Recently in ○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】 Category

「●О・ヘンリー」の インデックッスへ Prev| NEXT ⇒ 「●お 小川 洋子」【566】 小川 洋子 『博士の愛した数式
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●わ 和田 誠」の インデックッスへ

どれもコンスタントに面白かった。アイロニカルな作品も一定割合を占める。

『人生は回転木馬』sinsyo (2.jpg オーヘンリー セレクション 人生は回転木馬.jpg
人生は回転木馬 (静山社ペガサス文庫 ヘ 3-6) 』『人生は回転木馬 (オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション (2))

 O・ヘンリー(1862-1910/47歳没)短編集、和田誠イラスト/千葉茂樹訳の『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』(全8巻)の単行本版で言うと第2弾で、表題作「人生は回転木馬」など8編を所収。

The Whirligig of Life.gif「人生は回転木馬」The Whirligig of Life
 取り上げ済み。一組の夫婦が治安判事のもとに離婚の申し立てにやってきた。手続き費用は5ドル。それを払うとあとは慰謝料すら払えない―。5ドルが行ったり来たりして夫婦が丸く収まる話なので、挿画のどこかに5ドル札を描いて欲しかった気がします。作者没後3か月後の1910年9月刊行の第10短編集『Whirligigs(回転木馬)』の表題作

「愛の使者」By Courier
 取り上げ済み。別れることになった二人の間を行き来する少年―。この千葉茂樹訳では、少年が二人のことを指して言うとき、「あのあんちゃん」「あの姉(ねい)ちゃん」になっていて、これが自然なのかもと思いました(新潮文庫の大久保康雄の旧訳などは、「あの紳士」「あのご婦人」になっていた)。原題の「Courier(クーリエ)」は配達業者などを指し、新潮文庫の新訳(小川高義:訳)などはそのまま「使い走り」 、旧訳(大久保康雄:訳)の方が本書と同じく「愛の使者」でした。翻訳によって雰囲気変わるなあ。

「にせ医師物語」Jeff Peters as a Personal Magnet
 取り上げ済み。にせ医者ジェフ・ピーターズは、ひょんなことから市長の治療をすることになるが、それは市長が仕掛けた罠だった―。これ、芝居にもなっています。新潮文庫の新訳(小川高義:訳)は「にせ医者ジェフ・ピーターズ」、旧訳(大久保康雄:訳)はこちらも本書と同じ「にせ医師物語」。ジェフ・ピーターズの名前があった方がいいでしょうか。そのジェフの方が市長より一枚上手でした。

「ジミー・ヘイズとミュリエル」Jimmy Hayes and Muriel
 テキサスの国境警備騎兵隊に加わった新兵ジミー・ヘイズは、二十歳そこそこのやせた男で、ツノトカゲのミュリエルと片時も離れない。彼の素朴さや剽軽さは皆から愛されたが、戦闘経験はなく、その勇敢さには疑問符がついた。部隊がメキシコ人悪党一味と戦闘をする中、悪党を追ううちに彼は姿を消す。彼はやはり臆病者だったのか。悪党が現れなくなって1年が経ったころ、悪党と思しき三体の骸骨が見つかり、さらにもう一体遺体が―。ツノトカゲが飼い主の勇敢さを証明することになった、というのがいいです。

「待ちびと」To Him Who Wait
慕われながらも結ばれなかった恋の後、ずっと山で世捨て人のような暮らしをする「ハドソン川の世捨て人」ハンプ・エリソン。10年目のある日、彼の元へ金持ちの令嬢が訪れ、恋心を打ち明ける―。二人の女性に慕われながら、すれ違いで二人とも逃してしまった男。こういう人っているかもしれないなあ。

「犠牲打」A Sacrifice Hit
 中編小説「愛こそすべて」書き上げた実績のない作家アレンは、ハースストーン社の編集長が、原稿をさまざまな人に振り分けて読ませ、その感想を聴いて掲載を決めるシステムをとっていることを知っていた。そこで、自分の作品が確実に受けそうな女性スレイトン夫人に自分の小説原稿が回るよう、雑用係の少年に手配するが―。多分、アレンが書いた小説は、ハーレクイン・ロマンスみたいなものだったのでしょう。恋愛至上主義批判と言うより、通俗小説批判か。

「一枚うわて」The Man Higher Up
 毎冬ニューヨークにやって来る詐欺師ジェフが語る、かつての冒険譚。彼は若い押し込み強盗のビル・バセットと、老いた金融詐欺師のアルフレッド・E・リックスと偶然一緒になったが、三人は一文無し。そこでビル・バセットは早速に強盗を敢行し、成果を収め勝ち誇るが、ジェフには強盗というやり口が気に入らなかった。自分はトランプカード詐欺で5千ドルを手にする。そして、鉱山株を買うが、その株はやがて大化けするという―。3人で「悪」を競い合って、結局、自分が一番「下」だったという、可笑しくてちょっと哀しい話。

「フールキラー」The Fool-Killer
 とてつもなくバカなことをしたヤツを殺して歩くという「フールキラー」こと空想上の人物ジェシー・ホームズ。私は、絵描きのカーナーが、百万長者である父親と縁を切っても工場勤めの彼女と結婚すると聞いて、一緒にアブサン・ドリップを飲むうちに「お前はバカだ。ジェシー・ホームズにきてもらったほうがいい」と説教するように。すると、そこに本当にジェシー・ホームズが現れる―。主人公には、自分にしかジェシー・ホームズが見えないと思っていたけれど、実はそうではなかったということ。自分だけが彼がカーナーを殺しに来たと思ってしまって大慌てし、カーナーが主人公の悪酔いを疑ったのは、見えないものが見えているような振舞いについてでなく("私"はそう思っている)、その勘違いの部分についてだったということでしょう。

 どれもコンスタントに面白かったです。「人生は回転木馬」は、これで夫婦の縒りが戻るならばハッピーエンド、「愛の使者」は完全な勿論ハッピーエンドで、「にせ医師物語」は、詐欺師側からみれば成功譚。「ジミー・ヘイズとミュリエル」は切ないけれど、名誉回復という意味では良かった話。「待ちびと」「犠牲打」「一枚うわて」とアンハッピーエンドが続きましたが、「フールキラー」は自分だけが大慌てしたけれど、親子の関係は戻ったからハッピーエンドと言えます。

 8作中3作がアンハッピーエンドですが、アンハッピーエンド作品については、アイロニカルといった方がいいかも。この手の作品も一定割合であるなあと改めて認識しました。

【2023年新書化[静山社ペガサス文庫]】

新潮文庫(小川訳)『О・ヘンリー傑作選(全3巻)』/理論社『オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション』(全8巻) 各収録作品
 『オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション』 .jpg

「●О・ヘンリー」の インデックッスへ Prev| NEXT ⇒ 【3271】 オー・ヘンリー 『人生は回転木馬
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●わ 和田 誠」の インデックッスへ

和田誠のイラストが楽しいシリーズの新書化。単行本では第1弾だった密度濃いラインアップ。

『20年後』 静山社ペガサス文庫.jpg  オーヘンリー セレクション 20年後.jpg
20年後 (静山社ペガサス文庫 ヘ 3-3)』['23年]『20年後 (オー・ヘンリーショートストーリーセレクション 1)』['07年]
 和田誠のイラストが楽しい『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』(全8巻)。小学校高学年から読めるような優しい翻訳ですが、"簡訳"ではないようです。単行本の第1弾は、「20年後」など9編を所収。一方、この静山社ペガサス文庫の新書版は、『最後のひと葉』『賢者の贈り物』といった表題作がよく知られているものの次に刊行されています。単行本刊行から約15年を経ての新書化は、2019(令和元)年に和田誠氏が亡くなったことも関係しているのでしょうか。

「20年後」After Twenty Years
 取り上げ済み。街を巡回中の警官が男に声をかける。男は20年ぶりに友人に会うと話す。警官が立ち去ると友人らしき男がやって来るが―。1906年4月刊行の第2短編小説集『四百万』の1編として発表されたもので、それまでもO・ヘンリーは意外な結末を多用していましたが、短編として世界的名声を得た作品はこの「20年後」だそうです。久しぶりに会った旧友同士が、片方は警官に、片方は犯罪者になっていたという"暗い"オチですが、和田誠のイラストが入ると、警官の思いやりがより浮き彫りになって、いい話に思えてきます。

「改心」A Retrieved Reformation
 取り上げ済み。金庫破りのジミーは刑務所を出所するや、早速何件かの金庫破りし、敏腕刑事ベンが捜査に乗り出す。1年後ジミーはある街で銀行頭取の娘と知り合い、真面目に生きていくことを決意する。ジミーは娘の父親と銀行で会うが、その時誤って子供が金庫に閉じ込められてしまう。ジミーは昔の腕を披露し子供たちを助ける。そこにはベンが偶然居合わせていた―。新潮文庫の旧訳(大久保康雄:訳)では「よみがえった改心」でしたが、新訳(小川高義:訳)では「更生の再生」だったので、タイトルだけだと同じ作品と分からないかも。好きなタイプの作品で、ラストのモチーフは「20年後」にも似ているように思いました(こっちの刑事は逮捕しないけれど)。

「心と手」Hearts and Hands
取り上げ済み。客車の美しい女性が座っている席の前に、犯人とそれを護送する保安官が乗り合わせる。女性は、向かいの席の男が昔の知り合いなので声を掛けるが、2人が手錠で繋がれているのを見て驚く。しかし、手錠で繋がれた男が自らの罪を話し、知り合いが犯人護送中の保安官と知って安心する―。警官、刑事、保安官と3つ続けて、捕まえる側の"深情け"話が続いたことになりますが、「20年後」が最も有名だけれど、個人的に好きな順番は、1番「心と手」、2番「改心」、3番「20年後」です。

「高度な実利主義」 The Higher Pragmatism
 私が公園のベンチで声掛けした浮浪者風の男は元ボクサーで、彼の話だと、路上で見知らぬ男を殴り倒したらそれがボクシング・チャンピオンで、一方、リングに上がると、相手の名前に負けて勝てなかったという。あんたも同じようなアマチュア級だろ、勝ち目はないと言われて、私はすぐに電話ボックスに入り、身分の違いから愛を告白できないでいた女性に電話する―。う~ん。こんなのでホントにいいのかなあという気はします。

「三番目の材料」The Third Ingredient
取り上げ済み。ヘティがシチューを作ろうとするが、牛肉しかない。じゃがいもは? たまねぎは?どうやったら手に入る?― 貧しくて食べるのにも苦労する三人の男女が偶然出会い、シチューは完成し、ヘティは図らずも愛のキューピッドとなったという楽しい話で、個人的にはかなり好きな作品の1つです。

「ラッパの響き」The Clarion Call
取り上げ済み。刑事は、今は強盗殺人犯でかつて幼馴染みだった男に千ドルの借りがあり、その引け目で、証拠をつかんだのに逮捕できない。彼はどうしたか―という話。かつての幼馴染み同士が善・悪に道を隔てるという設定は「20年後」と同じえだることに、改めて気づかされます(そう言えば、映画「汚れた顔の天使」('38年)などもそんな感じの設定だった)。新潮文庫の新訳(小川高義:訳)では「高らかな響き」、オムニバス映画「人生模様」('52年)ではそのまま「「クラリオン・コール新聞」。

「カーリー神のダイヤモンド」The Diamond of Kali
 インド探検でヒンズー教の女神カーリー神の額の目のダイヤモンドを手に入れた将軍は、それを奪還しようとする東インド人に狙われているが、牛が傍らにいると、牛は彼らにとって「神聖にして侵さざるべき」存在だから安全だという。そこへ突然"賊"が襲ってくる―。本人たちは、傍らの消火栓を彼らが牛だと思ってくれたお陰で助かったと思っているけれど、実は―という種明かしが楽しいです。ギャングには縄張りというものがあるわけだ。

「バラの暗号」Roses,Ruses and Romance
 詩人のラぺネルは、自分の部屋の庭越しの屋敷の窓に見える美少女に一目惚れで恋い焦がれるが、彼女が窓辺に置く4本のバラの花に、雑誌に掲載された自分の詩との符牒を読み取り、彼女は自分の愛に応えようとしていると―。もう一人の登場人物、詩人の部屋になぜかよくやって来る、詩人から見れば俗物の男サミー、彼がカギで、バラの花は彼にとっての"符牒"だったわけだあ。

「オデュッセウスと犬男」Ulysses and the Dogman
 女房の尻に敷かれ、毎日犬の散歩を日課にしている「犬男」が、ある夜旧友と再会して酒場で飲んでいる内に、辛抱強く耐え抜いて来た不満を大爆発させ―。犬の散歩を義務付けられた男たちを皮肉った話でした。愛犬家の人が読んだらどう思うのだろうか。

 既読だった「心と手」「三番目の材料」がやはり◎で、同じく再読の「改心」「20年後」もよく、かなり密度の濃いラインアップでした(シリーズの単行本刊行時"第1弾"だったのも分かる)。ただ、初読の作品群はややパンチが弱かったかも。小学校高学年でも読んで理解できるという前提のもとに作品を選んでいるようで、ある程度仕方がないかもしれませんが、未読の作品に出合えるというメリットはありました(活字が大きいので年寄りに優しい(笑))。

【2023年新書化[静山社ペガサス文庫]】

新潮文庫(小川訳)『О・ヘンリー傑作選(全3巻)』/理論社『オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション』(全8巻) 各収録作品
 『オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション』 .jpg

「●О・ヘンリー」の インデックッスへ Prev| NEXT ⇒ 【3270】オー・ヘンリー (和田 誠:絵) 『20年後
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

どれも面白いが、個人的ベストはシチューを作る話「第三の材料」か。

O・ヘンリー 魔が差したパン.jpg魔が差したパン: O・ヘンリー傑作選III (新潮文庫)

 1904年3月発表の「魔が差したパン」ほか17編を収録(書影は和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』)。

Witches' Loaves.jpgオーヘンリー セレクション 魔女のパン.jpg「魔が差したパン」 Witches' Loaves
 ミス・マーサは40歳で小さなパン屋を営んでいる。結婚運には恵まれず、ずっと独身だったが、ある男性客に興味をひかれていた。男性は清潔感があり、言葉にはドイツ語訛りがあって、決まって古いパンを2個買っていく。あるときミス・マーサは、男性の指に絵の具がついているのを見つけ「きっと貧しい絵描きなのだ」と確信し、確かめるため、店に絵を飾ってみると、案の定、男性はその絵に目を止めて、鋭い洞察力を見せた。ミス・マーサはささやかな心遣いで、男性が買ったパンにバターを忍ばせるが―。製図屋かあ、上手いなあ。市庁舎のコンペとは大きな仕事だった。お節介は悲しい結末になった。直訳して「魔女のパン」という訳もあるが、この訳者がそう訳さなかったのは、主人公の善意がもたらした結末だから(新潮文庫旧版の大久保康雄は敢えて「善女のパン」としている)。

「ブラック・ビルの雲隠れ」 The Hiding of Black Bill
 赤ら顔の男の話。テキサスで仕事を探していたときに、牧場オグデンから声掛けられて羊飼いの仕事にありつくが、ちょうどその頃ブラック・ビルという列車強盗がこの羊牧場一帯に逃げ込んだらしく、保安隊が追っていて、通報者には千ドルの賞金が出るという。牧場を買ったばかりのオグデンこそがブラック・ビルだと男は密告し、保安隊長は彼のポケットから銀行の新札を掴み出す―。なかなか面白い。最後、真犯人はオグデンの嫌疑が晴れたことを言わないではおれなかったのは、盗人のプライドか。1918年に"The Hiding Of Black Bill"のタイトルのまま映画化されている。

「未完の物語」 An Unfinished Story
 ダルシーは、週6ドルの薄給で働く娘。食べる物にもしばしばこと欠くが、ピギーという裕福な男からデートの誘いを受けるが、その時になって。ルシーはピギーと出掛けることをやめる―。どうもこの男は、金に困窮する女の子ばかりを誘い、一夜の快楽を期待して食事やらなにやらを提供するタイプらしい。しかし、いずれ彼女がさらなる空腹に見舞われれば、デートをすることになるかも。一体誰が悪いのか。物語の大部分は過去の出来事で、語り手もすでに死んでおり、生前の行状について神の裁きを控えてるところで、天使が裁きを待っているある一団を彼に指し示し、お前はあの連中の仲間なのか問うというところから始まるという枠組み。

「にせ医者ジェフ・ピーターズ」 Jeff Peters as a Personal Magnet
 にせ医者ジェフ・ピーターズは、ひょんなことから市長の治療をすることになる。しかしそれは実は、市長がジェフを捕まえるための罠だった―。ジェフ・ピーターズとアンディ・タッカーという二人組詐欺師の登場する連作短編集の1作。ジェフは許可なく医療行為をし、現金を受け取ったとかどで現行犯逮捕。金品は警察に渡され、その場は終わるが、金品を受け取った刑事は実は...。相手の裏の裏をかく。

「アイキーの惚れ薬」 The Love-Philtre of Ikey Schoenstein
 リドル家の下宿人マガウアンと薬剤師のアイキーは、ロージーという娘にぞっこん。アイキーは内気な性格で彼女への思いをとじこめ、打ち明けることはできないでいた。ある日、マガウアンは、試してみたい薬があると相談を持ち掛ける。今夜ロージーと駆け落ちして結婚することになったが、彼女の気が変わらないか心配していたのと、彼女の父親が、一緒に外出を許してくれないという。アイキーは2、3時間眠りこける薬を処方し、マガウアンに渡す一方、父親の下宿屋の主人リドルに、マガウアンとロージーの駆け落ちの計画を明かしてしまう。マガウアンはアイキーからみれば恋の略奪者。ロージーが薬で眠らされ、父親のリドルがショットガンを構えて現れれば、アイキーのライバルの失敗は確実だったはずだが、次の日、マガウアンは勝利の笑みを浮かべ、喜びに顔を照らしながらアイキーの手を握る―。マガウアンは直前になって、眠り薬を入れる相手を、目に留まった別の人物のコーヒーに。惚れ薬と言うより眠り薬。

The Whirligig of Life.gifオーヘンリー セレクション 人生は回転木馬.jpg「人生ぐるぐる」 The Whirligigs of Life
 「判事さん、その紙、まだ渡しちゃなんねいよ。まるっきり話は終わってねいもの。あたしにだって権利がある。まずは扶養料をもらわなくちゃ」。離婚が決まりかけたその時、妻のアリエラが判事の手を止めてそう言いだし、2人の離婚は翌日まで延期されることなった―。旧訳(大久保康雄訳)のタイトルは「人生の回転木馬」("Whirligigs"には「風車」のほかに「回転木馬」の意、意味もある)。離婚する、離婚しないの遣り取りの中で、5ドル紙幣が人から人へぐるぐる回っているのに懸けているのが旨い。

「使い走り」 By Courier
 別れることになった男女の間を、少年が伝言を携え行ったり来たりするうちに、男の不倫の嫌疑が晴れて―。結末は見えているけれど、映画の1シーンみたいで良い。愛の誤解は解かれるべきもの。少年は愛のキューピッドか。

「一ドルの価値」 One Dollar's Worth
 判事に、かつて刑を言い渡した男と思われる"がらがら蛇"を名乗る者から娘を殺すとの脅迫状が届くが、彼は取り合わず、娘の恋人で婚約者であるリトルフィールド検事も、鉛製の偽造1ドル硬貨を作った別の男の裁判の準備をする。偽造犯の妻は、自分を救うためにやったことで、許して欲しいと嘆願し、リトルフィールドの恋人も同情的だが、彼は粛々と法の義務を果たすのみと。ある日、リトルフィールドは証拠の偽造1ドル硬貨をもったまま恋人と狩りに行く。そこに殺人予告をした男が現れて銃撃戦に。彼が持っているのは狩りのための散弾銃で、射程が短く圧倒的に不利な状況だった―。ネタバレになるが、1ドル硬貨を加工して、銃弾に仕上げたのだった(そんなに簡単に加工できるのか、また、それが散弾より効果的なのかイメージしにくいが)。「証拠がなくなったので裁判はできません」ということ。

「第三の材料」 The Third Ingredient
 ビッグ・ストアを馘になったヘティは、ビーフシチューが食べたくなり、有り金をはたいて牛肉を買う。ところがジャガイモと玉ねぎがない。同じアパートに住むジャガイモしかない女性画家セシリアと偶然知り合いになり、ジャガイモは手に入れることができたが、「第三の材料」となるタマネギはないものか。そこへ―。面白かった。ヘティは図らずも愛のキューピッドとなった。1908年12月発表で(クリスマス向けか)、1917年に短編映画になっている。

「王女とピューマ」 The Princess and the Puma
 ピューマに襲われたリプリー。野生的な王女ジョセフィアが見事な射撃の腕前でピューマを射止め、間一髪で男を救うが、男はこのピューマは実は愛すべきペットだったと言う。女は男に謝るが―。男女が仕掛ける恋の駆け引きは、女の方が一枚上手だったということ。

「貸部屋、備品あり」 The Furnished Room
 若い男が部屋を探して12軒目で辿り着いた家具・備品付きの部屋には、まさに今自分が探し歩いている女性の痕跡があったかに思えた、しかし、家主の女性の話を聞くと、勘違いのようだ―。今の日本の決まり事だったら、この家主は情報提供義務違反でアウトか。具つきの部屋」という邦題も。

オーヘンリーセレクション マディソン.jpg「マジソン・スクエアのアラビアンナイト」 A Madison Square Arabian-Night
 大金持ちのチャーマーズの下に、ある女の悪評を伝える海外郵便が届く。気分を害した彼は、気分を変えようと、浮浪者を1人呼び寄せ、食事を共にする。突然の招待をさほど驚かないこの浮浪者プルーマーは、「何でも真実を描いてしまう」ことで失業した肖像画家だった。彼の肖像画にはモデルの本性が現れ、しばしば不快を引き起こすのだ。チャーマーズはブルーマーに、海外郵便で届いた写真の女の肖像画を描かせる―。ネタバレになるが、最初に届いた郵便は、海外旅行中の妻に関する報告書で、画家に描かせたのは妻の肖像画。チャーマーズは描いてもらった妻の絵を怖くて見れないが、別の画家に見てもらって疑いが晴れた。一応、ハッピーエンドだが、人間の弱さから来る不安を描いていた作品か。画家チャーマーズはここでは救いの神だが、多くの場合は疫病神になるか。

「都会の敗北」 The Defeat of the City
田舎町の少年ボブ(ロバートの愛称)は都会で成功を収め洗練された紳士になり、冷ややかな印象さえ与える高貴な美人で社交界の花形アリシアを妻にする。アリシアが田舎のロバートの母親の手紙を見て田舎に行きたがったため、ロバートは故郷へ妻を連れて帰ることに。ところが、自然に包まれた故郷に帰り家族と久々に食卓に着いた途端に「社交界の花形で一点の非の打ち所もない前途洋洋の青年実業家ロバート氏」は「そばかすだらけのボブ」に戻ってしまう。大はしゃぎしていたロバートだが、疲れているアリシアを見て、初めて自分がしでかしたことに気づき狼狽する―。思わぬハッピーエンド。ラストの階段のアリシアの言葉がいい。

「荒野の王子さま」 A Chaparral Prince
父親に出された奉公先の石切場で虐げられる11歳の少女レーナ。読みたいグリム童話も読めない。母親に迎えを求める手紙を書くが、その郵便車はが強盗団に襲われる。レーナの手紙を読んだ強盗団の頭領は―。レーナが帰って来れた理由を自信満々に「王子さまに連れられて」と言うのがいい。

「紫のドレス」 The Purple Dress
勤める店が主催する感謝祭のディナーパーティに着ていくためにコツコツとお金をため、大好きな紫のドレスを注文していた娘メイダ。自分や女店員たちの憧れの的である店の主任ラムジーも紫が気に入るはずだと固く信じている。しかし感謝祭の前夜、同じアパートに住む同僚グレースが部屋代の滞納で追い出されそうになっていることを聞き、ドレスの仕立代の残金を全部貸してしまう。紫のドレスが着られないならとパーティに出なかった彼女。仕立て屋に行き、残金を払えないと言うと、この娘が長い間紫のドレスを欲しがっていたことを知っていた彼は「支払いはあとでいいんだよ」とドレスを渡してくれる。紫のドレスを着て彼女は雨降る街へ出る―。これ、日本語オペラになっている。

 ほかに、「新聞の物語(A Newspaper Story)、「シャルルロワのルネサンス(The Renaissance at Charleroi)」 を所収。どれも面白いですが、個人的ベストはシチューを作る話「第三の材料」でしょうか。読んでいて楽しくなる作品でした。

新潮文庫:大久保訳・小川訳 各収録作品
oヘンリー短編集新旧.png

和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション(1~8)』(2007/04~2008/03 理論社)
『オー・ヘンリー』.jpg

「●О・ヘンリー」の インデックッスへ Prev| NEXT ⇒ 【3268】 О・ヘンリー 『魔が差したパン
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

短いけれど印象に残る「心と手」が、キレ味という意味でベストか。

O・ヘンリー 最後のひと葉.jpg最後のひと葉: O・ヘンリー傑作選II (新潮文庫)

 1905年10月15日日発表の「最後のひと葉」ほか14編を収録(書影は和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』(理論社))。

オーヘンリー  最後のひと葉.jpg「最後のひと葉」 The Last Leaf
「人生模様」30.jpg スーとジョンジーは芸術家達が集まるアパートの住人で、画家になることを夢見ていた。しかしジョンジーは肺炎にかかり「窓から見える隣の家のつたの葉が落ちる時に、自分も一緒に死んでしまう」と思い込んでいた。スーは同じアパートに住むベ老画家アマンに相談に行く―。あまりに有名な作品であり、オムニバス映画「人生模様(O. Henry's Full House)」('52年)の一話としてアン・バクスター主演で映画化されるなど、何度か映像化されている。作りようで、老画家の自己犠牲にも見えるし、芸術家としてのプライドにも見えてくるのでは。著者45歳の時(1907)に刊行された第3短編集『The Trimmed Lamp(手入れのよいランプ)』に収録された。

「懐かしのアリゾナ」.jpg「懐かしのアリゾナ」D.jpg「騎士の道」 The Caballero's Way
 無法者シスコ・キッドを追うサンドリッジ中尉は、探索の中、キッドの愛人トーニャ・ペレスと親密になる。キッドはある日、その2人の様をサボテンの陰から目撃する。トーニャからサンドリッジに、危険を感じたキッドが彼女の服を着て敵の眼をごまかし、彼女にはキッドの服を着せて標的にしようとしているとの手紙が届く―。1907 年発表作。このストーリーをそのまま使った「懐しのアリゾナ(In Old Arizona)」('28年)という西部劇は、アカデミー賞作品賞を含む5部門にノミネートされ、続編「シスコ・キッド」('31年)が作られたほか、シスコ・キッドというキャラクターは西部の快男児として数々の映画やテレビ・シリ-ズの主人公として登場することになった。

「金銭の神、恋の天使」 God of Money, Angel of Love
 大金持ちのアンソニー・ロックウォールの息子リチャードが一人の女性に恋をした。彼女とはまだほんの少しの顔見知り程度。彼女は数日後に遠くへ行き2年は帰らない。リチャード諦めかけた。父親は、こんなに金があるのに断る女性はいないと言い放つ。息子は彼女と話す機会がないと嘆き、お金では解決出来ないと言う。彼女とは旅立ちの前にほんの2、3分くらいしか話せないのだと。息子の叔母がその時、小さな指輪を恋愛成就のお守りに息子に与え、叔母はお金よりも大切なのは愛だと伝えた。息子はほんの少しでもと彼女に逢いに行き、彼女と逢う。その時、町中で交通渋滞が発生し2時間は動けなくなった。息子は2時間かけて彼女に想いを伝え―。ハッピーエンドの裏に大金が動いていたということ。でも、指輪を落として取りに戻ったら渋滞に遭ったのfで、指輪も一役買っていた(やはり金がすべてではない)というというのがいい。

「ブラックジャックの契約人」 A Blackjack Bargainer
 落ちぶれた元名家のゴーリーは客の来ない法律事務所で飲んだくれる日々。土地から雲母が発見され、その土地を売って金持ちになった田舎の猟師のガーヴィが、ゴーリーの全てを買いに来て、昔からの敵のコルトレーン大佐との〈敵対関係〉も売る。墓の名前を書き換えていいか?と言われてゴーリーは激怒し、ガーヴィを叩き出す。コルトレーンがゴーリーの事務所に来て、そろそろ仲直りしてうちの事業を手伝ってくれと持ちかけ、ゴリーは了承する。2人が馬に乗り、昔のゴリー家の屋敷の前を通ると、ガーヴィが狙っているのに気づき、自分の格好みずぼらしいから大佐のコートと帽子を貸してくれるよう頼む。ゴーリーはコルトレーンの服と帽子を身に着けて1人ガーヴィの銃の前に―。最期に見せた男気。身代わりになった。でも、リス撃ちは唯々人間を撃ちたかったのか? 狂ってる。

「芝居は人生だ」 The Thing's the Play
 18歳の美女ヘレン。美男子フランクとジョンは共にヘレンを好きになるが、紳士協定の末、フランクがヘレンと結婚することに。ジョンは祝福したが、納得してはおらず、式終了後、ヘレンにどこかで一緒に暮らそう、ダメならアフリカへ行くと言う。そこへフランクが乗り込んできて修羅場を迎え、その後2人が殴り合った末に、共にどうなったのかは分からず、時は過ぎる。38歳になったヘレンは、いつ夫が帰ってきてもいいように準備していた。祖母の遺産を相続するも、生活に困ったため空き部屋を貸し出す。そこに部屋を借りたヴァイオリニストのラモンティは、彼女に愛を告白する。彼は昔頭部にけがをして記憶を失い、自分の本当の名も知らないと。さらに、もう一人やって来た別の男は、「覚えていないかな、ヘレン」と言う。実は男はジョンで、フランクは自分が殺してしまったと―。フランクの親友ジョンと浮気してたかのように勘違いされたことが原因か、フランクはいなくなってしまい、20年の歳月の後に、その2人共と再会したという話。ジョンはフランクを殺したと思い込み、そのフランクはケガのためにずっと記憶を喪ったままであったという、結構凝った話。

「心と手」 Hearts and Hands
 東部行きの列車で、愛らしい美人の前に、男前の紳士とむさくるしく陰のある男という、見た目が逆の2人の男が手錠で繋がれた座った。美人と紳士は昔の知り合いのようだった。二人が話し中のところ、様子を窺っていたもう一人の男は、紙幣贋造の7年の罪で刑務所に収監されるところだと自分から言う。紳士は保安官で、犯罪者を移送中らしい。美人は保安官と会話し、その仕事を称え、近いうちに会えないかと言うが、それは出来ないと彼は言う―。面白かった。様子を見ていた客に、自分の利き手に手錠を掛ける保安官がいるかと種明かしをさせるところがいい。僅か5頁。ショートショートの見本のような見事な作品、

「高らかな響き」 The Clarion Call
「人生模様」20.jpg バーニー・ウッズ刑事は、かつて幼馴染みで今は強盗殺人犯のジョニー・カーナンに千ドルの借りがあり、その引け目があるので、証拠をつかんだのに逮捕できない。犯人はいい気になって新聞社を挑発する。新聞社は情報提供者に千ドルの賞金を出すと発表。朝刊でそれを知たった刑事がしたことは―。途中で気づいてもよさそうだが、最後まで読んでナルホド、この手かと。本人の目の前でやるラストがスマート。別訳タイトルは「ラッパの響き」で、ラッパは正確にはクラリオンという高音の金管楽器である。カーナンの完全犯罪の終わりを告げるその音は、勝利のファンファーレでもあるだろう。旧訳(大久保康雄:訳)タイトルは「ラッパのひびき」で、オムニバス映画「人生模様」('52年)の一話として映像化されており、そちらの訳は「クラリオン・コール新聞」。オムニバス映画「人生模様」('52年)の一話として映像化されていて、リチャード・ウィドマークのヤクザ者の役が出ている。

「ピミエンタのパンケーキ」The Pimienta Pancakes

「探偵探知機」 The Detective Detector
 私とセントラル・パークを歩いているエイヴリー・ナイトは、泥棒、辻強盗、殺人者で、ブロードウェイでも殺人はできると豪語、私の目の前で、拳銃で裕福そうな市民を殺害して、その持ち物を奪ってみせた。そして、駆けつけて来た警官に「いま人を殺しました」と言っても、警官は相手にしない。目撃者がいて人相が分かっているし、名刺入れを落としてきたのでナイトの名前と住所も分かっているはず。なのに、待っていても警察を出たはずの探偵はやってこない。その名探偵のはずのシャムロック・ジョーンズ(シャーロック・ホームズのもじり?)は、裏をかくつもりか、手掛かりと正反対の人間(アンドルー・カーネギー)を犯人ではないかと疑って探っている―。警察のダメさ加減を皮肉った話か。トーンが星新一みたいで、和田誠のイラストが似合いそう。

「ユーモリストの告白」Humorist Confessions
 ユーモアセンスが認められ、地元でも有名になり、遂に勤めを辞めてユーモア作家になった私だが、やがてスランプに陥り、ネタ探しをする余り人々にも嫌われ、ある葬儀屋の店内の奥の部屋の静謐さの中でのみ安息を得るようになる―。結局どうなったかというと、今ではこの町で好感を持たれ、軽口をたたいているというハッピーエンド。ユーモアって、根詰めて追求し過ぎると、ゆーもではなくなってしまうどころか、その人間そのものも危うくする?

「感謝祭の二人の紳士」 Two Thanksgiving Day Gentlemen
 感謝祭の日、金のある者は、貧乏な者に食事を振る舞う。その伝統を確固たる者にしようと、毎年同じ場所に集まる二人の紳士がいた。一方は、貧乏暮らしをしている頑固者のスタッフィ・ピート。もう一方は、この9年間、感謝祭の日には必ずピートに好きなだけ食事をさせる老紳士。今年も感謝祭にいつものようにベンチで出会う二人。しかし、今年のピートの状況は少し違った。ベンチに来る前、慈善家の気まぐれで、吐き気のするほど大量の料理を食べさせられていた。そうとは知らぬ老紳士は例年のようにピートを食事に誘う。この「伝統」を絶えさせてはならぬ、とピートも精一杯空腹を装う―。ネタバレだが、結局二人とも病院に担ぎ込まれることになる。ピートは満腹が限界に達しため。老紳士は3日間何も食べてなかったところへ大食いしたため。律儀な2人の憎めない滑稽さ。アメリカ人の"伝統コンプレックス"を揶揄。

「ある都市のレポート」 A Municipal Report
 南部の街ナッシュヴィルの歴史や特徴をガイドブックさながらに紹介しつつ、一ドル紙幣の謎をも織り交ぜて、街のさまざまな人間模様をコミカルに描く―。南北戦争後のアメリカの姿を描いており、無意識ではあっても黒人への人種差別が根強く存在することが窺える。

「金のかかる恋人」A Lickpenny Lover
 デパートのショップガール、メイシーは、ある日来店した男にデートに誘われ、やがてプロポーズされる。自分と結婚すれば人生はずっと続く休暇となり、どこへでも行けると。しかし、コニーアイランドへ行こうと言われ、新婚旅行に遊園地かと呆れ彼の申し出を断る。ところが実は彼は―。思い込みや固定観念とかで縁を逃してしまう話。

「更生の再生」A Retrieved Reformation
 スペンサーの本名はジム・ヴァレンタイン。若くして凄腕の金庫破りだったが、名刑事ベンに捕まった。刑務所出所後も彼は大胆な金庫破りを続けるが、エルモアの地で銀行頭取の娘アナベルに出会い、一目惚れした彼はその地に定住し、靴屋を開業して成功を収める。その上で彼女と接触し、持ち前の社交性を発揮して僅か一年の間に婚約までこぎ着ける。ある日、頭取アダムズが新型金庫を説明している最中に、アナベルの姉の娘が遊んでいて閉じ込められる―。その後は想像がつくかと思われる。スペンサーはジム・ヴァレンタインに戻り、譲り渡すために持参していた自分の道具を並べ、新型金庫を事もなげに破り、女の子を救い出す。そこに、たまたま張っていた名刑事ベンがとった行動は...。「A Retrieved Reformation(よみがえった改心)」という原題で、作者46歳の時(1909.4)に刊行された第7短編集『Roads of Destiny(運命の道)』に収録され、「侠盗ヴァレンタイン(Alias Jimmy Valentine)」('28年)など何度か映像化されている。

 昔、新潮文庫の大久保康雄:訳『O・ヘンリ短編集』(全3巻)を読んで、今回は新訳での読み直しになります(ラインアップは多少異なる)。この巻は、個人的ベストを絞り切れません。良いと思ったのは「騎士の道」「芝居は人生だ」「心と手」「更生の再生」です。「騎士の道」は西部劇。「芝居は人生だ」凝ったストーリー。「心と手」と「更生の再生」は、保安官や刑事の人情がラストに浮かび上がる「二十年後」などと似たモチーフ。短いけれど印象に残る「心と手」が、キレ味という意味で個人的ベストでしょうか。。

新潮文庫:大久保訳・小川訳 各収録作品
oヘンリー短編集新旧.png

和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション(1~8)』(2007/04~2008/03 理論社)
『オー・ヘンリー』.jpg

「●О・ヘンリー」の インデックッスへ Prev| NEXT ⇒ 【3267】 О・ヘンリー 『最後のひと葉
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

個人的ベストは、最後の「車を待たせて」か。「緑のドア」も面白かった。

O・ヘンリー 賢者の贈りもの.jpg賢者の贈りもの: O・ヘンリー傑作選I (新潮文庫)

 1905年12月10日発表の「賢者の贈りもの」ほか16編を収録(書影は和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』)。

オーヘンリー セレクション 賢者の贈りもの.gif「賢者の贈りもの」 The Gift of the Magi
 明日はクリスマスというのにデラの手元に「人生模様」51.jpgあるのは僅か1ドル87セント。これでは愛する夫ジムに何の贈りものもできない。デラは苦肉の策を思いつき実行するが、ジムもまた、妻のために一大決心をしていた―。この作品、クリスマス前発表されている。あまりに有名な作品であり、オムニバス映画「人生模様(O. Henry's Full House)」('52年)の一話としてなど、TV-Mも含め何度も映像化され、オペラにもなり、「ミッキーのクリスマスの贈りもの」('99年)としてディズニーアニメにもなっている。

「春はアラカルト」 Spring à la Carte
 古い下宿に住むサラ。やっとのことで、隣のレストランのメニューの清書タイピストの仕事を得た彼女には、前年の夏、田舎である農夫の若者と恋に落ち「春になったら結婚しよう」と言い合った過去があった―。タイプの打ち間違えが二人を再び引き合わせたという偶然、と言うより「奇跡」に近いか。それでも感動物語に仕上げるところが、この作者の強み。

「ハーグレーヴズの一人二役」 The Duplicity of Hargraves
 娘とワシントンのアパートに暮らす老軍人は元少佐で、回顧録を書いており、近々それを出版して生計費にと考えている。やがて、同じアパートに、役者の卵の感じよい青年が入居する。少佐と娘が気晴らしに劇場に行くと、偶然にもその青年が出演していたが、彼は少佐の振る舞いを完全に模倣した演技で観客の喝采を浴び、少佐は頭にくる。回顧録の進捗が無く、少佐家族は困窮に陥る。例の役者の青年が用立てを申し入れるが、気を悪くしたままの少佐は断る。少佐家族がいよいよ困窮した際に、思いもよらないところから助け舟が―。リアリティに問題がありそうだが、面白かった。

オーヘンリー セレクション 20年後.jpg「二十年後」 After Twenty Years
 ボブとジミー・ウェルズはある場所で20年後に再会する約束をした。ボブが待っていると夜中に巡回中の警察官がやってきて、ボブは西部での成功体験を語る。警察官が去った後、 ジミーと思しき背の高い男が現れ、2人は共に歩き始めるが、明るい場所に出たところでボブは背の高い男がジミーではないことに気づく―。分からないものかなあ。でも、年月は人を変える。法を犯してまでアメリカン・ドリームを追い求めるような人間はよろしくない、ということ。「二十年後」('89年/米)という短編映画になっている。

「理想郷の短期滞在客」 Transients in Arcadia
 避暑地の豪華ホテルに、貴婦人の客がチェックインした。数日後に青年実業家が訪れ、2人は言葉を交わすようになる。自分たちが属しているゴージャスな環境や生活、高い社会的地位や名声について語り合ううちに、2人の間には親近感が芽生え始める。しかし、1週間目のディナーの後で、貴婦人は青年に打ち明ける―。たまに贅沢してみるのもいいかも。"プチ贅沢"ではなく本格的なのを。

「巡査と讃美歌」 The Cop and the Anthem
「人生模様」11モンロー.jpg 冬が近づき、ホームレスのソーピーは冬を快適に過ごすために、刑務所に入ることを計画した。毎年のことである。盗み、無銭飲食、警官への暴行、店のショーウィンドーの破壊。いろいろ試みたが、なぜか警察は逮捕してくれない。疲れて教会に入った。讃美歌が聞こえてきた。その神聖な雰囲気に触発されてか、ソーピーは自分の態度を反省し、真面目に仕事を探すことにした。そして教会を出たところ―。1904年発表。法の無慈悲。オムニバス映画「人生模様」('52年)の一話としてチャールズ・ロートン主演で映像化されていて、マリリン・モンローが出ている。

「水車のある教会」 The Church with an Overshot-Wheel
 4歳になった時に忽然と姿を消してしまった愛娘アグレイア。父親のエイブラム・ストロングは娘を探し続け、母親は心労で亡くなってしまった。エイブラムは、娘がいた頃、水車小屋で小麦粉を挽く仕事を生業とし、作業中はいつも粉挽き歌を歌い、いつも娘と一緒だった。その後、エイブラムは財を築き、古い水車小屋はアグレイアを偲ぶために、そして彼女が住んでいた村人たちが神の恵みを授かるよう教会に改築され、彼は神父となった。また、自分の製品である小麦粉を、災害などで貧窮した人々に無料で配布することにした。何年か後、村のホテルに二十歳のローズ・チェスターという女性が休暇で宿泊していた―。再開物語だとオチは見えていても、パイプオルガンの音が水車の粉を挽く音に重なったというあたりは旨い!と思わせる。

「手入れのよいランプ」 The Trimmed Lamp
 同じ故郷から、都会に出てきた2人の女性。そのひとり、ルーは洗濯屋で地道にお金を稼ぎ背丈のあった男性ダンという恋人を持っている。もうひとりナンシーは、デパートのショップガールとして働き、デパートにやってくる金持ちの男性と玉の輿の結婚を日々狙っている―。幸せを掴んだのは、聖書の「手入れの良いランプ」の喩えにあるように、日頃からランプを手入れするように自分の感性を磨き上げていた女性の方だった。世間の考え、他人の価値観に翻弄され、知らぬうちに他人の価値観の上で行動していると、いつか後悔が残ってしまうだろうという教訓。

オーヘンリー セレクション 千ドルの使い道.jpg「千ドル」 One Thousand Dollars
 ジリアンは使途を報告する義務のある遺産千ドルを受け取る。一生遊んで暮らせる額ではない。面倒くさがり屋の彼は「使途の報告」すら重荷に感じ、叔父の庇護を受けていたミス・ヘイデンに千ドルをそっくりそのまま譲ることに。ところがそれを弁護士に報告に行くと、千ドルの使い方次第では追加の遺産五万ドルを継承できると告げられる。追加遺産の条件は、よいことに使えば自分に五万ドル、ろくでもないことに使っていれば何もなし(五万ドルはミス・ヘイデンに渡る)といもの。頼るものをなくし、特に資産もないとおぼしきミス・ヘイデンに千ドルを贈ることは善行の部類に入るだろう。ジリアンは報告書を読まれる前に「競馬で浪費した」と弁護士に告げて気楽な調子で去っていく―。ジリアンはミス・ヘイデンを心から愛しているのだなあ。自らが損しても、彼女が実質的に幸せになる方を選んだわけだ。しかも、自分の気持ちを伏せて(ある種の美意識?)。

「黒鷲の通過」 The Passing of Black-Eagle

「緑のドア」 The Green Door
 冒険好きな青年ルドルフが夕方通りを歩いていたら、ビラ配りの男がビラをくれる。しかしそのビラは「緑のドア」と書いてあるだけ。試しにもう一回ビラを貰ったらやはり「緑のドア」と。冒険好きなルドルフの血が騒ぎ、近くの建物の中に入ったらそこには緑のドアがあった。ルドルフはそのドアを叩くと 妙齢の女性がドアを開け、彼の姿を見てその場で倒れ込む―。ネタバレになりますが、「緑のドア」が表わしていたのは、ルドルフが入った建物のことではなく、通りの向こうの劇場の演目タイトルで、でも、ルドルフが勘違いして入った建物にも緑のドアあって(ただし、その建物の部屋のドアはすべて緑だった)、要するに、彼が冒険の始まりだと思ったものは彼の壮大な勘違いだったということ。しかしながら、彼の冒険心が一人の女性を救うとともに、新たな出会いを生んだのも事実。

「いそがしいブローカーのロマンス」 The Romance of a Busy Broker
 株式仲買人ハーヴェイ・マクスウェル。"仕事馬鹿"が進んでる彼は、速記者レズリーに気がある。ある日のこと。仕事が立て込んでおり、猛烈に忙しいハーヴェイだったが、ほのかに甘いライラックの香りに我に返り、行動に移る。ハーヴェイの告白は成功するのか―。ほとんど漫画チックな結末。リアリティより皮肉に比重を置いているが、主人公に対する作者の眼は暖かい。

オーヘンリー セレクション 赤い酋長の身に白金.jpg「赤い酋長の身代金」 The Ransom of Red Chief
 悪党のビルとサムは、いかさま土地周旋の元手を得るために、アラバマ州の田舎町の有力者ドーセット氏の息子を誘拐する。ところが、この少年は実はとんでもない腕白坊主で、自分をインディアンの「赤い酋長」と名乗り、ビルをまぬけな白人猟師の「オールド・ハンク」サムをスパイの「スネーク・アイ」と勝手に命名、家から離れた洞窟に連れて来られてもかえって喜ぶ始末。挙句の『赤い酋長の身代金』コミック.jpg「人生模様」41.jpg果てにビルの頭の皮をはごうとする。2人は身代金を期待するがドーセット氏は平然とした様子。二人は身代金の金額を下げて脅迫状を出すが、ドーセット氏からはあべこべに250ドル払えば息子を引き取ると申し出る手紙が届いただけだった。少年の腕白ぶりに恐れをなした悪党達は、ドーセット氏の申し出たとおりの金額を払い、何とか逃げ出すことが出来た―。悪党2人が身代金目的で誘拐した腕白坊主に振り回される愉快な作品。1907年7月6日発表。オムニバス映画「人生模様」('52年)の一話として映像化されているほか、永島慎二によって漫画になっている。

「伯爵と婚礼の客」 The Count and the Wedding Guest
 アンディ・ドノバンは自分の下宿の新たな下宿人コンウェイ嬢を最初は気にかけてなかった。だがある日、喪服を着た彼女に心を奪われ、泣いている彼女を元気づけようとした。彼女は徐々に心を開き、反対する父からようやく許しをもらえた許嫁が死んだことを告げ、写真を見せる。1か月後。彼らは結婚することになった。だがアンディは不安な気持ちでいっぱいだった。そんな彼をみて彼女は自分に許嫁などいなかった、作り話だったと罪の告白をする。アンディは男は彼女の好きな人が自分の尊敬する人ではなかったことに気づき安堵した。写真は許嫁ではなく、彼の尊敬するサリヴァンだったのだ―。写真を見た段階でアンディは彼女のウソに気づいていたことになるが、それを言わないで、彼女が真実を打ち明けるのを待ったということか。優しいね。

「この世は相身互い」 Makes the Whole World Kin
 ある家に侵入した盗賊は、目を覚ました家主の男に「手を上げろ」と命令する。右手を高々と挙げた男に、盗賊は「左手もだ」と要求するが、男の返答は「こっちの手は上がらん。肩にリュウマチがある」。実は盗賊も...。まさに同病相合われるを絵に描いたような話。

「車を待たせて」 While the Auto Waits
 夕方の公園でいつも読書をする美しい女性と、その女性に好意を持ちつつもいつも遠くから眺めている青年パーケンスタッカー。ある日青年は彼女が落とした本を拾い上げ、声を掛けた。彼女は高貴な家柄の人だという。そして、金持ち達の形骸化した贅沢に嫌気がさし、庶民の娯楽を楽しんでいるそうだ。彼女はドイツのとある公国の大公とイギリスの公爵から求婚を受けていると話す。青年は自分の職業をレストランの出納係だと言う。すると彼女は腕時計を覗き、慌てて立ち上がった。青年は彼女の車まで送ろうと申し出たが、ナンバープレートを見られては困るからと断る。しかし、彼女は自分の車を気にも留めず、奥の青年が働いているというレストランに入り、その出納係の席に座った―。車を待たせてたのは誰だったのか、ラストがいい。「While the Auto Waits(自動車を待つ間)」という原題で、作者46歳の時(1908)に刊行された第5短編集『The Voice of the City(都会の声)』に収録されている。

 個人的ベストは、最後の「車を待たせて」でしょうか。タイトルが旨いです。「緑のドア」も面白かったですが、"奇跡的"ととるか、やや偶然が重なり過ぎととるか、微妙なところも。

●0・ヘンリー短編集一覧(刊行年順) ※刊行時年齢
◎生前に刊行された短編集
 第1短編集『キャベツと王様』(Cabbages and Kings, 1904年11月)※42歳
 第2短編集『四百万』(The Four Million, 1906年4月)※43歳
 第3短編集『手入れのよいランプ』(The Trimmed Lamp, 1907年)※45歳
 第4短編集『西部の心』(Heart of the West, 1907年10月)※45歳
 第5短編集『都会の声』(The Voice of the City, 1908年5月)※45歳
 第6短編集『やさしいつぎ木師』(The Gentle Grafter, 1908年11月)※46歳
 第7短編集『運命の道』(Roads of Destiny, 1909年4月)※46歳
 第8短編集『選択権』(Options, 1909年10月)※47歳
  第9短編集『きびしい商売』(Strictly Business, 1910年3月) ※47歳
◎没後に刊行された作品集
 第10短編集『回転木馬』(Whirligigs, 1910年9月)
 第11短編集『てんやわんや』(Sixes and Sevens, 1911年)
 第12短編集『転石』(Roalling Stones, 1912年)
 第13短編集『がらくた』(Waifs and Strays, 1917年)


『Oヘンリ短編集』.jpg 昔、同じ新潮文庫の大久保康雄:訳『O・ヘンリ短編集』(全3巻)を読んで、今回は新訳での読み直しになります。旧訳とは多少ラインアップは異なりますが、ほぼほぼ重なっている感じです。和田誠がイラストを描いている千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション(1~8)』(2007/04~2008/03 理論社)も読み易く楽しいです。

大久保康雄:訳『O・ヘンリ短編集(1)』(1969/03 新潮文庫)
大久保康雄:訳『O・ヘンリ短編集(2)』(1969/03 新潮文庫)
大久保康雄:訳『O・ヘンリ短編集(3)』(1969/04 新潮文庫)
大津栄一郎:訳『オー・ヘンリー傑作選』(1979/11 岩波文庫)
芹澤  恵:訳『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』(2007/10 光文社古典新訳文庫)
青山  南:訳『O・ヘンリー ニューヨーク小説集』(2015/05 ちくま文庫)
越前 敏弥:訳『オー・ヘンリー傑作集1 賢者の贈り物』(2020/11 角川文庫)
越前 敏弥:訳『オー・ヘンリー傑作集2 最後のひと葉』(2021/03 角川文庫)
『O・ヘンリー短編集』文庫.jpg

新潮文庫:大久保訳・小川訳 各収録作品
oヘンリー短編集新旧.png

和田誠:イラスト/千葉茂樹:訳 『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション(1~8)』(2007/04~2008/03 理論社 )
『オー・ヘンリー』.jpg
 

「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●も 森 鷗外」【650】 森 鷗外 『
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

残酷な滑稽さ。「雨」の強烈な大どんでん返しとはまた違ったほろ苦いラスト。

『雨・赤毛』 新潮文庫.jpg『雨・赤毛 モーム短篇集(I.jpg『雨・赤毛  モーム短篇集(I)』.jpg
モーム短篇集〈第1〉雨,赤毛 (1959年) (新潮文庫)』『雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)

 白人の殆どいない南サモアの小さな島。島々に荷物や手紙を運ぶ貨物船の船長が停泊のため、ある島のラグーン(珊瑚環礁)に入る。船長は日に焼けた中年の白人で、太っていて、禿げていて、汚い服を着ていた。島で暮らすスウェーデン人のニールソンは、久しぶりに会った白人である船長に、若き日の恋物語を語り始める―。かつて、アメリカ海軍から逃亡した「レッド」と呼ばれる二十歳の赤毛の水兵がこの島に来て、土地の16歳の美しい娘と出会い、二人は恋に落ちた。二人は一緒になり、楽園のように美しい島で無上の幸福の時を過ごすが、2年後、出来心を起こした青年は、騙されてイギリスの捕鯨船に連れ攫われてしまう。残された女は涙に明け暮れ、4カ月後に子どもを死産する。男の音沙汰はない。3年が経った頃、当時25歳のニールソンは、病気療養のために島にやって来て、その美しい娘に見惚れる。周囲も彼との結婚を勧めるが、レッドのことが忘れられない彼女は拒絶する。しかしやがて観念し、ニールソンと結婚するに至る。ニールソンはじめ、自分の愛情によって娘を幸福にすることができると信じていたが、やがてそれが無理だと理解する。彼女から愛されることのないことを悟った彼は、やがて胸の内で彼女を憎むようになる。そして25年の月日が流れた―。今、ニールソンの前にいる船長、禿げた赤毛の頭、酒ぶくれでぶよぶよに太った醜い男は、何故かニールソンに不快感を催させる。「であんたのお名前は?」そう、この船長こそがレッドだった。25年の歳月で美しかった青年は、こんなにも醜い中年男性になってしまっていた。やがて船長は帰る。ちょうどその時、奥から白髪の太った色黒の現地人女性が「今の人は何の用だったの?」と出てくる―。

一葉の震え.jpg 原作は1921年刊行(モーム47歳)の短編集『木の葉の戦(そよ)ぎ』(The Trembling of a Leaf)に「」などと共に収められていた中篇小説です(『木の葉の戦ぎ』は'14年に近代文藝社から初の完訳本が『一葉の震え』として刊行された)。

一葉の震え―「雨」ほか、南海の小島にまつわる短編集』['14年/近代文藝社]
(「レッド」「小川の淵」「ホノルル」「雨」「エドワード・バーナードの凋落」「マッキントッシュ」の6編を所収)

 ネタバレになりますが、老醜の船長が、かつての美男子「レッド」であったことは、話の途中にかなり"仄めかし"があったように思います。ただし、ラストでもう一捻りあって、当事者双方が自分たち自身はそうであると認識しない「再会」があったことになります。

 老いて変わり果てたレッドの存在が明らかになったことによって、切なさを秘めた悲劇であったはずの物語が残酷な様相を帯び、さらにそれに輪をかけるように、もう1人の悲劇の主人公=悲恋物語のヒロインであったはずの女性の、時の流れに抗えなかった今現在の姿が浮かび上がるという、冷酷とも皮肉とも言える結末となります。見方によっては、そこに残酷な滑稽さがあるとも言えます。

 「雨」の強烈な大どんでん返しとはまた違ったほろ苦いラストで、ストーリーテラーとしてのモームの面目躍如といった結末ではないでしょうか(語り手のニールソンが当事者の双方ともに対して事実を明かさないことで、"ほろ苦い"という程度で収まっているとも言える。話していたらどうなっていたか想像するのも、この物語の味わい方の一つかも)。

 もう1つ所収の「ホノルル」という短編も、ある種似たような皮肉な笑いで終わる話で、語り手が出会った陽気で楽天的な小男の船長は、美しい現地人の娘を伴って現れ、自分が陥った超自然的な危機について語り始めますが―。愛する男のために自らの身体をなげうって顧みない娘が、あっさりと他の男と逃げ出してしまうという結末も何とも皮肉です。ただし、訳者の中野好夫が指摘しているように、「雨」「赤毛」に比べると、構成や結末のインパクト等の面でやや落ちるでしょうか。

【1957年文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳『赤毛―他六篇』)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳『雨・赤毛―モーム短篇集Ⅰ』)]/1962年再文庫化[岩波文庫(朱牟田夏雄:訳『雨・赤毛 他一篇』)]/1978年再文庫化[講談社文庫(北川悌二:訳『雨・赤毛』)]】

「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3235】 ウィリアム・サマセット・モーム 「赤毛
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

モデルとされているゴーギャンとの相違点も多い。世界文学の名作でありながら、読み易く面白い。

『月と六ペンス』(文庫).jpg
厨川圭子:訳『月と六ペンス』(1958 角川文庫)/中野好夫:訳『月と六ペンス』(1959 新潮文庫)/龍口直太郎:訳『月と六ペンス』(1966 旺文社文庫)/阿部知二:訳『月と六ペンス』(1970 岩波文庫)/北川悌二:訳『月と六ペンス』(1972 講談社文庫)/土屋政雄:訳『月と六ペンス』(2008 光文社古典新訳文庫)/厨川圭子:訳『月と六ペンス』(2009 角川文庫)/行方昭夫:訳『月と六ペンス』(2010 岩波文庫)/金原瑞人:訳『月と六ペンス』(2014 新潮文庫)
The moon and sixpence (1919 edition) |
The Moon and Sixpence 1919.jpg 作家の私は、夫人のパーティーに招かれたことからストリックランドと知り合う。ストリックランドは証券会社で働いていたが、ある日突然家族を残して消える。私は夫人に頼まれ、パリのストリックランドのもとへ向かうと、駆け落ちしたという女性の姿はなく、一人で貧しい生活を送っていた。話を聴くと、絵を描くために生活を捨てたという。私は彼を批判するが、彼はものともしない。夫人は私からそのことを聞くと悲しんだが、やがてタイピストの仕事を始めて自立してく。その5年後、私はパリで暮らしていた。以前に知り合った三流画家のダーク・ストルーヴを訪れ、彼がストリックランドの才能に惚れ込んでいることを知る。ストルーヴに連れられストリックランドと再会するが、彼は相変らず貧しい暮らしをしていた。それから私は何度かストリックランドと会ったが、その後絶縁状態になっていた。クリスマス前のある日、ストルーヴとともにストリックランドのアトリエを訪れると、彼は重病を患っていた。ストルーヴが彼を自分の家に引き取ろうとすると、妻のブランチは強く反対する。夫に説得されてストリックランドの看病をするうちにブランチは彼に好意を寄せるようになり、ついには夫を棄ててストリックランドに付き添うが、愛情を受け入れてもらえず服毒自殺する。妻の死を知ったストルーヴは、ストリックランドへの敬意を失うことなく、故郷のオランダへと帰って行った。私はストリックランドに会って彼を再び批判したが、その後彼と再会することはなかった。ストリックランドの死後、私は別件でタヒチを訪れていた。そこで彼を知るニコルズ船長に出会い、彼が船乗りの仕事をしていた時のことを聞く。貿易商のコーエンはストリックランドを自分の農場で働かせていたことを話す。宿屋のティアレは彼にアタという妻を斡旋したことを話した。彼の家に泊まったことのあるブリュノ船長は、ストリックランドの家の様子を話した。医師のクートラはストリックランドがハンセン病に感染した晩年のことを語り、彼の遺作は遺言によって燃やされたとしている。私は医師の所有するストリックランドの絵画を見て恐ろしさを感じていた―。
New York: Pocket Books, 1967.
『The Moon and Sixpence 』.jpg 1919年に出版されたサマセット・モームの、言わずと知れた彼の代表作。画家のポール・ゴーギャンをモデルに、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を描いています。この小説を書くに際し、モームは実際にタヒチへ赴き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたといいいます。「月」「六ペンス」はそれぞれ「聖」と「俗」の象徴であるとか、これまでも何度も言われていますが、そう言えば、両方とも"丸い"形は同じなのだなあと改めて気づいたりしました(気づくのが遅い?)。

 ゴーギャンがモデルであるのは確かですが、ストリックランドとゴーギャンでは相違点がかなり多いというのは以前から指摘されていることです。ストリックランドは英国人ですが、ゴーギャンはフランス人で、ストリックランドは印象派を全く評価しておらず、同世代の画家とも付き合いはないように描かれていますが、ゴーギャンは印象派展に作品を出展しており、ゴッホだけでなく、多数の印象派画家と交流がありました(ストリックランドがタヒチで亡くなっているのに対し、ゴーギャンはマルキーズ諸島で亡くなっているなど、ほかにも多くの相違点がある。 ただし、画家になる前は証券会社で働いているなど、共通点があるのも確か)。

 最初に読んだ時は思いつかなかったのですが、ストルーヴ(この興味深いキャラクターの三流画家は、絵は下手だが、ストリックランドの才能を見抜く眼力はあったということになる)が、そのゴッホをモデルにしているという見方もあるようです(ストルーヴはゴッホ同様にオランダ人)。ただし、ストルーヴは、自らが見出した超絶した才能の前に、その彼に妻を奪われてまでも崇拝の念を抱き続ける、ある種、ドストエフスキーの小説に出てくるような特異な人物として描かれれています。

ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
「我々はどこから来たのか.jpg 最後に語り手である「私」がタヒチで遭遇したストリックランドの遺作は、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」がモデルになっているのではないでしょうか(高間大介『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』)('10年/角川文庫)、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?(上・下)』('22年/文藝春秋)が共にこの絵からタイトルを取り、表紙カバーにこの絵を用いている)。

 世界文学に名を残す作品でありながら、読み易く、特に後半の「私」がタヒチを訪れて聞くストリックランドの話は、いきいきしていて(時制を後日譚(過去形)からリアル(現在進行形)に戻している箇所がある)面白いといっていいくらい。その面白さの中には、現地の人たちでさえ何の価値も無いと思っていたストリックランドの絵に、後にとんでもない高値が付いたというエピソードも含まれますが、ある意味、芸術的価値でさえ金銭的数字に置き換えられるという、資本主義社会を腐肉っぽく象徴しているようにもとれます。

 ただし、最後にタヒチでのストリックランドのことを夫人に話し終えた「私」の頭には、「彼がアタとの間に儲けた息子が、大海原で船を操っている姿が浮かんでいた」とあり、ロマンチックな終わり方になっています。こうした南洋への憧れは西欧人に根強くあって、たとえば映画の世界ならば、ミュージカル映画「南太平洋」('58年/米)からディズニー映画「モアナと伝説の海」('16年/米)まで連綿と続いているのではないでしょうか。

「月と6ペンス」映画.jpg この作品自体も1942年に、「月と6ペンス」('42年/米)としてジョージ・サンダース主演(ストリックランド役)によって映画化されていますが、ストリックランドが「女というものは犬と同じで、ぶてばぶつほど、罰を受けていい子になる」というようなことを言っていて(原作に実際そのようなストリックランドの言葉がある)、そのセリフが当時の女性たちの反発を猛烈にくらい、ジョージ・サンダースはフェミニストから敵視されたとか。彼は自分は女性を蔑視しておらず、愛犬家でもあることをアピールしたようですが(この人を主人公にした『ジョージ・サンダース殺人事件』という推理小説があるぐらいの当時の人気俳優でもあり、人気があるからこそ叩かれたのかも)。

「月と6ペンス」1942.jpg 映画の方はリアルタイムでストリックランドを追っているので、彼とアタの出会いなども描かれていて、ラブロマンスっぽい印象です(前半はコメディっぽい箇所も多い)。英語版しか観ていないので、評価は保留します。アタを演じているのはエレナ・ヴェルダゴという米国の白人女優で、その後の出演作をみると「南の島でラブハント」('44年)とか「ジャングルの宝庫」('49年)とかそれ風のタイトルの作品が続くので、よほどこの映画の印象が強かったのでしょうか(フランケンシュタイン映画など怪奇映画にも出ている)。
  
House of Frankenstein (1944.jpgElena_Verdugo_1955.jpg Elena Verdugo

House of Frankenstein(1944)
  
『月と六ペンス』(角川文庫)2.jpg【1958年文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳)]/1966年再文庫化[旺文社文庫(龍口直太郎:訳)]/1970年再文庫化[岩波文庫(阿部知二:訳)]/1972年再文庫化[講談社文庫(北川悌二:訳)]/2008年再文庫化[光文社古典新訳文庫(土屋政雄:訳)]/2009年再文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳)]/2009年再文庫化[岩波文庫(行方昭夫:訳)]/2014年再文庫化[新潮文庫(金原瑞人:訳)]】
『月と六ペンス』(新潮 文庫).jpg

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【660】 セリーヌ 『夜の果てへの旅
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

ストーリーの面白さでぐいぐい読み進むことができた。ヒロインのキャラが立っている。

吸血鬼ドラキュラ (角川文庫).jpg 『吸血鬼ドラキュラ』 昔の創元推理文庫の表紙.jpg 吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫).jpg Bram_Stocker_1847-1912.jpg
吸血鬼ドラキュラ (角川文庫)』['14年](カバー:山中ヒコ)/『吸血鬼ドラキュラ (1963年) (創元推理文庫)』['63年](カバー:石垣栄蔵)/『吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)』['71年]/Bram Stocker(1847-1912)
『吸血鬼ドラキュラ』 角川文庫.jpg『吸血鬼ドラキュラ』 創元推理文庫o.jpg 事務弁護士のジョナサン・ハーカーは、ロンドンに屋敷を購入したいというドラキュラ伯爵との交渉のためトンラシルヴァニア山中の古城まで旅する。到着した城では、黒ずくめで長身のドラキュラ伯爵に迎えられる。伯爵の唇は毒々しい赤、その端からは尖った白い犬歯が出ており、息は生臭い。伯爵と英語で話す日が3日すぎた朝、持参の小鏡でヒゲ剃りを始めると、「おはよう」と伯爵が肩に手をやるが、鏡に伯爵の姿が映っていないことに驚く。手が滑り、頬から出血すると、伯爵が彼の喉笛に飛びかかる。身を引いた拍子に手が首の十字架にふれると、伯爵はとたんに「手当を」と言って、窓から鏡を外へ投げ捨てる。囚われの身であることに気づいた彼は、脱出方法を探しながら2ヵ月近くを過ごす。ある日、納骨所の木箱の一つに伯爵が死んだように横たわっているのを発見、2日後にまた行ってみると、若々しく膨らんだ伯爵の口のまわりが血だらけだった。魔女のような3人の怪女も現れて彼を苦しめる。ロンドンでは、ジョナサンからの連絡が途絶え、婚約者のミーナが気を揉む。ミーナの友達のルーシーは、3人の男性から求婚され、アーサー・ホルムウッド(ゴダルミング卿)を選んで幸福の絶頂にいた。しかし、近ごろ奇怪な夢遊病にかかり、夜中に外を歩き回って朝になるとその記憶がなく、体は衰弱していく。ルーシーの求婚者の一人でもあった精神病院の院長のジョン・セワードが診察するものの良くならず、恩師ヴァン・ヘルシング教授に救援を依頼する。駆けつけたヘルシング教授がルーシーの体に血液が足りないと診て輸血の手配をすると、彼女の首に2つの穴を発見する。教授は、ルーシーにニンニクの花輪を渡し、いつも身に着けているように指示する。どんどん血がなくなっていくルーシーに、もう一人の求婚者だったテキサスの大地主クインシー・モリスも駆けつけて輸血を申し出するが快方には向かわず、むき出しになってきた白い歯が尖り出す。やがてルーシーは亡くなって葬られるが、死に顔には元の美貌が戻り、首の穴も消えている。新聞は、人攫いの女に誘拐された子供が首にかみ傷をつけて戻るという怪事件の続発を報道、教授は、事件は実はルーシーの所業であるという。またセワード院長の奇妙な精神病患者レンフィールドは蝿、蜘蛛、鳥などを食べ、妙な説を唱え続けていたが、この男も伯爵の支配下にあるのだと。一方、ジョナサンはなんとか城を脱出して帰国し、ミーナと結婚していたが、伯爵は彼女に目をつけ、つけねらうようになる。レンフィールドを操ってセワードの病院に潜入した伯爵は、何万匹ものネズミの魔物を使ってパニックを引き起こす。ミーナを捉えると首を噛み、自分の爪であけた胸の傷口に彼女の口を押しつけて血を飲ませる。教授の用意した「聖餅」の効力で伯爵は退散するが、ミーナは「汚されてしまった」と嘆き、額に「聖餅」を当てると悲鳴を上げ、赤い痣ができる。ミーナの心に伯爵が入り込んだのだ。伯爵は自分の城へ帰ったらしいが、教授は、大都会で自分と同じ「不死者」を増殖させるのが伯爵の計画で、放置すればミーナも死後は彼と同じ「不死」の怪物になるという。事態を食い止めるには、ドラキュラ城まで追撃して彼を撲滅するしかないと、セワード、ゴダルミング卿、クインシーとジョナサンで計画を練る。ミーナからは催眠術でドラキュラの思考を引き出せるようになっていたので、彼女も加えたグループで東へと出発、城へ着くと、かつてジョナサンに迫った3人の魔女から攻撃を受ける。戦闘中、クインシーは深手を負うものの、彼らを撃退して、ついに納骨所の例の木箱に伯爵を発見。ジョナサンの大刀が伯爵の喉元を貫き、クインシーの匕首が胸に深く突き刺さると、その体は粉々の塵となって影も形なくなる。最期の瞬間の伯爵の顔には「平和の色」が浮かび、ミーナの額からは痣が消え、深手を負っていたクインシーもそれを見てにっこり笑って死ぬ―。

女吸血鬼カーミラ.jpg 1897年5月26日に刊行されたアイルランド人作家ブラム・ストーカー(1847-1912/64歳没)のゴシック・ホラー小説。ドラキュラ以前に書かれた同じアイルランド人作家でトリニティ・カレッジの先輩であるシェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』(1872年)の影響が強く見られ(実際、ドラキュラの初稿では舞台はトランシルヴァニアではなくカーミラと同じオーストリアだった)、棺で眠るなどもカーミラと共通で、以降の吸血鬼作品のモデルになっています。

 アイルランドの吸血鬼伝説の影響も受けていて、「吸血鬼小説」としては『吸血鬼』(1819年)や『吸血鬼ヴァーニー』(1847年)などこれら以前にあり、前者については、イギリスの詩人バイロン、パーシー・シェリーと、バイロンの愛人(後に妻)メアリー・ゴドウィンの3人に、バイロンの主治医であるジョン・ポリドーリを加えた4人で、レマン湖畔の別荘に滞在した時、それぞれ怪奇小説を書いてみよう、ということになり、その時に、メアリーが書いたのがあの有名な『フランケンシュタイン』(1818年)ですが、バイロンが吸血鬼ものの物語の出だしとなる『断片』を書いており、これをジョン・ポリドーリが完成させたのが『吸血鬼』でした。

『ドラキュラ』水声社.jpg この小説を読むのは個人的には何十年ぶりかですが、かなりの部分が手紙や日記形式になっていて、角川文庫で660ページとページ数もあり、最初は読み進むのにやや時間を要しますが、読み慣れてくるとストーリーの面白さもあってぐいぐい読み進むことができます。

 久しぶりに読み返してみて、4人の若者が力を合わせ、教授(この人も結構若そうな感じ)の知恵を借りてドラキュラ伯爵を倒したのだなあと改めて思い出しました(複数ヒーロースタイルだったことを忘れてしまっていた)。ヒロインたるミーナが、いったんはドラキュラに侵されながらも、逆にそれを利用して、自分に催眠術をかけ、ドラキュラ探索の羅針盤としてほしいと申し出るなど、ヒロインとしてのキャラがぐっと立っていて、その分、4人に分散されたヒーロー一人一人のキャラクターの印象が弱いのかもしれません。

 角川文庫のための訳し下ろしである田内志文氏の新訳は読み易かったですが、表紙イラストは何とかならなかったものか。自分が昔読んだのは、平井呈一訳『世界大ロマン全集〈第3巻〉魔人ドラキュラ』(1956)を創元推理文庫に移植したものではなかったかと思いますが、こちらも、今読んでも、読みつけてしまえば(活字が小さいことを除いて)そう読みにくくはないです。また、単行本『ドラキュラ』('14年/水声社)という完訳詳注版もあり、こちらは140ページにも及ぶ注釈が充実しています。

 この物語をベースにした映画などの話になると、原作の最初の正規の映画化作品であるトッド・ブラウニング監督の「魔人ドラキュラ」('31年/米)をはじめいくらでもありそうですが、また別の機会にします。

【1963年文庫化・1971年新装版[創元推理文庫(平井呈一:訳)]/2004年再文庫化[講談社文庫(菊地秀行:訳)]/2014年再文庫化[角川文庫(田内志文:訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2175】 オスカー・ワイルド 『幸福な王子
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

元祖ドラキュラ小説のそのまた元祖は女ドラキュラ。ゴシックホラー&レズビアンの香り。

I女吸血鬼カーミラ.jpg女吸血鬼カーミラ.jpg 『女吸血鬼カーミラ』創元推理.jpg  シェリダン・レ・ファニュ.png
長井那智子訳『女吸血鬼カーミラ』['15年]/平井呈一訳『吸血鬼カーミラ (創元推理文庫 506-1)』['70年] ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(1814- 1873)
『女吸血鬼カーミラ』挿画(にしざかひろみ)
『女吸血鬼カーミラ』 2.jpg 早くに母を亡くし、父と城暮らししていたローラは、幼い頃のある晩、一人きりで目を覚ました。泣いていると、美しい女性がやさしくローラを撫でながらそばで横になり、抱き寄せてくれた。ローラが眠り込んだところ、胸にずぶりと刺されたような感じがした。女中たちが調べてくれたが、刺された後は無かった―。ある夏、スピールドルフ男爵から娘が亡くなったとの知らせがローラの父に届く。ローラは男爵の娘と夏を一緒に過ごす予定だったのだ。手紙には、怪物を捜索し退治するという要領を得ない決意が書かれていた。そんな折、ローラの住む城の近くで馬車の事故が起こる。助け出された母親は「急ぎの旅なので娘は置いていかなければ」と言い、ローラの父は、事故に遭った娘の身柄を引き受けることに。母親は「3ヶ月たてば娘を迎えに来る」「身分も住まいも明かせない」と言う。娘はカーミラといい、ローラが会ってみると子供の頃の体験に出てきた少女とそっくりなので驚く。カーミラもまた、自分も子供の頃夢の中でローラを見たと告げる。すぐにうちとけた二人だったが、カーミラが自分の身元を話さないことにローラは焦れる。御料林の監守の娘の葬儀があったとき、カーミラは賛美歌に怯える。そして、監守の娘と同じ症状で衰弱死する娘があちこちに出る。ローラ自身も、夢の中で胸を刺されたような痛みを覚え、飛び起きると傍らに女性が立っていたようだった。以降ローラは日増しに具合が悪くなっていく。一方のカーミラは、夜中に部屋から消え、翌日の午後、いつの間にか部屋に戻っているようだ。ローラが医者の診察を受けると、医者は何か気がついた様子。ローラ、父と家庭教師とともにカルンスタインの古城へ向かうことになる。その折、スピールドルフ男爵に会う。男爵の話では、ミラーカという娘を預かってまもなく、娘は具合が悪くなり死んでしまったのだが、娘が死ぬ前にミラーカが娘を襲っているのを見たと言う。一行はカルンスタインの礼拝堂がある城跡に到着し、そこでスピールドルフ男爵は1世紀以上前に亡くなっているはずのカルンスタイン伯爵夫人マーカラに会ったことを明かす。スピールドルフ男爵は、彼女は死んでおらず、自分は娘の仇に復讐しなければならないと言う。〈カルスタイン伯爵夫人マーカラ〉=〈ミラーカ〉=〈カーミラ〉」だったのだ―。

初出誌「ダーク・ブルー」の挿絵(1872年)
カーミラ 1872.jpg256px-Carmilla.jpg アイルランド人作家ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(1814- 1873/58歳没)による1872年刊行の小説であり、レ・ファニュは怪奇小説とミステリーを得意としたゴシック小説作家ですが、とりわけ、この「女吸血鬼カーミラ」は、ドラキュラのイメージを決定づけた作品として知られています。と言っても、「女のドラキュラ」ではないか、との声もあるかと思いますが、男性版ドラキュラの元祖とされる、同じくアイルランド人作家のブラム・ストーカー(1847-1912/64歳没)の『吸血鬼ドラキュラ』が刊行されたのが1897年で、この作品の35年後であり、しかも、ブラム・ストーカーはこの作品から多くのヒントを得ていることを考えると、やはり、この「女吸血鬼カーミラ」は、元祖的と言うか、元祖ドラキュラのそのまた元祖という感じがします(因みに、「吸血鬼小説」としては『吸血鬼』(1819年)や『吸血鬼ヴァーニー』(1847年)などが本作以前にあるため、あくまでも「ドラキュラ小説」の元祖ということになる)。

 因みに、ローラと暮らしたカーミラの特徴は、
 ・寝る時は部屋に鍵をかけ、部屋に他人が居たまま寝ることを拒絶する。
 ・度々ローラに愛撫のような過剰なスキンシップをしながら愛を語る。
 ・ただし、その文言は生死に関わるものばかりである。
 ・起きてくるのは毎日正午を過ぎた昼日中で、食事はチョコレートを1杯飲むだけ。
 ・葬列に伴う賛美歌に異常な嫌悪感を表し、気絶しないようにするのが精一杯でいる。
 ・城へ来た旅芸人から錐や針に例えられるほど、異常に鋭く細長い犬歯をしている。
 と言ったもので、もう吸血鬼風がぷんぷん漂います。

新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ.jpg カーミラが「度々ローラに愛撫のような過剰なスキンシップをしながら愛を語る」ことから、レズビアン小説の色合いも濃くて、当時の時代背景からすれば発禁本になるところですが、作者は、「吸血鬼には性別が無いのでレズビアンには当たらない」として発禁を免れたようです。今ならば、ゴシックホラー小説(訳者の長井那智子氏は幻想小説としている)であると同時にレズビアン小説という評価になってもおかしくないかも。

 平井呈一訳『吸血鬼カーミラ』('70年/創元推理文庫)が完訳版として古く、その後、ジュニア版の翻訳は多く出ていますが完訳版が無かったのが、長井那智子氏の訳による本書『女吸血鬼カーミラ』('15年/亜紀書房)が45年ぶりの完訳版として刊行され、それに続いてKindle版の完訳版が複数出ています。

 また、ジュニア版ということでは、長井那智子氏も、本書の前年に『新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ』('15年/集英社みらい文庫)を出しており、1冊でブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」(要約版)と併せて愉しめるようになっています。

新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ (集英社みらい文庫)』(ジュニア版)
長井那智子:訳

カール・テオドア・ドライヤー監督「吸血鬼(ヴァンパイア)」 ('30年/仏・独)
吸血鬼 (1932)04.jpg 因みに、カール・テオドア・ドライヤー監督の古典的映画「吸血鬼(ヴァンパイア)」 ('30年/仏・独)は、このレ・ファニュの『女吸血鬼カーミラ』を原作としていますが、映画に出てくる女吸血鬼は老婆であり、映画にレズビアン的な表現はありません。ただし、その後の時代において、『女吸血鬼カーミラ』を原作とするロジェ・ヴァディム監督の「血とバラ」('60年/仏・伊)、ロイ・ウォード・ベイカー監督の「バンパイア・ラヴァーズ」('70年/英)や、或いは「バンパイア・ラヴァーズ」の後継でこの小説を下敷きとする「恐怖の吸血美女」('71年/英)、「ドラキュラ血のしたたり」('72年/英)などといった作品が作られていて、さらにはそこから派生するかのように女性吸血鬼が出てくる映画が数多く作られていていますが、その多くはエロチックな女性が出てくるレズビアン的な映画となっています(こういうの、好きな人は好きなんだろなあ)。

「血とバラ」('60年/仏・伊)/「バンパイア・ラヴァーズ」('70年/英)/
血とバラ(1961年).jpg 「バンパイア・ラヴァーズ」(1970年).jpg
「恐怖の吸血美女」('71年/英)/「ドラキュラ血のしたたり」('72年/英)
恐怖の吸血美女(1971年).jpg ドラキュラ血のしたたり(1972年).jpg
「催淫吸血鬼」('70年/仏)/「鮮血の花嫁」('72年/スペイン)
催淫吸血鬼(1970年).jpg 鮮血の花嫁(1972年).jpg

【1970年文庫化[創元推理文庫]】
  

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3097】 ブラム・ストーカー 『吸血鬼ドラキュラ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

ジュリアン・ソレルは、カミュ『異邦人』のムルソーのルーツか。

赤と黒 上 新潮文庫.jpg 赤と黒下 新潮文庫.jpg スタンダール.jpg     異邦人 1984.jpg
赤と黒(上) (新潮文庫)』『赤と黒(下)(新潮文庫)』スタンダール(1783-1842)カミュ『異邦人 (新潮文庫)

