2006年11月 Archives

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前後半通じて面白い。「文学は物言わぬ神の意思に言葉を与えること」の真摯な説明の試み。

神の微笑(ほほえみ).jpg神の微笑(ほほえみ)』 新潮文庫 〔'04年〕芹沢.jpg 芹沢光治良(1896-1993/享年96)

 前半は作者の半生記のような感じで、主人公の父親が天理教の信仰にのめりこんで財産を教団に捧げたために親族ともども味わった幼少期の貧苦から始まり、やがて学を成しフランスに留学するものの、肺炎で入院、結核とわかり、現地で送ることになった療養生活のことなどが書かれていています。

 高原の療養所で知り合った患者仲間との宗教観をめぐる触れ合いと思索がメインだと思いますが、患者仲間の1人が、天才物理学者であるにも関わらず、イエスに降り立った神というものを信じていて、幼少の頃に天理教と決別した主人公には、それが最初は意外でならない、その辺りが、主人公自身は経済を学ぶために留学しており、"文学者"が描く宗教観というより、自然科学者と社会科学者、つまり外国と日本の"科学者"同士の宗教対話のように読めて、論理感覚が身近で、面白くて読みやすく、それでいて奥深いです。

 後半は、その科学者に感化されて文学を志した主人公が、その後、天理教の教祖やその媒介者を通じて体験する特異体験が書かれていて、「世にも不思議な物語」的・通俗スピリチュアリズム的な面白さになってしまっているような気配もありましたが、主人公(=作者ですね)は、それらに驚嘆しながらも実証主義的立場を崩さず、最後まで信仰を待たないし、一時はイエスとのアナロジーで教祖に神が降りたかのような見解に傾きますが、最後にはそれを否定している、一方で、人生における様々な邂逅に運命的なものを感じ、神の世界は不思議ですばらしいと...。

 一応フィクションの体裁をとっていますが(『人間の運命』の主人公が時々顔を出す)、作者が以前に「文学は物言わぬ神の意思に言葉を与えることである」と書いたことに自ら回答をしようとした真摯な試みであり、それでいて深刻ぶらず、沼津中(沼津東高)後輩の大岡信氏が文庫版解説で述べているように、苦労人なのに本質的に明るいです(でも、よく文庫化されたなあ。通俗スピリチュアリズムの参考書となる怖れもある本ですよ)。

 要するに、神というのは、教団や教義の枠組みに収まるようなものではないし、信仰をもたなくとも、神を信じることは可能であるということでしょうか。
 とするならば、現代人にとって非常に身近なテーマであり、1つの導きであるというふうに思えました(作中の天才物理学者の考え方は老子の思想に近いと思った)。

 作者が89歳のときから書き始めた所謂「神シリーズ」の第1作で、以降96歳で亡くなるまで毎年1作、通算8作を上梓していて、この驚嘆すべき生命力・思考力は、"森林浴"のお陰(作者は樹木と対話できるようになったと書いている)ならぬ"創作意欲"の賜物ではなかったかと、個人的には思うのですが...。
 
 【2004年文庫化[新潮文庫]】

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「●日本のTVドラマ (90年代~)」の インデックッスへ(「繋がれた明日」)

前科者の社会復帰の難しさ。「保護司」が立派なカウンセラーに思えた。

繋がれた明日.jpg 『繋がれた明日』('03年/朝日新聞社) 繋がれた明日2.jpg繋がれた明日 (朝日文庫)』〔'06年〕

 19歳のときに、恋人にちょっかいを出した男をはずみで殺してしまい、殺人罪で5年から7年の刑に処せられた主人公は、刑期満了前に仮釈放となりますが、その後、勤務先や自宅アパートに「この男は人殺し」と書かれた中傷ビラをばら撒かれる―。

 ビラを撒いたのは誰かというミステリーの要素はありますが、一度罪を犯した者はたとえ刑期を終えても、一般社会からは許されることがないのかという、かなり重い「社会問題」に取り組んだ作品だと思いました(本のキャッチにある「罪と罰」という漠たる抽象問題というよりも)。

 社会の偏見に苦しめられ、また加害者の関係者や自らの家族からも責められるなか、気持ちの整理がつかないまま、時に短絡的な行動に出そうになる主人公ですが、味方になってくれる人もいて、全体に暗い物語のなかで、その部分だけやや救われた気持ちになります。

 しかし、やはりこうした排他的な日本の社会では、社会復帰を促す「保護司」という専門的な仕事が重要であることを感じました。
 この物語の「保護司」が立派なカウンセラーに思え、「保護司」ってこんな素晴らしい人ばかりなのだろうか、主人公はかなり「保護司」に恵まれた方ではないかとも、ちょっぴり思ったりもしました(それにしても、たいへんな仕事だなあと思う)。

 ミステリー的要素を抑えた分、人物描写等が深いかというと必ずしもそうではなく、ドラマ臭い"セリフ"が多く、会話も展開もやや冗長だし、主人公の妹が兄のために結婚をフイにしたという話などもお決まりのパターンのように思えましした。

 主人公は人間的に少しずつ成長しているのだろうけれど、ラストでアクシデント的にそのことが示されるというのも、後味が今ひとつでした。

 一方、被害者家族の側にはややエキセントリックな人物を配していて、あまり被害者側に立っていないのではという見方も成り立ちますが、それはそれで、あまり被害者側に立ちすぎると別の物語になってしまうところが、このテーマの難しさではないでしょうか。 

繋がれた明日 tvタイアップ帯2.jpgNHKドラマ「繋がれた明日」.jpg '06年にNHKでドラマ化されましたが、確かにドラマ化はしやすいと思います。但し、TV番組としてはかなり暗い話の部類になったかも(こうした暗い話をストレートにドラマ化するのが、ある意味NHKのいいところなのだが)。主人公を演じた青木崇高は、新人の割には良かったように思います(保護司役は杉浦直樹が好演)。

「繋がれた明日」●演出:榎戸崇泰/一色隆嗣●制作:岩谷可奈子/内藤愼介●脚本:森岡利行●音楽:丸山和範●原作:真保裕一「繫がれた明日」●出演:青木崇高/杉浦直樹/尾上寛之/馬渕英俚可/藤真利子/吉野紗香/銀粉蝶/桐谷健太/佐藤仁美/渡辺哲/弓削智久●放映:2006/03(全4回)●放送局:NHK

 【2006年文庫化[朝日文庫]/2008年再文庫化[新潮文庫]】

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ハリウッド映画を思わせるスケールの大きい状況設定。

ホワイトアウト.jpgホワイトアウト 1995.jpg  ホワイトアウト文庫.jpg ホワイトアウト2.jpgホワイトアウト 映画ド.jpg
ホワイトアウト』['95年]/新潮文庫〔'98年〕/「ホワイトアウト<初回限定2枚組> [DVD]

 1995(平成7)年度・第17回「吉川英治文学新人賞」受賞作。1996 (平成8) 年「このミステリーがすごい」(国内編)第1位(1995(平成7) 年度「週刊文春ミステリー ベスト10」(国内部門)第2位)。

 日本最大の貯水量の「奥遠和ダム」を武装グループが占拠し、職員、麓住民を人質に50億円の身代金を要求するという、映画でも良く知られるところとなったストーリーです。

 スケールの大きい状況設定は、ハリウッド映画を思わせるものがあり、吹雪の様子などの描写が視覚的で、尚更そう感じます。作者は、アニメ制作会社でアニメの演出などをしていたそうですが、なるほどという感じもしました。ダムの構造の描写などにも作品のテンポを乱さない程度に凝っていて、この作者は"理科系"というか"工業系"の感じがしますが、臨場感を増す効果をあげています。アクション・サスペンスの新たな旗手の登場かと思われる作品ではありました(その後、純粋なアクション・サスペンスはあまり書いてないようだが...)。

WHITEOUT ホワイトアウトド.jpg ただ、アクション・サスペンス的である分、人物描写や人間関係の描き方が浅かったり類型的だったりで、映画にするならば、役者は大根っぽい人の方がむしろ合っているかも、と思いながら読んでました。結局のところ映画は織田祐二主演で、体を張った(原作にマッチした)アクションでしたが、演技の随所に「ダイハード」('88年/米)のブルース・ウィリスの"嘆き節"を模した部分があったように思ったのは自分だけでしょうか。

映画「ホワイトアウト」 ('00年・東宝)

ホワイトアウト 映画 佐藤浩市.jpg映画「WHITEOUT ホワイトアウト」 松嶋.jpg 織田祐二はまあまあ頑張っているにしても、テロリスト役の佐藤浩市の演出が「ダイハード」のアラン・リックマンのコピーになってしまっていて、自分なりの役作りが出来ていないまま映画に出てしまった感じで存在感が薄く、人質にされた松嶋菜々子に至っては、別に松嶋菜々子を持ってくるほどの役どころでもなく、客寄せのためのキャスティングかと思いました。    

奥只見ダム.jpg 奥只見ダム(重力式ダム) 黒部ダム.jpg 黒部ダム(アーチ式ダム)

 細かいことですが、本作の舞台である日本最大の貯水量を誇る「奥遠和ダム」のモデルとなったのは奥只見ダムであると思われますが、映画では「奥遠和ダム」はアーチ式ダムという設定になっているため(奥只見ダムはアーチ式ではなく重力式ダム)、撮影の際にダムの外観のショットは、アーチ式の黒部ダムなどで撮っています(原作の中身は重力式ダムという設定、単行本の表紙写真は奥只見ダムのものと思われる)。映画化するならば、アーチ式ダムの方がビジュアル面で映える、という原作者の意向らしいですが、確かにそうかも。さすが、もとアニメ演出家。

