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幻想的な世界を描いて巧み。時に人生の哀感を、時に情念の凄まじさをも描く。

カルロス・フエンテス 『アウラ・純な魂 』.jpgアウラ・純な魂.gif カルロス・フエンテス.jpg Carlos Fuentes(1918-2012
フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

aura.jpg メキシコの作家カルロス・フエンテス(Carlos Fuentes、ガルシア=マルケスと同じ1928年生まれ)の作品集で、1962年発表の中篇「アウラ」、同じく中篇「純な魂」他、初期の短篇4編(「チャック・モール」「生命線」「最後の恋」「女王人形」)を収めています。

 フエンテスは、父親が外務省勤務だったため、幼いころから国外各地を転々したとのことですが、そうした欧米の文化との対比で、祖国の文化を見つめ直す視点が作品の底にあり、その辺りがそれぞれの作品にどう反映されているかは、訳者・木村榮一氏の解説に詳しく書かれています。

 但し、そこまで読み取れなくとも、リアリスティックな不気味さと、現実と夢が混ざったような幻想性を併せ持ち、それでいて、時に人生の哀感を、時に人の情念の凄まじさを感じさせるような作風は、木村氏の名訳も相俟って大いに堪能することが出来、話の展開の旨さという点でも、短篇の名手とされるフリオ・コルタサル(1914-1984)に比肩するものがあるように思いました。

チャック・モール.jpg「チャック・モール」 タイトルは、古代インディオの遺跡に見られる人物石像のことで、溺死した知人の公務員の手記に、その男がある店でチャック・モールを購入したその日から、チャック・モールが次第に男の正気を蝕んでいく様が、シュールに描かれていたという話。
 木村氏は、この作品を深く文化論的に解説していますが、SF的な楽しみ方も出来るのでは。

「生命線」 それに比べるとこちらは、銃殺刑に処せられる4人のメキシコ革命軍兵士達の心の揺れを描いたものであり、ぐっと重さを増しますが、個人的には、コルタサルの「正午の島」を読んだ時と同様、本当にこの男たちは、一旦は脱走したのだろうか、男達が死ぬ直前に見た夢と解せなくもないと思ったりもしました。

「最後の恋」 成功し富を得た老人が、若い愛人を連れて海辺のリゾートに滞在しているが、老人の眼の前で、女は若い男と楽しそうに振舞っている―老人の若者への嫉妬と言うより、"若さ"への渇望と諦念が滲む作品で、老人の心理描写の細やかさが素晴らしいです(作者がこれを書いたのは30代前半)。

「女王人形(La muneca reina)」 青年が15年前の幼い頃に一緒に遊んだ少女アミラミアは、今22歳になっているはず。その淡くも切ない想い出に惹かれ、彼女のメモを頼りに、現在の住まいと思われる家を訪れるが、そこには棺に不気味に横たわる人形が。そして、再度の訪問で青年が見たものは―。
 文章も展開も素晴らしく、表題作2作に勝るとも劣らぬゴチック小説の傑作。

「純な魂」 兄ファン・ルイスと妹クラウディアは、かつて濃密な愛情で結ばれていたが、兄は過去を振り切るかのように欧州で暮らし、次々と入れ替わる恋人のことを妹に手紙で書き送る(但し、そこには、恋人と妹の同一視が見られる)。いよいよ、兄がある女性と結婚することになったその時、それまで寛容な母親のような態度をとっていた妹は―。
 木村氏の、欧州文明への傾斜とメキシコ的なものへの回帰を対比させた深遠な解説は別として、サイコススリラーとして読める作品では。

Aura / Carlos Fuentes.jpg「アウラ」 青年歴史家のフェリーペは、新聞広告で高報酬が目を引いた、老夫人の住む邸で彼女の亡き夫の著作を完成させるという仕事に就くことができたが、そのコンスエロ夫人邸には、老夫人の姪にあたるアウラという名の、緑の目をもつ美しい少女がいた―。

Aura /Carlos Fuentes (イメージ/スペイン)

Rosanna Gamson and Contradanza perform Aura by Carlos Fuentes.jpg 溝口健二監督の「雨月物語」('53年)にインスパイアされた作品だそうで、夫が60年前に亡くなったというところで「幽界譚だな」と分かるかとは思うのですが(但し、ラストに予期せぬ宿命的な結末が...)、夢と現実の混ざり合った部分の描写が巧みで(その多くはベッドシーン...)、ぐいぐい引き込まれました。この作品は、スペイン語圏では、映画化されたり(何種類ものイメージフィルムをインターネット上で見ることができる)、舞台・オペラ・舞踊として数多く演じられているようです(写真右:Rosanna Gamson and Contradanza perform "Aura" by Carlos Fuentes)。