赤と黒 上下 新潮文庫.jpg 貧しい製材屋の末息子ジュリアン・ソレルは、才気と美しさを兼ね備えた、立身出世の野心を抱く青年。初めは崇拝するナポレオンのように軍人としての栄達を目指していたが、王政復古の世の中となったため、聖職者として出世せんと、家の仕事の合間に勉強している。そんなある日、ジュリアンはその頭脳の明晰さを買われ、町長・レーナル家の子供たちの家庭教師に雇われる。レーナル夫人に恋されたジュリアンは、最初は夫人との不倫関係を、世に出るための手習いくらいに思っていたが、やがて真剣に夫人を愛するようになる。しかし二人の関係は嫉妬者の密告などにより、町の誰もが知るところとなり、ジュリアンは神父の薦めにより、神学校に入ることとなる。そこでジュリアンは、校長のピラール神父に聖職者には向いてないと判断されるものの、類稀な才を買われ、パリの大貴族Le Rouge et Le Noir.jpgラ・モール侯爵の秘書に推薦される。ラ・モール侯爵家令嬢のマチルドに見下されたジュリアンは、マチルドを征服しようと心に誓う。マチルドもまた取り巻きたちの貴族たちにはないジュリアンの情熱と才能に惹かれるようになり、やがて二人は激しく愛し合うようになる。マチルドはジュリアンの子を妊娠し、二人の関係はラ・モール侯爵の知るところとなる。侯爵は二人の結婚に反対するが、マチルドが家出も辞さない覚悟をみせたため、やむなくジュリアンをある貴族のご落胤ということにし、陸軍騎兵中尉にとりたてた上で、レーナル夫人のところにジュリアンの身元照会を要求する手紙を送る。しかし、ジュリアンとの不倫の関係を反省し、贖罪の日々を送っていたレーナル夫人は、聴罪司祭に言われるまま「ジュリアン・ソレルは良家の妻や娘を誘惑しては出世の踏み台にしている」と書いて送り返してきたため、侯爵は激怒し、ジュリアンとマチルドの結婚を取り消す。レーナル夫人の裏切りに怒ったジュリアンは、彼女を射殺しようとするが―。
Le Rouge et Le Noir (Classiques Garnier) Paperback(表紙:レーナル家に家庭教師として訪れたジュリアン・ソレルはレーナル夫人と初めて対面する)


 スタンダール(本名マリ=アンリ・ベール、1783-1842/59歳没)の1830年11月刊行の作品で、実際に起きた事件などに題材をとった長編小説です。海外文学というと取っつきにくい印象がありますが、この『赤と黒』や、ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)の『レ・ミゼラブル』などは、こんなに面白くていいのかなというくらい面白いです。ただ、この『赤と黒』を『レ・ミゼラブル』と比べると、ストーリー的にはヴィクトル・ユゴーの方にストーリーテラー的な分があるように思われ、『赤と黒』の方は、ストーリーはそれほど凝ってはなく、心理描写の優れた作品であるように思います。

篠沢秀夫.jpg スタンダールとユーゴーについては、学習院大学名誉教授だったフランス文学者の篠沢秀夫(1933-2017)がその違いを論じていました(篠沢秀夫というと「クイズダービーの豪快な笑いの印象が強いが、時折見せる陰のある表情も個人的には印象にある。彼は、最初の妻を自動車事故で、息子を水難事故で失っている。クイズダービー出演の話を引き受けた理由として、長男を亡くしたのがその2年前の1975年で、当時悶々とした日々を過ごしていたことで、気分転換したかったことがあったからという。晩年の篠沢 ALS.jpgALS(筋萎縮性側索硬化症)闘病は壮絶だった)。その篠沢教授によれば(クイズダービーでも"教授"って呼ばれていた)、「スタンダールの小説は筋ははっきりしています。筋を書くだけだったらそれは簡単なんです。ところが、スタンダールの小説はいずれも政治小説という面があるんですね。この面を我々が今日読むと読み飛ばしてしまうんです」(『篠沢フランス文学講義 (1)』('79年/大修館書店))とのこと。なるほど。この小説の中にも、ジュリアン・ソレルが書記を務めたあるサロンの討議で、文学にとって政治とは何かという議論があり、「政治なんて文学の首にくくりつけた石ころみたいなもので、半年もたたぬうちに文学を沈めてしまいますよ」とサロンのメンバーに言わせていますが、これ、わざとだったのかあ。

 そのジュリアン・ソレルですが、レーナル夫人殺害計画は相手に傷を負わせただけで失敗し、捕らえられて裁判で死刑を宣告され、マチルドはジュリアンを救うため奔走するものの、彼は死刑を受け容れます。裁判では、ジュリアン・ソレル自身が、自分は犯罪によってではなく,支配階級への挑戦的態度によって裁かれているという裁判の欺瞞を主張しながら、しかも、レーナル夫人が実はいまだ自分を愛していることを知って生への執着も時に抱きながら、それでも彼女らの上告の勧めを断り続け、断頭台に向かうジュリアン・ソレル。どこかにこんな主人公がいたなあと思ったら、アルベール・カミュの『異邦人』の主人公ムルソーがそうでした。

異邦人 (新潮文庫)』Albert Camus
異邦人 新潮文庫 1.jpgAlbert Camus.jpg 『異邦人』を最初に読んだ時、これまでのどの小説にも無かった人物造形であることが『異邦人』という小説が注目されることになった最大の要因ではないかと思ったのですが、いま改めて『赤と黒』を読み返してみると、『異邦人』のムルソーのルーツは『赤と黒』のジュリアン・ソレルでないかと思った次第です。そこで、そうした両者が類似していることを論じた人はいないかと調べたところ、海外ではごろごろいるみたい(笑)。日本の研究者にもいて、フランス文学者でカミュ研究者の松本陽正・広島大学教授の「カミュとスタンダール―『異邦人』と『赤と黒』をめぐって」というストレートな論文があり、松本教授はそうした海外の研究者の研究を総括し、自身の見解も述べておられました(松本氏によればカミュが生涯にわたってスタンダールを愛読していたのは間違いないようである)。

クロード・オータン=ララ監督「赤と黒」('54年/仏)のジュリアン・ソレル(ジェラール・フィリップ)/ルキノ・ヴィスコンティ監督「異邦人」('67年/伊・仏・アルジェリア)のムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)
「赤と黒」ジェラール・フィリップ.jpgThe Stranger 1967  0.jpg 『赤と黒』も『異邦人』も物語の終盤は裁判になりますが(スタンダールの父はグルノーブル高等法院の弁護士だった)、ジュリアン・ソレルもムルソーは共に死刑を宣告されます。以下、松本教授の指摘を参照しながらそこに至るまでを振り返ると、犯行においては二人ともある種の錯乱状態に陥ってピストルを発射するという点が共通し、ジュリアン・ソレルの場合、殺意はあったにせよ、レナール夫人が軽症ですんだことや彼自身の悔恨、また、レナール夫人の奔走やマチルドの画策、世間の同情を考えあわせれば、死刑にはなりえなかったはずで、一方、ムルソーの場合も、植民地下のアルジエリアで武装したアラブ人を殺したからといって、死刑にはなりえなかったはずで、光に対する過敏な感覚を訴え、正当防衛を主張すれば、無罪とまではいかないまでも死刑は免れえたはずであり、そうした両者の置かれた微妙な状況がひどく似たものであると言えるかと思います。

 なぜ二人とも自らが死刑になることを受け容れるのかということについては様々な解釈や議論があり、安易に一緒くたに出来ないのかもしれませんが、ジュリアン・ソレルもムルソーも、自身の裁判から"疎外"されているというのは共通するのではないでしょうか(松岡正剛氏はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「異邦人」を観て、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想を持ったそうだ)。また、裁判を通してある種の高みに至るのも同じであり、ムルソーにしても最初から、サルトルが言うところの「実存主義的人間」を絵に描いたようなキャラクターではなかったように思います(サルトル自身がそれゆえの『異邦人』の文学性を自身の作品『嘔吐』と比べて高く評価している)。ジュリアン・ソレルも、死刑判決が出された後でレーナル夫人の真意(愛)を知って煩悶します。この両者の置かれている状況が似ているという事実と、両者とも変容を経て俗人の及びのつかない高みに達したように見える点は、やはりその類似に注目していいかと思いました。

クロード・オータン=ララ監督「赤と黒」('54年/仏)出演:ジェラール・フィリップ/ダニエル・ダリュー(192分)
赤と黒 4mai.jpg

ジャン=ダニエル・ヴェラーグ監督「赤と黒(TV-M)」('97年/仏・伊・独)出演:キャロル・ブーケ/キム・ロッシ・スチュアート(200分)
Le Rouge et Le Noir 1997.jpg 赤と黒Y445_.jpg 

【1957年文庫化[新潮文庫(上・下)(小林正:訳)]/1958年再文庫化[岩波文庫(上・下)(桑原武夫他:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(上・下)(野崎歓:訳)]】

「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒【2170】 サム・テイラー「ロイドの要心無用
「●ダスティン・ホフマン 出演作品」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

面白かったが、原作を読んだ人からは原作の方がいいと言われ、読後にもう一度皆で鑑賞会を...。

パフューム ある人殺しの物語 2007.jpg パヒューム ある人殺しの物語01.jpg パヒューム ある人殺しの物語02.jpg
パフューム ある人殺しの物語 [DVD]」ベン・ウィショー/ダスティン・ホフマン
ある人殺しの物語 香水 (文春文庫)
ある人殺しの物語 香水 (文春文庫).jpgパフューム 01.jpg 18世紀のフランス・パリ。悪臭漂う魚市場で、一人の赤子が産み落とされた。やがて孤児院で育てられたその男児の名はジャン=バティスト・グルヌイユといい、生まれながらにして数キロ先の匂いをも感じ取れるほどの超人的な嗅覚を持っていた。成長したグルヌイユ(ベン・ウィショー)はある日、街で素晴らしい香りに出合う。その香りを辿っていくとそこには一人の赤毛の少女がいた。少女の体臭パフューム ある人殺しの物語es.jpgにこの上ない心地よさを覚えるグルヌイユであったが、誤ってその少女を殺害してしまう。少女の香りは永遠に失われてしまった。しかしその香りを忘れられないグルヌイユは、少女の香りを再現しようと考え、橋の上に店を構えるイタリア人のかつて売れっ子だった調香師ジュゼッペ・パフューム 02.jpgバルディーニ(ダスティン・ホフマン)に弟子入りし、香水の製法を学ぶ。同時にその天才的な嗅覚を生かして新たな香水を考え、バルディーニの店に客を呼び戻す。さらなる調香技術を学ぶパフューム ある人殺しの物語 09.jpgため、香水の街・グラースへ旅に出るグルヌイユはその道中、なぜか自分だけ体臭が一切ないことに気づく。グラースで彼は、裕福な商人リシ(アラン・リックマン)の娘ローラ(レイチェル・ハード=ウッド)を見つける。以前街角で殺してしパフューム ある人殺しの物語08.jpgまった赤毛の少女にそっくりなローラから漂う体臭は、まさにあの運命的な香りそのものだった。これを香水にしたい、という究極の欲望に駆られたグルヌイユは、脂に匂いを移す高度な調香法である「冷浸法」を習得する。 そして時同じくして、若い美少女が次々と殺される事件が起こり、グラースの街を恐怖に陥れる。髪を短く刈り上げられ、全裸で見つかる美少女たち。グルヌイユは既に禁断の香水作りに着手していたのだった―。

香水 文庫.jpg 2006年公開のトム・ティクヴァ監督によるドイツ・フランス・スペイン合作映画で、原作は世界中で1500万部を売り上げているパトリック・ジュースキントの1985年発表の小説『パフューム ある人殺しの物語』(ジュースキントはスタンリー・キューブリックとミロス・フォアマンのみが正しく映画化できると考えており、他の者による映画化をを拒否していたという)。

 面白かったですが、原作を読んだ人からは原作の方がいいと言われて、原作を読んでみたら確かにそうでした。その後、4人くらいで新ためてPrime Videoで鑑賞会をしたのですが、原作を先に読んだ人が、映画の方はちょっともの足りないというのも分かったように思いました。

 この作品の翻訳者の池内紀氏が、文庫版の解説で(2003年に映画化の噂を聞いた段階で)「主役にあたる"匂い"をどうやって表現するのだろう。匂いをたどっていくのがおおかたの演技というのは、前代未聞のことではあるまいか。とどのつまりは、あとかたもなく消え失せる男。やはり映像よりも、活字を通してこそふさわしい」と述べていますが、この"予言"は的中したとも言えるかも。

パフューム 06.jpg そもそもスタンリー・キューブリックが映画化に意欲を示しながらも断念しているし、私財を投げ打って映画化権を得た映画プロデューサーのベルント・アイヒンガー(脚本も担当)も、最大の問題は「主人公は自分自身を表現していない。小説家はこれを補うために物語を使用することができる。それは映画ではできない」として苦心し、3人の脚本家による脚本は最終的な撮影台本となるまでに20以上の段階を経たとのことです。

 ただし、それだけの苦労もあり、また、元々ドラマ性を持つ話であるため、結果的には良く出来た(面白い)映画になっていたと思います。このストーリーは、ラスト近くで一気に寓話性を帯びてますが、そこに至るまでをリアリズムにこだわって作っている分、終盤の展開が効いているように思いました(個人的評価としては一応★★★★)。

パフューム ある人殺しの物語07.jpg 映画を観直してみて、ストーリー的にも概ね原作に忠実であったと思いました。それでは、原作との違い(違和感とも言っていい)をどこで感じたかというと、グルヌイユが少女に近づくとき、映画ではどうしても"香り"的なものと性的なものが混然としているように見えてしまう点です。原作ではその点がはっきり峻別されていました。

 結局、グルヌイユは、女性を性的な意味合いも含め人として愛することができない特殊な人物であるということなのでしょう。でも、映像化すると、若干"変態"性欲者っぽく(つまり普通のストーカーっぽく)見えてしまうのは、まさに「主人公は自分自身を表現していない」ことによるかと思います。

 全体を通して、ナレーションによる"ト書き"的表現が多いのも、また、そのナレーションにジョン・ハートという名優を起用しているのも、そうしたことと無関係ではないように思います。

パフューム ある人殺しの物語 ho.jpg ダスティン・ホフマンが調香師バルディーニ役で出演しています。そう言えば、昔から、ヨーロッパの監督の撮る文芸映画に、ハリウッドで活躍するスター俳優が出演するということがあったと思います。ルキノ・ヴィスコンティ(伊)監督の「家族の肖像」('74年/伊・仏)のバート・ランカスター、フェデリコ・フェリーニ(伊)監督の「カサノバ」('76年/伊・米)のドナルド・サザーランドなどがそう。もっと後では、マイケル・ラドフォード(英)監督の「ヴェニスの商人」('04年/米・伊・英)にアル・パチーノがシャイロック役で出ていました。当時、ダスティン・ホフマンのシャイロックを見たいと思ったのですが、ユダヤ系であるダスティン・ホフマンがシャイロックを演じるのは、何か差し障りがあったのでしょうか(調香師バルディーニの方が名前からイタリア系で、アル・パチーノ向きという気がしなくもないが)。

ベン・ウィショー/アラン・リックマン/レイチェル・ハード=ウッド
パフューム 05.gifパフューム 04.jpgパフューム 03.jpg「パフューム ある人殺しの物語」●原題:PERFUME: THE STORY OF A MURDERER●制作年:2006年●制作国:ドイツ・フランス・スペイン●監督:トム・ティクヴァ●製作:ベルント・アイヒンガー●脚本:トム・ティクヴァ/アンドリュー・バーキン/ベルント・アイヒンガー●撮影:フランク・グリーベ●音楽:アトム・ティクヴァ●原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』●時間:147分●出演:ベン・ウィショー/ダスティン・ホフマン/アラン・リックマン/レイチェル・ハード=ウッド/(ナレーション)ジョン・ハート●日本公開:2007/03●配給:ギャガ・コミュニケーションズ●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(19-04-09)(評価:★★★★)

「●お ジョージ・オーウェル」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3013】 ジョージ・オーウェル『動物農場
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

象を撃った時の描写が強烈。象を撃つに至る心理や撃った後の心情もよく描けていて秀逸。

象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉.jpgオーウェル評論集 1 象を撃つ.jpg  オーウェル評論集3 象を撃つ.jpg Modern Classics Shooting an Elephant.jpg
象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉 (平凡社ライブラリー)』['95年]/『オーウェル評論集 1 象を撃つ』['09年]/『オーウェル評論集3: 象を撃つ』[Kindle版]/"Modern Classics Shooting an Elephant (Penguin Modern Classics)"
Burma Provincial Police Training School, Mandalay, 1923
Eric Blair is the third standing tram the left
Burma Provincial Police Training School, Mandalay, 1923 Eric Blair is the third standing tram the left.jpg ビルマの警官として働く主人公の「私」。当時ビルマはイギリスの権力下に置かれており、現地の人からは良く思われていなかった。「私」はある日、市場(バザール)で象が暴れているとの連絡を受け、ライフルを持って現場に向かう。象は労役用で、さかりがついて鎖を切って暴れ、一人のインド人苦力を踏み殺してしまっていた。「私」が現場に着いた時にはすでに象は大人しくなっていたため、「私」は貴重な労役用の象を射殺する必要はないと判断する。ところが後ろを振り返ると、2千人を超える現地の人たちが野次馬のように集まっていて、「私」が象を射殺するのを期待しているのが強く分かる。「私」は象を撃ちたくないと思いながらも、支配者としてのイギリス人の対面を保つために、象を撃つはめになる―。

Eric Blair (pen name, George Orwell)
Eric Blair (pen name, George Orwell).jpg 1936年秋に発表されたジョージ・オーウェル(本名:エリック・アーサー・ブレア、1903-1950/46歳没)の短編で、オーウェルは19歳から5年間、当時イギリスの支配下にあったビルマ(現在のミャンマー)で警官として過ごしており、この「象を撃つ」はビルマ赴任を終えて約10年近く経て書かれたものですが、ビルマ時代を描いた作品の中でも代表的なものの一つに数えられているとともに、作者の短編の中でも代表作とされているものです。ただし、1945年に出版された『動物農場』で作家として一気にその名を高める、その9年前の作品ということになるので、注目されるようになったのは『動物農場』がベストセラーになった以降かと思われます。

 町で飼われていた象が暴れだして、警官である主人公は対処しなければならなくなり、職務として銃を持ち出しますが、この主人公、実は気弱な性格で、一方で、白人でありながら帝国主義的なイギリスも良く思っていない、だからと言って行動をする訳でもない、所謂「事なかれ主義」な人物として描かれており、その主人公が、象を目の前にして究極の判断を迫られるというもの。

 象を撃った時の描写が強烈です。弾丸が当たったという感触が無かったのに、象に「奇妙で恐ろしい変化」が起き、立ったまま倒れずにいるのに、「体の線がことごとく変わって」しまい、弾丸の衝撃で「麻痺したかの、突然打ちひしがれ、しなび、ひどく老いてしまったように」見え...。

 とどめを刺そうと至近距離から何発も弾を撃ち込みますが象は死にきれず、「私」は耐え切れずにその場を去って、後で象が絶命するまで30分かかったということを聞きます。

 最後の主人公の心情の吐露が屈折しています。「あとになってみると、苦力が殺されて本当によかったと思った。それは法的に私を正当化してくれ、象を撃ったことに対する十分な言い訳ともなった。ばかに見られたくないという理由だけで、私が象を撃ったのだと見抜いた者がだれか一人でもいたかどうか、私は何度となく思いをめぎらせたものだ」と。

 この衝撃エピソード的な短編は、支配しているように見える側が実は支配されているのだという矛盾を象徴的に露わにさせることで、帝国主義を批判しているのだともとられているようですが、そうした深い"読み"に至るのも、主人公の自らが追いつめられるように象を撃つに至る心理や、象を撃った時の衝撃、撃った後の自分の居場所を失ったような心情が実によく描けていて秀逸であり、それだけ読む側の印象に残るからだと思います。

動物農場 角川旧.jpg ところで、この作品は、個人的には『動物農場』['72年/角川文庫]所収のものを読んだのが最初ですが、岩波文庫の『オーウェル評論集』('82年)や平凡社ライブラリーの『オーウェル評論集1』('95年)に収められているように、エッセイという位置づけのようです(平凡社ライブラリー版の原典は"The Collected Essays, Journalism and Letters of George Orwell"。編者によれば、平凡社ライブラリー版の第1集は「経験」というテーマをもとに編纂されているとのこと)。ただし、編者の川端康雄氏によれば、作者はビルマでの記憶が10年を経て「スケッチ」のごとく甦ってきたのが作品を書いた動機だとはしているものの、ドキュメンタリーとも短編小説ともとれるとしています(『ジョージ・オーウェル―「人間らしさ」への讃歌』('20年/岩波新書))。

 実際、この作品が実話なのかどうかには議論があって、「象を撃った処分としてオーウェルはミャンマー北西部のカタへ転属された」という当時の同僚の証言がある一方、1926年に起きた類似の事件を題材にしたフィクションではないかという主張もあるそうです。

 このドキュメンタリーかフィクションかという謎は、角川文庫、平凡社ライブラリーにそれぞれ併録のもう一つの短編「絞首刑」(1931)にも当てはまるかと思います。ビルマ赴任し当時、死刑の執行に立ち合った体験をもと書かれたものとされていますが、こちらも印象にに残る作品です(タイトル的には「象を撃つ」の方がインパクトがあるが、中身は引けを取らない)。併せて読まれることをお勧めします。

【1972年文庫化[角川文庫(『動物農場』)]/1982年再文庫化[岩波文庫(『オーウェル評論集』)]1995年ライブラリー化・2009年新装版[平凡社ライブラリー(『象を撃つ―オーウェル評論集〈1〉』『新装版 オーウェル評論集1―象を撃つ』)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1103】 フィッツジェラルド 『グレート・ギャツビー
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●ハヤカワ・ノヴェルズ」の インデックッスへ(『時計じかけのオレンジ』)「●スタンリー・キューブリック監督作品」の インデックッスへ 「●「ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

映画と異なる結末。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているが、軍配は映画か。

Modern Classics a Clockwork Orange.jpg時計じかけのオレンジ 完全版.jpg アントニイ・バージェス.jpg  時計じかけのオレンジ dvd.jpg スタンリー・キューブリック2.jpg
Modern Classics a Clockwork Orange (Penguin Modern Classics)』『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』Anthony Burgess「時計じかけのオレンジ [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]」Stanley Kubrick
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博/『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』['08年]/『時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) 』['77年]
ハヤカワ・ノヴェルズ 『時計じかけのオレンジ』.jpg時計じかけのオレンジ100.jpg『時計じかけのオレンジ』hn.jpg 近未来の高度管理社会。15歳の少年アレックスは、平凡で機械的な毎日にうんざりしていた。そこで彼が見つけた唯一の気晴らしは「超暴力」。仲間とともに夜の街を彷徨い、盗み、破壊、暴行、殺人をけたたましく笑いながら繰り返す。だがやがて、国家の手がアレックスに迫る―。

時計じかけのオレンジ002.jpg 『時計じかけのオレンジ』は、アンソニー・バージェス(1917-1993/76歳没、翻訳出版物ではアントニイ・バージェスと表記される)が1962年に発表したディストピア小説で、スタンリー・キューブリック(1928-1999/70歳没)によって映画化された「時計じかけのオレンジ」('71年/英・米)は、第37回「ニューヨーク映画批評家協会賞」の作品賞や監督賞を受賞しています。

時計じかけのオレンジ 09.jpg 小説にも映画にも、少年たちが作家の家に押し入り、妻を暴行する場面がありますが、原作者アンソニー・バージェスが兵役でジブラルタルに駐在中、ロンドンに残っていた身重の妻が市内が停電中に4人の若い米軍脱走兵に襲われ、金を強奪され、結局赤ん坊を流産したという出来事があったとのことです。さらに、それから何年か後、バージェスは手術不可能な脳腫瘍があるという告知を受け、自分が死んだ後に妻が困らないようにと猛スピードで原稿を書き、『時計じかけのオレンジ』の元稿ができたそうです(脳腫瘍は後に誤診と判明した)。

時計じかけのオレンジ 004.jpg しかしながら、出来上がった原稿を作者自身が読み返してみて、ただの少年犯罪の小説であって新鮮味も無いことに気がつき、たまたま60年代初頭のソ連に旅行をした時、ソ連にも不良少年がいて英国の不良少年ともなんら違いがなかったことから、主人公の少年が、英語とロシア語を組み合わせて作った「ナツァト言葉」を操るという設定にしたとのことです。

 作品が発表された時の評判はイマイチで、「タチが悪く、取るに足らない扇情小説」と言われ、原罪と自由意志がテーマだとは気づかれずにいましたが、若者の間ではアンダーグラウンド的に支持を得ました。そして、時代や価値観の急激な変化や、映画界でも暴力や性の描写に寛大になってく中で、時代に乗り遅れないテーマを模索していたスタンリー・キューブリック監督の目にこの作品がとまって映画化されることになり、そのことによって一気に注目されるようになったとのことです。

 ストーリーと設定については原作と映画に大きな違いはないのですが、設定で1つ異なるのは、映画では成人男性である主人公のアレックスが、原作では15歳で設定されている点です。これはさすがに15歳のままの設定では映像化しにくかったということでしょう。

時計じかけのオレンジ003.jpg それと、それ以上に大きく異なるのは結末です。映画の衝撃的かつ皮肉ともとれる結末は、原作の第3部の6章で、アレックスが「ルドビコ療法」による「治療」を施されたにもかかわらず、結局「すっかり元通り」になった(要するに"ワル"に戻った)と宣言するところに該当します。しかし、原作は第1部から第3部までそれぞれ7章ずつで構成されており、この第3部の第7章が映画では割愛されています。

 なぜこうしことが起きたかというと、原作が米国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章(第3部の第7章)が削除されて出版され、キューブリックによる映画も本来の最終章を削除された版を元に作られたためです。

 その第3部の第7章を収めているゆえに、「ハヤカワepi文庫」版は「完全版」と謳っているわけです。本版は、'80年刊行の〈アンソニー・バージェス選集(早川書房)に準拠していますが、それ以前に刊行('77年)の「ハヤカワ文庫」版にはこの最終章がありません。

時計じかけのオレンジes.jpg 最終の第3部の第7章はどういった内容かというと、アレックスは21歳になっていて、新しい仲間たちと集い再び暴れ回る日々に戻るも、そんな生活に対してどこか倦怠感を覚えるようになって、そんなある日、かつての仲間ピートと再会し、妻を伴う彼の口から子どもが生まれたことを聞いて、そろそろ自分も落ち着こうと考え、暴力からの卒業を決意し、かつて犯した犯罪は若気の至りだったと総括するのです。

 文庫解説の映画評論家の柳下毅一郎氏(自称「特殊翻訳家」)によると、キューブリックは、「この版(第3部の第7章がある版)は、ほとんど脚本を書き上げるまで、読まなかった。けれども、私に関する限り、それは納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」と言っていたとのことです(キューブリックは、出版社がバージェスを説き伏せて、彼の"正しい判断"に反して付け足しの章を加えさせたと思い違いしていたようだ。第3部の第7章はいわばハッピーエンドであるため、そうした"作為"があった思うのも無理ない)。

時計じかけのオレンジ dh.jpg 米国刊行時に最終章のカットを求めたのは実は米国出版社であり、キューブリックや出版社は、最終章をとってつけたハッピーエンドに過ぎないと考え、一方のバージェスはむしろ「主人公か主要登場人物の道徳的変容、あるいは英知が増す可能性を示せないのならば、小説を書く意味などない」とし、第6章で「すべて元通り」のままで終わったのでは、ただの寓話にしかならないと反発したそうです(バージェスはカソリック作家でもある)。

時計じかけのオレンジch.jpg この両者の言い分をどうとるかで「映画派」と「小説派」に分かれるかもしれません(バージェスは映画版を嫌っていたという)。バージェスの側に与したいところですが、そうなると、「ルドビコ療法」によるアレックスの「治療」というのは結果的にうまくいったことになり、「拷問を通じた再教育」を是認するともとられかねない恐れもあるように思われます。映画では、そうした自己矛盾に陥るのを回避し、原作が自由意志の小説であることがインパクトをもって伝わることの方を重視したように思います(キューブリックは「シャイニング」('80年/英)の結末も原作と変えていて、原作者のスティーヴン・キングと喧嘩になっている)。

 「映画派」に立っても「小説派」に立っても、人間の自由意志は尊重されるべきであるというテーマは変わりないと思います。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているように思います。ただし、小説の結末をキューブリックが、「納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」としているのは単に"いちいちゃもん"をつけているとは言い難く、まさに小説の方の弱点とも言え、個人的にはこの勝負、映画の方に軍配を上げたいと思います(「シャイニング」は、自分は原作の方に軍配を上げるのだが)。

 因みに、先に取り上げた同じくディストピア小説であるジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んでいる時に、いつも想起させれていたのがこの作品でした。そして、バージェスはオーウェルの『一九八四年』を意識して『1985年』という未来小説を書いていますが、そこでは、オーウェルが描いた管理社とはまた違った社会が描かれているようです。


【2836】 尾形 誠規 (編) 『観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88
』 (2015/06 鉄人社)
IMG_7882.JPG「時計じかけのオレンジ」●原題:A CLOCKWORK ORANGE●制作年:1971年●制作国:イギリス・アメリカ●監督・製作・脚本:スタンリー・キューブリック●撮影:ジョン・オルコット●音楽:ウォルター・カーロス●原作:アンソニー・バージェス●時間:137分●出演:マルコム・マクダウェル/ウォーレン・クラーク/ジェームズ・マーカス/ポール・ファレル/リチャード・コンノート/パトリック・マギー/エイドリアン・コリ/ミリアム・カーリン/オーブリー・モリス/スティーヴン・バーコフ/イケル・ベイツ/ゴッドフリー・クイグリー/マッジ・ライアン/フィリップ・ストーン/アンソニー・シャープ/ポーリーン・テイラー●日本公開:1972/04●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:三鷹オスカー(80-02-09)●2回目:吉祥寺セントラル(83-12-04)(評価:★★★★☆)●併映(1回目):「非情の罠」(スタンリー・キューブリック)
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博
ハヤカワ・ノヴェルズ  『時計じかけのオレンジ』.jpg

「●お ジョージ・オーウェル」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●お 大江 健三郎」 【414】 大江 健三郎 『叫び声
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●ハヤカワ・ノヴェルズ」の インデックッスへ(『1984年』)


「独裁政治」「全体主義」批判と併せて「管理社会」「監視社会」批判にもなっている。

一九八四年.jpg一九八四年 sin.jpeg 1984 (角川文庫).jpg 
一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』/『1984 (角川文庫)』['21年3月]
『一九八四年』 吉田健一・龍口直太郎訳 昭和25年/『1984年(ハヤカワ・ノヴェルズ)』新庄哲夫訳['75年]
『一九八四年』一九五〇.jpg『一九八四年』ハヤカワ・ノヴェルズ「.jpg 1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三大超大国によって分割統治されていて、国境の紛争地域では絶えず戦争が繰り返されている。物語の舞台オセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンや街中に仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。オセアニアの構成地域の一つ「エアストリップ・ワン(旧英国)」の最大都市ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄作業を行っている。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。ウィンストンは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという禁行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの三人の人物が載った過去の新聞記事を偶然見つけ、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性ジュリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになり、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジュリアと共に過ごす。さらに、ウィンストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚のオブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白、オブライエンよりエマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書を渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出る―。

ジョージ・オーウェル.jpg 1949年6月に出版されたジョージ・オーウェル(1903-1950)の作品で、オーウェルは結核に苦しみながら、1947年から1948年にかけて転地療養先のスコットランドのジュラ島でこの作品のほとんどを執筆し、1947年暮れから9カ月間治療に専念することになって執筆が中断されるも、1948年12月に最終稿を出版社に送ったとのこと、1950年1月21日、肺動脈破裂による大量出血のため、46歳の若さで亡くなっています。
ジョージ・オーウェル(1903-1950/46歳没)

 ロイター通信によれば、英国人の3人に2人は、実際には読んでいない本も「読んだふり」をしたことがあるといい、「世界本の日」を主催する団体の'09年のウェッブ調査の結果では、読んだと嘘をついたことのある本の1位が、回答者の42%が挙げたジョージ・オーウェルの『一九八四年』であったとのこと(2位はトルストイの『戦争と平和』、3位はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』)。

 確かに、第1部で描かれる未来都市ロンドンの管理社会は、ややマニアックなSF小説を読んでいるみたいで、そうした類の小説を読みつけていない人は途中で投げ出したくなるかもしれません。しかし、第2部で主人公のウィンストン・スミスがジュリアという女性との恋に陥るところから話が面白くなってきます(恋愛はほとんどの人が身近に感じるから)。そして、突然の暗転。ジュリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、「愛情省」で尋問と拷問を受けることになりますが、これがまたヘビィでした。

 そして、最後は、「愛情省」の〈101号室〉で自分の信念を徹底的に打ち砕かれたウィンストン・スミスは、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるという―読んでいても苦しくなってくるような内容であるばかりでなく、ディストピア小説としてテーマ的にも重いものでした。

 この作品は、ソ連のスターリン体制批判ともとれる『動物農場』がそうであったように、刊行時においては、文学的価値よりも政治的価値の方が評価され、とりわけ米政府は、『動物農場』と併せて反共宣伝の材料として本書を利用したようで(逆にソ連ではペレストロイカが進行した1980年代末、1991年のソ連解体の直前まで禁書だった)、そうした政治的局面が過ぎればその価値は下がるとまで見られたりもしていたようです。

 しかし、実際には十分に普遍性を持った作品であったことは、後には誰もが認めるとことろとなったわけで、この作品で描かれ、端的に批判対象になっている「独裁政治」「全体主義」は、今もって北朝鮮や中国をはじめ、そういう国が実際にあるということです。また、アメリカでトランプ政権が誕生した際に、本書が再びベストセラーランキングに名を連ねたとの話もあります。

 あと、もっと広い意味での批判対象として描かれている、「管理社会」「監視社会」の問題もあるかと思いますが、そう言えば、都市部の街角に監視(防犯)カメラが普及し始めた際に、この作品が取り上げられたりしたことがありました。そうした意味でも先駆的であったわけですが、一方でわれわれ現代人は、そうした社会の恩恵をも受けているわけで、こちらの方が一筋縄背はいかないテーマかもしれません。

 監視カメラについては、警察が設置した街頭防犯カメラも増加傾向にあるものの、住宅や店舗、駅などに設置されている民間のカメラの方が圧倒的に数が多くて数百万台にのぼるとみられているそうですが、今や犯罪検挙の一割は、そうした防犯カメラが容疑者の特定に役立っているそうで、誰もこれを悪くは言わないでしょう。マイナンバー制度も、当初は「国民総背番号制」などと言われて国民が不安感を抱いたりしましたが、今は浸透し、カードを作った方が何かと便利だとかいう話とかになっているし、現代人はいつの間にか監視・管理されることに慣れてしまっているのかもしれません。

 でも、時にはそのことに自覚的になってみることが大事であって、その意識を思い起こさせてくれるという面も、この作品の今日的意義としてあるように思いました。「独裁政治」「全体主義」批判と併せて「管理社会」「監視社会」批判にもなっている作品であるように思います。先月['21年3月]に角川文庫から新訳が刊行されたのも、この作品が今日的価値を有することの証左とも言え、帯文には「思想統制、監視―現代を予見した20世紀の巨作‼」とあり、解説の内田樹氏が「昔読んだときよりもむしろ怖い」と述べていて、それぐらい自覚的な意識で読むべき本なのかもしれません。

映画「1984」('84年/英)ジョン・ハート    初代 MacintoshのCM('84年)
1984 映画 ジョン・ハート.jpg1984 マッキントッシュ cm.jpg 1984年にマイケル・ラドフォード監督により映画化されており、(「1984」(英))、ウィンストン・スミスをジョン・ハート、オブライエンをリチャード・バートン(この作品が遺作となった)が演じているそうですが未見です。個人金正恩 syouzou.jpg的には、ビッグブラザーのイメージは、同じく1984年に発表された、スティーブ・ジョブズによる初代MacintoshのCM(監督はリドリー・スコット)の中に出てくる巨大なスクリーンに映し出された独裁者の姿でしょうか。明らかにオーウェルの『一九八四年』がモデルですが(独裁者に揶揄されているのはIBMだと言われている)、作品を読む前に先にCMの方を観てしまったこともあり、イメージがなかなか抜けない(笑)。でも、現代に置き換えれば、金正恩や習近平がまさにこのビッグブラザーに該当するのでしょう。
まんがでわかる ジョージ・オーウェル『1984年』

まんがでわかる ジョージ・オーウェル.jpgまんがでわかる 『1984年』1.jpg 漫画などにもなっていますが、絶対に原作を読んだ方がいいです。ハヤカワepi文庫版の『動物農場』の訳者である山形浩生氏が監修した『まんがでわかる ジョージ・オーウェル「1984年」』('20年/宝島者社)がありますが、これも漫画の部分はそれほどいいとは思わなかったですが、解説はわかりよかったです。

『1984年(ハヤカワ・ノヴェルズ)』新庄哲夫訳['75年]
1984年 hayakawa novels.jpg

【1972年文庫化[ハヤカワ文庫(『1984年』新庄哲夫:訳)]/2009年再文庫化[ハヤカワepi文庫(高橋和久:訳)]/2021年再文庫化[角川文庫(『1984』田内志文:訳)]】

「●お ジョージ・オーウェル」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3014】 ジョージ・オーウェル 『一九八四年
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ  「●外国のアニメーション映画」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●い 石ノ森 章太郎」の インデックッスへ 「○コミック 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

現代の様々な組織にも通用する普遍性があるが、発表当時は政治利用され、その点は看過された?

2015 ジョージ オーウェル 動物農場 角川.jpg 2009 ジョージ オーウェル 動物農場 岩波.jpg 2013 ジョージ オーウェル 動物農場 ちくま.jpg 2017 ジョージ オーウェル 動物農場 ハヤカワ.jpg
動物農場 (角川文庫)』['72年]『動物農場-おとぎばなし (岩波文庫)』['08年]『動物農場: 付「G・オーウェルをめぐって」開高健 (ちくま文庫)』['13年]『動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』['17年]
IMG_20210328_115159.jpg動物農場 [DVD].jpg アニマル・ファーム図1.jpg ジョージ・オーウェル.jpg
角川文庫(併録:「象を撃つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」)/「動物農場 [DVD]」/石ノ森 章太郎『アニマル・ファーム (ちくま文庫)』['18年]/ジョージ・オーウェル(1903-1950)
Animal Farm (Baker Street Readers) (2021/08)
Animal Farm (Baker Street Readers).jpg マナー農場の動物たちは自分たちをこき使う人間の横暴に怒っていた。飲んだくれの農場主ジョーンズを追い出した動物たちは決起して反乱を起こし、すべての動物は平等という理想を実現するべく「動物農場」を設立、守るべき戒律を定め、動物主義の実践に励んだ。農場は共和国となり、知力に優れたブタがリーダーとなったが、指導者となったブタのナポレオンは、反乱の先導者だった同じブタのスノーボールを追放し、手に入れた特権を徐々に拡大していく。それにより、「理想の農場」は次第に変質してゆく―。

 1945年8月に出版されたジョージ・オーウェル(1903-1950/46歳没)の作品で(原題には岩波文庫訳のように「おとぎばなし」というサブタイトルが付く)、実際に書かれたのは'43年11月から'44年2月までの間でしたが、その内容は、当時は理想の社会と見られていたソ連をあからさまに皮肉った内容であったため、出版社数社に出版を断られたという逸話があります。具体的には、ブタのメージャーはレーニン、ナポレオンはスターリン、スノーボールはトロツキーがモデルであり、当時の人から見ればすぐにピンとくるものであったようです。
ハヤカワepi文庫(2017/01)
IMG_20210328_115145.jpg また、こうしたストーリーの背景には、作者自身が、民兵(伍長)としてファシスト政権と戦うべく戦線へ赴いたスペイン内戦において、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける一方で、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの欺瞞に義憤を抱いたことがあります。作者が入隊したPOUMはトロツキー系の軍隊組織で、ある時期からソ連にとってファシスト軍以上に危険で「粛清」に値する対象とみなされるようになったとのこと(川端康雄『ジョージ・オーウェル』('20年/岩波新書))、要するに、戦争に行ったら後ろ(味方)から弾が飛んできたといった状況だったようです。

 ただし、第二次世界大戦中はソ連は連合国側であったため、英国において批判の対象とするのはタブーだったのが(作者はジャーナリストでもあったが、本書はスターリン体制下のソ連を直接的に取材して書いたものではないことも弱点とされた)、戦後、米ソ冷戦時代に入ってからは、「共産主義は全然ユートピアなんかじゃないよ」という反共キャンペーンに利用されるような形で全面解禁されたとのこと。従って、本はよく売れたものの、それは政治的な絡みで売れているのであって、そうした時期が過ぎれば忘れ去られるだろうとも思われていて、現代の様々な組織にも通用する普遍性があるにも関わらず、その当時はその点は看過されたようです(国際情勢に振り回された作品とも言える)。

ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー
動物農場 アニメ1.jpgジョン・ハラス.jpgジョイ・バチュラー.jpg 反共キャンペーンに利用された一例として、ジョン・ハラス(1912-1995)&ジョイ・バチュラー(1914-1991)監督により1954年にアニメ映画化されていますが(「ハラス&バチュラー」は1940~70年代にかけて、ヨーロッパで最大、かつ最も影響力のあるアニメーションスタジオだった)、この製作をCIAが支援していたことが後に明らかになっています。アニメ「動物農場」は結末が原作と異なっていて、原作では最後まで「非政治的」な「静観主義者」だったロバのベンジャミンが、ここでは親友のウマのボクサーがブタのナポレオンの陰謀によって悲惨な最期を遂げたのを契機に目覚め、リーダーとなって、外部の動物たちの援軍を得て反乱を起こし、ブタたちを退治するというハッピーエンドになっています。

動物農場 アニメ2.jpg動物農場 アニメ4.jpg ハッピーエンドにするのはいいのですが、やや全体的に粗かったかなあという印象で、明らかに大人向けの内容なのに、子どもに受けようとしたのか、動物たちが愛らしい動きを描いた場面がしばしば挿入されていて、そのわざとさしさから逆にCIAが背後にいるのを意識したりしてしまいます(笑)。ただし、宮崎駿監督などはその技術を高く評価していて、'08年、日本でのDVDの発売に先行して「三鷹ジブリ美術館」として配給し、全国各地で上映しています。また、ジョン・ハラスにはアニメーション技法についての多くの著作があり、宮崎駿監督もそれを参考書として読んだとのことです。

『アニマル・ファーム』.jpg)『アニマル・ファーム』obi.png また、漫画家の石ノ森章太郎(1938-1998)がこれを漫画化していて(『アニマル・ファーム』(「週刊少年マガジン」1970年8月23日第35号~9月13日第38号)、'70年初刊)、'18年にちくま文庫に収められています。文庫版は字が小さくて読みにくいとの声もありますが、原作の登場人物のセリフをそのまま引いてきているため、文字数が多くなってしまうことによるもので、原作へのリスペクトが感じられ、また、原作の雰囲気を掴む上でもこのセリフの活かし方は良いと思いました。

石ノ森 章太郎 『アニマル・ファーム』.jpg 最後の方だけ、ちょっと端折った感があったでしょうか。ちくま文庫同録の短編2編(「くだんのはは」「カラーン・コローン」)は要らなかったです。「アニマル・ファーム」のみ最後までしっかり描き切ってほしかったけれど、売れっ子漫画家がいくつか抱えている連載のうちの1つとして描いているので、なかなかそうはいかなかった事情があったのかもしれません。5回の連載でここまで盛り込めれば上出来とみなすべきなのかもしれません(アニメより密度が濃い)。

動物農場 (1954).jpg動物農場 アニメ3.jpg「動物農場」●原題:ANIMAL FARM●制作年:1954年●制作国:イギリス●監督・製作:ジョン・ハラス/ジョイ・バチュラー●製作製作プロデューサー:ルイ・ド・ロシュモン●脚本:ジョン・ハラス/ジョイ・バチュラー/フィリップ・スタップ/ロサー・ウォルフ●撮影:ディーン・カンディ●音楽:マティアス・サイバー●アニメーション:ジョン・F・リード●原作:ジョージ・オーウェル●時間:74分●日本公開:2008/12●配給:三鷹の森ジブリ美術館(評価:★★★)

【1972年文庫化[角川文庫(高畠文夫:訳)]/2009年再文庫化[岩波文庫(『動物農場: おとぎばなし』 川端康雄:訳)/2013年再文庫化[ちくま文庫(開高 健:訳)]/2017年再文庫化[ハヤカワepi文庫(山形浩生:訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【656】J=P・サルトル 『聖ジュネ
○ノーベル文学賞受賞者(ジョゼ・サラマーゴ)「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

白の闇 2008-2.jpg白の闇 2008-3.jpg 白の闇 2001.jpg 白の闇 2020.jpg 
白の闇 新装版』['01年]『白の闇』['08年]『白の闇 (河出文庫)』['20年]

目が見えなくなることで見えてくるものがあるならば、今は我々は何を見ているのか。

 クルマを運転中の男が突然目の前が真っ白になり失明する。そこから、車泥棒、篤実な目医者、サングラスの娼婦の娘、子供、眼帯をした老人などへと、「ミルク色の海」が原因不明のまま次々と周囲に伝染していく。事態を重く見た政府は、感染患者らを、精神病院だった建物を収容所にしてそこへ隔離する。介助者のいない収容所の中で人々は秩序を失い、やがて汚辱の世界にまみれていく。しかし、そこにはたったひとりだけ目が見える女性が紛れ込んでいた―。

ジョゼ・サラマーゴ.jpg ポルトガルの作家(劇作家・ジャーナリストでもある)ジョゼ・サラマーゴ(1922-2010/87歳没)が1995年に発表した作品で(原題:Ensaio sobre a Cegueira)、サラマーゴは既に、その代表作『修道院回想録』('82年)、『リカルド・レイスの死の年』('84年)で数々の文学賞を受賞していましたが、本書はとりわけ世界各国で翻訳され、'98年にはポルトガル人として初のノーベル文学賞受賞者となっています。また、2002年にノルウェー・ブック・クラブが発表した「世界最高の文学100冊」(Bokkulubben World Library)では、一番古いものが『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前18世紀~17世紀)で、最も最近のものがこの『白の闇』となっています。

 日本では、2001年に翻訳されて日本放送出版協会より刊行され、2008年には新装版も出ましたが、今回、河出文庫として刊行されました(英訳本を底本とし、原著を参照している)。本書における失明を引き起こす感染症が街中に蔓延していく状況は、まさに新型コロナウィルスによる感染が広まる2020年現在の状況に通じるところがあることからの文庫化と思われます。

 物語では人から人へと感染は広まり、目の見えない人は急増し、次々と収容所の建物に送られてきます。ベッドは足りず、食糧も足りなくなり、目が見えないのでトイレも一苦労で、至る場所が汚れていきます。さらには、あるグループが暴力で食糧を占拠し、他のグループに金目のものを要求、やがてその要求はエスカレートしていき、要求に従わなければ支配下に置かれた人間は餓死してしまう状況に―。

 閉鎖された空間で噴出する人間の醜さ・怖ろしさを描いた、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』などにも比される、ディストピア小説であると言えます。文体は独特で、会話にカギ括弧がなく、初めはやや当惑させられますが、内容の凄まじさに引き込まれ、ぐいぐい読み進むことができました。特殊な出来事を描いていて、登場人物の名前も出てこないというのはある種の寓話ともとれますが、表現がリアルな分、「現実世界の縮図」感もありました。

 希望がまったく無いかと言えばそうではなく、世の中の皆が目が見えなくなっていく状況の中、目医者の妻1人だけが目が見えていて(この目医者の妻が物語の中心人物になる)、最初に収容所に隔離された、自分の夫を含む6人を、陰に日向に支えていくサーバントリーダーのような役割を果たします。ある意味、人間の理性の部分を象徴するような存在です。
ブラインドネス (2008) 監督:フェルナンド・メイレレス 主演:ジュリアン・ムーア
ブラインドネス (2008).jpgブラインドネス1.jpg 2008年にはフェルナンド・メイレレス監督、ジュリアン・ムーア主演で映画化もされ(「ブブラインドネス (2008) 木村 伊勢谷.jpgラインドネス」('08年/日本・ブラジル・カナダ))、第61回カンヌ国際映画祭のオープニング作品でした。日本からも最初に感染する夫婦役で伊勢谷友介、木村佳乃が出演していますが、当時はノーベル賞作家の作品が原作とは知らす、単なるパニック映画だと思ってスルーしてしまいました。でも、少人数の"身内"とその他大勢の"外敵"という原作の構図は、サバイバル系のパニック映画の典型的パターンであり(「バイオハザード」('02年)や「アイ・アム・レジェンド」('07年)など感染者がゾンビ化する映画なども大体このパターン)、意外と映画化し易かったのではないかという気もします。

 作品テーマとしては、目が見えなくなることで見えてくるものがあり、それは人間のエゴの醜さであったりするものの、真の理性もそうしたものの対極として同じように浮き彫りになるということでしょうか。となると、目が見えているときは一体我々は何を見ているのかという、ある種皮肉のようなものも込められているかと思います(意識的・無意識的に見ないようにしている部分が多々あるように思う)。個人的解釈ですが、「白い闇」とは、今まさに人々が置かれている(しかし気づいてはいない)状況でもあると言えるかもしれません。

 原題の意味は「見えないことの試み」で、作者は2004年には81歳で本書の続編『見えることの試み』を、2005年に82歳で『中絶する死』を発表しており、『見えることの試み』では、伝染性の"白い失明病"が終焉した4年後の世界の政治と社会、集団と個人、束縛と自由を描き、『中絶する死』では、ある国でその国境の内側では、どんなに死にかけている人も死ななくなる、つまり死者がいなくなる事態が勃発するという世界を描いているとのこと、そう言えば、2017年のノーベル文学賞受賞者となったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』('05年)も、SFの形を借りて、わかりやすいドラマのスタイルで「死」というテーマを扱っていたことを思い出しました(SFの形を借りるのはノーベル文学賞受賞者の一つの傾向か?)。

【2008年新装版/2020年文庫化[河出文庫]】

「●ほ エドガー・アラン・ポー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●ほ 保坂 和志」 【618】 保坂 和志 『草の上の朝食
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

「デュパンもの」3作中で最も完成度が高いとされる作品。

黒猫・モルグ街の殺人事件 (岩波文庫.jpg エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」ab.jpg 新訳:盗まれた手紙.jpg  【日英対訳】ボヘミアの醜聞.jpg
黒猫/モルグ街の殺人事件 (岩波文庫 赤 306-1)』/デジタルオーディオブック「盗まれた手紙」/[Kindle版]「新訳:盗まれた手紙」『【日英対訳】ボヘミアの醜聞(シャーロックホームズの冒険):原文世界名作(1): 英単語注釈付き

 ある秋の夕暮れ、語り手が寄宿するオーギュスト・デュパンの屋敷に、パリ市警の警視総監のG...が訪ねてくる。彼はある「珍妙な事件」に手を焼き、デュパンの助言を請いに来たのだ。それは宮殿において起きた出来事で、「さる高貴な貴婦人」が閨房で私的な手紙を読んでいるとき、ちょうどその手紙のことを知られたくない男性が入ってきたので、引き出しにしまう時間もないままテーブルの上において誤魔化していたところ、そこにさらにD...大臣が入ってきた。彼はすぐにテーブルの上の手紙の性質を察し、彼女に業務報告をした後でその手紙とよく似た手紙をテーブルに置き、帰り際に自分が置いたのでない方の手紙を持ち去った。大臣はこの女性の弱みを握ったことで宮廷内で強大な権力を得るようになり、困り果てた女性は警察に内々の捜索を依頼したのだ。手紙の性質上、それは大臣の官邸内にあるはずであり、身体調査の危険から肌身離さず持ち歩いているとは考えられない。警察は大臣の留守の間に官邸を2インチ平方単位で徹底調査し、家具はすべて一度解体、絨毯も壁紙も引き剥がし、クッションには針を入れて調べるという調査を3ヶ月続けたが、成果が上がっていなかった。事件のあらましを聞いたデュパンは「官邸を徹底的に調査することだ」とだけ助言する。一ヵ月後、再びG...が訪ねてくるが、いまだに手紙は見つかっておらず、手紙にかけられた懸賞金は莫大な額になっているという。そして「助けてくれたものには誰にでも5万フラン払おう」と言うと、デュパンは小切手を出して5万フランを要求し、サインと引き換えにあっさり件の手紙を渡す。そしてG...が狂喜して帰っていくと、デュパンは語り手に、自分が手紙を手に入れた経緯を説明し始める―。

The_Purloined_Letter.jpg エドガー・アラン・ポーの、「モルグ街の殺人」「マリー・ロジェの謎」に続き、C・オーギュスト・デュパンが登場する短編推理小説推理で、ポーの作品でデュパンが登場するのはこの3作だけです(1844年発行の「ザ・ギフト」1845年号が初出)。しばしば「デュパンもの」3作中で最も完成度が高いとされる作品であり、デュパンによるほとんど超人的な推理展開ともいえる「モルグ街の殺人」や、デュパンの推理の開陳ばかりが延々と続く「マリー・ロジェの謎」に比べれば、ずっと洗練されて、現代の推理小説に近いスタイルになっていると思います。最後のデュパンによる語り手への経緯説明が読書への「謎解き」になっているところなども、現代の推理小説と変わりません。大臣は自分の得るべきものが得られたら、「謎解き」を聞かないで帰ってしまいましたが(笑)。
大臣から手紙を取り返すデュパン

第3話 The Invisible Man.jpg 後世の推理作家がしばしば用いる「隠したいものをあえて隠さないことによって相手の盲点をつく」いわゆる「盲点原理」を創案した作品であると考えられ、江戸川乱歩はこの原理を応用しているG・K・チェスタトンの「見えない男」(『ブラウン神父の童心』('82年/創元推理文庫)所収)も、おそらくポーのこの作品から着想を得たのだろうとしています。「見えない男」は、BBCによるケネス・プラナー主演の「ブラウン神父」シリーズで、2015年に第23話(シーズン3:エピソード3)「見えない男」として映像化されています。
「ブラウン神父」第23話(シーズン3:エピソード3)「見えない男」
「SHERLOCK」第4話(シーズン2:エピソード1)「ベルグレービアの醜聞」
A Scandal in Belgravia 012.jpgA Scandal in Belgravia 011.jpg また、コナン・ドイルの「ボヘミアの醜聞」は、これはもうほとんど「盗まれた手紙」を模して書かれたと言っていい設定で、ただし、江戸川乱歩は、面白さにおいても文学的価値においても「格段の違いがあり、模して及ばざるのはなはだしきものであろう」と評し、エドガー・アラン・ポーに軍配を上げています。個人的には、「ボヘミアの醜聞」も悪くないと思いますが、やはり、先にやった方がマネした方より強いのでしょうか(コナン・ドイルは、「盗まれた手紙」における貴婦人を、シャーロック・ホームズが「あの女性 (the woman)」と唯一定冠詞をつけて呼ぶ特別な存在になるほど、ホームズより能力的に優れている女性にしている)。「ボヘミアの醜聞」は、ベネディクト・カンバーバッチ主演の「SHERLOCK(シャーロック)」シリーズでも、2011年に第4話(シーズン2:エピソード1)「ベルグレービアの醜聞」として映像化されています。

Edgar Allan Poe's Murder Mystery Dinner Party.jpgThe Purloined Letter.jpg この「盗まれた手紙」そのものも、米CBSのサスペンス劇場で映像化されたことはあるようですが(Suspense (1949): "The Purloined Letter"; (29 Apr. 1952))、「モルグ街の殺人」や「黒猫」のように映画化はされていないようです。因みに、最近では、米国のウェブTVでのミニシリーズのEdgar Allan Poe's Murder Mystery Dinner Party (2016)で第3話(シーズン1:エピソード3)としてドラマ化されていますが、シリーズを通してコメディ仕様になっているようです。

Edgar Allan Poe's Murder Mystery Dinner Party (2016) The Purloined Letter

 個人的感想としては、「デュパンもの」3作中でも完成度が高いのは認めますが、「モルグ街の殺人」などと比べると逆にまともすぎて、また「黒猫」などと比べるとインパクト面で少し弱かったというのが正直な印象です。前2作が★★★★☆に対して、こちらは★★★★といったところでしょうか。作者が、手紙の内容を一切明かしていないというのも(ジャック・ラカンやジャック・デリダといった哲学者がその点について論じてるが、その辺りはよく解らない)、物語的には意味深ですが、映像的には手がつけにくいのかもしれません。

【1954年再文庫化[岩波文庫(『モルグ街の殺人事件・盗まれた手紙 他一篇』(中野好夫:訳))//2009年再文庫化[新潮文庫(『黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集I ゴシック編』(巽孝之:訳))]/2010年再文庫化[中公文庫(『ポー名作集』(丸谷才一:訳))]/2016年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『アッシャー家の崩壊/黄金虫』(小川高義:訳)))]】

「●ほ エドガー・アラン・ポー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2938】 ポー 「盗まれた手紙
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

3つの謎+最後の謎。いろいろ考えていくと際限がない。映画化作品では...。

黒猫・モルグ街の殺人事件 (岩波文庫.jpg黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫).jpg 黒猫 (集英社文庫).jpg  黒猫の怨霊.jpg
黒猫/モルグ街の殺人事件 (岩波文庫 赤 306-1)』『黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)』『黒猫 (集英社文庫)』「黒猫の怨霊 [DVD]

 語り手(主人公)は幼い頃から動物好きで、妻も動物好きであったため、様々な動物をペットにしていた。その中でもプルートーという黒猫は特に美しく、また語り手によくなついていた。しかし、語り手は次第に酒乱に陥るようになり、不機嫌に駆られて飼っている動物を虐待するように。それでもプルートーにだけは手を挙げないでいたが、ある日、プルートーに避けられているように感じ、捕まえて衝動的にその片目を抉り取ってしまう。当初は語り手も自分の行いを悔いていたが、その後も募る苛立ちと天邪鬼の心に駆られ、ある朝とうとうプルートーを木に吊るし殺してしまう。その晩、語り手の屋敷は原因不明の火事で焼け落ち、彼は財産の大半を失う。そして奇妙なことに、唯一焼け残った壁には首にロープを巻きつけた猫の姿が浮き出ていた。その後、良心の呵責を感じた語り手はプルートーによく似た猫を酒場で見つけて家に持ち帰り、始めは妻とともに喜び合っていたが、しかしその猫がプルートーと同じように片目であることに気付くと、次第にこの猫に嫌悪を感じるようになる。その上、その猫の胸の白い斑点が次第に大きくなって絞首台の形になり、黒猫の存在に耐え難くなった語り手は、ある日発作的に猫を手にかけようとするが、妻が割り込み止めようとしたために逆上し、妻を殺害してしまう。語り手は死体の隠し場所として、地下室の煉瓦の壁に塗りこめて警察の目を誤魔化す。捜査が地下室にまで及び、それでも露見する気配がないと見た語り手は、調子に乗って妻が塗り込められている壁を叩く。すると、その壁からすすり泣きか悲鳴のような奇妙な声が聞こえてきた。異変に気付いた警察の一団が壁を取り壊しにかかると、直立した妻の死体と、その頭上に座り、目をらんらんと輝かせたあの猫が現れる。語り手は妻とともに猫を壁のなかに閉じ込めてしまっていたのであり、その猫によって絞首刑にかけられる運命を負わされたのだった―。

 1843年8月に「U・S・サタデーポスト」に発表されたエドガー・アラン・ポー(1809 - 1849)の短編小説。この話には主に3つの謎があるとされていて、
  1.焼け跡の壁に黒猫の姿が残っていたこと、
  2.新たに来た黒猫の胸の白斑が絞首台の形になったこと
  3.ラストシーンで黒猫の叫びが聞こえたこと
の3つがそれですが、エドガー・アラン・ポーという人は超自然現象とかを信じていなかったそうで、作品もそれを反映しているそうです。

 第1の焼け跡の壁に黒猫の姿が残っていたことは、語り手自身がおそらくこういうことだろうと冷静に分析しています。つまり、絞殺された猫の死体を誰かが部屋に投げ入れ、それが、塗ったばかりの壁に押し付けられて、石灰質、火災および死骸のアンモニアの作用があって、そうした形象が作られたと。一方、第2の、新たに来た猫の胸の白斑が絞首台の形になったことの謎は、(物理主義から一気に心理主義の解釈になるが)主人公の罪の意識の反映か、乃至はそれにアルコール中毒による譫妄が重なった可能性が考えられると思います。それらに対し、3つ目の、ラストシーンで黒猫の叫びが聞こえたことは、ちょっと説明がつきにくく、こうして次第に普通には説明しきれなくなっていくように事態が進行していくところが、この作品の上手さだと思います(どこかの読者が、壁から聞こえた奇妙な声は、死体の体内から漏れたガスの音だと推理していた)。

 でも、3つの謎もさることながら、別にもう1つ「最後の謎」として、そもそも、ラストの崩された壁から現れた妻の腐乱死体の頭のところに蹲っていた黒猫とは、死体を埋める時にうっかり猫もいっしょに埋めてしまった(無意識にそこまでやるだろうか)その猫の死体なのか、それとも、壁の作業の際またはその後にどこからかそこに紛れ込んで今も生きている猫なのか、いろいろ考えていくと際限がありません。ポーの作品では何ら超自然的な現象は起きていないという、その前提で臨むからこそ、こうした様々な不思議に思いを馳せることになり、そこもまた上手さだと思います。

The Black Cat. (1934).jpg この作品は1934年にベラ・ルゴシおよびボリス・カーロフ主演で映画化されており、1941年にもベラ・ルゴシとベイジル・ラスボーン主演のものが製作されていますが、これらはどちらも原作にそれほど忠実ではなく(ベラ・ルゴシ主演ものは「モルグ街の殺人」('32年)のマッドサイエンティスト役にしてもそうだったが、ベラ・ルゴシのために作った役が多い)、'34年のベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフ主演版の予告編などを観ると確かにそんな感じ。ドラキュラ俳優とフランケンシュタイン俳優の共演が売りの映画なので、元の話はもうどうでもよかった?

"The Black Cat" (1934)

 原作にに最も忠実とされているのは、リチャード・マシスン(「激突!」('73年))が脚色し、「低予算映画の王者」「B級映画の帝王」と呼ばれるロジャー・コーマンが監督、ピーター・ローレTales of Terror 1962 1.jpg(「マルタの鷹」('41年))が主演した「黒猫の怨霊」('62年)であるとのことで、これを観ました。原題は"Tales of Terror"。3部作のオムニバス映画で、第1話「怪異ミイラの恐怖」、第2話「黒猫の怨霊」、第3話「人妻を眠らす妖術」。原作はそれぞれポーの作品である「モレラ」、「黒猫」、「ヴァルデマー氏の症例」。映像版の全てのエピソードにヴィンセント・プライスが出演しています。第2話「黒猫の怨霊」のあらすじは以下の通り。
        
Tales of Terror 1962 -.jpg 酒好きのモントレソー(ピーター・ローレ)は妻のアナベル(ジョイス・ジェイムソン)と二人暮らしの気易さから、毎夜酒場で大酒を呑んでいた。ある夜、酒代を妻に押さえられた彼は利き酒の会場にまぎれ込み、その名人フォルチュナト(ヴィンセント・プライス)に挑戦して酔い潰れてしまう。一方、淋しさのあまり黒猫を溺愛していたアナベルは、夫を送って来てくれたフォルチュナトと深い仲になってしまった。それを夫モントレソーに見つかり、二人は殺害された上、地下室の壁に塗り込まれてしまう―。

Tales of Terror 1962 2.jpg ということで、ヴィンセント・プライスはここでは、原作に全く登場しない、主人公の妻と一緒に殺害される間男という風にされています(笑)。しかしながら、これでも、20世紀に作られた数ある「黒猫」を原作とする映画の中で、最も原作に忠実に作られている作品だそうです(Sova, Dawn B. (2001). Edgar Allan Poe, A to Z)。ピーター・ローレの終始酔っぱらっている演技はなんだかゆったりしていて、殺害されるヴィンセント・プライスの方もどこかユーモラスと言うか悲喜劇風で、3部作の中でもコミカルに仕上がっています。

Tales of Terror 1962 3.jpg ラストも全く気色悪さは無く(壁に塗り込められるというより、煉瓦壁で覆い隠しているだけであるため、壁の向こう側に隙間があって、猫はしっかり生きている。何らかの機会に壁の向こう側にいったと推察可能か)、ホラーが苦手な人にもお薦めです。ピーター・ローレ、ヴィンセント・プライスの演技が愉しめる作品で、残り2つの短編の主人公はヴィンセント・プライスで、内容的には結構おどろおどろしいのですが、この第2話「黒猫の怨霊」は完全にピーター・ローレが主人公と言え、しかTALES OF TERROR._V1_.jpg黒猫の怨霊ges.jpgも、ユーモラスなブラック・コメディ仕様で、出来栄え的には三作の中で頭一つ抜きん出ています。因みに、殺される妻を演じたジョイス・ジェイムソンは、「アパートの鍵貸します」('60年)の金髪女性役など多数の作品に出演、私生活では結婚しながらもロバート・ヴォーンの長年のガールフレンドでしたが、うつ病に苦しんでいた1987年、54歳で薬物の過剰服用により自殺しています。
Joyce Jameson
Joyce Jameson 3.jpgJoyce Jameson1.jpgTales of Terror 1962.jpg「黒猫の怨霊」●原題:TALES OF TERROR●制作年:1962年●制作国:アメリカ●監督・製作:ロジャー・コーマン●脚本:リチャード・マシスン●撮影:フロイド・クロスビー●音楽:レス・バクスター●原作:エドガー・アラン・ポー「モレラ」、「黒猫」、「ヴァルデマー氏の症例」●時間:88分●出演:ヴィンセント・プライス/マギー・ピアース/ピーター・ローレ/ベイジル・ラスボーン/ジョイス・ジェイムソン/デブラ・パジェット●日本公開:1964/05●配給:大蔵(評価:★★★☆)

【1951年文庫化[新潮文庫(『黒猫・黄金虫』(佐々木直次郎:訳))/1966年再文庫化[旺文社文庫(『黒猫・黄金虫』(刈田元司:訳))/1966年再文庫化[角川文庫(『黒猫・黄金虫』(大橋吉之輔:訳))]/1971年再文庫化[講談社文庫(『黄金虫・黒猫・アッシャー家の崩壊』(八木敏雄:訳))]/1974年再文庫化[創元推理文庫(『ポオ小説全集1』(阿部知二:訳))]/1985年再文庫化[偕成社文庫(『ポー怪奇・探偵小説集(1)』(谷崎精二:訳))]/1992年再文庫化[集英社文庫(『黒猫』(富士川義之:訳))]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『黒猫/モルグ街の殺人』(小川高義:訳)))]/2009年再文庫化[新潮文庫(『黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集I ゴシック編』(巽孝之:訳))]/2010年再文庫化[中公文庫(『ポー名作集』(丸谷才一:訳))]】

「●ほ エドガー・アラン・ポー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2937】 ポー「黒猫
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

理詰めの推理、パートナーの存在、安楽椅子探偵、要人と知己の関係...すべての原点。

黒猫・モルグ街の殺人事件 (岩波文庫.jpg黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫).jpg モルグ街の殺人 1932.jpg Murders in the Rue Morgue 1932 0.jpg
黒猫/モルグ街の殺人事件 (岩波文庫 赤 306-1)』『黒猫/モルグ街の殺人 (光文社古典新訳文庫)』「モルグ街の殺人」(1932) 主演:ベラ・ルゴシ

『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』.jpg 語り手は、ある日モンマルトルの図書館で、没落した名家の出であるC・オーギュスト・デュパンという人物と知り合う。語り手は、卓抜な観察力、分析力を持つデュパンにほれ込み、やがて場末の古びた家を借りて一緒に住む。デュパンは、ある晩、街を歩いているとき、語り手が黙考していたことをズバリと言い当てて語り手を驚かせたが、その推理過程を聞くと非常に理にかなったものであった。そんなとき、ある猟奇殺人の新聞記事が二人の目に止まる。「モルグ街」のアパートメントの4階で起こった事件で、二人暮らしの母娘が惨殺されたのだった。娘は首を絞められ暖炉の煙突に逆立ち状態で詰め込まれていた。母親は裏庭で見つかり、首をかき切られて胴から頭が取れかかっていた。部屋の中はひどく荒らされていたが、金品はそのまま。更に奇妙なことに、部屋の出入り口には鍵が掛かっており、裏の窓には釘が打ち付けられていて、人の出入りできるところがなかった。また多数の証言者が、事件のあった時刻に犯人と思しき二人の人物の声を聞いており、一方の声は「こら!」とフランス語であったが、もう一方の甲高い声については、ある者はスペイン語、ある者はイタリア語、ある者はフランス語だったと違う証言をする。この謎めいた事件に興味をそそられたデュパンは、伝手で犯行現場へ立ち入る許可をもらい、独自に調査を行う。語り手は新聞に発表された以上のことを見つけられなかったが、デュパンは現場やその周辺を精査に調べ、その帰りに新聞社に寄ったのち、警察の表面的な捜査方法を批判しながら、語り手に自分の分析を交えつつ推理過程を語りだす―。

モルグ街の殺人-Poe_rue_morgue_byam_shaw.jpg 1841年に、エドガー・アラン・ポー自身がその年に編集主幹となった「グレアムズ・マガジン」の4月号に発表された短編。推理小説・探偵小説(ポー自身は「推理物語(The tales of ratiocination)」と呼んでいた)の原型となったのは、「モルグ街の殺人」及びそれに続くポーの作品であるとされており、江戸川乱歩は、もしポーが探偵小説を発明していなければ「恐らくドイルは生まれなかったであろう。随ってチェスタトンもなく、その後の優れた作家たちも探偵小説を書かなかったか、あるいは書いたとしても、例えばディケンズなどの系統のまったく形の違ったものになっていたであろう」と述べています。

船乗りに殺害者のことについて聞きただすデュパン。バイアム・ショウによる挿絵、1909年

 オーギュスト・デュパンが理詰めの推理で、語り手が黙考していたことをズバリと言い当てて語り手を驚かせるところで、個人的に真っ先に頭に浮かんだのは、コナン・ドイルの1901年発表の長編『バスカヴィル家の犬』の冒頭で、シャーロック・ホームズが1本のステッキから持ち主のプロフィールを推理してワトスンを驚かせる導入部分であり、改めて、コナン・ドイルってアラン・ポーの系譜なのだなあと思いました(そのパートが、本題の事件解決ではなく、物語の"前振り"としてある点も似ている)。

 語り手であり、ある意味、事件解決の記録係を担う人物と同じアパートメントに住むようになるのも、ホームズとワトスンの関係に似ているし、アガサ・クリスティの「エルキュール・ポアロ」シリーズのポワロとヘイスティングスの関係にも通じるところがあります(二人組ということで言えば、かつての日本映画で言えば、黒澤明の「野良犬」や野村芳太郎 の「張込み」(原作:松本清張)のベテランと若手の組み合わせもそうなる、今で言えばテレビドラマ「相棒」か。まあ大体の"刑事もの"は二人組だが)。

 物語の前半は、新聞記事だけで犯人を推理するスタイルになっていて、いわゆる安楽椅子探偵の走りでもあり、クリスティであれば、ミス・マープルの『火曜クラブ』など、さらに、コリン・デクスターのモース主任警部シリーズで入院中のモースが130年前の未解決事件の謎を解く『オックスフォード運河の殺人』、ジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズで全身不随のリンカーン・ライムが同じくベッドの上で事件を推理する『ボーン・コレクター』('99年)などに引き継がれているように思います。

 オーギュスト・デュパンが警察総監と知己であるというのは、シャーロック・ホームズの兄、マイクロフト・ホームズが「政府の政策全般を調整する重要なポスト」にあるというのにも繋がっているし、日本で言えば、内田康夫の「浅見光彦シリーズ」で、浅見光彦の兄・浅見陽一郎が警察庁刑事局長であったりするのも、遡ると結局、この作品に辿り着くのかもしれません。

Murders in the Rue Morgue 1932 c0.jpg この作品は、20世紀に4度映画化(TV-Mを除く)されていますが、ほとんど原作通りに作られているものは無いようです。最初の映画化作品は、「シャーロック・ホームズと大殺人事件の謎」('08年/米)というサイレtモルグ街の殺人.jpgント映画で、個人的には観てませんが、どうやら"ホームズもの"にしてしまったようです。さらに、2度目の映画化作品、ロバート・フローリー監督、シドニー・フォックス、ベラ・ルゴシ主演の「モルグ街の殺人」('32年/米)(Murders in the Rue Morgue)も改変が目立つ作りと言えます。
Leon Ames(Pierre Dupin), Sidney Fox, Bert Roach / Bela Lugosi(Dr. Mirakle)
モルグ街の殺人6.jpgMurders in the Rue Morgue 1932 1.jpeg 1845年、パリ。医学生ピエール(レオン・エイムズ)は、恋人カミーユ(シドニー・フォックス)、友人ポール(バート・ローチ)らと見世物小屋に行く。出し物は、ミラクル博士(ベラ・ルゴシ)と猿人エリック(チャールズ・ゲモラ)。ミラクル博士は進化論を発展させて、猿と人間のMurders in the Rue Morgue 1932 2.jpg雑種動物の創造を目指しており、そのために売春婦を誘拐、猿の血液を人間の静脈に注射して適性を調べていた。しかし、ことごとく実験は失敗。死んだ売春婦の死体は川に投棄した。ピエールは死体安置所(モルグ)で彼女らを検死。ミラクル博士の仕業とつきとめる。ミラクル博士は猿人が興味を示したカミーユに注目。人間には侵入不可能な密室に猿人を送り込み、カミーユを誘拐する。ピエールは警察と共にミラクル博士の元に向かう。猿人はミラクル博士を絞め殺すと、カミーユを抱いて高い屋根の上を逃走。しかし、ピエールに撃たれ、川に墜落死する―。(「モルグ街の殺人」('32年/米))

7モルグ街の殺人.jpg 最初のシーンで、主要登場人物と思われるカミーユ、ピエール、ポールの3人が、カーニバルでベリー「モルグ街の殺人」32.jpgダンスやウエスタンショのを見物していますが、やがて猿人エリックの見物となり、ベラ・ルゴシ演じるミラクル博士が人の心を持つ野獣と紹介しています。その後、博士はケンカで相打ちになった男や売春婦の女を自分の実験室に引き込んでは人と"ゴリラ"(ほとんどそう見える)との血液合成実験を繰り返した末に死体を遺棄。怪しんでモルグを訪ねたピエールが、受付係に名乗った名前が「ピエール・デュパン」であり(原作のオーギュスト・デュパンではないが)、ああ、そういうことだったのかと、彼が"探偵役"だったのかと分かった次第。

Murders in the Rue Morgue 1932 3.jpgMurders in the Rue Morgue 1932 4.jpg 夜のシーンが多いこともありますが、暗い画面で19世紀のパリ場末の怪しげな雰囲気は出ていました。ただ、マッドサイエンティストである博士の醸す雰囲気は、ロベルト・ヴィーネ監督の「カリガリ博士」('20年/独)やトッド・ブラウニング監督の「魔人ドラキュラ」('31年/米)などに近く、後半の猿人が美女を抱えて屋根伝いに逃げまくるシーンは、まさに翌年公開される「キング・コング」('33年/米)と同じで、脚本を先取りして映像化してしまったのではないかと思います(「モルグ街の殺人」が「キング・コング」に影響を与えたとも言われているが)。

Murders in the Rue Morgue 1932 c3.jpgモルグ街の殺人 [VHS].jpg 「魔人ドラキュラ」でドラキュラを演じた怪奇俳優ベラ・ルゴシが本作ではマッドサイエンティストを演じていますが、そもそもこの作品、「フランケンシュタイン」('31年/米)の企画から外されたベラ・ルゴシ(台詞のない厚いメイクの怪物役を拒否したため、怪物役は脇役俳優だったボリス・カーロフに変更された)と監督のロバート・フローリーへの補償として製作されたもので、その頃の怪奇映画のテイストがごっそり詰め込まれているように思います。ただ、ピエール・デュパンを演じたレオンMurders In The Rue Morgue (1932)図2.jpg・エイムズはこの映画が嫌いで、雑誌のインタビューで、「今でもテレビ放映で私を悩ませるひどい映画」と語Murders in the Rue Morgue (1932)s.jpgっています(確かにそうなるかも(笑))。ただ、ピエールとポールがロフト風のアパートで共同生活している様などは、後のホームズとワトソンを想起させるものがありました。ポール(共同生活における調理担当なのか、スパゲッティか何かを作っている)がやや太っているので、ロスコー・アーバックルではないですが、サイレント時代の喜劇映画の二人組の片割れがいつも太っちょなのを想起させたりもします。
 
 
「謎のモルグ街」1954年1954-4.jpg謎のモルグ街 (1954)1.jpg 3度目の映画化作品、ロイ・デル・ルース監督の「謎のモルグ街」('54年/米)(Phantom of the Rue Morgue)では、19世紀末頃のパリが舞台で、ある日、キャバレーの踊子イヴォンヌが殺され。捜査にあたったボナア謎のモルグ街 (1954)mv.jpgル警視(クロード・ドーファン)は、踊子の男関係からソルボンヌ大学の生物学者ポオル・デュパン教授(スティーヴ・フォレスト)をホシと睨む、その間にも殺人事件は続いて起こり、モデルのアルレットが惨殺され、彼女の身の回り品の中からデュパンが許婚者のジャネット(パトリシア・メディナ)に贈ったブローチがPhantom of the Rue Morgue2.pngPhantom of the Rue Morgue.jpg発見されたためデュパンへの疑惑はますます深まるも、デュパンは自らの推理により、動物園の園長(カール・マルデン)を怪しいと睨む―というもの。デュパンが大学教授になっていて、しかも容疑者となっています。踊子の殺害現場などが結構生々しいですが、オリジナルは二色メガネで観る3D映画だったそうです。
      
MURDERS IN THE RUE MORGUE 1971l300.jpgモルグ街の殺人1971 0.jpgモルグ街の殺人1971 1.jpg 4度目の映画化作品、ゴードン・ヘスラー監督の「モルグ街の殺人」('71年/米)(Murders In the Rue Morgue)は、パリ、グラン・ギニョールで、ある劇団による「モルグ街「モルグ街の殺人」1971年 2.jpgの殺人」なる舞台劇が上演されている最中、連続殺人が起こるという話になっていて、ここに出てくる猿もオランウータンではなくゴリラに近いものとなっています。ただ、事件は、原作「モルグ街の殺人」とはまったく無関係の、むしろ"オペラ座の怪人"風の事件が展開されるというストーリーで(仮面男が出てくる)、劇中劇の「モルグ街の殺人」も、美女を狙う男の首をゴリラが斧で斬り落とすというのがクライマックスと「モルグ街の殺人」('71年/米) maderin.pngいう代物。仮面男の仮面を剥いだらその下はゴリラだったというのも...(夢落ち?)。そのゴリラが、オペラ座の怪人よろしくシャンデリアにぶら下がり...と、結局「モルグ街の殺人」と「オペラ座の怪人」の掛け合わせ版を撮りたかったのか(よくわからないけれど)。ヒロインである劇団の花形女優マデリンを「バグダッド・カフェ」('87年/西独)のクリスティーネ・カウフマン(1945-2017)が演じているのが見どころくらいでしょうか。

クリスティーネ・カウフマン in「モルグ街の殺人」('71年)/「バグダッド・カフェ」('87年)
クリスティーネ・カウフマン モルグ街の殺人.jpg クリスティーネ・カウフマン バグダッド・カフェ.jpg 

モルグ街の殺人
モルグ街の殺人._AC_SY445_.jpgMurders in the Rue Morgue (1932 film).JPG「モルグ街の殺人」●原題:MURDERS IN THE RUE MORGUE●制作年:1932年●制作国:アメリカ●監督:ロバート・フローリー●製作:カール・レムリ・Jr●脚本:トム・リード/デイル・ヴァン・エMurders in the Rue Morgue 1932 c1.jpgヴェリー/ジョン・ヒューストン●撮影:カール・フロイント●原作:エドガー・アラン・ポー●時間:75分●出演:ベラ・ルゴシ/シドニー・フォックス/レオン・エイムズ/ブランドン・ハースト/アルレーン・フランシス●日本公Murders in the Rue Morgue (1932)6.jpg開:1932/07●配給:大日本ユニヴァーサル社(評価:★★★☆)

シドニー・フォックスin「モルグ街の殺人」 Sidney Fox(1911-1942)
シドニー・フォックス1.jpgSidney_Fox.jpg
   
 
     
謎のモルグ街 [VHS]
謎のモルグ街.jpg「謎のモルグ街」1954年 6.jpg「謎のモルグ街」●原題:PHANTOM OF THE RUE MORGUE●制作年:1954年●制作国:アメリカ●監督:ロイ・デル・ルース●製作:ヘンリー・ブランク●脚本:ハロルド・メドフォード/ジェームズ・R・ウェッブ●撮影:J・ペヴァレル・マーレイ●音楽:デヴィ謎のモルグ街 (1954)es.jpgッド・バトルフ●原作:エドガ「謎のモルグ街」1954年7.jpgー・アラン・ポー●時間:84分●出演:クロード・ドーファン/スティーヴ・フォレスト/パトリシア・メディナ/カール・マルデン/アリン・アン・マクレリー/エリン・オブライエン=ムーア/ドロレス・ドーン/マーヴ・グリフィン●日本公開:1954/06●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★)
Patricia Medina in Phantom of the Rue Morgue (1954)
Phantom of the Rue Morgue (1954).jpg The  <br />
Murders in the Rue Morgue (1954).jpg