WHITEOUT ホワイトアウト .jpg映画「WHITEOUT ホワイトアウト」0.JPG「ホワイトアウト」●制作年:2000年●製作:角川映画●監督・脚本:若松節朗●脚本:真保裕一/長谷川康夫/飯田健三郎●音楽:ケンイシイ/住友紀人●撮影:山本英夫●原作:真保裕一●時間:129分●出演:織田裕二/松嶋菜々子/佐藤浩市/石黒賢/吹越満/中村嘉葎雄/平田満●劇場公開:2000/08●配給:東宝 (評価★★★)

 【1998年文庫化[新潮文庫]】

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著名人のエピソードを軸とした読みやすいエッセイ。とりあげられている人物がバラエティに富む。
打たれ強く生きる.jpg 『打たれ強く生きる (新潮文庫)』〔'89年〕 静かなタフネス10の人生.jpg 『静かなタフネス10の人生』 新潮文庫

打たれ強く生きる 単行本_.jpg 『打たれ強く生きる』 ('85年/日本経済新聞社)は、財界人などの著名人の素顔や言動から窺えるその人間性や考え方などを中心に、著者が日常において感じたことなども含めてエッセイ風に綴ったもので、ベースとなっているのは'83(昭和58)年の日経流通新聞での連載。1篇3ページずつにまとまっており、読みやすいせいもあって、今まで何度か読み返しました。
静かなタフネス4.JPG 城山氏は財界トップへのインタビューなども本にしていますが(『静かなタフネス10の人生』('86年/文藝春秋))、本書『打たれ強く生きる』でも、渋沢栄一とか城山氏の好みの経営者にまつわるエピソードが多いものの(本田宗一郎や土光敏夫などはまだ本書刊行時は存命中で、著者は直接に親交があった)、財界人に限らず、歴史上の人物(毛利元就・山中鹿之助など)から、作家や演出家(和田勉・浅利慶太など)、さらには芸人・芸能人(桂枝雀・レオナルド熊など)まで取り上げていて、より作家的視点を感じるとともに、話のネタの広さに感心します。

聞き書き 静かなタフネス10の人生

 "山種証券"の山崎種二氏の「大きな耳を持て」という話や、"花王石鹸"の丸田芳郎の「会社の仕事以外に勉強するように」「文学や芸術に触れろ」という話はいい話ですが、ちょっとストレートすぎる感じも。

 むしろ、地方から家出同然で上京した村上龍に、父親が近況を伝える手紙を送り続けたという(その数7年間で2千通に及び、これに対して村上龍は一度も返信しなかったという)話などが、読み直して新鮮な面白さを感じました。

桂枝雀.jpg 表題の「打たれ強く生きる」については、作家・渡辺淳一が、医師としての死生観を通じて得た「死を思えば少々の挫折など何でもない」という「打たれ強さの秘密」という話の中で出てきます。
 更にその前に紹介されている落語家・桂枝雀の「ぼちぼちが一番でんな」という話も印象的でしたが、彼自身は、自分が気質的に考え込んでしまうタイプだということがよくわかっていたのでは。 

 【1989年文庫化[新潮文庫]】

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日本の文化・芸術に対する深い洞察と惜愛。ズバッと言い切るところも気持ちいい。

名人は危うきに遊ぶ.jpg名人は危うきに遊ぶ西行.jpg西行白洲正子.jpg 白洲正子(1910-1998/享年88)

 以前に著者の『西行』('88年/新潮社、96年/新潮文庫)を読みましたが、教養エッセイの形をとりながらも、内容的には学術レベルに達していたように思います。
 〈西行〉と〈明恵〉という一見相反的な2人の人物に通じるものを看破していたのが興味深かったですが、全体として自分にはやや高尚すぎた感じも...。

 この人の"教養"は"お勉強"だけで身につく類のものではなく、出自、育ちから来るもので、そのことは、本書のような、より読みやすいエッセイを読むとかえってよくわかります。
 主に70歳代から80歳代にかけて書かれた小文を集めていますが、その多くから、日本の文化や芸術、自然に対する深い洞察と惜愛が窺えます。

 骨董にも造詣の深かった著者ですが、美しくて人を寄せつけない唐三彩に対し、触れることでまた味わいの増す日本の陶磁器の深みについて述べたくだりは面白かったです。
 魯山人の陶磁器の値段の高さに疑念を呈し、使用されるために造られたものを蔵にしまっておいては生殺しと同じであると。
 生前の魯山人と面識があり、魯山人の茶碗で毎日ゴハンを食べているという、一方で自宅に李朝の壺なども所持しているわけで、そういう人に言われると納得してしまうし、そこに見栄や衒いは感じられません。

 小林秀雄、青山二郎らスゴイ人たちと親交があり、彼らの究極の「男の友情」を目の当たりにしてきた著者にとって、日経の『交遊抄』などは「いい年した男性がオテテツナイデ仲よくしてるみたいで」、「幼稚園児なみ」の友情だそうで、こうズバッと言い切るところが気持ちいいです。

 著者は本書出版の3年後に88歳で亡くなっていますが、夫・白洲次郎を看取ったときの記述などから、すでに達観した境地が見て取れます。

 【1999年文庫化[新潮文庫]】

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司馬遼太郎『新選組血風録』、浅田次郎『壬生義士伝』のネタ本。聞き書きの文体に生々しさ。

新選組始末記.jpg 勝海舟.jpg『勝海舟』 新潮文庫(全6巻)子母澤寛.jpg 子母澤 寛 (1892-1968/享年76)
新選組始末記 (中公文庫)』 (カバー画:蓬田やすひろ) 

 子母澤寛の作品は以前に『勝海舟』('46年第1巻刊行、'68年/新潮文庫(全6巻))を読みましたが(子母澤寛はこの作品や勝海舟の父・勝小吉を主人公とした『父子(おやこ)鷹』('55-'56年発表、'64年/新潮文庫(上・下)、後に講談社文庫)などで第10回(1962年)「菊池寛賞」を受賞)、司馬遼太郎と同じく新聞記者出身であるこの人の文章は、司馬作品とはまた異なる淡々としたテンポがあり、読み進むにつれて勝海舟の偉大さがじわじわと伝わってくる感じで、坂本竜馬や西郷隆盛といった維新のスター達も、結局は勝海舟の掌の上で走り回っていたのではないかという思いにさせられます(文庫本で3,000ページ以上あるので、なかなか読み直す機会が無いが...)。

新選組始末記 昭和3年8月 萬里閣書房.jpg 一方この『新選組始末記』は、1928(昭和3)年刊行の子母澤寛の初出版作品で、子母澤寛が東京日日新聞(毎日新聞)の社会部記者時代に特集記事のために新選組について調べたものがベースになっており、子母澤寛自身も"巷説漫談或いは史実"を書いたと述べているように、〈小説〉というより〈記録〉に近いスタイルです。とりわけ、そのころまだ存命していた新選組関係者を丹念に取材しており、その抑制された聞き書きの文体には、かえって生々しさがあったりもします。

『新選組始末記』 萬里閣書房 (昭和3年8月)

1新選組血風録.png司馬遼太郎2.jpg 子母澤寛はその後、『新選組遺聞』、『新選組物語』を書き、いわゆる「新選組三部作」といわれるこれらの作品は、司馬遼太郎など多くの作家の参考文献となります(司馬遼太郎は、子母澤寛本人に予め断った上で「新選組三部作」からネタを抽出し、独自の創作を加えて『新選組血風録』('64年/中央公論新社)を書いた)。

 子母澤寛は「歴史を書くつもりなどはない」とも本書緒言で述べていて、そこには「体験者によって語られる歴史」というもうひとつの歴史観があるようにも思うのですが、後に本書の中に自らの創作が少なからず含まれていることを明かしています。

浅田次郎.jpg壬生義士伝.jpg壬生義士伝m.jpg 近年では浅田次郎氏が『壬生義士伝(上・下)』('00年/文藝春秋)で『新選組物語』の吉村貫一郎の話をさらに膨らませて書いていますが(この小説は 滝田洋二郎監督、中井貴一主演で映画化された)、『新選組物語』にある吉村貫一郎の最期が子母澤寛の創作であるとすれば、浅田次郎は"二重加工"していることになるのではないかと...。

 浅田次郎氏は「新選組三部作」に創作が含まれていることを知ってかえって自由な気持ちになったと述べていますが、それはそれでいいとして、むしろ、『壬生義士伝』において浅田氏が「新選組三部作」から得た最大の着想は、この「聞き書き」というスタイルだったのではないかと、両著を読み比べて思った次第です。

 【1969年文庫化[角川文庫]/1977年再文庫化[中公文庫]/2013年再文庫化[新人物文庫]】

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ピカレスク・ロマン或いはサクセス・ストーリーとして楽しめる"小説"になっている『花の嵐』。

花の嵐―小説・小佐野賢治〈上〉.jpg花の嵐―小説・小佐野賢治〈下〉.jpg花の嵐 小説小佐野賢治 上.jpg 花の嵐 小説小佐野賢治下.jpg  女教師 清水一行 カッパ・ノベルズ.jpg
『花の嵐 小説・小佐野賢治 (上・下)』(朝日新聞社)/『花の嵐―小説小佐野賢治〈上〉』『花の嵐―小説・小佐野賢治〈下〉』光文社文庫/『女教師―長編推理小説 (カッパ・ノベルス)

