「●の 野坂 昭如」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●は 萩尾 望都」【698】 萩尾 望都 『ポーの一族』
凄い記憶力で綴る個人的「文壇史」。三島や吉行の後輩への意外な配慮に感心させられた。
『文壇』 (2002/04 文藝春秋) 『文壇 (文春文庫)』 〔05年〕
2002(平成14)年・第30回「泉鏡花文学賞」受賞作。
野坂昭如の個人的「文壇史」という感じで、週刊誌にコラムを書いていた30代になったばかりの頃(年代で言えば'61(昭和36)年ごろ)から、三島由紀夫が自殺した'70(昭和45)年までのこと、特に「エロ事師たち」執筆('63年)から'67年の発表の「アメリカひじき」「火垂るの墓」で直木賞を受賞するまでの間のことが詳しく書かれています。
それにしても凄い記憶力で、どこの店に誰と行ったら、そこに誰と誰が居て、どんな様子だったかということがこと細かく書かれています(かなり偏執狂的?)。
川端康成、大江健三郎といった大御所、純文学作家から、流行小説家、編集者まで多くの文壇関係者が、そうした文壇バーのようなところに集っていたのがよくわかり、なあ〜んだ、狭い世界だなあと思わされる一方で、ゴシップ的なことも含め興味は尽きず、一気に読まされてしまったという感じ。
こうした多士済々の顔ぶれの中で、その言動において際立った光彩を放っているのが三島由紀夫と吉行淳之介で、以前から2人の作品を評価していた野坂氏にとって、自らの小説デビュー作「エロ事師たち」がこの2人に最大賛辞をもって迎えられたことは、ある意味非常に幸運なことにも思えます。
しかし、そのことにより逆に書けなくなってしまう時期があり、それを乗り越え、「エロ事師たち」「とむらい師たち」を経て「火垂るの墓」に至る―と言うと一見サクセスストーリーかと思われますが、常に雑文家出身の負い目があり(だから本書には、「交遊録」というより、いつも自分は部外者だったという感じが滲んでいる)、「火垂るの墓」発表後も、作中で虚実ないまぜにしたことへの後ろめたさに苛まれている。
そうした彼の劣等感や当時を時めく流行作家に対する嫉妬みたいなものが素直に吐露されていて、逆に嫌味感を感じずに読めました。
それにしても、三島や吉行って、結構その間も彼を励ましたりアドバイスしたりしている、その意外なこまめさには感心させられました(三島は常に彼を「さん」づけで呼び、対談を申し込んだり自宅でのパーティーに招待したりし、また吉行は"第三の新人"仲間に彼を紹介するとき、雑文家・プレイボーイとしてでなく、小説家として紹介している。これは、野坂氏がまだ直木賞の候補にもなったことがない時期の話である)。
【2005年文庫化[文春文庫]】