「モルグ街の殺人」(1971 [VHS])
モルグ街の殺人 1971 [VHS] - コピー.jpg「モルグ街の殺人」●原題:MURDERS IN THE RUE MORGUE●制作年:1971年●制作国:アメリカ●監督:ゴードン・ヘスラー●製作:ルイス・M・ヘイワード●脚本:クリストファー・ウィッキング/ヘンリー・スレッ「モルグ街の殺人」1971年 3.jpgサー●撮影:マニュエル・ベレンガー●音楽:ワルド・デ・ロス・リオス●原作:エドガー・アラン・ポー●時間:87分●出演:ジェイソン・ロバーズ/ハーバート・ロム/クリスティーネ・カウフマン/リリー・パルマー/アドルフォ・チェリ/マリア・ペルシー/マイケル・ダン/ピーター・アーン/ロザリンド・エリオット/マーシャル・ジョーンズ/ブルック・アダムス●VHS発売:1986/04●発売元:ポニーキャニオン(評価:★★☆)


【1951年文庫化[新潮文庫(『モルグ街の殺人事件』(佐々木直次郎:訳))]/1954年再文庫化[岩波文庫(『モルグ街の殺人事件・盗まれた手紙 他一篇』(中野好夫:訳))]/1954年再文庫化[角川文庫(『モルグ街の殺人事件 他二篇』(佐々木直次郎:訳))]/1978年再文庫化[岩波文庫(『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』(中野好夫:訳))]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『黒猫/モルグ街の殺人』(小川高義:訳)))]/2009年再文庫化[新潮文庫(『モルグ街の殺人・黄金虫―ポー短編集II ミステリ編』(巽 孝之:訳)))]

「●も ギ・ド・モーパッサン」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●も ウィリアム・サマセット・モーム」【3234】ウィリアム・サマセット・モーム 『月と六ペンス
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

短編の中から「都会もの」を集めたもの。結婚や家族に対してシニカルなものが多かった。
モーパッサン短編集(二) (新潮文庫).jpgモーパッサン短編集(二) (新潮文庫)ジャン・ルノワール「ピクニック」dvd.jpg ジャン・ルノワール「ピクニック [DVD]
 ギ・ド・モーパッサン(1950-1993)の新潮文庫の短編シリーズ(全3巻)の「田舎もの」を集めた第1巻に対し、パリ生活を扱った「都会もの」を集めたのがこの第2巻で、1887年刊行の短編集『オルラ』所収の「あな」ほか、「蠅」(1890年)、「ポールの恋人」(1881年)、「春に寄す」(1881年)、「首飾り」(1885年)、「野遊び」(1881年)、「勲章」(1884年)、「クリスマスの夜」(1882年)、「宝石」、「かるはずみ」(1886年)、「父親」(1885年)、「シモンのとうちゃん」(1881年)、「夫の復讐」、「肖像画」、「墓場の女」、「メヌエット」(1883年)、「マドモアゼル・ペルル」(1886年)、「オルタンス女王」、「待ちこがれ」、「泥棒」(1882年)、「馬に乗って」、「家庭」(1881年)の22編を収めています(カッコ内は何れも短編集の一編として刊行された年)。

 「あな」は、ボート釣りの穴場を巡る争いで殴打傷害致死罪で訴えられた男が独特の陳述を展開する話。「蠅」は、かつて5人で1艘のボートを共有した若者たちと"彼女"の青春譚(この場合のボートは女性の比喩か)。「ポールの恋人」は、これも人々がボートで行きかう水上カフェを舞台とした、同性愛がモチーフとなっている珍しい作品。「春に寄す」は、陽春の船着場で若い男が娘を誘惑しようとしたら、奇妙な男に恋愛と結婚の落差の話を聞かされて...(作者の結婚に対する悲観的な見方が表れている作品か)。

La parure.jpgLa parure(首飾り)0.jpgLa parure(首飾り)4.jpg 「首飾り」(La parure)は、パーティにで注目されたいがための見栄から借りたダイヤの首飾りを失くしてしまった女が、取り敢えず贋物を戻しておいて、弁済しようと長年にわたって身を粉にして働き、やっと金をためて同じダイヤの首飾りを買って密かに貸主に戻すが...(O・ヘンリーの短編みたい。夏目漱石がオチを批判したそうだが、彼女自身は人間的には以前よりずっと堅実な人になったに違いない)。このジャン・ルノワール「ピクニック」2.jpg作品は2007年にクロード・シャブロル監督により「首飾り」に続く第2弾としてテレビドラマ化されています。「野あそび」は、ジャン・ルノワール監督の映画「ピクニック」('36年/仏)の原作。考えてみれば結構エグい話ですが(俗に言えば疑似"親子丼")、全体の描写が美しいのと(映画も監督の父の印象派の絵画のように美しく撮られていた)、最後にやっぱり恋愛と結婚の落差が浮き彫りに(モーパッサンは生涯独身だった)。

 「勲章」は、勲章を貰うことに固執する男が、代議士に取り入って画策・奔走しどんな仕事でもやるが、実はもう勲章は家にあった...(彼の奥さんはどうやって勲章を手に入れた? やはり、交換条件としてアレしたとしか考えられない?)。この作品、溝口健二監督の「雨月物語」('53年/大映)の一部にモチーフとして使われているようです。「クリスマスの夜」は、太った女がすきな男がクリスマスの夜にナンパした女がベッドで産気づいて大騒動に(実は、妊娠していたわけ)。

 「宝石」は「首飾り」の逆で、偽と思っていたものが真であって莫大な富を得た男の話(「首飾り」が不幸に見えてそうとも言えない話であるのに対し、こちらは、結局は男が不幸な結婚をしてしまう点でも対照的か)。「かるはずみ」は、結婚生活がやや倦怠期にさしかかっている夫が、妻に促されれるままに過去の女性遍歴を話したばっかりに...(何やら妻の危なっかしい情熱に火を点けた?)。「父親」は、若い頃に子供の束縛から逃れた男が、老いてから今度は孤独から逃れるため子供を見ようとする話(切ない)。

Le papa de Simon 2.jpgLe papa de Simon 1.jpgLe Papa de Simon by Guy de Maupassant.jpg 「シモンのとうちゃん」(Le papa de Simon)は、父無し子として仲間から苛められていた少年に訪れた幸せ(珍しく?いい話だった!)。「夫の復讐」では、仲が良いとされていた夫婦間で、ちょとしたことが夫の嫉妬心を掻き立てる(これ、修復が難しそう)。「肖像画」は、作者の母親を投影しているのか。「墓場の女」は、墓場に佇む喪服の"未亡人"の秘密(結構エグいかも) 「メヌエット」は、メヌエットを踊る老人を通してみる、誰にでも訪れる人生の老い。

 「マドモアゼル・ペルル」「オルタンス女王」「待ちこがれ」は、いずれも女の哀れがテーマですが、「マドモアゼル・ペルル」は、ある人物が自分を愛していたことを知らされたのが本当によかったのか、語り手同様に考えさせられます。「オルタンス女王」も老女物ですが、子供のいない女性が死の間際に、いないはずの子供の面倒をだれが見るのか心配の余り憤死するという凄まじい話。

 「泥棒」は、酔っぱらって"軍隊ごっこ"をしていた3人の若者がたまたま泥棒を捕まえるが、捕まえた後も"軍隊ごっこ"を続け、泥棒に"死刑"を宣告したので泥棒はビックリ(モーパッサン自身の青春時代が反映されているよう)。「馬に乗って」は、奮発して馬車を借りてピクニックに出かけて家族だったが、馬が暴れて悲惨な結末に...("家族的"なものに対する作者のシニカルな見方を感じる。それは次の「家庭」も同じ)。「家庭」は、老いた母親が死に、自分は途方に暮れるが、妻は現実的で、親戚に連絡する前に老人の持ち物を漁る―ところがその母親が生き返る(しかし、結構いい加減な医者だなあ)。

 全体を通しても、結婚や家族に対してシニカルなものが多かったでしょうか。因みに、このシリーズの第3巻は、モーパッサン自身も従軍した普仏戦争を扱った「戦争もの」と、超自然現象を取材した「怪奇もの」を集めて収めています。

ジャン・ルノワール「ピクニック」dvd.jpgピクニックelle.jpg「ピクニック」●原題:PARTIE DE CAMPAGNE●制作年:1936年●制作国:フランス●監督・脚本:ジャン・ルノワール●製作:ピエール・ブロンベルジェ●撮影:クロード・ルノワール●音楽:ジョゼフ・コスマ●原作:ギ・ド・モーパッサ「野あそび」●時間40分●出演:シルヴィア・バタイユ/ジョルジュ・ダルヌー(ジョルジュ・サン=サーンス)/ジャック・B・ブリュニウス/アンドレ・ガブリエロ/ジャーヌ・マルカン/ガブリエル・ファンタン/ポール・タン●日本公開:1977/03●配給:フランス映画社●最初に観た場所:京橋フィルムセンター(80-02-15)(評価:★★★★)●併映:「素晴しき放浪者」(ジャン・ルノワール)
ジャン・ルノワール「ピクニック [DVD]

「●も ギ・ド・モーパッサン」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2903】 モーパッサン 『モーパッサン短編集Ⅱ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

短編の中から「田舎もの」を集めたもの。滑稽譚や不倫話が多いが全体におおらか。

モーパッサン短編集(一) (新潮文庫).jpgモーパッサン短編集(一) (新潮文庫)ジュールおじさん.jpgジュールおじさん (1967年) (旺文社文庫)

 ギ・ド・モーパッサン(1950-1993)の文学活動は30歳から40歳までで、その10年間に360余編の短・中編小説、7巻の長編小説、3巻の旅行記、2つの詩集、1巻の詩、計29冊の作品を生んでいるとのことです。この新潮文庫の翻訳シリーズは(かつて6分冊だったものを改編したものだが)、360編の短・中編から代表作65編を抽出し、それを、郷土ノルマンディをはじめその他の地方に取材した「田舎もの」を集めた第1巻、パリ生活を扱った「都会もの」を集めた第2巻、自身も従軍した普仏戦争を扱った「戦争もの」と、超自然現象を取材した「怪奇もの」を集めた第3巻の3冊に分けて収めています。

 第1巻は、1885年刊行の短編集『トワーヌ』所収の「トワーヌ」ほか、「酒樽」(1884年)、「田舎娘のはなし」(1881年)、「ベロムとっさんのけだもの」(1886年)、「紐」(1884年)、「アンドレの災難」(1884年)、「奇策」(1882年)、「目ざめ」(1882年)、「木靴」(1883年)、「帰郷」(1885年)、「牧歌」(1884年)、「旅路」、「アマブルじいさん」(1886年)、「悲恋」(1884年)、「クロシュート」(1887年)、「幸福」(1885年)、「椅子なおしの女」(1883年)、「ジュール叔父」(1884年)、「洗礼」、「海上悲話」、「田園悲話」、「ピエロ」、「老人」(1885年)の24編を収めています(カッコ内は何れも短編集の一編として刊行された年)。

クロード・シャブロル 酒樽2.jpg 「トワーヌ」は、脳溢血で寝たきりになった男が、家族に邪険にされながらも寝床で鶏の卵を孵すことに歓びを見出すようになる話(残酷な中にも救いがある?いや、やっぱり残酷?)。「酒樽」は、貪欲な男が老女から屋敷を手に入れようとするが、老女がいつまでも元気でいるため、酒を持ち込んでアルコール中毒にして死なせてしまうという話(これこそ残酷か)で、2007年にクロード・シャブロル監督によりテレビドラマ化されています。「田舎娘のはなし」は、下男に妊娠させられた女中娘が、男に逃げられた後で子を産み、何年か後に今度は主人から強引に求婚されて子供がいることは伏せていたら...(この主人は鷹揚だったなあ)。

 「ベロムとっさんのけだもの」は、ある男が耳の中にけだものがいるといって大騒ぎする典型的な滑稽譚で、耳の中にいたのは...。「紐」はある男が道で紐を拾っただけなのに他人の財布拾ってくすねたと疑われ、最期は憤死してしまう話(同じ滑稽譚でも結末は哀しい)。「アンドレの災難」は、不倫の最中に子供が泣き止まず...不倫相手の男がとった行動とは?(児童虐待ホラーだったなあ。現代にも通ずるか)。

 「奇策」は、妻が自宅で不倫行為中に(また不倫かあ)相手が突然死し、もうすぐ夫が帰ってくると混乱する中、連絡を受け駆け付けた医者がとった"奇策"とは(いざという時はご相談ください...か)。「目ざめ」は、性愛に目ざめた妻が二人の若い男と不倫するが(またまた不倫)...この辺り、モーパッサンは結婚に対して悲観主義だったのではないかと思わせます(実生活でも、女友達はいたが結婚は生涯していない)。「木靴」は、女中に出た先で主人の言うことを何でも聞いているうちに妊娠してしまった田舎娘の話(「木靴をごっちゃにする」という表現が面白い)。

 「帰郷」は、船乗りの亭主が船が遭難したらしくて戻らず、女は2人の子供を10年育てた後に再婚、3年の間にさらに2人の子供をもうけたが、ある日、知らない男に家を覗かれているように感じる―(マルグリット・デュラス原作、アンリ・コルピ監督の「かくも長き不在」を想起させられた)。「牧歌」は、汽車の車中で乳が張ってしまった女を楽にさせてやるためにその乳を吸ってやった男が最後に言った言葉が傑作。「旅路」は、かつて汽車の旅の途中に逃亡中の見知らぬ男を匿ったことがあるロシア貴婦人は、今は不治の病の床にあるが、そこへ彼女を訪ねてくるが彼女には会わない青年が...(究極のプラトニックラブ。美男子は得か?)。

 「アマブルじいさん」は、主人公が息子の死と貧困のため希望を失って自殺する話ですが、残酷な話である一方で、ノルマンジィの農村の風俗が描かれていて、どこか牧歌的でもある作品。「悲恋」(訳本によっては「ミス・ハリエット」)は、年増のイギリス人女性の秘められた恋情と残酷な最期の話(残酷な話が多いなあ)。「未亡人」「クロシュート」「幸福」も同じ系列と言えるかも。

ジュールおじさん (1967年) (旺文社文庫)
ジュールおじさん.jpgMon oncle Jules.jpgMon oncle Jules .jpg 「椅子なおしの女」は、これも不幸な女の話。でも彼女は死ぬまで恋をしていた...(精神的な恋愛と世俗的な物欲の対比が際立っている)。「ジュール叔父」(Mon oncle Jules)は、そう豊かではない一家の希望は、外国で一旗あげて郷里に帰ってくるはずの父の弟ジュール叔父だったはずが...(これも皮肉譚。牡蠣を剥いているというのが何とも言えない)。「洗礼」は、子供の洗礼式で司祭がとった驚きの行動とは...。自分の人生の欠落を認識するのって辛いだろなあ(これって妻帯不可のカトリック司祭なんだろなあ。なんで司祭になんかなったのだろう)。

 「海上悲話」は、トロール船の事故で腕を切断せざるを得なかった男が自分の腕の"葬式"をやるという滑稽なオチですが、最後に自分の腕よりも船の方を大事にした兄への恨みが出てきて、やりこれも"悲話"か。「田園悲話」は、貧しい夫婦が子供のいない金持ちに子供を売ることを迫られ断るも、代わりに子供を売った隣家が、成長した子供が立派になって戻ってきて、自分たちの子供は親に恨みつらみを言うという...。「ピエロ」「老人」も同じく、農民の貪欲がテーマであり、貧しさを美化することなくそのまま貪欲に結び付けているところが、このあたりの作品の特徴でしょうか。

「●も ギ・ド・モーパッサン」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2902】 モーパッサン『モーパッサン短編集Ⅰ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

「モーパッサンの特徴がよく表れている」9編。大佛次郎が自作にアレンジした「手」。
モーパッサン―首飾り.jpgモーパッサン―首飾り2.jpg La parure(首飾り)0.jpg  大佛次郎  .jpg
モーパッサン―首飾り (世界名作ショートストーリー)』(カバー絵「マドモアゼル・ペルル」)/TVドラマ「La parure(首飾り)」/大佛次郎

 ギ・ド・モーパッサン(1950-1993)が遺した300を超える中短編の中から、モーパッサンの特徴がよく表れているものを選んだとのことで、文庫でモーパッサンの短編集は多くありますが、本書は文庫よりやや大きめのサイズで、行間も広く、かなも振ってあって読みやすいです。第1弾がモンゴメリ、第2弾がサキときて、第3弾がこのモーパッサンですが、このシリーズは若年層読者を意識しているようです(このあと、ヘルマン・ヘッセ、ポーと続いて全5巻で一旦完結している)。

 収録作品は、1885年刊行の短編集『昼夜物語』所収の「首飾り」「手」、1881年刊行の短編集『テリエ館』所収の「シモンのパパ」、1884年刊行の『ロンドリ姉妹』所収の「酒樽」、1887年刊行の『オルラ』所収の「クロシェット」「穴場」、1886年刊行の『ロックの娘』所収の「マドモアゼル・ペルル」、『昼夜物語』所収の「老人」、1884年刊行の『ミス・ハリエット』所収の「老人」の9編。新潮文庫の青柳瑞穂訳『モーパッサン短編集Ⅰ~Ⅲ』は、第1巻に「田舎物」を、第2巻に「都会物」を、第3巻に「戦争・怪奇物」を集めていますが、9編をそれとの対比でみると、「首飾り」Ⅰ(田舎)、「手」Ⅲ(怪奇)、「シモンのパパ」Ⅱ(都会)、「酒樽」Ⅰ、「クロシェット」Ⅰ(田舎)、「穴場」Ⅱ(都会)、「マドモアゼル・ペルル」Ⅱ、「老人」Ⅰ(田舎)、「ジュール叔父さん」Ⅰ(田舎)となります。

ゲーリー・ケリー(絵)『ネックレス』('97年/西村書店)
ネックレス  ギィ ド・モーパッサン.jpgLa parure.jpg 表題作「首飾り」(La parure)は、ある女性が夫と共に招かれたパーティの場で見栄をはりたくて宝石持ちの婦人からダイヤの首飾りを借り、お陰でパーティの場では紳士たちから注目を浴びるが、パーティが終わった後その首飾りを失くしてしまう。取り敢えず婦人には贋物を戻しておいて、最終的にはちゃんと弁済しようと長年にわたって身を粉にして働き、爪に火を灯すような生活を経て、やっと金をためて同じダイヤの首飾りを買って密かに貸主である婦人に戻すが、ある日街角でその婦人と出会い、婦人から思わぬ事実がLa parure(首飾り)1.jpgLa parure(首飾り)3.jpg明かされる...(O・ヘンリーの短編みたい。夏目漱石がオチを批判したそうだが、彼女自身は人間的には以前よりずっと堅実な人になったに違いない)。因みに、この作品はゲーリー・ケリーLa parure(首飾り)5.jpgLa parure(首飾り)4.jpgというアメリカのイラストレーターにより絵本化されています。また、2007年にクロード・シャブロル監督によりテレビドラマ化されています(日本でもBS日テレなどで放映されたが個人的には未見)。

 「手」は、語り手である主人公が、ある時に知り合ったイギリス人の家に行くと、前腕の中ほどで切断され干からびた人間の手が、鎖が手首に巻き付いた状態であり、イギリス人はこれを「わが最強の敵」だと言う。その1年後、当のイギリス人が何者かに殺害される事件があり、検死医が言うには「骸骨で絞殺されたいたいだ」と―(怪奇物においてはホフマン、アラン・ポーの後継者と言われるだけのことはある)。

Le papa de Simon 2.jpgLe papa de Simon 1.jpgLe Papa de Simon by Guy de Maupassant.jpg 「シモンのパパ」は、父無し子として仲間から毎日苛められていた少年が、ある日惨めな気持ちで泣いていると、大柄な職人風の男と出会い励まさられる。シモンは男に「パパになっておくれよ」と頼むと―(いい話だった! 男はやはりどれだけ仕事ができて、分別、優しさ、人望があるかが大事か)。

Le Papa de Simon by Guy de Maupassant

 「酒樽」は、宿屋経営の貪欲な男が隣家の老女から農場と屋敷を手に入れようとするが、老女クロード・シャブロル 酒樽2.jpgは手放したがらない。そこで男は一計を案じ、老女をそこに住まわせたまま、毎月銀貨を彼女に払う(要するに、実質少クロード・シャブロル 酒樽1.jpgしずつ自分のものにしていきつつ、老女が亡くなったら残債相当分はチャラにしてしまう考えか)。しかし、あと数年しか持たないと思われた老女がいつまでも元気でいるため、このままでは赤字になってしまうと考え、老女の家に酒樽を持ち込んでアルコール中毒にして死なせてしまおうと―(残酷だけどちょっとユーモラス。岩波文庫版は表題作になっている)。この作品も2007年にクロード・シャブロル監督により「首飾り」に続く第2弾としてテレビドラマ化されています

 「クロシェット」は、語り手である主人公が子供のころ慕った通いのお針子であるクロシェットばあやは、ひげの生えたおばあさんで、足が不自由だったが、いつも編み物をしながら素敵な話を聞かせてくれた(カバー絵)。実は彼女には過去に哀しい恋の物語があった―(悲恋物もこの作家の得意ジャンルと言えるかも)。

 「穴場」は、ボート釣りの穴場を巡る家族同士の争いで殴打傷害致死罪で訴えられた男が、裁判で独特の陳述を展開する。襲ってきたところを殴り返して川に落ちた相手の男を助けようにも、女同士の喧嘩を仲裁するのに手こずってしまい助けられなかったという言い訳がまかり通ってしまうのがおかしいです。

 「マドモアゼル・ペルル」は、独身で通してきた老女が、語り手によってある人物が自分を愛していたことを知らされ―(語り手は、余計な事を言わない方が良かったのではないかという気もする)。

 「老人」は、農場の夫婦が、百姓女の方の父親が臨終の床にあるため、農作業との兼ね合いもあって、先に葬式の手配をしてしまう。ところが、葬式を予定していた日になっても老人は死なず、やがて喪服姿の客たちが家に来てしまう―。

 「ジュール叔父さん」は、港町ルアーブルのそう豊かではない一家の希望は、外国で一旗あげて郷里に帰ってくるはずの父の弟ジュール叔父だったはずが...。

大佛次郎『怪談その他』天人社図2.jpg世界怪談叢書 怪談仏蘭西篇.jpg 300余辺から厳選されているだけあって、どれも面白かったですが、この中で唯一の「怪奇物」である「手」は、どこかに似たような話があったなあと思ったら、大佛次郎の「手首」(「怪談」)(『文豪のミステリー小説』('08年/集英社文庫)などに所収)とモチーフは同じでした(大佛次郎の「手首」の方が物語に肉付けがされているが)。それで、たまたま横浜・港の見える丘公園にある「大佛次郎記念館」のホームページを見たら、2019年のテーマ展示として「大佛次郎の愛書シリーズ」というのがあり、展示資料の中に青柳瑞穂訳『世界怪談叢書 怪談仏蘭西篇』('31年/先進者)があったことが分りました。この中には、モーパッサンの「手」が収められています。大佛次郎がモーパッサンの「手」から自作「手首」の着想を得、日本風にアレンジ、応用したことは、ほぼ確実であると思います。

「●い カズオ・イシグロ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●い 石ノ森 章太郎」【3124】 石ノ森 章太郎 『章説 トキワ荘の青春
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●シャーロット・ランプリング 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

初めて読んだ時は驚いたが、「限られた生」という意味では自分たちも登場人物らと同じか。

わたしを離さないで 文庫 2008.jpgわたしを離さないで 2006.jpg わたしを離さないで 映画dvd__.jpg わたしを離さないで dorama d_.jpg
わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)』/単行本/「わたしを離さないで [DVD]」/「わたしを離さないで DVD-BOX


 キャシー・Hは31歳、優秀な介護人として11年間、提供者と呼ばれる人たちを世話している。生まれ育ったヘールシャムでの親友、ルースとトミーもキャシーが介護してきた。キャシーはヘールシャムで過ごした日々を懐かしく回想していく。毎週の健康診断や、図画工作に力をいれた授業など、保護官の監視のもと「外」とは違う奇妙な、しかし懐かしい日々。「教わっているけど教わっていない」ヘールシャムでの日常を回想しながら、運命に翻弄された人々の真実が徐々に明らかになっていく―。

Never Let Me Go .jpg 2017年のノーベル文学賞受賞者となったカズオ・イシグロの2005年発表の長編第6作であり(原題:Never Let Me Go)、その前の第5作『わたしたちが孤児だったころ』(2000年)が歴史探偵小説風、この後の第7作が『忘れられた巨人』(2015年)がファンタジー小説風であるのに対し、この作品はSF小説風ということで、一作毎にいろいろな小説スタイルを採り入れているのが興味深いです。SF作家でノーベル文学賞を受賞した人はいませんが、"代表作"の中にSF小説がある作家というと、カズオ・イシグロは当て嵌まるかもしれません(ノーベル文学賞受賞の際に、受賞理由である「世界と繋がっているという我々の幻想に隠された深淵を偉大な感情力で明るみにした一連の小説」を体現する代表作として本作を紹介する解説者が多くいた)。

"Never Let Me Go"ペーパーバック(2011)

 この作品は、個人的には、まだカズオ・イシグロが日本でそれほど話題になっていない頃に予備知識無しで読んだため、途中で登場人物たちの負っている運命が明かされた時は本当に驚いてしまい、よくこんな話を考えたものだと思いました。作者は、未読の人にネタバラシしても構わないと言っているようですが、そのことはとりもなおさず"読み物"の形を借りた"文学"であることを意味しているのでしょう。とは言え、個人的には、読んでいて途中でそうした事実が明かされた時の衝撃の大きさが本の一番の印象になっているため、もうかなり知られているとは思いますが、ここでストレートにすべてを明かしてしまうのはやや気が引けます(読んでいるうちに分かってしまうが)。

ドリー・パートン.jpgクローン羊ドリー.jpg 作者は、1996年に英国で世界初のクローン羊"ドリー"(米国のシンガーソングライター兼女優ドリー・パートンの巨乳に因んで名づけられた)が誕生したニュースから、この作品のモチーフを着想したそうです。この作品の発表の翌年2006年に、山中伸弥教授が率いる京都大学の研究グループがiPS細胞を開発し、その時点でノーベル受賞が確実視されるほど話題になりましたから(2012年ノーベル生理学・医学賞を受賞)、そのニュースの後だったら違った作品になっていたかもしれないという気もします(iPS細胞の開発はこの作品の前提を変えてしまうから)。

「ブレードランナー」より
『ブレードランナー』4.jpg この作品の登場人物たちは、自分たちの運命に抵抗もしますが、それを宿命として受け入れている部分がかなり大きいように思います。P・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の映画化作品リドリー・スコット監督の「ブレードランナー」('82年/米)における"レプリカント" (クローン技術の細胞複製(レプリケーション)からとった造語)は彼らよりもっと自らの運命に抗ったし、さらに遡ると、カレル・チャペックの1920年刊行の戯曲『ロボット』では、創造主である人間に抵抗し滅ぼそうとする"ロボット"たちが登場し、最後、人間は一人だけが生き残り、ロボット同士の結婚を認めるというスゴイ話になっています。

 それらに比べると、この作品は冒頭から何となくシュール感が漂うものの、リアリズム基調を維持していて、"異常"でありながらも"劇的"な事態は生じず、「記憶の物語」が静かに進行していくという感じです。そのため、どうして彼らは逃げ出さないのかという疑問は誰もが抱くのではないかと思いますが、作者は、この英国の片田舎の"平行世界"を舞台とした小説を、2015年までの自身の作品のうちでもっとも「日本的」な小説だと考えているとしており、それは所謂"日本的諦念"というのが反映されているということでしょう。別のところで作者は、登場人物たちの死生観を、難病の子供たちのそれに擬え、彼らは決して絶望しているわけではないともしていました。

日の名残り%E3%80%80文庫.jpg また、同じ作者の代表作『日の名残り』について、作者自身が「われわれは皆"執事"のようなものである」ということが言いたかったと述べているのは、この作品にも当て嵌まるように思います。つまり、相対比較で見れば、この小説の登場人物のような境遇でなくて良かったということになるのかもしれませんが、絶対的に限られた時間を生きているという意味では自分たちも彼らとまったく同じであり、ただ、"限られた生をどう生きるか"そこまで突き詰めて考えていないで日常を過ごしているだけなのかもしれないと思いました。この小説に引き込まれるのは、登場人物の思念を通して、そうした生の有限性や生きることの意味を考えさせられるためではないかと思います。

わたしを離さないで 01.jpg この作品は、2010年にマーク・ロマネク監督、キャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイ、アンドリュー・ガーフィールド主演により、イギリスにおいて映画化されています。キャリー・マリガン、キーラ・ナイトレイ共に1985年生まれで、キーラ・ナイトレイは「プライドと偏見」('05年/英)でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、ハリウッド映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズでジョニー・デップの相手役でブレイク、一方のキャリー・マリガンは、そのキーラ・ナイトレイが主演した「プライドと偏見」がデビュー作ということで、当初はキャリアに相当差がありましたが、その後「17歳の肖像」('09年/英)で英国アカデミー賞主演女優賞を受賞、この「わたしを離さないで」では、キャリー・マリガンが主人公キャシーを演じ、ルースを演じたキーラ・ナイトレイ、トミーを演じたアンドリュー・ガーフィールドと共に2010年・第13回英国インディペンデント映画賞の主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞にそれぞれノミネートされ、キャリー・マリガンだけが受賞しています。

キャリー・マリガン/キーラ・ナイトレイ/アンドリュー・ガーフィールド
わたしを離さないで05.jpg 役者達の演技は悪くなく、特にキャリー・マリガンはいいです。子役たちも、意図して選んだのだと思いますが、3人の役者にそれぞれ似ていました。ただ、小説におけるヘールシャムからは英国のパブリック・スクールに代表される「イギリス的学校」の雰囲気が感じられ、ここにも作者の"英国的"なものへの批判が込められていると思わたしを離さないで シャーロット・ランプリング.jpgいましたが、映画ではもろにパブリック・スクールそのものになってしまっていて、ストレートすぎて逆にイマジネーションが阻害された感じ。それと、シャーロット・ランプリング演じるヘールシャムの校長が、かなり早い段階で生徒たちに事実を告げてしまうので、これもどうかなと思いました。原作を読んでいて、読みながら何かこの学校にはあるぞという思いを巡らせる、そうした時間に相当する部分が短かすぎたため、原作を"追体験"した気分にならなかったです(そう考えると、原作は"引っ張る"ことの効果まで計算されていたということか)。

わたしを離さないで 舞台.jpg 日本では2014年に蜷川幸雄演出、多部未華子主演により舞台化され、2016年には森下佳子(「おんな城主 直虎」('17年/NHK))脚本、綾瀬はるか主演でテレビドラマ化されました。多部未華子の舞台は観ていまわたしを離さないで  ドラマ.jpgせんが(PVは観た)、綾瀬はるかのドラマの方は、全10話の内最初の3話が登場人物の幼年期で、子役の演技をずっと見せられるのはややしんどかったです(NHKの大河ドラマで言えば、4月まで子役が児童劇を演じているようなもの)。しかも、この間に生徒(児童)たちに事実が告げられ、告知が映画より更に早わたしを離さないで  ドラマs.jpgまっています(これ、何歳でそうした事実を知らされるかで、話がやや違ってくるように思われ、児童劇のような序盤と併せ、原作と最もイメージが違った点だった)。更に、ラストの方は、ドラマのオリジナルの話になっています。映画化も舞台化もされているため、オリジナリティを出そうとしたのかもしれませんが、ドラマ化は初なので、原作通りで真っ向勝負して欲しかった気もします(歴史さえ改変してしまう「直虎」の脚本家だから、何でもありか)。


わたしを離さないで 02.jpgわたしを離さないで03.jpg「わたしを離さないで」●原題:NEVER LET ME GO●制作年:2010年●制作国:イギリス●監督:マーク・ロマネク●製作:アンドリュー・マクドナルド/アロン・ライヒ●脚本:アレックス・ガーランド●撮影:アダム・キンメル●音楽:レイチェル・ポートマン●原作:カズオ・イシグロ●時間:105分●出演:キャリー・マリガン/アンドリュー・ガーフィールド/キーラ・ナイトレイ/イソベル・メイクル=スモール/エラ・パーネル/チャーリー・ロウ/エミリシャーロット・ランプリング/サリー・ホーキンス/ナタリー・リシャール/アンドレア・ライズボロー/ドムナル・グリーソン●日本公開:2011/03●配給:フォックス・サーチライト・ピクチャーズ(評価:★★★)

キーラ・ナイトレイ in「プライドと偏見」('05年/英)/「はじまりのうた」('13年/米)
キーラ・ナイトレイ プライドと偏見.jpg はじまりのうた98.jpg
アンドリュー・ガーフィールド in「ソーシャル・ネットワーク」('10年/米)/「沈黙-サイレンス-」('16年/米)
アンドリュー・ガーフィールド.jpg 沈黙%E3%80%80サイレンス.jpg
シャーロット・ランプリング in「まぼろし」('00年/仏)/「スパイ・ゲーム」('01年/米)/「デクスター 警察官は殺人鬼(シーズン8)」('08年/米)
シャーロット・ランプリング まぼろし .jpg Charlotte Rampling-spy-game-(2001) -.jpg シャーロット・ランプリング デクスター.jpg

わたしを離さないで  ドラマ s.jpgわたしを離さないで tv.jpg「わたしを離さないで」●演出:吉田健/山本剛義/平川雄一朗●プロデューサー:渡瀬暁彦/飯田和孝●脚本:森下佳子●原作:カズオ・イシグロ●出演:綾瀬はるか/三浦春馬/水川あさみ/真飛聖/伊藤歩/甲本雅裕/麻生祐未●放映:2016/01~03(全10回)●放送局:TBS

●朝日新聞・識者120人が選んだ「平成の30冊」(2019.3)
1位「1Q84」(村上春樹、2009)
2位「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、2006)
3位「告白」(町田康、2005)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)

【2008年文庫化[ハヤカワepi文庫]】

「●ルキノ・ヴィスコンティ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2163】 ヴィスコンティ 「ルートヴィヒ
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●「フランス映画批評家協会賞(外国語映画賞)」受賞作」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(大塚名画座) 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ ○ノーベル文学賞受賞者(トーマス・マン)

すべてを分かり易く撮っているヴィスコンティ。"注釈"的な場面さえある。

べ二スに死す ps.jpgヴェ二スに死す 文庫新潮.jpg ヴェ二スに死す 文庫岩波.jpg ヴェ二スに死す 文庫集英社.jpg トーマス・マン.jpg
ベニスに死す [DVD]」/『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)』['67年]/『ヴェニスに死す (岩波文庫)』['00年]/『ベニスに死す (集英社文庫)』['11年]/トーマス・マン(1875-1955)

ベニスに死す  .jpgベニスに死す 07.jpg 1911年、ドイツ有数の作曲家・指揮者であるグスタフ・アシェンバッハ(ダーク・ボガード)は静養のため訪れたベニスで、母親(シルヴァーナ・マンガーノ)と三人の娘と家庭教師と共に同地を訪れていたポーランド人少年タジオ(ビヨルン・アンデルセン)に理想の美を見出す。以来、彼は浜に続く回廊をタジオを求めて彷徨うようになる。ある日、ベニスの街中で消毒が始まり、疫病が流行しているのだという。白粉と口紅、白髪染めを施して若作りをし、タジオの姿を求めてベニスの町を徘徊ベニスに死す86cf.jpgベニスに死す last.jpgしていたあるとき、彼は力尽きて倒れ、自らも感染したことを知る。それでも彼はベニスを去らない。疲れきった体を海辺のデッキチェアに横たえ、波光がきらめく中、彼方を指さすタジオの姿を見つめながら死んでゆく―。
ルキノ・ヴィスコンティ監督/ビヨルン・アンデルセン
ベニスに死す ヴィスコンティ.jpg 1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督作で、アメリカ資本のイタリア・フランス合作映画で第24回カンヌ国際映画祭25周年記念賞受賞作。同監督の「地獄に堕ちた勇者ども」「ルートヴィヒ」と並ぶ「ドイツ三部作」の第2作とされていますが、これだけ舞台はドイツではなくイタリアです。原作はドイツの作家トーマス・マン(1875-1955)が1912年に発表した中編小説で、原作では主人公グスタフ・アッシェンバッハは"著名な作家"となっていますが、映画では"作曲家・指揮者"になっています。ただし、主人公のファースト・ネームから窺えるように、トーマス・マンは主人公のモデルに。このDeath in Venice_243fa75d0e.jpg小説執筆の直前に死去した作曲家のグスタフ・マーラー(1860-1911)をイメージし、主人公の名前もそこから借りたとされており、主人公を作曲家にしたのはルキノ・ヴィスコンティ監督の恣意によるものとは必ずしも言い切れないようです。

Vintage cover of a German edition of Death in Venice

ベニスに死すges.jpg トーマス・マンは1911年に実際にヴェネツィアを旅行しており、そこで出会った上流ポーランド人の美少年に夢中になり、帰国後すぐにこの小説を書いたとのことで、作品の主人公は老人になっていまうが、トーマス・マンはこの時まだ30代だったことになります(トーマス・マンの死後、美少年のモデルになったポーランド貴族ヴワディスワフ・モエス男爵が名乗り出て、彼がヴェネツィアでトーマス・マンと遭遇したのは11歳の時で、当時ヴワージオ、アージオなどの愛称で呼ばれていたことが確認されている)。

 文学作品を映画化すると、ストーリーを追おうとするばかり、本質的なところが抜け落ちてしまうことがままありますが、この作品は、アルベール・カミュの原作を同監督が映画化した「異邦人」('67年/伊・仏・アルジェリア)よりはその"抜け落ち"の程度が抑えられているように思います。

ベニスに死す6b.jpg 成功の要因としては、監督がヨーロッパ中を探して見つけたという美少年ビョルン・アンドレセンの美しさ(映画における美少年ランキングの人気投票でほとんどいつもトップにくる)もさるこベニスに死す-07.jpgとながら、舞台となる20世紀初頭のホテルなど、ルキノ・ヴィスコンティ監督の背景への徹底したこだわりがあるかと思います。これは、オフシーズンの名門ホテルを借り切って19世風に改装したそうですが、ホテルのホールやレストラン、客室の調度、人々の衣裳などの華やかさは、ヴィスコンティ監督の十八番という感じでしょうか。

シルヴァーナ・マンガーノ/ビョルン・アンドレセン/ダーク・ボガード
べ二スに死すa.jpg さらにこの映画の特徴としては、すべてを分かり易く撮っているということが言えるかと思います。アシェンバッハが旅立とうしたら荷物の行先が間違えられて、彼は結局ホテルに戻らざるを得なくなりますが、それによってまたタジオと会うことができるようになる、その喜びをダーク・ボガードは堪えても堪えきれないといった満面の笑みで表現しています。アシェンバッハは、少年とその家族にペストの流行を伝え、この地を去るよう注意を促す自分を想像しますが、映画ではこの実現しなかった場面を実際に映像化して少年の髪の毛に手を触れるところまで描いています。さらに、終盤アシェンバッハが化粧して若作りする場面も、リアリティを欠くぐらい濃いメイクをダーク・ボガードに施してします。また、これは、主人公が原作の冒ベニスに死す kesyou.jpg頭で出会った、「若作りをしているが実はぎょっとするぐらい年寄りだったと分かった男」と対応していて、主人公自身がその男になってしまったといういわば"オチ"であるわけですが、その冒頭の"若作り男"もしっかり描かれています。アシェンバッハは疫病のためか体調不良で(心臓の具合が悪いようも見える)、さらに精神的にも疲弊しますが(少年への想いが激しくて自分自身が空洞化しているように見える)、そのことを強調するためか、ホテル内で行われた演奏会での彼の指揮が散々な出来だったという、原作には無い場面を入れています(原作は作家だから元々演奏会の指揮などしないわけだがベニスに死す67.png)。極めつけは、アシェンバッハの回想シーンに彼が娼館に女を買いに行く場面があることで、原作には無い場面のように思います。このシーンがあることによって、アシェンバッハが少年に恋い焦がれているのは事実ですが、彼を直接的に性愛の対象として見ているのではなく、あくまでも絶対的な美の対象としてみていることが示唆されており、ある種"注釈"的な印象を受けました。
    
トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)
トーニオ・クレーガー.jpg そもそも原作のテーマは何なのか。ドイツ文学者の高橋義孝(1913-1995)は、この作品を、同じく作者の代表作の中編小説で1903年発表の「トーニオ・クレーゲル」と対比させています。「トーニオ・クレーゲル」は自分が文学者としてどうあるべきか真摯に思い悩んでいたトーマス・マン自身の告白的な作品で、主人公のトニオはギムナジウムの時代にハンスという美少年とインゲという美少女の両方に憧れを抱き、芸術家(詩人)を目指しながらも彼の思いはその両者の間を彷徨いますが(それを自身は自らの市民気質(かたぎ)によるものと捉え、年上の女性からもあなたは"俗人"だと言われる)、年齢を経て旅行などでの経験を通して、最後は自分はあくまで市民気質を保ちながらより良い作品を書いていく決心をするに至るというものです。高橋義孝は、トーマス・マンにおいて芸術家、特に文士、作家とは、「生」と「精神」、「市民気質」と「芸術家気質」、感情と思想(「ヴェニスに死す」の中の表現)、感性と理性、美と倫理、陶酔と良心、享受と認識という相反する2つのものの板挟みになっている存在であり、「トーニオ・クレーゲル」では、主人公はこれら対立概念の後者にすがってかろうじて自己の文士としての生活を支えるが、「ヴェニスに死す」では、これら対立概念の前者のために敗北し、死んでいくとしており、この解説は分かり易かったです。

 つまり、トーニオ・クレーゲルは踏みとどまったというかバランスを保ち得たわけで(この作品は三島由紀夫や北杜夫などの作家に大きな影響を与えたと言われている)、一方のアシェンバッハは向こう側にイッて(行って/逝って)しまったという感じでしょうか。小説としては、"イッて(行って/逝って)しまった"話の方が面白いような気がするし、また怖いような気もしますが、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画は、その面白さ、怖さをわれわれにその通り伝えてくれているような気がします。この作品は第45回(1971年度)キネマ旬報の外国映画ベスト・テン第1位となりましたが、ルキノ・ヴィスコンティ監督は「家族の肖像」('74年/伊・仏)でも第52回(1978年度)キネマ旬報の外国映画ベスト・テン第1位となっており、"滅びの美学"は感性的に日本人に受け容れられやすいのかもしれません。

ベニスに死すs.jpg「ベニスに死す」●原題:DEATH IN VENICE(英)/MORTE A VENEZIA(伊)/MORT A VENISE(仏)●制作年:1971年●制作国:イタリア・フランス●監督・製作:『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』.JPGルキノ・ヴィスコンティ●脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/ニコラ・バダルッコ●撮影:パスクワーレ・デ・サンティス●音楽:グスタフ・マーラー●原作:トーマス・マン●時間:131分●出演:ダーク・ボガード/ビョルン・アンドレセン/シルヴァーナ・マンガーノ/ロモロ・ヴァリ/マーク・バーンズ/マリサ・ベレンソン/ノラ・リッチ/キャロル・アンドレ/レスリー・フレンチ/フランコ・ファブリッツィ/セルジオ・ガラファノーロ/ドミニク・ダレル/マーシャ・ブレディット/エヴァ・アクセン/マルコ・トゥーリ●日本公開:1971/10●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:大塚名画座(79-02-07)(評価:★★★★)●併映:「地獄に堕ちた勇者ども」(ルキノ・ヴィスコンティ)

シルヴァーナ・マンガーノ in 「ベニスに死す」('71年)/「ルートヴィヒ」('72年)/「家族の肖像」('74年)
シルヴァーナ・マンガーノ.jpg

大塚駅付近.jpg大塚名画座 予定表.jpg大塚名画座4.jpg大塚名画座.jpg大塚名画座(鈴本キネマ)(大塚名画座のあった上階は現在は居酒屋「さくら水産」) 1987(昭和62)年6月14日閉館


【1939年文庫化・1960年改版・2000年改版[岩波文庫『ヴェニスに死す』(実吉捷郎:訳)]/1967年再文庫化[新潮文庫『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』(高橋義孝:訳)]/2011年再文庫化[角川文庫『ベニスに死す』(浅井真男:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫『ヴェネツィアに死す』(岸美光:訳)]/2011年再文庫化[集英社文庫『ベニスに死す』(圓子修平 :訳)]】
 
《読書MEMO》
●ヴェニス(ヴェネツィア)を舞台にした映画
ジョゼフ・ロージー監督「エヴァの匂い」('62年/仏)/ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」('71年/伊・仏)/ニーノ・マンフレディ監督「ヌードの女」('81年/伊・仏)/テレンス・ヤング監督「007 ロシアより愛をこめて」('63年/英)
イタリア・ベネチア●エヴァの匂いes.jpgイタリア ベニスに死す .jpgイタリア。ヴェネチア●ヌードの女.jpg 007 ロシアより愛をこめて  ヴェネチア (2).jpg

「●アン・リー(李安)監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●あ行の外国映画監督」 【1096】ジェームズ・アイヴォリー「眺めのいい部屋
「●「ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞」受賞作」の インデックッスへ(「ラスト、コーション」「ブロークバック・マウンテン」) 「●トニー・レオン(梁朝偉) 出演作品」の インデックッスへ(「ラスト、コーション」)「●「ロンドン映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「ブロークバック・マウンテン」)「●「ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「ブロークバック・マウンテン」)「●「ロサンゼルス映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「ブロークバック・マウンテン」)「●「インディペンデント・スピリット賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「ブロークバック・マウンテン」)「●「放送映画映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「ブロークバック・マウンテン」)「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ「●マイケル・ケイン 出演作品」の インデックッスへ(「ダークナイト」) 「●モーガン・フリーマン 出演作品」の インデックッスへ(「ダークナイト」) 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

アン・リー監督2度目の金獅子賞。原作短編を「長編に展開」し、女性映画として秀逸な「ラスト、コーション」。
ラスト、コーション チラシ.jpgラスト、コーション .jpg ラスト、コーション 集英社文庫.jpg ブロークバック・マウンテン dvd.jpg
ラスト、コーション [DVD]」(トニー・レオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯))『ラスト、コーション 色・戒 (集英社文庫)』「ブロークバック・マウンテン [DVD]」(ヒース・レジャー/ジェイク・ギレンホール)
ラスト、コーション 03.jpg 1938年、日中戦争の激化によって混乱する中国本土から香港に逃れていた女子大学生・王佳芝(ワン・チアチー)(タン・ウェイ)は、学ラスト、コーション04.jpg友・鄺祐民(クァン・ユイミン)(ワン・リーホン)の勧誘で抗日運動を掲げる学生劇団に入団し、やがて劇団は実践を伴う抗日活動へと傾斜していく。翌1939年、佳芝も抗ラスト、コーション09.jpg日地下工作員(スパイ)として活動することを決意し、特務機関の易(イー)(トニー・レオン)暗殺の機を窺うため麦(マイ)夫人として易夫人(ジョアン・チェン)に麻雀・買い物友達として接近、易を誘惑したが、学生工作員の未熟さと厳しい警戒でラスト、コーション37.jpg暗殺は未遂に終わる。3年後、日中戦争開戦から6年目の1942年、特務機関の中心人物に昇進していた易暗殺計画の工作員として上海の国民党抗日組織から再度抜擢された佳芝は、特訓を受けて易に接触したが、度々激しい性愛を交わすうち、特務機関員という職務から孤独の苦悩を抱える易にいつしか魅かれていく。工作員としての使命を持ちながら、暗殺対象の易に心を寄せてしまった佳芝は―。

ラスト、コーション99.jpg 「ブロークバック・マウンテン」('05年/米)で2005年・第62回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞や2005年度アカデミー監督賞を受賞したアン・リー(李安)監督の2007年公開作で、1942年日本軍占領下の中国・上海を舞台に、日本の傀儡政権である汪兆銘政権の下で、抗日組織の弾圧を任務とする特務機関員の暗殺計画を巡って、抗日運動の女性工作員ワン(タン・ウェイ)と、彼女が命を狙う日本軍傀儡政府の顔役イー(トニー・レオン)による死と隣り合わせの危険な逢瀬とその愛の顛末を描いたもので、2007年・第64回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞と撮影賞をW受賞し、アン・リー監督はルイ・マルや張藝謀(チャン・イーモウ)と並んで、金獅子賞を2度獲った歴代4人目の監督となりました。

世界文学全集 第3集.jpgZhang_Ailing_1954.jpg 原作は、ドミニク・チャン南カリフォルニア大学教授によれば、「国民党と共産党の政治的分裂がなければノーベル賞を受賞していたはずだ」という作家・張愛玲(ちょう あいれい、アイリーン・チャン、1920-1995)による小説『惘然記』(1983)に収められた短編小説「色、戒」で、1939年に実際にあった暗殺事件にヒントを得て書かれたものです。1955年に作者は米国に移り住むことになりますが、その頃から既に構想されていたもののようです(1977年初出)。映画公開に併せて『ラスト、コーション 色・戒』('07年/集英社文庫)など訳書が刊行され、『短編コレクションⅠ(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅲ‐05)』('10年/河出書房新社)にも収められていますが、池澤夏樹氏は、「『色、戒』はぼくには圧縮された長編小説と読める」としています。
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

ラスト、コーション 0.jpg 原作は女性工作員・王佳芝(ワン・チアチー)の数日を描いていますが(それは劇的な結末で終わる)、映画も、その形をきっちり踏襲した上で、回想の部分に肉付けして2時間38分の作品にしています。そして、その肉付けの仕方が、ぎゅっと詰まった高密度の原作を分かりやすく展開して"長編小説"に戻したような形になっています。ジェーン・オースティン原作の「いつか晴れた日に」('95年/米・英)のように英国小説が原作の映画を撮れば英国の監督が撮ったように撮り、「ブロークバック・マウンテン」のように米国小説が原作の映画を撮れば米国の監督が撮ったように撮るアン・リー監督ですが、やはりこの中国を舞台とした小説の映画化で一番力を発揮したように個人的には思います。

ラスト、コーション 99.jpg ヒロインの王佳芝を演じた湯唯(タン・ウェイ)は、オーディションで約1万人の中から主演に選ばれたそうですが、当時28歳ながら学生を演じれば学生らしく見え、男を誘惑する女スパイを演じればそれなりに魅力的な女性に見えました(タン・ウェイは第44回台湾金馬奨最優秀新人賞受賞)。原作とイメージが若干違うのは、原作では「ねずみ顔の中年の小男」とされている特務機関の易(イー)をトニー・レオンが演じているため、"いい男"過ぎる点でしょうか(笑)(トニー・レオンはアジア・フィルム・アワード主演男優賞、台湾金馬奨最優秀主演男優賞受賞)。

鄭蘋茹(Zheng Pingru)/丁黙邨(てい もくそん)
Zheng_Pingru_02.jpg丁黙邨.jpg 因みに、「色、戒」の王佳芝のモデルは、父親が中国人、母親が日本人の女スパイ・鄭蘋茹(テン・ピンルー、1918 -1940/享年22)で、易のモデルは、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者・丁黙邨(ていもくそん、1903-1947)です。鄭は丁に近づき、1939年12月、丁の暗殺計画を実行するも失敗、特工総部に出頭して捕らえられ、1940年2月に銃殺されますが、後に中華民国より殉職烈士に認定されています。一方の丁は、戦後も蒋介石の国民政府に再任用されるなどしましたが、結局は漢奸として逮捕され、1947年に死刑判決を受け、南京で処刑されています(享年45)。

ラストコーション8735_l.jpg この映画は所謂「漢奸問題」を引き起こしました。佳芝を演じたタン・ウェイは、トニー・レオンが演じる戦時中日本の協力者と見なされた漢奸を愛するようになる役柄であることから、漢奸を美化し「愛国烈士」を侮辱する象徴として中国国内のネット上では批判された時期があったようです。張愛玲の原作では愛欲描写は殆ど無いものの、佳芝が易を逃がすのは原作も同じです。原作者の張愛玲は人生半ばで渡米して今は故人、そうなるとこの作品を選んだアン・リー監督に矛先が行きそうですが、当のアン・リーは台湾出身で米国国籍も有し普段は中国にはいないので、トニー・レオンと大胆なラブシーンを演じたタン・ウェイに批判の矛先が向けられたのかもしれません(タン・ウェイは2008年に香港の市民権を得て、その後は主に香港映画に出演、ハリウッドにも進出した)。

ラスト、コーション92.jpg 原作では、佳芝が易にどのような理由で愛情を抱くようになったかは明確に描かれていません。また、佳芝が易を逃がしたことが、同時に彼女が仲間を裏切ったことになり、そのため彼女だけでなく仲間が皆捕まって処刑されたということも、原作ではさらっと触れているだけで、この佳芝の言わば"裏切り"行為は、原作よりも映画の方がより前面に押し出されていると言えます。敢えてそうした上で(つまり批判を見越した上で)、それでもヒロインとして観る者を惹きつける佳芝の描きっぷりに、アン・リー監督による"原作超え"を感じました。3年も経ってからやっと佳芝に口づけをしたかつての学友に、「3年前にしてくれていれば...」と佳芝が言う場面で、「ああ、これは"女性映画"なのだなあと」とも思いました(アン・リー監督は女性映画の名手として定評がある)。

51eLWoDzrkL._SL250_.jpgアニー・プルー.jpg この作品の2年前にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲った「ブロークバック・マウンテン」は、ワイオミング州ブロークバック・マウンテンの雄大な風景をバックに、2人のカウボーイの1963年から1983年までの20年間にわたる秘められた禁断の愛を綴った物語で、原作は『シッピング・ニュース』でピューリッツァー賞を受賞した女流作家E・アニー・プルーの同名中編で、1997年に雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、1998年の全米雑誌賞とO・ヘンリー賞を受賞した作品です(これも佳作だった。彼女は「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー作品賞にノミネートされるも受賞を逃したことで、代わりにアカデミー作品賞を受賞した「クラッシュ」を酷評した)。

"Brokeback Mountain"ペーパーバック

ブロークバック・マウンテンa5.jpg 1963年、ワイオミング。ブロークバック・マウンテンの農牧場に季節労働者として雇われ、運命の出逢いを果たした2人の青年、イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)とジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)。彼らは山でキャンプをしながら羊の放牧の管理を任される。寡黙なイニスと天衣無縫なジャック。対照的な2人は大自然の中で一緒の時間を過ごすうちに深い友情を築いていく。そしていつしか2人の感情は、彼ら自身気づかぬうちに、友情を超えたものへと変わっていくのだったが―。

 2005年のアカデミー賞で8部門にノミネートされましたが、監督賞、脚色賞、作曲賞の3部門の受賞にとどまりました(保守的な傾向があるアカデミー賞では作品賞は難しいのではないかという事前予想はあった)。ただし、ゴールデングローブ賞作品賞、英国アカデミー賞作品賞、インディペンデント・スピリット賞作品賞ほか、ニューヨーク、ロサンゼルスブロークバック・マウンテン_c1.jpgブロークバック・マウンテン_c2.jpg、ロンドンなどの各映画批評家協会賞作品賞を受賞し、ゲイ・ムービーにはスティーヴン・フリアーズ監督の「マイ・ビューティフル・ランドレット」('85年)やウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」('97年)など先行する作品が結構ありましたが、多くの賞を受賞したという点では画期的な作品でした。2000年代中盤以降LGBT映画がますますその数を増していく契機にもなり、最近では、バリー・ジェンキンス監督の「ムーンライト」('16年)がアカデミー作品賞を受賞し、ルカ・グァダニーノ監督の「君の名前で僕を呼んで」('17年)がアカデミー脚色賞を受賞するなどしています(「君の名前で僕を呼んで」の脚本は「モーリス」('87年)のジェームズ・アイヴォリー監督)。

ブロークバック・マウンテンes.jpg この映画の場合、主人公の2人の男性は共に家庭も持っていて、しかも時代設定が60年代から80年代にかけてということで、ゲイに対する偏見が今よりもずっと強かった時代の話であり、それだけ"禁断の愛"的な色合いが強く出ブロークバック・マウンテン4.jpgているように思います。一方で、その"禁断の愛"をブロークバック・マウンテンの美しい自然を背景に描いており、山の焚火%E3%80%80チラシ.jpgドロドロした印象はさほどなく、自然の美しさが浄化作用のように効いているという点で、アルプスの自然を背景に姉弟の近親相姦を描いたフレディ・M・ムーラー監督のロカルノ国際映画祭「金豹賞」受賞作「山の焚火」('85年/スイス)を想起したりしました。
     
ブロークバック・マウンテン ヒース.jpg イニスとジャックを演じた、故ヒース・レジャー(1979-2008/享年28)とジェイク・ギレンホールの演技も良かったです。この作ヒース・レジャー.jpg品のイニス役でニューヨーク映画批評家協会賞主演男優賞などを受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされたヒース・レジャーは、映画の中でイニスと結婚したアルマを演じたミシェル・ウィリアムズと実生活において婚約しましたが、両者の間に女の子が産まれたものの婚約を解消しています。

ダークナイト.jpg その後ヒース・レジャーは、クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画「ダークナイト」('08年/米・英)にバットマンの宿敵ジョーカ役で出演、バットマン役のクリスチャン・ベールを喰ってしまうほどの演技でジャック・ニコルソンのとはまた違ったジョーカー像を創造することに成功し、アカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ賞助演男優賞、英国アカデミー賞助演男優賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞助演男優賞など主要映画賞を総なめにしたものの、2008年1月に薬物摂取による急性中毒でニューヨークの自宅で亡くなっています。アカデミー助演男優賞の受賞は亡くなった後の決定であり、故人の受賞は「ネットワーク」('76年/米)のピーター・フィンチ以来32年ぶり2例目でした(因みに、共演のクリスチャン・ベールも2年後の「ザ・ファイター」('10年/米)でアカデミー助演男優賞を受賞している)。

ブロークバック・マウンテン 85.JPG 「ブロークバック・マウンテン」においてイニスがジャックの事故死を彼のジャックの妻ラリーン(アン・ハサウェイ)から聞かされた時に、リンチを受けるジャックの姿をイメージしたのは、単にイニスのトラウマからくる思い込みというより、実際にリンチ死だったということだったのでしょう。原作では、イニスは最初はジャックがリンチ死だったのか本当に事故死だったのか分からないでいますが、後になってジャックはリンチ死したと確信するようになります。

ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外))

 「ブロークバック・マウンテン」「ラスト、コーション」とも傑作映画です。原作に比較的忠実に作られている「ブロークバック・マウンテン」もいいですが、個人的には、原作からの"展開度"という点で(しかも"正しく"肉付けされている)「ラスト、コーション」の方がやや上でしょうか。

ジョアン・チェン(易夫人)/ワン・リーホン(鄺祐民(クァン・ユイミン))
ラスト、コーション ジョアン・チェン.jpgラスト、コーション ワン・リーホン.jpg「ラスト、コーション」●原題:色,戒/LUST, CAUTION●制作年:2007年●制作国:アメリカ・中国・台湾・香港●監督:アン・リー(李安)●製作:アン・リー/ビル・コン/ジェームズ・シェイマス●脚本:ワン・ホイリン/ジェームズ・シェイマス●撮影:ロドリゴ・プリエト●音楽:アレクサンドル・デスプラ●原作:張愛玲(ちょう あいれい、アイリーン・チャン)「色、戒」●時間:158分●出演:トニー・レラスト、コーション36.jpgオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯)/ジョアン・チェン(陳冲)/ワン・リーホン(王力宏)/トゥオ・ツォンファ/チュウ・チーイン/ガァオ・インシュアン/クー・ユールン/ジョンソン・イェン/チェン・ガーロウ/スー・イエン/ホー・ツァイフェイ/ファン・グワンヤオ/アヌパム・カー●日本公開:2008/02●配給:ワイズポリシー)(評価:★★★★☆)

トニー・レオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯)/アン・リー(李安)監督/ワン・リーホン(王力宏)/ジョアン・チェン(陳冲)〔2007年・第64回ヴェネツィア国際映画祭〕

アン・ハサウェイ(ジャックの妻ラリーン)/ミシェル・ウィリアムズ(イニスの妻アルマ)
ブロークバック・マウンテン アン・ハサウェイ.jpgブロークバック・マウンテン ミシェル・ウィリアムズ.jpg「ブロークバック・マウンテン」●原題:BROKEBACK MOUNTAIN●制作年:2005年●制作国:アメリカ●監督:アン・リー(李安)●製作:ブロークバック・マウンテンe2.jpgダイアナ・オサナ/ジェームズ・シェイマス●脚本:ワダイアナ・オサナ/ジェームズ・シェイマス●撮影:ロドリゴ・プリエト●音楽:グスターボ・サンタオラヤ●原作:E・アニー・プルー「ブロークバック・マウンテン」●時間:134分●出演:ヒース・レジャー/ジェイク・ギレンホール/アン・ハサウェイミシェル・ウィリアムズ/ランディ・クエイド/リンダ・カーデリーニ/アンナ・ファリス/ケイト・マーラ●日本公開:2006/03●配給:ワイズポリシー(評価:★★★★)

ダークナイト dvd.jpgダークナイト2.jpg「ダークナイト」●原題:THE DARK KNIGHT●制作年:2008年●制作国:アメリカ・イギリス●監督:クリストファー・ノーラン●製作:クリストファー・ノーラン/チャールズ・ローヴェン/エマ・トーマス●脚本:クリストファー・ノーラン/ジダークナイト ヒースレジャー.jpgョナサン・ノーラン●撮影:ウォーリー・フィスター●音楽:ハンス・ジマー/ジェームズ・ニュートン・ハワード●原作:ボブ・ケイン/ビル・フィンガー「バットマン」●時間:152分●出演:クリスチャン・ベールヒース・レジャー/アーロン・エッカート/マギー・ジレンホール/マイケル・ケイン/ゲイリー・オールドマン/モーガン・フリーマン/メリンダ・マックグロウ/ネイサン・ギャンブル/ネスター・カーボネル●日本公開:2008/08●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★☆)

モーガン・フリーマン(バットマンのテクノロジーをサポートするルーシャス・フォックス)/マイケル・ケイン(ウェイン家の執事・アルフレッド・ペニーワース)
the dark knight 2008 morgan freeman michael caine.jpg

「ラスト、コーション」...【2007年文庫化[集英社文庫(『ラスト、コーション 色・戒』)]】
「ブロークバック・マウンテン」...【2006年文庫化[集英社文庫(『ブロークバック・マウンテン』)]】

「●あ行外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒ 【2067】 ジョン・アヴィルドセン「ロッキー
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●い カズオ・イシグロ」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ ○ノーベル文学賞受賞者(カズオ・イシグロ)

日の名残り 文庫.jpg映画は叶わなかった恋の物語。小説は映画とは「異なる芸術作品」。

日の名残り.jpg 日の名残り (映画) .jpg 日の名残り (中公文庫) _.jpg
日の名残り [DVD]」アンソニー・ホプキンス/エマ・トンプソン 『日の名残り (中公文庫)』『日の名残り (ハヤカワepi文庫)
日の名残り  tile.jpg 1958年。オックスフォードのダーリントン・ホールは、前の持ち主のダーリントン卿(ジェームズ・フォックス)が亡くなり、アメリカ人の富豪ルイス(クリストファー・リーヴ)の手に渡っていた。かつては政府要人や外交使節で賑わった屋敷は使用人も殆ど去り、老執事スティーヴンス(アンソニー・ホプキンス)の手に余った。そんな折、以前屋敷で働いていたベン夫人(エマ・トンプソン)から手紙をもらったスティーヴンスは彼女の元を訪ねることにする。離婚日の名残り 01.jpgをほのめかす手紙に、有能なスタッフを迎えることができるかもと期待し、それ以上にある思いを募らせる彼は、過去を回想する。1920年代、スティーヴンスは勝気なミス・ケントン(後のベン夫人)をホールの女中頭として、彼の父親でベテランのウィリ日の名残り 父.jpgアム(ピーター・ヴォーン)を執事として雇う。スティーヴンスは彼女に父には学ぶべき点が多いと言うが、老齢のウィリアムはミスを重ねる。ダーリントン卿は、第二次大戦後日の名残り tairitu .jpgのドイツ復興の援助に注力し、非公式の国際会議をホールで行う準備をする。会議で卿がドイツ支持のスピーチを続けている中、病に倒れたウィリアムは死ぬ。'36年、卿は反ユダヤ主義に傾き、ユダヤ人の女中2名を解雇する。当惑しながらも主人への忠誠心から従うスティーヴンスに対し、ケントンは卿に激しく抗議した。2年後、ユダヤ人を解雇したことを後悔した卿は、彼女たちを捜すようスティーヴンスに頼み、彼は喜び勇んでこのことをケントンに告げる。彼女は彼が心を傷めていたことを初めて日の名残り es.jpg知り、彼に親しみを感じる。ケントンはスティーヴンスへの思いを密かに募らせるが、彼は気づく素振りさえ見せず、あくまで執事として接していた。そんな折、屋敷で働くベン(ティム・ピゴット・スミス)からプロポーズされた彼女は心を乱す。最後の期待をかけ、スティーヴンスに結婚を決めたことを明かすが、彼は儀礼的に祝福を述べるだけだった。それから20年ぶりに再会した2人。孫が生まれるため仕事は手伝えないと言うベン夫人の手を固く握りしめたスティーヴンスは、彼女を見送ると、再びホールへ戻る―。

日の名残り 10.jpg 「眺めのいい部屋」('86年/英)、「モーリス」('87年/米)、「ハワーズ・エンド」('92年/英・日)のジェームズ・アイヴォリー監督による1993年のイギリス映画で、原作は1989年に刊行されブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの同名の小説『日の名残り(The Remains of the Day)』ですが、'91年に「羊たちの沈黙」('91年/米)でアカデミー賞 主演男優賞を受賞したアンソニー・ホプキンスと、'92年に「ハワーズ・エンド」でアカデミー賞主演女優賞を受賞したエマ・トンプソン(アン・リー監督の「いつか晴れた日に」('95年/米・英)での演技も良かった)という当時"旬な"俳優の組み合わせで、カズオ・イシグロの小説世界を映像化することで世に知らしめ、2017年の彼のノーベル文学賞受賞にも寄与したのではないかと思います(アカデミー賞では、主演男優賞、主演女優賞、美術賞、衣装デザイン賞、監督賞、作曲賞、作品賞、脚本賞の8部門にノミネートされた。アンソニー・ホプキンスは1993年・ロサンゼルス映画批評家協会賞主演男優賞受賞)。
ジェームズ・フォックス(ダーリントン卿)
日の名残り kaigi.jpgストーリー的にはほぼ原作通りに作られていますが(脚本には、ノンクレジットだが、2005年にノーベル文学賞を受賞した劇作家ハロルド・ピンター(「フランス軍中尉の女」('81年/英)など)が噛んでいる)、ダーリントンホールで秘密の国際会合が開かれたのが、原作の1923年ではなく1935年になっていて、第一次大戦後のドイツの経済的混乱を解決するのがダーリントン卿の狙いでしたが、1935年といえばもうドイツはナチス政権になっていて、この時点でも対独宥和論を唱えるジェームズ・フォックス演じるダーリントン卿にはやや違和感を覚えます(その結果としてか、1958年の"今"スティーヴンス日の名残り リーブ.jpgが旅する中で、旅先の田舎の人でもダーリントン卿=ナチのシンパという印象を抱いていたりする描き方になっているが、原作ではスティーヴンスの予想に反してダーリントン卿の名は田舎では殆ど知られてはいなかったということになっている)。そして、この会議で宥和論に傾く会議の流れに一人異議を唱える内容のスピーチをするアメリカの下院議員スミス氏(原作ではルイース氏)が、映画ではクリストファー・リーヴ(1952-2004)演じる、現在のダーリントン・ホールの所有者、つまりスティーヴンスの今の主人と同一人物あるということになっています(原作ではファラディ氏という、同じアメリカ人ではあるがルイース氏とは別人物)。

日の名残り 05.jpg 小説が全編、主人公の執事スティーヴンスの語り(旅行中の回想日記)で展開していくのに対し、映画では彼の内面の声はなく、アンソニー・ホプキンスがすべてそれを演技で表しています。そのためか、エマ・トンプソン演じるミス・ケントンと視線が絡み合ったりする場面が多く、スティーヴンスが延々と「品格」とは何かを語っている原作に比べると、映画は、二人の間での感情のぶつかり合いがより前面に出たものになっています。

日の名残り 09.jpg そして終盤、今はベン夫人となっているミス・ケントンが、(当初はその気があったかもしれないが)事情が変わって再びダーリントン・ホールに戻ってスティーヴンスと仕事をすることはできないとなったとき、スティーヴンスは呆然とし、彼女と共に新たな人生の夕暮れを迎えるという望みが絶たれたことによって、取り返しのつかない、過ぎ去りし人生の悔いを実感します。原作では、肝心のミス・ケントンと再会した日(旅行5日目)の日記は無く(ショックで日記が書けなかった?)、6日目、スティーヴンスは帰路ウェイマス(Weymouth)に寄り道して、波止場で出会った見知らぬ老人から「夕日が一日で一番いい時間だ」と聞かされ、スティーヴンスは涙日の名残りGoogle The Remains of the Day - Stevens' Journey.gifを流しますが、映画ではミス・ケントンがリトル・コンプトン(Little Compton)のバス停でスティーヴンスにこの言葉を言って、人々が夕方を楽しみに待つとして、あなたは何を楽しみに待つのかと聞き、スティーヴンスは「お屋敷に戻り、人手不足の解消策を感がることかな」と答えます。ラストで屋敷の中に迷い込んだ鳥をスティーヴンスが追い立て、鳥が窓から外に逃れた時、それを屋敷の窓の内側から見上げる(屋敷から出ることのない)スティーヴンス―という対比的構図も、鳥の闖入自体が映画のオリジナルです。

小説における主人公の旅程(オックスフォード ⇔ コーンウォール(Cornwall)州リトル・コンプトン(Little Compton))

ジェフ・ベゾス 果てなき野望.jpg日の名残り dvd.jpg 原作本は、あのAmazonのCEO ジェフ・ペゾス氏が推薦しています(『ジェフ・ベゾス 果てなき野望―アマゾンを創った無敵の奇才経営者(The Everything Store: Jeff Bezos and the Age of Amazon)』の付録にあるベゾス氏の12冊の愛読書の中の唯一の小説が本書)。ジェフ・ペゾス氏は、この本から「人生を後悔しないことを意識して毎日を生きていこう」ということを学んだようです。実業家らしい読み方だと思いますが、個人的には、それは本よりも映画を観た感想ではないかなという気もします。

日の名残り 文庫s.jpgカズオ・イシグロs.jpg 自分自身も、非常に抑えたトーンの(それだけに切なさが増す)叶わなかった恋の物語であると感じられたのと同時に、「時間は巻き戻せない」「後悔先に立たず」といった箴言を想起させられましたが、原作者のカズオ・イシグロ氏は、この映画を結構気に入っているとしながらも、原作と映画は「異なる芸術作品」だとしています。

 原作では、帰路ウェイマスに寄って桟橋で一時の感傷に浸ったスティーヴンスでしたが、最後は、むやみに冗談を言うことが好きなアメリカ人の雇い主ファラディ氏のために、冗談の練習をして「立派なジョークでびっくりさせて差し上げる」ことを思い立つところで終わっています。つまり、スティーヴンスは引き続き"執事道"を突き進むわけで、彼にはそれしか生きる道は無く、また彼自身はそれで満足しているわけです。イシグロ氏日の名残り (ハヤカワepi文庫).jpgの作品に特徴的な「信頼できない語り手(unreliable narrator)」の典型である主人公スティーヴンスは(もちろん本人は確信を持って古風な"執事道"を述べ尽くしている)、最後までその姿勢を崩さなかったとも言えます。そして、イシグロ氏に言わせれば、原作のテーマは「人は皆、執事のようなものである」ということのようであり、ある意味、これはすごく恐ろしい教唆でもあるように思います。論者の中にはこれを、16世紀のフランスの裁判官、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエシの「自発的隷従論」(『自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)』)に絡めて読み解く人もいるようです。

 この発想が出てくるのは、ラスト近くで主人公が窓から外に逃れた鳥を感傷的に見遣る映画の方ではなく、アメリカ人のご主人を喜ばすため立派なジョークが喋れるよう練習に励もうと決意して終わる原作の方でしょう。映画と原作と比べてみるのも面白いのではないかと思います。


日の名残りs.jpgTHE REMAINS OF THE DAY.jpg「日の名残り」●原題:THE REMAINS OF THE DAY●制作年:1993年●制作国:イギリス●監督:ジェームズ・アイヴォリー●製作:リンゼイ・ドーラン●脚本:ルース・プラワー・ジャブバーラ/ハロルド・ピンター(ノンクレジット)●撮影:トニー・ピアース=ロバーツ●音楽:リチャード・ロビンスカズオ・イシグロ『日の名残り』.jpg●原作:カズオ・イシグロ●時間:134分●出演:アンソニー・ホプキンス/エマ・トンプソン/ジェームズ・フォックス/クリストファー・リーヴ/ピーター・ヴォーン/ヒュー・グラント/パトリック・ゴッドフリー/マイケル・ロンズデール●日本公開:1994/03●配給:コロンビア・ピクチャーズ(評価:★★★★)

【1994年文庫化[中公文庫]/2001年再文庫化[ハヤカワepi文庫]】  ハヤカワepi文庫
 
   
   

「●い カズオ・イシグロ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2648】 カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで
○ノーベル文学賞受賞者(カズオ・イシグロ)「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

カズオ・イシグロの「探偵小説」風「母子もの」とでも言えるか。ラストは切ない。

わたしたちが孤児だったころm.jpg わたしたちが孤児だったころim.jpg
わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワ・ノヴェルズ)』『わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)
"When We Were Orphans"
When We Were Orphansド.jpgわたしたちが孤児だったころges.jpg 1923年夏、大学を卒業したクリストファー・バンクス(わたし)は、探偵になるという子供の頃からの夢を胸にロンドンに住んでいた。あるパーティで魅力的な女性サラ・ヘミングスに出逢うが、彼女は有名な男を追いかける性癖があり、探偵として売り出し中の彼に彼女の方から接近してくる。ある日彼女は大きな晩餐会に出入りできるよう彼を利用しようとするが、彼が拒否したため強引に中に入り、将来の夫となるサー・セシルに取り入ることに成功する。彼女は、つまらない男と添って人生を無駄にしたくないと言う。そして自分は孤児であると。クリストファーも子供の頃過ごした上海で両親が行方不明になった孤児だった。上海時代の親友はアキラという日本人の少年で、彼と毎日のように遊んだ。クリストファーの母は美しく、高い理想の持ち主で、夫の勤める会社がアヘンを輸入していることに心を痛め、反対運動に尽力し、父は母の期待に応えられないことに苦悩していた。反対派の一人フィリップおじさんはよく家に来てクリストファーと遊んでくれ、クリストファーも彼が好きだった。ある日突然その父が失踪する。後に、ある事件の調査中、クリストファーは軍閥の重要人物ワン・クーの写真を手に入れるが、それは父の失踪後まもなく家に来て母に罵られた男だった。この出来事の後、クリストファーがフィリップおじさんに連れられ買物に出ている間に、母までもが失踪したのだ。彼は英国の叔母の元に預けられ、以来アキラとは会っていない。後にクリストファーは両親を亡くした気丈な少女ジェニファーを養女にする。1937年、世界は戦争に向けて転がりだし、彼はそんな世界を自分が救わなくてはと感じ、上海で自らの使命が解決されると信じる。同じ頃、セシルと妻のサラも上海へと移る。クリストファーは、両親はアヘン事件に関わって誘拐され、いまだに拘束されていると信じ、助け出せば世界も救えると思っている。ジェニファーは彼の妄想を見抜いていた。上海でイエロースネークと呼ばれる情報提供者に会えるよう打診するが、役人からは色よい返事はない。日本軍の砲撃は既に始まっていた。セシルは影響力を失って賭けごとに溺れ、クリストファーはかつて両親の失踪事件を担当していたクン警部を探し出す。警部はひどく落ちぶれていたが、手掛かりを思い出したら連絡すると約束してくれた。そんな折、サラからセシルと別れるから一緒に駆け落ちしてほしいと頼まれ、彼は同意する。その直後にクン警部から両親が幽閉されているであろう場所について連絡が入り、彼はサラを残してその場所に向かう。そこは日本軍との戦闘地帯になっていて、中国軍将校の助けを得て瓦礫の街を進むが、将校は途中で帰り、彼は一人戦場を彷徨う。迷路のような地形の中、重傷を負って倒れている日本兵を見つけ、きっとあれはアキラだ、一緒に両親を助け出すために来てくれたのだと思う。アキラに似た男の道案内で目的の建物に辿り着くが、そこは半ば破壊され、二人は日本軍に捕まり、アキラらしい男は情報を流した罪で逮捕され、クリストファーは領事館に送り返される。ここで彼はフィリップおじさんと再会し、おじさんから、両親失踪事件の真相を知らされる―。
"When We Were Orphans"
When We Were Orphans.jpgわたしたちが孤児だったころ』.jpg 2017年のノーベル文学賞受賞者となったカズオ・イシグロの2000年に刊行された作品で(原題:When We Were Orphans)、長編第5作にあたり、作者は発表時45歳です(作者はその後、63歳でのノーベル賞受賞までに、長編は『わたしを離さないで(Never Let Me Go)』と『忘れられた巨人(The Buried Giant)』の2作しか発表していない)。本作は出版と同時にベストセラーとなったほか、英米で評論家などからも高く評価され、ブッカー賞とウィットブレッド賞にノミネートされています。但し、作者のこれまでの作品『日の名残り(The Remains of the Day)』や『わたしを離さないで(Never Let Me Go)』のように映画化される予定は今のところないようなので、ややストーリーを詳しく書きました(「上海の伯爵夫人(The White Countess)」('05年/米)という作者のオリジナル脚本を映画化した作品があり、1930年代の上海が舞台で、しかも日中戦争前後を描いているが、本作とは全く別の話である)。

 面白く読め、こんなに面白くていいのかなという印象も(ラストは重けれども)。体裁はあたかも、子どもから大人へと成長した主人公が過去の両親失踪事件の謎を解決する「探偵小説」のようにも見えますが、作者は「週刊文春」2001年11月8日号の対談「阿川佐和子のこの人に会いたい」で、「最初はアガサ・クリスティ的な英国の典型的な探偵ものを書こうと目論んでいたのがなかなかその通りにいかなくて(中略)探偵ものにこだわるのはやめた」と述べており、終盤にフィリップおじさんによる「謎解き」のようなものはあるものの、物語を構成する上で「探偵小説の形を借りた」と言った方が適切かと思われます。探偵小説として読んでしまうと、メインストーリーはともかく、「わたしたちが孤児だったころ」の「たち」という言い方の元になっている、主人公と同じ孤児であるサラやジェニファーについての記述は謎解きの伏線になってはおらず、結局サラの行く末は事後譚で語られ、ジェニファーもこの先どうなるのかよく分からないままで終わっています。

 更に、終盤の主人公が上海の日本軍との戦闘地帯を彷徨う様は夢現(ゆめうつつ)状態のような感じで、両親がその近くに拘束されているという主人公の確信も、両親の失踪が10数年前だったことからすれば全く根拠はなく、また、主人公は日本兵を見つけ、それをアキラだと思い込むなど、表現上は殆ど幻想文学の世界に入っている感じがしました。(因みに、作者の『充たされざる者(The Unconsoled)』は全編、カフカ的な幻想小説と言えるのではないか)。

 それでいてやはり「探偵小説の形を借りて」いるわけであって、探偵である主人公が何か自力で謎解きをしたわけではないですが、ラストでフィリップおじさんから、ちょうど「探偵小説」のラストのように、衝撃の事実が明かされます。その事実は切なかったです。そして、ラストの再会―こうした場面は、個人的にはどこか既視感がありました。これ、カズオ・イシグロの母子ものと言うか、そう言えば、谷崎潤一郎にも「母を恋うる記」というのがあり、山口瞳が自分の母親について書いた『血族』などもそうした系譜の作品でしたが、男はみんなマザコンなのか(?)。その意味でこの作品は一部「日本的」な感じもしますが、一方で、「英国的」な探偵小説の要素を織り込むことで、ラストも切ないことは切ないですが、日本的なウェットな感じではなく、意外と乾いた読後感の作品に仕上がっているように思いました。

 『日の名残り』『わたしを離さないで』同様、語り手が自らの記憶を辿っていきながら、過去を見つめ直す話でもあります。もしかしたら、われわれは皆、過ぎ去った過去の人生において精神的に取り戻したい何かを抱えているのかもしれません。『日の名残り』も『わたしを離さないで』もそうですが、読み手の日常生活とかけ離れたシチュエーションを描きながら、読者をそうした普遍的な思いに駆りたてる作品でもあり、それがラストの切なさにつながっていると思います。