清水一行.jpg小説兜町(しま).jpg 高杉良、城山三郎と並び、日本における経済小説の第一人者として知られる清水一行(1931-2010)ですが、'59年に『総会屋錦城』で直木賞を取った城山三郎、'75年に『虚構の城』でデビューした高杉良に対し、清水一行は'66年に『小説 兜町(しま)』で作家デビューしており、デビュー期で言えば、城山三郎と高杉良の間になります。
 また、評論家の佐高信は、高杉良、城山三郎を「向日派」とし、清水一行を「暗部派」としていますが、前向きで夢を感じさせる主人公が登場して読後感も爽やかなものが多い高杉作品などに比べると、確かに清水一行の作品はドロドロした経済や社会の暗部を抉ったものが多い。

花の嵐 (上) 小説 小佐野賢治.jpg 本書も政商・小佐野賢治(1917-1986)を扱ったものであるから、当然のことながらドロドロして暗いのかと思いきや、ピカレスク・ロマンとして、或いはサクセス・ストーリーとして楽しめる"小説"に仕上がっていました(ロッキード事件に連座する前で話は終わっている)。

 箱根・強羅ホテルの買い取り依頼に応じたことで東急の総帥・五島慶太から寵愛され、東急からバス事業を譲り受けたことが成功への足掛かりになっていますが、その後、弁護士・正木亮の紹介で田中角栄と知り合い、一方で児玉誉士夫らとも交わり、財界の裏道を歩んでいく―。もともと政治家には関心が無かったようですが、「農家出の無学歴」コンプレックスという点で田中角栄と合い通じ、"刎頚の交わり"となったようです。

花の嵐〈上〉 (角川文庫)

小佐野賢治.jpg ガソリン横流しでGHQに逮捕されたにもかかわらず、投獄期間中に看守を騙して外出し芸者遊びをした話など、ニヤリとさせられる"悪漢"ぶりで、作者の小佐野に対する愛着が感じられる一方、こんなに好人物に描いちゃっていいのかなあという気も。

 ただし、経営不振の会社を社員のクビを切ることなく次々と再建したというのは、やはり並々ならぬ手腕だと思うし、コワモテのイメージがあり、面の皮も厚そうだけれども(ロッキード事件(1976年)の証人喚問で小佐野が何度も口にした「記憶にございません」はその年の流行語となった)、小佐野の近くで接した人によれば、あまり感情を表に表さない紳士然とした人物だったそうです。
   
モアナ・サーフライダー/シェラトン・ワイキキとロイヤル・ハワイアン
モアナ・サーフライダー.jpgシェラトン・ワイキキ(左)とロイヤル・ハワイアン(右).jpg バス会社だった国際興業は、ハワイのロイヤル・ハワイアン、モアナ・サーフライダー、シェラトン・プリンセス・カイウラニ、シェラトン・ワイキキといった名門ホテルを買収し、小佐野はハワイの「ホテル王」と呼ばれるようになって、更に自身が夢見た帝国ホテルの買収も果たしましたが、その後バブルが崩壊し、彼が社主だった国際興業は外資の傘下に入っています(従って帝国ホテルも現時点['06年時点]では外資の傘下となっている)。

『女教師』(カッパ・ノベルス).jpg 因みに、清水一行の作品では、『女教師』('77年/カッパ・ノベルス)という小説があり、ストーリーは、若い音楽教師が中学校内で暴行され、3年生の不良グループの生徒が犯人と思われたが、事を荒立てたくない校長はじめ学校側はもみ消しをはかり、女教師が生徒を誘惑したのだという流言飛語まで流されたため女教師は失踪、そんな中、主犯格と思われる生徒が誘拐され、更に教師が殺害される―というもの。

女教師 (角川文庫,200_.jpg清水一行・『女教師』.jpg女教師 清水一行 tokuma.jpg この通り、推理サスペンスであるわけですが、校内暴力や教職員の不正と、それに対し何も手を打たない学校―といった教育現場の荒廃を鋭く抉っており、いつの時代にも通じる社会的テーマを背景としています。「いつの時代にも通じる」というのは残念な事実でもありますが、この作品はそうした意味も含め、佳作であると思います。
女教師 (集英社文庫)』(1984)/『女教師 (徳間文庫)(2007)
女教師 (角川文庫 緑 463-7)』(1980)

田中 登(1937-2006/享年69)
田中登.jpg女教師 ポスター.jpg この作品は映画化され、先月['06年10月]動脈瘤解離のため急逝した田中登が監督し、脚本は中島丈博、主演は永島暎子(1978年のエランドール賞新人賞を受賞)。日活ロマンポルノの一作品として作られたためか、一応テーマは原作に沿おうとしてはいるものの(基本的には学校や社会の体制を批判した真面目な作品だった)、登場人物などの改変が激しく、ロマンポルノの一環としてこの作品を撮るのはどうかという気もしました。名画座で併映の「赫い髪の女」は、中上健次の原作ながら愛欲がテーマ古尾谷雅人 .jpgだからロマンポルノでもいいのだけれど...。但し、映画はヒットし、第9作まで作られました(風営法の強化改正で、「女教師」という言葉がポルノ映画のタイトルに使えなくなったため、シリーズを終わらざるを得なかったらしい)。自殺した古尾谷雅人の映画デビュー作であり、泉谷しげる作詞・作曲の「春夏秋冬」が劇中で使われています。

古尾谷康雅(雅人)(1963‐2003/享年45)(江川秀雄(中学三年生))/永島暎子(田路節子(音楽教師))/砂塚英夫(瀬戸山貢(国語・社会科教師))/[下]久米明(校長・神野謙三)
女教師 1977.jpg田中登「女教師」_4.jpg「女教師」.jpg「女教師」●制作年:1977年●監督:田中登●製作:岡田裕●脚本:中島丈博●撮影:前田米造●音楽:中村栄●原作:清水一行●時間:100分●出演:永島暎子/砂塚久米明 女教師.jpg英夫/山田吾一/鶴岡修/宮井えりな/久米明/穂積隆信/蟹江敬三/樹木希林/古尾谷康雅 (古尾谷雅人)/絵沢萠子/福田勝洋●公開:1977/10●配給:日活●最初に観た場所:銀座並木座 (評価:★★★)●併映:「赫い髪の女」(神代辰巳)

蟹江敬三(教職員組合分会長・小林悟)/永島暎子/樹木希林(教職員組合役員・横山百合子)
42女教師.png

『花の嵐』...【1993年文庫化[角川文庫(上・下)]/1994年再文庫化[朝日文庫(上・下)]/1999年再文庫化[光文社文庫(上・下)]】『女教師』...【1980年文庫化[角川文庫]/1984年再文庫化[集英社文庫]/2007年再文庫化[徳間文庫]】

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フジ子・ヘミングを想起せざるを...。優れた芸術とは何かという課題を提示している。

讃歌.jpg 『讃歌』 (2006/01 朝日新聞社)

 テレビ番組制作会社の小野は、クラシック専門のレコード会社社長の熊谷からの情報で、柳原園子という50歳近いヴィオラ奏者の演奏を聴き、クラシックに造詣がないにも関わらず、その演奏に感動する。
 園子は、かつて天才少女ヴァイオリニストと謳われながら、留学先で自殺未遂に至り、その後遺症で寝たきりの生活を送ったあと、大物指揮・佐藤の助言を得てヴィオラに転向、20数年ぶりに復活し、ただし佐藤門下らが占める楽団に加わることなく、教会や公民館のミニ・コンサートで、口コミでファンを増やしていた―、こうした彼女の軌跡を、小野はドキュメンタリー番組にしようと考える。

NHK ビデオ フジコ ~あるピアニストの軌跡~.jpg 番組は実現して大好評を博し、園子は一躍ブームに乗るが...、とここまで来て思い当たるのが、NHKの『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』('99年)でブレイクした「フジ子・ヘミング」で、フジ子はかつて、左耳の聴力を喪失しましたが、その後部分的に回復し帰国、カムバックしたというというところなども似ています。

 しかし何よりも似ているのは、多くの人を感動させる園子の演奏が、音楽評論家や一定水準の英才音楽教育の経験者にとっては、技術的に優れているとは認め難いものであるという点で、フジ子・ヘミングについても、「天才」ではなく「タレント」に過ぎないという評価を聞いたことがあります。

涙の河をふり返れ.jpg 著者は自らの著作のジャンルを特に規定することはしないようで、この作品でも、前半、メディアを通してスターがどのように作られるかが、かつての五木寛之涙の河をふり返れ」('70年/文藝春秋)みたく現場の雰囲気とともに伝わってきて、音楽は作者の得意分野とは言え、よく取材しているなあと(五木寛之は業界出身だけど、篠田節子は元公務員)、ある種、五木が自身の作品を指して言うところの"通俗小説"かと思いきや、後半はメディアに抹殺されるような運命を辿る彼女を、熊谷との絡みでミステリとして描いていました(筋立てはまあまあといったところ)。

 作中の園子の演奏技術にはどこか"演歌"っぽいところがあるようですが、フジ子・ヘミングの演奏についても西洋の奏者にはない微妙な震えのようなものがあるとか。
 何よりも、その人物のバックグランド(人生)が先入観となって、より感動してしまうという点でも、フジ子・ヘミングの人気にも共通するものがあるような気がします。
 解かれたミステリとは別に、優れた芸術とは何かという未解決の課題を提示している小説であると思いました。

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実は最初から大人向きの話。物語化を表明することで、「甘さ」に対し"断り書き"している?

