【490】 ◎ 三島 由紀夫 『仮面の告白 (1950/06 新潮文庫) 《(1949/07 河出書房)》 ★★★★☆

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「素面」は察するしかないという精緻かつ巧妙なレトリック。

假面の告白 単行本.jpg『仮面の告白』.JPG仮面の告白.jpg  仮面の告白  初版本完全復刻版.jpg
単行本初版['49年7月5日刊行/河出書房]『仮面の告白』 新潮文庫/初版本完全復刻版 〔'96年]

 「人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表れであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた」-本文中のこの文章の「このころ」というのが何時なのか、前後の文脈から探ると、何と7歳ごろであることがわかり驚かされます。

 しかし、何というレトリックなんだろう。芸術とはすべて仮面の告白であり、自分自身を「詩(芸術)そのもの」と規定する三島の考えに符合し、三島の「素面」を示す文章です。

 それが「小説」の中で(つまりフィクションとして)語られることにより、それすらも「仮面」に収斂していく仕組み。「このころ」とは三島が創作した自己年譜ともとれるのではないでしょうか。こうしたことは、この作品に描かれていることのすべてについて言えるわけで...。

yukio mishima.jpg 三島由紀夫(1925‐1970)の写真集の中には、この作品でも触れられている「聖セバスチャン」を模して裸で縛られているものがあります。

 「ああ、やっぱり真性のホモセクシュアルだ」と思っても、この文章に照らすと、「演技だ」ということになり、さらに「芸術そのものになろうとする」意志の表れであり、「素面」は察するしかないということになるのです。

澁澤龍彦編集『血と薔薇』創刊号('68年) 「聖セバスチャンの殉教」(篠山紀信撮影)

 この「自己」を「創作」し、創造されたものが自分になるという指向は、三島が「あなたは嫌いです」と言った太宰治の作品にも通じるもので、『人間失格』('48年)が発表された翌年にこの作品が発表されていることと考えあわせると興味深いです。

 '96年に河出書房新社から〈初版本完全復刻版〉というのが出ましたが、'49年刊行の初版本を本文・カバー・表紙・扉・帯まで完全復刻したもので、表紙タイトルも旧字ならば本文も旧字旧かな、奥付も再現されていて「三島」の検印があって「定價 貳百圓」となっており、河出書房の月報(三島自身の「『假面の告白』ノート」という短文を掲載)まで添付されている凝りようです。

 三島の本を旧字旧かなで読むと、よりロマン主義的な香りが強く感じられますが、如何せん少し読みにくい。最近の全集などは、新字旧かなで統一しているようです。

 【1949年単行本・1996年完全復刻版[河出書房新社]/1950年文庫化・1967年改訂・1987年改訂[新潮文庫]】

《読書MEMO》
●「私は自分が戦死したり殺されたりしている状態を空想することに喜びを持った」(28p、文庫'67年版23p)
●「人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという欲求の表れであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解はじめていた」(31p、文庫'67年版26p)
●新潮文庫2019年プレミアムカバー
2019 プレミアカバー.jpg

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