【2006年文庫化[ハヤカワepi文庫]】

《》
●カズオ・イシグロのこれまで発表した長編小説 (出版年 邦題 原題)
1982年 遠い山なみの光 A Pale View of Hills
1986年 浮世の画家 An Artist of the Floating World
1989年 日の名残り The Remains of the Day
1995年 充たされざる者 The Unconsoled
2000年 わたしたちが孤児だったころ When We Were Orphans
2005年 わたしを離さないで Never Let Me Go
2015年 忘れられた巨人 The Buried Giant

「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3284】 ピーター・チャン「ラヴソング
「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ「●レオナルド・ディカプリオ 出演作品」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 

主人公が "彼女の秘密"に気づく場面はミステリの謎が明かされるようで白眉。

愛を読むひとdvd 2008.jpg 愛を読むひと .jpg 朗読者 新潮文庫.jpg タイタニック bvd.jpg
愛を読むひと<完全無修正版> [DVD]」ケイト・ウィンスレット ベルンハルト・シュリンク『朗読者 (新潮文庫)』「タイタニック(2枚組) [AmazonDVDコレクション]
愛を読むひと 01.jpg 第二次世界大戦後のドイツ。15歳のマイケル(ダフィット・クロス)は、体調が優れず気分が悪かった自分を偶然助けてくれた21歳も年上の女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)と知り合う。猩紅熱にかかったマイケルは、回復後に毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか彼女と男女の関係になる。ハンナはマイケ愛を読むひと 03 2.jpgルが本を沢山読む子だと知り、本の朗読を頼むようになる。彼はハンナのために『オデュッセイア』や『犬を連れた奥さん』などを朗読する。ある日、ハンナは働いていた市鉄での働きぶりを評価され、事務職への昇進を言い渡されると、マイケルの前から姿を消愛を読むひと80.jpgしてしまう。理由がわからずにハンナに捨てられて8年が経ったある日、ハイデルベルク大学法学部生となったマイケルは、ロール教授(ブルーノ・ガンツ)のゼミ研究のためにナチスの戦犯を裁くアウシュビッツ裁判を傍聴し、被告席の一つにハンナの姿を見つける。彼女は第二次世界大戦中に強制収容所で看守をしていたのである。裁判はハンナに不利に進み、彼女は無期懲役の判決を受ける―。
 
Der Vorleser(ドイツ語paperback)/Bernhard Schlink
Der Vorleser.jpgベルンハルト・シュリンク.jpg 2008年のアメリカ・ドイツ合作映画で、監督は英国人のスティーブン・ダルドリー、原作は1995年に出版されたベルンハルト・シュリンク(Bernhard Schlink)の長編小説『朗読者』('00年/新潮社、原題:Der Vorleser/The Reader)です。映画は(終盤に主人公がニューヨークへ行く場面を除き)ドイツで撮影されていますが、英語による製作であるため、主人公の名前も、原作のミヒャエルからマイケルになっています。但し、少年時代のマイケルを演じたダフィット・クロスはドイツの俳優、母親を演じたズザンネ・ロータもドイツ人女優、法学部のロール教授はスイス出身のブルーノ・ガンツが演じていてます。ハンナ役のケイト・ウィンスレットは英国人女優、成人してからのマイケルを演じたレイフ・ファインズも英国人俳優、アウシュヴィッツの生存者母子ローゼ・マーターとイラーナ・マーターの二役を演じたレナ・オリンはスウェーデン出身、若き日のイラーナを演じたアレクサンドラ・マリア・ララはルーマニア人、成人したマイケルの娘を演じたハンナー・ヘルツシュプルングは、これまたドイツ人女優です(アメリカ人、いないね)。

愛を読むひとes.jpg 先に原作を読みましたが、かつて齋藤美奈子氏が「包茎小説」と呼んでいたのを思い出しました。15歳のミヒャエルと21歳年上のハンナが出会い、男女の関係を持って別れるまでを描いた第1章だけならば、確かに"筆おろし"小説と言えなくもなく、元判事で法学部教授である作者がこういうの書くのが興味深いと思いました。しかし、第2章の裁判の場面はまさにキャリアに裏打ちされたもので、作品に深みを与えることにも繋がっているように思いました。小説はこれに、裁判以降の主人公とハンナの話を描いた第3章を加えた3つの章から成ります。

レイフ・ファインズ(現在のマイケル)/ダフィット・クロス(少年時代のマイケル)
愛を読むひとralph_fiennes_in_the_reader.jpg愛を読むひと kurosu.jpg 一方の映画の方は、1995年の主人公マイケルの「現在」を軸に、1958年の15歳の時にハンナと出会った少年期、1966年のハンナの裁判を偶然傍聴することになった法学部生愛をよむ人 s.jpg時代、1976年のマイケルが本を朗読しテープに録音して、それを獄中のハンナに送ることを思いついた時期、1980年のハンナから届いた短い文章の礼状にマイケルが感動した出来事、1988年の20年の刑に減刑されたハンナが釈放されることが決まった時などとの愛を読むひと ブルーノ・ガンツ.jpg間を行き来する形をとっていますが、概ね原作に忠実であるといっていいでしょう(マイケルが離婚して娘となかなか会えないでいるといった現況は映画のオリジナル。あとは、ブルーノ・ガンツ演じる教授のウェイトが原作より大きくなって、主人公に精神的に導き支えるという点で、原作における主人公の父親である哲学教授の役割を一部代替していたりする)。

ブルーノ・ガンツ(後ろ)

愛を読む人aioyomu.jpg 原作でも言えるのは、ハンナが幾つか謎を抱えている女性であるという点であり、①なぜマイケルと交わるようになったのか?(単なる気まぐれ?)、②なぜ裁判で不利になることを承知で自らの"秘密"を明かさなかったのか?(主人公がその"秘密"に気づく場面は、ミステリの謎が明かされるようで、原作でも映画でも白眉)、③そして最後に彼女がとった行動の理由は?―等々。映画を観て、①の理由は、マイケルが彼女にとっての癒しとなる"朗読者"であり、自らを成長させるパートナーであったことが窺えましたが心と響き合う読書案内2.jpg新潮文庫 20世紀の100冊.jpg、②については、映画を観てもまだ解らない部分が残りました。小川洋子氏は、「彼女は疲れ切っていたに違いない。彼女は裁判で闘っていただけではなかった。彼女は常に闘っていたのだ。何ができるかを見せるためではなく、何ができないかを隠すために」としています(『心に響き合う読書案内』('09年/PHP新書)。この原作は、関川夏央氏の『新潮文庫20世紀の100冊』('09年/新潮新書)にも取り上げられている)。

愛を読む人 ウィンスレット.jpg こうした"秘密"を持つ女性を演じるのは難しいだろうなあと思いますが、それだけ魅力的でもあり、ケイト・ウィンスレット(1975年生まれ)はそこに上手く嵌ったように思います(ニコール・キッドマンが妊娠で降板し、当初の候補だったケイト・ウィンスレットが結局演じることになった)。ケイト・ウィンスレットは、この作品で「タイタニック」('97年)以来4度目のアカデミー賞主演女優賞ノミネート(「助演賞」ノミネートを含むと6度目)にして、初の受賞を果たしています。「タイタニック」で共演したレオナルド・ディカプリオ(1974年生まれ)も、「レヴェナント:蘇えりし者」('15年)で4度目のアカデミー賞主演男優賞ノミネート(「助演賞」ノミネートを含むと5度目)にして初受賞していますが、若い頃から演技の天才などと呼ばれたレオナルド・デカプリオよりもケイト・ウィンスレットの方が受賞は7年早かったことになります。

タイタニック vhs.jpg 「タイタニック」の興行収入は、全米で6.6億ドル、日本で262.0億円(配給収入160.0億円)、全世界で21.9億ドルに達し、「ジュラシック・パーク」('93年)を抜いて当時の世界最高興行収入を記録し、この記録は同じジェームズ・キャメロン監督作品の「アバター」('09年)に抜かれるまで保持され、日本でも「もののけ姫」('97年)を抜いて日本歴代興行収入記録を更新し、「千と千尋の神隠し」('01年)に抜かれるまで記録を保持していました。逆に、これほどヒットすると劇場に観に行かなかったりして、結局ビデオで観てしまいましたが、「アビス」('89年)の監督によるCG映画だと思って軽く見ていてのが、結構ドラマ部分もしっかりしていて、事前の予想よりも良かったです。

 ケイト・ウィンスレット演じるローズは1等客室の客、レオナルド・ディカプリオ演じるジャックは3等客室の客。「船」って階層社会の縮図だなあ。階級差を超えた恋という定番の設定ですが、意外と感情移入できたのは、振り返ってみれば二人の演技がしっかりしていたのかも。個人的には、昔、八戸と苫小牧間のフェリーで1等の個室部屋がとれなくて2等の部屋に雑魚寝部屋にいったん入ったのを思い出しました。すぐに1等のキャンセル待ちに並んで、窓ありの個室部屋に移りましたが、やはり天と地の差があったなあ(笑)。学生時代は、雑魚寝部屋で伊豆大島に行ったりしていましたが、その頃は全然抵抗なかったけれど...。

ケイト・ウィンスレット in「いつか晴れた日に」('95年)/「タイタニック」('97年)
いつか晴れた日に ケイト・ウィンスレット2.jpg 「タイタニック」デカプリオ・ウィンスレット.jpg
ブルーノ・ガンツ in「ヒトラー~最期の12日間~」('04年)
「ヒトラー」ガンツ.gif

愛を読むひig.jpg「愛を読むひと」●原題:THE READER●制作年:2008年●制作国:アメリカ・ドイツ●監督:スティーブン・ダルドリー●製作:アンソニー・ミンゲラ/シドニー・ポラック/ドナ・ジグリオッティ/レッドモンド・モリス●脚本:デヴィッド・ヘアー●撮影:クリス・メンゲス●音楽:ニコ・マーリー●原作:ベルンハルト・シュリンク「朗読者」●時間:124分●出演:ケイト・ウィンスレット/レイフ・ファインズ/ダフィット・クロス/ブルーノ・ガンツ/レナ・オリン/アレクサンドラ・マリア・ララ/ハンナー・ヘルツシュプルング/ズザンネ・ロータ●日本公開:2009/06●配給:ショウゲート●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(17-09-19)(評価★★★★)

タイタニック (1997年3.jpgタイタニック (1997年0.jpg「タイタニック」●原題:TITANIC●制作年:1997年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ジェームズ・キャメロン●製作:ジェームズ・キャメロン/ジョン・ランドー●撮影:ラッセタイタニック (1997年2.jpgル・カーペンター●音楽:ジェームズ・ホーナー(主題歌:セリーヌ・ディオン「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」●時間:194分●出演:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/ビリー・ゼイン /デビッド・ワーナー/フランシス・フィッシャー/ダニー・ヌッチ/ジェイソン・ベリー/エイミー・ガイバ/ビル・パクストン/グロリア・スチュアート/スタイタニック (1997年1.jpgージー・エイミス/ルイス・アバナシー/キャシー・ベイツ/バーナード・ヒル /ジョナサン・ハイド/ヴィクター・ガーバー/マーク・リンゼイ・チャップマン/ヨアン・グリフィズ/エドワード・フレッチャー /エリック・ブレーデン/マイケル・エンサイン/バーナード・フォックス/●日本公開:1997/12●配給:20世紀フォックス(評価★★★★)

 

「●ルイ・マル監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●エリック・ロメール監督作品」 【3298】 エリック・ロメール 「緑の光線
「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●「カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ」受賞作」の インデックッスへ(「美しき諍い女」) 「●「フランス映画批評家協会賞(ジョルジュ・メリエス賞)」受賞作」の インデックッスへ(「美しき諍い女」)「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●は オノレ・ド・バルザック」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

五月革命に翻弄される田舎のブルジョワたちの人間模様。フランスの田舎を美しく撮っている。

五月のミル dvd.jpg 五月のミル MILOU EN MAI DVD.jpg 五月のミル ピクニック.jpg  美しき諍い女 _.jpg
「五月のミル」[DVD]「五月のミル【HDニューマスター版】 [DVD]」ミシェル・ピコリ主演「美しき諍い女 無修正版 [HDリマスター版] Blu-ray
五月のミル 母の死.jpg 1968年5月のパリ五月革命の最中、南五月のミル 0.jpg仏ジェール県の当主ヴューザック家夫人(ポーレット・デュボー)が突然の発作で死ぬ。長男のミル(ミシェル・ピコリ)は彼女の死を兄弟や娘たちに伝えようとするがストで電話が繋がらない。ようやく駆け付けたミルの娘カミーユ(ミュウミュウ)と五月のミル ザリガニ.jpgフランソワーズたち3人の子、姪のクレール(ドミニク・ブラン)とそのレズビアン友達マリー=ロール(ロゼン・ル・タレク)、弟のジョルジュ(ミシェル・デュショーソワ)と彼の後妻リリー(ハリエット・ウォルター)たちの話題は革命と遺産分配のことばかり。立派な邸宅を売ったらゴルフ場にもできるというカミーユとジョルジュにミルは怒りを爆発させ、小川へザリガニ捕りに行く。カミーユと幼馴染みの公証人ダニエル(フランソワ・ベルレアン)の読みあげる夫人の遺書の中に、小間使いのアデル(マルティーヌ・ゴーティエ)が相続人に含まれていると知って一同は驚くが、気のあるミルだけは喜ぶ。パリで学生運動に参加しているジョルジュの息子ピエール五月のミル milou-en-mai.jpg=アラン(ルノー・ダネール)が共産党嫌いのグリマルディ(ブルーノ・カレット)のトラックに乗せてもらって屋敷に現われる。翌日、革命の影響で葬儀屋までがストをする。ミルたちは遺体を庭に埋めることにし、葬式を一日延期し、ピクニックに興じる。その夜、屋敷に現われた村の工場主夫妻から、ド・ゴール大統領が姿を消していて、ブルジョワは殺されると知らされた一同は、森の洞窟へと逃げる。疲労と空腹で一夜を過ごした彼らのもとにアデルがやって来て、ストが終ったことを知らせる。いつしか彼らの心の中には、屋敷を売る考えはなくなっていた。無事に葬儀は終わり、人々も帰るべき場所へと帰って行き、屋敷には再びミルだけが残される―。

田舎の日曜日 1984 dvd.jpgお葬式 映画 dvd.jpg ルイ・マル監督の1989年作品(公開は1990年)。ミルが住む美しい田舎へ娘や孫たちがやって来てまた慌ただしく去っていくという設定は、ベルトラン・タヴェルニエ監督の「田舎の日曜日」('84年/仏)を想起させますが、ストのため埋葬できない遺体を差し置いて、遺産相続の話で親族同士が揉め、更に、久しぶりに、或いは新たに出会った男女が急速に接近するなどといった色恋も交えた展開は、伊丹十三監督の「お葬式」('84年/ATG)に近いかも。

田舎の日曜日[デジタルリマスター版] [DVD]」「伊丹十三DVDコレクション お葬式

五月のミル3.jpg ブルジョワ階級出身のルイ・マル監督が五月革命に翻弄されるブルジョワを風刺と皮肉を込めて描いた作品ととれますが、アイロニカルな部分がことさらに強調されているわけではなく、その点において自然であるとともにやや中途半端か。むしろ、政治的なことは抜きにして、単純に集団劇として見た場合に結構面白いのではないでしょうか(ルイ・マルの頭にはアントン・チェーホフの『桜の園』があったという。また、ジャン・ルノワールの「ゲームの規則」的な作りをも意識しているらしい)。

五月のミル pikori.jpg ミルは母親の死に一度慟哭しますが、その後は親族たちのドタバタに振り回され、そうした中で弟の後妻リリーと急速に接近(それまでも小間使いのアデルと恋人関係にあったようだが)、娘のカミーユは幼馴染みの公証人のダニエルとの関係が再燃したようで、レズビアンだったはずのマリー=ロールはピエール=アランと親密になり、それに対抗するようにクレールもトラック運転手のグリマルディと親しくなります(何だか、親戚と他人が入り混じった乱交状態みたいになってくるね)。

五月のミル ピクニック2.jpg こうした人同士の関係の化学変化が、ミルの突然思い立ったザリガニ捕りや(これも相続争い対する嫌気から逃れたい気持ちからの行動だと思うが)、関係者総出でのピクニックを通して描かれ、美しい自然の中で人々の気持ちが解放され、行動が大胆になっていく一方、屋敷を売ってどうのこうのといった考えは消えていき、また、それは同時に、屋敷を売りたくないミルの思惑に沿ったものになっているというのは、観ていてまずますスムーズな流れです。

五月のミル rasuto.jpg しかし、ミル自身は、屋敷は売らずに済んだものの、最後は小間使い兼恋人のアデルにも婚約者がいて彼女も去っていくという目に遭います(意外としたたかな女性だった)。リリーも去ってアデルも去り、残されたミルは、もう誰もいない屋敷で亡き母の幻影とダンスを踊る―ミルの老境の孤独を感じさせるエンディングで、初黒澤明が選んだ100本の映画 (文春新書).jpg黒澤明         .jpgめ「田舎の日曜日」→中ほど「お葬式」→ラスト再び「田舎の日曜日」といった感じの作品ですが、「田舎の日曜日」同様にフランスの田舎を美しく撮っている作品でもあります。黒澤明(1910-1998)監督の娘である黒澤和子氏によれば、黒澤明が生前評価していた作品でもあるようです(黒澤和子『黒澤明が選んだ100本の映画』('14年/文春新書))。

 この作品、オリジナルタイトルは Milou en mai(「5月のミル」) だけれども、英文タイトルだと May Fools(「5月の愚か者たち」) になっているなあ。

                               ミシェル・ピコリ/エマニュエル・ベアール
美しき諍い女 poster .jpgジャック・リヴェット.jpg美しい諍い女41.jpg ミシェル・ピコリ(1925-2020/享年94)は「最後の晩餐」('73年/伊・仏)や「自由の幻想」('74年/仏)にも出ていた俳優ですが、この映画の翌年、今年['16年]1月に亡くなったジャ美しい諍い女051.jpgック・リヴェット(1928-2016/享年87)監督(この人もヌーヴェルヴァーグの中心的人物である)の「美しき諍い女(いさかいめ)」('91年)に出演しています。高名であるが世捨て人の画>家(ミシェル・ピコリ)が、もともとモデルだった妻(ジェーン・バーキン)とプロヴァンスの片田舎にある古城で静かに暮らしているところへ、一人の若い画家が恋人(エマニュエル・ベアール)を連れて彼のもとを訪れると、画家は彼女をモデルにする事で、自分が長い間打ち捨てていた作品「美しき諍い女」の制作を再開する気になるというものです。ノーカット版は3時間57分ですが、当時['93年]VHS版(1時間31分)で観てしまいました(ジャック・リヴェット監督が別撮りのフィルムでテレビ用にシー美しい諍い女03.jpgンを変更した2時間5分の別バージョン「美しき諍い女ディヴェルティメント」が1993年に劇場公開されているが、現在は約4時間のオリジナル完全版がEmmanuelle Béart Mission:Impossible (1).jpgDVD・Blu-ray化されている)。エマニュエル・ベアールは作中を通じてほとんど全裸であり、「ワイセツか芸術か」の物議をかもした問題作ですが、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞しています(エマニュエル・ベアールはブライアン・デ・パルマ監督の「ミッション:インポッシブル」('96年/米)でトム・クルーズの相手役に抜擢された)。個人的には、画家のアトリエのある古城の別荘がヨーロッパ的でいい感じでした(ウラヤマシイ)。

『知られざる傑作 他五編』.jpg知られざる傑作.JPG 原作は1831年発表のオノレ・ド・バルザック(1799-1850/51歳没)の代表的短編(バルザック自身は1932年2月と記しているがこれはおそらく誤り)とされる「知られざる傑作」であり、岩波文庫『知られざる傑作 他五編』に収められています。カバー(旧版だと帯)に結末が書いてあることからも窺えるように、あくまでも文学作品ですが、リヴェット監督は文庫で50ページ足らずのこの作品を4時間の映画にしたことになります。映画の個人的の評価は★★★★、原作の個人的評価も★★★★。岩波文庫収録の短編の中ではこれが一番よく、個人的には「抽象画の誕生」というタイトルを付けたい内容でした。
知られざる傑作―他5篇 (1948年) (岩波文庫)

知られざる傑作 他五編 (岩波文庫)
1928年11月初版
1965年1月第33刷改版
2015年4月第88刷
水野 亮:訳



ミシェル・ピコリ in「最後の晩餐」('73年/伊・仏) with マルチェロ・マストロヤンニ
「最後の晩餐」4.jpg 「最後の晩餐」2.jpg

五月のミル  .jpg五月のミル シネヴィヴァン 1990.jpgMay Fools (1990).jpg「五月のミル」●原題:MILOU EN MAI●制作年:1989年(公開年:1990年)●制作国:フランス・イタリア●監督:ルイ・マル●製作:ルイ・マル/ヴィン・セントマル●脚五月のミル 06.jpg本:ジャン=クロード・カリエール●撮影:レナート・ベルタ●音楽:ステファン・グラッペリ●時間:107分●出演:ミュウミュウ/ミシェル・ピコリ/ミシェル・デュショーソワ/ブルーノ・カレット/ポーレット・デュボー/ハリエット•ウォルター/マルティーヌ・ゴーティエ/ドミニク・ブラン/ロゼン・ル・タレク/フランソワ・ベルレアン/ルノー・ダネール●日本公開:1990/08●配給:シネセゾン●最初に観た場所:シネヴィヴァン六本木(90-10-10)●2回目:北千住・シネマブルースタジオ(15-04-18)(評価:★★★☆)
「五月のミル」テーマ(ステファン・グラッペリ)


美しき諍い女 デジタル・リマスター版(2枚組).jpgミシェル・ピコリ/ジェーン・バーキン  「美しき諍い女(いさかいめ)」●原美しき諍い女  ジェーン・バーキン.jpg題:LA BELLE NOISEUSE(英:BEAUTIFUL TROUBLEMAKER)●制作年:1991年●制作国:フランス●監督:ジャック・リヴェット●製作:マルティーヌ・マリニャック●脚本:パスカル・ポニツェール/クリスティーヌ・ロラン/ジャック・リヴェット●撮影:ウィリアム・リュプチャンスキー●音楽:イゴール・ストラヴィンスキー●原作:「バルザック 知られざる傑作」●時間:91分(VHS版)・131分(2時間編集版)・237分(ノーカット版)●出演:ミシェル・ピコリ/ジェーン・バーキン/エマニュエル・ベアール/マリアンヌ・ドニクール/ダヴィッド・バースタイン/ジル・アルボナ/マリー・ベリュック/マリー=クロード・ロジェ●日本公開:1992/05●配給:コムストック(評価:★★★★) 
美しき諍い女 デジタル・リマスター版(2枚組) [DVD]」[237分]

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●ラテンアメリカ文学」 【1422】 フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●日本の絵本」 インデックッスへ 「○現代日本の児童文学・日本の絵本 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

神は自分を褒めたたえてくれる人だけを天国に集める? 最後の一文をどう訳すか。

幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫).jpg 幸福の王子 バジリコ.jpg 幸せな王子 金原1.jpg 幸福の王子 原.jpg  Oscar Wilde.jpg
幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)』(西村孝次:訳/表紙絵:南桂子)/『幸福の王子』['06年/曽野綾子:訳(建石修志:画)]/『幸せな王子』['06年/清川 あさみ(絵) (金原瑞人:訳)]/『幸福の王子』['10年/原マスミ(抄訳・絵)]/Oscar Wilde
『幸福な王子』.JPGThe Happy Princeby AnyaStone.jpg 1888年、アイルランド出身の当時33歳の詩人だったオスカー・ワイルド(1854-1900)の最初の童話集『幸福な王子ほか』は、「幸福な王子」「ナイチンゲールとばらの花」「わがままな大男」「忠実な友達」「すばらしいロケット」の5編から成り、1891年刊行の第2童話集『ざくろの家』は、「若い王」「王女尾の誕生日」「漁師とその魂」「星の子」の4編から成るもので("ざくろ"は各編の共通モチーフとして出てくる)、西村孝次訳の新潮文庫版はこれら9編を網羅して所収いるため、ワイルドの童話集といえば「定番」ということになるかと思います。
The Happy Prince by AnyaStone

 訳者は当初から童話集という言い方をしていて、新潮文庫の改版版もカバータイトルは『幸福な王子』ですが、扉をめくると括弧して「ワイルド童話全集」とあります。童話集という呼び方に異を唱えるわけではないですが、イコール児童文学というイメージが付き纏いがちで、そうなるとどうかなあと。作者のワイルド自身、幅広い年齢層に向けて書いたものであることを後に公言しており、一篇一篇に込められた寓意からみても、「大人の童話」という色合いが濃いように思います。

 読み手によってそれぞれ好みの違いはあるかと思われ、「ナイチンゲールとばらの花」なども知られている方の話だと思ひますが、やはり一番有名なのは表題作の「幸福な王子」であり、その出来栄えにおいても他から抜きんでているように思います。これ読むと、ワイルドはいろいろあった人生でしたが、純粋なキリスト者であったような気がします(テクニックだけでこうした作品はそう書けないのでは。因みに、第2童話集『ざくろの家』発表年は『ドリアン・グレイの肖像』と同年)。

 この作品のラストで、神さまから「町じゅうでいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい」と言われた天使が、王子像の鉛の心臓と死んだツバメを神のもとへ届けると、「おまえの選択は正しかった」と神さまは言って、更に神の、「天国のわたしの庭で、この小鳥が永遠に歌いつづけるようにし、わたしの黄金の町で幸福な王子がわたしを賞めたたえるようにするつもりだから」(西村孝次訳)という言葉で物語は終わっていますが、「幸福な王子がわたしを賞めたたえるようにする」というのが何となく違和感がありました。しかしながら原文(下記)はそうなっている...。

 "You have rightly chosen," said God, "for in my garden of Paradise
 this little bird shall sing for evermore, and in my city of gold
 the Happy Prince shall praise me."

 これは、1993年に偕成社から刊行された、今村葦子訳、南塚直子絵の、児童向けにルビが振られている『幸せの王子』でも、「幸せの王子は、黄金の都で、我が名をたたえることになるだろう」となっています。

「幸福の王子」 曽野綾子訳 バジリコ.jpg 2006年バジリコから曽野綾子訳、建石修志挿画のものが刊行され、比較的オーソドックな訳調で、挿画についてもそれは言えるなあ(ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン 天使の詩」という映画を思い出させる)と思って読んでいたら、最後の最後で、「私の天国の庭では、このつばめは永遠に歌い続けるだろうし、私の黄金の町で『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう」となっていました。

 この部分について曽野氏はあとがきで、天国において神を賛美するということは、必ず神とともに永遠に生きることが前提となっており、「そこをはっきりさせないと、神は自分を褒めたたえてくれる人だけを天国に集めるのか、と思われてしまう。それゆえ、そこだけ本来の意味に重きをおくことにした」とのことです。

 なるほどね、童話1つにしても、いろいろな訳者のものを読んでみるものだなあと。

幸せな王子 2.jpg 因みに、同じ2006年にリトルモアより刊行された、気鋭の翻訳家の金原瑞人氏がコラージュ造形作家の清川あさみ氏と組んで作った絵本版の『幸せな王子』では、「つばめはこの天国の楽園にいてもらおう。ここで、いつまでもさえずってほしい。そして幸せな王子はこの黄金の街にいてもらおう。ここで、いつまでもわたしをたたえてほしい」となっており、曽野氏ほど"意訳"の領域には踏み込んでいないものの、「幸せな王子はこの黄金の街にいて」という部分で王子が神と共にいることを補足しており、しかも翻訳に原文と同じリズム感があって、この辺りはさすが金原氏という感じです(因みに、曽野綾子訳は2006年12月刊行で、金原瑞人訳はその少し前の2006年3月刊行)。

原マスミ.png幸福の王子 原1.jpg また、絵本化された抄訳版では、イラストレーターでミュージシャンでもある原マスミ氏が絵を描き自身で抄訳もしている2010年刊行の『幸福の王子』(ブロンズ新社)があります。原氏としては絵本も抄訳も初挑戦だったとのことですが、王子が泣き落としでツバメにいろいろお願いし、ツバメが"べらんめえ口調"それに返答幸福の王子 絵本 原.jpgするなど、親しみやすいものとなっています(原氏はそれまでの学級委員長的な王子像からの脱却を図った?)。また、原作では神様の命により天使(の一人)がそのもとに届けたのは炉に入れても溶けなかった王子の鉛の心臓であるのに対し、こちらは、バラバラになった王子の体全体を天使(たち)が神様のもとへ届け、神様は王子とツバメに新たな命を授け、「この永遠の楽園で、いつまでも、なかよくくらすがよい」と言ったとするなど、若干改変されています(但し、原作の趣旨を損なわない範囲内でのオリジナリティの発露―といったところか)。

「●さ アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●し ウィリアム・シェイクスピア」【657】 ウィリアム・シェイクスピア 『ヴェニスの商人
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

本当の英雄というのは、自分が英雄であることに気づいない。

『夜間飛行』0.JPG
夜間飛行 文庫 旧.jpg 1931年 夜間飛行 サン=テグジュペリ.jpg サン=テグジュペリ1.png couv15318698.jpg
夜間飛行 (新潮文庫)』新カバー版イラスト:宮崎駿/旧カバー版/企画タイアップカバー Antoine de Saint-Exupéry,1900-1944 FOLIO版(2007)

Saint-Exupéry Vol de nuit 1963.jpgVol de nuit Saint-Exupéry 3.jpgSaint-Exupéry Vol de nuit.jpgSaint-Exupéry Vol de nuit 2.jpg 表題作「夜間飛行」(Vol de nuit)は、郵便輸送のためのパイロットとして欧州南米間の飛行航路開拓などにも携わったアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900-1944)が、「南方郵便機」(1929)でデビューした2年後の1931年に発表したものです(因みに本名はアントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ)。

Livre de Poche(1963・1966)/FOLIO(1971)/FOLIO(1931・1990)/FUTUROPOLIS(2012)

Livre de Poche(1952).jpg アルゼンチンで郵便の速配のために夜間に飛行機を飛ばす人たちの物語であり、そのため、勇敢で孤独な飛行パイロットが主人公の作品だと思われているフシもありますが、天候の悪化によって生じた緊迫した各路線機の危機的状況を巡る群像劇的な構成となっています。そうした中、最強の暴風雨に遭遇するパタゴニア機の勇敢なパイロット、ファビアンも重要な位置を占めますが、圧倒的に物語の中心的な位置を占めているのは、パイロットではなく地上における支配人リヴィエールです。ファビアンも含め配下の操縦士や整備士、現場の管理者に指示を出す彼は、明らかにこの作品の主人公です。
Livre de Poche(1952).

 リヴィエールは部下に厳格で、情状を挟んだ判断はしません。整備不良のかどでロブレという老整備工を解雇する際も、解雇通知を破り捨ててしまえばロブレはどんなに喜ぶだろうかということを思いつつ、荷役係への配置転換を拒否した彼を毅然とした態度で解雇します。リヴィエールは、自らは何も行動せず、部下に自らの能力を最大限に発揮することを求めますが、これぞまさに「管理職の極致」と言えるのでは。悪天候の中で飛行機の運航を確保しようとする、一見すると資本主義、経営合理主義の急先鋒たる非情な管理職のように見えますが、実はそれ以前に、それ以上に、部下とその家族を深く愛していることが、「部下の者を愛したまえ、ただ彼らにそれと知らさずに愛したまえ」という配下の管理者に向けた言葉などからも窺えます。

 リヴィエールは、大事な部下、しかも、その中で最も勇敢で優秀なパイロットを失った状況においても、これを「どちらかといえば、最も勝利に近い敗北」と捉え、危険な路線を廃止することなどは全く考えません。実際に、郵便飛行業の草創期には勇敢なパイロットと併せて、彼らから勇気を引き出すこうした人物がいて、事業の死活を賭けて奮闘していたのでしょう。しかし、作者のリヴィエールの描き方は、事業の成功に全力を傾けた人という面もありますが、むしろ神に導かれるかのようにより高次のものを目指す偉大な超越者のように描かれている印象を受けます。この物語の結語は「勝利者リヴィエール。」となっています。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ 1.jpg リヴィエールは、危険な飛行に赴く部下の恐怖心の取り除く術を熟知していますが、ファビアンはそうした魔法を駆使する必要のない勇敢なパイロットであり、遭難したと思われるこのファビアンについても、「神に導かれるかのようにより高次のものを目指す偉大な超越者」というのは当て嵌るかと思います。本当の英雄というのは、自分が英雄であることに気づいておらず、そして、気づかないままに「英雄的な死」を遂げるのでしょうか。パイロットに適した年齢を過ぎてもパイロットであり続けたことにより、結果的に、撃墜死を遂げた作者は、ファビアンのような死にある種の憧憬を抱いていたのかもしれません(2008年にサン=テグジュペリ機を撃墜したいう旧ドイツ軍パイロットの証言が明らかになったが、彼もサン=テグジュペリの愛読者だった。勿論その時は、サン=テグジュペリが操縦しているとは知らなかった) 。

 「夜間飛行」は作者の「星の王子さま」(1943)と並んで有名な作品であり、この新潮文庫版は不思議とどこの本屋でも見かけるし、文庫で約100ページと併録の「南方郵便機」より更に短いこともあって、ただ有名というだけでなく今日でも実際よく読まれているのではないでしょうか(中高生の場合は『星の王子さま』から『夜間飛行』へという流れか)。中学生の読書感想文の対象になりそうな作品ですが、大人目線で見て意外と奥が深いかもしれません。リヴィエールにとって大事なものは手紙を届けることであり、さらに大事なものは部下であるパイロットであり、そのパイロットより大事なことは、彼らが「実現すべき人間」であるということである―つまり、勇気や責任感や自己犠牲といった美質の体現者たることの方が(時には命よりも)大事であるというのは、かなりスゴイことかと。ドラッカーは、「上司は部下のキャリアに対して責任を持つ」と言いましたが、これを、リヴィエール(またはサン=テグジュペリ)風に言うと、「上司は部下の人間としての価値に対して責任を持つ」ということになりそうな...。

夜間飛行 (サン=テグジュペリ・コレクション).jpg 「南方郵便機」は、フランスからアフリカに郵便機で飛ぶパイロット、ベルニスの話ですが、主人公の過去の恋愛が追憶で語られるという、ロマン主義的なトーNight Flight 1933.jpgンの作品で、堀口大學は「夜間飛行」と同じくらいこの作品を評価しています。「夜間飛行」にも格調高く詩的な側面がありますが、「南方郵便機」と比べると、映画化されそうなくらいずっと冒険サスペンス風であるとも言えます(実際、1933年にクラレンス・ブラウン監督によりアメリカで映画化されている)。文庫解説の山崎庸一郎氏が、「夜間飛行」と「星の王子さま」は作者の二面性をそれぞれ象徴する作品であるとし、「星の王子さま」は「南方郵便機」を継承しているとしているのには納得させられました。

夜間飛行 (サン=テグジュペリ・コレクション)』山崎 庸一郎:訳

人間の土地 (新潮文庫) 0_.jpg宮崎駿.jpg 新潮文庫版『夜間飛行』は1993年の新装カバーから宮崎駿監督によるカバ夜間飛行 昭和9.jpgーイラストとなっています(同じく『人間の土地』は1998年の新装カバーから宮崎駿監督によるカバーイラストになっているほか、解説も同監督によるものとなっている)。

【1956年文庫化・1993年改版〔新潮文庫(堀口大學:訳)〕/2010年再文庫化[光文社古典新訳文庫(二木麻里:訳)]】

『夜間飛行』 サン・テグジュペリ 堀口大學:訳 第一書房 1934(昭和9)年 (装丁:亀倉雄策)

サン=テグジュペリ3.pngアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1900-1944) (カナダ・モントリオールにて[1942年5月])

《読書MEMO》
・「夜間飛行」(1931)...★★★★☆
・「南方郵便機」(1929)...★★★★


 
「サンテクジュペリ機を撃墜」元独軍パイロットが証言(2008年3月16日1時30分配信 読売新聞)
【パリ=林路郎】仏誌フィガロ(週刊)などは15日、第2次大戦中、連合軍の偵察任務でP38戦闘機を操縦中に消息を絶った童話「星の王子さま」の著者アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(1900年~44年)について、同機を「撃墜した」とする元ドイツ軍戦闘機パイロットの証言を伝えた。
 元パイロットは、ホルスト・リッペルトさん(88)。44年7月31日、メッサーシュミット機で南仏ミルを飛び立ち、トゥーロン上空でマルセイユ方向へ向かって飛んでいる敵軍機を約3キロ下方に発見。「敵機が立ち去らないなら撃つしかない」と攻撃を決意。「弾は命中し、傷ついた敵機は海へ真っ逆さまに落ちていった。操縦士は見えなかった」と回想している。
 敵機の操縦士がサンテグジュペリだったとはその時はわからず、数日後に知った。リッペルトさんは、「あの操縦士が彼でなかったらとずっと願い続けてきた。彼の作品は小さいころ誰もが読んで、みんな大好きだった」と語っている。
 サンテグジュペリの操縦機は2000年に残骸がマルセイユ沖で見つかったが、消息を絶ったときの状況は不明だった。仏紙プロバンスによると、その後テレビのジャーナリストとして活動したリッペルトさんは友人に、「もう彼のことは探さなくてもいい。撃ったのは私だ」と告白したという。

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1018】ツィプキン『バーデン・バーデンの夏
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●スタンリー・キューブリック監督作品」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(旧・有楽坐)

「ロボット」という言葉を生み出しただけでなく、SFの一定のモチーフを確立させた作品。

カレル・チャペック 『ロボット』岩波.jpgカレル・チャペック 『ロボット』2.jpg チャペック戯曲全集.jpg カレル・チャペック戯曲集.jpg 2001年宇宙の旅 特別版.jpg
ロボット (岩波文庫)』['89年('03年版)]/『R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))』['92年](表紙絵:ヨゼフ・チャペック)/『チャペック戯曲全集』['06年]/『カル・チャペック戯曲集〈1〉ロボット/虫の生活より』['12年](装丁・挿絵:和田誠) 「2001年宇宙の旅 特別版【ワイド版】 [DVD]

『ロボット (R.U.R.)』.JPGカレル・チャペック 『ロボット』 2.jpg 舞台はヨーロッパ旧世界を遠く離れた海の孤島、そこに建てられたロボット=人造人間の製造・販売会社、R.U.R.(エル・ウー・エル=ロッスムのユニバーサル(万能)ロボット)社。ここで作られるロボットは、生殖能力はなく、寿命は最長で約20年で、不良品や寿命を迎えた物は粉砕装置で処分される。そのロボット製造会社R.U.R.のオフィスで執務するドミン社長を、「人権連盟」の代表で、R.U.R.社会長の娘ヘレナが訪問する。ロボット製造の起源、ロボットの性質、そしてロボットによる人類社会変革の理想を語るドミンと、おのおのの担当部門の観点からそれを説明・擁護する役員達を相手に、ヘレナは労働者として酷使されているロボット達が人道的扱いを受けられるよう申し入れるが―。

1920年版表紙
rur 1920.jpgカレル・チャペック 『ロボット』 原著.jpg 『山椒魚戦争』(1936)などでも知られているカレル・チャペック(1890-1938)は、大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった作家で、1920年刊行の戯曲『ロボット (R.U.R.)』は「ロボット」という言葉を生んだことでも知られています(本邦初訳は1923年『人造人間』(宇賀伊津緒:訳))。作者によれば、「ロボット」という言葉そのものは、カレル・チャペックの兄で画家・漫画家のヨゼフ・チャペックの発案から生まれたものだそうで、チェコ語のrobota(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)に由来しているとのこと。ストーリーは労働用に作られたロボットが人間に対して反乱を起こすというものです。
  
カレル・チャペック 『ロボット』 3.jpgフランケンシュタイン dvd.jpg 人間が自ら作ったものに襲われるというのは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)以来ずっとあるモチーフと言えるでしょう(映画「フランケンシュタイン」('31年/米)では怪物の呼び名はFrankenstein 博士による"creator"(創造物)となっている)。アイザック・アシモフ(1920-1992)がいわゆる「ロボット工学3原則」を提唱したのは、短編集『ロボットの時代』(1964)で自ら語っているところによれば、『フランケンシュタイン』や『R.U.R.』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったようですが、アシモフの作品にも、創造主である人間に抵抗し滅ぼそうとするロボットが登場します。このチャペックの『ロボット』では、人間は最後アルクピストという建築士だけが生き残り、ロボット同士の結婚を認めるという(生殖機能を有している?)、ロボットにとってのハッピーエンドとなっています。
アルクピスト建築士 in 『ロボット (R.U.R.)』

人間ども集まれ!.jpg あの「鉄腕アトム」の生みの親である手塚治虫も、『人間ども集まれ!』(1967)で、奴隷や兵士として消耗されていたロボットが一斉に立ち上がって人間に抵抗する話を描いていますが、丁度その頃読んだチャペックの『山椒魚戦争』に触発されたのではなかったかと後に述懐しています。
人間ども集まれ!
 『山椒魚戦争』に出てくるサンショウウオと人間の中間みたいな奇妙な生物たちも、労働力として人間に使役されるうちに反乱を起こすわけですが、この『R.U.R.』のロボットは、脳・内臓・骨といった各器官は攪拌槽で原料を混合して造られる人工の原形質の培養で、神経や血管は紡績機で作られ、それらを部品として組み上げたもので、プログラムで動く点は機械であると言えますが、外観は人間と同じになっています。これは、本作が戯曲であることも関係しているかと思います。

『ブレードランナー』3.jpg もともと感情を持たず、20年くらいで消耗し破壊されるが、「死」を怖れるといったこともない―そうしたものだったはずのロボットが、開発者グループの博士の一人が密かに高次元のプログラムを組み入れたために自ら思考するようになり人間に近くなってしまったという設定で、こ『ブレードランナー』4.jpgれは所謂「自律型ロボット」と呼ばれるものであり、彼らの哀しみからは、個人的には、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)の映画化作品「ブレードランナー」('82/米)年の「レプリカント」を想起させられました(「レプリカント」はクローン技術の細胞複製(レプリケーション)からとった造語)。                       

 当時のチェコは労働者と富裕層との階級対立が深刻化していて、貴族階級の没落や社会主義革命への脅威といった世相がこの作品には反映されているとされていますが、政治的背景を除いて純粋にSFとしてみると、「ブレードランナー」とちょっとモチーフやテーマが重なるのではないでしょうか。「ブレードランナー」に限らず、この「人間 vs. 人間の創造物」というモチーフは様々な作品で2001年宇宙の旅1.jpg2001年宇宙の旅 haru.png青豆とうふ.jpg繰り返されているように思われ、イラストレーターで今年('14年)亡くなった安西水丸氏と同じくイラストレーターの和田誠氏のリレーエッセイ『青豆とうふ』('03年/講談社)を読んでると、和田誠氏がこの作品に触れて、「ロボット」と「コンピュータ」の区別が曖昧になっている気がするとし、拡げて解釈すれば、「ハル」と呼ばれるコンピュータが反乱を起こすスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」('68年/米)などもこの範疇、系譜に入るような捉え方をしていました(和田氏は『カル・チャペック戯曲集』の装丁・挿絵を手掛けている。安西氏はプラハでチャペックのこの小説に出てくるロボットの置物を土産に買ったとか)。

2001 space odyssey2.jpg 「2001年宇宙の旅」は、雑誌「ぴあ」の読者が選ぶ「もう一度観たい映画No.1」の座を長年に渡って占めていた作品で、最初2001年宇宙の旅 2.jpg観た時は、哲学的な示唆が感じられる内容にやや驚き、他の人は皆が解ったのかなとも思ったりしましたが、脚本を書いたキューブリックとアーサー・C・クラークは「この映画は観客がどう解釈してもよい」と言い残2001年宇宙の旅 1968年.jpg2001年宇宙の旅 1978年リバイバル.jpgしています(キューブリックとアーサー・C・クラークがアイデアを出し合い、先ずアーサー・C・クラークが小説としてアイデアを纏め、その後キューブリックが脚本を執筆し、映画の公開の後に「小説」は発表されているが、その「小説」にはアーサー・C・クラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることから、厳密に言えば、映画の原作であるともノベライゼーションであるとも言えないものとなっている。因みにコンピュータ「HAL9000」のHALは、IBMをアルファベット順で一文字ずつずらしたネーミング)。

1968年/1978年(リバイバル)各チラシ

2001年宇宙の旅 last.jpg 完璧な映像構成からキューブリック2001 space odyssey.jpgがカメラマン出身であることを強く感じさせる作品でしたが、ジョン・レノンも讃えたというラストのSFXは今日観るとそれほどでもないかも(もともと、このラスト及び映画自体は毀誉褒貶があり、小松左京、筒井康隆氏といった人たちはあまり買っていなかった記憶がある)。むしろ、ツァラトゥストラはかく語りき」や「美しく青きドナウ」などの曲が映像とマッチさせて上手く使われているのを感じました(宇宙飛行士が宇宙船外に放り出される場面は怖かった)。

 チャペックの『R.U.R.』は、単に「ロボット」という言葉を生み出したというだけでなく、それまであった一定のモチーフをSFとして確立させたという点でも、後に及ぼした影響力は大きいのではないでしょうか。「ブレードランナー」や「2001年宇宙の旅」に限らず、多くの映画や小説がこのモチーフを引き継いでいることを思うと、19世紀初頭の『フランケンシュタイン』と並んで、20世紀におけるエポック・メイキングな作品であると言えるかと思います。

珈琲屋チャペック2.jpg 因みに、北陸の金沢に行った時、金沢城の城跡付近に「チャペック」というコヒー・ショップがありましたが、この作品の作者の名前からとったようです。ネットで確認すると、確かに兄ヨゼフ・チャペックの絵を使っている...。行った時には前を通っただけでしたが、店内にはチャペック関連の趣向も施されているようで、あの時店の中に入ればよかったと後でやや後悔しました。


ブレードランナー チラシ.jpgブレードランナー.jpg「ブレードランナー」●原題:BLADE RUNNER●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督:リドリー・スコット●製作:マイケル・ディーリー ●脚本:ハンプトン・フィンチャー/デイヴィッド・ピープルズ●撮影:ジョーダブレードランナー4.jpgン・クローネンウェス●音楽: ヴァンゲリス●時間:117分●出演:ハリソン・フォード/ルトガー・ハウアー/ショーン・ヤング/ダリル・ハンナ/ブライオン・ジェイムズ/エドワード・ジェイムズ・オルモス/M・エメット・ウォルシュ/ウィリアム・ サンダーソン/ジョセフ・ターケル/ジョアンナ・キャシディ/ジェームズ・ホン●日本公開:1982/07●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:二子東急(83-06-05)●2回目:三軒茶屋東映(84-07-22)●3回目:三軒茶屋東映(84-12-22)(評価:★★★★☆)二子東急.jpg二子東急.gif●併映(2回目):「エイリアン」(リドリー・スコット)/「遊星からの物体x」(ジョン・カーペンター)●併映(3回目):「遊星からの物体x」(ジョン・カーペンター)
 


2001 nen: Uchuu no Tabi(1968)
2001 nen Uchuu no Tabi(1968).jpg『2001年宇宙の旅』y02.jpg「2001年宇宙の旅」●原題:2001:A SPACE ODYSSEY●制作年:1968年●制作国:アメリカ●監督・製作:スタンリー・キューブリック●脚本:スタンリー・キューブリック/アーサー・C・クラーク●撮影:ジェフリー・アンスワース/ジョン・オルコット●音楽:リヒャルト・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語りき》/ヨハン・シュトラウス2世《美しく青きドナウ》/他●時間:152分●出演:キア・デュリア/ゲイリー・ロックウッド/ウィリアム・シルベスター/ダニエル・リクター/ダグラス・レイン(HAL 9000(声))/ダニエル・リクター/レナード・ロシター/マーガレット・タイザック/ロバート・ビーティ/ショーン・サリヴァン/フランク・ミラー/エド・ビショップ/アラン・ギフォード/アン・ギリス/(以下、ノンクレジット)ビビアン・キューブリック/ケヴィン・スコット/ビル・ウェストン●日本公開:1968/04●配給:MGM●最初に観た場所:日比谷・有楽座(78-12-10)(評価:★★★★)  有楽座(旧)1.bmp右写真:有楽座[1984(昭和59)年9月]「ぼくの近代建築コレクション」より
旧有楽座内.jpg有楽座.jpg
旧・有楽座 1935(昭和10)年6月に演劇劇場として開館。1949(昭和24)年8月~ロードショー館(席数1,572)。1984年10月31日閉館。 

1978年リバイバル上映時新聞広告(前年公開の「スター・ウォーズ」第一作の大ヒットがきっかけでSF映画が盛り上がりリバイバル上映されたという経緯もあり、ジョージ・ルーカスのコメントが付されている)
「2001年宇宙の旅」78リバイバル.jpg
 
「RUR」hukamati.jpg【1924年単行本[金星堂(『ロボット』鈴木善太郎:訳)]/1968年単行本[平凡社『現代人の思想22 機械と人間との共生』収録(『ロボット製造会社R.U.R.』鎮目泰夫:訳)]/1977年文庫化『華麗なる幻想-海外SF傑作選』収録[講談社文庫(『R.U.R.』深町眞理子:訳)]/1989年再文庫化[岩波文庫(『ロボット (R.U.R.)』千野栄一:訳)]/1992年単行本[十月社(『R.U.R.ロボット』栗栖継:訳)]/2006年単行本[八月舎『チャペック戯曲全集』収録(『RUR』田才益夫:訳)]/2012年[単行本(『カル・チャペック戯曲集〈1〉ロボット/虫の生活より』栗栖継:訳)]】

RUR...ロッサム万能ロボット会社」電子版(深町眞理子:訳)

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1525】 イヨネスコ「授業
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ 「●「カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

ポーランド現代文学の中では珍しく「徹底的に非政治的で官能的な小説」という見方に共感。

尼僧ヨアンナ―他 (東欧の文学)2.jpg尼僧ヨアンナ (岩波文庫).jpg イヴァシュキェヴィッチ.jpg 尼僧ヨアンナ [DVD].jpg 尼僧ヨアンナ ps デザイナー大島弘義.jpg
尼僧ヨアンナ (岩波文庫)』Jarosław Iwaszkiewicz(1894-1980)
尼僧ヨアンナ [DVD]」/「尼僧ヨアンナ」ポスター(デザイン:大島弘義)
尼僧ヨアンナ―他 (東欧の文学)』福岡 星児:訳(1967/07 恒文社)

尼僧ヨアンナ 格子03.jpg『尼僧ヨアンナ』.JPG 中世末期、ポーランドの辺境の町ルーディンで、修道院の若き尼僧長ヨアンナに悪魔がつき、悪魔祓いに派遣された若き神父スーリンはあれこれ手を尽くすが万策尽きる―。

 ウクライナ出身のポーランド人作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ(1894-1980)が、1943年、作者49歳の時に執筆した作品で(1946年に中短編集の中で発表された)、フランスの小都市ルーダンで実際に行われた悪魔裁判を素材とした作品ですが、それを、中世末期のポーランドの辺境の町「ルーディン」に舞台を置き換えています。その他は、驚愕の結末を除いてはほぼ史実に忠実だそうです。

ルーダンの悪魔.jpg 実際に起きた事件は、1632年からフランスの小都市ルーダンで、ウルスラ会の修道女たちが悪魔憑きの症状を示し、神を冒涜する言葉、痙攣と硬直、淫らでショッキングな振舞い等が人々に衝撃を与えたため、悪魔祓いと原因究明の審査が行われ、ルーダンの教会の司祭であり、教養と魅力的な物腰で街の女を次々にものにし(その結果、多くの敵も作っていた)ウルバン・グランディエが、悪魔と契約を結んだとの罪状で生きながら火刑に処されれたいうもので、この事件を素材とした小説には、この作品のほかにイヴァシュキェヴィッチと同年生まれの英国の作家オルダス・ハックスリー(1894-1963)の『ルーダンの悪魔』(The Devils of Loudun 、1952)などがあります。

ルーダンの悪魔
尼僧ヨアンナ パティオ.jpg
 この作品の原題は『尼僧長"天使たちの"ヨアンナ』(Matka Joanna od Aniołów)ですが、1961年にポーランドの映画監督イェジー・カヴァレロヴィッチ(1922-2007)によって「尼僧ヨアンナ」(英文タイトル:Mother Joanna of the Angels)として映画化され、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞するなどして世界的に有名になったことから、岩波文庫版('96年)関口時正氏の訳でもこれをタイトルにしています。本邦初訳は『「東欧文学全集」第8巻‐イヴァシュキェヴィッチ集』(恒文社)の福岡星児訳('67年)でこれも映画化の後の刊行であり、映画が本邦公開された時点('62年)では原作の邦訳は無かったことになります。

イェジー・カヴァレロヴィチ.jpg 個人的にもイェジー・カヴァレロヴィッチの映画の方を先に観て(1962年に発足した日本アート・シアター・ギルド(ATG)の配給第1作でもある)、やや内容を忘れかけた頃に原作を読みましたが、そのことにより改めて映画のシーンが甦ってきました。映画を観た際は、ストーリー面で、ラストでスリン神父(ミエチスワフ・ウォイト)がヨアンナ(ルチーナ・ヴィニエツカ)を悪魔から守ることと引き換えに自らが悪魔を引きうけ殺戮を行うというのは、やや映画的な作り方をしているのではないかとも思いましたが、読んでみたら原作もその通りでした。
Jerzy Kawalerowicz(1922-2007)

ツイン・ピークス1.jpgツイン・ピークス3.jpg まるで、デイヴィッド・リンチが監督して90年代初頭に人気を博したTVドラマ「ツイン・ピークス」の、主人公のFBI捜査官が少女を守るために悪魔に魂を売り渡してしまうラストみたいです。デイヴィッド・リンチによると、あのラストはあくまでも第2シーズンの最終話に過ぎないとのことですが、その続きは作られていません。

尼僧ヨアンナ 08.jpg 個人的には「原作が映画と同じ展開だった」のがやや意外であり、岩波文庫版の翻訳者・関口時正氏の解説でも、スーリンに重罪を犯させる結末ではなく、"小説的筋書きとしての効果の成否"についてはともかく、自殺させることでも足りたのではないか尼僧ヨアンナ 05.jpg(自殺も罪ではあるが)と書いているのは、文学作品を読んだつもりが結構"ホラー"だったかもしれないという自分の読後感をある部分代弁してくれているようにも思えました(ヨアンナが突然表情を変え、悪魔の語り口で話し始めるのはまるで映画「エクソシスト」みたい)。

 但し、"ホラー"と言っても作者の筆致は冷静であり、むしろ、憑依現象を冷静に解析した情動力学的な"心理劇"ともとれるように思います。読んでいて、修道院で起きていることは、戒律による性的抑圧に起因する集団ヒステリーに類するものであることの察しがつくようになっています。また、ヨアンナの体の中に複数の悪魔がいて、それらが交互に姿を現すというのは、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』を想起させます(「複数の悪魔」は複数人格を呈す解離性障害として説明可能ではないか)。

尼僧ヨアンナ 07.jpg 因みに、小説は前任者の司祭が火刑に処せられ、若き神父スーリンが悪魔祓いのため派遣されるところから始まりますが、ヨアンナにはジャンヌという実在のモデルがいる一方、このスーリンにもスュランという実在のモデルがいて、1634年、34歳の時に悪魔祓いのため修道院に派遣されて、ジャンヌの悪魔をわが身に引き受けた結果としてボロボロになり、殺人を犯したり自殺したりするまでには至らなかったけれど(自殺未遂はあった)、20年近く闘病・治療生活を送って、60歳を過ぎてやっとジャンヌと過ごした濃密な時間を書き記したものを完成させたようです(内容は、宗教的な矩を超えない範囲で、神秘主義的色合いの濃いものらしい)。

ルチーナ・ヴィニエツカ (カヴァレロヴィッチ監督夫人)

尼僧ヨアンナ パティオ02.jpg 1961年に作られた映画「尼僧ヨアンナ」は、スターリン主義の抑圧を受けていた当時のポーランド情勢を、戒律下に置かれた修道尼らの性的抑圧として表したと解されることが多いようですが、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督には、社会派サスペンス映画「影」('56年)など、ポーランドの政治情勢を反映させながらも娯楽性を含んだ作品も撮っており(この作品と「夜行列車」('59年)、「尼僧ヨアンナ」の3本が最高傑作とされている)、また、「尼僧ヨアンナ」において修道尼たちが一斉に地面に倒れ込むのを俯瞰で撮るなど、カメラワークにも非常に洗練されたものがあって、芸術的完成度は高いように思います(その分、"政治"が後退する? 少なくとも個人的にはあまりプロパガンダ性を感じなかった)。

尼僧ヨアンナ 04.jpg また、イヴァシュキェヴィッチの原作の方も、1943年という、ポーランドのユダヤ人や知識層が厳しい弾圧を受けていた時期に書かれたものですが(イヴァシュキェヴィッチは既にポーランドを代表する文人であったとともにレジスタンス運動を指揮していた)、岩波文庫版解説で関口時正氏は、「尼僧ヨアンナ」にしてもその他の作品にしても、彼の作品はポーランド現代文学の中では珍しく「徹底的に非政治的で、官能的な小説」であるとしています。

尼僧ヨアンナ_2.jpg この関口時正氏の本作に対する見方には痛く共感しました。イヴァシュキェヴィッチという人は政治と文学を分けて考えていたのではないか。そうして考えると、映画「尼僧ヨアンナ」も、いろいろと背景はあるのかもしれませんが、先ずは、観たままの通り感じればよい作品なのかもしれません。 
 
尼僧ヨアンナ0.jpg「尼僧ヨアンナ」●原題:MATKA JOANNA OD ANIOLOW(MOTHER JOAN OF THE ANGELS)●制作年:1960年●制作国:アメリカ●監督:イェジー・カヴァレロヴィッチ●脚本:タデウシュ・コンビッキ/イェジー・カヴァレロヴィッチ●撮影:イェジー・ウォイチック●音楽:アダム・ワラチニュスキー●原作:ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ●時間:110分●出演:ルチーナ・ウィンニッカ/ミエチスワフ・ウォイト/ミエチスワフ・ウォイト/アンナ・チェピェレフスカ/マリア・フヴァリブク/スタニスラフ・ヤシュキェヴィッチ●日本公開:1962/04●配給:東和/ATG(共同配給)●最初に観た場所:カトル・ド・シネマ上映会(79-04-18)●2回目:北千住・シネマブルースタジオ(10-07-03)(評価:★★★★)●併映:「パサジェルカ」(アンジェイ・ムンク)

「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3024】ミシェル・ゴンドリー 「エターナル・サンシャイン
「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ「●「カンヌ国際映画祭 パルム・ドール」受賞作」の インデックッスへ(「かくも長き不在」) 「●「フランス映画批評家協会賞(ジョルジュ・メリエス賞)」受賞作」の インデックッスへ(「二十四時間の情事」)「●「ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞」受賞作」の インデックッスへ(「二十四時間の情事」)「●「ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞」受賞作」の インデックッスへ(「去年マリエンバートで」) 「●岡田 英次 出演作品」の インデックッスへ(「二十四時間の情事」)「●ジャンヌ・モロー 出演作品」のインデックッスへ(「ジブラルタルの追想」)「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

戦争の悲劇を描いたマルグリット・デュラス原作(脚本)の映画化作。DVD化されていない名作。

かくも長き不在 ポスター.jpgかくも長き不在 vhs.jpg かくも長き不在 01.jpg かくも長き不在 ちくま.jpg
輸入版ポスター/「かくも長き不在」VHS/『かくも長き不在 (ちくま文庫)

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE.jpg パリ郊外でカフェを営むテレーズ(アリダ・ヴァリ)はある日、店の前を通る浮浪者に目を止める。その男(ジョルジュ・ウィルソン)は16年前に行方不明になった彼女の夫アルベールにそっくりであった。テレーズはその男とコンタクトをとるが、その男は記憶喪失だった―。

 アンリ・コルピ(1921-2006/享年84)監督の1961年公開の作品で、この人は映画監督の他に雑誌編集者、脚本家、音楽家、編集技師として幅広く活動した人ですが、逆に単独監督した作品として有名なのはこの一作くらいではないでしょうか。但し、この作品でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞しています。

 この作品もある種"企画"的側面があり、原作者のマルグリット・デュラス(1914-1996/享年81)は1960年にこの物語を、同じくデュラスマルグリット・デュラス.jpgの小説『モデラートカンタービレ』(原題:Moderato Cantabile, 1958年)を原作としジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンドが主演した「雨のしのび逢い」('60年/仏・伊)の脚本家ジェラール・ジャルロと共同でいきなり脚本から書き起こしていて、それは「ちくま文庫」に所収されています。
Marguerite Duras(1914 - 1996)
かくも長き不在 02.jpg
 戦争の悲劇を描いた感動作ですが、マルグリット・デュラスの作品の中でも分かり易く、また、件(くだん)の浮浪者は果たしてテレーズの夫であるのかどうかという関心から引き込まれます。そして、事実は結末で意外な形で示唆されますが(テレーズの呼んだ夫の名を街の人が次々と伝えていき、それに反応する形で浮浪者が降参するかのように両手を上げるのが悲しい)、その前のテレーズと浮浪者のダンスシーンなども、ぎこちなく二人が抱き合うところなどは逆にリアルで感動させられ、定番的な作り物にしてしまわない脚本と演出の上手さが感じられました。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE aridabari.jpg アリダ・ヴァリはキャロル・リード監督の「第三の男」('49年/英)が有名ですが、この作品を観ると、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「さすらい」('57年/伊)で夫と別れて暮らすことになった妻を演じていたのを思い出します。「さすらい」において、夫は疲弊して妻の元に戻りますが、アリダ・ヴァリ演じる妻は既に新たな生活を築いており、夫は妻の目の前で自死を遂げます。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE 1.jpg この「かくも長き不在」においても、アリダ・ヴァリ演じるテレーズには日常においては暗さは無く、16年前にゲシュタポに捕えられたまま消息を絶った夫の帰りを待ちながらも店を営んで逞しく生活しており、若い恋人までいるような様子であって、そこへ抜け殻のようになって現れた"夫かもしれない男"との対比が、逆に男の心的外傷によるトラウマの闇の深さを際立たせています。テレーズが男とぎこちないダンスをした際に、男の頭部の傷に気づく場面はぞっとさせられますが、一方で、そのことにより"夫かもしれない男"に憐れみと慈しみを覚えるテレーズの表情は、まさにアリダ・ヴァリにしか出来ないような演技であり、この作品の白眉と言えます。

 因みに、この映画を観て、いくら心的外傷を負ったとは言え、自分の夫と他人の区別がつかないものだろうかという慰問を抱く人がいますが、心的外傷だけでなく記憶中枢である海馬を損傷するなど脳に器質的障害を負った場合、その人の顔つきまでも全く変わってしまうことが見受けられるようで、個人的にもそうしたケースに接したことがあります。

「二十四時間の情事」1.jpg マルグリット・デュラスは多くの作品を残しながら自身も監督業を手掛けていますが、どちらかと言うと原作や脚本を書いたものを別の映画監督が映画化したものの方が知られており、有名なものでは原作・脚本を書き、アラン・レネが監督してカンヌ国際映画祭FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞を受賞した「二十四時間の情事」('59年/仏・日)がありますが、こちらもモチーフとしてナチの収容所体験を持つ女性が出てきます。ヌーヴェル・ヴァーグの色合いを感じる作品で、観念的な原作の文脈でそのまま映像化するとこんな感じかなという作品ですが、これもオリジナルよりは分かり易くなっています。同じアラン・レネ監督の、後にノーベル文学賞を受去年マリエンバートで 01.jpg賞する作家アラン・ロブ=グリエ(1922-2008/享年85)原作の「去年マリエンバートで」('61年/仏)ほどには前衛的ではなく、デュラスの小説の映画化作品は、小説より分かり易くなる傾向にあるように思います(それでもまだ難解な面もあるが、「去年マリエンバートで」のように観ていて眠くなる(?)ことはない)。デュラスの小説『ジブラルタルから来た水夫』を原作とするトニー・リチャードソン監督の「ジブラルタルの追想」('67年/英)なども、えーっ、原作ってこんなラブロマンスなの、というようなハーレクイン風の仕上がりで、ここまで噛み砕いてしまうとどうかなというのはありますが、さすがにこの作品は自身で脚本までは書いていないようです。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE 7.jpg 「かくも長き不在」のちくま文庫版の原作脚本を読むと、自身で監督したものに有名な作品は無いけれど、(脚本家の協力・示唆はあったにせよ)小説的効果と映画的効果の違いはわかっていた人ではないかという気がします。特に、この映画のラストの男を呼ぶ声が伝言のように街中を伝わっていく場面は、映画的シチュエーションの極致と言ってよいかと思います。

 しかし、この「かくも長き不在」、以前はビデオとLD(レーザーディスク)で発売されていたけれど、2014年現在DVD化はされていないようです。どうして?(2015年完成の4Kスキャン→2K修復画質により2018年に初めてDVD&Blu-ray化された)

かくも長き不在 シアターアプル.jpgUNE AUSSI LONGUE ABSENCE 3.jpg「かくも長き不在」●原題:UNE AUSSI LONGUE ABSENCE●制作年:1960年●制作国:フランス●監督:アンリ・コルピ●脚本:マルグリット・デュラス/ジェラール・ジャルロ●撮影:マルセル・ウェイス●音楽:ジョルジュ・ドルリュー●時間:98分●出演:アリダ・ヴァリ/ジョルジュ・ウィルソン/シャルル・ブラヴェット/ジャック・アルダン/アナ・レペグリエ●日本公開:1964/08●配給:東和●最初に観た場所:新宿シアターアプル(85-04-21)(評価:★★★★)
ポスター(イラスト:和田 誠

二十四時間の情事 02.jpg「二十四時間の情事」●原題:HIROSHIMA 二十四時間の情事_.jpgMON AMOUR●制作年:1959年●制作国:フランス・日本●監督:アラン・レネ●脚本:マルグリット・デュラス●撮影:サッシャ・ヴィエルニ/高橋通夫●音楽:ジョヴァンニ・フスコ(イタリア語版)/ジョルジュ・ドルリュー●時間:90分●出演:エマニュエル・リヴァ/岡田英次/ステラ・ダサス/ピエール・バルボー/ベルナール・フレッソン●日本公開:1959/06●配給:大映●最初に観た場所:京橋・フィルムセンター(80-07-15)(評価:★★★★)
二十四時間の情事 [DVD]

去年マリエンバートで  チラシ.jpg去年マリエンバートでes.jpg「去年マリエンバートで」●原題:L'ANNEE DERNIERE A MARIENBAT●制作年:1961年●制作国:フランス・イタリア●監督:アラン・レネ●製作:ピエール・クーロー/レイモン・フロマン●脚本:アラン・ロブ=グリエ●撮影:サッシャ・ヴィエルニ●音楽:フランシス・セイリグ●時間:94分●出演:デルフィー去年マリエンバートで ce.jpgヌ・セイリグ/ ジョルジュ・アルベルタッツィ(ジョルジョ・アルベルタッツィ)/ サッシャ・ピトエフ/(淑女たち)フランソワーズ・ベルタン/ルーチェ・ガルシア=ヴィレ/エレナ・コルネル/フランソワーズ・スピラ/カリン・トゥーシュ=ミトラー/(紳士たち)ピエール・バルボー/ヴィルヘルム・フォン・デーク/ジャン・ラニエ/ジェラール・ロラン/ダビデ・モンテムーリ/ジル・ケアン/ガブリエル・ヴェルナー/アルフレッド・ヒッチコック●日本公開:1964/05●配給:東和●最初に観た場所:カトル・ド・シネマ上映会(81-05-23)(評価★★★?)●併映:「アンダルシアの犬」(ルイス・ブニュエル)

THE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER.jpg「ジブラルタルの追想」●原題:THE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER●制作年:1967年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:オスカー・リュウェンスティン●脚本:クリストファー・イシャーウッド/ドン・マグナー/ジブラルタルの水夫.jpgトニー・リチャードソン●撮影:ラウール・クタール●音楽:アントワーヌ・デュアメル●原作:マルグリット・デュラス「ジブラルタルから来た水夫(ジブラルタルの水夫)」●時間:90分●出演:ジャンヌ・モロー/イアン・バネン/オーソン・ウェルズ/ヴァネッサ・レッドグレーヴ●日本公開:1967/11●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★☆)●併映:「悪魔のような恋人」(トニー・リチャードソン)(原作:ウラジミール・ナボコフ)
ジブラルタルの水夫

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【653】 カフカ 『変身
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●フェデリコ・フェリーニ監督作品」の インデックッスへ 「●ニーノ・ロータ音楽作品」の インデックッスへ  「●「フランス映画批評家協会賞(外国語映画賞)」受賞作」の インデックッスへ(「オーケストラ・リハーサル」)「●TV-M (その他)」のインデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ「○都内の主な閉館映画館」のインデックッスへ(PARCO劇場)「●演劇・歌舞伎・舞踏(ダンス・バレエ)」の インデックッスへ

育てようとした対象を自ら押し潰してしまう―感性で捉える不条理劇「授業」。

イヨネスコ 授業・犀.jpg ウジェーヌ・イヨネスコ.jpg   授業1.jpg 「授業」中村まり子.jpg   死の教室 中古vhs.jpg
授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ)』['93年/白水社]ウジェーヌ・イヨネスコ/中村伸郎「授業」/アンジェイ・ワイダ「死の教室」VHS(絶版)
授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ).jpg ある教授の自宅に、女生徒が個別講義を受けに来るが、教授は女中に止められるのもかまわず講義を始める。数学そして比較言語学と講義を進めていくにつれ、最初は穏やかだった教授は夢中になり、しだいに凶暴になっていく。凶暴化した教授は我を忘れて、講義に集中できなくなった女生徒をナイフで刺殺する―。

 ルーマニア生まれのフランスの劇作家ウジェーヌ・イヨネスコ(1909-94/享年84)が1951年に発表した戯曲で、サミュエル・ベケット(1906-89)などと共に20世紀のヌーヴォー・テアトルの代表格にあたる人ですが、文学界にデビューしたのは40歳を過ぎてからであり、結構遅咲きだった人です(デビュー時に、新世代の劇作家の台頭を歓迎する出版社の意向で、年齢を3歳若くサバ読み公表させられた)。

 イヨネスコの作風は「平凡な日常を滑稽に描きつつ、人間の孤独性や存在の無意味さを鮮やかに描き出した」(ウィキペディア)ものということになるらしいですが、昔から言われている言葉で一言で言えば、「不条理劇」であり、実際、カミュやサルトルの不条理の文学に通じるとされています(但し、個人的には、戯曲という表現を通して理論よりも観客の感性に働きかけている分、哲学っぽくないという点で、カフカなどに近いように感じる)。

山手教会地下「ジァン・ジァン」.jpg渋谷ジァン・ジァン 高橋竹山.bmp渋谷ジァン・ジァン 中村伸郎.bmp 演劇としての「授業」は、俳優の中村伸郎(1908-1991/享年82)が、'72年より11年間にわたって、毎週金曜日に渋谷・公園通りの山手教会地下「ジァン・ジ渋谷ジャンジャンr-1s.jpgァン」で演じていたことで知られていますが(「ジャンジャン」は1969年7月オープン。ここへは「高橋竹山の津軽三味線」や「おすぎのシネマトーク」も聞きに行った。「イッセー尾形の一人芝居」もこのジァン・ジァンで始められた。「美輪明宏の世界」とか「松岡計井子渋谷ジャンジャン75年8月.jpgビートルズをうたう」などといったものもあり、荒井由実(後の松任谷由実)、中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水など、ここでライブをやった著名アーティストは数知れない。'00年4月25日閉館)、自分自身のメモを見ると、'79年の5月4日の金曜日に「ジァン・ジァン」に「授業」を観に行っていました(ゴールデンウィーク中渋谷ジャンジャン 授業.jpg中村伸郎 授業.pngもやっていた)。小劇場であるため、役者と観客の距離が近くて緊迫感があり、結構インパクトを受けました(その時の女性徒役は、演出も兼ねていた大間知靖子。歴代の女性徒役の中でも名演とされている)。
   
「授業」中村まり子.jpg 女性徒の覚えの悪さ(「ナイフ」という言葉を何度やっても正確に発音できない)に教授はキレてしまい、発作的にナイフによる凶行に及んだともとれるのですが、実はこの教授は今までも同じ殺人を何度も繰り返していることが暗示されています(中村伸郎の娘で女優の中村まり子がこの"出来の悪い"女生徒役で出ていた時期もあった(当時19歳))。

 育てようとした対象を自ら押し潰してしまう―家庭教師をやっていたりした時のことを思い出しそうな設定ですが、もし今観れば、会社における部下指導の在り方などを考えてしまうかも(余りにストレートに教訓的な解釈?)。

渋谷ジァンジァン閉館 2000/04/25(インタビュー:中村伸郎・中村まり子・別役実・宇崎竜童・イッセー尾形・美輪明宏)

 中村伸郎の後を受けて、中山仁、勝部演之、仲谷昇といった俳優がこの教授役を演じ、また最近では「劇団東京乾電池」の綾田俊樹やベンガルが演じていますが、今年('11年)7月には、柄本明が「東京乾電池」の公演として自身の演出のもとで演じています。それらを実際に観てはいないけれども、中村伸郎.jpgいかにもひと癖ありそうな柄本明よりも、教授然とした中村伸郎の方が、この作品の中村伸郎2.jpg場合"意外性"の効果はあるのではないかなあ。中村伸郎は「宇宙大怪獣ドゴラ」('64年/東宝)や「サンダ対ガイラ」('66年/東宝)、或いはTV版「白い巨塔[左]('67年)でも博士や教授の役でした。この人、「天国と地獄」('63年/東宝)など黒澤明監督作品にも出ているほか、映画会社ではなく劇団(文学座)所属だったので、「彼岸花」('58年/松竹)、「秋日和」('60年/松竹)、「秋刀魚の味[右](62年/松竹)など小津安二郎監督の後期作品にも常連のように出ています。

 "感性に訴える"作品ではありますが、政治的意図(反ナチズム)もあるようで(家庭教師や会社の上司に置き換えるだけでは"読み"が浅い?)、更に、教室という1場面のみで話が進行するため、アンジェイ・ワイダが監督した「劇団クリコット2」による「死の教室」('76年/ポーランド)を観た際に、この芝居を想起したりもしました。

死の教室の一場面.jpg 「死の教室」は、廃墟(倉庫?)のような教室に、自らの子供の頃の分身である人形を持ってやって来た老人(死者)たちが、脈絡のない不可思議な行動をとりながら、ユダヤの歴史に由来する言葉や、意味不明な単語を発演するという、これもまた「不条理劇」で、舞台劇(演出はタデウシュ・カントール)をそのまま撮った記録映画です。オーケストラ・リハーサル dvd2.jpg"統制の喪失"という意味では、個人的にはフェデリコ・フェリーニの「オーケストラ・リハーサル」(′79年/伊)と少し似ているように思えたました。「オーケストラ・リハーサル」は、「フェリーニの道化師」などと同じくTV用映画として撮られたもので、あるオーケストラのリハーサル風景をTV局が取材するという形で物語が進み、「道化師」と同じくドキュメンタリーかと思って観ていると、実はフィクションだった...。「オーケストラ・リハーサル [DVD]

死の教室 [THE DEAD CLASS] ポスター.jpg アンジェ蜷川幸雄.jpgイ・ワイダはこの「死の教室」という作品を、やはりTV用作品として撮影しましたが、ポーランド国内ではTV放映も劇場公開もされていないとのこと、かつて「劇団クリコット2」が再来日して('82年に一度来日して公演、蜷川幸雄(1936-2016)氏ら日本の演劇人に衝撃を与えたとのこと)、この芝居を舞台公演するという話がありましたが、「クリコット2」のメンバーが全員高齢であるため、長旅に耐えられないという理由で中止になったという顛末がありました。出演者らは"老け役"ではなく、ホントに老人だったのだ...。

「死の教室」●原題:THE DEAD CLASS●制作年:1976年●制作国:ポーランド●監督:アンジェイ・ワイダ●製作:バルバラ・ペツ・シレシツカ●脚本・演出・作曲:タデウシュ・カントール●時間:90分●出演:劇団クリコット2(マリア・グレツカ/パルコ劇場.jpgparco劇場 .jpgボフダン・グリボヴィッチ/ミーラ・リフリツカ/ズビグニエフ・ベトナルチック/ロマン・シヴラック)●日本公開:1988/01●配給:パルコ●最初に観た場所:渋谷・PARCO劇場(88-01-16)(評価:★★★☆)
PARCO劇場 1973年5月23日「西武劇場」として渋谷PARCO PART1の9Fにオープン、主に演劇公演に利用される。1985年~「PARCO劇場」。2016(平成28)年8月7日閉館。2019年に再オープン予定。

「オーケストラ・リハーサル」チラシ/「オーケストラ・リハーサル [DVD]
オーケストラ・リハーサル  チラシ.jpgオーケストラ・リハーサル dvd.jpgオーケストラ・リハーサル 3.jpg「オーケストラ・リハーサル」●原題:PROVA D'ORCHESTRA(ORCHESTRA REHEARSAL)●制作年:1979年●制作国:イタリア・西ドイツ●監督:フェデリコ・フェリーニ●製作:ファビオ・ストレッリ●脚本:フェデリコ・フェリーニ/ブルネッロ・ロンディ●撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ●音楽:ニーノ・ロータ●時間:72分●出演:ボールドウィン・バース/クララ・ユロシーモ/チェーザレ・マルティニョニ/ハインツ・クロイガー/クラウディオ・チョッカ/エリザベス・ラビ ●日本公開:1980/08●配給:フランス映画社●最初に観た場所:三鷹オスカー(81-10-10)(評価:★★★☆)●併映:「フェリーニのアマルコルド」「フェリーニのローマ」

「●と フョードル・ドストエフスキー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【465】 ドストエフスキー 『白夜
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

「ドスト氏の文学を理解するためには、どうしても通過しなければならない関門の一つ」(小沼文彦)
二重人格 ロシア語.jpg『二重人格』1.JPG
二重人格 ドストエフスキー 岩波文庫.jpg
  二重人格 旧版.jpg
二重人格 (岩波文庫)』改版版/『二重人格』岩波文庫

Двойник(1846/2010 Азбука-классика 版)

二重人格 (岩波文庫)00_.jpg 主人公ゴリャートキン氏は、小心で引っ込み思案の孤独を愛する男で、典型的小役人であるが、家柄も才能もないのに栄達を望む野心だけは強く、そのことを自覚しながらも、自分には人並みかそれ以上の才能があるという自負心もあって、そうした内心の相克が昂じて精神的に病んでしまった結果、もう一人の自分という幻覚を作り出してしまう―。

 ドストエフスキーが1846年、25歳の時に、処女作『貧しき人々』の次に発表した作品で、作者は自信満々で世に送り出したようですが当時の評判はイマイチで、その時の低評価がその後も続いたきらいのある作品のようです。しかしながら、訳者の小沼文彦(こぬま ふみひこ、1916-1998)は文庫解説で、「現在ではよほどの愛好家でないかぎり、その存在すらも知らない人が多いが、ドストエフスキーの文学を理解するためには、やはりどうしても通過しなければならない関門の一つであることは、いまさら言うまでもない」('81年4月)としています。

 全体を通して、ゴリャートキン氏の混乱した視点から見た描写や独白が延々繰り返され、そのため冗長感は否めず、それが発表時のマイナス評価の一要因としてもあったようですが、「饒舌過剰」はドストエフスキー作品の特質だと考えれば、むしろ、「役所に行ったら自分そっくりで姓名まで自分と同じ人間が仕事していた」というシュールな設定の方に当時の批評家の一部はついていけなかったのではないでしょうか。

 個人的には、プロット自体はまるで筒井康隆氏の初期作品みたいで面白く、作者が意識して読者サービスしているようにも思えました(安部公房の『壁-S・カルマ氏の犯罪』にも、会社に行ってみたら自分の代わりに自分の"名刺"が仕事をしていたという超シュールなシチュエーションがあったなあ)。

 主人公の前に突如現れたもう一人の自分"新ゴリャートキン氏"は如才ない人間で、人当たりがよくてゴマ摺りも出来るため上司の受けもよく、"我らが旧ゴリャートキン氏"は、役所での自分の仕事や地位を次々と奪っていく新ゴリャートキン氏のことを卑劣漢と見做して苦々しく思っているわけですが、実は"新ゴリャートキン氏"は、そうありたいという自分の願望の(本当はそうしたいがそんな卑怯なことは出来ないという思いも含めた)投影であることが窺えます(旧ゴリャートキン氏は、"新ゴリャートキン氏"との直接対決に何度か臨むが、直接対面するごとに相手に対して馬鹿丁寧になり、異常にへりくだってしまうのが興味深く、この辺りは後の『永遠の夫』に繋がるものを感じる)。

 振り返ってみれば、最初の方に出てくる、ゴリャートキン氏が医者にかかっている場面の、その際の医者との遣り取りから、彼が既に"壊れている"ことが窺えるように思われますが、この作品に影響を与えたとされるニコライ・ゴーゴリの「外套」や「鼻」などと比べると、それらの作品の主人公の精神錯乱からくる幻想的な場面は、主人公の妄想であることがすぐ分かるように書かれているのに対し、この作品は一貫してゴリャートキン氏の視点から書かれているため、何が真実であり何が嘘であるのか、読者は主人公と一緒に迷宮を彷徨することになり、その辺りがミステリアスで、楽しませてくれます(当時の著名な批評家ベリンスキーは、まさにこの"幻想的色調"が強すぎる点において、この作品に対し否定的評価だったのだが)。

