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ユーモアに救われている「河童」。痛々しさがしんどい「歯車」。
『河童・或阿呆の一生』新潮文庫 "Kappa" by Akutagawa
1925(大正14)年発表の「大道寺信輔の半生」をはじめ、芥川龍之介(1892-1927)の晩年作品を収めた新潮文庫版は、ほかに、「玄鶴山房」、「蜃気楼」、「河童」、「或阿呆の一生」、「歯車」を所収していますが、この4篇は、芥川が亡くなった1927(昭和2)年に発表されたものです。
この中で最も一般に親しまれているのは、彼の命日を"河童忌"と呼ぶぐらいだから、「河童」でしょう。
河童の国に行った男の話ですが、その話が精神病者の口を通して語られるという枠組みは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を想起させます。
穂高山を登山中の男がひょんなことから河童の国に迷い込むという前半のシュールな感じがいい。そして次第に、擬人化された河童の社会を通しての、作者自身が置かれた社会に対する風刺が主となります。そこには、資本主義の足音、国家権力による統制強化の予兆が感じられ、人口統制によって仕事に溢れた河童は食用に屠殺されてしまうなどといった設定は、近未来SFのようでもあります。
新潮文庫 〔初版〕
「大道寺信輔の半生」を読むと、青年期までの自己の精神史とも言えるこの自伝的作品の中で、西洋世紀末の文芸の感化とは別に、プロレタリア運動の影響も感じられ、それがその2年後に発表した「河童」における資本家や国家権力者の戯画化などにも現れているようです。
しかし「河童」では、芸術家も同じように揶揄されていて、結局この世のものはみんな(自分も含め)唾棄すべきものばかりという厭世感もあり、そう、これも芥川が自殺した年の作品であることには違いないなあと.。
それでもまだ、ほのぼのとしたユーモアと、作者の視線が外界に向けられていることに救われている「河童」に比べ、「或阿呆の一生」は、「大道寺」と同じく自伝的ですが、詩的であったり寓意的であったりもする51の断章は、自身の〈漠然とした不安〉を対象化するための切羽詰まった努力ともとれ、「歯車」に至っては、ただもう死ぬことのみを希求する自身の意識の流れを"自己精神病理学"的に綴っている感じもします。
両作品とも「河童」より研ぎ澄まされていて芸術性も高い、ということになるのかも知れませんが、この「痛々しさ」(特に「歯車」)に寄り沿うのはかなりシンドイ。但し、誰かがビジネスパーソンは「歯車」のような「後ろ向きの作品」は読んではならないとか書いていましたが、それはどうかと思います。
【1950年文庫化・2003年改版[岩波文庫(『河童 他二篇』)]/1966年再文庫化[旺文社文庫]/1968年再文庫化・1989年改版[新潮文庫]/1969年再文庫化[角川文庫(『或阿呆の一生・侏儒の言葉』)]/1972年再文庫化[講談社文庫(『河童、歯車、或阿保の一生』)]/1992年再文庫化[集英社文庫(『河童』)]】
《読書MEMO》
●「大道寺信輔の半生」...1925(大正14)年発表
●「河童」...1927(昭和2)年発表★★★★☆「どうかKappaと発音して下さい」
●「或阿保の一生」...1927(昭和2)年発表★★★★☆「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
●「歯車」...1927(昭和2)年発表★★★★「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」
新潮文庫(2009)