 「純な魂」も「アウラ」も、女性の情念の凄まじさが滲み出ている傑作ですが、例えば「純な魂」が、欧州に出向く機内での妹クラウディアの、兄に対する心の中での語りかけで、「アウラ」が、青年フェリーペに対する「君は」という語りかけで、それぞれ終始貫き通されているという、語り口の旨さというのも感じました。

 「アウラ」イメージ・フィルム

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現実と非現実が入り混じった幻想的な作風の短編集。「正午の島」が良かった。

悪魔の涎・追い求める男.jpg悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)フリオ・コルタサル.jpg Julio Cortázar、1914-1984

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集.jpg 『石蹴り遊び』『遊戯の終わり』などの作品で知られるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(Julio Cortázar、1914-1984)の短編集で、表題作2編は、1959年刊行の『秘密の武器』からの抜粋であるなど、作家の幾つかの短編集から訳者が10編を抽出して編んだものですが、どれも面白かったです。

 30歳代後半からパリに移住し、作家人生をフランスで全うしているので、作品もフランスが舞台になっているものが多く、やや他のラテンアメリカの作家とは毛色が異なる気もしますが、原著はスペイン語で書かれているため、"ラテンアメリカ文学"作家ということになるのでしょう。

 若い頃はエドガー・アラン・ポーに耽溺し、作家生活の初期にフランス文学に傾倒してフランスへの憧憬を抱きフランスに渡ったとのことですが、自らのエッセイでアルフレッド・ジャリのシュールレアリズムに影響を受けたと書いているように、現実と非現実が入り混じった幻想的な作風がこの短編集でも窺え、個人的には、安部公房、星新一、筒井康隆など日本の作家の作品を想起させるようなものもありました。個々に見ていくと―。

「続いている公園」 僅か2ページの短編。小説を読んでいる男がいつの間にか小説の中に...。アラン・ポー的、と言うより、このブラック・ユーモアは、むしろ星新一のショートショートみたいかなあ。

「パリにいる若い女性に宛てた手紙」 間歇的に口から子兎を吐き出すという奇病のため、女性から借りたアパート部屋が兎だらけになってしまうという、シュール極まりない男の話。安部公房みたいかなあ。だらだら手紙など書いていないで、早く病院に行った方がいい?

「占拠された屋敷」 兄妹の暮らす家が徐々に得体の知れない何者かに占拠され、仕舞いには2人は自分たちの家を追い出されてしまうという...。カフカ的な不条理の世界で、筒井康隆の作品にもありそうな...(筒井康隆の初期作品に「二元論の家」というのがあった)。コルタサルのこの作品の日本での初出は、早川「ミステリマガジン」1989年7月号。

「夜,あおむけにされて」 オートバイ事故に遭った男の、夢と現実の入り混じった臨死体験的な意識の流れ。すでにこの男が死んでいるとすれば、吉村昭の「少女架刑」だなあ、これは。

blowup3.jpg欲望 パンフ.jpg「悪魔の涎」 公園でふとしたことから男女を盗み撮りした男は、その写真の世界へ引きずり込まれる...。この作品は、ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」('66年/英・伊)の原作として有名ですが、ラストは、ジョエル・コーエンの「バートン・フィンク」('91年/米)と雰囲気的に似ているかも。「悪魔の涎」とは、ゴッサマー(晴れた秋の日などに空中を浮遊する蜘蛛の糸)のこと。
映画「欲望」('66年)

「追い求める男」 才能がありながらも薬物に耽溺し破滅に向かうサックス奏者(チャーリー・パーカーがモデルのようだ)を、ジャズ評論家で、彼の伝記作家でもある男の眼から、作家自身と対比的に描いた作品で、他の作品と異なり、オーソドックスな文芸中編であると同時に、ある種の「芸術家論」かなあ。

「南部高速道路」 高速道路で渋滞がずっと何カ月も解消しなかったらどうなるか。そこにやがて原始コミュニティのようなものが発生して...。ガルシア=マルケスに、「1958年6月6日、干上がったカラカス」という、乾季がずっと続いたらどうなるかという記事風の作品があったのを想起しました。因みにこの作品は、作家・池澤夏樹氏による個人編集の「世界文学全集 第3集」に収められている南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇の冒頭にきています。

飛行機から見た南の島.jpg「正午の島」 スチュワードの男は、いつも飛行機から正午に見えるある島に何故か執着し、ついに休暇を取ってその島を訪れ、仕事を辞めてその島に住んでもいいと思う。そして、その計画を実行に移し、島の生活にも慣れたところへいつもの飛行機が...。
 ラテンアメリカ文学らしくないと言えばそうとも言え、賛否割れそうな作品ですが、個人的には一番面白かったです。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」(ロべール・アンリコ監督の「ふくろうの河」の原作)みたいに、男が死ぬ直前に見た夢と解せなくもない...。