 よく読むと結構プロットが練られているように思え、旧ゴリャートキン氏が"新ゴリャートキン氏"を自宅に招いて苦労話を聞いてやる場面などは、虚実皮膜譚というか、どこまでが事実でどこからが幻想なのか読者には明かされておらず、更には、前半部分において、ゴリャートキン氏が恩人の娘の誕生パーティに招待されたつもりで行ってみると実は招かれざる客であり、思い余って失礼な振舞いをして追い返されてしまうというエピソードがありますが、後半部分には、"新ゴリャートキン氏"の「陰謀家」的性格に気付いたその娘からゴリャートキン氏宛てに会いたいとの手紙が来ると言う"出来事"があり、この後半のエピソードを全て"妄想"として捉えるならば、ゴリャートキン氏の精神的病いはかなり重篤であるということに加え、ある種"創作"作用を伴うものであると言えることになるのではないでしょうか。

 この作品の原題(Двойник)は(英題は単に"The Double"となっているが)ドイツ語の「ドッペルゲンガー」に相当する言葉だそうで、日本語には該当する言葉が無いために、かつては「分身」と訳されていたのですが(Двойникには双子の相方を指す意味もあるようだ)、訳者は"相似関係"よりも"心理学的要素"に重点を置いて「二重人格」としたとのこと。この場合の「二重人格」とは、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』のようなものを指すのではなく、「おれは自分で自分を殺してしまったんだ!」という主人公の叫びにも象徴されるように、「自分自身」からの"疎外"状況を表しているように思います。

永遠のドストエフスキー.jpg 現代心理学及び精神医学に置き換えるならば、劣等コンプレックスから強迫神経症、更には統合失調症に至って乖離性障害を引き起こしているという感じでしょうか。ドストエフスキー自身に若い頃から被害妄想があり、ロシア文学者の中村健之介氏などは、それを「統合失調症」による誇大妄想からくるものであると推察していて(『永遠のドストエフスキー-病いという才能』('04年/中公新書)、更にドスト氏には「離人症」の傾向もあったそうです。

 こうした中村氏の分析に対しては病跡学的な色彩が強すぎるとの批判もありますが、ドストエフスキーが異常なまでの執着心を持って、まるで虐め抜くかのようにこの作品の主人公であるゴリャートキン氏のことを描いているようにも思えることからすると、小沼氏の言う「ドストエフスキーの文学を理解するためには、やはりどうしても通過しなければならない関門の一つ」という言い方とリンクしてくる面があるようにも思います。

【1954年文庫化・1981年改版[岩波文庫]】

嗤う分身 dvd.jpg嗤う分身1.jpg2012年映画化「嗤う分身」('13年/英)
監督:リチャード・アイオアディ
原作:フョードル・ドストエフスキー『二重人格』
出演:ジェシー・アイゼンバーグ(サイモン・ジェームズ/ジェームズ・サイモン)/ミア・ワシコウスカ/ウォーレス・ショーン/ノア・テイラー
嗤う分身 [DVD]
 

「●も ギ・ド・モーパッサン」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2901】 ギ・ド・モーパッサン 『モーパッサン―首飾り
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

人間へのアイロニカルな批評眼と併せて、暖かい視線や鷹揚な姿勢も感じた。

雨傘 モーパッサン.jpg 1雨傘.png『雨傘―他七編』['38年/岩波文庫(絶版)] モーパッサン.jpg ギ・ド・モーパッサン(1950-1993)
雨傘 モーパッサン22.jpg ギ・ド・モーパッサン(1950-1993)が1884年、33歳の時に発表した「雨傘」のほか、「モンジレ爺さん」(1885年)、「あな」(1886年)、「ロムどんのいきもの」(1885年)、「トワヌ」(1885年)、「うしろだて」(1884年)、「勲章が貰へた」(1883年)、「論より証拠」(1887年)の7篇を所収。

 モーパッサンは300を超える作品を残していますが、近代日本文学史上における翻訳文学の影響を研究している榊原貴教氏によれば、その内、主に約240の作品が3,400ほどの翻訳によって伝えられてきたといい、その多くは短編であるとのこと、表題作の「雨傘」は'08(平成16)年までに29回訳されていて、『女の一生』の88回、『脂肪の塊』の50回には及ばないものの、短篇では多い方となっています。

 「雨傘」は、傘の修理を巡っていちゃもんをつける奥さん(クレーマーというのはいつの時代にもいたのだ)を通して「人間のエゴイズム」を描いた作品とされていますが、この奥さんは単にケチなのでは無く、クレームをつけることで利益を享受することが、ちょっとした生き甲斐にもなっているのかなあと。

 殴打傷害致死罪で訴えられた男が、独特の陳述を展開する「あな」、耳の中に何か生き物がいると言って周囲を巻き込んで大騒ぎする男の話「ロムどんのいきもの」、脳溢血で寝たきりになった男が、寝床で鶏の卵を孵すことに歓びを見出すようになる「トワヌ」などは、"ほのぼの系"のユーモア、「うしろだて」「勲章が貰へた」は、共に"見栄"にとり憑かれた男の滑稽譚といったところでしょうか。

 1880年、30歳で『脂肪の塊』を発表して文壇に躍り出たモーパッサンですが、その3年くらい前から、先天的梅毒による神経系の異常を自覚しており、1888年、38歳頃から不眠による変人ぶりが目立つようになり、1889年には麻酔中毒になり1891年に発狂、1892年には自殺未遂を起こして精神病院に入院、1893年に43歳でその精神病院で亡くなっています。

 こう書くと、何かペシミスティックな人生を送った人のようにも思われますが、この短篇集(意図して滑稽譚を拾っているわけだが)の何れの作品の登場人物もどこか憎めないところがあって、作者の当時の小市民に対するに対する鋭くアイロニカルな観察眼と併せて、"人間肯定的"な暖かい視座や鷹揚な姿勢も感じました(その辺りは、作者が創作上の充実期にあったことと関係するのだろう)。

 岩波文庫にはこの他に、『酒樽 他六篇』(水野亮:訳)、『あだ花 他二篇』(杉捷夫:訳)といった中短篇集がありましたが何れも絶版となっており、確かに今読むとやや古風な訳調かも。

 新潮文庫から'71年に3分冊の短篇集(青柳瑞穂:訳)が出ている一方、岩波文庫からも『モーパッサン短篇選』(高山鉄男:訳)として、15篇を収めた新訳版が'02年に刊行されています。

岩波文庫 『メゾンテリエ 他三篇』(河盛好蔵:訳)/『あだ花 他二篇』(杉捷夫:訳)/『脂肪の塊』(水野亮:訳)/『雨傘―他七編』(杉捷夫:訳)/『酒樽―他六編』(水野亮:訳)
『モーパッサン』シリーズ.jpg

「●も ギ・ド・モーパッサン」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1519】 モーパッサン 『メゾン テリエ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●溝口 健二 監督作品」の インデックッスへ 「●山田 五十鈴 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(川口松太郎)「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

社会的偏見と人間のエゴイズムをシンプルに凝縮。岩波文庫版(特に旧版)は挿絵が豊富。

脂肪の塊 モーパッサン 岩波2 (1).jpg2『脂肪の塊』.jpg 脂肪の塊 モーパッサン 岩波1.jpg マリヤのお雪 1935.jpg 駅馬車 dvd.jpg
脂肪の塊 (1957年) (岩波文庫)』水野 亮:訳 『脂肪のかたまり (岩波文庫)』高山鉄男:訳 「マリアのお雪」(主演:山田五十鈴(当時18歳))VHS 「駅馬車(デジタルリマスター版) [DVD]」[下]"Boule de Suif" (仏・2000年)
脂肪の塊 モーパッサン 岩波4.jpgboule de suif poche (仏・2000年).jpg プロシア占領下の北仏ルーアンからの脱出行を図る馬車に乗り合わせたのは、互いに見知らぬブルジョア階級の夫婦3組、修道女2人、民主主義者の男1人、そして「脂肪の塊」と綽名される娼婦が1人―。大雪で移動に時間を要し、腹が減った彼らは、娼婦が自分の弁当を一同に快く分け与えたおかげで飢えを凌ぐことが出来、一旦は、普段は軽蔑している彼女に親和的態度を見せる。しかし途中の町宿で、占領者であるプロシアの士官が娼婦との関係が持てるまでは彼らの出発を許可しないと言っていると知ると、愛国心ゆえ嫌がる娼婦を無理矢理説き伏せ,士官の相手をさせようとする。そして再び出発の時、皆のために泣く泣く士官の相手をした娼婦を迎えた彼らの態度は、汚れた女を見るように冷たく、娼婦は憤慨し悲嘆にくれる―。

Maupassant  Boule de suif.jpgBoule_de_Suif.jpg 1880年にギ・ド・モーパッサン(1850-1893)が30歳で発表した彼の出世作であり、馬車に乗り合わせた少数の人々が繰り広げるシンプルな出来事の中に、社会的偏見と人間のエゴイズムを凝縮させた、風刺文学の傑作と言えます(皮肉屋モーパッサンの面目躍如といった感じか)。

 それにしてもひどいね、このブルジョア達は。自分達が無事にフランス軍の所に行くことこそ愛国主義に適うことであるとして娼婦を説得したのに、娼婦の犠牲によって足止めが解かれた途端にその行為を「非愛国的」として非難しているわけで、これぐらい分かりやすい"身勝手"ぶりは無く、娼婦の立場を考えれば"残酷"と言っていいくらい(「民主主義者」(注:水野亮訳)のコルニュデのみ沈鬱な様子を見せているのが救いか)。

五木寛之00jpg.jpg 普仏戦争(1870‐71)の戦時下という状況設定ですが、そう言えば五木寛之氏のエッセイにも、五木氏自らが子供の頃に朝鮮で体験した、(占領側に女性を人身御供として差し出すという)同じようなエピソードがありました。但し、この作品のブルジョワ達が、ある種、閉ざされたグループ内での"ノリ"で行動しているように見える点は、わざわざ戦争や階級差別を持ちださなくとも、現代の学校のいじめ問題などにも通じるところがあって、怖いように思えました。

「絵のある」岩波文庫への招待.jpg 作品中、娼婦の呼び名は「ブール・ド・シュイフ(Boule de Suif)」で通されていますが、「脂肪の塊」というのは直訳であり、実際は「おデブちゃん」といったところでしょうか。以前、講談社文庫(新庄嘉章:訳『脂肪の塊・テリエ観』)で読んで、今回、岩波文庫の旧版(水野亮:訳・昭和32年改版版)で再読しましたが、岩波文庫は挿絵入りで、それを見ると、実際丸々太って描かれています。その他にも90ページそこそこの中に挿絵(1930年代のもの)が15点ぐらいあり、状況がイメージしやすくなっています(ブール・ド・シュイフが持っていた弁当がどのようなものであったかとかまで分かってしまう)。

 岩波文庫(の特に旧版)は挿絵が多くて楽しめるものが海外文学、日本文学ともに何点かあり、これもその1冊と言えるでしょう(新版にすべて移植されているとは限らないみたい。岩波文庫の新版『脂肪のかたまり』には挿画あり)。岩波文庫の挿絵に注目した坂崎重盛氏の『「絵のある」岩波文庫への招待』('11年/芸術新聞社)の表紙にも、この「ブール・ド・シュイフ」が中央やや右下に描かれています(文庫の挿絵と比べ反転しているが、表紙の絵は山本容子氏の版画)。

「絵のある」岩波文庫への招待
フランス映画 "Boule de suif" (1945)     ソ連映画 "Pyshka" (1934)
Boule de suif (1945).jpgPyshka (1934).jpg この作品は、旧ソ連(Pyshka (1934))とフランス(Boule de suif (1945))でそれぞれ映画化されていますが(ソ連版はミハイル・ロンム監督、ガリーナ・セルゲーエワ主演、フランス版はクリスチャン=ジャック監督、ミシュリーヌ・プレール主演)、何れも日本ではOyuki the Virgin 1935.jpgなかなか観られないようです(フランス版は輸入版DVD有り)。また、この作品をモチーフに舞台を日本に置き換えた溝口健二(1898-1956)監督の「マリアのお雪 (1935)」(出演:山田五十鈴(当時18歳))という作品もあります。

マリヤのお雪 1935.jpgマリアのお雪 (1935)title.jpg モーパッサンの「脂肪の塊」を川口松太郎(1899-1985)が翻案したもので、西南戦争のさなか、町を出るため名士を乗せた馬車には酌婦の山田五十鈴演じるお雪や原駒子演じるおきんたちも乗り合わせていたが、身分の卑しい彼女らと同席することを士族一家や豪商夫婦は嫌がり「けがらわしいから馬車から降りろ」となじる、そんな折、悪路のために馬車は転倒・大破して立ち往生、一行は身動きとれなくなって官軍により全員足止めを喰らい、そこでお雪が宥和策として官軍将校への人身御供的な立場に―とこの辺りまでは原作に近いですが、ここマリアのお雪 (1935).jpgからなんと、官軍の将校・朝倉晋吾(夏川大二郎)とお雪は惚れ合ってしまい、一方、お雪の代わりに自ら"人身御供"を申し出たおきんは女のメンツを潰された形に川口 松太郎.jpgなり、朝倉を憎みながらも実は彼女もまた朝倉に恋心を抱くという、恋愛・三角関係ドラマになっています。川口松太郎は第1回「直木賞」受賞作家ですが、「愛染かつら」の川口松太郎だから恋愛メロドラマになってしまうのでしょうか(因みに川口松太郎と溝口健二とは小学校時代の同級生で、川口松太郎は溝口監督の「雨月物語」('53年/大映)の脚本なども書いている)。
川口松太郎

駅馬車 dvd.jpg駅馬車 Stagecoach 1939 2.jpg 因みに、ジョン・フォード監督の「駅馬車」('39年/米)は、、1937年発表のアーネスト・ヘイコックスの短編小説「ローズバーグ行き駅馬車」(ハヤカワ文庫『駅馬車』/井上一夫訳)ですが、後にジョン・フォード監督は「この映画の発想源はギ・ド・モーパッサンの小説『脂肪の塊』だ」と語っています(主役のジョン・ウェインは当時ほとんど無名だった)。映画「駅馬車」の大まかなあらすじは、トント発ニューメキシコ州のローズバーグ行駅馬車に様々な身分の乗客が乗り合わせ、その中には婦人会から追い出された娼婦ダラス(クレア・トレヴァー)もいて他の乗客から蔑視される一方、途中から、父と兄を殺され敵討ちのため脱獄したリンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)が乗車し、駅馬車は最初の停車場に到着、ジェロ駅馬車 Stagecoach 03.jpgニモがアパッチ族を率いて襲撃に来ると言う情報があったため護衛の騎兵隊の到着を待つものの、騎兵隊は一向に姿を見せず、このままま進むかトントに戻るか乗客の間で合議した結果、このまま目的地ローズバーグへ進むこととなって、ローズバーグ近くまで襲撃に遭わずに来て、これで無事到着出来ると安堵した矢先、アパッチ族が放った一本の矢が乗客の胸に突き刺さる―というもの。以降、有名なアクションシーンが展開され、さらにリンゴ・キッドの敵討ちの話へと続きますが(このリンゴ・キッドにはジョニー・リンゴというモデルになった実在の人物がいて、3人の無法者に兄を殺され、たった3発の銃弾で兄の敵を討ったという逸話がある)、映画の前半から中盤部分は駅馬車の車内で展開される、差し詰め「移動舞台劇」といった感じでしょうか。その点で確かに「脂肪の塊」と似ています。

駅馬車 Stagecoach 1939 1.jpg 小説「脂肪の塊」での乗り合わせた乗客は、ワイン問屋を経営する夫妻、工場経営者の上流階級夫妻、伯爵とその夫人、二人の修道女と民主党員、それに娼婦エリザベート・ルーセの合わせて10人、一方の映画「駅馬車」の乗客は、当初、娼婦ダラスのほかに騎兵隊夫人、保安官、飲んだくれの医師、酒商人、賭博淀川長治 駅馬車.png屋の計6人で、途中、銀行の金を横領した銀行家が加わり、最後にリンゴ・キッドが乗り込むので合わせて8人ということになります。「脂肪の塊」より2人少ないですが、「脂肪の塊」の方は夫婦連れなども含まれていることから「6組10人」とも言え、「脂肪の塊」では、当時のフランスを象徴する階級を乗り合わさせ、「駅馬車」では当時のアメリカ西部を象徴する代表的な層を乗り合わさせていると言われていますが、「脂肪の塊」の方がブルジョア層の中で娼婦が孤立する図式が強いでしょうか。「駅馬車」は、淀川長治がユナイテッド・アーティスツ日本支社の宣伝部勤務になって最初に担当した作品であり、「駅馬車」という邦題を考えたのも淀川長治淀川長治2.jpgです(右の広告のデザインも淀川長治)。雑誌「キネマ旬報」発表の「映画人が選ぶオールタイムベスト100・外国映画編」で、1999年(キネ旬創刊80周年記念)第7位、2009年(キネ旬創刊90周年記念)第10位と高ランクを維持して日本でも評価されている一方、米国では、70年代ぐらいから騎兵隊 vs.インディアン的な映画はインディアン軽視だとされ制作されなくなり、この「駅馬車」もインディアンに対する差別的な描写があるとして上映・放送は難しくなっているそうです(傑作だけれどもポリティカル・コレクトネス上の問題があるということか)。

img1021マリヤのお雪.jpg山田五十鈴(当時18歳)

img1021マリヤのお雪 - コピー.jpgマリヤのお雪B4.jpgマリヤのお雪 yamadaisuzu.jpg「マリアのお雪」●制作年:1935年●監督:溝口健二●脚色:高島達之助●撮影:三木稔●音楽:高木孝一●原作:川口松太郎「乗合馬車」(原案:モーパッサン「脂肪の塊」)●時間:80分●出演:山田五十鈴/原駒子/夏川大二郎/中野英治/歌川絹枝/大泉慶治/根岸東一郎/滝沢静子/小泉嘉輔/鳥居正/芝田新/梅村蓉子●公開:1935/05●配給:松竹キネマ(評価:★★★)
        
       
駅馬車 Stagecoach 02.jpg「駅馬車」●原題:STAGECOACH●制作年:1939年●制作国:アメリカ●監督・製作:ジョン・フォード●脚本:ダドリー・ニコルズ●撮影:バート・グレノン/レイ・ビンガー●音楽:ボリス・モロース●原作:アーネスト・ヘイコックス「ローズバーグ行き駅馬車」●時間:99分●出演:ジョン・ウェイン/クレア・トレヴァー/トーマス・ミッチェル/ジョージ・バンクロフト/アンディ・ディバイン/ルイーズ・プラッ/ジョン・キャラダイン/ドナルド・ミーク/バートン・チャーチル/トム・タイラー/ティム・ホルト●日本公開:1940/06●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所:高田馬場パール座(82-12-28)(評価★★★★)●併映:「シェーン」(ジョージ・スティーブンス)

脂肪のかたまり_7834.JPG脂肪の塊・テリエ館.jpg【1938年文庫化・1957年改版[岩波文庫(『脂肪の塊』(水野亮:訳)]/1951年再文庫化[新潮文庫(『脂肪の塊・テリエ館』(青柳瑞穂:訳))]/1954年再文庫化[角川文庫(『脂肪の塊―他二編』(丸山熊雄:訳))]/1955年再文庫化[河出文庫(『脂肪の塊』( 田辺貞之助:訳))]/1971年再文庫化[講談社文庫(『脂肪の塊・テリエ館』(新庄嘉章:訳))]/2004年再文庫化[岩波文庫(『脂肪のかたまり』(高山 鉄男:訳)]/2016年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『脂肪の塊/ロンドリ姉妹―モーパッサン傑作選』(太田浩一:訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2971】 ジョゼ・サラマーゴ 『白の闇
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

よくまあ18歳でこんなの書いたなあという感じはする。新訳は朝吹訳のトーンを継承?

悲しみよこんにちは 新潮文庫.jpg 悲しみよこんにちは 新潮文庫 河野.jpg悲しみよこんにちは 映画0.bmp フランソワーズ・サガン 1.jpg
悲しみよこんにちは (新潮文庫)』(朝吹登水子:訳)『悲しみよこんにちは (新潮文庫)』(河野万里子:訳)/映画「悲しみよこんにちは」(1957)/Françoise Sagan (photographed above by Sabine Weiss, 1954)

悲しみよこんにちはbonjour-tristesse.jpg 主人公のセシルは、寡(やもめ)の父レーモンとコート・ダジュールの別荘で17歳の夏を過ごしていたが、その別荘に亡き母の友人のアンヌがやって来る。セシルも最初は聡明で美しいアンヌを慕うが、アンヌが父と結婚する気配を見せ始め、母親然としてセシルに勉強のことやボーイフレンドとのことを厳しく言い始めると、父との気楽な生活が続かなくなり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念から、彼女はアンヌに反感を抱くようになる。やがて彼女は父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつく―。

 フランソワーズ・サガン(1935-2004)が1954年、18歳で発表したデビュー作で、父親と聡明で魅力的な女性との再婚を、父の愛人と自分の恋人を使って妨害し、最後はその相手の女性を死に追いやってしまうという、何だか陰湿な話であるようにも思えますが、ドロドロした恋愛小説と言うより、しゃれた青春小説のように読めた印象があります。

 新潮文庫の朝吹登水子(1917‐2005)の名訳で知られますが、2009年に河野万里子氏(1959- )の新訳が新潮文庫に加わり、これを読むと確かに現代的で読み易く、やはり朝吹訳はやや古風な感じがすることは否めないものの、それでも45年もの時間差はあまり感じられず、それだけ朝吹訳が当時としては"今風"にこなれていたということでしょうか(河野訳自体が朝吹訳のトーンを意識して継承しているようにも思えた)。

 今回読み直してみて、よくまあ18歳でこんなの書けるなあと改めて感心しました。大人の世界の出来事が子供から大人になりかけている少女に与える影響を描いているわけですが、大人たちの心理の内面には直接踏み込んでいないのが成功している理由かも。それにしても、18歳にして17歳の少女をここまで対象化して描いているのはやはり並の資質ではなかった...。

悲しみよこんにちは 映画 1957.jpg悲しみよこんにちは ちらし.jpg サスペンスフルであるとも言えるストーリーは、オットー・プレミンジャー監督の「天使の顔」(' 52年/仏)と似ているという話がありますが、そのオットー・プレミンジャー監督によって1957年にアメリカ映画化されています。
 映画は、現在の部分がモノクロで回想部分がカラーという作りなっていますが、南仏ニースの風景がたいん美しい(まるで観光映画)。監督が見出した新人ジーン・セバーグが主演、映画もヒットし、"セシルカット"と呼ばれるボーイッシュな髪形が流行したりもしました(その後ゴダール作品などで活躍したJ・セバーグだったが、1979年に自殺とみられる死を遂げている)。

「悲しみよこんにちは」1976年リバイバル公開時チラシ
Bonjour Tristesse [VHS] [Import]

ミレーヌ・ドモンジョ.jpg 映画では、恋多き父親をデイヴィッド・ニーヴン(戦争映画などとは違ったいい味出している。1983年に筋萎縮性側索硬化症で亡くなった)、前の愛人をミレーヌ・ドモンジョ(右写真:アメリカ映画にはこれが初出演)、新しい恋人をデボラ・カー(物語の結末上、個人的には、1982年にコート・ダジュールで自動車事故死したグレイス・ケリーと何となくダブる)が演じていますが、う~ん、役者は皆いいのですが、何となく原作悲しみよこんにちは r.jpgの雰囲気と違うような...(フランソワ・トリュフォーは、「映画がサガンを裏切っているかどうかなんて問題じゃない。プレミンジャーやセバーグにサガンが値するかどうかが問題なのだ」として、一方的に映画の方の肩を持っているが)。
デビッド・ニーブン/ミレーヌ・ドモンジョ/ジーン・セバーグ/デボラ・カー

フランソワーズ・サガン 2.jpg サガン自身はその後も佳作を産み出すものの、セレブとのパーティ三昧、生死を彷徨うスポーツカー事故、ドラッグ所持での有罪判決、ミッテラン元大統領との親密な交際、晩年の貧困の原因となったギャンブル等々、むしろゴシップ・メーカーとして目立った存在でした。

 そのサガンの人生を描いた「サガン―悲しみよこんにちは」('08年/仏)がディアーヌ・キュリス監督によって撮られ、個人的には観ていませんが、主演のシルヴィー・テステューは、サガンに雰囲気が似ていると評判のようです。

映画「悲しみよこんにちは」(1957)より
悲しみよこんにちは 映画10.bmp悲しみよこんにちは 映画3.jpg悲しみよこんにちは 映画4.jpg悲しみよこんにちは 映画5.jpg悲しみよこんにちは 映画6.jpg悲しみよこんにちは 映画7.jpg悲しみよこんにちは 映画8.jpg悲しみよこんにちは 映画2.jpg悲しみよこんにちは 映画1.jpg

悲しみよこんにちは 海外版ポスター.jpg悲しみよこんにちは 映画 1957 dvd.jpg「悲しみよこんにちは」●原題:BONJOUR TRISTESSE●制作年:1957年●制作国:アメリカ●監督・製作:オットー・プレミンジャー●脚本:アーサー・ローレンツ●撮影:ジョルジュ・ペリナール●音楽:ジョルジュ・オーリック●原作:フランソワーズ・サガン●時間:90分●出演:デボラ・カー/デイヴィッド・ニーヴン/ジーン・セバーグ/ミレーヌ・ドモンジョ/ジェフリー・ホーン/ジュリエット・グレコ/ワルター・キアーリ/ジーン・ケント●日本公開:1958/04●配給:コロムビア●最初に観た場所:有楽町・スバル座(80-06-06)(評価:★★★)●併映:「シベールの日曜日」(セルジュ・ブールギニョン)悲しみよこんにちは [DVD]

サガン 悲しみよこんにちは.jpg 「サガン―悲しみよこんにちは」(2008)

【2008年再文庫化(新潮文庫)】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1486】 サガン 『悲しみよこんにちは
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●あ行外国映画の監督」の インデックッスへ 「●外国のアニメーション映画」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

「外套・鼻」ともに先駆的。「外套」はロシアでは映画やアニメに。「鼻」もアニメやオペラに。

外套・鼻 岩波文庫.gif外套 岩波文庫 2.jpg 外套 ポスター.png 外套 バターロフ 1シーン.jpg アレクセイエフ 鼻.jpg 
外套・鼻 (岩波文庫)』/ソ連映画アレクセイ・バターロフ「外套」チラシ・1シーン/アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」

 下級官吏アカーキイ・アカーキエヴィッチ・バシマチキンは、出世栄達に無関係の世界で、周囲から蔑まれながらも役所仕事(文書の清書)に精を出す男で、傍から見れば冴えないその服装や外見も自身は気にとめていない。そんな彼がある日、着古した外套を新調せざるを得なくなり、最初は面倒に思った彼だったが、一念発起して新しい外套を手に入れた時からその人生観は変わり、それまで関心のなかった役所以外のニコラーイ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリ(Nikolai Gogol).jpg世界も、外套と同様にきらきら輝いたものに見えてきたのだった。ところがその矢先―。

 「外套」はニコライ・ゴーゴリ(1809- 1852)の中編小説で、1840年に書かれ1842年に発表された作品。ある種"怪奇譚"でもあるこの作品の結末を知る人は多いと思います。

ニコラーイ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリ(Nikolai Gogol)

 うだつの上がらない九等書記官を主人公に、疎外された人間の哀しみをペーソスたっぷりに、時にユーモアと怪奇を交えて描いていますが、やはり、それまで貴族社会を舞台にした小説が多かったロシアで、既存の小説の主人公のイメージとは程遠い、平々凡々たる下級官吏を主人公に据えたところが画期的だと思います(官吏を主人公とした作品としては、先行して同じ作者が1934年に発表した「狂人日記」があるが)。

●官吏を主人公とした作品
・ゴーゴリ「狂人日記」[1834年発表]主人公:アクセンチイ・ イワーノヴィッチ・ ポプリシチン(九等官)
・ゴーゴリ「外套」[1842年発表]主人公:アカーキイ・アカーキエウィッチ(九等官)
・ゴーゴリ「鼻」[1846年発表]主人公:コワリョーフ(八等官)
・ドストエフスキー「貧しき人びと」[1846年発表]主人公:マカール・ジェーヴシキン(九等官)
・ドストエフスキー「二重人格(分身)」[1846年発表]主人公:ゴリャートキン(九等官)
・トルストイ「イワン・イリッチの死」[1846年発表]主人公:イワン・イリッチ(九等官)

 ドストエフスキーがこの作品に大きな影響を受けたとされており、処女作「貧しき人々」の発表は1846年、主人公のマカールは同じく九等書記官の小役人ですが、「外套」発表時、ドストエフスキーは既に「貧しき人々」に着手しており、「貧しき人々」の直後に発表した「二重人格」(「分身」)の方が、より強くゴーゴリの「外套」の影響を受けているように思えます(「二重人格」の主人公は九等文官、人間疎外から狂気に陥る)。

 また、トルストイも影響を受けているように思います。黒澤明監督が映画「生きる」の着想を得たとされている「イワン・イリッチの死」の主人公は、比較的裕福な出自のロシアの裁判官で、順調に出世していた中で突然の病に臥すという、設定はやや異なりますが、アカーキイと同じく公務員であることには違いありません。

 この「イワン・イリッチ」という名前は、「イワン・イリイチ」と呼ぶのが原語の発音に近いらしく(光文社古典新訳文庫の望月哲男氏の訳はそうなっている)、韻を踏んでいるのは役人のルーティン・ワークを象徴しているとされていますが、ならば、同じようなことを先にやったのは、この作品の主人公に「アカーキイ・アカーキエヴィッチ」と名付けたゴーゴリではなかったかと思われます。

 併録の「鼻」(1833年から1835年にかけて執筆されて1836年に発表)のシュール且つナンセンスな感覚も面白く、今で言えば安部公房(「壁―S・カルマ氏の犯罪」など)や筒井康隆がやっていたようなことを、150年も前にやってしまっているというのは、考えてみればスゴイことかも。

外套 輸入盤dvd.jpg外套 02.png 「外套」の方は、本国で何度か映画化されていて、「小犬を連れた貴婦人」('59年/ソ連)に俳優として出演していたアレクセイ・バターロフ(1928年生まれ)監督の作品('60年/ソ連)を観ましたが、原作に沿ってきっちり作られていて、作品全体としては悪くない出来だと思いました。但し、一方で、バシマチキン(アカーキイ)の人物造型はやや"戯画的"に描かれ過ぎていてるようにも思いました(一番劇画チックなのは、彼が幽霊になってからだが)。

「外套」輸入盤DVD

外套01.jpg まあ、原作がそもそも"戯画的"な性格を持っているというのはあるのですが、ペーソスより滑稽と怪奇の方が勝ち過ぎている気もしました。主演のロラン・ブイコフの演技の評価は高[外套.jpgいですが、「名演技」であることには違いないですが、個人的印象としては「怪演」であるとも言えるように思います。ベタなウェット感を拭い去ることによって、最終的には逆にペーソスを引き出そうというのが狙いだったのかもしれませんが。

「外套」(実写版)●原題:Шинель(SHINELI)●制作年:1959年(公開:1960年)●制作国:ソ連●監督:アレクセイ・バターロフ●脚本:L・ソロヴィヨフ●撮影:ゲンリフ・マランジャン●音楽:ニコライ・シレリニコフ●原作:ニコライ・ゴーゴリ「外套」●時間:75分●出演:ロラン・ブイコフ/ユーリー・トルベーエフ/A・エジキナ●日本公開:1974/03●配給:日本海映画●最初に観た場所:池袋・文芸坐 (79-11-14)(評価:★★★☆)●併映:「開かれた処女地」(アレクサンドル・イワノフ)

外套(制作中)2.jpg外套(制作中)1.jpg外套 ノルシュテイン 作業風景.jpg この作品はまた、「霧の中のハリネズミ」「話の話」などで知られ、アレクセイ・バターロフとも親交のあるアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン(Yuriy Norshteyn、1941年生まれ)によってアニメ化もされています。
外套 ノルシュテイン 原画展ポスター 2009年10月 .jpg ユーリー・ノルシュテインは「老人と海」のアニメーションでアカデミー賞を受賞したアレクサンドル・ペトロフ(Alexander Petrov 、1957年生まれ)とは師弟関係にあり、気が遠くなるような手作業で原画を描くことで両者は共通しています(「外套」は30年かけて未だ制作中!)。

 ユーリー・ノルシュテインのアニメ「外套 (YouTube)」もアレクサンドル・ペトロフのアニメ「老人の海 (YouTube)」も共にウェブで視聴可能です。ノルシュテインの「外套」は出来上がっているところまでですが、日本語字幕がついています。アカーキイが文書を清書するところを、書いている文字まで丹念に描いており、これを手作りでやっていれば確かに時間がかかるのも無理ないと思います(他の作品の制作の合間をぬっての作業のようであるし)。

ユーリー・ノルシュテイン「外套」原画展ポスター(2009年10月)

アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」(ゴーリキー原作).jpg 「鼻」の方は、「禿山の一夜」「展覧会の絵」で知られるアニメーション界の巨人アレクサンドル・アレクセイエフ(Alexandre Alexeieff、1901-1982)が短編アニメ映画化していて(「鼻」(1963))、この人の作品はピンスクリーンという手法で知られています(これまた、ボードに立てた「25万本の針」を出したり引っ込めたりして光を当てながら1コマ1コマ撮っていくという、気の遠くなるような時間のかかかる技法)。このアレクセイエフの「鼻」もウェブで視聴可能、音楽のみでセリフは無く、最後はややブラックなオチになっています。

 アレクサンドル・アレクセイエフは17歳でロシアを離れ、二度と戻ることがなかったロシアに対する憧憬や情念を抱えながらアメリカやフランスで制作活動を続けた人で、実際、制作した作品のうち3作品がムソルグスキーの音楽を題材にしたものであり、1作品がゴーゴリの小説を題材にしたこの作品となっています。この作品はまず、メトロノームの速度に合わせて映像を制作し、次に、映像に合うように音楽を制作したそうで、冒頭の太陽の光の変化により時間の流れを表現したり、空間や場面が変化していく様子など、ピンスクリーンでなければ描けない、独特のシュールな映像世界を作り上げています。

アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」(ゴーリキー原作)2.jpgアレクサンドル・アレクセイエフ作品集.jpg鼻 アニメ アレクセイエフ2.jpg「鼻」(アニメ版)●原題:Le Nez (The Nose)●制作年:1963年●制作国:フランス●監督:アレクサンドル・アレクセイエフ●共同監督:クレア・パーカー●原作:ニコライ・ゴーゴリ「鼻」●時間:11分●DVD発売:2006/03●発売元:ジェネオン エンタテインメント(評価:★★★★)
ニュー・アニメーション・アニメーションシリーズ アレクサンドル・アレクセイエフ作品集 [DVD]
(33年制作「禿山の一夜」、63年制作「鼻」、72年制作「展覧会の絵」ほか全5編)

 実写版でも映画化されているのかなあ。教会で"鼻"が何食わぬ様子でお祈りしていたり、その鼻に向かって持主が自分の顔に戻るよう説得するというぶっ飛んだ場面などは(アレクセイエフのアニメは、その時ですら主人公が鼻の無い顔を隠しているのが可笑しい)、少なくとも実写では無理だと思うけれど...と思っていたら、ショスタコーヴィチが作曲家自身及びエヴゲーニイ・ザミャーチン、ゲオルギー・イヨーニン、アレクサンドル・プレイスの台本でオペラにしていることを知りました(タイトルはそのものずばり「鼻」)。これまでにロシアやヨーロッパのオペラハウスでは何度も上演されているようです(初演は1930年1月18日、レニングラード、マールイ劇場) 。

オペラ「鼻」(チューリッヒ歌劇場の公式サイトより)
ショスタコーヴィチのオペラ「鼻」2.jpg オペラ「鼻」.jpg

外套・鼻 岩波 .jpg外套・鼻 (講談社文芸文庫).jpg外套・鼻 (講談社文芸文庫)
(「外套」「鼻」「狂人日記」「ヴィイ」)

【1933年文庫化[岩波文庫(『外套―他二篇』)]/1938年再文庫化・1965年・2006年改版[岩波文庫(平井肇:訳)]/1999年再文庫化[講談社文芸文庫(吉川宏人:訳)]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『鼻/外套/検察官』浦雅春:訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【659】ミハエル・ショーロホフ 『人間の運命
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法がシュルレアリズムだったということか。

ユビュ王1.jpg       アルフレッド・ジャリ 戯曲ユビュ王.jpg  ユビュ王.jpg  アルフレッド・ジャリ.jpg Alfred Jarry
ユビュ王―Comic』('98年/青土社)/『ユビュ王―戯曲 (1965年)』/『ユビュ王 (1970年)

ubu.gif ユビュ親父はユビュおっ母に唆され、ボルデュール大尉と結託し王を暗殺、王冠を手に入れたユビュ親父は、貴族たちを次々と処刑して、桁外れな税金を徴収し、ボルデュール大尉を投獄するが、ボルデュールは脱獄、亡き王の従兄ロシア皇帝と共に、ブーグルラス王子(王家の生き残り)即位のために挙兵する。すぐさまユビュ親父も兵を挙げ戦場へ向かった思いきや、一人そそくさと戦場から逃げ出し、洞窟へ逃れる。ユビュおっ母も後を追って洞窟へ。そこへ兵を連れたブーグルラスが襲いかかり、ユビュ親父は、また逃げていく―。
King Ubu by Alfred Jarry, Marionetteatern 1964 Direction: Michael Meschke(Germany)

 1896年12月にパリ「制作座」で初演された、アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873-1907/享年34)の戯曲で(原題:Ubu-Roi)、もともとは政治劇などによく見られる人形劇だったとのことですが、「制作座」では人間(ちゃんとした役者)が演じて、観客の間にも批評家の間にも混乱と賛否両論の渦を引き起こしたとのことです(その後も今に至るまで、役者が着ぐるみを着て演技するパターンが続いている)。

悪魔の涎・追い求める男.jpgユビュ王2.jpg 個人的には、最近読んで面白かったアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914-1984)が、最も影響を受けた作家がジャリであるとのことで、久しぶりの再読(但し、今回はコミック版)。 
 最初に読んだのは学生時代で、竹内健訳の現代思潮社版('65年初版、'70年新装版、2013年改版)、'70年版の装丁は赤瀬川原平氏。ジャリ自身の描いたイラストもありましたが、本書は、フランツィシュカ・テマソン(1907-1988)という、生涯にわたってこの作品に関わり続けた英国の女流画家によるコミック版です。ちょっとピカソ風の画風で(ピカソ自身もこの戯曲をモチーフとしたイラストを残している)、この戯曲のシュールな雰囲気をよく伝えています。

 この作品のラストシーンは、船の甲板の上で、そこには、次の目的地へ向かうユビュ夫妻とその一味の姿があり、「もしもポーランドがなければポーランド人があるまい!」というユビュ親父の言葉に象徴されるように、アナーキズムが作品の根底にあるわけですが、20世紀になってアンドレ・ブルトン(1896-1966)らによって再評価されたように、シュルレアリズムの先駆と看做されている面の方が強いのではないでしょうか。

 コミック版の訳者・宮川明子氏による解説は、こうした経緯並びにジャリの生涯について詳しく書かれていて、ジャリ自身が自らをユビュ親父と(裏返し的に)同一視していたことが(又は、そう振舞っていたことが)わかり、興味深いものでした。

ジャリ.jpg ジャリは、自然と自転車とフェンシングを愛した野生児であったものの、貧困とアルコール中毒のため34歳で亡くなっていますが、宮川氏の解説では、後段はジャリ自身のことを「ユビュ親父」と呼んでいます。

 この作品そのものは、ストーリーは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純、ユビュ親父やユビュおっ母の奇怪な行動と、合間に挿入される強烈にギャク的な台詞などから、ドタバタ劇という印象を受けなくもありません。

 最近の上演に関しては、役者が観客席に入り込み、効果音のための小道具を配ったり、ユビュ王が貴族を放逐する場面では、観客を場外へ追い出したりして(そこで休憩になる)、「ロッキー・ホラー・ショー」的な、観客参加型の演劇として上演されているようです。

 もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法が(後世に言うところの)シュルレアリズムだったということなのでしょうが、う~ん、シュルレアリズムって解らない、解らないからシュルレアリズムなのか。 

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【666】 ジョルジュ・ベルナノス 『少女ムーシェット
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ  「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ 「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●TV-M (その他)」の インデックッスへ

裕福な家庭の人々の「罪」を暴いた「警部」は、「超自然の存在」という解釈が妥当では。

夜の来訪者 1952.jpg夜の訪問者 三笠書房.jpg夜の来訪者.jpg An Inspector Calls (2015/09 BBC).jpg
夜の来訪者 (岩波文庫)』['07年]「夜の来訪者」('15年/2015/09 BBC)デヴィッド・シューリス主演
夜の来訪者 (1952年)
夜の来訪者 (1955年) (三笠新書)』「夜の来訪者」('54年製作・'55年公開/ガイ・ハミルトン監督)
夜の来訪者 (1955年) (三笠新書)_.jpg夜の訪問者 映画.jpg 裕福な実業家の家庭で、娘の婚約を祝う晩餐会の夜に警部を名乗る男が訪れて、ある貧しく若い女性が自殺したことを告げ、その家の人々(主人夫妻、娘、息子、娘の婚約者)全員が自殺した女性との接点を持っており、彼女に少なからず打撃を与えたことを暴いていく―。
John Boynton Priestley
John Boynton Priestley.jpg 1946年10月初演の、英国のジャーナリスト・小説家・劇作家・批評家ジョン・ボイントン・プリーストリー(John Boynton Priestley "J. B." Priestley、1894-1984)の戯曲で(原題は"An Inspector Calls")、文庫で160ページほどであるうえに、安藤貞雄氏の新訳であり、たいへん読みやすかったです。初訳は1952年の内村直也訳の三笠書房版で、1951年10月の俳優座による三越劇場での日本初演(警部役は東野英治郎(1907‐94)に合わせて訳出されました(古本市場で入手可能)。

I夜の来訪者」.jpg 娘の死に自分たちは関与していないという実業家の家族たちの言い分を、「警部」が1人1人論破していく様は実に手際よく、娘や息子が自らの「罪」が招いた悲劇であることを認めたのに対し、それでも抗う主人夫婦などに、上流(中産)階級のエゴイズムや傲慢、他罰的な姿勢が窺えるのが興味深いです(最初は自罰的な態度をとっていた娘が、親に対して今度は他罰的な態度をとり始めるのも、やや皮肉っぽくもとれ、作者は家族ひっくるめて、風刺の俎上に上げているのでは)。

 作品の時代背景は1912年ということですが、人間心理を突いた文学的作品であると同時に、1946年の英国にまだ残る旧社会的な考え方を照射した、社会批評的な要素もあるのではないかと思います。プリーストリーは当時、「左翼的ジャーナリスト」と見做されていたようだし、キリスト教精神の影響もみられるようです。

 但し、このお話、それだけで終わるのではなく、終盤、大いなる「謎」が家族の間に生じる―つまり、家族の団欒を台無しにして帰っていったあの訪問者は、本当に警部だったのかという...。

 その疑念に自分らなりの解釈を加えて、また一喜一憂する実業家夫婦。そして、何も無かったことにしようといった雰囲気になる中、ラストにシュールな「どんでん返し」―と、結末までの持って行き方が鮮やかで、「推理劇」ではありませんが(どこかで「推理小説」のジャンルに入っていたのを見た記憶があるが)確かにスリラー的な楽しみがあり、最後には読者(観客)に対しても、大いなる「謎(ミステリ)」を残しています(作品自体は、"サスペンス"とでも言うべきものか)。

夜の来訪者 演劇.jpg その「謎」、つまり「警部」とは何者だったのかについては、2度の映画化作品での描かれ方においても、「超自然の存在」という解釈と、"予知夢"などで「先に事件を知った別の人間」という解釈とに分かれているそうですが、やはり男の存在自体を「超自然の存在」とみるのが妥当だろうなあ。

 ガイ・ハミルトン監督による映画化作品('57年)はそのような解釈らしいけれど、シス・カンパニーの舞台版(演出:段田安則)はどう扱ったのかなあ(解釈抜きでも演劇としては成立するが...)。

シス・カンパニー公演「夜の来訪者」 2009年2月14日~3月15日 新宿 紀伊國屋ホール
出演・演出:段田安則/出演:高橋克実、渡辺えり、八嶋智人、岡本健一、坂井真紀、梅沢昌代

BBCドラマ「夜の来訪者」.jpg(●2015年制作の英BBC版(本国放映'15年9月)が、'16年7月にAXNミステリーで放映され、DVDは輸入盤しかなかったが、'20年にアマゾンのPrime Videoで字幕版がリリースされた。グール役は「ハリー・ポッター」シリーズでルーピン教授BBCドラマ「夜の来訪者」1.jpg(狼人間)役を演じたデヴィッド・シューリス、母親役は同じく「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」('05年)でのフリーライターのスキーター役や「オペラ座の怪人」('04年)のマダム・ジリー役を演じたミランダ・リチャードソンで、そのほか、「ホビット」シリーズのケン・ ストット、TVシリーズ「ポルダーク」のカイル・ソラーなどキャストは豪華。室内劇だが、オリジナルが戯曲なので違和感がなく、俳優陣も演技力があり、原作の持ち味がよく出ていたように思った。)

BBCドラマ「夜の来訪者」3.jpgBBCドラマ「夜の来訪者」2.jpg「夜の来訪者」●原題:AN INSPECTOR CALLS●制作年:2015●制作国:イギリス●監督:アシュリング・ウォルシュ●製作:ジャクリーン・デービス●脚本:ジョン・B・プリーストリー/ヘレン・エドムンドソン●音楽ドミニク・シェラー●時間:87分●原作:ジョン・B・プリーストリー「夜の来訪者」●出演:ソフィー・ランドル/ルーシー・チャペル/ミランダ・リチャードソン/ケン・ストット/フィン・コール/クロエ・ピリー/カイル・ソラー/デヴィッド・シューリス/ゲイリー・デイヴィス●日本放送:2016/07●放送局:AXNミステリー(評価:★★★★)

 【1952年文庫化[三笠文庫]/1955年新書化[三笠新書]/2007年再文庫化[岩波文庫]】

《読書MEMO》
劇団かに座第105回公演「夜の来訪者」 2012年11月16日 関内ホール・小ホール

「●ま行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2086】ジョン・マクティアナン「ダイ・ハード
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

原作の絵解き? 27歳にして大女優の風格のジョーン・クロフォード。

雨 マイルストン.jpg雨 1932.jpg Lewis Milestone rain.jpg 雨.jpg
雨 [DVD]」『雨―他一篇 (1958年) (角川文庫)』ジョーン・クロフォード/ウォルター・ヒューストン

雨 マイルストンの1シーン.jpg 南洋・サモアの島を舞台に、魔窟を流れ歩く娼婦サディ・トンプソンと、彼女を宗教的救いの世界に導こうとする宣教師デヴィッドソンの確執を描いた英国の作家ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham 1874‐1965)の中篇を、米国のルイス・マイルストン(Lewis Milestone 1895‐1980)が監督した作品(原題:Rain)。

雨 1932   .jpg 原作は1921年刊行(モーム47歳)の短編集『木の葉の戦(そよ)ぎ』(The Trembling of a Leaf)に収められていた中篇小説ですが、『人間の絆』(41歳)、『月と六ペンス』(45歳)と、彼が最も脂が乗っていていた頃の作品で、しかも、短編小説では世界最高峰級と言われたモームの中短編小説の中でも代表作と言われているものです(個人的には、長編小説(『人間の絆』など)も"世界最高峰級"だと思うが)。

 娼婦の改心に成功したかに見えた宣教師は、最後は海辺で喉を掻き切られた遺体で(剃刀を握ったまま)発見され、娼婦は一夜にして元の淫蕩な生活に戻ってしまい、男は皆、薄汚い豚だ!と罵詈雑言を吐いているところで話は終わるのですが、この小説には作者が説明をしていない謎があるとされていて、1つは、宣教師は何故死んだのか(自殺か他殺か)ということであり、もう1つは、彼が自らの邪念に負けて娼婦に手を出したのか、娼婦が積極的に彼を誘ったのかという点のようです。しかし、小説の流れからすれば答えは明らかであるような気もし、映画は、その答えを更に判り易いかたちで見せているように思います(事件当夜の宣教師の演技シーンは、やや過剰演出?)。

Joan Crawford
ジョーン・クロフォード.jpg 宣教師役のウォルター・ヒューストンの常にチン・アップして喋る演技は、確かに原作テーマに沿ってアイロニーが効いているように思えましたが(宣教師と言うよりナチの将校にも見える)、 そのワンパターン的演技よりも、娼婦役のジョーン・クロフォードの、めまぐるしく変容する主人公の心理を表す多彩な演技が素晴しく(一度は心底改心したように見え、それだけにラストの衝撃が大きい)、27歳にして大女優の風格を漂わせています。

 人生に倦んだ娼婦役ということもあってか、この映画ではパッと見てそんな美人に見えないんですが(1938年の映画なりに昔風の美人?)、その演技を見ているうち、非常に魅力的で且つ現代的な女性の見えてくるというのが不思議で、最後の原作には無い"Let's Go!"という台詞も、その生きる逞しさの発露と看做せば、原作のテーマからも外れていないかも。

淀川長治究極の映画ベスト100_1.jpg 『淀川長治究極の映画ベスト100』('03年/河出文庫)によれば、ジョーン・クロフォードは「グランド・ホテル」('32年/米)で共演したグレタ・ガグランド・ホテル dvd ivc.jpgルボに馬鹿にされて怒ってしまい、ハリウッドの第一級プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに泣きついて、生涯最高の作品に出演させて欲しいと頼み込み、そこでゴールドウィンはこの映画の娼婦の役を与えたとのこと。淀川氏もこの作品を彼女の代表作であるとともに名作であると太鼓判を押しています。

淀川長治 究極の映画ベスト100 (河出文庫)

 映画シーンの随所において鬱陶しく降り続ける雨や、娼婦の部屋から流れるジャズ音楽などが、南洋の島の特異な雰囲気を醸すうえで効果的に使われていて、"過剰演出"が無ければより良かったと思うのですが、ルイス・マイルストンはモームの原作の"絵解き"を目指したのかなあ。

「雨に濡れた欲情」21.jpg「雨に濡れた欲情」.jpg '53年に「雨に濡れた欲情」(原題:Miss Sadie Thompson)としてリタ・ヘイワース主演でリメイクされています(日本公開は'54年)。DVD版の「雨の欲情」というタイトルは、リバイバル上映された際に、リメイク版の邦題に影響を受けてつけたタイトルなのだろうか。因みに、この原作は、無声映画時港の女.jpg代に、グロリア・スワンソン主演で「港の女」(原題:Sadie Thompson)として最初に映画化されていますが、個人的には未見です。

雨に濡れた欲情 [DVD]

雨の欲情.jpg「雨」(「雨の欲情」)●原題:RAIN●制作年:1932年●制作国:アメリカ●監督・製作:ルイス・マイルストン●脚本:ウィリアム・サマセット・モーム/ジョン・コルトン/クレメンス・ランドルフ/マクスウェル・アンダーソン●撮影:オリヴァー・T・マーシュ●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:ウィリアム・サマセット・モーム「雨」●時間:94分●出演:ジョーン・クロフォード/ウォルター・ヒューストン/ウィリアム・ガーガン/ガイ・キビー/ウォルター・キャトレット/ボーラ・ボンディ●日本公開:1933/09●配給:ユナイテッド・アーティスツ(評価:★★★☆)

雨・赤毛 モーム短篇集(I) (新潮文庫).jpg【1940年文庫化[岩波文庫(中野好夫訳『雨: 他二篇』)]/1951年再文庫化[三笠文庫(中野好夫訳『雨』)]/1958年再文庫化[角川文庫(西村孝次訳『雨』)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳『雨・赤毛―モーム短篇集(I)』)]/1962年再文庫化[岩波文庫(朱牟田夏雄 訳『雨・赤毛 他一篇』)]/1978年再文庫化[講談社文庫(北川悌二訳『雨・赤毛』)])]】

雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【667】 ヘンリー・ミラー 『北回帰線
○ノーベル文学賞受賞者(ソール・ベロー) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

主人公よりも詐欺師の"タムキン博士"と父親の"アドラー博士"が印象に残った。

『この日をつかめ』.JPGこの日をつかめ.jpg Seize the Day2.jpg SeizeTheDay.jpg Saul Bellow.jpg
この日をつかめ (新潮文庫)』['71年]/First edition cover (1956) / Saul Bellow(1915-2005/享年89)

Seize the Day Saul Bellow1.jpgSeize the Day Saul Bellow3.jpgSeize the Day Saul Bellow2.jpgSeize the Day Saul Bellow4.jpg  44歳になるトミー・ウィルヘルムは、かつて役者志望の道を絶たれ、今は職も無く妻子とも別れ、名士の父親と同じホテルで生活しているが、部屋代の支払いにも窮し、投資につぎ込んだなけなしの金もどうなるかわからない―。

 1956年に米国の作家ソール・ベロー(Saul Bellow、1976年にノーベル文学賞受賞)が発表した小説で、主人公の危機的な一日を追いながら、人間存在の意味を問うた作品(原題は"Seize the Day")。1986年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化されていますが("SEIZE THE DAY")、「ミッドナイト・ニューヨーカー」という邦題がありながらも本邦未公開です。

 やることなすこと全て裏目に出て踏んだり蹴ったりの主人公ですが、やっぱり中年で自活出来ないというのは、経済生活面だけでなく、精神面でキツイなあと思いつつも、あまり主人公に同情心が沸かないのは何故?

 社会(俗世間)からの疎外を感じる主人公が、最後には、「この日をつかめ」という言葉をキーワードに、過去に捉われることなく、また、未来に不安を抱くことなく、"今を生きる"ことの大切さを悟るのですが、ついつい、明日は大丈夫なの?と思ってしまうのは、自分が俗っぽいからでしょうか。

 主人公のラード等への投資を仲介する"タムキン博士"という人物が大変印象に残り、「この日をつかめ」も彼の言葉なのですが、彼は実は詐欺師であり(読者にはかなり早い段階でそれがわかると思うが、主人公は疑念を抱きながらも彼に振り回される)、いかにも資本主義社会に徘徊していそうなクセモノ。彼の言う「この日をつかめ」は"投機"上の意味合いなのですが、主人公は詐欺師の言葉から哲学を引き出し(確かにこの詐欺師は哲学者っぽい弁を垂れる)、一方で、現実面では結局のところ、この詐欺師になけなしの金を持っていかれたということか。

河合隼雄s.jpg 主人公の父親の"アドラー博士"というのも、息子を世の中の敗北者と決めつけ、全く構ってやらないという、ちょっと日本にはいないタイプの父親で、志賀直哉の父親との間での葛藤などとも違って、こちらは「和解」の余地すら無い。河合隼雄氏が、父性原理は「よい子だけがわが子」という規範で、母性原理は「わが子はすべてよい子」という規範であり、欧米は父原理の社会であり、日本は母性原理の社会であると言っていたのを思い出しました。

 この物語の父親はまさに欧米型の父性原理の具現化像であり、また同時に俗世間の代表格であるけども、アーサー・ミラー『セールスマンの死』に出てくる、アメリカンドリームを子供に託す期待過剰の父親とも全然違って、その個人主義は凄まじく、息子さえも早めに見切った後には(見込んでいた頃の描写は出てこないが)他人レベルと変わらない「一個人」に過ぎなくなってしまっているいう感じでしょうか(ユダヤ系ということも関係しているのか?)。

 小説として今一つ感動は出来なかったですが、"タムキン博士"と"アドラー博士"は印象に残りました(主人公よりも)。

 【1971年文庫化・1993年改版[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫(『その日をつかめ』)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1071】 アルベール・カミュ 『異邦人
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●む 村上 春樹」の インデックッスへ 「●あ行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「●ヘンリー・マンシーニ音楽作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

原作は、マリリン・モンローと自分自身を念頭に置いて描いているように思える。

ティファニーで朝食を.jpg ティファニーで朝食を 文庫.jpg  ティファニーで朝食を パンフレット.jpg
ティファニーで朝食を』['08年]/『ティファニーで朝食を (新潮文庫)』['08年]/Breakfast at Tiffany's(1961) - Moon River
First edition cover (1958)
Breakfast at Tiffany's 1958.jpgティファニーで朝食を(カポーティ).jpg 1958年春に出版された米国の作家トルーマン・カポーティ(Truman Capote, 1924-1984/享年59)の34歳の時の作品(原題は"Breakfast at Tiffany's")ですが、村上春樹氏の翻訳は新潮文庫旧版('68年)の龍口直太郎訳と比べるとかなり読みやすいのではないかと思いました。

 カポーティが小説家として一番ピークにあった頃の作品であるというのがよくわかり、駆け出し作家である「僕」が、捉えどころの無い奔放さを持ったホリー・ゴライトリーという女性に引き摺られていく感じが絶妙のタッチで描かれていて、いよいよホリーが去っていくといったやや気の滅入る場面でも、「彼女の出発する土曜日には、街はスコール顔負けの激しい雨にみまわれた。鮫が空中を泳げそうなぐらいだったが、飛行機が同じことをするのは無理だろう」なんて面白い表現があったりして、都会的というか、才気煥発というか、この辺りも村上氏と波長が合う部分なのだろうなあという気がします。

「ティファニーで朝食を」1.jpg  '61年にブレイク・エドワーズ監督により、オードリー・ヘプバーン主演で映画化されたため、お洒落な都会劇というイメージが強いように思いますが(「麗しのサブリナ」ではまだ控えめだったジバンシーとの衣装提携が、この作品ではまさに"全開"という感じだったし)、そうしたファッション面でのお洒落というのと、この原作のセンスはちょっと違うような...。

Marilyn Monroe and Truman Capote
Marilyn Monroe and Truman Capote.jpg 映画化に際してトルーマン・カポーティは、主人公のホリーをマリリン・モンローが演じるのが理想と考え、またモンローを想定して脚本を書くように脚本家にも依頼したものの、モンローの起用は彼女の演技顧問だったポーラ・ストラスバーグに反対されて見送られ、結局、ヘプバーンがホリーを演じることになったというのはよく知られている話です。個人的印象としては、この小説を書き始めた段階からカポーティはモンローと自分自身を念頭に置いて書いているように思え、モンローの気質を想定して読むと、スッキリとホリーのキャラクターに嵌るような気がします。

「ティファニーで朝食を」 3.jpg「ティファニーで朝食を」2.jpg 実際、ヘップバーンがティファニーの前でパンを食べるという映画の冒頭シーンで(タイトルのままだなあ)、観ていたカポーティが思わず椅子からずり落ちてしまったという逸話があるぐらいですから、相当イメージ違ったのだろうなあ。トルーマン・カポーティは、ノーマン・メイラーと並んで、モンローに袖にされた"片思い組"で、彼は背が低くて、モンローの好みの対象外だったし、しかもバイ・セクシュアル、本質的にはゲイだったとも言われています。

 この作品でトルーマン・カポーティは、世間の常識に囚われない天真爛漫な女性(若干、双極性障害(躁うつ気質)気味?)を生き生きと描く一方、その相手をする作家である男(要するに自分自身)を、彼女に振り回されるばかりの情けない存在として、やや自嘲的、乃至は被虐的と思えるまでに描いていますが、この点も、村上春樹氏が指摘するように、映画でジョージ・ペパードが演じた作家が、しっかりとホリーを受け止めているのとは異なり、映画化において改変された点と言えます。

BREAKFAST AT TIFFANY'S.jpgティファニーで朝食を dvd.jpg 結局、小説のホリーは最後ブラジルかどこかへ行ってしまうのですが、この結末はむしろモンローに相応しく、映画では、名無しの飼い猫を一旦放してまた引き戻す点はほぼ同じですが、海外への高飛びは無く、それまで自我むき出しで尖がっていたホリーが、最後は人間の優しさを感じるちょっと普通の女性になったかなあという、オードリー・ヘプバーンに相応しい結末に改変されていたように思います。

映画『ティファニーで朝食を(POSTER)《PPC009》』ポスター/ヘップバーン主演(輸入版)/「ティファニーで朝食を [DVD]

 映画テーマ曲の「ムーン・リバー」はヘンリー・マンシーニの最大のヒット曲と言ってよく、映画としてもいい作品だと思いますが(ミッキー・ルーニー演じるユニオシなる奇妙な日本人大家はいただけないが)、もしかして、トルーマン・カポーティはモンローが、この映画のヘプバーンのように自分の懐へ飛び込んでくることを夢想していたのではないかとも思ったりしてしまいます。

ティファニーで朝食を52.JPG 村上氏も「映画は映画として面白かった」としながらも、新訳の刊行にあたって、表紙に映画のスチールだけは使わないで欲しいと要望したそうですが(新潮文庫旧版ではモロ、映画スチールを使っている)、映画と切り離して読んで欲しいというのはよくわかるし賛成ですが、だからといって"ティファニーブルー"のカバーにするというのもどうなのでしょうか(出版社側の意向だと思うが)。この、言わば"高級コールガール"を主人公にした小説及び映画が、"高級宝石店"ティファニーの知名度アップに大いに寄与したことは間違いないと思うのですが、それはもう過去の出来事でしょう。それとも、今回の場合も出版社側がタイアップ効果を狙っているということなのでしょうか(新潮文庫版ではうってかわって民野宏之氏のカバー挿画となり、"ティファニーブルー"は踏襲されなかった)。

ティファニーで朝食を 01.jpgティファニーで朝食を 00.jpg「ティファニーで朝食を」●原題:BREAKFAST AT TIFFANY'S●制作年:1961年●制作国:アメリカ●監督:ブレイク・エドワーズ●製作:マーティン・ジュロー/リチャード・シェパード●脚本:ジョージ・アクセルロッド●撮影:フランツ・プラナー●音楽:ヘンリー・マンシーニ●原作:トルーマン・カポーティ●時間:114分●出演:オードリー・ヘプバーン/ジョージ・ペパード/パトリシア・ニール/バディ・イブセン/マーティン・バルサム/ホゼ・ルイス・デ・ビラロニア/ミッキー・ルーニー●日本公開:1961/11●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:高田馬場・ACTミニシアター(85-11-03) (評価:★★★☆)●併映:「めぐり逢い」(レオ・マッケリー)

fred.jpg cat.jpg

HIM: Holly (Jenovia), I'm in love with you.
ME: So what?
HIM: So WHAT? SO PLENTY! I love you. You belong to me.
ME: No. People don't belong to people.
HIM: Of course they do.
ME: Nobody is going to put me in a cage..
HIM: I want to love you.
ME: IT'S THE SAME THING.
HIM: No, it's not Holly! (Jenovia)
ME: I'm not Holly, I'm not Lulamae either. I don't know who I am.
I'm like cat here. A no name slob. We belong to nobody and nobody belongs to us. We don't even belong to each other.
Stop the cab.
What do you think?
This ought to be the right place.
For a tough guy like you--Garbage cans, rats galore.
(MEOW)
SCRAM!
I SAID TAKE OFF! BEAT IT!
Lets go.
(Thunder)
HIM: Driver, pull over here.
You know whats wrong with you, Miss Whoever-You-Are?
You're CHICKEN. YOU GOT NO GUTS. You're afraid to say "O.K. life's a fact."
People DO fall in love. PEOPLE DO BELONG TO EACH OTHER, BECAUSE THATS THE ONLY CHANCE ANYBODY'S GOT FOR REAL HAPPINESS.
You call yourself a free spirit, a wild thing.
You're terrified someone is going to stick you in a cage.
Well Baby, you're already in that cage.
You built it yourself.
And it's not bounded by Tulip, Texas or Somaliland.
It's wherever you go.
Because no matter where you run, you just end up running into yourself.
END SCENE.

【1968年文庫化[新潮文庫(龍口直太郎訳)]/2008年再文庫化[新潮文庫(村上春樹訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【665】 W・フォークナー 『八月の光
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●む 村上 春樹」の インデックッスへ 「●文学」の インデックッスへ 「●文春新書」の インデックッスへ 「●ロバート・レッドフォード 出演作品」の インデックッスへ 「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●レオナルド・ディカプリオ 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

初読では中だるみ感があったが、映画を観てもう一度読み返してみたら、無駄の無い傑作だった。
グレート・ギャツビー.jpg グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) 和田誠.jpg グレート・ギャツビー 野崎訳.jpgグレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg 翻訳夜話.jpg
愛蔵版グレート・ギャツビー』 『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(新書)/『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(新書)(以上、装幀・カバーイラスト:和田 誠)/『グレート・ギャツビー (新潮文庫)』(野崎孝:訳)/村上 春樹・柴田 元幸『翻訳夜話 (文春新書)
First edition cover (1925)
The Great Gatsby.jpg 1920年代初頭、米国中西部出身のニック・キャラウェイは、戦争に従軍したのち故郷へ帰るも孤独感に苛まれ、証券会社でフランシス・スコット・フィッツジェラルド.jpg働くためにニューヨーク郊外ロング・アイランドにある高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくるが、隣の大邸宅では日々豪華なパーティが開かれていて、その庭園には華麗な装いの男女が夜毎に集まっており、彼は否応無くその屋敷の主ジェイ・ギャツビーという人物に興味を抱くが、ある日、そのギャツビー氏にパーティに招かれる。ニックがパーティに出てみると、参加者の殆どがギャツビーについて正確なことを知らず、ニックには主催者のギャツビーがパーティの場のどこにいるかさえわからない、しかし、たまたま自分の隣にいた青年が実は―。

The Great Gatsby: The Graphic Novel(2020)
The Great Gatsb The Graphic Novel.jpg 1925年に出版された米国の作家フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald、1896‐1940/享年44)の超有名作品ですが(原題:The Great Gatsby)、上記のようなところから、ニックとギャツビーの交遊が始まるという初めの方の展開が単純に面白かったです。

 しかし、この小説、初読の際は中間部分は今一つ波に乗れなかったというか、自分が最初に読んだのは野崎孝(1917‐1995)訳『偉大なるギャツビー』でしたが、今回、翻訳のリズムがいいと評判の村上春樹氏の訳を読んで、それでもやや中だるみ感があったかなあと(金持ち同士の恋の鞘当てみたいな話が続き、その俗っぽさがこの作品の持つ1つの批判的テーマであると言えるのだが...)。ただし、ギャツビーという人物の来歴と、彼の自らの心の空洞を埋めようとするための壮大な計画が明かされていく過程は、やはり面白いなあと―。そしてラスト、畳み掛けるようなカタストロフィ―と、小説としての体裁もきっちりしていることはきっちりしていると思いました。更に、最近リアルタイムでは観られなかったジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォー華麗なるギャツビー 1974 dvd.jpg華麗なるギャツビー 1974.jpgド主演の映画化作品「華麗なるギャツビー」('74年/米)をテレビで観る機会があって、その上でもう一度、野崎訳及び村上訳を読み返してみると、起きているごたごたの全部が終盤への伏線となっていたことが再認識でき、村上春樹氏が「過不足のない要を得た人物描写、ところどころに現れる深い内省、ヴィジュアルで生々しい動感、良質なセンチメンタリズムと、どれをとっても古典と呼ぶにふさわしい優れた作品となっている」と絶賛しているのが分かる気がしました。
華麗なるギャツビー [DVD]

 ギャツビーにはモデルがいるそうですが、ニックとギャツビーのそれぞれがフィッツジェラルドの分身であり(ついでに言えば、妻に浮気されるトム・ブキャナンも)、そしてフィッツジェラルド自身が美人妻ゼルダ(後に発狂する)と高級住宅地に住まいを借りてパーティ漬けの派手な暮らしをしながら、やがて才能を枯渇させてしまうという、華々しさとその後の凋落ぶりも含めギャツビーと重なるのが興味深いですが、これはむしろ小説の外の話で、ニックの眼から見た"ギャツビー"の描写は、こうした実生活での作者自身との相似に反して極めて冷静な筆致で描かれていると言ってよいでしょう。

『グレート・ギャツビー』 (2006).JPG村上春樹 09.jpg 新訳というのは大体読みやすいものですが、村上訳は、ギャツビーがニックを呼ぶ際の「親友」という言葉を「オールド・スポート」とそのまま訳したりしていて(訳していることにならない?)、日本語でしっくりくる言葉がなければ、無理して訳さないということみたいです(柴田元幸氏との対談『翻訳夜話』('00年/文春新書)でもそうした"ポリシー"が語られていた)。ただし、個人的には、「オールド・スポート」を敢えて「親友」と訳さなかったことは、うまく作用しているように思いました(映画を観るとギャツビーは「オールド・スポート」と言う言葉を様々な局面で使っていて、その意味合いがそれぞれ違っていることが分かる。それらを日本語に訳してしまうと、同じ言葉を使い分けているということが今度は分からなくなる)。

『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006)(装幀・カバーイラスト:和田 誠

グレート・ギャツビー』1.JPG そうした意味では、タイトルを『グレート・ギャツビー』としたこともまた村上氏らしいと思いました。ただし、野崎孝訳も'89年の「新潮文庫」改訂時に『グレート・ギャツビー』に改題していて、故・野崎孝氏に言わせれば、フィッツジェラルドは、親から受け継いだ資産の上に安住している金持ち階級を嫌悪し(作中のブキャナン夫妻がその典型)、自らの才覚と努力によって財を成した金持ち(ギャツビーがこれに該当)には好意と尊敬の念を抱いていたとのこと('74年版「新潮文庫」解説)。だから、"グレート"という言葉には敬意も込められていると見るべきなのでしょう。
   
日はまた昇る.jpg 村上氏はこの作品を"生涯の1冊"に挙げており、同じ"ロスト・ジェネレーション"の作家ヘミングウェイ『日はまた昇る』(この作品とシチュエーションが似ている面がある)より上に置いていますが、個人的には『日はまた昇る』も傑作であると思翻訳夜話2.jpgっており、どちらが上かは決めかねます。 

 因みに、先に挙げた『翻訳夜話』は、柴田氏と村上氏が、東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、それぞれ異なる聴衆に向けて行った3回のフォーラム対談の記録で、村上氏は翻訳に際して「大事なのは偏見のある愛情」であると言い、柴田氏は「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と言っています。レイモンド・カーバーとポール・オースターの短編小説を二人がそれぞれ「競訳」したものが掲載されていて、カーバーの方は村上氏の方が訳文が長めになり、オースターの方は柴田氏の方が長めになっているのが、両者のそれぞれの作家に対する思い入れの度合いを反映しているようで興味深かったです。

「グレート・ギャツビー」人物相関.jpg

0華麗なるギャツビー レッドフォード.jpg(●2013年にバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演で再映画化された。1974年のジャック・クレイトン監督のロバート・レッドフォード、ミア・ファロー版は、当初はスティーブ・マックィーン、アリ・マックグロー主演で計画されていて、それがこの二人に落ち着いたのだが、村上春樹氏などは「落ち着きが悪い」としていた(ただし、フランシス・フォード・コッポラの脚本を評価していた)。個人的には、デイジー役のミア・ファローは登場するなり心身症的なイメージで、一方、ロバート・レッドフォードは健全すぎたのでアンバランスに感じた。レオナルド・ディカプリオ版におけるディカプリオの方が主人公のイメージに合っていたが(ディカプリオが家系0華麗なるギャツビー  ディカプリオ .jpg的に4分の3ドイツ系であるというのもあるか)、キャリー・マリガン演じるデイジーが、完全にギャツビーを取り巻く俗人たちの1人として埋没していた。セットや衣装はレッドフォード版の方がお金をかけていた。ディカプリオ版も金はかけていたが、CGできらびやかさを出そうとしたりしていて、それが華やかと言うより騒々しい感じがした。目まぐるしく移り変わる映像は、バズ・ラーマン監督の「ムーラン・ルージュ」('01年)あたりからの手法だろう。ディカプリオだから何とか持っているが、「ムーラン・ルージュ」ではユアン・マクレガーもニコール・キッドマンもセット(CG含む)の中に埋もれていた。)

華麗なるギャツビー r2.jpg 華麗なるギャツビー d2.jpg

華麗なるギャツビー dvd.jpg
   
グレート・ギャツビー (愛蔵版).jpgグレート・ギャツビー 村上春樹翻訳ライブラリー2.jpg【1957年文庫化[角川文庫(大貫三郎訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[早川文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[新潮文庫(野崎孝訳『偉大なるギャツビー』)・1989年改版(野崎孝訳『グレート・ギャツビー』)]/1978年再文庫化[旺文社文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1978年再文庫化[集英社文庫(野崎孝訳『偉大なギャツビー』]/2006年新書化[中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー(『グレート・ギャツビー』]/2009年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義訳『グレート・ギャツビー』)】[左]『愛蔵版グレート・ギャツビー』(2006/11 中央公論新社)/[右]『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006/11 中央公論新社)(共に装幀・カバーイラスト:和田 誠


新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(レッドフォード版)
グレート・ギャツビー 新潮文庫im.jpg華麗なるギャツビー 1974  .jpg「華麗なるギャツビー」●原題:THE GREAT GATSBY●制作年:1974年●制作国:アメリカ●監督:ジャック・クレイトン●製作:オデヴィッド・メリック●脚本:フランシス・フォード・コッポラ●撮影:ダグラス・スローカム●音楽:ネルソン・リドル●原作:スコット・フィッツジェラルド●時間:144分●出演:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー/ブルース・ダーン/ サム・ウォーターストン/スコット・ウィルソン/ カレン・ブラック/ロイス・チャイルズ/パッツィ・ケンジット/ハワード・ダ・シルバ/ロバーツ・ブロッサム/キャスリン・リー・スコット●日本公開:1974/08●配給:パラマウント映画(評価:★★★☆)

新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(ディカプリオ版)
グレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg華麗なるギャツビー d1.jpg「華麗なるギャツビー」●原題:THE GREAT GATSBY●制作年:2013年●制作国:アメリカ●監督:バズ・ラーマン●製作:ダグラス・ウィック/バズ・ラーマン/ルーシー・フィッシャー/キャサリン・ナップマン/キャサリン・マーティン●脚本:バズ・ラーマン/クレイグ・ピアース●撮影:サイモン・ダガン●音楽:クレイグ・アームストロング●原作:スコット・フィッツジェラルド●時間華麗なるギャツビー 2013 _1.jpg:143分●出演:レオナルド・ディカプリオ/トビー・マグワイア/キャリー・マリガン/ジョエル・エドガートン/アイラ・フィッシャー/ジェイソン・クラーク/エリザベス・デビッキ/ジャック・トンプソン/アミターブ・バッチャン●日本公開:2013/06●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★)

「華麗なるギャツビー」d版.jpg
  

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1037】トルストイ『イワン・イリッチの死
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

文豪が大衆や子供たちに向けて贈ったクリスマス・ストーリー(寓話)。意外とコミカル。

A Christmas Carol (Bantam Classic).jpgクリスマス・カロル 新潮文庫.jpgクリスマス・カロル 新潮文庫.bmp A Christmas Carol.jpg チャールズ・ディケンズ.jpg
"A Christmas Carol (Bantam Classic)"『クリスマス・カロル (新潮文庫)』(村岡花子:訳)

 1843年12月17日に出版された英国の文豪チャールズ・ディケンズ(1812‐1970/享年58)の中編小説。ロンドンの下町近くに事務所を構える商人で、偏屈で人間嫌い、金の亡者であるスクルージは、クリスマス・イブの夜もクリスマスなど自分には関係ないとして、甥のパーティへの誘いも断り事務所にいたが、そこへかつての共同経営者であクリスマス・キャロル 新装版.jpgクリスマス・キャロル (角川文庫).jpgり7年前故人となっていたマーレイの亡霊が現れ、更に3晩続けて3人の幽霊が現れると告げる―。

 物語は吝嗇家のスクルージが3人の幽霊に導かれて自らの過去・現在・未来を見せられるという超自然的な体験を軸に展開し、その描写が、ディケンズらしい社会派リアリズムと、この寓話の特性としてのシュールさが相俟って面白かったです(もともと、マーレイの亡霊が現れるところからシュールであるとともに、時にリアルなホラーになっていて不気味だったりするのだが)。

クリスマス・キャロル (新潮文庫)』['11年/新装版](村岡花子:訳)クリスマス・キャロル (角川文庫)』['20年/越前敏弥:訳]

Scrooge & Scrooge
scrooge2.jpgSCROOGE.jpg また、スクルージと幽霊のやりとりはかなりコミカルであり、頑固で神経質なスクルージのキャラクターは、個人的には、ディズニーのドナルドダックの伯父さんであるスクルージのキャラクターとよく符合したように思います。

 超常体験を通してスクルージは改悛し、自らの価値観が誤っていたことを悟って貧者への思いやりに目覚めるというのも予定調和ですが、この結末から窺えるように、もともとスクルージは悪人ではないわけで、こうしたスクルージという人物の本質を突いたディズニーのキャラクター造型というのもなかなかのものだと思ったりもします(この作品に対しては、スクルージの描き方が漫画的であるという批判もあるようだが、もともと文学というより寓話に近いのでは)。

IMG_20201223_160122.jpg 文豪が大衆や子供たちに向けて贈ったクリスマス・ストーリーということになるのでしょうが(新潮文庫版の翻訳は『赤毛のアン』シリーズの翻訳で知られる村岡花子(1893-1968))、クリスマス・ストーリーの中では最も有名なもので、何度か映画化やミュージカル化もされていています(2020年に越前敏弥氏による新訳『クリスマス・キャロル』が角川文庫より出された。同氏の訳本では、エラリー・クイーンの『Ⅹの悲劇』('09年/角川文庫)『Yの悲劇』('10年/角川文庫)を読んで読みやすかった印象があったため、越前訳『クリスマス・キャロル』も読んでみたが、確かに読みやすかった。読みやすくて、且つ、原作の雰囲気も損なっていないのは立派。「敬体」(です・ます調)も検討したが、最終的には簡潔だと安定感を重視して従来の「常体」(だ・である調)にしたとのこと。「青い鳥文庫」のような児童文庫レーベルではないので、その選択は正しかったのではないか。)
クリスマス・キャロル (角川文庫)』['20年/越前敏弥:訳]

Scrooged (1988)
SCROOGED2.bmp3人のゴースト.jpg 自分が観たのは、話を現代に置き換えたリチャード・ドナー監督、ビル・マーレイ主演の「3人のゴースト」(Scrooged、'88年/米)で(ビル・マーレイは「ゴーストバスタゴーストバスターズ ビル・マーレイ.jpgーズ」('84 年/米)にも主演していて、幽霊繋がり?)、映画では主人公は"金の亡者"ならぬ"視聴率の亡者"であるテレビ局の若社長になっていて、登場する"ゴースト"がタクシー運転手だったり女妖精だったりとバラエティ豊かですが、一応、原作のストーリーは押さえている感じでした。

 但し、こうした古典的寓話を複雑な現代社会に置き換えても、なかなかヒューマンな部分は伝わりにくいという感じもし(主人公が最後に自分の局の番組の中で慈善演説をぶつのも、ややわざとらしい)、マイルス・ディヴィスなど有名人が顔見せ的に画面に登場するなどしていて、映画を作る側も感動させるというより、ひたすら楽しんで(やや開き直って?)作っている感じがしました。

3人のゴースト SCROOGED 1988.jpg「3人のゴースト」●原題:SCROOGED●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:リチャード・ドナー●製作:アート・リンソン/リチャード・ドナー●製作総指揮:ステファン・J・ロス/●脚本:ミッチ・グレイザー/マイケル・オドノヒュー●撮影:マイケル・チャップマン●音楽:ダニー・エルフマン●原作3人のゴースト SCROOGED 1988 00.jpg:チャールス・ディッケンス「クリスマス・カロル」●時間:101分●出演:ビル・マーレイ/カレン・アレン/ジョン・フォーサイス/ボブキャット・ゴールスウェイト/デビッド・ヨハンセン/キャロル・ケイン/ロバート・ミッチャム/マイケル・J・ポラード/アルフレ・ウッダード/ジョン・グローバー●日本公開:1988/12●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:名古屋毎日ホール(88-12-30)(評価:★★☆)●併映:「星の王子ニューヨークへ行く」(ジョン・ランディス)

Disney's クリスマス・キャロル1.jpgDisney's クリスマス・キャロル 56.jpgロバート・ゼメキス (原作:チャールズ・ディケンズ)「Disney's クリスマス・キャロル」 (09年/米) ★★★☆
「Disney's クリスマス・キャロル」●原題:A CHRISTMAS CAROL●制作年:2009年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ロバート・ゼメキス●製作:ロバート・ゼメキス/スティーヴ・スターキー/ジャック・ラプケ●撮影:ロバート・プレDisney's クリスマス・キャロル  2009.jpgスリー●音楽:アラン・シルヴェストリ●原作:チャールズ・ディケンズ「クリスマス・キャロル」●時間:97分●出演:ジム・キャリー/ゲイリー・オールドマン/コリン・ファース/ボブ・ホスキンス/ロビン・ライト・ペン/ケイリー・エルウィズ/ダDisney's クリスマス・キャロル2 (1).jpgリル・サバラ/フェイ・マスターソン/レスリー・マンヴィル/モリー・C・クイン●日本公開:2009/11●配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ・ジャパン(評価:★★★☆)

