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作家の思考の現況を探るうえでは興味深いものだったが...。
『さようなら、私の本よ!』 (2005/09 講談社)
「ストックホルムで賞をもらった」ほどの作家である長江古義人が、幼馴染みの国際的建築家・椿繁の、東京の高層ビルで爆弾テロを起こすという計画に荷担を余儀なくされ、北軽井沢の別荘に軟禁される―。
作者の分身・古義人が主人公の3部作の最後の作品ですが、大江健三郎の新作長編を腰を据えて読むのは久しぶりで、なぜ読む気になったかというと、ストーリーが、前2作に比べてダイナミックな感じがしたからという単純なものでした。
しかし読み進むにつれ、この小説がアンチ・クライマックス小説であることが明らかになり、作者の目的は、自分が書いてきたこと、書くという行為の総括であるともに、古義人と繁を「老人の愚行」を晒す「おかしな二人組」とすることで、繁もまた作者の分身であることが窺えます。
「外国文学の影響から小説を書き始めた。(中略)それが現在、じつに日本的な書き方で、家族の生活を書くだけだ」(142p)などといった自身に対する批判に(これを繁に言わせている)、新しい小説を書くことで答えようとしているような部分もあり、それをセリーヌの『夜の果ての旅』になぞらえています(その結果書かれたのが、メタ私小説である本作品ということか?)。
また、死んだ人たちや過去に決別した人たちとの会話を通して、書くことの意味を問い直しているフシもあり、作中にある自殺した映画監督・塙吾良とは言わずと知れた伊丹十三であり、師匠の六隅は仏文学の渡辺一夫であるほか、「都知事の芦原」(石原慎太郎)、「評論家の迂藤」(江藤淳)などの名前も見えます。
さらに、爆破計画と平行して「ミシマ問題」として扱われている、三島由紀夫の自衛隊クーデターに対する「本気」度の考察は、そのまま「書くこと」に対する自らの「本気」度を真摯に自問しているように思えました(三島自決事件の作家たちに与えた影響というのは重いなあとも思いました。特にノーベル賞を取った大江にとって)。
その他にも過去の自身の作品への距離を置いた省察やモチーフの再現が見られ、 "お目出度い"とされる彼の「平和主義」に対する批判に対しては、「核廃絶」の困難さへの絶望感を露わにしつつも何かを希求し続ける様子が見てとれ、作家の思考の現況(心境)を探るうえでは興味深いものでした。
しかし、もう自分だけのために書いているという感じがしたのと、「巨大暴力に拮抗する、個人単位の暴力装置を作る」という繁の考えが一種レトリックにしか思えず、最後まで違和感を覚えざるを得ませんでした。
【2009年文庫化[講談社文庫]】