【414】 ○ 大江 健三郎 『叫び声 (1963/01 講談社) ★★★★

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大江健三郎の最も青春小説っぽい作品。村上春樹「風の歌を聴け」と比べると...。

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叫び声 (1963年)』『叫び声 (講談社文庫)』['71年]『叫び声 (講談社文芸文庫)』['90年]
叫び声 (1964年) (ロマン・ブックス)

 二十歳の「僕」、17歳の{虎」、18歳の「呉鷹男」の3人は、偶然アメリカ人の邸に同居することになり、ヨット「レ・ザミ(友人たち)号」での航海を夢見て"黄金の青春の時"を過ごすが、そんな中、呉鷹男が悲劇的な事件を起こし(小松川女子校生殺しの少年がモデルになっている)、彼らの夢は挫折へと向かう―。

 その小説が「難解」の一言で片付けられがちな大江健三郎ですが、彼ぐらい作風が微妙に何度も変化している作家は少ないのでは(学生時代から作家であるわけだから当然かもしれないが)。

 大江健三郎は、初期作品だけでも 『死者の奢り』('58年)などのサルトル哲学っぽいものから、長男誕生を転機とする『個人的な体験』('64年)までの間にさらに、『われらの時代』('59年)、『性的人間』('63年)などの過激な性的イメージに溢れた作品群がありますが、この作品は'62年、大江が27歳で書いた長編(長めの中篇)で、系譜としては「性的人間」や「セヴンティーン」に近いものです。

 以前にこの『叫び声』を読んだとき、途中ユーモラスな部分もあるものの、やがて3人がそれぞれに閉塞状況に追い込まれ、最後はかなり暗いムードが漂う印象を受け、その「暗さ」が案外よかったのかも知れませんが、石原慎太郎の『太陽の季節』などと('55年)比べても、"青春小説"としてはこちらの方が上だと感じました(『太陽の季節』は「明るい」系か。大江健三郎と石原慎太郎は絶対に相容れないなあ)。

 大江の最も"青春小説"っぽい作品だと思っていますが、仏文学の翻訳のような文体(読みやすくはない!)が、後世代の純文学"青春小説"の代表作とされる村上春樹の『風の歌を聴け』('79年)が米国小説の翻訳のような文体であることとの対比で興味深く感じます(村上春樹の読んでいて"心地よい"文体に比べると、大江の方がずっと読みにくいが)。

 その他にも、「僕」と言う1人称主人公や(大江はサルトルの「神の視点は実在しない」という考えを受けて1人称を用いている)、その他登場人物の呼称に「虎」(『叫び声』)とか「鼠」(『風の歌...』)など動物名を用いているなど、大江健三郎と村上春樹のそれぞれの初期作品には、何か不思議に通じる部分があります。

 江藤淳に登場人物のリアリティの無さを批難された大江ですが、作家個人の内面で創出された自己分身的キャラクターと言う風に捉えれば、そこにも村上春樹との共通点が見出せるような気がします。

 【1971年文庫化[講談社文庫]/1990年再文庫化[講談社文芸文庫]】

《読書MEMO》
●「ひとつの恐怖の時代を生きたフランスの哲学者の回想によれば、人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫び声が自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑うということだ」 (書き出し文)

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