「ジョン・ハウエルへの指示」 演劇を観に来た評論家の男は、なぜかその劇の舞台に立たされ、ジョン・ハウエルという男の役をさせられる羽目に。そのうち半分以上ハウエルになり切ってしまい、人格分裂みたいな状況に...。
 シュールな悲喜劇ですが、人生ってこんな要素もあるかもと思わせる作品。

「すべての火は火」 ローマ時代と現代の2つの物語が並行し、やがて2つの話が、電話が混線するように、時空を超えて混ざり合っていく短編。筒井康隆みたい。

 ボルヘスと並んで、ラテンアメリカ文学における短篇の名手とされているようですが、どちらも幻想的かつ実験的な作品が多いという点では共通しており、ボルヘス作品が、加えて"高邁的(時に無意味に高踏的)"だとすると、コルタサルは、加えて"エンタテインメント的"であるように思いました。

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「死者の町」に来た若者。「おれ」自身の事実が明らかになるところが衝撃的且つ面白い。

ペドロ・パラモ 単行本.png ペドロ・パラモ iwanami.jpg  pedroparamo2007.jpg  Juan Rulfo.jpg Juan Rulfo(1917-1986)
ペドロ・パラモ (1979年) (岩波現代選書)』『ペドロ・パラモ (岩波文庫)』['92年]pedroparamo[2007]
"PEDRO PARAMO"(1966)
Pedro Paramo.jpg 「おれ」(フアン・プレシアド)は、母親が亡くなる際に言い遺した、自分たちを見捨てた父親に会って償いをさせろという言葉に従い、顔も知らない父親ペドロ・パラモを捜しに、コマラの町に辿りつくが、町には生きている者はなく、ただ、死者ばかりが過去を懐かしんで、蠢いているだけだった―。

 1955年にメキシコの作家フアン・ルルフォ(Juan Rulfo、1917-1986)が発表した作品で、ルルフォは、この『ペドロ・パラモ(Pedro Páramo)』(1955年)と、短編集『燃える平原(El llano en llamas)』(1953年)の2冊だけしか世に出しておらず、それでいて高い評価を得ているという希有な作家です。

 最初、「おれ」がコマラの町に入ったばかりのころは、何となく死者たちの"ささめき"が聞こえる程度だったのが、そのうち、死んで今はいないはずの人が出てきたりして、生きている人と死んでいる人が「お前さん、まだ、さまよっているのかい」みたいな感じで会話したり交わっているような町であるらしいと...それが次第に、町で暮らす人は全て死者であるらしいということが明らかになってきます。

 作品を構成する70の断片の中にある死者同士の会話などを通して、町のドンであったペドロ・パラモの狡猾で粗暴な一面と、スサナという女性を愛し続けた純な一面が浮き彫りになります。
 また、ペドロ・パラモには、「おれ」のほかに、ミゲル・パラモとアブンディオという息子がいて、ミゲル・パラモを事故で亡くしていて、「おれ」を最初に町に案内してくれたアブンディオも実は死者であった...。

 何だか、時代劇を観ていて、ある程度感情移入したところで、ふと、この人たちは、今は皆死んでいるんだなあという思い捉われる、そうした感覚に近いものを感じました。
 そして、この物語は、主人公である「おれ」自身が今どうなのかということが明らかになるところがかなり衝撃的で(面白いとも言える)、その辺りから、この「おれ」は誰に対して物語っているのか(それまでは当然、読者に対してであると思って読んでいたわけだが)、物語の読み方そのものが変わってきます。

 更に、物語の主体は、ペドロ・パラモであったりスサナであったりと移ろい、詰まる所、コマラという町自体が、物語の主体であることを印象づけるとともに、アブンディオが終盤に再登場することで、この話は時間的な円環構造になっていることを示唆しています(「死者」は直線的な時間には拘束されていないが、この円環からは抜け出せないということか)。

 訳者の杉山晃氏(1950年生まれ、スペイン文学者。氏の「ラテンアメリカ文学雑記帳」というWEBサイト(ブログに移行中?)は、色々な作家の作品を紹介していて面白い)の文庫版解説によると、1980年に行われたスペイン語圏の作家や批評家によるラテンアメリカ文学の最良の作品を選ぶアンケートで、この『ペドロ・パラモ』は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(1967年発表)とトップの座を分かち合ったとのことですが、長さ的には『百年の孤独』よりずっと短いけれど(『ペドロ・パラモ』は文庫で200ページほど)、印象に残る作品であることには違いありません。

