、まず、『アーロン収容所』('62年/中公新書)にもあった自身の英軍捕虜体験の一端が本書でも紹介されていて、それは、英国人が、死刑判決を受けた日本人戦犯に対し、恩赦が下るという偽の噂を流して生きる望みを抱きかけたところで処刑を行うというもので、肉体だけでなく精神まで破壊しないと復讐をしたという気にはなれないという英国人(ヨーロッパ人)の、日本人には見られない復讐心の強さ、あるいは競争心の強さなどを指摘しています。

 著者の専門であるルネッサンス期のイタリアは、こうしたヨーロッパ人気質が最も顕著に現れた時代であり、小国乱立の中、芸術・文化の繁栄と権謀術数の渦巻く政治が併存していたのですが、ヨーロッパ史全体を俯瞰すればこうした状況の方がむしろ常態であり、それに比べると日本の歴史はぬるま湯のような時代が殆どを占める、その中で戦国時代というのは、ちょっと油断をすれば寝首を掻かれる特異な時代で、この時代に限れば、ヨーロッパ流の「食うか食われるか」という時代だったと。

 こうした観点のもとに、歴史の敗者となった人物が、どこでどういう過ちを犯してそうなったのかを、斎藤道三、武田信玄・勝頼、蒲生氏郷、松永秀久などの辿った道を追いながら検証していますが、彼らに共通するのは、肉親に対する思い入れや自分に対する過信、敵に対する見くびりなどが、ここ一番という時の判断を狂わせ、それが身の破滅に繋がったとしているとのことで、一方で、織田信長や豊臣秀吉など、世が平和であれば異常者とされたり卑賤とされたりするような人物が戦国の世において覇権を握ったのは、従来の日本人(あるいは武将)の価値規範や因習にとらわれず、また、ここぞという時に決断し、躊躇せず実行に移すだけの胆力があったという、その人間的器の違いに尽きるということのようです。

 信長や秀吉のしたことの中には、常軌を逸した非人道的な事柄も少なくありませんが、その行動指針は、著者が指摘するように、マキャベリの君主論に見事に重なっているように思え(例えば「一度叛いた人間には、けして最終的に信を置くな」といった法則)、途中で挿入されているヨーロッパ史上のやり手の君主の話や油断して殺された側の話が、これら日本の武将たちの明暗とダブり、より説得力をもって「敗者」と「勝者」の違いが理解できます。

 戦国モノなので、読んで面白いということが先ずありますが、1つ1つの史料に対してその真偽を吟味している点では歴史家のスタイルを保ちながら、本書で展開されている趣旨の中核部分が、ある種の精神論であるというのも興味深いです。

 【1983年文庫化・2007年改版[中公文庫]】

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This page contains a single entry by wada published on 2008年2月12日 23:32.

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