「●教育」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【335】 ロン・クラーク 『あたりまえだけど、とても大切なこと』
「陰山先生」がいいのか「糸山先生」がいいのかと言うよりも...。
『新・絶対学力―視考力で子供は伸びる』 ('04年/文春ネスコ ) 『絶対学力―「9歳の壁」をどう突破していくか?』 ('03年/文春ネスコ)
著者は、塾講師に教え方を指導する仕事などをしている人。前著『絶対学力』('03年/文春ネスコ)で、基礎学力とは計算を速くしたり、漢字を暗記することではなく、教育とは人生を楽しむことができる力を育てることだとし、「教科書の音読・漢字の書き取り・計算ドリル」を「お粗末3点セット」と批判したことで話題になりました(この批判が、陰山英男氏の「百ます計算」や「公文式」に向けられているのは明らか)。
本書ではこの考え方をさらに進め、「イメージ」できれば「考える力を伸ばせる」とし、「視考力」という言葉でそれを言い表しています。具体例として文章問題の解き方などを示していて、なるほど「読み書き計算」の反復練習だけでは、こうした問題を解くための「考える力」はつかないかも、と思いました。
陰山氏も公文も「生きていく上での基礎的能力」「生きる力」などという言い方をしています。
結局のところ、親がどの言い分にフィット感を感じるかだけであって、子どもに対しては、単に学習させる方法の違いになるのではという気もします。
「陰山先生」もこの「糸山先生」も家庭学習の重要性を説いています。
陰山先生だって「百ます計算」が全てだと言っているわけではないし、糸山先生だって、行き着くところは「ドリル」なのです。
多くの親は、子どもの得手不得手などを見ながら、両者の良い点を取り入れようとするのではないでしょうか。
「百ます計算」が悪いとは思いませんが、一つの方法論が絶対視されるのは、何だか気持ち悪い。だから、こうした違った方法論が出てくるのはいいことだと考えます。
こうした方法論を「生きる力」とともに唱える論者が、一部の親から"教祖"視されるのは、ある程度やむを得ないのかも。
教師はある程度、冷静でいて欲しいと思います。
新たな方法論が話題になるたびに、教師に「目からウロコ」と感動されていたのでは、ついていく生徒の方がシンドイ。