「●インカ・マヤ・アステカ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【753】 増田 義郎 『古代アステカ王国』
征服者ピサロたち一行と黄金の国を求めて旅している気分になる。
『インカ帝国探検記―ある文化の滅亡の歴史』 中公文庫 ['75年] 『インカ帝国探検記―ある文化の滅亡の歴史 (中公文庫BIBLIO)』 ['01年]
『インカ帝国探検記―その文化と滅亡の歴史 (1961年)』 ['61年]
『インカ帝国探検記 - ある文化の滅亡の歴史 (中公文庫)』['17年新装版]
著者が旧インカ帝国の遺跡を現地調査に訪れたのが1959年、単行本出版が1961年と、かなり前に書かれた本ですが、歴史上の人物の描写などが生き生きとしていて、コンキスタドーレス(征服者)・ピサロたち一行と共に黄金の国を求めて16世紀の中南米の地を旅しているような気分にさせられます。
ピサロがペルーに上陸した頃のインカ王朝は、第11代皇帝ワイナ・カパックの後を継いで皇帝となった嫡男ワスカールを、先帝の庶子アタワルパがこれを打ち破って帝位を奪ったばかりの時で、アタワルパというのは軍事的才能があった実力者でした。
ピサロがインカ帝国に入り、カハマルカでアタワルパとまみえて策略により彼を捕らえてからの両者の関係が微妙で、ピサロはアタワルパの"日の御子"とされる皇帝としてインカの民を服従させる権力を統治上利用しようとしたために、結果として互いに協調的だった時期もありましたが(アタワルパが"日の御子"でありながらも非常に"人間臭い"のが面白い)、結局アタワルパは、謀反の嫌疑をかけられピサロに処刑されてしまう―。
しかし、その後もインカ族の抵抗は続き、首都クスコを手中にしているスペイン側が、逆にインカ軍によってクスコを包囲されるなどして、インカ軍制圧が一筋縄ではいかなかったことがわかります。
ピサロのインカ帝国征服(1531-1533)
インカ征服の中心人物だったピサロは、同国人の競争相手アルマグロを捕らえて処刑するなど、スペイン人同士の抗争においても優位に立ちますが、結局自分もアルマグロの残党に暗殺されてしまい、アステカを征服したコルテスが晩年を隠居生活したのに比べると、因業に応じた最期だったという印象を抱かざるを得ません(勇敢でいざという時のリーダーシップはあったが、本来的には粗暴で教育水準などもコルテスより低かった?)。
著者は文化人類学者であるため、本書では、インカの文化や伝統、人々の暮らしぶりなどについても書かれています。
ただし写真等が少ないので、近年世界遺産としてブームのマチュピチュなども、本書だけではそのスケールをイメージしにくい部分はあります。
皇帝アタワルパ亡き後もスペイン人に対し抵抗を続けたトゥパック・アマルーが、最後の戦いに臨むためそのマチュピチュを発つにあたって、自分に仕えていた女性たちを全部殺し(男性は既に戦いに出されていて殆ど残っていなかった)その痕跡を消したため、結局この"天空の城"は、1911年に米国人探検家ハイラム・ビンガムによって発見されるまで340年も山奥に眠り続けたというのは、本当に驚くべき話で、マチュピチュから発見された173体のミイラの殆どは若い女性のものだったということです。
【1961年単行本[中央公論社(『インカ帝国探検記―その文化と滅亡の歴史』)]/1975年文庫化・2017年新装版[中公文庫]/2001年再文庫化[中公文庫BIBULIO]】