重松 清 『きみの友だち』.jpgきみの友だち.jpg  映画『きみの友だち』.jpg
きみの友だち』['05年/新潮社] 2008年映画化(監督: 廣木隆一/出演:石橋杏奈・北浦愛・吉高由里子)
きみの友だち (新潮文庫)』['08年]
新潮文庫2009年限定カバー版
重松 清 『きみの友だち』.jpg 小学5年の恵美が松葉杖を手放せないのは、前年に交通事故に遭い左足の自由を失ったからで、事故の誘引となった級友たちに当り散らすうちに、友だちも失ってしまっていた。そんな恵美があるきっかけで、病弱のため入院生活の長かった由香という同級生と「友だち」になっていく―というのが第1話「あいあい傘」。

 第2話「ねじれの位置」は、恵美と少し年の離れた弟ブンちゃんが小学5年の時の話で、勉強も運動もクラス一番だった彼だったが、モトくんという転校生が来てからクラスのヒーローの座を脅かされるようになり、最初反目していた2人だが、やがて「友だち」になっていくという話。

 恵美とブンちゃんの姉弟を軸に、小学校高学年から中学にかけての2人とその級友を、「○○ちゃん、きみの話をしよう」というスタイルで10ばかり取り上げた連作短篇ですが、「友だちって何だろう」と考えさせられ、特に、第10話の「花いちもんめ」は、「生涯の友だちとは」というテーマにかかっていて泣けました。
 でも小説としては、第1話と第2話が、学級内の人間関係のダイナミズムや、少年少女の感受性と自意識をリアルに描いていて、それでいて読後感が爽やかで良くできていると思いました。

 概ねどの話も読後感は爽やかで、当事者(小中学生)が読むとしたら、スイートに仕上げ過ぎではという感じも若干はしましたが、「○○ちゃん、きみの話をしよう」というスタイルにつられて、児童文学を大人が読んでいるような気にさせられるけれども、実は最初から「大人向き」だったといことかも。
 むしろ大人の方が、「あの頃の友だちって何だったんだろう」というノスタルジックな思いで同化しやすいのではないかと...(過去の思い出は美化される?)。

 最後の第11話で、この一連の物語の語り手がどういった人物なのかが明かされ、それでかえってシラけた読者もいたかもしれませんが、ある種の入籠(いれこ)形式にすることで、「物語」化したものであることを表明しているように思え、それが「甘さ」に対する"中和装置"乃至は"断り書き"になっているという気がしました。
 
 【2008年文庫化[新潮文庫]】

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こんなパターンに嵌まりたくないなあという気持ちにさせる要素も含んでいるのでは...。

定年ゴジラ.jpg定年ゴジラ』(1998/03 講談社) 定年ゴジラ 文庫.jpg定年ゴジラ (講談社文庫)』['01年]

 開発から30年を経た東京郊外のニュータウンで定年を迎えた山崎さんは、ウチに自分の居場所が無くて途方に暮れる日々を送っているが、朝の散歩を通じて、"定年後"生活の先輩である町内会長や、転勤族だった野村さん、ニュータウンの開発を担当した藤田さんと知り合う―。
 自分の居場所を見出そうとする"定年"男たち4人の哀歓を、著者が温かい眼差しで描いているという感じで、読後感も悪くありませんが、ちょっといい話すぎる感じも。

 この4人は何れも、"勤め人"時代に一戸建てをニュータウンのこの地に入手し、そのニュータウンは、社会からドロップアウトした山崎さんの同級生が作中で言うように、"勝った者"だけが住める街だったのかも知れません。
 またそれは、本人が"がんばった結果"でもあるのだろうけれども、郷里の母親を邪険に扱ったことが山崎さんのトラウマになっているように、仕事のために犠牲にしてきたものもあるのでしょう。

 そして定年後も、ウチに自分の居場所は無く、山崎さんの娘は不倫をしたりしていて、そのことに対しては山崎さんは父親の威厳を示さねばならず、なかなかたいへんだなあという感じ。
 ただし、人物造詣がややパターン化され過ぎていて、いつかホームドラマでみた感じというか、"戯画的"な感じがしました(実際、この作品は漫画になっている)。

 個人的にこの作品で最も評価したいのは、〈ニュータウン〉も人間同様に老いるということを、人の営みや老いとの相互関係において描出している点で、ただしこうした図式になると、個々の人物描写もある程度その流れに沿った図式的なサンプルにならざるを得ないのかなという気もしました(マンション調査の学生が使った「サンプル」という言葉に怒る野村さん、というのが作中にありましたが)。
 
 中高年男性だけでなく若い読者にも、「お父さんの気持ちが初めてわかったような気がした」と評価の高かった作品ですが、こんなパターンに嵌まりたくないなあという気持ちにさせる要素も結構含んでいるのではないかと...。そうしたこともあって、一部の中高年からは反発もあったようです。

 この作品は作者初の連載小説で、直木賞候補になりましたが受賞には至らず、選考委員の渡辺淳一氏は、「老年の人物像にリアリティがない。自分が体験したことのない年代を書くことは、余程のことがないかぎり、危険である」としています(作者は36歳ぐらいでこの作品を書いている)。しかしながら、同じく選考委員の五木寛之氏が「いずれ必ず受賞して一家をなす才能だと信じている」と述べたように、作者は後に『ビタミンF』('00年/新潮社)で直木賞を受賞しています

 また、この作品は、'01年にNHK-BS2にてテレビドラマ化されギャラクシー選奨を受賞しています(脚本:田渕久美子、主演:長塚京三/下:「中日新聞」1999年10月18日夕刊)。

定年ゴジラ 長塚.jpg

 【2001年文庫化[講談社文庫]】

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何となく癒される不思議さがある「何も起こらない」小説。

佐伯一麦『鉄塔家族』.jpg 鉄塔家族.jpg 佐伯 一麦 『鉄塔家族』.jpg 鉄塔家族 上.jpg 鉄塔家族 下.jpg
鉄塔家族』(2004/06 日本経済新聞社)装幀:柄澤 齊  『鉄塔家族 上 (朝日文庫)』『鉄塔家族 下 (朝日文庫)

 2004(平成16)年度・第31回「大佛次郎賞」受賞作。 

 東北のある地方都市に建設中の鉄塔の近くに住む小説家と草木染織家の夫婦と、同じくその鉄塔周辺に暮らす人々の日々を淡々と綴った長編私小説です。 
 終盤に主人公と前に別れた妻の中学生になる子供のことで一悶着ありますが、全体として筋立で引き込むような波乱はありません。 
 500ページを超える長編で、普通ならば退屈して読みとばしかねないところですが、この本で描かれている自然と人々の日常の細密な描写には、できるだけその中の世界に長く留まってそれを味わっていたいと思わせる不思議な快さがあります。 

 ちょっとした近所同士の交流や、四季折々の草花の描写が丁寧で温かみがあり、また主人公と染織家の妻をはじめ、近所に住む市井の人々の「今」の様子を通して、それぞれの「過去」が透かし彫りのように静かに浮かび上がってきます。

 読んでいる間も読後も"癒し"のようなものを感じましたが、こうした小説が書ける作家というのは、自身が一度ドーンと落ち込んで暗いトンネルをくぐり抜けてきたのでしょうか。 
 主人公が「生きる」ことについてリハビリしているような印象も受けましたが、読み進むにつれ、作家の書くことを通しての「生きる」ことへの強い意志を感じました。
 
 この小説は新聞連載されたもので、新聞連載中には作者は、原稿を毎日1回分ずつ書いていったそうですが、そうした丁寧さが感じられ、時の流れに人生の哀歓をじんわり滲み込ませつつ、自然との交感を通して、ささやかではあるが確かで深い世界をつくっているように思えます。

 この小説が連載されたのは日本経済新聞(夕刊)ですが、ビジネスパーソンには"癒し"が必要なのだろうか?

 【2007年文庫化[朝日文庫(上・下)]】

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「●映画」の インデックッスへ 「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(小林信彦)

著者の「週刊文春」連載エッセイのスタート年の分。この頃の方が良かったかも。

人生は五十一から 単行本.gif         人生は五十一から.jpg    小林信彦.jpg 小林 信彦 氏    
人生は五十一から』 ['99年]  『人生は五十一から (文春文庫)』 〔'02年〕 (カバー装画:小林泰彦)

 先月['06年10月]に「菊池寛賞」の受賞が決まった著者ですが、受賞理由は「純文学、エンターテイメント、評伝、映画研究、コラムなど多方面にわたってすぐれた作品を発表し、その文業の円熟と変わらぬ実験精神によって『うらなり』を完成させた。」とのことです。因みに『うらなり』は、夏目漱石の『坊つちやん』の登場人物の英語教師「うらなり」を語り手にして夏目漱石の小説の後日談を書くというある種実験小説だそうです。

 その著者の「週刊文春」に連載のエッセイが「本音を申せば」というタイトルでリニューアルされる前の連載「人生は五十一から」は、'98年1月1日号からスタートし、'02年掲載分まで1年ごとにまとめて6冊の単行本シリーズとなっていますが(すべて文庫化もされている)、本書はその1年目('98年)分をまとめたものです。

 「人生は五十一から」とは自分を励ますつもりでつけたタイトルだそうですが、著者は'32年生まれで、連載開始時点で既に65歳だったということに改めて気づいた次第(エンタツ・アチャコの主演映画「人生は六十一から」('41年/東宝= 吉本映画)をもじったものであるとも思われ、映画通らしいネーミング)。