ペドロ・パラモ 家系図.jpg 個人的には、片や「死者の町」コマラが舞台で、片や「蜃気楼の町」マコンドが舞台というのが似ている気がし(『ペドロ・パラモ』の方が発表は12年早く、その意味ではより先駆的かも)、また、片やペドロ・パラモという町のドンが登場し、片やホセ・アルカディオ・ブエンディアという族長的リーダーが登場するという、更には、そこに端を発する極めて複雑な家系図を成すといった、そうした類似点が興味深かったです(『ペドロ・パラモ』の方の家系図は、もう、何が何だかよくわからないくらい錯綜していて研究対象になっているようだ)。

 この作品は、メキシコの映画製作配給会社が、2007年にマテオ・ヒル監督により、メキシコのイケメン俳優ガエル・ガルシア・ベルナル主演で映画化すると発表しましたが、その後どうなったのか。『ペドロ・パラモ』はこれまでにメキシコ人監督によって3度映PEDRO PARAMO 1966 1.jpgPEDRO PARAMO 1966 2.jpg画化されていて、カルロス・ベロ(Carlos Velo)監督(1966年)、ホセ・ボラーニョス監督(1976年)、サルバドール・サンチェス監督(1981年)の何れの作品も日本未公開(主にメキシコとスペインで公開)ですが、1966年のカルロス・ベロ版はインターネットで観ることが可能です(オープニング・シーンに味わいがある)。

"PEDRO PARAMO" de Carlos Velo (1966)(英字幕入り・部分)
 Pedro Paramo video.jpg

 【1992年文庫化[岩波文庫]】

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「バベルの図書館」「円環の廃墟」など、カフカ的な作品が目白押しの短編集。やや難解?

ボルヘス 伝奇集  単行本.pngボルヘス「伝奇集」』['90年]ボルヘス 伝奇集 iawa.jpg 『伝奇集 (岩波文庫)』['93年]

 1960年代のラテンアメリカ文学ブームの先鞭となった、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges、1899-1986)の代表的短編集(原題:Ficciones)で、1941年刊行の『八岐(やまた)の園』と1944年刊行の『工匠集』を併せたものですが、全17篇の中では、「バベルの図書館」と「円環の廃墟」が有名です。

バベルの図書館.jpg 「バベルの図書館」(原題: La biblioteca de Babel )は、その中央に巨大な換気孔をもつ六角形の閲覧室の積み重ねで成っている巨大な図書館で(図書館職員だった作者自身が勤めていた図書館がモデルとされている)、閲覧室は上下に際限なく同じ部屋が続いており、閲覧室の構成は全て同じであるという不思議な構造をしています。

 蔵書は全て同じ大きさで、どの本も1冊410ページ、1ページに40行、1行に80文字という構成であり、本の大半は意味のない文字の羅列であって、全て22文字のアルファベットと文字区切り(空白)、コンマ、ピリオドの25文字しか使われておらず、同じ本は2冊とないということです。

 司書官たちは外に対する意識は無く(この図書館には出口がない)、生涯をここで暮らし、死ぬと中心の六角形の通気孔に投げ入れられ、そこで無限に落下しながら風化し、塵すらも無くなるといいます。

 主人公(ボルヘス?)は、この図書館を「宇宙」と呼び、図書館が無限で周期的であることが、唯一の希望であるとしていますが、個人的には、この図書館は何を意味しているのかを考えると際限が無くなり(「システム」とか「機構」といったものにも置き換えられるし、「都市」や「生命組織体」、更には「インターネット」にも擬えることは可能かも)、イメージとしては面白いけれど、やや茫漠とした印象も残りました。

円環の廃墟Ⅱ.jpg 作者に言わせると「カフカ的作品」とのことですが、それを言うなら、「円環の廃墟」(原題:Las ruinas circulares)もそれに近いように思われ、ここでは詳しい内容は省きますが(要約不可能?)、「城」とか「流刑地にて」に似ていて、夢の中で彷徨しているような作品です。

「円環の廃墟Ⅱ」星野美智子(リトグラフ)

 他にも、こうした不条理な作品が目白押しで、これらを1回読んだだけで理解できる人は、相当な読解力・抽象具現力の持ち主ではないでしょうか(自分はその域には達していないため、評価は"?"とした)。

borgesbabel.jpg 一方で、「死とコンパス」のような推理小説仕立ての作品もあって、これは、連続殺人事件を追う辣腕刑事が、事件現場であるA、B、Cの3地点と事件の起きた日時から、第4の殺人がいつどこで起きるかを推理し、現場にかけつける―という、何となく親しみやすいプロットで(アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』みたいだなあ)、意外性もあります(この作品は1997年にアレックス・コックス監督・脚本、ピーター・ボイル主演のミステリとして映画化されている)。でも、形而上学的なモチーフ(味付け?)と一定のアルゴリズムへの執着という点では、この作品も「バベルの図書館」に通じるものがあるかな。

 因みに、国書刊行会の文学全集で、「バベルの図書館」シリーズと名付けられているものがあります。

 【1993年文庫化[岩波文庫]】 

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