Disney's クリスマス・キャロル [DVD]
 
【1950年文庫化[岩波文庫〕/1950年再文庫化[角川文庫〕/1952年再文庫化・2011年新装版[新潮文庫〕/1969年再文庫化[旺文社文庫〕/1984年再文庫化[講談社青い鳥文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/1991年再文庫化[集英社文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2001年再文庫化[岩波少年文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2013年再文庫化[角川つばさ文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2020年再文庫化[角川文庫(『クリスマス・キャロル』)〕】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3046】 スタンダール 『赤と黒』 (1957/02・1958/05 新潮文庫) ★★★★☆
○ノーベル文学賞受賞者(ジョン・スタインベック) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●さ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●「ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「怒りの葡萄」) 「●「ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「怒りの葡萄」) 「●か行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

"quick read but strong "。スタインベックに「文学の神様」が宿った時期の作品。

『ハツカネズミと人間』.JPGハツカネズミと人間.jpg 二十日鼠と人間 新潮文庫.jpg  二十日鼠と人間.jpg ジョン・スタインベック.jpg
ハツカネズミと人間 (新潮文庫)』['94年/'53年]/映画「二十日鼠と人間 [DVD]」ジョン・スタインベック(1902-1968)

Of Mice and Men.jpg 小さな家と農場を持ち、そこでウサギを飼い、土地のくれる一番いいものを食べて暮らすこと夢見るジョージとレニーは、共に農場を渡り歩く期間労働者で、ジョージは小柄ながら知恵者、一方のレニーは巨漢だがちょっと頭が鈍いという具合に対照的ながらも、いつも助け合って生きてきた―この2人がある日また新たな農場にたどり着くが、そこには思わぬ悲劇が待ち受けていた―。

 1937年に出版された米国人作家ジョン・スタインベック(John Steinbeck、1902‐1968/享年66)の中編小説で、以前読んだ大門一男訳に対し、入れ替わりで新潮文庫に入った大浦暁生訳は題名の「二十日鼠」の表記がカタカナになっているなどの違いはありますが、文庫で約150ページと再読するにも手頃で、それでいて、初読の際の時の衝撃が甦ってくるものでした(洋書の書評に"quick read but strong "とあったが、まさにその通り)。

『二十日鼠と人間』 .JPG 1930年代の大恐慌時代のカリフォルニア州が舞台なのですが、スタインベック自身の季節労働者として働いた際の経験がベースになっており、寓話的でありながらも細部にリアリティがあるし、ラマ使いの名人で農場労働者のリーダー格のスリムや厩に住む黒人クルックスなど、短い物語の中に極めて印象に残る人物が見事に配置されているように思いました(特にスリム、このキャラクターは渋い!)。

 ラストのジョージの苦渋の行動は、知恵遅れのレニーがいつも問題を起こすための2人で農場を転々としてきた過去の経緯があり、その上で、今度こそはもう手の打ちようがないという判断の末でのことでしょう。

 キャンディという老人が、自らが可愛がっていた老犬の処分を他人に委ね、後で「あの犬は自分で撃てばよかった」と悔いるエピソードが、伏線として効いています。
  
『怒りの葡萄』(1940).jpg怒りの葡萄 ポスター.jpg怒りの葡萄.gif スタインベックはこの作品でその名を知られるようなり、2年後に発表した、旱魃と耕作機械によって土地を奪われた農民たちのカリフォルニアへの旅を描いた『怒りの葡萄』('39年)でピューリツァー賞を受賞しますが、「二十日鼠と人間」「怒りの葡萄」の両方とも映画化されており、「二十日鼠と人間」は'39年と'92年に映画化されていますが、ゲイリー・シニーズが監督・主演した「二十日鼠と人間」('92年)をビデオで観ました。ジョン・フォード監督の「怒りの葡萄」('40年/米)は吉祥寺の「ジャヴ50」で深夜に観ましたが、電車の座席みたいな長椅子の客席に集った客の半分が外国人でした(同劇場でその少し前に「わが谷は緑なりき」('41年/米)を観た時もそうだった)。

 「怒りの葡萄」は、刑務所帰りの貧農の息子をヘンリー・フォンダが好演しており(彼はこの作品で"もの静かに不正に向かって闘う男"というイメージを確立)、母親とまた別れなければならないという結末のやるせなさが「Red River Valley」のテーマと共に心に残りましたが、アメリカ人は、こうした作品に日本人以上に郷愁を感じるのでしょう(個人的には、小津安二郎や山田洋次の家族モノに通じるものを感じたりもしたのだが)。

EAST OF EDEN 1955 dvd.bmpエデンの東ポスター.jpgEast of Eden.jpg ジェームズ・ディーンがその演技への評価を確立したとされるエリア・カザン監督の「エデンの東」('55年)も、スタインベックの『エデンの東』('50年)がベースになっているのですが、原作が南北戦争から第1次世界大戦までの60年間の2つの家族の3代にわたる歴史を綴った4巻56章から成る膨大な物語であるのに対し、映画の中で描かれているのは最後のほんの一時期のみで1家族2世代の話に圧縮されており、実質的には、父に好かれたいがそれが叶わないケイレブ(キャル)・トラスク (ジェームズ・ディーン)の苦悩の物語となっています。「エデンの東」の原作は読んでいませんが、スタインベックは後期作品ほど大味の嫌いがあるらしく(エリア・カザンの翻案は当然の選択だったのだろう)、そうした意味では『二十日鼠と人間』は、スタインベックに「文学の神様」が宿った時期の作品であると言えるかと思います。

二十日鼠と人間(1992)es.jpg「二十日鼠と人間」●原題:OF MICE AND MEN●制作年:1992年●制作国:アメリカ●監督:ゲイリー・シニーズ●製作:ゲイリー・シニーズ /ラス・スミス●脚本:ホートン・フート●撮影:ケネス・マクミラン●音楽:マーク・アイシャム●原作:ジョン・スタインベック●時間:115分●出演:ゲイリー・シニーズ/ジョン・マルコヴィッチ/レイ・ウォルストン/シェリリン・フェン/ジョー・モートン/アレクシス・アークエット/ジョン・テリー/モイラ・ハリス●日本公開:1992/12●配給:MGM映画=UIP(評価:★★★★)
【2608】 ○ ゲイリー・シニーズ 「二十日鼠と人間」 (92年/米) (1992/12 MGM映画=UIP) ★★★★

「怒りの葡萄」ポスター(和田 誠
THE GRAPES OF WRATH 1940.jpg怒りの葡萄 和田誠ポスター1.jpg「怒りの葡萄」●原題:THE GRAPES OF WRATH●制作年:1940年●制作国:アメリカ●監督:ジョン・フォード●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:ナナリー・ジョンソン●撮影:グレッグ・トーランド●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:ジョン・スタインベック●時間:128分●出演:ヘンリー・フォンダ/ジェーン・ダーウェル/ジョン・キャラダイン/チャーリー・グレイプウィン/ドリス・ボードン/ラッセル・シンプソン/メエ・マーシュ/ウォード・ボンド●日本公開:1963/01●配給:昭映フィルム●最初に観た場所:吉祥寺ジャヴ50(84-07-14)(評価:★★★★)  
「エデンの東」 公開時ポスター/1977年公開時チラシ
east of eden  1955.jpg「エデンの東」ps.jpgエデンの東 1977年公開時チラシ.bmp「エデンの東」●原題:EAST OF EDEN●制作年:1955年●制作国:アメリカ●監督・製作:エリア・カザン●脚本:ポール・オスボーン●撮影:テッド・マッコード●音楽:レナード・ローゼンマン●原作:ジョン・スタインベック●時間:115分●出演:ジェームズ・ディーン/ジュリー・ハリス/レイモンド・マッセイ/バール・アイヴス/リチャード・ダヴァロス/ジュー・ヴェン・フリート/エデンの東<サントラ盤>.jpgEAST OF EDEN3.jpgアルバート・デッカー/ロイス・スミス/バール・アイヴス●日本公開:1955/10●配給:ワーナジュリー・ハリス_3.jpgー・ブラザース●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-02-18)●2回目:テアトル吉祥寺(82-09-23)(評価:★★★★)●併映(1回目):「理由なき反抗」(ニコラス・レイ)●併映(2回目):「ウェストサイド物語」(ロバート・ワイズ)

Julie Harris(1925-2013)
           
"Of Mice and Men" from Iron Age Theatre(舞台劇「二十日鼠と人間」)
Of Mice and Men 1.jpgOf Mice and Men 3.jpg【1952年文庫化[三笠文庫(大門一男:訳)]/1953年文庫化[新潮文庫(大門一男:訳)]/1955年文庫化[河出文庫(石川信夫:訳)]/1960年文庫化[角川文庫(杉木喬:訳)]/1970年文庫化[旺文社文庫(繁尾久:訳)]/1994年再文庫化[新潮文庫(『ハツカネズミと人間』(大浦暁生;訳)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【654】 ガルシン 『紅い花 他四篇』
○ノーベル文学賞受賞者(アルベール・カミュ) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●ルキノ・ヴィスコンティ監督作品」の インデックッスへ  「●マルチェロ・マストロヤンニ出演作品」の インデックッスへ「●アンナ・カリーナ 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(岩波シネサロン)

従来の文学作品の類型の何れにも属さず、かつ小説的濃密さを持つムルソーの人物造型。

異邦人 単行本(1951).jpg 異邦人 1984.jpg 異邦人1.jpg 異邦人 1999.jpg   異邦人ポスター.jpg
異邦人 (新潮文庫)』['84年]['99年]/企画タイアップカバー['09年]映画「異邦人」(1967)ポスター
単行本['51年/新潮社]
異邦人 新潮文庫 1.jpgAlbert Camus.jpg 1942年6月に刊行されたアルベール・カミュ(Albert Camus、1913‐1960/享年46)の人間社会の不条理を描いたとされる作品で、「きょう、ママンが死んだ」で始まる窪田啓作訳(新潮文庫版)は読み易く、経年疲労しない名訳と言えるかも(新潮社が仏・ガリマール社の版権を独占しているため、他社から新訳が出ないという状況はあるが)。

Albert Camus
異邦人 (新潮文庫)』['54年]

 養老院に預けていた母の葬式に参加した主人公の「私」は、涙を流すことも特に感情を露わにすることもしなかった―そのことが、彼が後に起こす、殆ど出会い頭の事故のような殺人事件の裁判での彼の立場を悪くし、加えて、葬式の次の日の休みに、遊びに出た先で出会った旧知の女性と情事にふけるなどしたことが判事の心証を悪くして、彼は断頭台による死刑を宣告される―。

L'Etranger.png 仏・ガリマール社からの刊行時カミュは29歳でしたが、この小説が実際に執筆されたのは26歳から27歳にかけてであり(若い!)、アルジェリアで育ちパリ中央文壇から遠い所にいたために認知されるまでに若干タイムラグがあったということでしょうか。但し、この作品がフランスで刊行されるや大きな反響を呼び、確かに、自分の生死が懸かった裁判を他人事のように感じ、最後には、「私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけ」を望むようになるムルソーという人物の造型は、それまでの文学作品の登場人物の類型の何れにも属さないものだと言えるのでは。1957年、カミュが43歳の若さでノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われています。

Gallimard版(1982)

 カフカ的不条理とも異なり、第一ムルソーは自らの欲望に逆らわず行動する男であり(ムルソーにはモデルがいるそうだが、この小説の執筆期間中、カミュ自身が2人の女性と共同生活を送っていたというのは小説とやや似たシチュエーションか)、また、公判中に自分がインテリであると思われていることに彼自身は違和感を覚えており(カミュ自身、自らが実存主義者と見られることを拒んだ)、最後の自らの死に向けての"積極"姿勢などは、むしろカフカの"不安感"などとは真逆とも言えます。

サルトル .jpg サルトルは「不条理の光に照らしてみても、その光の及ばない固有の曖昧さをムルソーは保っている」とし、これがムルソーの人物造型において小説的濃密さを高めているとしていますが、このことは、『嘔吐』でマロニエの樹を見て気分が悪くなるロカンタンという主人公の"小説的濃密さ"の欠如を認めているようにも思えなくもないものの、『嘔吐』と比較をしないまでも、第1部の殺人事件が起きるまでと第2部の裁判場面の呼応関係など、小説としてよく出来ているように思いました。
 
The Stranger 1967.jpg異邦人QP.jpg ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti、1906‐1976/享年69)監督がマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni、1924‐1996/享年72)を主演としてこの『異邦人』を映画にしていますが('67年)、テーマがテーマである上に、小説の殆どはムルソーの内的独白(それも、だらだらしたものでなく、ハードボイルドチックな)とでも言うべきもので占められていて、情景描写などはかなり削ぎ落とされており(アルジェリアの養老院ってどんなのだTHE STRANGER (LO STRANIERO)s.jpgろうか、殆ど情景描写がない)、映画にするのは難しい作品であるという気がしなくもありませんでした。それでもルキノ・ヴィスコンティ監督は果敢に映像化を試みており、当初映画化を拒み続けていたカミュ夫人が原作に忠実に作ることを条件として要求したこともありますが、文庫本に置き換異邦人パンフレット.jpgえるとほぼ1ページも飛ばすことなく映像化していると言えます。第2部の裁判描写はともかく、第1部での主人公とさまざまな登場人物とのやりとりが第2部の裁判場面の伏線となっている面もあり、その第1部のさまざまな場面状況が具体的に掴めるのが有難いです(そう言えばこの作品、かつて日本語吹き替え版がテレビ放映されたこともあるのに、なぜかDVD化されていないなあ)。

映画プレミアパンフレット 「異邦人(A4/紺背景版)」 監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ/アンナ・カリーナ/ベルナール・ブリエ/ジョルジュ・ウィルソン/ブルノ・クレメール/ピエール・バルタン/ジャック・エラン/マルク・ローラン/ジョルジュ・ジレー

The Stranger 1967  2.jpgルキノ・ヴィスコンティ監督の『異邦人』.jpg 松岡正剛氏はこの映画を観て、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想を持ったそうで、これは言い得ているのではないかという気がします。原作にも、「被告席の腰掛の上でさえも、自分についての話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ」という、主人公の冷めた心理描写があります。一方で、ラストのムルソーの司祭とのやりとりを通して感じられる彼の「抵抗」とその根拠みたいなものは映画ではやや伝わってきにくかったように思われ、映像化することで抜け落ちてしまう部分はどうしてもあるような気がしました。だだ、そのことを考慮しても、ルキノ・ヴィスコンティ監督の挑戦は一定の評価を得てもいいのではないかとも思いました。

映画異邦人2.jpg この世の全てのものを虚しく感じるムルソーは、自らが処刑されることにそうした虚しさからの自己の解放を見出したともとれますが、ああ、やっぱり死刑はイヤだなあとか単純に思ったりして...(小説は獄中での主人公の決意にも似た思いで終わっている)。ムルソーが母親の葬儀の翌日に女友達と海へ水遊びに行ったのは、彼が養老院の遺体安置所の「死」の雰囲気から抜け出し、自らの心身に「生」の息吹を獲り込もうとした所為であるという見方があるようです。映画を観ると、その見方がすんなり受け入れられるように思いました。

映画「異邦人(Lo straniero)」より

lo_straniero1.jpg ママンの出棺を見るムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)
lo_straniero2.jpg 葬儀の翌日、海辺で女友達(アンナ・カリーナ)に声をかける
lo_straniero3.jpg アラブ人達と共同房にて(死刑確定後は独房に移される)

映画 異邦人.jpg映画 「異邦人」.jpg異邦人 .jpg「異邦人」●原題:THE STRANGER (LO STRANIERO/L'ÉTRANGER)●制作年:1967年●制作国:イタリア・フランス・アルジェリア●監督:ルキノ・ヴィスコンティ●製作:ディノ・デ・ラウレンティス●脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エマニュエル・ロブレー/ジョルジュ・コンション●撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ●音楽:ピエロ・ピッチオーニ●原作:アルベール・カミュ「異邦人」●時間:104分●出演:マルチェロ・マストロヤンニ(ムルソー)/アンナ・カリーナ(マリー・カルドナ)/映画チラシ 「異邦人」 岩波シネサロン 8.jpg映画チラシ 「異邦人」 岩波シネサロン 1.jpgジョルジュ・ウイルソン(予審判事)/ベルナール・ブリエ(弁護人)/ジャック・エルラン(養老院の院長)/ジョルジェ・ジュレ(レイモン)/ジャン・ピエール・ゾラ(事務所の所長)/ブリュノ・クレメール(神父)/アルフレード・アダン(検事)/アンジェラ・ルーチェ(マッソン夫人)/ミンモ・パルマラ(マッソン)/ヴィットリオ・ドォーゼ(弁護士)●日本公開:1968/09●配給:岩波ホールビル.jpgパラマウント●最初に観た場所:岩波シネサロン(80-07-13)●2回目:池袋文芸座ル・ピリエ(81-06-06)(評価:★★★★)●併映(2回目):「処女の泉」(イングマル・ベルイマン)
岩波シネサロン(岩波ホール9F)

「岩波ホール」閉館(2022.7.29)
「岩波ホール」閉館.jpg

Ihôjin (1967)
Ihôjin (1967).jpg
IMG_4920.JPG異邦人 新潮文庫.jpg   
    
新潮文庫 旧版・新装版
 
 【1954年文庫化[新潮文庫〕】

「●へ アーネスト・ヘミングウェイ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●ほ エドガー・アラン・ポー」 【2936】 エドガー・アラン・ポー 「モルグ街の殺人事件
○ノーベル文学賞受賞者(アーネスト・ヘミングウェイ) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●さ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ「●「ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「老人と海」)「●は行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●外国のアニメーション映画」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(東京アイマックスシアター)

男性原理、或いは"ハリウッド映画"に受け継がれるようなヒロイズム。

世界の文学 44 ヘミングウェイ.jpg老人と海/ヘミングウェイ 福田恆存・訳 新潮文庫.jpg   老人と海.jpg
世界の文学〈第44〉ヘミングウェイ (1964年)武器よさらば・老人と海・その他六編』['64年]/『老人と海 (1966年) (新潮文庫)』旧版/『老人と海 (新潮文庫)』 改版版

The Old Man And the Sea.jpg ヘミングウェイの代表作、且つ、生前に発表された最後の作品。最初に読んだのは中学生の時で、多少気負って読み始めたら、最初の老人と少年との会話の部分でいきなり野球の話などが出てきて、文学全集に収まるような作品にプロ野球(正確にはメジャーリーグだが)の話があるのがちょっと意外な印象を受け、結局今でもそのことが一番印象に残っていたりもします(川上弘美氏だったかな?小学5年生の時に読んだという作家は)。

ヘミングウェイ .jpg ヘミングウェイは1952年にこの作品を書き上げ、1954年にノーベル文学賞を受賞しており、ノーベル文学賞は個別の作品ではなく作家の功績および作品全体に与えられるものですが、一方で、この「老人と海」が受賞に寄与したとされていて、これを"受賞対象作"とすれば、書かれてから受賞まで僅か2年しかないことになります(まあ、それまでの実績が評価されたのだろうけれど)。ヘミングウェイはこの作品でピュ-リッツア-賞(文学部門)も受賞しています。

 新潮文庫版は、シェイクスピア作品の翻訳で知られる福田恒存の訳で(福田恒存・野崎孝以外で誰が訳している?)、作中人物の個性にも歴史が反映される(空間が時間に支配されている)ヨーロッパ文学に比べ、ただそこに空間があるだけのアメリカ文学は「食い足りない」とする福田恒存にとって、大海原での老人と魚の格闘というシチュエーションに的を絞ったこの作品は、そうしたアメリカ文学の弱点を逆手にとることで成功しているということになるようです。

アーネスト・ヘミングウェイ (Ernest Miller Hemingway).jpgGrace Hall Hemingway dressed Ernest like a girl for the first two years of his life.bmp 「ハードボイルド・リアリズム」と呼ぶに相応しい福田訳(経年疲労しない名訳)から、センチメンタリズムを排した男性原理、ギリシャ悲劇的なヒロイズム(或いはハリウッド映画に受け継がれるようなヒロイズム)が浮き彫りにされているように思えます(実際、このサンチャゴ老人のストイシズムはカッコいい)。ヘミングウェイは母グレイスに女の子のように育てられたとのこと、幼少の頃の女装させられた写真は有名で(後のハンティングなどに興じる数ある"逞しい"写真と対比すると興味深い)、彼のマッチョ願望をそうした幼児体験の反動であると見る心理学者もいます。
Grace Hemingway dressed Ernest like a girl for the first two years of his life. 女の子姿のヘミングウェイ

老人と海 1958 チラシ.jpeg この作品については、ジョン・スタージェスが監督し(「OK牧場の決斗」('57年)と「荒野の七人」('60年)の間の作品になる)、スペンサー・トレーシーが主演した映画化作品「老人と海」('58年)が老人と海 1vhs.jpgあり、個人的にはビデオで観ました。2度アカデミー主演男優賞を受賞しているスペンサー・トレーシーは、「山」('56年)などを観ても名優だと思いますが、この映画でも十分名優ぶりを発揮していたと思います。ただ、独白とナレーション(本人)の組み合わせが多く続くため、さすがの彼も「山」よりは結構きつそうに演技している印象も受けました。この映画の当初製作費は200万ドルであったのが、「適THE OLD MAN AND THE SEA 1958 2.jpg切な魚の映像を探す」ために500万ドルにまで上昇したそうで、そのため水中でカジキをつつくサメたちのシーンなどもあったりして緊迫感は大いにありますが、その緊迫感は動物パニック映画風のものでした。そうした状況の中で、原作の文学性はスペンサー・トレーシー一人の演技にすべて負わせているという感じで、その辺が「結構きつそうに演技している印象」に繋がるのかもしれません。でも、スペンサー・トレーシーという人はものすごい自信家だったそうで、まさに自分の力の見せ所と思って演技していたとも考えられます。

老人と海(99年公開).jpgアニメーション「The Old Man and the Sea(老人と海)」 by Alexandre Petrov(アレクサンドル・ペトロフ) 1999.jpg 変わったところでは、ロシアのアレクサンドル・ペドロフ監督が約2万9千枚ものガラスの板に油絵具を使って指で描いて制作しアカデミー賞に輝いたアニメーション作品('99年)があります。日本では東京アイマックスシアターなどで上映されましたが、この手法(「手作り」で完結しているのではなく、最終的には膨大なTHE OLD MAN AND THE SEA 02.jpgコンピュータ制御により動画構成されている。これは最近のアニメ芸術に共通して見られる傾向)だと、海が本当に綺麗に描かれて、実際、この人の作品は水をモチーフにしたものが多いようですが、これはまさに「動く巨大絵本」だなあと感心させられました。ただ、時間が23分と短いため(この23分に4年もかけたそうだが)、アイマックスで観た時はスゴイと思ったけれど、後で振り返ると文学的なエッセンスはかなり抜け落ちた感じも拭えませんでした(星3つ半はやや辛目の評価か)。

Oceanic White‐tip Shark.jpg 余談ですが、サンチャゴ老人はまず、獲物であるカジキマグロと闘い、次にその獲物を狙う鮫たちと戦うわけで、最初に襲って来るのが「アオザメ」で、その次に、サンチャゴが「ガラノー」と呼ぶところの"シャベル鼻の鮫"が襲って来ます。そして、結局この鮫が獲物のカジキマグロを食い尽くしてしまうのですが、この「ガラノー」というのは中学生の時に読んで以来ずっと「シュモクザメ」(Hammerhead)のことだと思っていましたが、メジロザメ科の「ヨゴレ」(Oceanic White‐tip Shark)とのことでした(シャベルの"柄"と"先"を取り違えていたかも)。魚の映像(水中撮影等)に費用をかけたスペンサー・トレーシー版「老人の海」を観るとどんなサメかがよく分かります。

老人と海 [DVD]
老人と海 1958.jpg老人と海 1958 syounen.jpg「老人と海」●原題:THE OLD MAN AND THE SEA●制作年:1958年●制作国:アメリカ●監督:ジョン・スタージェス●製作:リーランド・ヘイワード●脚本:ピーター・ヴィアテル●撮影::ジェームズ・ウォン・ハウ/フロイド・クロスビー/トム・タットウィラー/ラマー・ボーレン(水中撮影)●音楽:ディミトリ・ティオムキン●原作:アーネスト・ヘミングウェイ●時間:86分●出演:スペンサー・トレイシー(老人&ナレーション)/フェリッペ・パゾス(少年)/ハリー・ビレーヴァー/ドン・ダイアモンド●日本公開:1958/10●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★☆)

THE OLD MAN AND THE SEA 01.jpg 「老人と海」●原題:THE OLD MAN AND THE SEA●制作年:1999年●制作国:ロシア/カナダ/日本●監督・脚本:アレクサンドル・ペドロフ/和田敏克●製作:ベルナード・ラジョア/島村達夫●撮影:セルゲイ・レシェトニコフ●音楽:ノーマンド・ロジャー●原作:アーネスト・ヘミングウェイ●時間:23分●日本公開:1999/06●配給:IMAGICA●最初に観た場所:東京アイマックス・シアター 東京アイマックスシアター2.jpgタイムズスクエア 東京アイマックスシアター.gif(99‐06‐16) (評価★★★☆)●併映:「ヘミングウェイ・ポートレイト」(アレクサンドル・ペトロフ)●アニメーション
東京アイマックスシアター (タカシマヤタイムズスクエア) 2002(平成14)年2月1日閉館
      
1955年単行本[チャールズ・E・タトル商会(福田恒存:訳)]/1956年全集[三笠書房(福田恒存:訳)]/1964年「世界の文学44」[中央公論社(福田恒存:訳)]【1953年老人と海、チャールズ・イー・タトル商会版.jpg文庫化・1980年改版[新潮文庫(福田恒存:訳)]/2014年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義:訳)]】
老人と海 (1955年)』チャールズ・E・タトル商会

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3015】 アントニイ・バージェス 『時計じかけのオレンジ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」のインデックッスへ「●黒澤 明 監督作品」のインデックッスへ「●「キネマ旬報ベスト・テン」(第1位)」の インデックッスへ「●「毎日映画コンクール 日本映画大賞」受賞作」の インデックッスへ「●小国 英雄 脚本作品」の インデックッスへ「●橋本 忍 脚本作品」の インデックッスへ 「●早坂 文雄 音楽作品」の インデックッスへ「●志村 喬 出演作品」のインデックッスへ「●伊藤 雄之助 出演作品」の インデックッスへ「●中村 伸郎 出演作品」のインデックッスへ「●加東 大介 出演作品」の インデックッスへ「●宮口 精二 出演作品」の インデックッスへ「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(大井武蔵野館)○東宝DVD名作セレクション(黒澤明監督作品)

何時か確実に訪れる自らの「死」を想起させる。黒澤明に「生きる」を着想させた作品。

イワン・イリッチの死4.jpgイワン・イリッチの死_iwan.jpg イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ.jpg  Ikiru(1952).jpg Ikiru(1952)   
イワン・イリッチの死 (岩波文庫)』 米川正夫:訳 ['34年/'73年改版] 『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)』 望月哲男:訳 ['06年] 

The Death of Ivan Ilyich.jpgレフ・ニコライビッチ・トルストイ.jpg レフ・ニコライビッチ・トルストイ(1828‐1910/享年82IMG_3146.JPGの中篇小説。45歳の裁判官が不治の病に罹り、肉体的にも精神的にも耐え難い苦痛を味わいながら着実に「死」に向かっていく、その3カ月間の心理的葛藤を、今まで世俗的な価値に固執し一定の栄達を得た自らの人生に対する、それがいかに無意味なものであったかという価値観の転倒からくる混乱と絶望、周囲から哀れみの眼差しを浴びながらも、あたかも自分の死が「予定調和」乃至は「ちょっとした不意の出来事」のように受け取られていることへの苛立ち、そして死の直前の苦悶と周囲への思いやりにも似た「回心」に至るまでを、まさに描き難いものを描き切ったと言える作品です。
                         
生きる 映画.jpg「生きる」1952.jpg生きる 志村喬 伊藤雄之助.jpg 1886年3月、文豪57歳の時に完成した作品ですが、1881年に実在のある裁判官の死に接して想を得たもので、主人公の葬儀とその世俗的な生涯の振り返りから始まるこの作品は、黒澤明監督の「生きる」生きるA.jpg主人公が役人である点が似ており、また映画「生きる」も、『イワン・イリッチの死』のように主人公の葬儀の場面から始まるわけではないですが、物語の後半はほとんど主人公の葬儀(通夜)の場面であり、役所の同僚たちが生前の主人公についてのエピソード語ったりしており(その都度回想シーンが挿入される)、黒澤はこの作品から「生きる」を着想したとされています。映画関連のデータベースでは、「生きる」の原作としてこの小説が記されているものがありましたが、実際のクレジットはどうだったでしょうか。最初観た時は評価★★★★でしたが、後にテレビなどで観直したりして★★★★☆に評価修正しました(2024年1月8日のなぜか「成人の日」にNHK総合で放映されたのを再々見。自分がこの作品が重くのしかかってくる年齢になったのかということを改めて実感させられた。)
「生きる」NHK.jpg                               
『生きる』.jpg 映画は映画で独立した傑作であり(第4回ベルリン国際映画祭「市政府特別賞」受賞、第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位)、トルストイのイワン・イリッチの死』が「原作」であるというより、この作品を「翻案」したという感じに近いかもしれません(或いは、単にそこから着想を得たというだけとも言える。伊藤雄之助が演じた無頼派作家に該当しそうな人物なども『イワン・イリッチの死』には登場しないし)。

「生きる」(1952・東宝/出演:志村喬/伊藤雄之助)

 作品テーマから捉えても、「生きる」が残された時間をどう生きるかがテーマであったのに比べ(と言うと、たいへん重い映画のように思われがちだが、志村僑と小田切みきのやり取りなどにおいて意外とコミカルな場面が多かったりする)、このトルストイ作品は、自らの死をどう受け入れるかが大きなテーマになっているように思います。

   
iイワン・イリイチの死7.jpgThe Death of Ivan Ilyich6.jpg 『イワン・イリッチの死』の主人公イワン・イリッチは、「カイウスは人間である、人間は死すべきものである、従ってカイウスは死すべきものである」という命題の正しさを信じながらも、「自分はカイウスではない」とし、死を受け入れられないでいます。一見、バカバカしいように思われますが、一歩引いて考えると、ほとんどの人がこれに近い感覚を持ち合わせているような気もします。

 彼を最も苦しめるのは、「ただ病気しているだけで、死にかかっているわけではなく、落ち着いて養生していれば治る」という「(彼をとりまく家族など)一同に承認せられた嘘」であり、それは皮肉にも彼自身が生涯奉仕してきた「礼儀」というものからくるものですが、その「嘘」に自分も加担させられていることに彼は苛立つわけです。

『イワン・イリッチの死』.JPG この作品は読む者に、日常の雑事により隠蔽されている、但し何時か確実に訪れる自らの「死」を想い起こさせるものであり、ある意味、怖いと言うか、向き合うのが苦痛に感じる面もありますが、一方で、文庫で僅か100ページ、「メメント・モリ」をテーマとしたものとしては、比較的手に取り易い、ある種"テキスト"的作品であるようにも思います。

 周囲との断絶に苦しむ主人公は、死の直前、自分の今の存在こそが周囲を苦しめており、そこから周囲を解き放つことによって自分も楽になると感じる。その時、そこには「死は無かった」―。

 死は生の側にあり、死自体は無であるということを如実に示す実存的作品であり、訳者の米川正夫(1891‐1965)はドストエフスキー作品の翻訳でも知られた人、最近刊行された光文社古典新訳文庫でも、ドストエフスキーが"専門"である望月哲男氏が翻訳にあたっています。

 尚、望月氏もそうですが、『新潮世界文学20-トルストイ5』('71年)の中で本作品を訳している工藤精一郎氏も主人公の名前を「イワン・イリイチ」としており、通常ロシア人の名前を日本語で表す際の慣例に従えば「イリッチ」となるのかもしれませんが、韻を踏むことで主人公の規則的な「役人」人生を表象しているらしく、その点からすれば、この作品においては「イリッチ」より「イリイチ」の方が相応しいのかもしれません。
      
生きる2.jpg「生きる」●制作年:1952年●製作:本木莊二郎 ●監督:黒澤明●脚本:黒澤明/橋本忍小国英雄●撮影:中井朝一●音楽:早生きる パンフ.bmp坂文雄●原作:生きる 加東.jpgレフ・トルストイ「イワン・イリッチの死」●時間:143分●出演:ikiru03.jpgikiru04.jpgikiru05.jpg志村喬小田切みき/金子信雄/関京子/浦辺粂子/菅井きん宮口精二 生きる.jpgIMG_生きる 宮口.jpg/丹阿弥谷津子/田中春男/千秋実/左ト全/藤原釜足/中村伸郎/渡辺篤/木村功/伊藤雄之助/清水将夫/南美江/加東大介/山田巳之助/阿部九洲男宮口精二河崎堅男/勝本圭一郎/鈴木治夫/今井和雄/加藤茂雄/安芸津広/長濱藤夫/川越一平/津田光男/榊田敬二/熊谷二良/片桐常雄/田中春男/日守新一/(以下、特別出演)市村俊幸(ジャズバー・ピアニスト)/倉本春枝(ジャズバ「生きる」中村伸郎.jpg「生きる」阿部九洲男.jpgー・ダンサー)/ラサ・サヤ(ストリップ・ダンサー)●公開:1952/10●配給:東宝●最初に観た場所:大井武蔵野館 (85-02-24)(評価★★★★☆)●併映「隠し砦の三悪人」(黒澤明)

中村伸郎(市役所助役)/阿部九州男(市会議員)
  
菅井きん(1926-2018/享年92)(陳情の主婦)/小田切みき(1930-2006/享年76)(小田切とよ)
菅井きん(陳情の主婦).jpg 黒澤 生きる 小田切みき.jpg                                                                                                      
 
志村喬/ラサ・サヤ
生きる ラサ・サヤ.jpg
                                
大井武蔵野館 閉館日2.jpg大井武蔵野館 閉館日.jpg大井武蔵野館.jpg「大井武蔵野館」ぼうすの小部屋 - おでかけ写真展より(左写真)

大井武蔵野館 1999(平成11)年1月31日閉館(右写真・最終日の大井武蔵野館) 

大井武蔵野館・大井ロマン(1985年8月/佐藤 宗睦 氏)
大井武蔵野館・大井ロマン.jpg大井武蔵野館2.jpg

 【1934年文庫化・1973年改定[岩波文庫(米川正夫訳)〕/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(望月哲男訳『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』)〕】

「●へ アーネスト・ヘミングウェイ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1038】 ヘミングウェイ 『老人と海
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

金原瑞人の翻訳も悪くはないが、個人的には旧訳(大久保康雄)の方が好み。

武器よさらば 6.JPG武器よさらば (新潮文庫).jpg 武器よさらば(上).gif 武器よさらば(下).gif 『武器よさらば(上) (光文社古典新訳文庫)』『武器よさらば(下) (光文社古典新訳文庫)
武器よさらば (1955年) (新潮文庫)』(カバー画:向井潤吉)

 1929年に発表されたヘミングウェイの小説で、米国人イタリア兵フレデリック・ヘンリーと英国人看護婦キャサリン・バークレイとの恋を描いた小説(恋人をボートに乗せて湖を渡りスイスに逃れるなんて、かなりロマンチック)であるとともに、第一次世界大戦を背景にした戦争文学(閉塞状況のイタリア戦線が描かれている)として、同年に発表されたレマルクの『西部戦線異状なし』と並ぶものとされています。

武器よさらば 映画パンフ (1960年リバイバル公開時).jpg また、ロック・ハドソン、ジェニファー・ジョーンズ主演の映画化作品('57年/米)も、へミングウェイ原作のものでは、ゲーリー・クーパーとイングリッド・バーグマンの「誰が為に鐘は鳴る」('43年/米)ほどではないですがよく知られています(ゲーリー・クーパーは『武器よさらば』を原作とする「戦場よさらば」('32年、DVDタイトル「武器よさらば」)にも主演で出ている)。

ロック・ハドソン版「武器よさらば」('57年/米)映画パンフ(1960年リバイバル公開時)

 以前に読んだのは大久保康雄(1905‐1987/享年81)訳の新潮文庫のもの(向井潤吉のカバー画が何となく「風と共に去りぬ」みたいな感じなのだが...)で、ここのところ高見浩氏の新訳でヘミングウェイ作品を何冊か読んだので、この作品も高見訳で新潮文庫にあるものの、今度は、この20年間余りで300作以上もの翻訳をこなしてきているという金原瑞人氏の訳で読んでみました。そうしたら、金原訳、読みやすいことには読みやすいけれど、う〜ん、『武器よさらば』って、こんな文字がスカスカな感じだったかなあ。でも、今の若い読者には、この方が受け入れるのかもしれないけれど。

「翻訳文学のいま」金原瑞人氏・角田光代氏.jpg 作家の角田光代氏が金原瑞人氏との公開対談(21世紀活字文化プロジェクト・新!読書生活「翻訳文学のいま」)で、「大久保訳、高見訳とも主人公の一人称が〈ぼく〉であるのに、金原訳では〈おれ〉だったので、すごく印象的だった」と述べていましたが、金原瑞人氏は、俗で荒っぽい軍隊の中にいる主人公が〈ぼく〉では違和感があったため〈おれ〉にしたとのこと。続けて言うには、「ところが困ったことがあって、第1次世界大戦当時はある意味田舎だったアメリカ人の主人公が、世界に冠たる大英帝国の女性に恋をする。〈おれ〉とは言わないだろうなと。結局、この女性に対する時だけは主語はすべて削ってしまった」とのことです。

 なるほど、全体にハードボイルドな雰囲気で、一方、恋人同士の会話部分は、主語(〈おれ〉)及び「〜と言った」などという記述部分が略されていて、映画の字幕を読んでいるような感じも。

 角田光代氏に異議を唱えるわけではないですが、大久保康雄訳は、記述部分における一人称は〈私〉、会話部分では、軍隊仲間の間では〈おれ〉、初めて会う人には〈私〉、女性に対しては〈ぼく〉と使い分けていて、こうした使い分けは普通に行われるものであることからすれば、こっちの方がむしろ自然ではないだろうかという気も。軍隊言葉にちょっと古風な訳があったり、主人公の恋人の名前が「キャザリン」と濁っていたりしますが、個人的には大久保康雄訳の方が好きです。

『武器よさらば』_7843.JPG 翻訳の話になってしまいましたが、大久保康雄訳の新潮文庫解説では、主人公の軍隊からの離脱を、戦争一般とそこに生きる人々を支える抽象的大義を捨てた「単独講和」であるという捉え方をしていて、主人公は状況一般の中に生きる目的を発見する代わりに、血肉をそなえたただ一人の現実の人間を選んだのだとあります。

 金原瑞人訳も悪くないですが、やはり、大久保康雄訳の方が、こうした解釈に相応しい格調を備えているし、情感の描出でも優れているような気がします。あくまでも好みの問題ですが。

 【1955年文庫化[新潮文庫(大久保康雄:訳)]/1957年再文庫化[岩波文庫(上・下)]/1957年再文庫化[角川文庫]/1978年再文庫化[旺文社文庫]/2006再文庫化[新潮文庫(高見浩:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(上・下)(金原瑞人:訳)]】

「●へ アーネスト・ヘミングウェイ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1029】 E・ヘミングウェイ 『武器よさらば
○ノーベル文学賞受賞者(ヘミングウェイ)「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

作品としては傑作。ゴシップ的に読むとヘミングウェイは嫌なヤツ(?)。

日はまた昇る.jpg  日はまた昇る (新潮文庫).bmp  日はまた昇る 講談社英語文庫.jpg 日はまた昇る (集英社文庫).jpg 集英社文庫旧版カバー
日はまた昇る』 〔'00年〕/『日はまた昇る (新潮文庫)』〔'03年〕/『日はまた昇る - The Sun also Rises【講談社英語文庫】』 ['07年]/『日はまた昇る (集英社文庫)』〔'78年/'09年改版〕

『日はまた昇る』.JPG 1926年に発表された長編『日はまた昇る』"The Sun Also Rises"は、大久保康雄 日はまた昇る (新潮文庫).jpgパリ時代のへミングウェイの最高傑作と謳われているだけでなく、"ロスト・ジェネレーション"文学の代表作ともされていますが、大久保康雄(1905-1987)訳('55年/新潮社文庫)と比べて高見浩氏の新訳は大変読みやすく(大久保康雄訳も今読んでもそれほど古さは感じられないのだが)、結局、大久保訳と入れ替わりで本書は新潮文庫に加わりました(それ以外に文庫となっているものでは谷口睦男(1918-1988)訳('58年/岩波文庫)、佐伯彰一訳('78年/集英社文庫)などがある)。

新潮文庫(大久保康雄:訳)['55年]
新潮文庫(高見 浩:訳)['00年]
日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』['12年]
日はまた昇る〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫).jpg それでも、戦場で性機能を失った主人公のジェイクと周辺の若手作家や女友達との絡みが描かれている前半部分がややごちゃごちゃしているように感じられるのは、この作品がもともと最初短編として構想されたものに加筆して長編に改編したものであるからでしょうか。
  
 とは言え、多くの芸術家の卵が集った当時のパリの雰囲気をよく伝えているし(ヘンリー・ミラーの『南回帰線』(1934年)を思い出した)、後半、こうした仲間らとスペインへ行き、パンプローナの闘牛やフェイスタ(サン・フェルミン祭)に興じる中、恋の鞘当てを繰り広げる様は、読んでいても面白い!

 祭の闘牛の描写は、作家自身が何かに憑かれたように書いている印象を受け(ヘミングウェイは1922年から5年連続この祭りに通った)、こうした表現トーンの変調はまだ他にもあるものの、やはり傑作でしょう、この作品は。

Ernest Hemingway (far left) in the 1920s.jpg パンプローナのフェイスタの最中、へミングウェイの分身と思しき主人公のジェイクは、ある奔放な女性を巡って若手作家のブレット・アシュリーと争いますが、高見氏の解説によると、これはヘミングウェイが1925年に自分の妻のハドリーや作家仲間ら男女7人でパンプローナのフェイスタに行った時に、ダフ・トゥイズデンというヘミングウェイが魅了された女性を巡って起きた事件が、そのままベースになっているらしいです。

 恋の鞘当ての相手ブレットのモデルは、ダフと関係があったとされる若手作家のハロルド・ローブで、ダフには、パット・ガスリーというフィアンセもいたというから、三角関係ならぬ四角関係とでも言うかややこしい(こうした人たちが一緒になって旅行したわけで、これでは最初から一触即発状態ではないかと思うのだが)。

[写真]フェイスタでの、左から、へミングウェイ、彼の恋のライバルのハロルド・ローブ(後方)、恋の相手ダフ・トゥイズデン、ヘミングウェイの妻ハドリー(中央)、1人おいてダフのフィアンセのパット・ガスリー(右端の呆け顔)[本書より]

 現実は、ヘミングウェイがハロルド・ローブ喰ってかかったのが先だったようですが(ヘミングウェイは後でローブに詫びを入れている)、小説ではブレットが大人気なく激昂したようになっていて、この小説はアメリカで文学の新潮流として高く評価される一方で、作品舞台のご当地ヨーロッパでは、ゴシップ小説的な読まれ方もしたらしいです。

 へミングウェイ自身は小説同様にダフを得ることが出来ないまま、妻ハドリーとも離婚することになり、更にこの小説により、これらの友人を永遠に失うことになりますが、後のインタビューで、「友人を失ったことについてさして痛みを感じない」、「物語を作ることとは、現実をよりあらまほしき形に再構成すること」であり、「物語のモデルとは、セザンヌが風景の一部に人の姿を描くようなものだ」と言っています。

 「登場人物の造形に実在の人物の姿を借りても、そこに息を吹き込んだのは自分自身の創造だ」(友人宛の手紙より)という作家の強い自負を感じる一方で、現象面だけを捉えると、何だか男らしくないというか、後に築かれた「アメリカ人の多くが敬愛する作家」というイメージとは食い違っている気がして、この人、結構、嫉妬深いというか、嫌なヤツと言うか―その点でまたへミングウェイという作家に新たな興味が湧きました。

 【1955年文庫化[新潮文庫 (大久保康雄:訳)]//1958年再文庫化[岩浪文庫 (谷口睦男:訳)]/1978年再文庫化・2009年改装版[集英社文庫 (佐伯彰一:訳)]/2003年再文庫化[新潮文庫 (高見 浩:訳)]/2012年再文庫化[ハヤカワepi文庫(土屋政雄:訳)]】

「●へ アーネスト・ヘミングウェイ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1025】 ヘミングウェイ 『日はまた昇る
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●ロバート・レッドフォード 出演作品」の インデックッスへ 「●ブラッド・ピット 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

ナイーブな感性から男性原理へ。ハードボイルドのルーツは新聞記者の文章?

『われらの時代・男だけの世界―ヘミングウェイ全短編1』.JPGわれらの時代・男だけの世界.bmp われらの時代に hukutake.jpg われらの時代に/ヘミングウェー短編集1.jpg 女のいない男たち.jpg 
われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)』['95年]/『われらの時代に (福武文庫―海外文学シリーズ)』['88年]『われらの時代に ヘミングウェー短編集1』『女のいない男たち ヘミングウェー短編集2』['13年/グーテンベルク21]Kindle版
in our time.jpgMen Without Women.jpg ヘミングウェイ Ernest Hemingway (1899-1961)の短編のうち、文豪誕生の黎明期とも言える初期のパリ在住時代のものが収められています。1924年刊行の『われらの時代』"In Our Time"と、1927年刊行の『男だけの世界』"Men Without Women"の2つの短編集の「合本」であるとも言えるものですが、高見浩氏による翻訳は新潮文庫のための訳し下ろしであり、現代の感覚から見ても簡潔・自然な訳調は、「新訳」と言っていいと思います。

"In Our Time"(1924)/"Men Without Women"(1927)

 『われらの時代』も『男だけの世界』も、含まれる短編の多くにニック・アダムスという少年期から青年期のヘミングウェイを思Men Without Women .jpgわせる若者が登場しますが、『われらの時代』にはどちらかと言うと、若者のナイーブな感性がとらえた世間というものが反映されているのに対し、『男だけの世界』の方は、男性原理が前面に出た(短編集の表題通り女性が殆ど登場しない)、男臭いというかハードボイルド風のものが殆どとなっています。
 時間的には、この両短編集の間に、当初は短編として構想され、書き進むうちに長編になった『日はまた昇る』"The Sun Also Rises"(1926年)が書かれているわけですが、その時期は、ヘミングウェイが妻と愛人の間で板ばさみになり、心理的に袋小路に追い詰められていた時期でもあり、その両方を失って彼は女嫌いとなったのか、女性的なものを作品に持ち込むことを意図的に避けるようになったようです。
"Men Without Women" Scribner(1997)

A river runs through it.jpg 『われらの時代』は、青春時代が第一次世界大戦後の虚脱状態の世相に重なった"ロスト・ジェネレーション"に意味的に重なるものであり、この中では「二つの心臓の大きな川」という作品が秀逸。心に傷を負った主人公のニックがミシガン湖で友人と釣りをするだけの話ですが、フライフィッシングの描写が素晴らしく(ロバート・レッドフォード監督の「リバー・ランズ・スルー・イット」を思い出した)、また、釣れた鱒を捌く描写の簡潔で的確な筆致は(『老人と海』(1952年)にも魚を捌く場面があるが、それに近い)、同時に主人公の生への意欲の回復を表している感じがしました。
"A river runs through it" (1992) DVD
マクリーンの川 (集英社文庫)
マクリーンの川 (集英社文庫).jpgA river runs through it 2.jpg 「リバー・ランズ・スルー・イット」(原作はノーマン・マクリーンの「マクリーンの川」)では、主人公(クレイグ・シェイファー)が、牧師だった父(トム・スケリット)と才能がありながらも破天荒な生き方の末に亡くなった弟(ブラッド・ピット)を偲んで、故郷の地で、かつて父から教わり、父や弟と親しんだフライフィッシングをする場面が美しく、また、こうした「供養」と言える行動を通して主人公が癒されていくスタイルが独特だなあと思ったのですが、ヘミングウェイの「二つの心臓の大きな川」においても、フライフィッシングが主人公の戦争体験のトラウマを癒す役割を果たしているように思えます。
 そう言えば、'60年代のビート・ジェネレーションの作家リチャード・ブローティガンにも『アメリカの鱒釣り』('75年/晶文社、'05年/新潮文庫)という作者にとっての処女小説(短編集)があり、釣りとアメリカ人の精神性はどこかで繋がるところがあるのかなと思ったりしました。

 『男だけの世界』にも、老闘牛士をモチーフにした「敗れざる者」などの秀作もありますが、やはり、感情表現を排した簡潔な筆致で、ハードボイルドの1つの原型であるともされる「殺し屋」が印象に残ります。思えばヘミングウェイは、パリには新聞社の特派員として滞在していたわけで(第一次大戦中は通信兵として電文を打っていたこともあった)、そうすると、ハードボイルドのルーツは新聞記者の文章ということでしょうか(少し後に『大いなる眠り』(1939年)で長編デビューするレイモンド・チャンドラーも、新聞記者をしていた時期がある)。

「リバー・ランズ・スルー・イット」パンフレット裏.jpg「リバー・ランズ・スルー・イット」.jpg「リバー・ランズ・スルー・イット」●原題:A RIVER RUNS THROUGH IT●制作年:1992年●制作国:アメリカ●監督・製作総指揮:ロバート・レッドフォード●脚本:リチャード・フリーデンバーグ●撮影:フィリップ・ルースロ ト●音楽:マーク・アイシャム●原作:ノーマン・マクリーン 「マクリーンの川」●時間:124分●出演:ブラッド・ピット/クレイグ・シェイファー/トム・スケリット/ブレンダ・ブレシン/エミリー・ロイド/スティーヴン・シェレン/ニコール・バーデット/ジョセフ・ゴードン=レヴィット/ロバート・レッドフォード(ナレーション)●日本公開:1993/09●配給:東宝東和 (評価:★★★★)

「リバー・ランズ・スルー・イット」映画パンフ裏面予告

われらの時代・男だけの世界7.JPG【1988年文庫化[福武文庫(『われらの時代に』)]/1995年文庫化[新潮文庫]】

われらの時代・男だけの世界 (新潮文庫―ヘミングウェイ全短編)』['95年]

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【1072】 スタインベック 『二十日鼠と人間
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●ナスターシャ・キンスキー 出演作品」の インデックッスへ(「ホテル・ニューハンプシャー」) 「●ジャンヌ・モロー 出演作品」のインデックッスへ(「ジブラルタルの追想」)「●アンナ・カリーナ 出演作品」の インデックッスへ(「悪魔のような恋人」)「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ(大塚名画座)

下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自体験に近いところで描くリアリティ。

『長距離走者の孤独』  .JPG長距離走者の孤独.jpg  長距離ランナーの孤独.jpg Alan Sillitoe.jpg Alan Sillitoe
長距離走者の孤独 (新潮文庫)』/映画「長距ランナーの孤独」('62年)
カバー:池田満寿夫

「長距離走者の孤独」.jpg 新潮文庫版は、1958年に発表された「長距離走者の孤独」(The Loneliness of the Long Distance Runner)をはじめ、アラン・シリトー(Alan Sillitoe、1928‐2010の8編の中短編を収めていますが、貧しい家庭で育ち、盗みを働いて感化院に送られた少年の独白体で綴られた表題作が、内容的にも表現的にも群を抜いています。

 アラン・シリトーにはこの他にも、『土曜の夜と日曜の朝』といった代表作がありますが、それらと比べても印象に残LonelinessLongRunner.jpg長距離ランナーの孤独1.jpgっているし、トニー・リチャードソン(Tony Richardson、1928-1991)監督の映画化作品「長距離ランナーの孤独」('62年/英)も有名です。主人公を演じたのはトム・コートネイで、舞台出身ですが、映画はこの作品が実質初出演で初主演でした(後に、「魚が出てきた日」('67年)、「イワン・デニーソヴィチの一日」('74年)などで主演することになる)。

"Loneliness of Long Distance Runner" (1962/UK)/日本版VHS(絶版)

 もともと原作が手記形式なので、映画で主人公が長距離走において遅れてゴールした後ニヤリと笑うなど、映像での表現上やや説明的にならざるを得ないのはいたし方ないか(原作では、他人からは泣きそうになっているように見えるだろうが、実はこれ、"勝利の嬉し泣き"をこらえていたのだ、ということになっている。映画脚本はシリトー自身)。

ホテル・ニューハンプシャー 1.jpgホテル・ニューハンプシャー 0.jpg トニー・リチャードソンは、文芸作品の映画化の名手で、ジョン・アーヴィング原作の映画化作品「ホテル・ニューハンプシャー」('84年/米・英・カナダ) もこの監督によるものであり、これはホテルを経営する家族の物語ですが、ジョディーフォスター、ロブ・ロウ、ナスターシャ・キンスキーという取り合わせが今思ホテル・ニューハンプシャー 01.jpgえば豪華。少なくとも1人(J・フォスター演じるフラニー)乃至2人(N・キンスキー演じる"熊のスージー")の女性登場人物がレイプされて心の傷を負っており、また家族が次々と死んでいく話なのに、観終わった印象は暗くないという、不思議な映画でした(「ガープの世界」もそうだが、ジョン・アーヴィング作品の登場人物は、何かにつけてモーレツと言うか極端な人が多い)。

マドモアゼル [DVD]」Tony Richardson
マドモアゼル DVD2.jpgトニー・リチャードソン.jpg トニー・リチャードソンは、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴと結婚し、2人の娘がいましたが、ジャン・ジュネ原案で、「二十四時間の情事」('59年/日・仏)、「かくも長き不在」('61年/仏)の原作者でもあるマルグリット・デュラス原作の「マドモアゼル」('66年/仏)の撮影でジャンヌ・モローと恋に落ち、1967年にレッドグレイヴと離婚しています。彼はバイセクシュアルで、1991年、エイズによる合併症のため亡くなっていますが、その死を看取ったのはジャンヌ・モローでした。シーラ・ディレーニーの『蜜の味』などの文芸作品も映画化していますが、「マドモアゼル」の翌年に撮られたマルグリット・デュラス原作の「ジブラルタルの追想」('67年/英)と、ウラジミール・ナボコフが原作の「悪魔のような恋人」('69年/英)を名画座ジブラルタルの追想2.pngで二本立てで観ました。

映画プレスシート/ジャンヌ・モロー「ジブラルタルの追想」

「ジブラルタルの追想」.jpgジャンヌ・モロー2.png マルグリット・デュラスTHE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER.jpg原作の「ジブラルタルの追想」は、イタリア旅行中の青年がジブラルタルででアンナ(ジャンヌ・モロー)という女性と出会い、アランの方は彼女を真剣に愛し始めるが、アンナは楽しさだけでアランに身を任せている印象で、そんなジブラルタルの追想o.jpg折、アンナの行方知らずとなっていた恋人が現われたというニュースが飛び込んでくる-というストーリー。一部ミュージカル仕立てで、唄っているジャンヌ・モローが綺麗ですが映画自体は凡庸で(あくまでも個人的印象であって、女性映画の傑作とする人もいる)、やはり文学作品を映画化してその本質を損なわないようにするのは往々にして難しいのかと思いました(因みにジブラルタルはヨーロッパ大陸で唯一今も残る英国植民地で、ここからアフリカ大陸が見渡せるが、自分が旅行した頃は軍事基地があるという理由で近づけなかった。但し、今は観光地化して旅行者に比較的オープンになっている。アフリカ大陸はジブラルタルの手前からでも見渡せた)。
映画プレスシート ジャンヌ・モロー「ジブラルタルの追想」」 ('67年/英)

映画プレスシート/アンナ・カリーナ「悪魔のような恋人」
悪魔のような恋人3.jpg悪魔のような恋人9.jpg「悪魔のような恋人」 vhs.png 一方、ナボコフ原作の「悪魔のような恋人」は、金持ちの画商が小悪のような少「悪魔のような恋人」 カリーナ.jpg 女に破滅させられていく話なのですが、アンナ・カリーナの蠱惑的魅力を十分に引き出して佳作に仕上げており(この作品のアンナ・カリーナが演じる女性はかなり残忍でもある)、「ホテル・ニューハンプシャー」の成功に繋がる"文芸監督"の素地がこの頃からあったと―。

Alan Sillitoe
Alan Sillitoe2.jpg アラン・シリトー原作の『長距離走者の孤独』のストーリー自体はシンプルで、書けば"ネタばれ"になってしまうのですが(もう一部書いてしまったが、と言っても、広く知られているラストだが)、ラスト以外でのこの作品の優れた点は、主人公の少年コリンが友人と共にパン屋に強盗に入ったために捕まる場面で、刑事が自宅に捜索に来た時の主人公の心理などは、作者の体験談ではないかと思われるぐらい目いっぱいの臨場感があります。

 アラン・シリトーは、50年代に登場し偽善的な体制や権力者を糾弾した《怒れる若者たち》と呼ばれる作家グループの1人ですが、このグループに属するとされる『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーンや『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなどは、概ね一流大学出身で大学に教職を得た知識人であるのに対し、シリトーは、工場労働者の家庭の出身で、自らも熟練工員でした。

 結局、《怒れる若者たち》の作家達の作品群で、今世紀になっても最も読み継がれている作品を1つ挙げるとすれば『長距離走者の孤独』になるわけで、その理由として、シンプルだが象徴的な結末と併せて、下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自らの体験に近いところで描いていることからくるリアリティが挙げられるのではないかと思います。

長距離ランナーの孤独  .jpg「長距離ランナーの孤独」.jpg「長距離ランナーの孤独」●原題:THE LONELINESS OF THE LONG DISTANCE RUNNER●制作年:1962年●制作国:イギリス●監督・製作:トニー・リチャードソン●脚本:スタンリー・ワイザー/アラン・シリトー●撮影:ウォルター・ラサリー●音楽:ジョン・アディソン●原作:アラン・シリトー●時間:104分●出演:トム・コートネイ/マイケル・レッドグレイヴ/ピーター・マッデン/ウィリアム・フォックス/トプシー・ジェーン/ジュリア・フォスター/フランク・フィンレイ●日本公開:1964/06●配給:昭映(評価:★★★)

イワン・デニーソヴィチの一日0.jpgイワン・デニーソヴィチの一日 チラシ.jpg「イワン・デニーソヴィチの一日」●原題:ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH●制作年:1971年●制作国:イギリス●製作・監督:キャスパー・リード●音楽:アーン・ノーディム●原作:アレクサンドル・ソルジェニーツィン●時間:100分●出演:トム・コートネイ/アルフレッド・バーク/ジェームズ・マックスウェル/エリック・トンプソン/エスペン・スクジョンバーグ●日本公開:1974/06●配給:NCC●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-16) (評価★★★)●併映「エゴール・ブルイチョフ」(セルゲイ・ソロビヨフ)

「魚が出てきた日」●原題:THE DAY THE FISH COME OUT●制作年:1967年●制作国:アメリカ●監督・製作・脚本:マイケル・カコヤニス●撮影:ウォルター・ラサリー●音楽:ミキス・テオドラキス●時魚が出てきた日ps3.jpgTHE DAY THE FISH COME OUT 1967 .jpgキャンディス・バーゲンM23.jpg間:110分●出演:トム・コートネイキャンディス・バーゲン/サム・ワナメーカー/コリン・ブレークリー/アイヴァン・オグルヴィ/ディミトリス・ニコライデス/ニコラス・アレクション●日本公開:1968/06●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:中野武蔵野館(78-02-24)(評価:★★★☆)●併映:「地球に落ちてきた男」(ニコラス・ローグ)

ホテル・ニューハンプシャー dvd.jpgホテル・ニューハンプシャー02.jpg「ホテル・ニューハンプシャー」●原題:THE HOTEL NEW HAMPSHIRE●制作年:1984年●制作国:アメリカ・イギリス・カナダ●監督:トニー・リチャードソン●製作:ニール・ハートレイ/ピーター・クルーネンバーグ/デヴィッド・J・パターソン●脚本:トニー・リチャードソン●撮影:デイヴィッド・ワトキン●音楽:レイモンド・レッパード●原作:ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」●時間:109分●出演:ジョディーフォスタ/ロブ・ロウ/ボー・ブリッジス/ナスターシャ・キンスキー/フィルフォード・ブリムリー/ポール・マクレーン/マシュー・モディン●日本公開:1986/07●配給:松竹富士●最初に観た場所:三軒茶屋東映(87-01-25)(評価:★★★★)●併映:「プレンティ」(フレッド・スケピシ)ホテル・ニューハンプシャー [DVD]

ジブラルタルの追想ド.jpgジブラルタルの追想-orson-welles-ジブラルタルの追想.jpg「ジブラルタルの追想」●原題:THE SAILOR FROM GIBRALTAR●制作年:1967年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:オスカー・リュウェンスティン●脚本:クリストファー・イシャーウッド/ドン・マグナー/トニー・リチャードソン●撮影:ラウール・クタール●音楽:アントワーヌ・デュアメル●原ジブラルタルの水夫 (ハヤカワ文庫 NV 16).jpgジブラルタルの水夫.jpg作:マルグリット・デュラス「ジブラルタルから来た水夫(ジブラルタルの水夫)」●時間:90分●出演:ジャンヌ・モロー/イアン・バネン/オーソン・ウェルズ/ヴァネッサ・レッドグレーヴ●日本公開:1967/11●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★☆)●併映:「悪魔のような恋人」(トニー・リチャードソン)
    
ジブラルタルの水夫 (ハヤカワ文庫 NV 16)』『ジブラルタルの水夫』[Kindle版]

「悪魔のような恋人」●原題:LAUGHTER IN THE DARK●制作年:1969年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:ニール・ハートリー/エリオット・カストナー●脚本:エドワード・ボンド●撮影:ディック・ブッシュ●音楽:レイモンド・レパード●原作:ウラジミール・ナボコフ「欲望」●時間:104分●出演:ニコル・ウィリアムソ悪魔のような恋人8.jpgLaughter in the Dark2.jpgン/アンナ・カリーナジャン=クロード・ドルオ/ピーター・ボウルズ/シアン・フィリップス/セバスチャン・ブレイク/ケイト・オトゥール/エドワード・ガードナー/シーラ・バーレル/ウィロビー・ゴダード/バジル・ディグナム/フィリッパ・ウルクハート(●日本公開:1969/05●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★★★)●併映:「ジブラルタルの追想」(トニー・リチャードソ大塚駅付近.jpg大塚名画座 予定表.jpg大塚名画座4.jpg大塚名画座.jpgン)
大塚名画座(鈴本キネマ)(大塚名画座のあった上階は現在は居酒屋「さくら水産」) 1987(昭和62)年6月14日閉館


『長距離走者の孤独』.JPG【1973年文庫化[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3096】シェリダン・レ・ファニュ 『女吸血鬼カーミラ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●死刑制度」の インデックッスへ

死刑制度の非道・不合理を訴えた「序」の方が、ストレートに響いた気もする。

死刑囚最後の日』.jpg死刑囚最後の日.gif 「死刑囚最後の日」.jpg 死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 ).jpg Victor Hugo.jpg
死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)』['82年改版]/ 電子書籍版 (グーテンベルク21/斎藤正直:訳)/死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 Aユ 1-1)』['18年](小倉孝誠:訳)/Victor Hugo(1802-1885)

LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE.jpg 1829年2月に"著者名無し"で刊行されたヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の小説で、ある男が死刑判決を受け、それが執行されるまでの心境を、男の告白という形式でドキュメンタリー風に綴ったもの。文庫で170ページほどの薄い本ですが、内容はテーマ通りに重いものです。
 裁判の時は、男は弁護士が求めた終身刑になるぐらいなら死刑の方がマシだと考えていたのが、死刑執行が迫るにつれ終身刑でもいいからと赦免を望むようになり、ギロチン刑による処刑の直前には、僅か5分間の執行猶予さえ求めるようになる―。

 当時の監獄や徒刑囚、死刑執行の様子などがよくわかりますが、留置されている場所からパリ市中を通ってグレーブの刑場へ行き、そこで公開処刑されるというのは、日本の江戸時代の市中引き回しと似ていると思いました。

"Le dernier jour d'un condamné"

The Last Day of a Condemned Man.jpg 監獄で鎖に繋がれながらもインキと紙とペンを与えられ、それにより自らの精神的苦悶を記したという設定ですが、表題通り、処刑当日の朝から午後4時の執行までの男の心境が作品の大部を占め、この部分は「手記」としてではなく、小説としての「独白」でしか成立し得ないわけで、この点がちょっと引っ掛かりました。

 娘や家族との最後の別れに絶望したりしながらも、全体のトーンとしては、意外と男が冷静に周囲を観察し、また周囲の人と話しているような気がして、こんなに冷静でいられるものかなあとも(自分が、今日の夕方にはこの世からいなくなるということが実感できないでいる様子ともとれるが)。

 但し、この作品以前には、こうした死刑囚の心理に深く触れた文学というのは無かったわけで、ドストエフスキーなどもこの作品を自らの創作の参考にしたらしいです(尤も、ドストエフスキー自身が死刑宣告を受け、執行の直前までいった経験の持ち主だったわけだが)。

The Last Day of a Condemned Man

 ヴィクトル・ユーゴーはこの作品の執筆当時26歳で、この時既にロマン派の詩人・作家としての名声を得ていましたが、この作品には死刑廃止論(死刑慎重論)という彼の政治的・社会的思想が込められており、但し、その考え方が世論に受け入れられるかどうかを見るために、「文学」という形式をとり、且つ匿名で発表したとのこと。

 世評の支持を得たとして、本編刊行の3年後に、実名を公表して添えた長めの序文(本編の後に付されている)の方は、死刑執行の残虐さ・非道を事例でリアルに伝える一方で、「社会共同体からの排除」「社会的復讐」「見せしめ・訓育」などの死刑制度擁護論の論拠を理路整然と論破し、死刑制度の不合理を「切実」且つ「現実論的」に訴える政治・社会評論になっていて、こちらの方がむしろ個人的にはストレートに胸と頭に響きました。

 "現実論的"部分で興味深かったのは、「まず確信犯の死刑から廃止せよ」と段階的廃止を主張している点などです。現在の日本でも「連続企業爆破事件」「連合赤軍事件」「オウム真理教事件」の死刑囚は'08年現在、誰も死刑が執行されていないという実態はありますが...(日本政府はユーゴーの考え方に沿っているのか?)。(●「オウム真理教事件」の死刑囚は、2018(平成30)年7月6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人の計13人の刑が執行された。翌2019年5月1日、元号が平成から令和へと改元。)

宣告1.jpg 凶悪犯罪が目立つ昨今、死刑容認論が大勢を占めるようですが、このユーゴーの「序」と加賀乙彦『宣告』を読むと、かなりの人が死刑廃止論に傾くような気がするけれども、どうでしょうか。

加賀乙彦 『宣告 (上・中・下) (新潮文庫)』 


 【1950年文庫化・1982年改版[岩波文庫]/1971年再文庫化[潮文庫]/2018年再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

《読書MEMO》
●「序」より
「死刑を廃止せよというのではなく、慎重に論議すべきである。すくなとも裁判官が陪審らに『被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか』という問いかけをすることにし、『被告は情熱によって行動した』と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい」

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1073】ディケンズ 『クリスマス・カロル
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●ドストエフスキー」の インデックッスへ

ドストエフスキー夫妻の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さの対比。

バーデン・バーデンの夏ド.jpgバーデン・バーデンの夏.jpgバーデン・バーデンの夏』〔'08年〕Leonid Tsypkin.jpg Leonid Tsypkin (1926-1982/享年56)

Summer in Baden-Baden.gif 1982年に米国の雑誌にその冒頭部分が発表され、その後長く埋もれていた小説を、米国の女性作家(活動家としても知られる)スーザン・ソンタグ(1933‐2004)がロンドンの古書店で見つけて再発掘したもので、このドストエフスキーへのオマージュに満ちたこの小説の作者のレオニード・ツィプキン(1926-1982)は、ドストエフスキーが唾棄したところのユダヤ人であり、作家ではなく優れた病理学者でしたが、旧ソ連末期、息子夫婦が米国へ亡命したために要職を外され、自らは出国も認めらないという不遇の中でこの小説を書き、米国で発表された1週間後に亡くなっています。

leonid tsypkin summer in baden baden.jpg 物語は、ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手の「私」が、冬のモスクワからレニングラードに汽車で旅する最中、アンナの日記にある、新婚のドストエフスキー夫妻のドレスデンからバーデン・バーデンへの旅を追慕するように再現する形で始まっており(国内と外国、冬と夏という対比になっている)、以後、主に「アンナ・グリゴーリエヴナ」の視点から、彼の地で借金を抱えた夫「フェージャ」が賭博熱に憑かれ、屈辱、怒り、後悔、懇願を繰り返す様が描かれていますが、どう仕様もないような夫に従順につき従うアンナの姿には、ドストエフスキー作品の登場人物を思わせるような慈愛が感じられました。

 章や段落(改行)が無く句点も極端に少ない文体で、しばしば作者の意識とアンナの意識が交錯し、時にドストエフスキーの意識に深く入り込むという凝った形式をとっていて、2人の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さ(彼が抱える矛盾の典型とも言えるが)を対比的に浮かび上がらせるとともに、ドストエフスキーへの作者の抗い難い想いと、全人類に愛を手向けた彼が、ユダヤ人だけは、まるでそれらの埒外にあるように無視し嫌ったということに対する作者の悩ましい感情が、相克的に奔出されています(ここにも、もう1つの"矛盾"がある)。

 小林秀雄『ドストエフスキーの生活』(角川文庫)の巻末のドストエフスキーの年譜によると、1867年夏、『罪と罰』を前年に完成させた46歳のドストエフスキーは、21歳の新妻アンナとバーデンに滞在しており、この旅はこの小説にあるように、2人の新婚旅行であるとともに借金からの逃避行でもあり、一発巻き返しを狙うドストエフスキーは、滞在先で賭博ルーレットに嵌まり込んだようです。

 小林秀雄は、バーデン・バーデンについては、この地でドストエフスキーがツルゲーネフと対立したこと以外はさほど注目していないようで、それは、この新婚旅行が結局4年間も続くドストエフスキーの海外生活の始まりであり、その後、ドイツ各地の滞在先で、同じような"愚行"を彼が繰り返しているからだと思われます。
 その間に『白痴』を書き上げ、『カラマーゾフの兄弟』の構想も得ているわけですが、この小説では、まだ書かれていない小説の登場人物を用いた描写が多くあるのが興味深かったです。

 ドストエフスキーはこの長期海外滞在を終えた後も何度かドイツに出かけていますが、ドイツで公開賭博が禁止になったため、やりようがなかったらしく(賭博業者は皆、賭博の独占市場となったモンテ・カルロへ移った)、彼の晩年の家庭生活の平安は、モナコの王様のお陰だと、小林秀雄は『ドストエフスキーの生活』の中でジョーク気味に書いています。

「●し ウィリアム・シェイクスピア」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●し 志賀 直哉」 【2550】 志賀 直哉 「剃刀
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●ロマン・ポランスキー監督作品」の インデックッスへ「●「ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

敢えて曇天の下でロケをした、ポランスキーの映画化作品を思い出した。

マクベス.jpg 安西徹雄.jpg マクベス (新潮文庫).jpg    「マクベス」チラシ.jpg マクベス ポランスキー2.jpg
マクベス (光文社古典新訳文庫)』〔'08年〕安西徹雄(1933‐2008.5.29) 『マクベス (新潮文庫)』 映画「マクベス」チラシ/「マクベス[ビデオ]」 (下左)ロマン・ポランスキー監督「マクベス」ポスター

マクベス ポランスキー.jpgマクベス ポスター.jpg 1606年に成ったとされるシェイクスピア4大悲劇の1つであり、以前に、ロマン・ポランスキー監督の映画化作品('71年/米)を名画座で観ましたが、ローレンス・オリビエ監督の「ハムレット」('48年/英)とフランコ・ゼッフィレッリ監督の「ロミオとジュリエット」('68年/米)との3本立てでの上映で、この3本の中では一番時代劇風でありながらも、一番エキセントリックでした。

MACBETH 1971 3.jpg ホラー映画のような雰囲気もあり、ポランスキーだからと納得したいところですが、心理サスペンスが身上の彼にしては、マクベスの首から血がびゅうびゅう飛び出るようなシーンもあるスプラッター調。「マクベス」の映画化は、オーソン・ウェルズ他に続いて3度目でしたが、ポランスキー監督は、妻シャロン・テートを惨殺された事件の後の最初の作品で、血なまぐさいのはそのためなのか?(まさか)

リア王.jpg 安西徹雄の新訳も、『リア王』('06年/光文社古典新訳文庫)などよりはちょっと"重い"感じで、元来『マクベス』というのはそうしたトーンの作品だということでしょうか。『リア王』みたいに道化も出てこないし...。

MACBETH 1971 4.jpg ポランスキーの映画は屋内シーンがやけに暗く、セットの貧しさを隠すためにそうしたのだと言われていますが、野外シーンも同じように暗かったため、これは、敢えてどんよりとした曇天の下でロケをすることで、そうした中世スコットランドの政情不安からくる陰鬱なムードを象徴させていたということかも知れないと改めて思いました。

マクベス (岩波文庫)』(木下順二:訳)['97年]『マクベス―シェイクスピアコレクション (角川文庫クラシックス)』(三神 勲:訳)['96年](カバーイラスト:金子國義) 
マクベス (岩波文庫).jpgマクベス改版 角川文庫クラシックス.jpg マクベスが自らが殺したスコットランド王の幻影を見るシーンはちょっと滑稽さも感じるに対し、マクベス夫人が自分の手が血に塗られている幻覚を見る場面はストレートに怖いです(映画よりも原作の方が怖いかも)。

 「バーナムの森が動かない限り」はマクベスの王座は安泰で、「女から生まれた者には敗れることはない」という魔女の予言が、どういった形でそれぞれ破られるのかというのも、読者の興味を引くところです。「女(訳本によっては「女の股」)から生まれた者には殺されない」と魔女に告げられ慢心していたマクベスですが、マクダフは「母の腹を破って出てきた」男だったのだなあ。要するに「帝王切開」ということですが、19世紀後半くらいまで、帝王切開で母子ともに助かるケースは稀だったようです(王政ローマ時代のカエサルが帝王切開によって誕生したというのは、カエサルの生後に母親が生きていたという記録があり、伝説にすぎないようだ)。因みに、魔女たちは予言の中ですでに「マクダフに気をつけろ」とも言っています。

 訳者の安西徹雄氏は、本書翻訳後、訳稿の校正段階で病のため入院し、'08年5月に逝去しています。光文社古典新訳文庫でのこれからの新訳が楽しみだっただけに残念です。

 そう言えば、この作の「3人の魔女」のモチーフは、アガサ・クリスティの『蒼ざめた馬』の中で使われていました。
蒼ざめた馬 1997 3老婆.jpgThe Pale Horse 1997 e22.gif
「アガサ・クリスティ/青ざめた馬 (魔女の館殺人事件)」 (97年/英) ★★★☆

「アガサ・クリスティー ミス・マープル(第17話)/蒼ざめた馬」 (10年/英・米) ★★★☆

蜘蛛巣城 dvd.jpg蜘蛛巣城 10.jpg さらによく知られているところでは、黒澤明監督の「蜘蛛巣城」('57年/東宝)は「マクベス」を翻案したもので、クレジットにはありませんが、一般にも「マクベス」が原作であるとされています。3人の魔女ではなく一人の妖婆が出てきて、三船敏郎演じるマクベスに相当する鷲津武時という武将に、やがて蜘蛛巣城の城主になると予言し、さらに「女から生まれた者には殺されない」とは言いませんが、「森が動かなければ滅びない」とは言います。
「蜘蛛巣城」 (1957/01 東宝) ★★★★☆

IMG_20201107_035652.jpg また、手塚治虫の『バンパイヤ』は、その骨バンパイヤ 秋田書店 初版1966.jpg組みが「マクベス」であることを作者自身が明かしています。そもそも、バンパイヤの敵役となる(時に味方にも見えたりする)ロック少年の本名は間久部(まくべ)緑郎、世界制覇を目論む冷酷な少年ですが、知的な判断力を持ちながら、一方で、「マクベス」の"3人の魔女"に相当する"3人の占い師"に自分の行く末を占わせたりしています。こちらは、「蜘蛛巣城」と逆で、ロックは魔女から、「森が動かなければ滅びない」とは言わバンパイヤ tv 魔女.pngれませんが、「あんたは、人間にゃやられないよ」と言われ、これは「女から生まれた者には殺されない」と言われたマクベスと同じで、さらにロックは、「人間でないものにもやられない」と言われます(裏を返せば、「人間」でも「人間でないもの」でもない、「変身中のバンパイヤ」がロックの天敵となることになる)。「バンパイヤ」は'68年にフジテレビでドラマ化されましたが(実写とアニメの複合。主役のトッペイ役は水谷豊)、こちらにもちゃんと、ロックが頼る"3人の占い師"が出てきます。
     

MACBETH 1971 1.jpgMACBETH 1971 2.jpg「マクベス」●原題:MACBETH●制作年:1971年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ロマン・ポランスキー●音楽:ザ・サード・イアー・バンド●原作:ウィリアム・シェイクスピア●時間:146分●出演:ジョン・フィンチ/フランセスカ・アニス/マーティン・ショウ/ニコラス・ セルビー/ジョン・ストライド/ステファン・チェイス/ポール・シェリー/テレンス・ ベイラー/アンドリュー・ローレンス/フランク・ワイリー●日本公開:1973/07●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(81-03-15) (評価★★★)●併映:「ハムレット」(ローレンス・オリビエ)/「ロミオとジュリエット」(フランコ・ゼッフィレッリ)

文庫マクベス 角川.jpg 【1958年文庫化[岩波文庫(野上 豊一郎:訳)]/1968年・1996年再文庫化[角川文庫/角川文庫クラシックス(『マクベス―シェイクスピアコレクション』(三神 勲:訳))]/1969年再文庫化[新潮文庫(福田恒存:訳)]/1980年再文庫化[旺文社文庫(大山俊一:訳)]/1996年再文庫化[ちくま文庫(『シェイクスピア全集 (3) マクベス』(松岡和子:訳)]/1997年再文庫化[岩波文庫(木下順二:訳)]/2008年再文庫化[光文社古典新訳文庫((安シェイクスピア全集 (3) マクベス.jpg西徹雄:訳))]/2009年再文庫化[角川文庫(『新訳 マクベス―シェイクスピアコレクション』(河合祥一郎:訳))]】
シェイクスピア全集 (3) マクベス (ちくま文庫)』(松岡和子:訳)['96年]カバー画:安野光雅

新訳 マクベス (角川文庫)』(河合祥一郎:訳)['09年](カバーイラスト:金子國義)

「●し ウィリアム・シェイクスピア」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1017】 シェイクスピア『マクベス
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

リア王は自己愛性パーソナリティ障害の典型。ハッピー・エンドに改変され150年間演じられた。

リア王.jpg リア王2.bmp リア王 (白水Uブックス (28)).jpg リア王 山崎努.jpg
リア王 (光文社古典新訳文庫)』 (安西徹雄:訳)['06年]  『リア王 (1967年) (新潮文庫)』 (福田恒存:訳)['67年]『リア王 (白水Uブックス (28))』 (小田島雄志:訳)['83年] 新国立劇場こけら落とし講演「リア王」(1998)山崎 努/真家瑠美子

 ブリテン王・リア王は、突然引退を表明し、誰が王国継承にふさわしいか、娘たちの愛情をテストするが、気性の荒さと老いによる耄碌から、長女ゴネリルと次女リーガンの黒い腹の底を見抜けず、最愛の三女コーディリアには裏切られたとものと思い込む―。

 1605年に成ったとされるシェイクスピア4大悲劇の1つ。 1997年に開館した新国立劇場のこけら落とし公演(1998年1月)が「リア王」だったなあ(リア王を演じたのは山崎努)。演劇集団「円」(これ、立ち上げたのは福田恒存だった)の演出者でもあった安西徹雄(1933‐2008)の新訳は、今日の役者のせりふとして観客がそれを聞いて自然に楽しめるような語調になっています。
 結果的に、福田恒存などによる従来訳に比べ大時代的な(日本流に言えば歌舞伎演劇的な)色合いが弱まり、その分、エンターテインメント性が前面に出ている感じですが、実際、シェイクスピアの時代の観客は、芸術鑑賞というより娯楽としてこの芝居を楽しんだのではないかと思われ、そうした当時の観客の意識に近づけたような気がします。

自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本.jpg 以前読んだ『自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本』('07年/講談社)で、「自己愛性パーソナリティ障害」の典型例としてこの「リア王」が挙げられていましたが、「自己愛性パーソナリティ障害」とは健全な人間関係を築けないという障害であり、根本にあるのは「愛しているのは自分だけ」という思いで、極端に自己中心的で、他者から賞賛を求めるが他者への配慮はなく、傲慢・不遜な態度が目立つとのこと。当て嵌まっているなあ、確かに。

 リア王の臣下でグロスター伯というのが出てきますが、この人物が「ミニ・リア王」みたいな人で、息子2人のどちらが自分を愛しているかが見抜けないのですが、こうした重層構造のプロットにし、さらにリアの悪い娘とグロスターの悪い息子が結託して―といった具合に話を"面白く"していて飽きさせません。