 サッカーW杯('98年フランス大会)の熱狂報道を第二次世界大戦中の新聞報道になぞらえるなどは、疎開を経験した戦中派ならではの視点で、世相や言葉の乱れに対する批判は、"山本夏彦"を彷彿させますが(このころの著者にはやや憂鬱傾向も感じられる)、65歳だったんだなあ、となんだかしっくりきてしまいました。

 「本音を申せば」などはかなり広く時事問題や政治問題を取り上げていますが、拡げすぎてピントがぼやけている感じもするのに対し、このころは、映画・演劇・テレビ・ラジオなど著者の専門領域の話題が多く、ジャンル的な偏りはあるものの、今より舌鋒が鋭いのではという気がします(最近の「本音を申せば」は、また映画の話題の比重が高くなった。個人的にはその方がいい)。

 シリーズ全体として安定感はあるものの、後の方にいくと少しトンチンカンな政治的発言も出てくるのは、政治は先を読むのが難しいから仕方ないのかも。但し、「人生は五十一から」シリーズの中でどれか1年分を読むならば、先ずこの1冊ではないでしょうか。

ユージュアル・サスペクツ.jpg 映画ファンには、映画ネタが多い分、楽しめます。「隠し砦の三悪人」が「スター・ウォーズ」に与えた影響を指摘したのもこの人ですが(ジョージ・ルーカスが後に「隠し砦の三悪人」を参考にしたことを認めた)、本書にある「ユージュアル・サスペクツ」で登場人物が口にする虚偽を映像にしているのはアンフェアであるという議論も、発端はこの人なのかなあ。個人的には、「ユージュアル・サスペクツ」という映画を評価するに際してかなり影響を受けた議論でした。

 因みに、「週刊文春」の長期連載ということでいうと、'83年8月4日号よりスタートした林真理子氏の「夜ふけのなわとび」が20年以上続いており、最も長いものとなっています。

 【2002年文庫化[文春文庫]】

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著者ならでは着眼点。現場の雰囲気が伝わるものの、小説としては...。

日本国債 上.jpg 日本国債下.jpg日本国債〈上〉〈下〉代行返上.jpg 『代行返上 (小学館文庫)

 国債の入札において、銀行や証券会社などの応札が足りなくなる、所謂「未達」という、日本経済の危機を象徴するような事態を描いた近未来経済小説。
 外資系金融機関で円債のトレーダーをしていたという著者ならでは着眼点で、国債の入札がどんな風に行われているかなどが、ディーリングの現場の雰囲気と併せて伝わってきて、参考になりました。

 ミステリや中年キャリアのラブロマンス的要素も入っていますが、その部分ではかなり物足りない感じがします。 
 キャリアウーマンの行動や心理の描写は、例えばパトリシア・コーンウェルの「検屍官」シリーズとか読んでしまうと、こっちは少女コミックのレベルに見えます。 
 これは、この作家の本書以降の作品にも見られる弱点かもしれないと...。
 つまり、経済や金融の専門的なテーマを扱うために、個々の人物の方がむしろ「背景」みたいになってしまって類型化するというパターンで、ビジネス書として読む分にはこれでもいいのかも知れませんが、一応小説なので、もう少し何とかしてほしい気もします。
 
 同じ著者の『代行返上』('04年/小学館)も、厚生年金基金の"代行返上"問題を扱っていて、テーマとして関心はあったものの、登場人物の描き方にさらに薄っぺらな感じがしました。

 本書は'00年11月の出版ですが、'02年9月の10年物国債の入札で、「未達」という事態があっさり起きてしまったことは周知の通りです。 
 でも、関係機関はともかく一般には、この小説ほどの大事態というふうには受け止められなかったのではないでしょうか。
 財務省も「交通事故みたいなもの」と言って平静を装っていましたが、さすがに「シンジケート団」を中心とする従来の限定された入札参加状況には問題を感じたのか、'03年から個人向け国債を売り出しました。

 【2003年文庫化[講談社文庫(上・下)]/2007年再文庫化[小学館文庫(上・下)]】

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漱石門下だった文人・内田百閒を身近なものに感じさせてくれる本。

百間先生月を踏む.jpg   久世光彦.jpg 久世光彦(1935-2006/享年70) ツィゴイネルワイゼン .jpg
百閒先生 月を踏む』 ['06年/朝日新聞社]  鈴木清順 監督(原作:内田百閒)「ツィゴイネルワイゼン」

 久世光彦(1935‐2006)の最後の長編小説(未完)で、内田百閒への著者の想いがひしひしと感じられます。
 係累を絶ち小田原でのうたた寝ばかりしていうような生活の中、時に近所の寺の和尚や作家風の人物と語らい、またその合間に幻想的な短篇小説を書いている百閒先生を、その世話役である小坊主・果林の目から描いています。

 百閒のちょっととぼけた人柄や、自らが見た夢を織り込む創作の秘密が窺えて楽しく、そうして出来上がった作品が章ごとに出てきますが、これらは実は久世氏の手によるもので、その意味ではかなり実験的な試みです。
 『女神(じょしん) 』('03年/新潮社)で大岡昇平の『花影』の向こうを張って同じモデル(坂本睦子)に肉薄しながらも、敢えてドラマ的要素をふんだんに盛り込んだスタイルの発展形を、この作品に見た思いがしました。

 ただし個人的にはこの小説は、地の文の方が良く感じられ、果林を通して百閒先生の実作に解説や突っ込みを入れているのが楽しいけれど、作中小説は「金魚鉢」などは何とか百閒小説という感じがしますが、他は修辞を凝らしすぎているものが多い気もし、作中作にまで蘊蓄を持ち込んでいるのもどうかなという気がしました。

ツィゴイネルワイゼン9.jpgツィゴイネルワイゼン.jpg 坪内祐三氏の解説が興味深く、百閒が住んだことのないはずの小田原を舞台にしている理由の1つに、鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」('80年/シネマ・プラセット)のイメージが久世氏にあったのではないかとしています(確かに映画の中に砂浜のシーンがあった)。

ツィゴイネルワイゼン1.jpg 「ツィゴイネルワイゼン」は黒澤明監督の「影武者」('80年/東宝)を押さえてその年のキネ旬ベストワンを獲得した作品ですが、実際いい映画でした。大楠道代が「桃はツィゴイネルワイゼン2.jpg腐りかけているときがおいしいの」と言いながら、水蜜桃を舌で妖しく舐めまわすシーンが印象的であり、またこの映画に漂う死のイメージを象徴していた場面でもありました。
ツィゴイネルワイゼン チラシ.bmp
0坪内y.jpg 『百閒先生 月を踏む』の時代設定は、雑誌連載時は昭和25年(百閒61歳)となっていて、この中に映画「ツィゴイネルワイゼン」の原作である小説「サラサーテの盤」を着想する場面もありますが、実際には昭和23年に「サラサーテの盤」は発表されていて、これを作者の「生前の意向」を受け解説を担当した坪内氏は、昭和10年生まれの久世氏が15歳の果林に自分を重ねたとき、逆算的に昭和25年にならざるを得なかったとしています。ところが、同じく作者の「生前の意向」を受けたという編集部が、(その意向により)単行本で昭和22年(百閒58歳)という設定に直したのだと言っていて、このあたりは、作者の急逝による混乱を窺わせます(もし編集者の言うのが事実ならば、熱弁をふるった坪内氏が気の毒)。

 細部での齟齬はありますが、漱石門下生でありながら昭和の高度経済成長期まで生きた文人を、ごく身近な存在として感じさせてくれる本という意味ではいいのではないでしょうか。
 
ツィゴイネルワイゼン 原田.jpgツィゴイネルワイゼン3.jpg「ツィゴイネルワイゼン」●制作年:1980年●監督:鈴木清順●製作:荒戸源次郎●脚本:田中陽造●撮藤田敏八  .jpg影:永塚一栄●音楽:河内紀●原作:内田百閒 (「サラサーテの盤」(ノンクレジット))●時間:144分●出演:原田芳雄大谷直子/大楠道代/藤田敏八/真喜志きさ子/麿赤児/山谷初男/玉川伊佐男/樹木希林/佐々木すみ江/木村有希/玉寄ツィゴイネルワイゼン 日劇文化.jpg長政/夢村四郎/江の島ルビ/中沢青六/相倉久人●公開:1980/04●配給:シネマ・プラセット●最初に観た場所:有日劇文化入口.jpg日劇文化.jpg楽町・日劇文化(81-02-09)(評価:★★★★)  日劇文化(1935年12月30日、日劇ビル地下にオープン、1955年8月12日改装。ATG映画専門上映館。1981(昭和56)年2月22日閉館)のラストショー上映作品「ツィゴイネルワイゼン」

ツィゴイネルワイゼン5.jpg藤田敏八に演技をつける鈴木清順監督ツィゴイネルワイゼン6.jpg  

【2009年文庫化[朝日文庫]】

「●き 桐野 夏生」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1131】 桐野 夏生 『魂萌え!

