【786】 ○ 阿部 善雄 『目明し金十郎の生涯―江戸時代庶民生活の実像』 (1981/01 中公新書) ★★★★

「●江戸時代」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【230】 神坂 次郎 『元禄御畳奉行の日記
「●中公新書」の インデックッスへ

ヤクザ兼業の目明しの生涯。ヤクザと旅興行や"お寺"との歴史的な繋がりが見てとれる。

目明し金十郎の生涯―江戸時代庶民生活の実像   .jpg「目明し金十郎の生涯」.jpg目明し金十郎の生涯.jpg 『目明し金十郎の生涯―江戸時代庶民生活の実像 (中公新書 604)』 〔'81年〕

 江戸時代史研究者で東京大学資料編纂所教授だった阿部善雄(あべ よしお、1920-1986)が、奥州守山藩(現在の福島県郡山市)の陣屋(警察)日記『守山藩御用留帳』を読み解き、そこに登場する吉田金十郎という目明しの生涯と彼の関わった事件を通して、当時の地方の政治社会、庶民生活を浮き彫りにしたもの。

阿部善雄訃報.gif 金十郎が『守山藩御用留帳』に初めて登場するのが1724年で、その後推定70代で引退するまで46年間、彼は、殺傷事件の解明や逃亡犯の追跡、一揆の調査などに活躍するのですが、目明し(江戸でいう「岡引き」)というのはヤクザ上がりが多く、金十郎もヤクザ稼業との〈二足の草鞋〉を履いた目明しであり、藩から許可を得て旅芝居興行の仕切りをしたり、藩に隠れて自宅で賭場を開いたりしています。

 江戸でも、池波正太郎が「鬼平」のモデルにした長谷川平蔵がヤクザ上がりを岡引きとして使っていますが、守山藩というのは、藩としてそうした"人材登用"を積極的に行っていたことが特徴的であり、もう1つの守山藩の特色として、領地内の寺の多くが「欠入(かけいり)寺」になっていたことが挙げられます。

 「駈入(かけいり)寺」または「駈込(かけこみ)寺」と言えば、家庭内暴力に遭った女性が駆込む所をイメージしますが、ここで言う「欠入り(駈入り)」とは、DV被害女性のためのものと言うより、犯罪者や容疑をかけられた者が庇護を求めて寺に隠れたり、年貢を払えなくなった庶民が一家ごと逃げ込んだりすることを指しています。

 犯罪者やヤクザ者に駆け込まれた寺側が、彼らを匿った旨を陣屋に申告し、交渉の末「欠入り」が認められれば捜査は終了して沙汰止みになるというケースが本書では度々描かれていて(重罪犯の場合は欠入りが認められないこともある)、金十郎も、事件を落着させるために容疑者を強制的に欠入りさせるといったことまでしています。

阿部善雄の訃報(東京大学学内広報 1986.5.19)

 元ヤクザを目明しとして使うのも欠入りを認めているのも、藩統制のための戦略と言えるかと思いますが、ヤクザと旅興行、ヤクザと"お寺さん"との歴史的な繋がりというものが垣間見てとれるのが興味深かったです。

 著者は生涯を独身で通した歴史学者でしたが、『守山藩御用留帳』を自ら発掘して『駈入り農民史』('65年/至文堂)という本を著しています。

 この「御用留帳」は全143冊もありますが、本書はその中から、金十郎とライバル目明しの新兵衛(これが金十郎に輪をかけたようなヤクザ者、ただし金十郎より如才ない面もある)の2人に的を絞ってその活躍を追っていて、そのことが、新書版という体裁において成功しているように思えます。

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1