シェイクスピア全集 (5) リア王.jpgリア王 新潮文庫.jpg こうしたジグソーパズルの組み合わせみたいなストーリー構成はツボを押さえているという感じで、『ロミオとジュリエット』などもそうですが、最後の何枚かのピースを裏返すと、そのままハッピー・エンドにもなるかも。

 実際、解説によると、ネイハム・テイトという17世紀の人がこれをハッピー・エンドに改作し、19世紀中ごろまで150年以上にわたって舞台で演じ続けられたのは、このテイト版だったとのことです。

リア王 (新潮文庫)』 (福田恒存:訳)[改版版]

シェイクスピア全集 (5) リア王 (ちくま文庫)』(松岡和子:訳)カバー画:安野光雅

 【1967年文庫化[新潮文庫(福田恒存:訳)]/1973年再文庫化[旺文社文庫]/1974年・2000年再文庫化[岩波文庫]/1997年再文庫化[ちくま文庫(『シェイクスピア全集 (5) リア王』(松岡和子:訳)]/2008年再文庫化[光文社古典新訳文庫((安西徹雄:訳)]/2020年再文庫化[角川文庫(『新訳 リア王の悲劇―シェイクスピアコレクション』(河合祥一郎 :訳))]】

「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1024】 ジャック・フィニイ 『ふりだしに戻る
「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ「●「カンヌ国際映画祭 男優賞」受賞作」の インデックッスへ(「コレクター」テレンス・スタンプ)「●「カンヌ国際映画祭 女優賞」受賞作」の インデックッスへ(「コレクター」サマンサ・エッガー) 「●メリル・ストリープ 出演作品」の インデックッスへ(「フランス軍中尉の女」「ソフィーの選択」)「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(二子東急)○ノーベル文学賞受賞者(ハロルド・ピンター)

かなり怖い心理小説であると同時に、何だか予言的な作品。

『コレクター』 (196609 白水社).jpgコレクター(収集狂).jpg コレクター 上.jpg コレクター下.jpg ウィリアム・ワイラー 「コレクター」.jpg
新しい世界の文学〈第40〉コレクター (1966年)』白水社『コレクター (上)(下)』白水Uブックス/映画「コレクター」(1956) 「カンヌ国際映画祭 男優賞(テレンス・スタンプ)」 カンヌ国際映画祭 女優賞(サマンサ・エッガー)

「フランス軍中尉の女」.bmpフランス軍中尉の女.jpgThe Collector John Fowles.jpg 1963年発表のイギリスの小説家ジョン・ファウルズ(1916‐2005)『コレクター』 (The Collector)は、映画化作品('65年、テレンス・スタンプ主演)でも有名ですが、イギリス人女性とフランス人男性の不倫を描いたカレル・ライス監督の「フランス軍中尉の女」('81年、メリル・ストリープ主演、メリル・ストリープはこの作品でゴールデングローブ賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞の各「主演女優賞」を受賞)の原作者もジョン・ファウルズであることを知り、サイコスリラーからメロドラマまで芸域が広い?という印象を持ちました。但し、映画「フランス軍中尉の女」は一昨年['05年]ノーベルハロルド・ピンター1.jpg文学賞を受賞した脚本家ハロルド・ピンターの脚色であり、現代の役者が19世紀を舞台とした『フランス軍中尉の女』という小説の映画化作品を撮影する間、小説と同じような事態が役者達の間で進行するという入れ子構造になっていることからもわかるように(そのため個人的にはやや入り込みにくかった)、映画はほぼハロルド・ピンターのオリジナル作品になっているとも言え、映画は映画として見るべきでしょう。
ハロルド・ピンター(1930-2008

the collector 1965.jpg 『コレクター』の方のストーリーは、蝶の採集が趣味の孤独な若い銀行員の男が、賭博で大金を得たのを機に仕事をやめて田舎に一軒家を買い、自分が崇拝的な思慕を寄せていた美術大学に通う女性を誘拐し、地下室にに監禁する―というもの。
"The Collector " ('65/UK)
The Collector.jpg 日本でも女児を9年も監禁していたという「新潟少女監禁事件」(1990年発生・2000年発覚)とかもあったりして、何だか今日の日本にとって予言的な作品ですが、原作は、独白と日記から成る心理小説と言ってよく、人とうまくコミュニケーション出来ない(当然女性を口説くなどという行為には至らない)社会的不適応の男が、自分の思念の中で自己の行為を正当化し、さらに一緒にいれば監禁女性は自分のことを好きになると思い込んでいるところがかなり怖い。

the collector 1965 2.jpg しかし、性的略奪が彼の目的でないことを知った女性が彼に抱いたのは「哀れみ」の感情で、彼女の日記からそのことを知った男はかえって混乱する―。
サマンサ・エッガー
サマンサ・エッガー_2.jpg 文芸・社会評論家の長山靖生氏は、この作品の主人公について「宮崎勤事件」との類似性を指摘し、共に「女性の正しいつかまえ方」を知らず、実犯行に及んだことで、正しくは"コレクター"とは言えないと書いてましたが、確かにビデオや蝶の「収集」はともかく、この主人公に関して言えば女性はまだ1人しか"集めて"いないわけです。しかし、作品のラストを読めば...。

「コレクター」7.jpg 映画化作品の方も、男が監禁女性を標本のように愛でるのは同じですが、彼女に対する感情がより恋愛感情に近いものとして描かれていて、結婚が目的となっているような感じがして、ちょっと原作と違うのではと...。

 テレンス・スタンプの代表作として知られているものの(カンヌ国際映画祭男優賞受賞)、ヒロインを演じたサマンサ・エッガーの演技も悪くなかったです(カンヌ国際映画祭女優賞受賞。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門)も受賞している)。結構SMっぽい場面もあったりして、「ローマの休日」を撮ったウィリアム・ワイラーの監督作品だと思うと少し意外かもしれません。
    
萌える男.jpg 「萌え」評論家?の本田透氏は、「恋愛」を追い求めるという点で(レイプ犯とは異なり)主人公はストーカー的であると言っていて(『萌える男』('05年/ちくま新書))、これは原作ではなく映画を観ての感想のようですが、確かに「娼婦ならロンドンに行けばいくらでも買える」だけの大金を主人公が持っていたことは、本作品を読み解くうえで留意しておいた方がいいかもしれません。但し、映画での主人公が異常性愛者っぽいのに対し、原作での主人公は何かセックス・レスに近いとも言えるような気がしました。
      
「ソフィーの選択」1982.jpg.gif 因みに、冒頭に挙げた「フランス軍中尉の女」('81年)のメリル・ストリープは、前述の通りこの作品でゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞しましたが、アカデミー賞の主演女優賞はノミネート止まりで、翌年の「ソフィーの選択」('82年)で主演女優賞を、2年連続となるゴールデングローブ賞主演女優賞と併せて受賞しました(ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞、ニューヨーク映画批評家協会賞、全米映画批評家協会賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞の各主演女優賞も受賞)。ただし、アカデミー賞の"助演"女優賞の方は、「ディア・ハンター」('78年)でノミネートされ、「クレイマー、クレイマー」('79年)ですでに受賞しており、この時にゴールデングローブ賞"助演"女優賞も受賞しているので、この頃はほとんど出る作品ごとに大きな賞を受賞していたことになります。

「ソフィーの選択」1.jpg「ソフィーの選択」2.jpg アラン・J・パクラの「ソフィーの選択」('82年)は、昨年['06年]亡くなったウィリアム・スタイロン(1925-2006)が1979年に発表しベストセラーとなった小説が原作です。駆け出し作家のスティンゴ( ピーター・マクニコル )が、ソフィー(メリル・ストリープ)というポーランド人女性と知り合うのですが、彼女には誰にも語ることの出来ない恐るべき過去があり、それは、彼女の人生を大きく左右する選択であった...という話で、ネ「ソフィーの選択」3.jpgタバレになりますが、自分の幼い娘と息子のどちらを生きながらえさせるか選択しろとドイツ将校に求められるシーンが壮絶でした。この作品でメリル・ストリープは役作りのためにロシア語訛りのポーランド語、ドイツ語及びポーランド語訛りのある英語を自在に操るなど、作品の背景や役柄に応じてアメリカ各地域のイントネーションを巧みに使い分けており、そのため「訛りの女王」と呼ばれてその才能は高く評価されることになります。「恋におちて」('84年)で共演したロバート・デ・ニーロは、メリル・ストリープのことを自分と最も息の合う女優と言っています。
 

the collector 1965 3.jpg「コレクター」●原題:THE COLLECTOR●制作年:1965年●制作国:イギリス・アメリカ●監督:ウィリアム・ワイラー●製作:ジョン・コーン/ジャド・キンバーグ●脚本:スタンリー・マン/ジョン・コーン/テリー・サザーン●撮影:ロバート・サーティース/ロバート・クラスカー●音楽:モーリス・ジャール●原作:ジョン・ファウルズ●時間:119分●出演:テレンス・スタンプ/サマンサ・エッガー/モナ・ウォッシュボーン/モーリス・ダリモア●日本公開:1965/08●配給:コロムビア映画(評価:★★★☆)

フランス軍中尉の女04.jpg「フランス軍中尉の女」●原題:THE FRENCH LIEUTENANT'S WOMAN●制作年:1981年●制作国:イギリス●監督:カレル・ライス●製作:レオン・クロア ●脚本:ハロルド・ピンター●撮影:フレディ・フランシス●音楽:カール・デイヴィス●原作:ジョン・ファウルズ●時間:123分●出演:メリル・ストリープ/ジェレミー・アイアンズ/レオ・マッカーン/リンジー・バクスター/ヒルトン・マクレー●日本公開:1982/02●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:六本木・俳優座シネマテン(82-05-06)●2回目:三鷹文化(82-11-06)(評価:★★☆)●併映(2回目):「情事」(ミケランジェロ・アントニオーニ)

ソフィーの選択 [DVD]
「ソフィーの選択」d1.jpg「ソフィーの選択」4.jpg「ソフィーの選択」●原題:SOPHIE'S CHOICE●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督・脚本:アラン・J・パクラ●製作:キース・バリッシュ/アラン・J・パクラ●撮影:ネストール・アルメンドロス●音楽:マーヴィン・ハムリッシュ●原作:ウィリアム・スタイロン●時間:150分●出演:メリル・ストリープ/ケヴィン・クライン/ピーター二子東急 1990.jpg・マクニコル/リタ・カリン/スティーヴン・D・ニューマン/グレタ・ターケン/ジョシュ・モステル/ロビン・バートレット/ギュンター・マリア・ハルマー/(ナレーター)ジョセフ・ソマー●日二子東急.gif本公開:1982/12●配給:ユニバーサル・ピクチャーズ●最初に観た場所:二子東急(86-07-05)(評価:★★★☆)●併映:「愛と追憶の日々」(ジェイムズ・L・ブルックス)

二子東急のミニチラシ.bmp二子東急 場所.jpg二子東急 1957年9月30日 開館(「二子玉川園」(1985年3月閉園)そば) 1991(平成3)年1月15日閉館

 
 【1984年新書化[白水Uブックス(上・下)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1019】 V・ユーゴー 『死刑囚最後の日
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●お 大岡 昇平」の インデックッスへ 「●地誌・紀行」の インデックッスへ 「●中公新書」の インデックッスへ 「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(高田馬場東映パラス)

カオス・シチリア物語2.jpg 村の掟を破った息子を銃殺する父。凄まじきかな、父性原理。

エトルリヤの壷2.JPG『エトルリヤの壷 他五編』.jpg Prosper Mérimée.jpg Prosper Mérimée(1803-1870)
岩波文庫改版版/『エトルリヤの壷―他五編 (1971年)』 パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ 「カオス・シチリア物語 [DVD]

『エトルリヤの壷 他五編』.JPG 1829年発表のフランスの作家プロスペル・メリメ(1803‐1870/享年66)の作品。メリメは『カルメン』の作者として知られる作家で、考古学者・美術史家・言語学者でもあり、元老院議員にまで出世する一方、社交界で浮名を流すなどした人で、フランス人でありながら、スペインやイタリアを舞台にした小説が多いのは、実際にそうした方面に旅行したことと、多言語を解する語学力によるところが大きいようです。

 本書『エトルリヤの壷』(岩波文庫の改版前の初版刊行は昭和3年と旧い)は、そのメリメの短篇6篇を集めたもので、うわさ話に振り回されて自分で自分を滅ぼしてしまう男を描いた表題作など、人間の心理的葛藤や人生の皮肉を端的に描いたものが多いです。

コルシカ紀行.jpg その中でも「マテオ・ファルコーネ」は、やや異彩を放つもので、19世紀のコルシカ島の村での話ですが、この話に衝撃を受けた作家の大岡昇平は、そのルーツを探るためにコルシカ島を訪れ、『コルシカ紀行』('72年/中公新書)を著しています(但し、コルシカ島の県庁所在地バスティア市の博物館で、探していた「コルシカの悲劇的歴史」に纏わる文献が、金庫が錆びていて開かなかっため閲覧できず、館長から後で贈るという約束を取り付けるも、結局は送ってこなかったなど、結構"空振り"の多い旅行になっている)。

大岡 昇平『コルシカ紀行 (中公新書 307)』['72年/中公新書]

マテオ・ファルコーネ05.jpgMateo Falcone (1829).bmp 若い頃から射撃に優れ、村人の人望もあった羊飼いマテオ・ファルコーネは、妻と3人の娘、そして最後に生まれた男の子とともに自活的な農牧生活を送っていた―。そんなある日、マテオ一家が留守中に、憲兵に追われ村に逃れてきたお尋ね者が家にやって来て、1人留守を預かっていた10歳の息子は、一旦は彼を隠すのですが(伝統的にその村には、官憲などに追われている人をかくまう「掟」があった)、憲兵の「居場所を教えれば時計をやる」という言葉に負けて、お尋ね者を隠した場所を教えてしまい、彼は捕えられます。そのとき家に戻ってきたマテオに向かって男は「ここは裏切り者の家だ!」と叫び、すべてを察したマテオは、自分の息子を窪地へ連れて行き、大きな石のそばに立たせ、お祈りするよう命じ、終わるや否や、泣いて命乞いする本人や妻の制止を振り切って息子を銃殺するという話。

 簡潔な写実と会話を連ねた飾り気のない文章ゆえにかえって凄惨な印象を受け、この話を西洋的な父性原理の象徴と見るむきもあれば(それにしても凄まじい!)、運命的悲劇との捉え方もあり、また小説とは言えないという見方もあるようですが、確かに一種の「説話」のような感じがしました(小説的良し悪しを言うのが難しい)。文庫で20ページしかない短篇のほとんどのあらすじを紹介してしまったので、ラストの父親の"決めゼリフ"だけは書かないでおきます。

カオス・シチリア物語1.jpg 尚、この短編集の表題作「エトルリアの壺」は、パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ監督のシチリアの説話を基にしたオムニバス映画「カオス・シチリア物語」('84年/伊)の中の一話「かめ(甕)」として映画化されています(翻案:ルイジ・ピランデッロ)。

カオス・シチリア物語 甕.jpg 欲しい物は全て手に入れたはずなのに、さらに多くを欲する大地主ドン・ロロがが購入した巨大なオリーブ油を入れる瓶-それは彼の権力の象徴であったが、そんな瓶が壊れてしまい、それをどうしても直したい彼は、瓶を修理することが出来る奇跡の技を持つ老職人を雇うが、職人は修理完了後に瓶の中から出られなくなる。ロロは瓶を壊すことを拒むが、職人は稼いだ金を使って村人達を集め、瓶を囲んでの宴会を繰り広げる。皆が職人を好いているように見えるのが気に入らないロロだったが、嫉妬が頂点に達した時、彼は遂に瓶を壊してしまう-。

「カオス・シチリア物語」.JPG ロロという人物にも、マテオ・ファルコーネに通じる男性原理が感じられる一方、人は所詮は全てを独占することなど出来ず、独占するのではなく共有することがいうことに価値があることを喩えとしてを教えているようにも思える作品であり(ここでは、男性原理のある種"限界性"が描かれているとも言える)、タヴィアーニ兄弟は、このメリメ原作の物語をはじめ、シチリアの"混沌"という意のカオス村(兄弟の生まれ故郷でもあるらしい)を舞台にした素朴な人間たちのドラマを、7つの挿話にわけて美しい映像のもと描いています。

ドン・ローロのつぼ02.jpgドン・ローロのつぼ01.jpg 因みに、この映画に触発されて、絵本作家の飯野和好氏が、この「壺」の寓話を、『ドン・ローロのつぼ』('99年/福音館書店(年少版 こどものとも)という絵本にしています。

              
                          

カオスシチリア物語.jpgカオス・シチリア物語KAOS 1984.jpg 「カオス・シチリア物語」●原題:KAOS●制作年:1984年●制作国:イタリア●監督・脚本:パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ●製作:ジュリアーニ・G・デ・ネグリ●撮影:ジュゼッペ・ランチ●音楽:ニコラ・ピオヴァーニ●原作:ルイジ・ピランデッロ●時間:187分●出演:マルガリータ・ロサーノ/オメロ・アントヌッティ/ミコル・グイデッリ/ノルマ・マルテッリ/クラウディオ・ビガリ/ミリアム・グイデッリ/レナータ・ザメンゴ/マッシモ・ボネッティ●日本公開:1985/08●配給:フランス映画社●最初に観た場所:高田馬場東映パラス(87-10-03)(評価:★★★★)

高田馬場a.jpg高田馬場・稲門ビル.jpg高田馬場東映パラス 入り口.jpg高田馬場東映パラス 高田馬場・稲門ビル4階(現・居酒屋「土風炉」)1975年10月4日オープン、1997(平成9)年9月23日閉館

①②高田馬場東映/高田馬場東映パラス/③高田馬場パール座/④早稲田松竹


 【1928年文庫化・1971年改版[岩波文庫]/1960年再文庫化[角川文庫(『マテオ・ファルコーネ-他五編』)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【668】 メリメ 「マテオ・ファルコーネ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●よ 吉行 淳之介」の インデックッスへ

精神の自由と人生の快楽を求めた生き方の天才の自伝的処女長編。

IMG_3215.JPG北回帰線 文庫  .jpg
北回帰線.jpg
  ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』.gif
北回帰線 (新潮文庫)』『愛と笑いの夜 (1968年)』河出書房 (吉行淳之介:訳/池田満寿夫:装幀)『愛と笑いの夜』角川文庫(吉行淳之介:訳)〔'76年〕
北回帰線 新潮社 1953.jpgHenry Miller.jpg 1934年パリにおいて発表された米国の作家ヘンリー・ミラー(1891‐1980)の自伝的処女長編『北回帰線』(Tropic of Cancer)は、30歳過ぎで渡仏しパリで送ったボヘミアンな生活が詩的に、ただし汚辱と猥雑さに満ち満ちて綴られていています。

Henry Miller (1891‐1980/享年88)

 主人公の30歳に近い「わたし」は、ニューヨークの電報会社で猛烈に働くサラリーマンだが(まったくミラー自身の経歴と同じ)、現代社会がもたらす人間疎外を痛感、芸術家になるために「自己の内面に突き進む」決心をする。女性との交わりもその試金石の1つだったが、彼がその中に聖性を見い出したかのように思った女性は、実は単なる見栄っ張りな俗物に過ぎなかった―。

ペーパーバック『北回帰線』.jpg パリでの生活は、言わばミラー版「巴里のアメリカ人」と言ったところで、ただし映画「巴里のアメリカ人」とは違って、淑女より娼婦の方がいっぱい出てきて、その他にも、明るいユダヤ系ロシア系とか、おかしなインド人とか様々な人物が登場し、ちょっとタガが外れたインターナショナルな雰囲気で、その中に自分がアメリカ人であることを意識しているミラーがいるような気がしました。
 
 社会のアウトローになることを恐れず(ただし彼は、友人を作るという処世術に長けていた)、自らの信念に沿って精神の自由と人生の快楽を求め、それを心から享受できる彼は、まさにオリジナルな生き方の天才!('60年代に"ヒッピー"の教祖みたいになったこともあった)。そして、アナイス・ニンなどのスポンサードでその希代の文学的才能を開花させ、アメリカ文学に今まで無かった地平を切り開いたのがこの作品です。

ペーパーバック『北回帰線』

Henry MILLER.jpg かつて新潮文庫では『北回帰線』『南回帰線』『セクサス』『ネクサス』までカバーしていて順番に読んだ記憶がありますが、今あるのは『北回帰線』と『南回帰線』だけで、この2作がやはり代表作であることは確か。
 完成度から言えば『南回帰線』の方が高いのかも知れませんが、『北回帰線』には荒削りでダダイスティックな魅力があり、"自動記述"などいろいろな文学的実験が自由奔放になされています(大久保康雄訳には、その辺りを訳出する苦心の跡が窺える)。

Henry MILLER, at home, photo by Henri Cartier-Bresson, 1946

『愛と笑いの夜』 角川文庫(吉行淳之介:訳〔'76年〕/福武文庫(吉行淳之介:訳)〔'86年〕
愛と笑いの夜.jpg愛と笑いの夜 福武文庫.jpg パリで発表された当時、『北回帰線』は米英では発禁処分になっていたので、『北回帰線』出版後も、パリから渡英する際にミラーが係官に自分の身分を証明するのに苦労して、「自分にはTropic of Cancer(北回帰線)という著書がある」と言ったところ癌(Cancer)に関する医学書と間違われたという話が、『愛と笑いの夜』(吉行淳之介訳・'68年/河出書房、'76年/角川文庫、'86年/福武文庫)所収の「ディエップ=ニューヘイヴン経由」という短編の中にありました。

 1955年発表のこの短篇集(原題:Nights of Love and Laughter)は、「ディエップ=ニューヘイヴン経由」のほかに、「マドモアゼル・クロード」「頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人」「占星料理の盛り合せ」「初恋」を所収していますが、ミラーの長編とは異なるオーソドックスな表現方式と、意外と純な性格面が窺えて(特に、自分の体験をモチーフにしたと思われる「初恋」)興味深いです。

『北回帰線』...【1969年文庫化〔新潮文庫〕/2004年単行本〔水声社〕】
『愛と笑いの夜』...【1976年文庫化[角川文庫]/1986年再文庫化[福武文庫]】
 

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1105】 ソール・ベロー 『この日をつかめ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

自殺することが救いとなり得るかという究極の問いかけ。ブレッソンの映画化作品がいい。

少女ムーシェット 単行本.jpg少女ムーシェット.jpg 『少女ムーシエット (1971年)』晶文社 悪魔の陽のもとに.jpg悪魔の陽のもとに』春秋社〔'99年新装版〕

 1926年に発表されたフランスのカトリック作家ジョルジュ・ベルナノス(1888‐1948)の『悪魔の陽の下に』の第1部にあたる「少女ムーシェット」を元に、作者自身が単独の物語として翻案したもので、病気の母、乱暴な父のいる貧しい家庭で、同年代からも侮蔑され、身勝手な大人たちからは弄ばれ、生の暗闇の中で喘ぐ孤独な少女を描いたものです。

 すべてに絶望した少女は最後に自殺しますが、カトリックは自殺を容認しないはずで、カトリック作家がこうした作品を書いていること自体がある意味驚きと言えるかもしれません。
 しかし、その少女が死に至るまでの状況は、仮に自分がキリスト者であれば、果たして神はいるのかと問いたくなるような絶望的なもので、一方で彼女の自死の部分の描写には不思議な清澄感があり、救いとは何かという宗教的な問いかけを、キリスト者であるなしに関わらず読者に投げかけてくる作品です。

少女ムシェット2.jpg 本書を読んだきっかけは、ロベール・ブレッソン(1901‐1999)監督の映画化作品少女ムシェット」('67年)を観たためで、この映画化作品は、原作の本題である、「死」は14歳の少女にとって唯一の救いであったと言えるのでないかという問いを、観る者に切実に突きつけてきます。

ロベール・ブレッソン (原作:ジョルジュ・ベルナノス) 「少女ムシェット」 (67年/仏) (1974/09 エキプ・ド・シネマ) ★★★★★

 『少女ムーシェット』のベースになってる『悪魔の陽の下に』におけるムーシェットの人物像は、本書におけるそれよりも蠱惑的で、男をたぶらかしては逆に捨てられ、悪に手を染める16歳の少女として描かれていますが、最後は罪の意識に目覚めて自殺するといったもので、3部構成の第2部はまるでベルイマン映画のような神父と悪魔の闘いが、第3部ではまるでカール・テオドア・ドライヤーの映画のような奇跡が描かれています。
 因みにこの「悪魔の陽の下に」も映画化されていて('87年)、カンヌ映画祭のパルム・ドールを獲っています。

 ロベール・ブレッソンも凄い監督ですが、ジョルジュ・ベルナノスというのも凄い。但し、個人的には、先に映画を観てロベール・ブレッソンのに凄さに圧倒されてしまった面があります。

 【『少女ムーシェット』...1971年単行本〔昌文社〕/『悪魔の陽の下に』...1954年単行本〔新潮社〕(『現代フランス文学叢書』)・1981年単行本〔国書刊行会(『世界幻想文学大系11』)〕・1989年単行本・1999年新装版〔春秋社(『悪魔の陽のもとに』)〕/「新ムーシェット物語」...1977年全集〔春秋社(『ジョルジュ・ベルナノス著作集2』)〕】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1382】 プリーストリー 『夜の来訪者
○ノーベル文学賞受賞者(ウィリアム・フォークナー)「○海外文学・随筆など【発表・刊行順】」の インデックッスへ

字縄を綯うが如き構成と強烈なキャラクター群。「第1の主人公」は〈ジョー・クリスマス〉か〈リーナ・グローヴ〉か?

Light in August William Faulkner.jpg八月の光.jpg 八月の光2.bmp  William Faulkner .jpg 加島祥造.jpg
八月の光』新潮文庫 〔旧版/新装版〕   W.Faulkner(1897-1962/享年64)/加島祥造(1923-2015/享年92
"Light in August: The Corrected Text (Vintage International)"

 1932年発表のアメリカの作家ウィリアム・フォークナー(1897‐1962)の代表作の1つで、彼がよく自らの作品に用いたアメリカ南部の架空の町ジェファスンを舞台に、その地で起きる1週間の出来事を、男女2人の主人公を交互に登場さLight in August.jpgせて字縄を綯うが如く繋いでいきますが、回想場面で時間が何回も戻るなど構成はかなり複雑で、ミステリ的要素もあります。

 〈ジョー・クリスマス〉という名の第1の主人公―、自らを"呪われた"黒人の血が混じった白人だと信じる殺人逃亡犯の男と、もう1人の主人公で、自分を妊娠させた男を探す旅の過程でこの町を通過する〈リーナ・グローヴ〉という楽天家でお腹の大きな娘は、最後まで交錯することがなく、その物語構成に、「えっ、ミステリとしての終らせ方はしないのだ」という新鮮味をまず感じました。
Light in August is a 1932 novel by William Faulkner.

フォークナー『八月の光』光文社古典新訳文庫.jpg しかし、そもそも〈ジョー・クリスマス〉がなぜ殺人を犯したのか、そのこと自体何の説明もされておらず、彼は雑誌を読んでいる間に殺人を思いたち、まぶしい太陽の光を目に受けてそれを決行する...。そして、そのために彼は住民に追い詰められリンチによって殺されることになる(これはカミュの『異邦人』か?と思ってしまう)。

 一方で、この〈ジョー・クリスマス〉という男が、差別と偏見の下で"救われることがない"ジャン・バルジャンみたいな描かれ方もされており、それでいてその心の闇には強く引き込まれるものがあり、個人的にはロベール・ブレッソン監督の映画「ラルジャン」の主人公などを想起しました(共に、自分の恩人を惨殺してしまうという点で共通している)。

 加えて〈ハイタワー〉という破戒牧師や〈バイロン・バンチ〉という中年男など強烈なキャラクターが登場し、これらの名前はしばらく忘れることができそうにありません。
八月の光 (光文社古典新訳文庫)(2018年再文庫化)
八月の光 光文社古典新訳文庫.jpg 個人的には〈ジョー・クリスマス〉を「第1の主人公」としましたが、これらに比べると、物語の半分を占める〈リーナ・グローヴ〉というのはインパクトが弱く、何故いるのかよく分りませんでした。ところが翻訳者の加島祥造氏は、〈リーナ・グローヴ〉こそ、この物語の「第1の主人公」と見ているようで、解説を読んで、今度は自分の中で文学的な新たなミステリが始まったという感じでした。

 今でも、自分の中では〈ジョー・クリスマス〉が「第1の主人公」なのですが、人間の心の闇を描いてアメリカ文学の中でも最高峰に位置する作品ではないかと思います。

【2016年再文庫化(諏訪部浩一:訳) [岩波文庫(上・下)]/2018年再文庫化(黒原敏行:訳) [光文社古典新訳文庫]】

「●ひ アンブローズ・ビアス」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●ひ 東野 圭吾」【475】東野 圭吾『秘密
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●あ行の外国映画の監督」の インデックッスへ「●TV-M (その他)」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ  「●海外のTVドラマシリーズ」の インデックッスへ(「トワイライトゾーン (ミステリーゾーン)」「ヒッチコック劇場」)

死の間際を悲劇的・皮肉的に描く短篇集。結末1行の意外性が見事。

『いのちの半ばに』.jpgアンブローズ・ビアス いのちの半ばに.jpg ビアス短篇集.jpg ふくろうの河.jpg Ambrose Bierce.jpg
いのちの半ばに (岩波文庫)』『ビアス短篇集』/ロベール・アンリコ監督 「ふくろうの河」Ambrose Bierce
アウルクリーク橋の出来事/豹の眼.jpgアウルクリーク橋の出来事/豹の眼 (光文社古典新訳文庫) 』(2011)
 1891年刊行のアメリカの作家アンブローズ・ビアス Ambrose Gwinnett Bierce (1842‐1914?)の短篇集『いのちの半ばに』(In the Midst of Life)から7篇を収めています(『いのちの半ばに』 '55年/岩波文庫)。ビアスはエドガー・アラン・ポーの後継者とも言われた作家で(没年が不詳なのは、1913年の年末に知友に宛てた手紙を最後に失踪したため)、本書にあるのは、〈死の間際〉にある人間の極限や神秘をミステリアスに、或いはその過程や結末を悲劇的または皮肉的に描いたものが殆どです。

 1890年に発表され、翌年刊行の『いのちの半ばに』に収められた「アウル・クリーク橋の一事件」は、まさに今死刑を執行されようとする男が体験したことの話で、これは一般に「メリーゴーランド現象現象」「走馬燈現象」「パノラマ視現象」などの名で呼ばれているものでしょうか。

ふくろうの河1.jpgふくろうの河2.jpg 原作もいいけれど、「冒険者たち」の監督ロベール・アンリコによる本作の映画化作品「ふくろうの河」(La Rivière du Hibou/'61年/仏)も良くて、逃走する主人公の息づかいが聞こえる緊張感に、モノクロならではの瑞々しさが加わった傑作短篇映画となっています。
"An Occurence at Owl Creek Bridge ( La rivière du hibou)"(1961)/The Twilight Zone - Season 5 Episode 22 #142(1964)
淀川長治.jpgふくろうの河3.jpg  セリフも音楽もほとんど無く、アテネフランセで英字幕版でも観ましたが、充分堪能することができました(1962年カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞(短編部門)、1963年アカデミー賞短編実写賞受賞作。あの淀川長治氏のお薦め作品でもあった)。昨年('06年)、日本語字幕版DVDがリリースされましたが、表題作(第3部「ふくろうの河」)は米TVシリーズ「トワイライトゾーン」の最終第5シーズンの一話として1964年に放映されています。リメイクではなく、ロベール・アンリコの作品をそのまま放映していて、これはテレビ番組としての予算が底をついてきたためのようです(テレビ版としてのIMDbスコアは8.5と高いが、「トワイライトゾーン」としては本邦では放映されなかった)。

Alfred Hitchcock Presents - Season 5 Episode 13 #166 "An Occurrence at Owl Creek Bridge"(1959)
An Occurrence at Owl Creek Bridge 1.jpgAn Occurrence at Owl Creek Bridge 2.jpgAn Occurrence at Owl Creek Bridge James Coburn.jpg また、この原作は、ロベール・アンリコの短篇映画に先行しAlfred Hitchcock Presents Seasons 1-7.jpgて、米CBSで1955年から1962年に放映された「ヒッチコック劇場(Alfred Hitchcock Presents)」で、1959年に「メリー・ポピンズ」('64年)のロバート・スティーブンソン監督により映像化されています(第146話「橋上の絞首刑」(ヒッチコック劇場の「話数」は本邦のものを採用))。ロナルド・ハワード主演で、ジェームス・コバーンなども共演していて多少翻案していて、主人公が無言であるロベール・アンリコ版に対して主人公が会話したりしていますが、ショッキングな結末は同じです(コレ、変えようがない)。IMDbスコアは7.3

 「アウル・クリーク橋の一事件」もそうですが、結末の一文で読者を唸らせる意外性にエンタテインメントとしての完成度の高さを感じ、「生死不明の男」「人間と蛇」「ふさがれた窓」などは本当にその一文(1行)で決まりという感じです。「生死不明の男」のタイム・パラドックスもいいけれど、特に、「ふさがれた窓」のラスト一文は、強くぞっとするイメージを湧かせるものでした。

芥川龍之介.bmp  ビアスを日本に紹介したのは、彼を短篇小説の名手と絶賛していた芥川龍之介だったそうですが、『侏儒の言葉』などには『悪魔の辞典』のア乱歩の選んだベスト・ホラー.jpg短篇小説講義.jpgフォリズムの影響も見られるし、ビアス作品全体に漂うアイロニカルな死のムードも、彼には結構身近に感じられ(?)惹かれたのではないかと思います。

 その他にも、筒井康隆氏が『短篇小説講義』('90年/岩波新書)の中で「アウル・クリーク橋の一事件」を取り上げているし、『乱歩の選んだベスト・ホラー』('00年/ちくま文庫)という本では「ふさがれた窓」が紹介されています。

La rivière du hibou(1962 Short Film) 「ふくろうの河」(La Rivière du Hibou)仏版DVD
ふくろうの河 (1961).jpgLa rivière du hibou(1962 Short Film).jpg「ふくろうの河」仏.jpg「ふくろうの河」●原題:LA RIVIERE DU HIBOU/AN OCCURRENCE AT OWL CREEK BRIDGE●制作年:1961年●制作国:フランス●監督・脚本:ロベールTwilight Zone episode review -- 5.22 -- An Occurrence at Owl Creek Bridge.jpg・アンリコ●撮影:ジャン・ボフェティ●音楽:アンリ・ラノエ●原作:アンブローズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」●時間:95分(第3部「ふくろうの河」23分)●出演:ロジェ・ジャッケAn Occurrence at Owl Creek Bridge_0.jpgAN OCCURRENCE AT OWL CREEK BRIDGE  009.jpg/アン・コネリー/サミー・フレイ●日本公開:1963/09●配給:東和●最初に観た場所:ACTミニシアター (84-02-05)●併映:「カビリアの夜」(フェデリコ・フェリーニ)/「フェリーニの監督ノート」(フェデリコ・フェリーニ)/「(チャップリンの)ノックアウト」(チャールズ・アヴェリー)/「聖メリーの鐘」(レオ・マッケリー)/「お熱いのがお好き」(ビリー・ワイルダー)《「トワイライト・ゾーン/ふくろう河(S 5 E 22 #142)」)●放映国:アメリカ●米国放映:1964/2/28)》(評価:★★★★)

An Occurrence at Owl Creek Bridge
An Occurrence at Owl Creek BridgeAL.jpgAlfred Hitchcock Presents An Occurrence at Owl Creek Bridge.jpg「ヒッチコック劇場(第146話)/橋上の絞首刑(S 5 E 13 #166)」●原題:Alfred Hitchcock Presents - AN OCCURRENCE AT OWL CREEK BRIDGE●制作Alfred Hitchcock Presents (S 5 E 13-#166) An Occurrence At Owl Creek Bridge図1.png年:1959年●制作国:アメリカ●本国放映:1959/12/20●監督:ロバート・スティーブンソン(Robert Stevenson)●脚本:ハロルド・スワントン(Harold Swanton)●原作:アンブローズ・ビアス「アウル・クリーク橋の一事件」●時間:30分●出演:ロナルド・ハワード(Ronald Howard)/ケネス・トビー(Kenneth Tobey)/ジェームス・コバーン(James Coburn)/ファノ・フェルナンデス (Juano Hernández)/ダグラス・ケネディ(Douglas Kennedy)/アルフレッド・ヒッチコック(ストーリーテラー)●日本放映:「ヒチコック劇場」(1957-1963)●放映局:日本テレビ(評価★★★☆)
ジェームス・コバーン(北軍の軍曹。斥候として主人公をおびき出した後に捕らえ、首に縄をかける)
An Occurrence At Owl Creek Bridge.gif 「アウルクリーク橋」jこばーん.jpg

○ヒッチコック劇場 (TV Series) An Occurrence at Owl Creek Bridge (1959) IMDb: User Reviews
It's very odd that both "The Twilight Zone" and "Alfred Hitchcock Presents" made an episode based on this story!
This is probably the most unusual episode of "Alfred Hitchcock Presents" because it's based on a story by Ambrose Bierce...as is a short French film (which won the Oscar for Best Short Subject) AND an episode of "The Twilight Zone". And, incidentally, "The Twilight Zone" episode actually IS an edited version of the French short! Wow...three stories by the same name and all based on the same story over a five year period. Of the three, this "Alfred Hitchcock Presents" story was the first.

The story is set during the US Civil War. A Confederate (Ronald Howard) is trying to blow up a strategic bridge but is captured. He's sentenced to hang but the rope apparently breaks and he falls into the river....and spends the rest of the episode on the run.

There sure wasn't any suspense for me, as I'd seen the other two versions of the story. Hopefully, when you see it, it will be the for the first time.

This version is a bit different. While the basic story is the same, the French/"Twilight Zone" version has almost no dialog at all, which made it easy to splice apart and air on US TV in 1964. But in this first version, there's a lot of dialog...plenty. Now comparing them is not easy for me, as I saw the other two episodes about a decade ago. As for the Hitchcock version, it was very well made and has a VERY dark and jarring ending. Well worth seeing.

By the way, a couple guys to look for in this one is a very young James Coburn as well as the terrific and sadly forgotten character actor, Juano Hernandez.

トワイライトゾーン.jpgThe Twilight Zone oo.jpgThe Twilight Zoneド.jpg「トワイライトゾーン (ミステリーゾーン)」The Twilight Zone (CBS 1959~64) ○日本での放映チャネル:日本テレビ(1960)/TBS(1961~67)/AXN

Alfred Hitchcock Presents.jpgヒッチコック劇場00.jpgヒッチコック劇場01.jpgヒッチコック劇場_0.jpg「ヒッチコック劇場」Alfred Hitchcock Presents (CBS 1955.10.2~62.7.3)○日本での放映チャネル:日本テレビ(1957~63)
Alfred Hitchcock Presents 

 【1955年文庫化[岩波文庫(西川正身:訳)〕/1987年文庫化[創元推理文庫(中村能三:訳『生のさなかにも』〈26篇収録〉)〕/2000年再文庫化[岩波文庫(大津栄一郎:訳『ビアス短篇集』〈15篇収録〉)〕/2011年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義:訳『アウルクリーク橋の出来事/豹の眼』】

《読書MEMO》
『いのちの半ばに』その他6編の収録作品
「空飛ぶ騎手」北軍兵卒ドルーズは偵察の場所で日頃の父の教えを忠実に守り馬上の敵に向け銃を発射したのだが...。
「生死不明の男」建物から敵を偵察していた兵卒が偶然にも敵の砲弾が命中し倒壊により内部に閉じ込められる...。
「哲人パーカー・アダスン」悟りの境地に達し夜明けに待つ死刑を恐れぬ捕虜のだったが、予定が変わったとたん...。
「人間と蛇」蛇について書かれた記述を迷信と馬鹿にしていた男たが、暗示が人間に与える力により皮肉の結末を...。
「ふさわしい環境」怪奇小説作家が友人に夜の古屋敷で自作を読むことを依頼した奇妙な実験は恐るべきは結末に...。
「ふさがれた窓」昔森の中の小屋に住んでいたマーロック老人が愛する妻を亡くした後に不審死を遂げた謎の真相は...。

岩波文庫 新旧・収録作品対比
Aビアス 短篇集.jpg

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2172】 カレル・チャペック 『ロボット
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●か行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(池袋文芸坐)

青春や人生を無駄に過ごした絶望感を描く。映画化作品の方もいい。

ワーニャ伯父さん(ポスター).jpg ワーニャ伯父さん2.jpg かもめ・ワーニャ伯父さん〔旧〕.jpg かもめ・ワーニャ伯父さん.jpg
映画 「ワーニャ伯父さん」 ポスター/「ワーニャ伯父さん」より/『かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)』(旧版/新版)

『かもめ・ワーニャ伯父さん』.JPG 1896年発表の「かもめ」と1899年発表の「ワーニャ伯父さん」は、ともに19世紀末の帝政ロシアの田園を舞台としたアントン・チェーホフ(1860‐1904)の戯曲で、「かもめ」は演劇女優の夢を抱く娘ニーナがヒロイン、「ワーニャ伯父さん」は知的世界で活躍する義兄のために永く農園を守ってきた初老の男ワーニャが主人公です。

チェーホフ・魂の仕事.jpg 「かもめ」の女主人公ニーナは、自分を愛してくれる青年トレープレフ(この作品の悲劇的な男主人公)を諦めてまでも女優の道を選ぼうと有名な作家トリゴーリン(作者がモデルか?)の下に走りますが、作家の態度がはっきりせず夢破れて実家に帰ります。
 一方ワーニャ伯父さんは、大学教授を退官した義兄が都会生活の中で利己的な俗物になってしまったことを知り、教授の若い妻への思慕もはかなく破れ、絶望と憤怒にかられて彼を射殺しようとしますが―。

 両作品とも、貴重な青春、貴重な人生を無駄に過ごしたということに気づいたとき、人はどうなるかということが残酷なまでに描かれています。
 しかし、これらの作品の主人公たちは精神の極端な緊張状態に置かれるため、彼らの夢や希望が危機にさらされているのに、彼ら自身はまるで喜劇の人物に見え、そのため、チェーホフ自身もこれらの戯曲を喜劇と呼んでいます(「かもめ」には"四幕の喜劇"という副題がある)。

「チェーホフ・魂の仕事」('02年/国立劇場)ポスター

 この2作品はやはり外観的には悲劇だと思いますが、主人公の内面においてその結末は明暗を分けている感じで、若いニーナの方は、田園に戻ることで自分を見つめ直し、自身の再生と自由を確信しますが(女性宇宙飛行士テレシコワの「私はかもめ」は、この時のニーナの台詞)、初老のワーニャ伯父さんにはもう何も残されておらず、作品としてより深い虚無感に覆われています。医者への愛に同じく破れ農園に残ることになった姪ソーニャの、彼に対する優しさだけが救いでしょうか。

Фильм Чайка 1971.jpgかもめ2.jpg ともに'70年に旧ソ連で映画化されていて、監督は「「チェーホフのかもめ」('71年/ソ連)がユーリー・カラーシク、「ワーニャ伯父さん」('71年/ソ連)がアンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー(ニキータ・ミハルコフ の兄)です。元が戯曲なので原作と映画の違和感が無く、しっとりとした情感が味わえます。映画「チェーホフのかもめ」でニーナДядя Ваня 1971.jpgインノケンティ・スモクトゥノフスキー.jpgを演じたリュドミラ・サベーリエワは、「戦争と平和」('67年/ソ連)の主演女優で、「ひまわり」('70年/伊・仏・ソ連)でソフィア・ローレンがマルチェロ・マストロヤンニを訪ねていったときに、マストロヤンニの傍にいた女性、映画「ワーニャ伯父さん」でワーニャ伯父さんを演じたインノケンティ・スモクトゥノフスキー(1925-1994)は「チャイコフスキー」('70年/ソ連)で主演し、「罪と罰」('70年/ソ連)でラスコーリニコフトと学論争する予審判事ポルフィーリを演じ、「」('80年/ソ連)でナレーターを務めていますが、2人の演技は、いずれもロシア映画史上に残る素晴らしいものでした。

   
岩波文庫創刊書目[復刻]全23冊.jpg 因みに『ワーニャ伯父さん』は、『伯父ワーニャ』のタイトルで1927(昭和2)年7月刊行の岩波文庫の創刊ラインアップに入っており(中村白葉:訳)、当時から名作の定番だったということになりますが、戯曲ということでの親しみ易さもあったのではないでしょうか(チェーホフ作品は『桜の園』も同じく創刊ラインアップにある)。この岩波の旧版も以前所持していたのですが、どこかへいってしまった...。'06年に『岩波文庫創刊書目23冊』として復刻刊行されていますが、"23冊セット販売"であるため、原則バラでは買えません。
岩波文庫創刊書目[復刻]全23冊['06年]「岩波文庫創刊書目 復刻―付 創刊広告(東京朝日新聞・昭和2年7月掲載)

ビデオ「かもめ」(Russia)主演:リュドミラ・サヴェーリエワ
かもめ 1971.jpgかもめ1971.jpg「チェーホフのかもめ」●原題:EHAIKA(Чайка)●制作年:1971年●制作国:ソ連●監督・脚本:ユーリー・カラシク●撮影:ミハイル・スースロ●音楽:アレクサンダー・シニートケ●原作:アントン・チェーホフ「かもめ」●時間:100分●かもめ.jpg出演:リュドミラ・サヴェーリエワ/ウラディーミル・チュトベリコフ/アッラ・デミートワ/ニコライ・プロートニコフ●日本かもめ .jpg公開:1974/11●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-09) (評価 ★★★★☆)●併映:「ワーニャ伯父さん」(アンドレ・ミハルコフ=コンチャロフスキー)
 
「ワーニャ伯父さん」主演:インノケンティ・スモクトゥノフスキー
Wanya Ojisan (1971).jpgДядя Ваня 1971 poster.jpgUncle Vanya ( Dyadya Vanya) (1970).jpgワーニャ伯父さん3.jpg「ワーニャ伯父さん」●原題:DYADYA VANYA(Дядя Ваня)●制作年:1971年●制作国:ソ連●監督・脚本:アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー●撮影:ゲオルギー・レルベルグ●音楽:アルフレード・シニートケ●原作:アントン・チェーホフ「ワーニャ伯父さん」●時間:100分●出演:インノケンティ・スモクトゥノフスキー/イリーナ・ミロシニシェンコ/イリーナ・クプチェンコ/ウラジミール・ザリジン/セルゲイ・ボンダルチュク●日本公開:1972/09●配給:ATG●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-09) (評価 ★★★★★)●併映:「チェホフのかもめ」(ユーリー・カラシク)
「ワーニャ伯父さん」輸入版ポスター/DVD(Russia)/VHS(日本・絶版)

文芸坐休館.jpg文芸坐.jpg池袋文芸坐 1956(昭和31)年3月20日オープン、1997(平成9)年3月6日閉館/2000(平成12)年12月12日〜「新文芸坐」

  
 
 
映画「ワーニャ伯父さん」

ワーニャ1.png ワーニャ2.png

ワーニャ3.png ワーニャ4.png

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【663】チェーホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん
○ノーベル文学賞受賞者(アレクサンドル・ソルジェニーツィン)「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●や‐わ行の外国映画の監督」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

反体制文学だが、「人間」と「労働」の関係を考えさせられた。
Один день Ивана Денисовича.jpgイワン・デニーソヴィチの一日〔旧〕.jpg イワン・デニーソヴィチの一日.jpg イワン・デニーソヴィチの一日 チラシ.jpg 『イワン・デニーソヴィチの一日』.jpg アレクサンドル・ソルジェニーツィン.jpg
"Ivan Denisovich"/『イワン・デニーソヴィチの一日』 新潮文庫〔旧版/新版〕/「イワン・デニーソヴィチの一日」チラシ・ビデオ/アレクサンドル・ソルジェニーツィン

ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH.jpg 1962年に発表されたロシアの作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Александр Исаевич Солженицын)の処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』(Оди́н день Ива́на Дени́совича Odin den' Ivana Denisovicha、英語 One Day in the Life of Ivan Denisovich)は、自らの収容所体験を基に、旧ソビエトのラーゲル(収容所)で強制労働に従事する主人公の1日を描いた作品で、世界的ベストセラーになりました。
"One Day in the Life of Ivan Denisovich"

 主人公は普通の農民でしたが、大戦中にドイツ軍のスパイと疑われて、10年の強制労働を命じられてラーゲル送りとなり、小説はその8年目のある日(と言っても特別な1日ではない)を描いています。

 妻子と離れ極寒の地で、名前ではなく番号で呼ばれ、有刺鉄線に囲まれ警察犬と看守に見張られながら、ひたすらブロック積みの作業に従事する―こうした端的な"使役される状況"の中で、主人公が、ブロック作業を効率的かつ完璧に行うことにいつしか没頭し、その出来ばえに達成感を感じる場面には、「人間」と「労働」の関係を考えさせられました。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉がありますが、一方でこの小説には"パン"の有難さが滲み出ていて、主人公も、作業場のコックをごまかして昼食の雑炊を1人前多くせしめたことに、大いなる満足感を得ています。そして、営倉にも入れられずに済んだ、「ほとんど幸福とさえ言える一日」を終える―。

 反体制文学なのですが、この小説を21世紀に読むことがアナクロニズムだとは思いません。過酷な境遇を自分の中で"日常化"してしまうことで生き続ける「人間」を描いていて、それを"麻痺"として捉えるのではなく、人間の根源的な生命力として捉えている点に、普遍性(または普遍的な問題の提起)があるように思えます。

イワン・デニーソヴィチの一日0.jpgOne Day In The Life Of Ivan Denisovich.jpg '71年に英国で「長距離ランナーの孤独」('62/英)のトム・コートネイ主演で映画化されましたが、原作に忠実である分少し地味にならざるを得ず(劇的な変化がないことがテーマの1つ)、個人的に注目した「労働」に関する部分よりも、1日を終えた安らぎのようなものにウェイトが置かれて描かれていたような気がしました。文芸座の「ソビエト映画祭」のような企画で観ましたが、スタッフもキャストもほぼ全員イギリス人なので(当然、英語で喋っている)、本場モノに混じるとやはり見劣りがするような...(それを言うと、「ドクトル・ジバコ」なども「所詮アメリカ映画じゃないか」ということになってしまうのだが)。
One Day In The Life Of Ivan Denisovich (1971/UK)
「イワン・デニーソヴィチの一日」●原題:ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH●制作年:1971年●制作国:イギリス●製作・監督:キャスパー・リード●音楽:アーン・ノーディム●原作:アレクサンドル・ソルジェニーツィン●時間:100分●出演:トム・コートネイ/アルフレッド・バーク/ジェームズ・マックスウェル/エリック・トンプソン/エスペン・スクジョンバーグ●日本公開:1974/06●配給:NCC●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-16) (評価★★★)●併映「エゴール・ブルイチョフ」(セルゲイ・ソロビヨフ)

1970年にノーベル文学賞を受賞し、報道陣に語るアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏(AP通信).jpg

1970年にノーベル文学賞を受賞し、報道陣に語るアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏。スウェーデン、ストックホルム。(AP通信)

 【1963年文庫化・2005年改訂版[新潮文庫]/1971年再文庫化[岩波文庫]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【662】 ソルジェニーツィン 『イワン・デニーソヴィチの一日
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●か行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●「ヴェネツィア国際映画祭 女優賞」受賞作」の インデックッスへ(マリア・シェル) 「●「ニューヨーク映画批評家協会賞 外国語映画賞」受賞作」の インデックッスへ(「居酒屋」)「●「カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ」受賞作」の インデックッスへ(「地下水道」)「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(吉祥寺ジャヴ50)インデックッスへ(自由が丘劇場)

19世紀後半のフランス炭坑労働者の悲惨な実態を、一筋縄でなく描く。
「居酒屋」(1956).jpg ジェルミナール.gif 19801571_1.jpg ジェルミナルGerminal.jpg  「地下水道」 dvd.jpg
ルネ・クレマン映画「居酒屋 HDマスター DVD」(マリア・シェル)/『ジェルミナール 上 (岩波文庫 赤 544-7)』 岩波文庫 (全3冊)〔旧版/改版版〕/ 映画 「ジェルミナルGerminal」/アンジェイ・ワイダ映画「地下水道 [DVD]

世界の文学23 ゾラ ジェルミナール.jpgジェルミナールfolio版.jpgエミール・ゾラ.jpg 1885年の原著発表のフランスの作家エミール・ゾラ(Emile Zola、1840‐1902)による作品で、彼の膨大な小説群「ルーゴン・マッカール双書」の中では『居酒屋』(1877年発表)、『ナナ』(1879年発表)と並ぶ代表作。

ルーゴン・マッカール双書 folio版
世界の文学〈第23〉ゾラ (1964年)ジェルミナール

 舞台は1860年代の北フランスの炭鉱町で、主人公のエチエンヌは、元は機械工だったが職を失ってここに移り住み、そこで坑夫の娘で自身も炭坑で働くカトリーヌに恋をし、自分も坑夫として働くようになる。過酷な炭坑の労働、採鉱会社と労働者の対立、資本家の搾取、ロシアから亡命してきたアナーキストの影響などを通して彼は社会主義思想に目覚めるが、長期ストライキの末の反乱は軍隊によって制圧され、アナーキストの破壊工作で地下水脈が破裂して、エチエンヌはカトリーヌとともに坑内に閉じ込められてしまう―。

映画「居酒屋」パンフ.jpg映画「居酒屋」.jpg ゾラと言えば、『居酒屋』で知られる自然主義の作家ですが(ルネ・クレマン監督(1913-1996)の映画もいい)、『ジェルミナール』の主人公エチエンヌはジェルヴェーズの三男です(と言うことは『居酒屋』に出てくるジェルヴェーズの娘で将来の女優「ナナ」の弟にあたるということか)。

 「居酒屋」でマリア・シェルが演じた洗濯女ジェルヴェーズは、一度は夫に逃げられた女性ですが、今度は真面目な屋根職人と結婚します。しかし、その亭主である男はある日屋根から落ちて大ケガをし、彼はやがて酒びたりになる―、それでも彼女はダメ亭主にもめげず懸命に働き、なんとか自分の店を持つものの、更に重なる不運があって、やがて自身が酒に溺れ破滅するという、きつい話(マリア・シェルはkの作品の演技により1956年・第17回ヴェネツィア国際映画祭「女優賞」を受賞)。

GERVAISE maria schell.gif 美人でも男運の悪い女はいるもんだと、マリア・シェルに感情移入して同情し、またリアリズムに徹した佳作だと思いましたが、原作の背後には、ゾラの「運命決定論」のようなものがあったみたいです。

 『ジェルミナール』は出世作の『居酒屋』よりも社会派的色彩が強く、労働者リーダーとして成長していくエチエンヌを描いていますが、一方で、酒を飲むと人を殺したくなるという遺伝的(?)性格の持ち主としても描いているところが一筋縄でないところ、つまりは社会的・生物学的環境で人生は決定づけられているというのがゾラの考え方のようです。

 労働者のストライキや反乱などのクライマックスもさることながら、物語の半分は炭坑の中での描写なので(炭坑の中で殺人も起きれば愛の成就もある)、自分も坑内にいるような気分になり、重苦しい緊張感があります(閉所恐怖症の人は最後まで読めないかも)。

わが谷は緑なりき」('41年/米).jpgHOW GREEN WAS MY VALLEY2.jpgわが谷は緑なりき2.gif 映画において、英国ウェールズの、やはり炭坑労働者のストライキを描いたジョン・フォード監督(1894-1973)の「わが谷は緑なりき」('41年/米)という1941 年にアカデミー作品賞を受賞している作品がありましたが、そこには影の部分もあれば(悲惨な炭鉱事故の場面)、また光の部分もありわが谷は緑なりき.jpg(家族愛がテーマだとも言える)、ノスタルジーにより美化された部分もありました(全体が当時少年だった語り手の想い出として設定されている。モーリーン・オハラって、昔のアメリカ映画にみる典型的な美人だなあ)。

「地下水道」 Kanal(1957).jpg地下水道.png しかしゾラのこの小説は、労働運動の萌芽を象徴する「芽生えの月(ジェルミナール)」という題ながらも、炭坑労働者の悲惨な実態を描いた"影"の部分の重苦しさが全体を圧倒していて、エチエンヌとカトリーヌが坑内に閉じ込められて絶望となるところは、背景は異なりますが、アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」('56年/「地下水道」 vhs.jpgポーランド)において、ナチスドイツに対して勝ち目のない戦いを挑むポーランドの地下組織の男女が地下水道に追い込まれ、やっと見つけた出口が鉄格子で閉ざされていた―という、これもまた絶望的な場面を想起したりもしました(どちらも「閉所恐怖症」の人にはお薦めできない)。「ジェルミナール」も'93年にクロード・ベリ監督、 ジェラール・ドパルデュー、ミウ・ミウ主演で映画化もされているようなので、そちらも機会があれば観たいと思います。
地下水道 [VHS]」(カバーイラスト:安西水丸


GERVAISE 1956.jpg「居酒屋」●原題:GERVAISE●制作年:1956年●制作国:フランス●監督・:ルネ・クレマン●製作:アニー・ドルフマン●脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ポスト●撮影:ロベール・ジュイヤール●音楽:ジョルジュ・オーリック居酒屋 HDマスター DVD.jpg●原作:エミール・ゾラ 「居酒屋」●時間:102分●出演:マリア・シェル/フランソワ・ペリエ/シュジ・ドレール/マチルド・カサドジュ/アルマン・メストラル●日本公開:1956/10●配給:東和●最初に観た場所:新宿アートビレッジ (79-04-15)●2回目:高田馬場ACTミニシアター(83-09-15) (評価:★★★★)●併映(1回目):「嘆きのテレーズ」(マルセル・カルネ)●併映(2回目):「禁じられた遊び」(ルネ・クレマン)
居酒屋 HDマスター DVD


わが谷は緑なりき45.jpg「わが谷は緑なりき」●原題:HOW GREEN WAS MY VALLEY●制作年:1941年●制作国:アメリカ●監督:ジHow Green Was My Valley.jpgHOW GREEN WAS MY VALLEY.gifョン・フォード●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:フィリップ・ダン●撮影:アーサー・ミラー●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:リチャード・レウェリン(How Green Was My Valley)●時間:118分●出演:ウォルター・ピジョン/モーリーン・オハラ/ドナルド・クリスプ/アンナ・リー/ロディ・マクドウォール●日本公開:1950/12●配給:セントラル●最初に観た場所:吉祥寺ジャヴ50 (84-06-30)●2回目:自由が丘劇場 (85-02-17) (評価:★★★★)●併映(2回目)「いとしのクレメンタイン 荒野の決闘」(ジョン・フォード)
吉祥寺バウスシアター2(旧ジャヴ50)
じゃv50.jpgバウスシアター.jpg.png吉祥寺バウスシアター.jpg吉祥寺ジャヴ(JAⅤ)50 1951年~「ムサシノ映画劇場」、1984年3月~「吉祥寺バウスシアター」(現・シアター1/218席)と「ジャヴ50」(現・シアター2/50席)の2館体制でリニューアルオープン。2000年4月29日~シアター3を新設し3館体制に。 2014(平成26)年5月31日閉館。
じゃv 50.jpg


自由が丘劇場  .jpg自由ヶ丘劇場2.jpg自由が丘劇場5.jpgヒューマックスパビリオン自由が丘.jpg自由が丘劇場 自由が丘駅北口徒歩1分・ヒューマックスパビリオン自由が丘(現在1・2Fはパチンコ「プレゴ」)1986(昭和61)年6月閉館 ①自由ヶ丘武蔵野推理劇場 ②自由が丘劇場 ③自由ヶ丘ヒカリ座(1970年代~80年代) 


Chika suidou(1957)
Chika suidou(1957).jpg「地下水道」●原題:KANAL●制作年:1956年●制作国:ポーランド●監督:アンジェイ・ワイダ●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:イェジー・ステファン・スタウィニュスキー●撮影:イェジー・リップマン●音楽:ヤン・クレンズ●原作:イェジー・ステファン・スタウィニュスキー●時地下水道(米国版DVD).jpg間:96分●出演:タデウシュ・ヤンツァー/テレサ・イジェフスカ地下水道.jpg/エミール・カレヴィッチ/ヴラデク・シェイバル/ヤン・エングレルト●日本公開:1958/01(1979/12(リバイバル))●配給:東映洋画●最初に観た場所:新宿アートビレッジ (79-04-10) (評価:★★★★☆) ●併映:「灰とダイヤモンド」(アンジェイ・ワイダ)「地下水道」の一場面/「Kanal [DVD] [Import] (2003)米国版DVD

灰とダイヤモンド  .jpg 「灰とダイヤモンド」(1958)

 
ジェルミナール (全3冊).jpg【1954年文庫化・1994年改版[岩波文庫(上・中・下)]/1994年再文庫化[中公文庫(上・下)]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【661】 エミール・ゾラ 『ジェルミナール
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

暗黒文学が示す、きれいごとを突き抜けた真にヒューマンなもの。

夜の果ての旅 ≪世界の文学≫.jpg夜の果てへの旅 上0.jpg 夜の果てへの旅下.jpg 夜の果ての旅2.jpg
夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)』『夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)』['03年改版版] 『セリーヌの作品〈第1巻〉夜の果てへの旅』国書刊行会 版
世界の文学〈第42〉セリーヌ (1964年) 夜の果ての旅

Louis-Ferdinand Céline (1894-1961).gif 1932年に原著が出版されたフランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ (1894‐1961)『夜の果てへの旅』は、中央公論社刊「世界の文学」の第42巻として1964年に刊行されていて(生田耕作(1924-1994)訳)、この全集の面子が、前3巻(第39〜41巻)がカフカ、モーム、マルロー、後3巻(第39〜41巻)がフォークナー、へミングウェイ、トルストイなので、「おいおい、こんな処にいていいの?」という感じもします。

Louis-Ferdinand Céline (1894-1961/享年67) 

 それは、居並ぶ文豪たちと比べて力量が劣るように感じられるためではなく、才脳でもパワーではそれらを上回っている、しかし、昭和30年代の文学少女や読書少年のいる家庭に置かれる「文学全集」のイメージからすると、その中の1冊とするには、あまりに規格外のような印象さえ受けるためです。

 ここに描かれている壮大な『旅』は、主人公の医師バルダミュにとって決して清々しい旅などではなく、汚物と一緒に濁流に流されて街の場末から地の果てに至るような旅で、ところどころシニカルなユーモアも見られるものの、全頁が人間の醜さと人生への嫌悪に溢れた、徹底した「負の文学」ととれるかと思います。

 著者のセリーヌ(本名デトゥシュ)は、第1次世界大戦では名誉負傷で英雄となり、その後パリで開業医となり、この間に本書を発表して新人でフランス最高の文学賞を受賞しますが、第二次世界大戦中は反ユダヤ主義を標榜し、戦後亡命するも捉まり、戦犯宣告を受けて投獄されています。しかし彼の才能を惜しむ人はやはりいて、彼の減刑運動にアメリカ人作家のヘンリー・ミラーなど多くの作家が関わりました。

 この小説のダダイスティックかつアナーキーなムードや実験的な手法を多々用いている点はミラーに通じる部分がありますが、主人公が最後にアメリカへ行くというのも、ミラーと行き違いで面白い(小説の後半でバルダミュはアフリカからアメリカに渡るが、"手漕ぎのガリー船"でいくというのが何ともシュール)。  

ルイ=フェルディナン・セリーヌ.jpg またセリーヌは、サルトルやカミュよりもいち早く人間の不条理性、猥雑性を白日のもとに晒した実存主義の先駆的作家とも見做されていますが、サルトルは、彼を「暗黒文学の先駆者」と言っており、セリーヌは結局、その後も「灰色の文体」の作品を発表しながら、孤独と経済苦のうちに死んで行きます。この作品に見られる強烈な「反ヒューマニズム」は、魂の叫びとも言えるもので、多くの読者が感動するのは、そこにきれいごとを突き抜けた真にヒューマンなものを認めざるを得ないからではないでしょうか。

STUDIO LIPNITSKI Louis Ferdinand Céline et ses chiens, c.1955

『夜の果てへの旅―世界の文学42 セリーヌ』
『夜の果てへの旅―世界の文学42 セリーヌ』.jpg

 【1978年文庫化・2003年改版[中公文庫(上・下)]/1995年単行本〔国書刊行会(『セリーヌの作品 第1巻』)〕】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1020】 A・シリトー 『長距離走者の孤独
○ノーベル文学賞受賞者(ミハエル・ショーロホフ) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督②」の インデックスへ 「●「モスクワ国際映画祭 最優秀作品賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画【制作年順】」のインデックスへ

親子に思えたが実は...。技巧を超えた深みがある文庫で約50ページの中篇「人間の運命」。

『人間の運命』.JPG人間の運命.jpg  人間の運命 09.jpg ミハイル・ショーロホフ.png
人間の運命 (角川文庫)』(2008年改版版)『人間の運命 (1960年)(角川文庫)』角川文庫/映画「人間の運命」より/ミハイル・ショーロホフ(1905-1984)

 「人間の運命」は1956年の発表のロシア出身で、トルストイにつながるロシア文学の伝統を受け継ぎ、ソビエト文学を代表する作家とされるミハエル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(1905‐1984)の後期作品。角川文庫版では表題作のほかに、1925年に処女短編集「ドン物語」としてまとめられた彼の初期作品「夫の二人いる女」「子持ちの男」「るり色のステップ」「他人の血」の4編を所収。

静かなドン 世界の文学 中央公論.jpg静かなドン 全8巻.jpg ショーロホフの『静かなドン』は、今まで読んだ海外文学作品の中でもかなり長い部類の小説で(岩波文庫で全8巻、3,000ページ近くある)、読んでいるうちに誰が皇帝軍で誰が革命軍かわからなくなってきて、途中やや革命の英雄列伝っぽいような書き方もあり、少し退屈もさせられましたが、でもラストだけは、「武器よさらば」とはこの小説につけるべきタイトルではないかと思わせるような印象深いものでした。但し、ノーベル文学賞受賞作家ショーロホフのこの作品が純粋に彼一人の創作によるものではないという話はすでに定説のようです。 
『静かなドン―世界の文学31・32・33 ショーロホフ』(中央公論社)/『静かなドン 全8巻』(岩波文庫)

 『開かれた処女地』(こちらの方も全4巻と長い。アレクサンドル・イワノフ監督の映画化作品も観たがやはり長かった)とともに、大長編作家のイメージがありますが、本書はそんな"大長編作家"ショーロホフの中短編集で、「人間の運命」が100枚弱(文庫で約50ページ)の中篇で、あとは短編です。

「人間の運命」... 旅人が船着場で見かけた背の高い猫背男と少年の2人連れは、一見親子のように思えたが実はそうではなく、船が着くまでの2時間、一緒に煙草でも吸いながら船を待ちましょうという男の誘いで始まった彼の身の上話は、第二次世界大戦での重苦しく哀しい思い出であり、また驚くべきものでもあった―。戦場の砲火、敵将の尋問、捕虜生活などすべての苦難に敢然と耐えた、その拠り所であったものをすべて失った(正確には"失っていた")男にとって、予期せぬ"救い"となったのが自らの心から発する愛であり、それはそうした運命に翻弄された者しか持ち得ない再生の契機でもあったことを思い知らされます。

 物語のツボを押さえているという感じですが、技巧を超えた深みがあり、人が何によって生きるかを、普遍性をもって示している作品だと思います。長編以外は退屈な社会主義レアリズム小説しか書いていない作家だなどの批評もありますが、そんなことないでしょう(多分、盗作疑惑に加えて、この作家が途中から体制側のスポークスマンのような立場になってしまったこともあり、評価が厳しくなるのでは)。初期の所謂「ドン物語」群に属する「夫の二人いる女」「子持ちの男」「るり色のステップ」「他人の血」の何れもスゴイ話でした。解説の米川正夫(1891-1965)は、その中でも「るり色のステップ」「子持ちの男」が"一頭地を抜いて好個の短編"であるとしていますが、その通りだと思いました(「人間の運命」以上に"激しい"話と言えるかも)。

人間の運命 1959.jpgロシア映画DVDコレクション 人間の運命L.jpg「人間の運命」.jpg 尚、「人間の運命」は、「戦争と平和」のセルゲイ・ボンダルチュク監督によって'59年に映画化され、セルゲイ・ボンダルチュク自身が製作・主演も兼ねており、同年度の第1回モスクワ映画祭でグランプリを受賞しています。リアリズムに徹した描き方になっており、ストーリー的にも原作に比較的忠実に作られていたように思います。

ロシア映画DVDコレクション 人間の運命」 Sudba cheloveka (1959)

Sudba cheloveka (1959).jpg「人間の運命」●原題:SUDBA CHELOVEKA/A MAN'S DESTINY●制作年:1959年●制作国:ソ連●監督・製作:セルゲイ・ボンダルチュク●脚本:ユーリー・ルキン/フョードル・サヤフマゴノフ●撮影:ウラジミール・モナコフ●音楽:ベンヤミン・バスナー●原作:ミハエル・ショーロホフ●時間:100分●出演:セルゲイ・ボンダルチュク/ジナイダ・キリエンコ/パヴリク・ボリスキン/パーヴェル・ヴォルコフ/ユーリー・アヴェリン/キリル・アレクセエフ●日本公開:1960/11●配給:松竹セレクト(評価:★★★★)

人間の運命1.jpg 人間の運命2.jpg
映画 「人間の運命」 (SUDBA CHELOVEKA MAN'S DESTINY/'59年・ソ連/セルゲイ・ボンダルチュク監督・主演)

 【1960年文庫化・2008年改版[角川文庫]】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1424】 アルフレッド・ジャリ 『ユビュ王
○ノーベル文学賞受賞者(アンドレ・ジッド) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

「幸せになりたい症候群」が横溢する時代にあっては、逆に読者を惹きつける。

『狭き門』3c.jpg狭き門.jpg 『狭き門』岩波2.jpg『狭き門』岩波1.jpg
狭き門 (新潮文庫)』 『狭き門 (岩波文庫)
André Paul Guillaume Gide.jpgPAULETTE HUMBERT「LA PORTE ETROITE」挿画本1.jpgAndré Gide
 1909年に公にされたフランスの作家アンドレ・ジッド(1869‐1951/享年81)の作品。(原題:LA PORTE ETROITE)[右:ポーレット・ハンバート挿画(エッチング)本(1946)]

 物語の語り手、主人公ジェロームは、2歳年上の従姉アリサに恋心を抱き、彼女もまたジェロームを愛しているにも関わらず、神の国に憧れを持つアリサは彼の求婚を受諾することなく、最終的に地上での幸福を放棄し、ついには命を落とすというもの。

PAULETTE HUMBERT「LA PORTE ETROITE」挿画本2.jpg ジッド35歳から39歳にかけての作品で、少年期に父を亡くし、母と家庭教師とで暮らしていたことや、伯母の不義に悩む年上の従妹に恋し求婚したことなどは、彼の実人生と重なります(ジッドは26歳の年にこの従妹マドレーヌに求婚し、最初拒否されるが、結局彼女は彼の妻となる)。

 この〈物語〉(ジッドはこれは小説ではなく物語だとしている)では、アリサの自己犠牲の精神が、完成度の高い文体で美しく描かれてて、アリサの妹がジェロームを好いていたということもありますが、それ以上に、自分がジェロームの傍にいると、彼は、聖書に「力を尽くして狭き門より入れ」とある、その「狭き門」に至ることが出来ないという判断が働いていることがあります。

 キリスト教徒でない者から見れば理解の範疇を超えている面もあり、また、読み返してみて改めて気づいたのですが、前半部分からすでにアリサの「死への愛」(タナトス)とも思われる箇所も見られます。
 ではアリサの犠牲によって誰かが救われたかと言うと、アリサ自身も含め誰も救われておらず、一般的にも、ジッドはこの作品を通して、プロテスタンティズム的な「自己犠牲」に対する批判を行ったと解されているようです。

 プロテスタンティズムの「世俗内禁欲」や「隣人愛」が「資本主義の精神」となり、利潤を生じる資本主義の発展を支えたと分析したのはマックス・ヴェーバーでしたが、厳格なプロテスタンティズム社会に育った多感な少年ジッドは、プロテスタンティズムの禁欲主義、克己主義の重圧から自身を解き放つことに苦悶したと考えられ、アリサの「世俗内禁欲」や「隣人愛」を、ジェロームを通してある種の"理不尽"として描いているような気もします。

狭き門  ジイド.jpg しかし、それにしても、最後のアリサの日記に記された彼女の揺れ動く魂の軌跡などは人間的で、伯母の不義に対する反動から穢れのない恋愛を希求しているともとれますが、同時に青春文学に通じる恋愛の美化要素を満たしており、また、恋愛を通して幸せになるのではなく、徳を積み神の世界に近づこうとするその内面向上の姿勢は、一見アナクロ風でありながらも、「幸せになりたい症候群」が横溢する時代にあっては、逆に読者を惹きつけるものがあるのではないかと思いました。

狭き門 (旺文社文庫 508-1)』 

 【1954年文庫化・1975年改版[新潮文庫]/1954年再文庫化[角川文庫]/1967年再文庫化[岩波文庫]/1970年再文庫化[旺文社文庫]/1971年再文庫化[講談社文庫]/2015再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

「●し ウィリアム・シェイクスピア」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1016】シェイクスピア『リア王
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(福田恆存)

「終わりよければすべてよし」。「悲劇」と見るのには無理がある。

ヴェニスの商人2.jpg
『ヴェニスの商人』.JPG
ヴェニスの商人.jpg ヴェニスの商人2.jpg ヴェニスの商人 (白水Uブックス (14)).jpg
ヴェニスの商人 (新潮文庫)』(福田恆存:訳)『ヴェニスの商人』 光文社古典新訳文庫 (安西徹雄:訳)〔'07年〕『ヴェニスの商人 (白水Uブックス (14))』(小田島雄志:訳)['83年]
新潮文庫(改装版)
 1594年から1597年の間に書かれたとされているシェイクスピア(1564‐1616)の作品ですが、近年では、ユダヤ人高利貸しのシャイロックが苛められる話として有名かもしれません。

ヴェニスの商人  日下武史.jpg 劇団四季で浅利慶太が日下武史をして〈受難者〉としてのシャイロック像を演出し「新解釈」と言われましたが、実は昔からそうした解釈はあり、本場ロンドンではシャイロックを一流の悲劇役者が演じる傾向が18世紀からあるそうです。

ヴェニスの商人 アルパチーノ.jpgヴェニスの商人v.jpg '04年に初めてハリウッド映画化され、それまで映画化されなかったのは、米映画界におけるユダヤ系の人たちの影響力の大きさのためだと思うのですが、シャイロックを演じたのはやはり大物俳優(アル・パチーノ)でした(マイケル・ラドフォード監督、ジェレミー・アイアンズ、ジョセフ・ファインズ共演)。

 因みに、今年['07年]8月には、本場英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出家グレゴリー・ドーランを招いて市村正親(シャイロック)、西岡徳馬(アントーニオ)、藤原竜也(バサーニオ)、寺島しのぶ(ポーシャ)の配役での舞台公演が予定されていますが、やはりテーマは「偏見」ということになるみたいです。

福田恆存.png でもやはり、シェイクスピアの「ハムレット」「マクベス」「オセロー」「リア王」を生んだ「悲劇時代」の前にあった、彼の「喜劇時代」の作品であることに注目した福田恆存(1912-1994)の解題にもあるように、これを「悲劇」と見るのには無理があるような気がします。
福田 恆存 (1912-1994)

 「クリスト教徒の血を一滴でも流したら、お前の土地も財産も、ヴェニスの法律に従い、国庫に没収する」(クリスト教徒...というのがミソですが)と言われて復讐を諦めたシャイロックが、「市民以外の者が市民の生命に危害を加えようとした罪科」で、結局財産を没収され、さらに生殺与奪権を当局に委ねられるのであれば、この裁判はもともと何だったのかと突っ込みたくもなりますが、意外と本人は(演じ方にもよりますが)あっさり引き下がり、証文の文言をタテに強気を張っていた人物が、同じ文言や条文に足をすくわれるというパラドックスが鮮やかだと思います。

 何れにしろ、ユダヤ人に対する排斥感情が正論的に在った時代に書かれたものであることを頭に入れておくべきかも知れないし、時代背景を考え始めると、アントーニオーとバサーニオーの友情も、現代のものとは少し違うのではないかという見方(もっと"濃い"もの)も成り立ちます。因みに、グレゴリー・ドーランの演出も、バサーニオがポーシャに求婚する費用を作るため借金をするアントーニオは、同性のバサーニオを愛しているという解釈となっているようです。

シェイクスピア全集 (10) ヴェニスの商人.jpgヴェニスの商人 (1966年).jpg 悲劇だと決め込んで初めて映画や芝居でこの作品に触れた人の中には、最後のポーシャが「変装」や「指輪の行方」の種明かしをする"微笑ましい"場面が「余分だった」というような感想を持った人もいたようですが、「終わりよければすべてよし」というオプティミスティックな考え方がベースの明るい作品であるという解釈に立てば、この部分は構成上なくてはならないパートでしょう。どんどん「悲劇」化されていくことで、オリジナルとは違ったものになっていっている気がしなくもないです。
シェイクスピア全集 (10) ヴェニスの商人 (ちくま文庫)』カバー画:安野光雅/『ヴェニスの商人 (1966年) (旺文社文庫)

 【1966年文庫化[旺文社文庫]/1967年再文庫化[新潮文庫]/1973年再文庫化・1982年改訂[岩波文庫]/2002年再文庫化[ちくま文庫]/2005年再文庫化[角川文庫(『新訳 ヴェニスの商人―シェイクスピアコレクション』)]/2007年再文庫化〔光文社古典新訳文庫〕】

《読書MEMO》
●舞台演劇「ヴェニスの商人」
ヴェニスの商人91.jpgヴェニスの商人92.jpg演出:グレゴリー・ドーラン
出演:市村正親(シャイロック)、西岡徳馬(アントーニオ)、藤原竜也(バサーニオ)、寺島しのぶ(ポーシャ)

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3079】 メアリー・シェリー 『フランケンシュタイン
○ノーベル文学賞受賞者(ジャン=ポール・サルトル) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●哲学一般・哲学者」の インデックッスへ

難解ながらもスリリング。実存哲学的な文学作家評伝。

聖ジュネ  09.jpg聖ジュネ.jpg 聖ジュネ(文庫)上.jpg 聖ジュネ(文庫)下.jpg Jean-Paul Sartre (1905-1980).jpgジャン・ジュネ.jpg
英訳版/ガリマール社版/『聖ジュネ〈上巻〉―殉教と反抗 (1971年)』『聖ジュネ〈下巻〉―殉教と反抗 (1971年)』新潮文庫 Jean-Paul Sartre/Jean Genet

聖ジュネ〈上巻〉.jpg聖ジュネ〈下巻〉.jpg 1952年の原著発表。フランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905‐1980)は、「嘔吐」「水入らず」など一連の小説でノーベル文学賞を受賞していますが(結果的には辞退)、本書は小説ではなく、泥棒から作家になったジャン・ジュネに関する哲学的な文学評伝です。

 本書によれば私生児だったジュネは、拾われた農夫の家で10歳のときに盗みを見咎められ、「お前は泥棒だ」と"宣告"されるのですが、その"事件"により社会から疎外された彼は、むしろ「貼られたレッテルどおりに進む」ことを決意し、本物の泥棒になり、さらには「女役の男色」にまでなります。

 しかしその結果、今度は、自分は「対他存在」(他人から規定された仮象を生きる存在)にしか過ぎないと感じるようになり、そのことは彼に自己疎外を引き起こします。ジュネがそれをどう克服するかが本書の1つの大きなテーマなのですが(ジュネ自身のテーマというよりサルトルが設定したテーマだが)、彼は徹底して他者から卑下されることで〈仮象〉を自分のものとします。つまり、人から軽蔑されるように努力するのです。

 サルトルの言う「実存」(対自存在)は、理由もなく偶然にある状況に投げ込まれて存在する無根拠な存在者であり(それはまさに我々のことを指している)、それはまた、"投企"によって自己を創出できる自由な存在者でもあって、つまり人間はモノ(即自存在)ではないということですが、ジュネを蔑む〈まっとうな人々〉こそ、既成価値観に囚われた〈仮象〉に生き、それらを剥ぎ取ればモノ(即自存在)に過ぎないのではないかというパラドックスがここに成り立ちます。

存在と無下.jpg存在と無 上.jpg 難解ながらもスリリングですが、「女役の男色」がどうして「対他存在」(他人から規定された仮象を生きる存在)なのでしょうか。本書より前に書かれた『存在と無(上・下)』('66年全集版・'05年新装版/人文書院)を読むと、サルトルは男性を「主体的」存在(=見る存在)、女性を「客体的」存在(=見られる存在)としています。これは、女性は〈他人から規定された仮象を生きる存在〉であるとしているともとれ、「女役の男色」もこれに当て嵌まるということのようです(因みに、サルトルの女性観にはフェニミストなどからの批判も多いようだが、そうした批判の中には「誤読」によるものも多いのではないかと思う)。