均質社会の中に在る小さな差異を絶対化する"グロテスク"な構造。

グロテスク.jpgグロテスク』 文藝春秋 〔'03年〕 グロテスク 上.jpg グロテスク下.jpg 文春文庫 (上・下) 〔'06年〕

 2003(平成15)年度・第31回「泉鏡花文学賞」受賞作。 

 渋谷界隈で殺された30代後半の2人の娼婦ユリコと和恵をめぐり、ユリコの姉であり、和恵と名門Q女子高で同じクラスだった「わたし」によって語られる2人の学校生活―。

 人に負けてはならないという強迫観念のもと〈学力〉でQ女子高に入った和恵と、ハーフならではの超絶した〈美貌〉を以って帰国子女枠で編入したユリコが、右回り左回りの違いがありながら同じような結末に辿り着くのが皮肉で、そこに介在する、妹と同じハーフでありながら美しくない姉である「わたし」の悪意にリアリティがあり、怖かったです。

 天性の娼婦としてのユリコ、昼は一流企業に勤めながら夜は街娼になる和恵(「東電OL殺人事件」がモチーフ)、という2人の女性が「妖怪」化していく様が、彼女たち自身の手記などで明らかになっていきますが、徹底的に2人の淪落を描く著者の筆致を通して、純粋に何かを希求して生きた2人であったのではないかと思わせるところが切なく、作者のうまさでもあると思います。

 むしろ、一貫教育の一流女子高内の家柄、容貌、学力といった複数軸のヒエラルキーの中で、「金持ちである」という差異を絶対化するために、差異を乗り越えようとする者を籠絡し嘲笑するようなイジメ構造が一番〈グロテスク〉なのかも。
 そうした争いから超越するために絶対的な〈学力〉を身につけたミツルという少女も、東大医学部に進んだ後に新興宗教(オウムがモデル)に嵌り、「わたし」自身の意外な結末も含め、主要な登場人物で所謂"世間的に幸せ"になる人は誰もいません。

 ユリコと和恵をともに殺害したと思われるチャンは、中国の農村から都市部へ流れてきた「盲流」と呼ばれる人たちの1人で、彼の話は中国の地域格差を如実に物語って女子高内の経済格差など吹き飛ばすほどのものですが、この話を挿入したことが構成的に良かったのかどうかは意見の割れるところだと思います。

 また、「わたし」だけでなく、ユリコ、チャン、和恵の手記が挿入されていることで、ミステリとしては「藪の中」構造になっていますが、百合雄という盲目の美少年が登場する結末部も含め、必ずしも精緻な構成とは言えない気もします。
 しかし、女子高内の僅かの差異を絶対化する構造を人間心理の側から描いて、均質に見える社会の中に在る「競争社会」および「競争」することを植えつけられた人々というものを描いた点では傑作だと思います。

 【2006年文庫化[文春文庫(上・下)]】

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「●「直木賞」受賞作」の インデックッスへ

失踪した子を探す母と末期がんの男。ミステリと言うより、生きることの希望と絶望を描いた重厚な人間ドラマ。

柔らかな頬.jpg 『柔らかな頬』(1999/04 講談社) 柔らかな頬 上.jpg 柔らかな頬下.jpg 文春文庫 (上・下)

 1999(平成11)年上半期・第121回「直木賞」受賞作。 

 夫の得意先会社の石山と不倫関係にあったカスミは、双方の家族で北海道の石山の別荘へ行った際にも彼と逢引きするが、その最中に5歳の娘が行方不明となる。
 それから4年、カスミの娘を探す日々は続いたが、娘はまるで神隠しにでも遭ったかのようにその行方が掴めない―。

 不倫と子供の失踪事件を経て崩壊していく2つの家庭、とりわけ主人公のカスミの不倫に溺れていく心理や、後悔に苛まれながら娘を探す心理がよく描けていると思います。
 カスミには北海道の寒村を家出して両親を捨てたという過去があり、失踪した娘を単独でも探そうとするところに、彼女の原罪意識が表れているともとれます。
 一方で、娘を探すことが彼女の生きがいになっているように思えるフシもあり、残された家族さえ捨てて娘の探索にあたる様は、故郷を捨てたときと同じく、ある種のエゴイスティックな行動をリフレインしているようにもとれるとところが微妙。

 それに対し男たちは、諦めムードの夫にしても離婚して無頼の生活を送る石山にしても、なしくずし的に現状に妥協しているように見えます。
 そうした中で、ガンで余命いくばくも無い内海という元刑事がカスミの捜査協力者として登場しますが、物語の後半は、カスミと内海の人生の意味を模索するロードムビーの様相を呈しているように思えました。
 内海の、迫り来る死を受け入れつつも事件解決への「野心」によって生を燃焼させようとする様は、これはこれで1つのエゴではないかという気もしました。
 だから、カスミも内海も、真相を知るために協力し合ってはいるが、自分のために生きているという点では、互いに融和し合っているわけではない。

 娘の失踪の謎を解く2人の「夢」の話も、本作品がミステリとしての結末を用意していないことを暗示しているように思え(著者自身は当初、最後のシーンで真犯人を書いていたが、編集担当者に「犯人を決めてしまって失うものは大きい。子供の不在という理不尽な出来事に対して、あれだけ幻視を書いたのだから」と言われて書き直したそうです)、生きていくことの希望と絶望を描いたシリアスな人間ドラマだに仕上がっていると思いました。

 【2004年文庫化[文春文庫(上・下)]】

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最初のうちは楽しく読めたが...。"ナンセンスもの"って意外と書くのが難しい?

どすこい(仮).jpgどすこい(仮)2.jpg   ベルリン忠臣蔵0.jpg ベルリン忠臣蔵 12.jpg
どすこい(仮)』('00年/集英社/装画:しりあがり寿/装丁:祖父江慎)「ベルリン忠臣蔵 [VHS]

 「力士」をネタに、それに関連づけて推理小説の有名作品ばかり7作を次々とパロディ化したアンソロジーで、全編ナンセンス・ギャグだらけ、ストーリー自体もハチャメチャです。
 "ナンセンスもの"を読むのは時間の無駄だと思っている人にはまずお薦めできないし、「京極堂シリーズ」とは対極にあるような "バカバカしさ"オンリーの作品なので、著者のファンの間でも評価は割れるかも。

 個人的には"ナンセンスもの"が嫌いではないので(気分転換になるし、ものによっては、イマジネーションを刺激される)、最初のうちは楽しく読みました。
 池宮彰一郎の『四十七人の刺客』や瀬名秀明の『パラサイト・イブ』のパロディは、相撲の決まり手の「四十八手」を「四十七士」や染色体数「46」を絡めて"落ち"にしているのが上手く、この後どう続くのかと期待させました。

 しかし、だんだん(最初から?)原作から離れてパロディとは言えないものばかりになり、編集者とのやりとりなど楽屋ネタが多くなって、最後は推理作家が集っての座談になってしまうという、モロ"身内ネタ"(この部分が面白いと思う読者もいるかも知れないですが)。

 「(仮)」って何かと思ったら、後に『どすこい(安)』という新書版と『どすこい。』という文庫版が出ていて、途中で多少の書き加えはあったものの、「。」は、これで打ち止めということらしいです。
 "ナンセンスもの"っていうのは多くの作家にとって、結構書いてみると難しいのかも知れないと思いました。

ベルリン忠臣蔵 3.jpgベルリン忠臣蔵1.jpg 因みに、個人的にこれまでに接した「四十七士」モノ(忠臣蔵)のパロディで、一番ぶっ飛んじゃっていると思ったのは、小説ではなく外国映画で、「ベルリン忠臣蔵」('85年/西独)というもの。
 ハンブルグ(ベルリンではない?)で権力者や金持ちばかり狙われる事件が次々起こりますが、それらの犯行は、大石内蔵助を名乗る男を首謀者とする日本人ギャング団で、犯行後に日本語で書かれた「近松」「木村」「赤植」といった謎の文字を残していく...彼等の目的はを探るため、女性事件記者が立ち上がるというストーリーです。
 「ワタシハオーイシクラノスケダ」と片言の日本語を操る大石蔵之助の正ベルリン忠臣蔵2.jpg体は、実は日本で柔道の修行したドイツ人で(なんだ、留学生みたいなものか。マスクをつけていても、見れば日本人でないことはすぐわかってしまうのだが)、最後には、日本からやってきた忍者と戦います(かなり強引な展開)。

ベルリン忠臣蔵 1.jpg 監督はすごく日本贔屓の人だそうですが、ストーリーも衣装も殺陣もメチャクチャなのに(しかも時折ヘン何な日本語が出てくる)、監督自身は大真面目、本気でヒーロー物を撮っているつもりみたいで、そのギャップで笑えるという珍品。

ベルリン忠臣蔵 中野武蔵野ホール ポスター.gif ロードの上映館は中野武蔵野ホール、カルトムービーとしかジャンル区分のしようがありませんが(そのカルト的価値をオマケしたうえで「評価不能」)、べルリンの壁が崩壊した際の記念番組としてNHK-BSで放映されました。NHKも何を間違ったのか...。

「ベルリン忠臣蔵」●原題:SUMMER OF SAMURAI●制作年:1985年●制作国:西ドイツ●監督:ハンス・クリストフ・ブルーメンベルグ●脚本:ウォルフガング・ディクマン●撮影:ヴィットリオ・ストラーロ●音楽:ヒューベルト・バルトローメ●時間:115分●出演:ベルリン忠臣蔵5.jpgヴォジェックス・プュショナック/ユルネリア・フロー中野武蔵野ホール内.jpg中野武蔵野ホール.jpgボッシュ/ハンス・ペーター・ハルヴァクス/トーヨー・タナカ●日本公開:1987/12●配給:ギャガ・コミュニケーションズ●最初に観た場所:中野武蔵野ホール (87-12-22)(評価:★★★?)ベルリン忠臣蔵 [VHS]
中野武蔵野ホール 1987年8月、中野駅北口方面「中野武蔵野館」跡地にオープン 2004(平成16)年5月7日閉館