 サルトルの哲学は文学的な匂いがしますが、彼はそう思われるのを嫌っていて、それがノーベル「文学」賞の辞退理由だという話もあります。でも、日本でも一時期、文学作家の間で人気があったのでは。三島由紀夫などはジュネのファンであったと同時に、エッセイなどではサルトルの著作からよく引用しています。

 この評伝はあまりにサルトルの自身の哲学寄りに書かれていて、ジュネ自身は気に入らなかったようですが、それなりに衝撃を受けたらしく、ジュネは本書発表後しばらくは自分の作品を書くことを止めています。 

 【1958年単行本[新潮社(『殉教と反抗(上・下)』)]/1966年全集[人文書院サルトル全集34・35(『聖ジュネ-殉教者と演技者(上・下)』)]/1971年文庫化〔新潮文庫(上・下)〕】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1474】 ニコライ・ゴーゴリ『外套・鼻
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●か行の外国映画監督」の インデックッスへ 「●「全米映画批評家協会賞 作品賞」受賞作」の インデックッスへ(「存在の耐えられない軽さ」)「●は行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「●エンニオ・モリコーネ音楽作品」の インデックッスへ(「わが青春のフロレンス」)「●「カンヌ国際映画祭 女優賞」受賞作」の インデックッスへ(オッタビア・ピッコロ) 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(渋谷パンテオン)

映画公開の5年後に出た翻訳。思弁的・実験的だが読みやすく、醸す雰囲気は好み。

存在の耐えられない軽さ(ポスター).jpg存在の耐えられない軽さ.jpg 存在の耐えられない軽さ2.jpg 存在の耐えられない軽さ 全集.jpg 存在の耐えられない軽さv.jpg 
映画 「存在の耐えられない軽さ」 ポスター(渋谷パンテオン)『存在の耐えられない軽さ』(単行本)『存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)』『存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)』「存在の耐えられない軽さ [DVD]
Milan Kundera
Milan Kundera.jpg 1984年にフランスで出版された、まだノーベル文学賞を貰っていない最後の大物作家と言われているチェコ出身のミラン ・クンデラ(Milan Kundera)の作品で、発表時の政治的事情(フランスへの亡命状態だった)で、自身の母国語であるチェコ語ではなくフランス語で書かれました。

The Unbearable Lightness of Being1.jpg 冷戦下のチェコスロバキア、1968年のソ連軍侵攻・「プラハの春」前後の話で、運命に弄ばれ苦悩する男女を描いた小説ですが、政治的な問題(チェコスロバキアという国名が使われていないことからみてもその複雑さが窺える)のほかに哲学的問題(ニーチェの永劫回帰論を引いてのタイトルの「存在の耐えられない軽さ」ということの解題からこの小説は始まる)、母と娘の関係といった精神分析的問題、言葉とコミュニケーションの問題、心と身体(性)の疎外問題などの様々なテーマを作中で扱っています。
The Unbearable Lightness of Being (1988)
The Unbearable Lightness of Being (1988).jpgThe Unbearable Lightness of Being2.jpg 先にフィリップ・カウフマン監督の映画('87年/米)の方を観てそれほど悪くないと思ったのですが(原作の翻訳が出たのは映画公開より5年後)、映画ではイギリス人俳優のダニエル・デイ=ルイスが、天才脳外科医でありながらプラハ抵抗運動のシンパでもあり、女たらしのプレイボーイだけれども妻をもきっちり愛しているという、なかなか魅力的な主「存在の耐えられない軽さ」.jpg人公トマーシュをうまく演じていてました(ダニエル・デイ=ルイスは翌年、「マイ・レフトフット」('89年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞する)。やりたいことはすべてやりながら、最後にあっさり事故死してしまったトマーシュ存在の耐えられない軽さ1_2.jpgという男を通して、人間に備わった人格の複雑さと多面性、運命の前での人間の生の脆さなどを感じさせる佳作でした。

ジュリエット・ビノシュ/ダニエル・デイ=ルイス

(主人公の妻を演じたフランス人女優ジュリエット・ビノシュはその後、「トリジュリエット・ビノシュ   .jpgダニエル・デイ=ルイス .jpgコロール/青の愛」('93年)でヴェネツィア国際映画祭女優賞、「イングリッシュ・ペイシェント」('96年)でベルリン国際映画祭銀熊賞女優賞とアカデミー助演女優賞、「トスカーナの贋作」('10年)でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞し、世界三大映画祭の女優賞をすべて受賞した最初の女優となっている。)(更に、主人公トマーシュを演じたダニエル・デイ=ルイスもその後、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」('07年)、「リンカーン」('12年)でもアカデミー賞主演男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞を3回受賞した唯一の俳優となった。)
「イングリッシュ・ペイシェント」('96年)でアカデミー賞助演女優賞を獲得したジュリエット・ビノシュ/「マイ・レフトフット」('89年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞したダニエル・デイ=ルイス
   
わが青春のフロレンス チラシ.jpg122_metelloわが青春のフロレン.jpg この映画を観たときにマウロ・ボロニーニ監督の「わが青春のフロレンス」('70年/伊)という古い映画を思い出しました。

METELLO 1970 2.jpgMETELLO 1970 1.jpg 無政府主義者の父親に育てられた主人公メテッロ(マッシモ・ラニエリ)は、水難事故で父を失ってから孤児として苦労する。ベルギーへの移住を拒否し、両親の故郷フィレンツェでレンガ職人として働き始めるが、次第に労働者の権利に目覚め、ストライキの中心人物となっていく。その間、メテッロとMetello 1970.jpg 未亡人ヴィオラ(ルチア・ボゼー)との恋、事故死した仲間の娘エルシリア(オッタヴィア・ピッコロ)との恋と結婚、隣家の婦人イディーナ(ティナ・オーモン)との浮気なども―。

マッシモ・ラニエリ/オッタビア・ピッコロ

わが青春のフロレンス 01.jpg 原作はヴァスコ・プラトリーニ。ルキノ・ヴァレリオ・ズルリーニ監督の「家族日誌」の脚本家、ヴィスコンティ監督の「若者のすべての」の共同原案者でもあり、20世紀初めのフィレンツェを舞台に、階級意識に目覚め労働運動のリーダーとなっていく男を描いたものですが、この主人公は、闘争のかたわら人妻と過ちを犯してしまうというもので、同じように人間の多面性をよく描いている映画でした。この作品でエルシリアを演じたオッタヴィア・ピッコロが、1970年のカンヌ国際映画祭女優賞を受賞しています。
  
 ミラン・クンデラの原作『存在の耐えられない軽さ』の方は、当時の政治状況やプラハ抵抗運動で起きた出来事が色濃く影を落とす一方で、トマーシュと彼のドン・ファンぶりに悩みながらも愛を貫こうとするテレザの複雑な愛の物語になっていて、トマーシュは画家のサビナを愛人とするなど一夫多妻生活を送っていて、サビナも大学教授フランツとも付き合い、さらにテレザも他の男と交わったり、サビナとも女同士の妖しい関係になるなど、登場人物は少ないが(みな知識人)、彼らはそれぞれに、心と身体の疎外やある種のコミュニケーション不全に悩んでいます(サビナとフランツの言葉の行き違いなどはディスコミュニケーションの問題を、テレザが男と寝る場面では身体の心に対する裏切りを、それぞれ深く抉っている)。
 
旅芸人の記録パンフ.gif そうした登場人物の会話や思惟が、時に作者の哲学的考察も交えて思弁的に展開されていて、更にそれを作者はカットバックを用いた実験的な方法で描いており、例えば、映画のラストで主人公が見舞われるアクシデントも、原作では中ほどで、しかも伝聞スタイルで出てきます(ミラン・クンデラに原作の感想を聞かれたダニエル・デイ=ルイスが「映画化は無理だと思った」と答えたところ、映画学校で教えたこともあるクンデラは「私もだよ」と笑いながら言ったという)。
 
 人物の置かれた状況や意識をコラージュのように貼り合わせ、歴史とそれに巻き込まれる男女の関係を描くという意味で、平面的なカウフマン監督の映画よりも、むしろ構成的にはテオ・アンゲロプロス監督の旅芸人の記録」('75年)を連想しました(クンデラの映画学校講師時代の生徒にはミロシュ・フォルマン(「カッコーの巣の上で」('75年)の監督)がいる)。 

 何れにせよかなりの力量が感じられ、部分的には修辞的に凝った記述もあり、またチェコの歴史についてもある程度の知識が求められるのかも。但し、全体的には決して読むこと自体に難儀する小説ではなく、むしろスラスラ読めてしまい、しかもこの小説が醸す雰囲気は何となく自分の好みなのですが、どこまで作者の意図を理解できたかは心もとないといったところです。
 
 政治的理由で人々が職場や祖国を追われるといったことが身近な体験としてないと、なかなかわからない面もあるのかも知れませんが、人生の偶然の出来事も個人の意思による選択も、すべて大きな歴史の流れの中でのそれに重なる個人史として位置づけてみるところに(この物語が作者の述懐の如く書かれているのが1つのミソではないか)、日本人の人生と歴史の関わりについての考え方との大きな違いを感じました。

「存在の耐えられない軽さ」渋谷パンテオン.jpg原題:THE UNBEARABLE LIGHTNESS OF BEING●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:フィリップ・カウフマン●音楽:アラン・スプレット●原作:渋谷パンテオン 2.jpgミラン ・クンデラ●時間:171分●出演:ダニエル・デイ・ルイスジュリエット・ビノシュ/レナ・オリン/ダニエル・オルブリフスキー/デレク・デ・リント/エルランド・ヨゼフソン●日本公開:1988/10●配給:松竹富士●最初に観た場所:渋谷パンテオン (88-11-13) (評価★★★★)
渋谷パンテオン 東急文化会館1F、1956年12月1日オープン。2003(平成15)年6月30日閉館。

「わが青春のフロレンス」●原題:METELLO●制作年:1970年●制作国:イタリア●監督:マウロ・ポロニーニ●音楽:エンニオ・モリコーネ●原作:ヴァスコ・プラトリーニ 「メテッロ」●時間:111分●出演:マッシモ・ラニエリ/オッタビア・ピッコロ/ティナ・オーモン/ルチア・ボゼー/フランク・ウォルフ/アドルフォ・チェリ●日本公開:1971年●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:高田馬場パール座 (77-12-16) (評価★★★☆)●併映「リップスティック」(ラモンド・ジョンソン)

妻エルシリア(オッタビア・ピッコロ)/隣家の女イディーナ(ティナ・オーモン)/未亡人ヴィオラ(ルチア・ボゼー)
わが青春のフロレンス7.jpg わが青春のフロレンス8.png わが青春のフロレンス6.jpg

Tina Aumont.jpgティナ・オーモン(Tina Aumont) in「青い体験」('73年/伊)

【1998年文庫化[集英社文庫]】


ミラン・クンデラ.jpgミラン・クンデラ チェコ出身の作家
2023年7月11日死去。94歳。「存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)」などの作品で知られる。

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【655】 ミラン ・クンデラ 『存在の耐えられない軽さ
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

道徳観念や社会批評に裏打ちされた人間味溢れる作品群。

ガルシン 赤い花.png赤い花・信号.jpg 0_ガルシン短篇集 (福武文庫).jpg    akaihana.jpg  ガルシン.jpg
紅い花 他四篇 (岩波文庫)』['37年]『赤い花・信号 他 (旺文社文庫)』['68年] 『ガルシン短篇集 (福武文庫)』〔'90年〕 電子書籍版 『ガルシン短篇集・赤い花』〔'06年〕フセヴォロード・ミハイロヴィチ・ガルシン (Всеволод Михайлович Гаршин, 英:Vsevolod Mikhajlovich Garshin、1855‐1888/享年33)

 1886年に発表されたロシアの作家フセーヴォロド・ガルシン(1855‐1888)「赤い花」は、癲狂院(精神病院)に連れてこられた患者が病院の庭に咲き誇る罌粟(けし)の花を悪の化身と感じ、それを全て摘み取ることが自分の義務だと思い込んで、その「悪」との闘いに身を滅ぼすというもので、シュールなモチーフでありながら自らの精神病院の入院体験がベースになっているだけに、狭窄衣や薬物を用いての患者の扱われ方などの描写はリアルです。

 戦場で負傷し、自らが殺したトルコ人の男の死体と共に過ごした時間を描いた「四日間」も、1877年の露土戦争に参戦して負傷した経験がベースになっていて、腐乱していく死体の傍から動けないという不気味な状況下での兵士の切実な叫びが伝わってきますが、ここで、作者が「赤い花」の狂人に対してもその心の叫びに共感的であり、その良心を認めていたことに気づかされました。 

 そして、2人の鉄道の信号番の男の交わりを描いた「信号」は、その「良心」というものがテーマになっている最もヒューマン・タッチな作品で、しかも最後までハラハラさせられ堪能できます。

 他に、虫たちを主人公とした「夢がたり」、植物を主人公とした「アッタレーア・プリンケプス」などの寓話的物語も、ユーモアの中に社会批判を込めて秀逸で、全体を通してこの作家の柔軟な知性を感じます。

 作者ガルシンは、5歳ぐらいから古典を読みこなし将来は医者を目指す秀才でしたが、17歳で最初の精神病発作を起こしてその後生涯において何度も精神病院への入退院を繰り返し、精神病の発作の恐怖から33歳で自殺に追い込まれています。

あかい花.jpg 彼の精神病は、遺伝的なものと強すぎる感受性に起因するものだったようですが、作品自体は精緻で無駄がなく、しかも真っ当な道徳観念や社会批評に裏打ちされた人間味溢れるものであると思います。

岩波文庫(旧版) 『あかい花 他四篇』
                
 【1937年文庫化・1959年・2006年改版[岩波文庫]/1968年再文庫化[旺文社文庫(『赤い花・信号』)]/1990年再文庫化[福武文庫(『ガルシン短篇集』)]/2006年電子書籍版〔グーテンベルク21(『ガルシン短篇集・赤い花』)〕】

「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1104】 カポーティ『ティファニーで朝食を
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

近代人の自己からの疎外を強烈に描いていて、常に"今日的"な作品。

フランツ・カフカ 『変身』2.JPG
フランツ・カフカ 『変身』.JPG変身2.jpg
  カフカ.jpg Franz Kafka (1883‐1924/享年40)
変身 (新潮文庫)』〔旧版/新版〕
     
Kafka Die Verwandlung 1915/『変身 他一編(岩波文庫)』/『変身―カフカ・コレクション (白水uブックス)
Kafka Die Verwandlung 1915.jpg変身 iwanami.jpg変身―カフカ・コレクション (白水uブックス).jpg 1915年にドイツ語で出版されたユダヤ系チェコ人作家、フランツ・カフカ(1883‐1924)の最も有名な作品で、個人的には、「毎日小学生新聞」の「世界のSF」みたいなコーナーでダイジェスト版で読んだのが最初でしたが(レイ・ブラッドベリなどと一緒に紹介されていた)、有名でそれほど長い話でもないので、小中学生ぐらいで完全版を読んだという読者も結構いるのではないでしょうか。

新潮文庫 プレミアムカバー 2018 hennsin.jpg新潮文庫2018年プレミアムカバー

変身  .jpg ある朝、グレゴール・ザムザ(新潮文庫ではグレーゴル・ザムザ)が目覚めたら、自分が寝床の中で1匹の巨大な虫に変っているのを発見するという誰もが知る書き出しです(この「虫」というは作者の記述からすると(新潮文庫・高橋義孝訳)、かつてよくイメージされていた"イモ虫"のようなものではなく"ムカデ"か"ゴキブリ"のようなものらしい)。

 新潮文庫の解説で、この物語の不思議な点として、当然のことながら、まず弟1に、ザムザが虫に変身したことを挙げていますが、弟2に、彼の変身を周囲の人は誰も不審に思っていないということ、弟3に、ザムザがなぜ変身したかを作者がまったく説明していないこと、を挙げていて、尤もだと思います。

フランツ・カフカ  『変身』 e.jpg とりわけ2番目に関しては、ザムザ自身が、自分がムカデに変身したことを不審に思っていないというのが不思議で、巨大な虫になってしまってビックリしたとかどうしてこうなったのか考えるという話にはなっておらず、まず、保険外交員としての自分の仕事のことや会社における地位のことを心配していて、この点において近代人の「自己からの疎外」を鋭く描いていると思います。ムカデになっても、そのこと自体について大きなパニックに陥るのではなく、会社の仕事が遅れることを憂い、不況下のサラリーマンの如く、失業することの心配しているのが何とも哀しい。

 父親が投げつけたリンゴが皮膚にめり込んで衰弱死に至る後半部分は、カフカのファーザー・コンプレックスが色濃く出ていますが、最後は家族全員が彼が亡きものになればいいと思うようになり、そこには、家族すらも愛情的繋がり以上に社会的役割に過ぎず、その役割が果たせなければ家族という"社会"から疎外され、家族によって抹殺されてしまうという、人間と人間の繋がりや人間存在の脆弱さを浮き彫りにしているように思えました。

 労災保険局の職員だった(結局、死の2年前までそこに勤務していた)カフカがこの作品が書いたのは初版刊行を遡ること数年の1912年で、和暦で明治45年ですが、古さを感じさせず、むしろテーマ的には常に"今日的"な作品であると思います。

「変身」('02年/ロシア).jpg この作品は何度か映像化されていて、個人的にはワレーリイ・フォーキン監督の「変身」('02年/ロシア)を字幕なしで観ました。監督は同作の舞台版を手掛けたロシア演劇界の鬼才と言われる人で、この映像化作品でも、役者自身が自分の肉体を使って毒虫を表現する演劇的アプローチを試みています。従って、グレーゴル・ザムザの家族が彼の部屋の扉を開けてもそこに奇怪な毒虫となった息子がいるわけではないのですが、家族の驚嘆した表情を映し出すなどのモンタージュの手法を使って状況を表現しています。雰囲気は出ていましたが、言葉が分からなかったので評価は保留しておきます。
映画「 変身」 (2002) Prevrashcheniye (原題) / METAMORPHOSIS (英題) (2009年にDVDが発売)

変身・断食芸人 (岩波文庫)』『変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)
変身・断食芸人.jpg変身、掟の前で 他2編.jpg 【1952年文庫化・1985年改版[新潮文庫(高橋義孝:訳)]/1952年再文庫化・1979年改版[角川文庫](中井正文:訳)/1973年再文庫化[旺文社文庫(『変身 他』(川崎芳隆 他:訳))]/1978年再文庫化[講談社文庫(『変身・判決・断食芸人』(高安国世:訳)]/1979年再文庫化[岩波文庫(『変身 他一篇』(山下肇:訳))]/2004年再文庫化[岩波文庫(『変身・断食芸人』(山下肇:訳))]/2007年文庫化[講談社英語文庫]/2007年再文庫化(新装版)[角川文庫(中井正文:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『変身、掟の前で 他2編』(丘沢静也:訳))]/2015年文庫化[集英社文庫(『カフカ ポケットマスターピース 01 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) 』(多和田葉子 他:訳))]】

《読書MEMO》
●新潮文庫2018年プレミアムカバー新潮文庫 プレミアムカバー 2018.png

「●と フョードル・ドストエフスキー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●な 中上 健次」【602】 中上 健次 『
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ 「●さ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

罪と罰 1970 ちらし.jpgミステリとしても味わえ、現代に繋がるテーマもふんだんに。

パンフレット.jpgカラマーゾフの兄弟.jpg カラマーゾフの兄弟 中巻.jpg カラマーゾフの兄弟 下巻.jpg
カラマーゾフの兄弟 上 新潮文庫 ト 1-9』『カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)』『カラマーゾフの兄弟 下  新潮文庫 ト 1-11』「罪と罰(1970) [DVD]」 ('70年/ソ連)チラシ

映画「カラマーゾフの兄弟 [DVD]」('68年/ソ連)パンフレット['07年]                                    

Братья Карамазовы.jpg  1880年、ドストエフスキーが59歳の時に完結したこの小説は、ドストエフスキー作品自体が最近の若者に読まれなくなったとよく言われる中、かつて作家の村上春樹 09.jpg村上春樹氏が自らのサイトフォーラムで「全日本『カラマーゾフの兄弟』読了クラブ」(後にバー「スメルジャコフ」と改称)なるものを立ち上げ、読了者に〈会員番号〉を発行しますと宣言すると若い人のレスポンスが結構たくさんあって、そういうのを見ると結構読まれているのかなあという気もします(寄せられた感想が『海辺のカフカ』などの感想文と同じトーンなのがちょっと面白かった)。[右:ロシア語版ペーパーバックス]

 しかし、村上氏自身は結構真面目なのかも。 と言うのは、読者からの、オウム真理教に入るような人達も『カラマーゾフの兄弟』を一度読んでいたらオウムに入らなかったかもという感想に対し、「『カラマーゾフ』を読み通せる人の数は極めて限られている。一度でも読めば確かにオウムに入ろうとする人たちの大部分を阻止することはできるだろうけれど、とにかく『カラマーゾフ』は難しすぎるし長すぎる。自分がいつか成し遂げたいと思っていることは、もっとやさしくて読みやすい現代の『カラマーゾフ』を書くことだ。それは途方もなく難しいのだが」と答えていたから。

電子書籍版(グーテンベルグ21)
karamazov1.jpg 個人的には、ミステリの要素があり、しかも最後は泣ける(?)ので、精神的に構えて読む必要は全然ないのではとも思うのですが、時間的・体力的には準備が必要かもしれません。

 この大長編小説の前半3分の2ぐらいまでが僅か数日の間に起きた出来事であり、それは従来の歴年的文学長編と異なる特徴の1つだと思うのですが、加えて、挿話やカットバックが多く、それらが1つ1つの物語になっています(ほとんど"爆発的"に脇道へ逸れていく)。
 神の不在を問うた「大審問官」もその1つと見ることができますが、同時に主テーマの1つでもあり、また、その中に幼児虐待の問題が出てくるなど、常に現代と繋がる何かがあります。
 '06年からは亀山郁夫氏による新訳の刊行も始まり、まだまだ読まれ続けられるであろう作品だと思います。

 この作品は、作者であるドストエフスキーが時間(締め切り)に追われつつ書いた雑誌連載小説であり、確か、妻アンナ・ドストエフスカヤの回想記に書いてあったのではないかと思いますが、原稿を出版社に渡した後でストーリーが破綻していることに気づいて、慌てて印刷のストップをかけるなどし(間に合わないこともあった)、ドストエフスキーは自らを何度も罵倒したりしていたそうです。

カラマーゾフの兄弟 ロシア版ポスター.jpg 映画や芝居でも観ましたが、イワン・プィリエフ(Ivan Pyryev)監督の「カラマーゾフの兄弟」('68年)は堂々たる本場モノで、4時間近い上映時間の長さを感じさせないものでした。
 リチャード・ブルックス監督のアメリカ版「カラマーゾフの兄弟」('57年)もあり、テレビで一部だけ観ましたが、ユル・ブリンナーがドミートリイ、マリア・シェルがグルーシェニカという異色の取り合わせで、何だか国籍不明映画みたいな感じでした。

 但し、本場物であればいいというものではなく、トルストイの小説の映画化作品である「復活」('61年・ミハイル・シヴァイツェル監督)「アンア・カレーニナ」('67年・アレクサンドル・ザルヒ監督)は、何となくメロドラマみたいになってしまっています(「アンア・カレーニナ」のタチアナ・サモイロワはいい女優なのだが...)。
映画「カラマーゾフの兄弟」輸入版ポスター

THE BRATYA KARAMAZOVY 1968 1.jpg プィリエフの「カラマーゾフ」にもそのキライが無いわけではないですが、「復活」や「アンナ...」と比べると骨太であると思いました。ストーリー的には原作を読んでいないとキツイかもしれませんが、ミステリとしても成立していて、キャスティングも原作のイメージにほぼ沿ったものでした(この映画の撮影中にプィリエフ監督は急死し、ドミトリ役のミハエル・ウリャーノフらが監督の遺志を引き継いで映画を完成させた)。

THE BRATYA KARAMAZOVY 1968 2.jpgカラマーゾフの兄弟  dvd.jpg ただ1つ難を言えば、ドミートリーなどを演じている俳優が若干老けて見えることで、ロシア人が髭などのせいで大体そう見えてしまうのか、それとも、この物語で主役級を演じようとすると、相当に役者としての年季を踏まなければならないということだったのかなどと、色々憶測していますが、それも許容範囲内か。
Directed by: Ivan Pyr'ev, Mikhail Ulyanov, Kirill Lavrov Cast: Mikhail Ulyanov, Kirill Lavrov, Andrei Myagkov Mark Prudkin, Olga Kobeleva, Viktor Kolpakov
カラマーゾフの兄弟 [DVD]」 ['07年]

罪と罰 1970 dvd.jpg 因みに、ドストエフスキー作品を映画化したもの中で原作の雰囲気をよく伝えているものと言えば、個人的にはレフ・クリジャーノフ 脚本・監督のソビエト映画「罪と罰」('70年)ではないかと思います。こちらも3時間40分もの長尺ですが、その分本格的です。倒叙型ミステリとも言え(ドストエフスキーの長編は全て現代に繋がるテーマを孕むとともに、ミステリの形態を模しているとも言われる)、ゲPRESTUPLENIE I NAKAZANIE 1.jpgオルギー・タラトルキン(当時新人)のラスコーリニコもタチアナ・ベドーワのソーニャも良かったように思います(ソーニャはマルメラードフ老人の前妻の子で、家計を助けるために躰を売っているのだが、どう見ても娼婦には見えない。それだけに痛々しさはある)。
罪と罰(1970) [DVD]

 ラスコーリニコフと、老婆殺人事件担当の予審判事ポルフィーリ(インノケンティ・スモクトノフスキー)との神の存在めぐる論戦は、舌鋒鋭い禿頭ポルフィーリが優勢でしょうか。漠然とした神学論争ではなく、ちゃんと事件に被せた議論になっています。ラスコーリニコフの妹PRESTUPLENIE I NAKAZANIE 2.jpgドゥーニャ(ヴィクトリア・フョードロワ)に執拗に迫るスビドリガイロフ(エフィム・コベリヤン)のぎらついた感じも生々しく、最後にドゥーニャが涙を流しながらスビドリガイロフに拳銃を向ける場面はややメロドラマ調ですが(この2人の話のウェイトが2部構成の第2部のかなりを占め、原作より比重が重い)、これもまあヴィクトリア・フョードロワの美しさで許してしまおうかという感じ。
 公開されて暫くのうちに観て、その後ずっと記憶の上ではかなり古い映画だと勘違いしていたのですが、その割にはスローモーションとか使って映像が洗練されていたなあと思ったら、意外と新しい作品でした。この作品の場合、敢えてモノクロで撮っているのが成功しているように思えます。

i「カラマーゾフの兄弟」.jpgTHE BRATYA KARAMAZOVY 1968 iwan.jpg『カラマーゾフの兄弟・完全版』.jpg「カラマーゾフの兄弟」●原題:THE BRATYA KARAMAZOVY●制作年:1968年●制作国:ソ連●監督:イワン・プィリエフ●撮影:セルゲイ・ウルセフスキー●原作:: フェードル・M・ドストエフスキー●時間:227分●出演:ミハエル・ウリャーノフ/リオネラ・プイリエフ/マルク・プルードキン/ワレンチン・ニクーリン/スベトラーナ・コルコーシコ ●日本公開:1969/07●配給:東和●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-21) (評価★★★★☆)

復活 トルストイ dvd.jpgVoskresenie(復活).jpg「復活」●原題:VOSKRESENIE(Resurrection)●制作年:1961年●制作国:ソ連●監督:ミハイル・シヴァイツェル●撮影:エラ・サベリエフ/セルゲイ・ポルヤノフ●音楽:G・スビリドフ●原作:レフ・トルストイ●時間:208分●出演:タマーラ・ショーミナ/エフゲニー・マトベェフ/パウエル・マッサリスキー/ヴィ・クラコフ●日本公開:1965/03●配給:ATG●最初に観た場所:池袋文芸坐(86-04-20) (評価★★★)●併映:「アンア・カレーニナ」(アレクサンドル・ザルヒ)復活 [DVD]」 ['03年]

アンナ・カレーニナ dvd.jpgアンナ・カレーニナ スチール.jpg「アンナ・カレーニナ」●原題:ANNA KARENINA●制作年:1967年●制作国:ソ連●監督・脚本:アレクサンドル・ザルヒ●撮影:レオニード・カラーシニコフ●音楽:ロジオン・シチェドリン/モスクワ室内オーケストラ●原作:レフ・トルストイ●時間:144分●出演:タチアナ・サモイロワ/ワシリー・ラノボイ/ニコライ・グリツェンコ/アナスタシア・ヴェルチンスカヤ/イヤ・サーヴィナ●日本公開:1968/05●配給:東和●最初に観た場所:池袋文芸坐(86-04-20) (評価★★★)●併映:「復活」(ミハイル・シヴァイツェル)アンナ・カレーニナ [DVD]」 ['04年]

「罪と罰」●原題:ПРЕСТУПЛЕНИЕ и НАКАЗАНИЕ(PRESTUPLENIE I NAKAZANIE)●制作年:1970年●制作国:ソ連●監督:レフ・クリジャーノフ●脚本:レフ・クリジャーノフ/ニコライ・フィグロフスキ罪と罰 tirasi.jpgー●撮影:ヴァチェスラフ・シュムスキー●音楽:ミハイル・ジフ ●原作:フョードル・ドストエフスキー●時間:219分●出演:ゲオル罪と罰 [DVD] 2.jpgギー・タラトルキン/タチアナ・ベドーワ/インノケンティ・スモクトゥノフスキー/ヴィクトリア・フョードロワ/アレクサンドル・パブロフ/エフィム・コベリヤン/エフゲニー・レベチェフ/ウラジミール・バソフ●日本公開:1971/03●配給:東和●最初に観た場所(再見):池袋文芸坐(79-11-11) (評価★★★★)●併映:「貴族の巣」(アンドレ・ミハルコフ=コンチャロフスキー)

罪と罰 [DVD]」 ['98年]

 【1927年文庫化・1957年改版版[岩波文庫(全4巻)(米川正夫:訳)]/1961年再文庫化[新潮文庫(『カラマアゾフの兄弟』(全5冊))(原久一郎:訳)]/1972年再文庫化[講談社文庫(全3冊))(北垣信行:訳)]/1978年再文庫化[新潮文庫(全3冊))(原卓也:訳)]/1978年再文庫化[中公文庫(『カラマゾフの兄弟』(全5冊))(池田健太郎:訳)]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(全4分冊)(亀山郁夫:訳)]】 

「●と フョードル・ドストエフスキー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【467】 フョードル・ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

屈折した人物像をリアリティをもって描き、自己疎外の1つの典型を示している。

永遠の良人.JPG
永遠の夫 0.png
永遠の夫 (新潮文庫)』新訳版['79年/'06年(新装版)(千種堅:訳)]
永遠の良人 (1955年) (新潮文庫)』旧訳版['55年(米川正夫:訳)]

永遠の夫(岩波文庫).jpg かつて自分の妻を寝取られた中年男トルソーツキイが、妻の死後、その娘(実は彼の妻と不倫相手のヴェリチャーニノフとの間にできた子)を連れて、そのヴェリチャーニノフの住む町を訪れる―。

 1870年、ドストエフスキーが40代後半で発表した小説で、『白痴』と『悪霊』の間に2ヶ月ぐらいで書き上げられた中篇ですが、男女の三角関係をモチーフに、人間の自尊心と情念の絡み合いを描いた"小説らしい小説"に仕上がって、平易な語り口でストーリー性も充分あり、面白く読めます。

永遠の夫 (岩波文庫 赤 615-9)』(神西清:訳)

 物語はヴェリチャーニノフの視点から書かれていて、帽子に喪章をつけて彼をつけまわす男(トルソーツキイ)の存在は不気味ですが、出会ってみると不倫相手の亭主だったということで、にも関わらず、その男が自分に対して友愛の情を示そうとしていることに困惑させられ、かえって疲弊する―。

永遠の良人[角川文庫(米川正夫訳)].jpg 「永遠の"寝取られ亭主"」トルーソツキイがヴェリチャーニノフに抱くはずの復讐の念は、彼自身の自尊心によって無意識に封じ込められ、過去の6年間の妻の不倫の間、彼にとってヴェリチャーニノフは "親友"であったという尊敬の念に近いものに置き換えられています。

 自分のかなわないライバルが現れたとき、自尊心を否定してライバルを尊敬しそれに同一化しようとする行為を無意識にとる、しかし卑屈とも思えるその行為の底には、無理やり蓋を被せられた復讐心が渦巻いている、こうした屈折した心理構造を持つ人物像を、リアリティをもって描いていると思いました。

永遠の良人 (1951年) (角川文庫〈第53〉)』(米川正夫:訳)

 普通に見れば、"寝取られ亭主"という立場を甘受し、妻を寝取った相手を尊敬さえしてしまうトルソーツキイという男は、一種のマゾヒストでしょう。しかし、その心理描写の妙だけでなく、それを通して、生身の人間の孕む自己矛盾を抉ってみせ、自己疎外の1つの典型を端的に示しているところが、巨匠の巨匠たる所以でしょうか。

 トルソーツキイが"復讐"を意識していなくても結果としてヴェリチャーニノフにとっては"復讐"を被っているかたちになっており、また、ヴェリチャーニノフがずるずるとトルソーツキイとの関わりを深めていってしまうところが、この小説の面白いところではないかと思いました。

個人主義の運命.jpg こうした両者の関係については、ルネ・ジラールの読み解きをベースにした社会学者・作田啓一氏の『個人主義の運命―近代小説と社会学』('81年/岩波新書)での解説が(それをどうとるかは個々に委ねられるものとして)非常に分かり易く面白いのでお薦めです。

作田啓一『個人主義の運命―近代小説と社会学 (岩波新書 黄版 171)

永遠のの良人・永遠夫.JPG 【1932年文庫化[岩波文庫(神西清:訳)『永遠の夫』]/1938年再文庫化[新潮文庫(米川正夫:訳)『永遠の夫』]/1951年再文庫化[角川文庫(米川正夫:訳)『永遠の良人』]/1952年再文庫化[岩波文庫(神西清:訳)『永遠の夫』]/1955年再文庫化[新潮文庫(米川正夫:訳)『永遠の良人』]/1979年再文庫化[新潮文庫(千種堅:訳)]】

「●と フョードル・ドストエフスキー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【466】 ドストエフスキー 『永遠の夫
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●ルキノ・ヴィスコンティ監督作品」の インデックッスへ「●「ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞」受賞作」の インデックッスへ(ヴィスコンティ「白夜」)「●ニーノ・ロータ音楽作品」の インデックッスへ 「●マルチェロ・マストロヤンニ出演作品」の インデックッスへ 「●ロベール・ブレッソン監督作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

ロマンチックで滑稽で切ない「白夜」。ヴィスコンティよりもブレッソンの映画が良かった。

白夜.jpg 白夜 [DVD]PL.jpg 白夜2.jpg 白夜 映画.jpg 白夜 ブレッソン ブルーレイ.jpg
白夜 (角川文庫クラシックス)』/ルキノ・ヴィスコンティ監督「白夜 [DVD]」/ロベール・ブレッソン監督「白夜」チラシ・パンフレット/「ロベール・ブレッソン監督『白夜』Blu-ray」(2016)

「白夜」挿画 (1922年).jpg 1848年、ドストエフスキーが20代後半に発表した初期短篇集で、後の作品群のような重々しいムードは無く、むしろ処女作『貧しき人びと』の系譜を引くヒューマンタッチの作品が主で、内容的にも読みやすいものばかりです。

 表題作の「白夜」も恋愛がテーマで、主人公は美しい恋愛を夢想するインテリ青年で、理想の女性を求め白夜の街を徘徊していたある日、橋の上で泣いている美しい女性に出会い、恋人に捨てられたらしい彼女の話を聞くうちに自分が恋に陥る―というものですが、ロマンチックだけれどもどこかコミカルでもあり、切ないと言うか、但し、ちょっと残酷でもあるお話です。

「白夜」挿画 (1922年)

 人生で絶対的なものなど希求した覚えがないという人でも、若かりし頃は"絶対の恋人"というものを夢見たことがあるのではないか、夢と現実の違いを知ることが大人になるということなのか、などと多少しみじみした気分に...。

 また、この主人公がとる、フィアンセがきっと帰ってくると彼女を勇気づける利他的とも思える行動は、『貧しき人びと』や、後の『永遠の夫』などにも通じるモチーフのように思えます。

 主人公は、愛する人の聞き役、相談役であることに充足していて、いつまでもその状態が続くことを欲しながらも、ライバルから彼女を奪い取ろうとはせず、結果的には彼女を失うための努力をしているような感じになっている...。

白夜4.jpg この作品は、ルキノ・ヴィスコンティ監督がマルチェロ・マストロヤンニ、マリア・シェル主演で映画化('57年/モノクロ)しているほか、「少女ムシェット」のロベール・ブレッソン監督がまったくの素人俳優を使って映画化('71年/カラー)していますが、個人的には後者の方が良かったです。  

白夜 ヴィスコンティ版1シーン.jpg ルキノ・ヴィスコンティ版「白夜」は、ペテルブルクからイタリアの港町に話の舞台を移し、但し、オールセットでこの作品を撮っていて(モノクロ)、主人公の孤独な青年にマルチェロ・マストロヤンニ、恋人に去られた女性に「居酒屋」のマリア・シェル、その恋人にジャン・マレーという錚々たる役者布陣であり、キャスト、スタッフ共に国際的です。

白夜 ルチェロ・マストロヤンニ/マリア・シェル.jpg 「ヴェネツィア高裁映画祭・銀獅子賞」を受賞するなど、国際的にも高い評価を得た作品で、タイトルに象徴される幻想的な雰囲気を伝えてはいるものの、細部において小説から抱いたイメージと食い違い、個人的にはやや入り込めなかったという感じです。

 撮影に膨大な時間をかける傾向にあるヴィスコンティは、短時間、低予算でも映画を作ることができることを証明しようとしてこの作品を撮ったらしいですが、他のヴィスコンティ作品に比べると粗さが目立つ気もしました(ヴィスコンティはヴィスコンティらしく、金と時間をふんだんに使って映画を撮るべきということか。但し、これは個人的な見解であって、この作品に対する一般の評価は高い)。
      
ブレッソン 白夜 2.jpg白夜3.jpg 一方のロベール・ブレッソン版「白夜」は、舞台をパリに移し、青年はポン・ヌフの橋からセーヌ河に身投げしようとしている女性と出会うという地理的設定にしています。(1978年2月に「岩波ホール」で公開されて以来、34年ぶりとなる2012年10月に「渋谷ユーロスペース」にてリバイバル上映され、2016年5月に本邦初ソフト(Blu-ray)が販売された。この映画に惚れ込んだ人物が個人で会社を設立して、配給・ソフト発売にこぎつけたとのこと)。

映画:白夜.jpg 神経質そうでややストーカーっぽいとも思える青年(ギョーム・デ・フォレ)の、それでいて少白夜1シーン.bmpし滑稽で哀しい感じが原作を身近なものにしていて、恋人の名前をテープに吹き込んだりしている点などはオタク的であり、こんな青年は実際いるかもしれないなあと白夜1.jpg―。そうしたギョーム・デ・フォレの鬱屈した中にも飄々としたユーモアを漂わせた青年に加えて、イザベル・ヴェンガルテンの内に秘めた翳のある女性も良かったように思います(ギヨーム・デ・フォレ、イザベル・ヴェンガルテン共にこの作品に出演するまで演技経験が無かったというから、ブレッソンの演出力には舌を巻く)。

白夜 フランス版ポスター.jpgQUATRE NUITS D'UN REVEUR1.bmp 夜のセーヌ河をイルミネーションに飾られた水上観光バス(バトー・ムーシュ)がボサノヴァ調の曲を奏でながらクルージングする様を、橋上から情感たっぷりに撮った映像はため息がでるほど美しく、原作のロマンチシズムを極致の映像美にしたものでした。

 「白夜」という原作タイトルは邦訳の際のもので、ドストエフスキーがこの短編につけたタイトルは「「夢想者の4夜」です(右はブレッソン版ポスター)。

 どちらかと言えば、ヴィスコンティの作品の方を評価する人が多いのかも知れませんが、孤独な青年の繊細さ、情熱、詩情を中心に据えた物語だとすると、ジャン・マレー(元の恋人役)の存在はちょっと重すぎる感じもしました。最後に「元カレ」が現れる場面は共に原作通りですが、そもそも原作には、ヴィスコンティの作品のような離れ離れになる前の男女の遣り取りはなく、もっとシンプルです。いろいろな点で、個人的にはブレッソンの作品の方が勝っていると考えます。

ヴィスコンティ 白夜 .jpg「白夜」(ヴィスコンティ版).jpg「白夜」(ヴィスコンティ版)●原題:QUATER NUITS D'UN REVEUR●制作年:1957年●制作国:イタリア・フランス●監督・脚本:ルキノ・ヴィスコンティ●撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ●音楽:ニーノ・ロータ●原作:ドストエフスキー●時間:107分●出演:マルチェロ・マストロヤンニ/マリア・シェル/ジャン・マレー/クララ・カラマイ/マリア・ザノーリ/エレナ・ファンチェーラ●日本公開:1958/04●配給:イタリフィルム●最初に観た場所:高田馬場東映パラス(86-11-30)(評価★★★)●併映:「世にも怪奇な物語」(ロジェ・バディム/ルイ・マル/フェデリコ・フェリーニ)

QUATRE NUITS D'UN REVEUR 1971.bmp「白夜」(ブレッソン版)●原題:QUATRE NUITS D'UN REVEUR(英:FOUR NIGHTS OF A DREAMER)●制作年:1971年●制作国:フランス●監督・脚本:ロベール・ブレッソン●撮影:ピエール・ロム●音楽:ミシェル・マーニュ●原作:ドストエフスキー●時間:83分●出演:イザベル・ヴェンガルテン/ギョーム・デ・フォレ●日ルイ・マル ブレッソン『白夜 鬼火』半券.jpg本公開:1978/02●配給:フランス映画社●最初に観た場所:池袋文芸坐(78-06-22)●2回目:池袋文芸坐(78-06-23)●3回目:有楽シネマ(80-05-25) (評価★★★★★)●併映(1回目・2回目):「少女ムシェット」(ロベール・ブレッソン)●併映(3回目):「鬼火」(ルイ・マル)

 【1958年文庫化・1979年改訂[角川文庫(小沼文彦:訳)]】

「●と フョードル・ドストエフスキー」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1524】 ドストエフスキー『二重人格
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

作家の処女作であり、読みやすいがいろいろな見方ができる問題作。

Белые ночи. Бедные люди.jpg『貧しき人びと』.JPG貧しき人びと.jpg  貧しき人々.jpg
貧しき人びと (新潮文庫)』['69年/木村浩:訳]『貧しき人々 (岩波文庫)』['31年/原久一郎:訳]
"Белые ночи. Бедные люди"

 1846年発表のドストエフスキー(1821‐1881)のデビュー作品。勤め先でも近所でも蔑まれている小心善良な小役人マカールと、出自はお嬢様だけれども今は薄幸の少女ワーレンカの往復書簡の体裁をとっています。ストエフスキーが兄に宛てた書簡によると、作者はこの小説を雑誌に発表する前に、すでに成功を確信していたそうです(実際に雑誌に連載が始まると、雑誌の価格が上がるほどの好評を博した)。

 ドストエフスキー独特の饒舌体であるものの、1組の男女のダイヤローグ・スタイルは読みやすく、貧しさゆえに役所にもボロボロの服で出勤し、将来展望も無く自尊心も地に落ちた中年男マカールが、若いワーレンカに恋焦がれて彼女のことだけが生きがいとなっていく様や、一方ワーレンカの方は、マカールを気遣いつつも自分が貧困から抜け出す現実的選択を模索する、そうした過程の両者の心理状態が手紙文を通して克明に描かれていて、マカールの不幸が、彼の性格という個人的問題と貧困という社会の問題の相互作用としてあることがわかります。

 作者は、時に本当の問題から目をそらし自己欺瞞的とも思えるマカールを、同時に、純粋な美しい人間としても描いていているようで(この辺りがゴーゴリの『外套』などと異なる点)、それではこうした困窮に虐げられ自分の不幸の原因すらわからなくなっている男がいるのは、社会に問題があるからなのかというと、その答えが明示されているわけでもありません。何れにせよ、この場合、マカールにとっての第一義的な不幸、主観的な不幸は、"貧しさ"ではなくワーレンカに去られることなのだろうなあ。マカールはある人の金銭的な施しで急場を救われ、ワーレンカもまた―。何れも"金"によってしか両者の問題は解決されないのですが、マカールにとってはむしろカタストロフィ的な結末と言えるのでは。

 当時の大御所批評家のベリンスキーがこの作品を絶賛したとされていますが、『作家の日記』によると、ベリンスキーはドストエフスキー本人に対しては、「君の書いた哀れな役人は、役所勤めで身も心も擦り切れ、過失を重ねて自分自身を卑しめ、自分は不幸な人間だと考える元気も失っている(中略)これは恐ろしいことだ。悲劇じゃないか」と言ったといいます。こうしたベリンスキイの読み方を小林秀雄などは批判していますが、そういう風にも読めてしまうのがこの作品の微妙な点ではないでしょうか。

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫).jpg 【1931年文庫化・1960年改版版[岩波文庫(『貧しき人々』)(原久一郎:訳)]/1951年再文庫化[新潮文庫(『貧しき人々』)(中村白葉:訳)]/1951年再文庫化・1969年改版版[角川文庫(『貧しき人々』)(井上満:訳)]/1969年再文庫化・1993年改版版[新潮文庫(木村浩:訳)]/1970年再文庫化[旺文社文庫(『貧しき人々』)(北垣信行:訳)]//2010年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『貧しき人々』)(安岡治子 :訳)]】

貧しき人々 (光文社古典新訳文庫)

「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●TV-M (その他)」のインデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

個人的好みは「捨ててきた娘」。やや凝った通好みは「双子」と「黒い眼鏡」か。ヒッチコック劇場版は別物。
『バン、バン! はい死んだ』.jpg 『バン、バン  はい死んだ』.jpg ミュリエル・スパーク.jpg Muriel Spark(1918-2006/88歳没)
バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集』['13年]
『バン、バン! はい死んだ』3.jpg

 ミュリエル・スパーク(1918-2006)の短編集で、1958年発表の「ポートペロー・ロード」ほか15編を収録。収録作品は、「ポートペロー・ロード」(1958)/「遺言執行者」(1983)/「捨ててきた娘」(1957)/「警察なんか嫌い」(1963)/「首吊り判事」(1994)/「双子」(1954)/「ハーパーとウィルトン」(1953)/「鐘の音」(1995)/「バン、バン! はい死んだ」(1961)/「占い師」(1983)/「人生の秘密を知った青年」(2000)/「上がったり、下がったり」(1994)/「ミス・ピンカートンの啓示」(1955)/「黒い眼鏡」(1961)/「クリスマス遁走曲」(2000)。(カバーの15のイラストが15の収録作品に対応したものとなっているのが楽しい。)

「ポートペロー・ロード」... 「私」(通称ニードル)は実は死者である。5年前に世を去ったが、いろいろとし残したことがあって、なかなかあの世でゆっくりもしていられない。そこで、週日は忙しく動き回り、土曜日にはポートベロー・ロードを歩いて気晴らしをしている。そんなある日、旧友の二人連れを見かけ、男の方に声を掛ける。「あら、ジョージ」と―。被害者が幽霊として殺人加害者に話し掛ける。その姿や声は、連れの妻には見えず聞こえない。罪に意識の成せる業ともとれるが、死者が語り手となっているところが面白い。

「遺言執行者」... 叔父の遺作を横取りした姪が、あの世から叔父(とその彼女)に責められる―。叔父からのメッセージが自分の行動を先取りしているのが怖さを増す。死者に監視されている生活は嫌だなあ。単なる怖さと言うより自分への後ろめたさでしょう。むしろ、その後ろめたさが為せる幻覚ともとれる。

「捨ててきた娘」... 仕事を終えてバスに乗り、帰宅しようとして「私」は仕事場に何かを忘れてきたような気がする。頭の中では雇い主のレターさんの吹く口笛の曲が鳴っている。いったい「私」は何を忘れてきたのだろう。バスの運賃を手に握り締めたまま、もういちど仕事場に戻った「私」がそこでみつけたものとは―。面白かった。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」、フリオ・コルタサルの「正午の島」に通じるものがあった。主人公が「周囲の視線が私を突き抜けていくばかりか、歩行者が私の体を通り抜けていくような感覚があるのだ」というのが伏線か。短めだが本短編集で一番の好み。

「警察なんか嫌い」... 「警官嫌いを直すなら、警察に行くのがいちばんだよ」と叔母に言われた青年は、いやいやながら警察に行った。彼は警察が嫌いだった。ちょうど知り合いの女の子が「郵便局嫌い」だったのと同じように。青年が警察署に行くと、番号で呼ばれ、手錠を掛けられ、独房に入れられた。「言語を絶する事件」が起こり、彼はその犯人なのだという。かくして裁判が開かれ、青年は「言語を絶する罪」により裁かれる―。 「言語に絶する以上、言語にはできないゆえ、証言は認めることができない」という「不思議な国のアリス」などにも出てきそそうな不条理レトリック。有罪になった彼の警察嫌いが直らないのは当然か。

「首吊り判事」... 新聞は死刑の宣告を下したスタンリー判事の表情を。まるで幽霊を見たかのような顔であり、明らかに動揺を見せていた、と伝えた。死刑の宣告が重荷だったのではないか。死刑制度に疑義があるのではないか、と憶測が飛び交う―。実は。スタンリー判事が死刑の宣告をしたとき特別な表情を見せたのは、そのとき彼は勃起し、性的な絶頂に達してしまったからだったというのがすごい。それでも飽き足らないのか、彼がやがて殺人者となることが示唆されている。

「双子」... 「私」が学生時代の友人ジェニーを訪ねる。ジェニーはサイモンと結婚し、二人の間には双子の子供マージーとジェフがいる。幸せを絵に描いたような夫婦と愛くるしい女の子と男の子が暮らしている家だ。楽しい滞在になるはずだった。にもかかわらず、私は次第に微妙な違和感を、その家族に感じ始める―(続きは下段に)。個人的見解だが、この双子そのものはイノセントではないのか。「キッチンでパパと女の人が一緒にいたよ」とママに言ったのでは。夫婦のディスコミュニケーションの煽りを受けて、「私」が全部扇動していることにされてしまったということではないか。

「ハーパーとウィルトン」... 作家である私を訪ねてきたのは、自分が書いた小説の登場人物たちだった―。ひと昔前が舞台だが、現代の基準に沿って自分たちの汚名をそそいでくれと要求する登場人物たち。作者は自らの作品の結末書き直すが、作者自身、座りの悪さを感じていたための出来事ではないか。"夢オチ"ともとれるが、"夢"と現実の両方をつなぐ人物(庭師)がいるのがミソ)。

「鐘の音」... 82歳のマシューズ老人が亡くなって3か月が経ったが、息子ハロルドが父親を殺したとの密告があり、遺体を掘り起こした結果、彼が殺害されたらしいことが判明。老人の息子や直前に老人と口論したフェル医師が容疑者として浮かんだが、彼らには完璧なアリバイが―。時間差トリックで、純粋ミステリに近く、こうしたスタンダードな作品もあるのだなあと。"夏時間"なんて〈後出しジャンケン〉ではないかと思う人もいるかもしれないが、11時50分に出産に立ち会って、帰宅したのが教会の時計が12時を告げた時、という時点でおかしいと思うべきだった。

「バン、バン! はい死んだ」... シビルの家の近所にシビルそっくりの女の子が引っ越してくる。容貌こそ似ていたが、シビルはデジルが好きになれなかった。泥棒ごっこのルールを無視して、いつもシビルだけにピストルを撃つまねをして「バン、バン!はい死んだ」とやるからだ。大人になったシビルは勤務先の南ローデシアで、再びデジルに出会う。農園主と結婚したデジルは、独り身のシビルを家に招待しては夫との熱熱ぶりを見せつける。頭の良さを鼻にかけるシビルに対するデジルの挑発だった。デジル夫婦とシビル、それにもう一人の男との間に仕組まれた愛憎劇。芝居がかった男女関係がこじれて事件は起きる―。「バン、バン!」という通り、犠牲者は二人ということか。最初から事件の起きそうな雰囲気。タイトルで「バン、バン」と2回あるのは、二人死んだからだろう。実はテッドとデジルはうまくいってなかった、そして、事件後、シビルがテッドと一緒になるのだろう。

「占い師」... トランプ占いをやる私がある夫人の占いをしてあげるが、何か夫人のカードを解読する力は自分より上であるように感じる―。占われた相手の夫人の方が占った側の私より人の運命を見る能力が上だったという話。相手は、実は私の将来を見通していて、こちらの占いの先回りをして将来を変えてしまう。つまり、今の夫を捨て、私が夫とすべき男性と一緒になるという皮肉譚だった。

「人生の秘密を知った青年」... 失業中の男の下に現れる幽霊。恋人と結婚できない彼に嫌味を言うが、一方で競馬の当たり馬券を予言し、男が勘で賭けても当たるように。男が一念発起して彼女を射止めると、幽霊は消える―。幸せになったことの引き換えに"超能力"が消えるというパターンの話と同類か。

「上がったり、下がったり」... 彼は21階からエレベーターに乗ってくる、と彼女は確かめた。同じように彼女は16階にある会社に勤めている、と彼は確認した。二人の男女はエレベーターの中で互いを意識する。その階のどの会社に勤めているのか、どこに住んでいるのか、髪の毛は染めているのか、独身なのか。ある日、彼は彼女をディナーに誘う。エレベーター以外の場所で二人が会うのはこれが初めてになる―。二人の男女のそれぞれの視点で交互に描かれていて、二人が口をきくまでに妄想を膨らませすぎているため、彼と彼女のそれぞれの相手に対する認識のズレがあるのが可笑しい。

「ミス・ピンカートンの啓示」... カップルの目の前に、茶碗の受け皿ほどの大きさの、回転する飛行物体が飛んでくるというミニSF譚。まさにフライング・ソーサ―なのだが、受け皿が空を飛んでいて、見る者によっては宇宙人が操縦しているところまで見えたということでマスコミも殺到するのに、当事者たちは、受け皿がどこのブランドなのかの方がさも重大事であるのが可笑しい。英国的なものへの風刺?

「黒い眼鏡」... 「私」は、いま一緒にいる精神科医のグレイ医師が昔の知り合いだったことに気がついた。なぜグレイ医師は一般の開業医を辞め心理学を志すようになったのか―(続きは下段に)。ドロシーとバジルの姉弟が近親相関的関係にあったというグレイ医師の見方は間違いないところでしょう。グレイ医師は精神分析を学んでこの問題を克服したとしているが、そのことを語っている「私」自身がそこに関与している可能性があるため、何が真実なのか分からないとうのは、穿ち過ぎた見方だろうか。

「クリスマス遁走曲」... シンシアがクリスマス休暇でシドニーからロンドンに向かう飛行機で知り合った若さ溢れるパイロットのトム。親切にしてくれ、給油地のバンコクに着いた頃には互いに「忘れられない日になりそうだ」と。離婚協議中だという彼との将来の夢が膨らむ。目的地に着いて、航空会社に電話したら、そんな名のパイロットはウチにはいないと―。果たしてトムは実在したのか。ラストで呆然とする女性がいい。

 バラエティに富んだ15編でした。個人的好みはやはり、切れ味が印象に残った「捨ててきた娘」でした。やや凝った通好みは「双子」と「黒い眼鏡」でしょうか。


「バーン!もう死んだ」2.jpg「バーン!もう死んだ」6.jpg 因みに、「新・ヒッチコック劇場」で「バーン!もう死んだ」というのを観たのですが、これはミュリエル・スパークのものとは全く別のお話(監督は「愛は静けさの中に」('86年/米)のランダ・ヘインズ)。アマンダは男の子たちと一緒に戦争ごっこがやりたいのだが、銃のおもちゃを持っていないため、仲間に入れてもらえない。そんな折、彼女のおじさんが内戦の続くアフリカから戻ってきた。お土産を探し、おじさんの鞄をあさっていると、アマンダは本物の銃を見つける。彼女はそれに弾をこめ、街へ遊びに出て行った―。これはこれで、ハラハラする話でした。旧「ヒッチコック劇場」(TBS版第1話「バァン!もう死んだ」)で男の子だったものを女の子に変え、ラストで狙われるのも家政婦から意地悪な男の子に変更したそうです。街中でわがままな女の子に狙いを定めては外し「運のいい野郎」だと捨て台詞をはくなど、細かい描写もがよく描けていました。

「バーン!もう死んだ」3.jpg「新・ヒッチコック劇場(第21話)/バーン!もう死んだ」●原題:Alfred Hitchcock Presents -P-3.BANG! YOU'RE DEAD●制作年:1985年●制作国:アメリカ●本国放映:1985/05/05●監督:ランダ・ヘインズ●脚本:ハロルド・スワントン/クリストファー・クロウ●原作:マージェリー・ボスパー●時間:24分●出演:ビル・マミー/ゲイル・ヤング/ライマン・ウォード/ジョナサン・ゴールドスミス/ケイル・ブラウン/アルフレッド・ヒッチコック(ストーリーテラー)●日本放映:1988/03●放映局:テレビ東京●日本放映(リバイバル):2007/07/29●放映局:NHK-BS2(評価★★★☆)


●やや詳しいあらすじ
「双子」...最初はマージーが自分にお金をくれ、と言ってきたことだ。女の子はその理由を言わなかったので、私が断ると、ジェニーがやってきてパン屋に支払う小銭がなかったので「そう言って」お金を借りてきてちょうだい、と娘に言ったのだという。そういう話だったのなら...と私はきちんと説明しなかったマージーを責めることもできず、ジェニーはジェニーで自分のことをケチだと思っているのかもしれない、と、どちらに転んでも妙な居心地悪さを私は感じる。男の子ジェフもマージーと同じような振る舞いをし、私は気まずい思いをする。数年後、私はジェニー家をパーティ出席のため再訪する。そこで私は前回以上の手の込んだ「仕打ち」を、その家族から被る。後から、そのパーティの際に、サイモンがその場にいた女友達とキッチンで不埒なまねをしていたという出鱈目をジェニーに言ったのが私だという手紙がサイモンから届いたのだ。悪いのは双子の子供たちか、それとも、ジェニーか―。

「黒い眼鏡」... 私が13歳の時近所の眼科医へ眼鏡をつくりにいったときのことだ。あの時眼科医のバジル・シモンズは私の肩に手をやり首筋に触れた。そのときバジルの姉のドロシーが検査室に入ってきた。バジルはすぐに手を引っ込めたがドロシーは何かを認めたはずだ─私はそう確信した。「弟を誘惑するな」とでも言っているようだった。私の祖母と叔母によれば、バジルとドロシーの姉弟には寝たきりの母親がいての母親にはかなりの財産があるらしい。また、ドロシー・バジルは片目が見えないことも祖母と叔母は私に知らせてくれた。二年後、私は眼鏡を壊してしまったので再びバジル・シモンズの店を訪れた。バジルは今でも私に関心を持っているようだった。その時もまた祖母と叔母は再び私にバジルとドロシーに関する情報を知らせてくれた。彼女たちによれば、母親の財産のほとんどは姉のドロシーに相続され、または、弟のバジルに委託されるらしい、と。私はバジル先生のことを思う。すると私はいつのまにかバジル先生の家の前に来ている。窓からバジル先生が書類を見て何かをしているのが見える。それは遺言書の偽造に違いない。私はそう確信した。次の日、眼鏡の調子が悪いとバジル・シモンズを訪ねた。検眼の最中に姉のドロシーが自分の目薬を取りに検査室に入って来た。探していた目薬を手に取りドロシーが二階に戻ると、悲鳴が聞こえた。目薬には毒物が入っており、ドロシーは失明した。これで両目が見えなくなった。その後ドロシーは気が狂ってしまったという。
バジル・シモンズはグレイ医師と結婚したが、しばらくして、姉と同じく精神を病んでしまった。グレイ医師は、私が誰で私が事の次第を知っていることを知らずに、自分の内面を私に聞かせる。性覚醒、エディプス転移といった「くだらない話」を私にする。グレイ医師は、夫のバジルの精神の病は、姉の失明の原因は自分にあると考えていることだと説明する。ドロシーは見てはならないものを見てしまったために、無意識のうちに自分を罰しようと目薬の調合を間違えた。夫のバジルは無意識に姉がそうなることを望んでいたため、自分に責任があると信じてしまった。グレイ医師は、そう読み解く。
それを聞いて私はゲームを始める。グレイ医師は、バジル姉弟は無意識の近親相姦だと言う。私は、そのことをバジルと結婚するとき知らなかったのですか? と尋ねる。グレイ先生は、そのときはまだ心理学を勉強していなかったと答える。何度かこういう遣り取りを繰り返した後、グレイ医師は私に告白する。私が精神科医になったのは、夫のバジルがあれこれ「妄想」を抱くようになったので、それを読み解くために心理学の勉強を始めた、と。効果はあった。なぜなら私は正気を保っているから。私が正気を保っているのは、私が正気を保てるよう、あの事件を読み解いたから。グレイ医師は言う。妻として見れば、夫は有罪──明らかに姉を失明させ、遺言書を偽造した。でも精神科医としては、夫は完全な無罪になる。「なぜご主人の告発を信じないのですか?」「私は精神科医よ。告白はめったに信じない」と―。

「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

登場人物ほぼ全員70歳以上の「笑劇」&「いやミス」。怪電話の主は「死神」?

『死を忘れるな』.jpg『死を忘れるな』2.jpg 『死を忘れるな』白水.jpg
死を忘れるな』['13年]/『死を忘れるな (白水Uブックス) 』['15年]
「死ぬ運命を忘れるな」と電話の声は言った。デイム・レティ(79歳)を悩ます正体不明の怪電話は、やがて彼女の知人たちの間にも広がっていく。犯人探しに躍起となり、疑心暗鬼にかられて遺言状を何度も書き直すデイム・レティ。かつての人気作家で現在は少々認知症気味のチャーミアン(85歳)は死の警告を悠然と受け流し、レティの兄でチャーミアンの夫ゴドフリー(87歳)は若き日の数々の不倫を妻に知られるのを恐れながら、新しい家政婦ミセス・ベティグルー(73歳)の脚が気になる模様。社会学者のアレック(79歳)は彼らの反応を観察して老年研究のデータ集めに余念がない。果たして謎の電話の主は誰なのか―。

 ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1959年に発表した小説で、原題もまさにMemento Mori(死を想え)。登場人物ほぼ全員70歳以上(レティの今の家政婦アンソニーはぎりぎり69歳だが)の入り組んだ人間模様を、辛辣なユーモアを交えて描き、ミステリの要素もありました。読み始めて最初の20ページいくかいかないかくらいで、病院の患者が1ダースいる老人病科(女性のみ)が舞台となり、あっという間に通算で十数人ぐらいの人物が登場したことになってしまったので、もう一度最初に戻って、人物相関図を作りながら読みました(笑)。

 突き放した視点で人間を描く作者らしく、登場人物は喰えない、共感できない人間ばかりで、「笑劇」であると同時に「いやミス」っぽい感じも。ただし、「ミステリの要素もある」としましたが、犯人(電話の主)は明かされておらず、その意味では、サスペンスフルでありながらも、ミステリとして完結しておらず、やや消化不良の感もありました(この作家にまだ慣れてなかったというのもある)。

 ただし、登場人物の中には懸命に事態を分析している人物もいて(まあ、するのが普通だが)、デイム・レティは、甥で売れない小説家のエリックか、かつて婚約を破棄した老社会学者のアレック(79歳)の 仕業ではないかと考え、チャーミアンの夫ゴドフリーはその電話は偏執狂か、または妹レティの敵の誰かの仕業ではないかと考え(結局誰かわからないということ(笑))、「老年」を研究課題としているアレックは、自身も謎の電話を受けた一人だが、一連の怪電話の説明に「集団ヒステリー」論を当て嵌めています。

 さらに、レティの昔の女中で今は老人病棟にいるミス・テイラー(82歳)は、この人は人間的にはまともなのですが(なにせ、"まともな人"はこの作品では少数派に属する(笑))、最初はアレックを疑っていましたが、最終的に出した決論は(おそらく自身の信仰という観点から)電話の正体は「死神」であると。ところが科学的捜査をしていたはずのモーティマー警部も、最後にはテイラーと同じ結論に至るので、これにはやや驚きました。

 この流れていくと、「死神」説は極めて有力(笑)。モーティマーがそうした結論に至ったのは、あらゆる科学的捜査を尽くした上で、尚もそれが解明されないならば、あとは超現実的なものしか残らないだろうということのようです。

 作者は、登場人物の会話と行動だけを主として描き、個々の思惟を深く描くことをしないので、結局のところ誰の意見にも加担しておらず、もともと犯人を特定していないようにも思えるし、テイラーとモーティマー警部が異なったアプローチから同一の結論に至っていることから、もしかしたら「死神」説を想定しているのかもしれない―とも思った次第です。

『死を忘れるな』tv.jpg 1996年にBBCでTVドラマ化されていて、ミュリエル・スパーク原作、ロナルド・ニーム監督の「ミス・ブロディの青春」('69年/英)で主役のミス・ブロディを演じ「英国アカデミー賞」と「米アカデミー賞」の主演女優賞をW受賞したマギー・スミスが、その縁からか準主役級の家政婦ミセス・ベティグルー役で出ています(原作ではこの人だけハッピーエンドなんだなあ。でも実は主人の遺言を書き換え遺産を独り占めした悪(ワル)だったのかも。ドラマでの描かれ方を知りたい)。

【1964年全集[白水社『新しい世界の文学〈第13〉死を忘れるな』/1981年単行本[東京新聞出版部(『不思議な電話―メメント・モーリ』今川憲次:訳)]/2015年叢書化[白水社Uブックス]

「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

自分にとってはストーリーよりも技巧(フラッシュフォワード)の小説だった。

『ミス・ブロウディの青春 (1973年)』.jpgミス・ブロウディの青春 (1973年).jpgミス・ブロディの青春 u.png 『ミス・ブロディの青春』3.jpg
ミス・ブロウディの青春 (1973年) 』『ミス・ブロウディの青春 (白水Uブックス 203 海外小説永遠の本棚)』['15年]『ブロディ先生の青春』['15年/河出書房新社]
映画「ミス・ブロウディの青春」.jpg「ミス・ブロディの青春」1.jpg
「ミス・ブロディの青春」('69年/英)マギー・スミス

 1930年代、エディンバラの寄宿制一貫女子学校での、風変わりな女性教師ブロウディ先生と生徒たちの物語。思い込みの激しいブロウディ先生は、自分の世界観に相応しい生徒を育てるために、サンディをはじめとす6名のブロウディ組と呼ばれる少数精鋭的生徒のグループを結成し独特の教育を進める。しかし、思春期の学生の変化は早く、かつてはブロウディに憧れた彼女らも16歳の時点では各々の道を進みたがるようになる―。、

 ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1961年に発表した小説(原題:The Prime of Miss Jean Brodie)で、英ガーディアン紙「必読小説1000冊決定版リスト」に「運転席」などと共に入っている作品(彼女の作品は5作も入っている)。物語はブロウディ先生とそれを囲む十代前半の生徒たちの話ということで、小説からは結構ガーリームービーっぽい雰囲気も感じました。

 それにしても、このブロウディ先生はちょっとやりすぎというかエキセントリックな感じが強くて、自意識としては正義感に満ちているのでしょうが、ブロウディ組の御しやすい生徒を自分の恋愛のために利用したり、あるいはその内の1人に自身の恋愛願望を代行させたりして(その結果、その娘はスペインで爆死することになる)、結構あざとくもあり、また結果として残酷でもあって、シンパシーが湧きにくい感じです。

そもそも、思想的にファシズムに傾倒してしてしまって、これを生徒に押しつけるのもどうかしています(自身がヒトラーやムッソリーニになってしまっている)。遂には生徒の裏切りに遭い、彼女は職を失うことになるのですが、あまり気の毒な気はしませんでした。

 むしろ、彼女の自身の信念に沿った行為がどんどん危険なものとなっていくという点で結構ブラックというか、「いやミス」的でもあります。作者の本当の狙いも、実はそのあたりにあるのではないかと思われます。少なくとも、作者はブロウディ先生を突き放しているように思えます。

ただし個人的には、ストーリーよりもその構成に特徴があるように思いました。所謂フラッシュフォワードと言うか、「将来」に起きることやその結末が、「現在」進行中の物語の合間合間に語られています。そのため、ブロウディ先生がやがて生徒に裏切られ、学校を去るということも、読んでいて早い段階から分かります(先に挙げた生徒の悲惨な最期も、実際にはずっと先の話なのだが、読んでいる途中で明かされてしまう)。

 あとは、生徒の内の誰がブロウディ先生を裏切ったかということがミステリ的ですが、これもおおよそ検討はつかなくもないです。作者は、ミス・ブロウディを通して、人間の思念の暴走とその成れの果ての悲惨を描き、そこに、作者が得意とするフラシュフォワード的な手法を織り込むことで「決定論」的な世界を構築してみせたものと思われます。ただ、どちらかと言えばやはりストーリーよりも技巧の小説でした(自分にとっては)。

「ミス・ブロディの青春」3.jpg この作品は、ロナルド・ニーム監督(「ポセイドン・アドベンチャー」('72年)、「オデッサ・ファイル」('74年))、マギー・スミス(「ナイル殺人事件」('78年)、「地中海殺人事件」('82年))主演で「ミス・ブロディの青春」('69年/英)として映画化され(邦題でブロディ→ブロディに。そのブロディ組は6人から4人に圧縮されていた)、マギー・スミスが1969年・第23回「英国アカデミー賞」並びに1970年・第42回「アカデミー賞」の主演女優賞をW受賞しています。

「ミス・ブロディの青春」2.jpg 1930年頃、スコットランドの首都エジンバラ。マーシア・ブレーンという名門女子高があった。先生たちは、みな地味だったが、一人ミス・ジーン・ブロディ(マギー・スミス)だけは違っていた。派手な服装、ウィットに富んだ会話そして自分はいま、青春のただ中にいると公言してはばからなかった。彼女に反感を持った生徒もいたが、逆に、彼女に惹かれ〈ブロディ一家〉と称する生徒たちもいた。サンディ(パメラ・フランクリン)、モニカ、ジェニー、メリーの四人組である。一方ブロディは、美術教師テディ(ロバート・スティーブンス)の恋人なのだが、彼の態度が煮えきらないので、音楽教師ゴードンに心を移した。こんな一件に生徒たちが関心を持たないはずがない。加えて学校側も攻撃に出る。ブロディの立場は少しずつ悪くなっていく。やがてゴードンが離れ、テディも離れていく。だがブロディはテディのことを忘れることが出来ない。テディとて同じこと。ブロディの代りにサンディをモデルにして絵を描いていたが、顔だけはブロディになってしまう。このことはサンディの心を、いたく傷つけた。やがてブロディにとって進退きわまりない事件が持ちあがった。スペイン戦争を賛美した彼女の教えに、生徒の一人メリーが兄を訪ねて戦場に行ったのである。そして空爆に遭い死んでしまった。攻撃の矢は、いっせいにブロディに向けられ、ついに退職するところまで追いつめられた。頼みの生徒サンディも彼女に背を向ける。ここに来て初めて、ブロディは、自らの青春が終りを告げたことを知るのだった―。

「ミス・ブロディの青春」5.jpg 映画では、冒頭からマギー・スミス演じるブロディ先生は学校に新しい息吹をもたらすエースであるかのように颯爽と登場し、女性校長はそれを良く思わない頑固な守旧派のような形で始まって、この点では小説と同じですが、やがてすぐにブロウディ先生はどこかおかしいということが伝わってくるようになっています。それと、映像で見るせいか、性的抑圧が強い印象を受け(実際に複数の男性教師から誘惑される)、彼女の行動の根底にそうしたものがあることを原作以上に窺わせるものとなっていました(サンディって原作ではメガネかけていたっけ。美術教師テディの絵のヌードモデルになるのは原作と同じで、原作では愛人に)。

 映画では小説のようなフラシュフォワード的な手法は使われておらず、ブロウディ先生が生徒の裏切りに遭って学校を追われるまでが描かれていますが、学校の授業で、ムッソリー率いる黒シャツ隊の映像を生徒に見せて賛美するのはやはりマズいでしょう。ミス・ブロウディというキャラクターの歪みを分かりやすく描いていましたが、それが画一的な描かれ方にはなっておらず、一定のリアリティを保っているところは、マギー・スミスの演技力によると思われます。

「ミス・ブロディの青春」34.jpg 美術教師テディが最初ブロディの代りにサンディとは別の女生徒をモデルに絵を描くも、目がマギー・スミスになっていて女生徒とは似ておらず、彼が描く少年少女や、果ては犬までもがマギー・スミスの目になっているのがご愛敬でした(行き詰ってヌード画家に転身した?)。

ミス・ブロディの青春 [DVD]
「ミス・ブロディの青春」6.jpg「ミス・ブウディの青春」.jpg「ミス・ブロディの青春」●原題:THE PRIME OF MISS JEAN BRODIE●制作年:1969年●制作国:イギリス●監督:ロナルド・ニーム●製作:ロバート・フライアー●脚本:ジェイ・プレッソン・アレン●撮影:テッド・ムーア●音楽:ロッド・マッキューン●時間:102分●出演:マギー・スミス/ロバート・スティーブンス/パメラ・フランクリン/ゴードン・ジャクソン/ジェーン・カー/セリア・ジョンソン/シャーリー・スティードマン/ダイアン・グレイソン●日本公開:1969/11●配給:20世紀フォックス((評価:★★★☆)

【2015年叢書化[白水社Uブックス(岡 照雄:訳)/2015年単行本[河出書房新社(『ブロディ先生の青春』木村政則:訳)]】

「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●ハヤカワ・ノヴェルズ」の インデックッスへ(『運転席』)「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

「運転席」に座って主人公を"ドライブ"しているのは"狂気"か。今まで読んだことないタイプの話だった。
『運転席』.jpg  「運転席」vhs.jpg The Driver's Seat.jpg
運転席 (1972年) (ハヤカワ・ノヴェルズ)』/映画「サイコティック」エリザベス・テイラー/「The Driver's Seat/Impulse [DVD]」(ウィリアム・シャトナー主演「Impulse(「キラー・インパルス/殺しの日本刀」)」とセット)

 ヨーロッパのとある北の国で、会計事務所の事務員として働く女性リズは、4か国語を話す30代独身キャリアウーマンである。その彼女がとある南の国へ海外旅行に出かける。チンドン屋みたいにド派手な色合いの服を着て 練り歩き、店員、通行人、警察官、旅先で知りあった人たちに絡んでは、自分の臭跡を残していく。それはやがて起こる悲劇の伏線となる―。

 ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1970年に発表した小説で、原題もまさにThe Driver's Seat。リズは、旅行の目的地に向かう飛行機の機内においてから、両隣りに座った男性と噛み合わない会話をし、旅先でも出会った老女と何だかおかしい会話をしています。何のための旅行と思われるところがありますが、要は「運命の人」を探すのが旅の目的らしいということがわかってきます。

 ここからはネタバレになりますが、彼女は目的地に着いた翌日、現地の「公園のなかの空き別荘の庭で、手首をスカーフで、足首を男のネクタイで縛られたうえ、めった刺しにされた惨死体として」発見されることが、この作家独特のフラッシュフォワード(結末の先取り)として、早いうちに読者に知らされます。したがって、彼女はどうしてそんなことになったのか、物語はミステリの様相を帯びてきます。

 ところが、さらにここからネタバレになりますが、どうやら彼女が探していた「運命の人」というのは自分を殺してくれる男性だったようです。つまり、彼女は自分の死に向かってまっしぐらに突き進んでいるわけで、最終的にその目的を果たしたようです。

 なぜ彼女がそんなことになっているのかは、作者は直接語ろうとはしないため、彼女の行動、彼女の見るもの、彼女が接触する人物との遣り取りを通して推し測るしかないのですが、とても理解できるようなものではありません。「ホワイダニット」を探る読者に対して作者は「フーダニット」までは示しますが、「ホワイダニット」は読者が自ら考えるしかないのでしょう(作中にも「嬰q長調の"ホワイダニット"」との示唆がある)。

 「フーダニット」といっても、そうした性向を持った男性を探し当てたものの、いわば無理強いした嘱託殺人のようなもので、犯人も被害者のようなものかも。因みに「探し当てた男性」は偶然にも彼女が旅先で出会った老女の甥で、しかも、さらに偶然には、実は彼女がこの旅行の早い段階で会っていた!このオチは面白かったです。ある意味、確かに「運命の人」(実態は単なる〈神経症〉男なのだが)。フラッシュフォワード的記述が伏線になっていたましたが、見抜けませんでした。

 「運転席」というタイトルは、おそらく彼女の行動をドライブしている(駆り立てている)何者かを示唆しているのでしょう。自殺者が死に向かって突き進む話はありますが、自殺者は自分で死に向かって脚本を書くのに対し、リズの場合は誰かが書いた脚本をひたすら演じているようであり、ある種「解離性人格障害」のようにも思いました。

 「運転席」に座ってリズを"ドライブ"しているのは"狂気"でしょうか。今までまったく読んだことのないタイプの小説でした。


Driver's Seat (Identikit).jpg映画「運転席」.jpg この作品は「悦楽の闇」('75年/伊)のジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督により「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」('74年/伊)としてエリザベス・テイラー主演で映画化され、エリザベス・テイラーは、アガサ・クリスティの『鏡は横にひび割れて』の映画化作品でガイ・ハミルトン監督の「クリスタル殺人事件」('80年/英)など凖主役級(「クリスタル殺人事件」の場合、一応は主演は犯人役のエリザベス・テーラーではなくミス・マープル役のアンジェラ・ランズベリーということになる)の出演作はこの後にもありましたが、純粋な主演作品としては42裁で出演したこの映画が最後の作品になりました。

Driver's Seat (Identikit)0.jpg 映画は劇場未公開で、80年代に日Driver's Seat (Identikit)7.jpg本語ビデオが「パワースポーツ企画販売」という主としてグラビア系映像ソフトを手掛ける会社から「サイコティック」というタイトルで発売(年月不明)され、こうした会社からリリースされたのは、テイラーの乳首が透けて見えるカットがあるためでしょうか("色モノ"扱い?)。'20年5月にDVDの海外版が再リリーズ、'22年12月VOD(動画配信サービス)のU-NEXTで日本語字幕付きで配信されました。

 ある意味、原作通り映像化しているため、原作を知らない人にはわけが分からなかったのDriver's Seat (Identikit)4.jpgではないでしょうか。一部改変されていて、リズが当初からインターポールにマークされている設定になっていますが(ただしその理由は最後まで明かされない)、これは、映画の脚本にも参加したミュリエル・スパークがインターポールに勤務したことがあるという経歴の持ち主のためでしょうか(アンディ・ウォーホルが出演している)。

Driver's Seat (Identikit)3.jpg エリザベス・テイラーは体当たり的にこの難役に挑んでいますが、役が役だけに、また、ましてやオチが不条理オチだけに、評判はイマイチだったようです(彼女の生涯最悪の映画とも言われているらしい)。

 この映画のエリザベス・テイラーの演技を見ていると、すべては性的欲求不満が原因のように思えてきますが(彼女はそうした欲求不満の女性を演じるのが上手かった)、この主人公は性的交渉自体を望んでいるわけではありません。主人公が望むのはあくまで「死」であり、彼女がそこまで至ってしまうのは、当時の女性に対する社会的抑圧も誘因としてあったのかなという気がします。

Driver's Seat (Identikit)9.jpg また、「嘱託殺人」を選んだのは、主人公がカソリックで、自殺が禁じられていることも理由として考えられるように思いました(自分を殺す際に手足を縛ることまで要求したのは、あくまでも殺人だと印象付けるため)。

 先にも述べた通り、エリザベス・テイラーの長い映画キャリアの中で最も酷い作品とも評されていますが、原作を念頭に置けばそう酷評されるような作品ではなく、むしろよく出来ていると思います。撮影は「ラストエンペラー」のヴィットリオ・ストラーロ、音楽は「家族の肖像」のフランコ・マンニーノであることから、イタリアの製作陣はそれなりの人材を配したのではないでしょうか。イタリア語タイトルは"Smrt u Rimu"(「ローマの死」)。原作では「南の国」としか言われていませんが、いろいろな点で原作をイメージするのにうってつけの作品と言えます。

Driver's Seat (Identikit)2.jpgDriver's Seat (Identikit)5.jpg「サイコティック」●原題:IDENTIKIT(DRIVER'S SEAT/伊:SMRT U RIMU)●制作年:1974年●制作国:イタリア●監督:ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ●製作:フランコ・ロッセリーニ●脚本:ラファエル・ラ・カプリア/ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ/ミュリエル・スパーク●撮影:ヴィットリオ・ストラーロ●音楽:フランコ・マンニーノ●時間:105分●出演:エリザベス・テイラー/イアン・バネン/グイード・マンナリ/モナ・ウォッシュボーン/アンディ・ウォーホル●配信:2022/12●配信元:U-NEXT(評価:★★★★)

About this Archive

This page is an archive of recent entries in the ○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】 category.

○コミック 【発表・刊行順】 is the previous category.

○ラテンアメリカ文学 【発表・刊行順】 is the next category.

Find recent content on the main index or look in the archives to find all content.

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1