 【2002年新書版[集英社ノベルズ(『どすこい(安)』)]/2004年文庫化[集英社文庫(『どすこい。』)]】

「●か 川上 弘美」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●か 川端 康成」【1371】 川端 康成 『伊豆の踊子
「●「谷崎潤一郎賞」受賞作」の 
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男女の人生における縁と交わり、そこにある機微を描いた佳作。

センセイの鞄2.jpgセンセイの鞄.jpgセンセイの鞄』(2001/06 平凡社)  センセイの鞄 ドラマ1.jpg
「センセイの鞄」(2003年2月/WOWOW)小泉今日子/柄本明

 2001(平成13)年度・第37回「谷崎潤一郎賞」受賞作。 

 38歳のOLの私と70代の元高校教師の「センセイ」は、私の高校卒業後は久しく顔を合わせることも無かったが、数年前に駅前の一杯飲み屋で隣り合わせて以来、ちょくちょく往来するようになった。私にとって元教師は「センセイ」と仮名書きするがぴったりくる感じであり、一方、彼は私を「ツキコさん」と呼ぶが、やがて私はセンセイに惹かれるようになっていく―。

 30歳以上も年齢差のある男女の話で、物語そのものにも引き込まれますが、現実と非現実の際(きわ)を描くような文章そのものが上手だなあと思いました。
 (この作者の特徴ですが)食べたり飲んだりの場面はふんだんかつ丹念に描かれ、一方、OLの「わたし」の仕事のことなどはほとんど書かれていない。
 老人であるセンセイに対する観察眼に温かみがあり(本来はもっと老人としての醜い面が見えるはずだが)、彼の過去もことさら暗く描くことはぜず、ワライタケを食べた元妻の話など、むしろユーモラスに描かれていたりする。
 そのほか、会話などの随所にも仄かなユーモアがあり、時に幻想的な、また時にメルヘンチックな雰囲気も漂う。

 こうした生活実感を消し去ったような表現上の計算の上に、毅然とした面と飄々とした面を併せ持つようなセンセイの人物造形が成り立っている感じがし、例えばセンセイが内田百閒の話を引用する場面がありますが、百閒は作者の好みの作家でしょう。「ツキコさん」から見たセンセイという描かれ方の中でこうした場面に出会うと、作家は今老人の中に入り込んだのかなと思ったりし、その分だけ「ツキコさん」をバランスよく対象化している感じがしました。

 本書を読んで「感涙した」とか「胸が詰まった」というような感想を聞きましたが、個人的にはそこまでの思い入れには至らず、どちらかと言うとほのぼのとした感じで、かと言って「大人のメルヘン」と呼ぶほどにメルヘンチックに流れているようにも思えませんでした(勝手にメルヘンチックに読む中高年男性はいるかも知れないが)。

センセイの鞄 ドラマ21.jpg むしろ、2人が恋愛していながら「恋愛」を演じようとし、その規範が自分たちに当てはまるかどうか確認しながら関係性を深めていくようなところが面白く、男女の人生における縁と交わり、そこにある機微を描いた佳作だと思いました。

「センセイの鞄」2003年2月単発ドラマ化(WOWOWW) 演出:久世光彦 主演:小泉今日子/柄本明


 【2004年文庫化[文春文庫]】

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道行きの男女にリアリティ。男性主導に見えて、実は女性主導?

溺レる2.jpg 『溺レる』 〔99年〕 溺レる.jpg 『溺レる (文春文庫)』  〔'02年〕

 2000年の「女流文学賞」と「伊藤整文学賞」をダブル受賞した、"川上ワールド炸裂"(?)の短篇集。

 所収8篇は何れも男女の逃避行、道行きがモチーフになっており、男女は何れも世間を捨てたような存在で、ともにパッとせず、年齢もソコソコいっています(男は妻子持ち、女は40歳前後という設定が多い)。
 それで今何に「溺れて」いるのかと言えば、まさに愛欲に溺れているに違いないけれども、その日常は、2人でお酒飲んで寿司だのおでんだの食べてばかりいて、そのときに交わされる会話などにお互いの距離感を測っている感じが窺える、そうしたところにかえって何かリアリティありました。

 〈メザキさん〉とか〈モウリさん〉とか〈ナカザワさん〉とか、出でくる男の何れも疲れた感じも似ていて、「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」なんてズルズル堕ちていく感じは、男性読者には一種の代償的カタルシスがあるかも知れないけれど、同じパターンで繰り返されるとちょっとしんどくなります。
 その中で、心中して死んだ女性の側から語られる「百年」や、共に永遠に死ねない道行きの男女という設定の「無明」などは、ちょっと面白い視点でした(漱石の「夢十夜」乃至は内田百閒の影響?)。

 男女の交情を描いてもドロドロとした感じがせず一定の透明感を保っているのが受けるのかもしれないけれど、男が女を従えているようで、実は女に囚われているようにも思え、「コマキさん、もう帰れないよ、きっと」と男に言わせているのが女の方ならば、これはこれで怖い構図だと思います。
蛇を踏む.jpg
 文章はやはり上手いなあ(『蛇を踏む』より上手くなっている)と思いますが、個人的にいまひとつ好きになれないのは、この怖さみたいなものが伝わってくるからなのかも。

 【2002年文庫化[文春文庫)]】

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村上春樹との初対談、多田富雄との免疫論議などが興味深かった。

こころの声を聴く.jpg 『こころの声を聴く―河合隼雄対話集 (新潮文庫)』 〔'97年〕 河合隼雄2.bmp

 河合隼雄と作家や詩人、学者たち10人との対談集ですが、対談相手が安部公房、谷川俊太郎、白洲正子、遠藤周作、富岡多恵子、多田富雄、村上春樹など錚錚たる顔ぶれで、密度が濃く、また充分に楽しめるものでもありました。

 両者どちらかの著作を取り上げて語り合っているものが多く、脚本家の山田太一とは『異人たちとの夏』('87年)、『遠くの声を捜して』('89年)などを取り上げファンタジーの可能性を論じ、安部公房とは、『カンガルー・ノート』('91年)を取り上げ「境界」について論じたりしていますが、河合氏の心理学者としての読み解きに作者の方が新たな気づきに至る部分もあり、なかなか面白かったです。

 ただし、安部氏はこの対談のあと間もなく不帰の人となり、『カンガルー・ノート』は彼の遺作となったほか、本書刊行の翌年には遠藤周作・沢村貞子も(共に'96年没)、そして、対談の中で青山二郎に対する大岡昇平の嫉妬をさらりと暴いていていた白洲正子も'98年末に亡くなっており、淋しい気がするとともに、貴重な対談記録でもあると思いました。

 村上春樹との対談は、'94年プリンストン大学にて公開の場で行われたかなり長めのものが収められていますが、これが両者の初顔合わせで、村上氏が独自の自我論を展開しているのに対し、河合氏はそれを精神分析の用語に置き換えていたりしており(このころの村上氏はユング心理学や精神分析などについてさほど造詣は無かったのではないか)、また村上氏が漱石の作品や自作の創作の秘密について語っているのは、河合氏ならずとも興味深いものです。

 個人的に一番面白かったのは、『免疫の意味論』('93年)の著者・多田富雄との対談で、多田氏は、自己と非自己を識別するT細胞をつくる「胸腺」の仕組みや、細胞が自殺する「アポプトーシス」についてわかりやすく解説し、経済活動や言語も一種の生命とみなすべきではないかと言っていますが、河合氏はそれらを集合的無意識とのアナロジーにおいて解しているように思えました。
 白洲正子氏も自らの随筆で、この対談〔初出は94年/雑誌「新潮」)を読んで極めて面白かったと書いていました(この時、白洲正子氏は84歳か。河合氏、多田氏とは「明恵」「能」つながりですが、それにしても凄い好奇心!)。

 【1997年文庫化[新潮文庫]】
 
こころの声を聴く 河合隼雄対話集.jpg《読書MEMO》
●魂のリアリズム(山田太一)
●境界を越えた世界(安部公房)
●常識・智恵・こころ(谷川俊太郎)
●魂には形がある(白洲正子)
●老いる幸福(沢村貞子)
●「王の挽歌」の底を流れるもの(遠藤周作)
●自己・エイズ・男と女(多田富雄)
●「性別という神話」について―「往復書簡」富岡多恵子・河合隼雄
●現代の物語とは何か(村上春樹)
●子供の成長、そして本(毛利子来)

こころの声を聴く―河合隼雄対話集』単行本

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女同士の友情の話。男性が読んでも、読んでよかったと思える作品。

対岸の彼女   .jpg対岸の彼女.jpg 対岸の彼女 英文版.jpg 対岸の彼女 wowwow.jpg 
対岸の彼女』['04年/文藝春秋]/『英文版 対岸の彼女 - Woman on the Other Shore』/WOWOW・ドラマW「対岸の彼女 [DVD]」['06年](財前直見/夏川結衣)

 2004(平成16)年下半期・第132回「直木賞」受賞作。2005(平成17)年・第2回「本屋大賞」第6位。 

 子育て中の主婦・小夜子は、子供の親同士との付き合いといった日常に厭(あ)き、小さな旅行会社に勤めに出るが、そこでの実際の仕事はハウスクリーニングだった。その会社の女社長・葵は、小夜子と年齢も出身大学も同じということもあって小夜子に好意的であり、「独身・子ナシ」の葵と「主婦」の小夜子とで立場は異なるが、2人は友人同士のような関係になっていく―。

 小夜子の視点から見た葵の姿という「現在の話」と平行して、今度は葵の視点から、葵の高校時代のナナコという同級生との友情物語が「過去の話」として語られていて、それぞれの女性同士の友情の成り行きがどうなるかということをシンクロさせていますが、読んでいて、相乗効果的に引き込まれました。

 高校時代のナナコと葵の逃避行の話が良くて、学校でイジメに遭ってもあっけらかんとしているナナコのキャラクターが際立っており、葵がナナコの心の闇を知った後の2人の別れが切ない。

 「現在の話」は、「勝ち犬」(主婦)と「負け犬」(独身・子ナシ)の間で友情は成り立つかという図式でも捉えることはできますが、「過去の話」でナナコとの出会いを通して成長していく葵が描かれている分、現在の小夜子が葵を通しては成長しているのがわかり、過去にメンティであった女性(葵)が今メンターの役割を担おうとしているという点に、"シンクロ効果"がよく出ています。
 
 物語は一筋縄では行かず、既婚・未婚という女性としての立場の違いの壁は厚くて、小夜子と葵の距離は縮まったり開いたりします。
 子供だったゆえに別れなければならなかった葵とナナコの2人に対し、大人になったことで果たして自分で女友達を選べるようになったのだろうかという現在の葵、小夜子2人に関わるテーマが、重層的な厚みを持って提示されているように思えました。

 女子高校での派閥や主婦同士の閉鎖的サークルがリアルに描かれていて、小夜子が勤めに出た職場でもその類似型が見られ、「女の敵は女」というふうにも見ることが出来る話を、読後感の爽やかなエンタテインメントに仕上げている力量はさすがで、運動会のビデオなどの小道具の使い方も生きているなあと思いました。
 
 技巧をこらしているのにそれが鼻につかないのがこの作品のうまさで、男性が読んでも元気づけられ、読んでよかったと思える作品ではないかと思います。

対岸の彼女 wowow1.jpg 対岸の彼女 wowow2.jpg
(左)財前直見/夏川結衣 (右)多部未華子/石田未来

対岸の彼女 dvd.jpg 今年['06年]1月にWOWOWのドラマWでテレビドラマ化され、現在の葵を財前直見、小夜子を夏川結衣、高校時代の葵を石田未来、その友人を多部未華子が演じ、芸術祭テレビ部門(ドラマの部)優秀賞、放送文化基金賞テレビドラマ番組賞を受賞しています(演出も悪くなかったが、やはり原作の力が大きい)。

対岸の彼女 [DVD]

「対岸の彼女」●監督:平山秀幸●脚本:山由美子/藤本匡介●原作:角田光代●出演:夏川結衣/財前直見/多部未華子/石田未来/堺雅人/根岸季衣/木村多江/香川照之●放映:2006/01(全1回)●放送局:WOWWOW

 【2007年文庫化[文春文庫]】

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「死」がより明確な時間的期限をもって示されるならば、死刑は殺人よりも残酷であるかも。

加賀 乙彦 『宣告 (上)』.jpg 加賀 乙彦 『宣告 (下)』.jpg 宣告 ((上)) (P+D BOOKS).jpg 宣告 ((中)) (P+D BOOKS)_.jpg 宣告 ((下)) (P+D BOOKS).jpg
宣告 上巻』『宣告 下巻』 ['79年/新潮社]宣告 ((上)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((中)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((下)) (P+D BOOKS)』['19年]
新潮文庫 (全3巻)
宣告1.jpg宣告2.jpg宣告.jpg 1979(昭和54)年・第11回「日本文学大賞」(新潮文芸振興会主催)受賞作。

 ドストエフスキーは『白痴』の中で、「死刑は殺人よりも残酷である」と主人公に言わせていますが、それは、死刑囚には予め自分が殺されることが100%わかっているからです。この小説は、独房の中での何時訪れるかわからない"その時"を待つ主人公を中心に描かれているため、感情移入せざるを得ず、読み進むにつれて読むのが辛くなりました。ラストがどうなるかは、主人公も読者もわかっているからです。

死刑囚の記録.jpg 著者による『死刑囚の記録』('80年/中公新書)を読むと、主人公のモデルとなった人をはじめ、宗教者の境地に達した死刑囚もいたようですが、被害妄想、ノイローゼ、ヒステリーといった病的症状や、「早く殺してくれ」といった刹那主義に陥るなどのケースの方が多く、それらの例もこの小説に多々反映されているように思いました。自分はまず主人公のようにはなれないと思いますし、そうすると、動物のように自分を後退させ、何らかの病理状態に"逃避"するということになるのだろうか...。                               
死刑囚の記録 (中公新書 (565))』 ['80年]

 ある意味「死刑は殺人よりも残酷である」という思いに、読めば(かなり高い確率で)駆られることになるヘビーな小説ですが、死刑と無期刑の差が受刑者にとっていかに大きかということも、当たり前のことですが改めて感じました。さらに、執行のその時には、世間に公表されることなく国家によって殺されていくことを思うと、死刑執行の"密室性"の問題などについても考えさせられます。

 現状日本には、無期刑というものはあるものの"終身刑"というものは無く、無期の場合、一定期間が経過すれば仮出獄となるようです(ただし"出所"ではなく"仮出獄"であり、死ぬまで保護観察下にある)。一方、死刑囚は100人以上いて、その多くが小菅の東京拘置所にいるのですが、死刑が確定してから長期の年月が経過している死刑囚も多いようです。   

 だからと言って、"死刑"が部分的に"終身刑"の役割も負っていると考えるのは、安易なのかもしれません。誰にどのような基準で実際に死刑が執行されるのか、共犯者の刑が確定しないと刑の執行はされないなどの基準はあるようですが、細かいことはよくわからないし、死刑囚ら自身にもわからないのではないか、それでは、そのことを明確するのがいいのかどうか、"100%"死ぬ(国家によって"殺される")ことがより明確な時間的期限をもって示されるのであれば、そのとき「死刑は殺人よりも残酷である」ということになるのかも知れません。

 【1982年文庫化・2003年改訂[新潮文庫(上・中・下)]/2019年[小学館・P+D BOOKS(上・中・下)]】

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「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(海音寺潮五郎)

生き生きと描かれるカリスマリーダー西郷。ただし大久保も肝っ玉人物。

西郷と大久保.jpg  『西郷と大久保』 新潮文庫 〔改版版〕 海音寺潮五郎.jpg 海音寺潮五郎 (1901‐1977/享年76)

『西郷と大久保』 (新潮文庫) 海音寺潮五郎.jpg 海音寺潮五郎(1901‐1977)による西郷隆盛の伝記では、小説『西郷隆盛―(上)天命の巻、(中)雲竜の巻、(下)王道の巻』(1969年-1977年/学習研究社、後に学研M文庫『敬天愛人 西郷隆盛』(全4巻))や史伝『西郷隆盛』(1964年-/朝日新聞社(全9巻)、後に朝日文庫(全14巻))がありますが、大部であるためになかなか読むのはたいへん(特に後者は専門研究者向けか。しかも作者の死により絶筆)。本書は、小説『西郷隆盛』から抜書きしてコンパクトにまとめたものとも言え(1967年の刊行は小説『西郷隆盛』の刊行に先立つようだが)、時間的経過でみて抜け落ちている部分もあるようですが、個人的には面白く読めました。海音寺潮五郎は、本書刊行の翌年1968(昭和43)年に第16回「菊池寛賞」を受賞しています。

 同じ薩摩藩出身の西郷隆盛と大久保利通は、片や茫洋とした風貌の内に熱情を秘めた押し出しの強いタイプ、片や沈着冷静にして智略に富んだ剃刀のような切れ者タイプと、まったく異なる性格でしたが、一般に人気の西郷に対し、大久保の方は影が薄いか、ヒゲの印象から権威主義者というイメージ、多少知る人には、冷徹なマキャベリストといったイメージがあるのではないでしょうか。

 鹿児島出身の海音寺潮五郎は、同郷の西郷を敬慕したことで知られ、本書では、国を憂い政策に奔走する西郷の姿が生き生きと描かれていて、また彼のリーダーとしてのカリスマ性がいかにスゴイものであったかが伝わってきますが、一方で、大久保も肝っ玉の据わった人物で、西郷に劣らず"無私"の人であったことがわかります。

 親友であり同志であったこの2人は征韓論で決裂しますが、それ以前から、公武合体に対する考え方の違いが溝となっていたことがわかり、西郷が元藩主の島津斉彬を尊敬するあまり、クーデター的に藩主になった島津久光とそりが合わなかったことも影響しているみたい。

 西郷が征韓論に敗れて野に下るところまでが詳しく書かれていますが、著者は、大久保は本質的に〈政治家〉、西郷は〈革命家〉であったと見ていて、西郷が征韓論にこだわったのも明治維新をやり直したかったのではないかと。
 対し大久保は、西郷に対する友情の念は抱きつつも、コツコツと新政府の組織固めをしていく...。

 個人的には、大久保は中央集権主義ではあったが、官僚主義と言うより政府内においてもバランス感覚に優れた改革のリーダーだったのではないかと思います(警察を司法権力から切り離したりしたのも彼)。

紀尾井坂.jpg大久保公記念碑.jpg ただし大久保は、改革半ばで皮肉なことに西郷崇拝者に紀尾井坂(今のホテルニューオータニの上手)で暗殺されてしまいます(享年49、西郷の享年51より2つ若かった。ニューオータニ向かいの「清水谷公園」に大久保の哀悼碑がある)。

 大久保亡き後の政治は理念喪失の権力抗争の場となり、大久保自身にも〈官僚主義の元祖〉的マイナスイメージだけがつきまとうようになってしまったのはちょっと気の毒だったかもしれません。

 【1973年文庫化・1989年改訂[新潮文庫]】

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