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漫画化作品の中で群を抜く、近藤ようこ版「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」。

桜の森の満開の下 (岩波現代文庫).jpg 夜長姫と耳男 (岩波現代文庫).jpg 桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫).jpg  桜の森の満開の下・夜長姫と耳男 (ホーム社漫画文庫).jpg
桜の森の満開の下 (岩波現代文庫)』『夜長姫と耳男 (岩波現代文庫)』『桜の森の満開の下 (講談社文芸文庫)』(「夜長姫と耳男」所収)『桜の森の満開の下・夜長姫と耳男 (ホーム社漫画文庫)
桜の森の満開の下・白痴 他12篇 (岩波文庫)
桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫).jpg 主人公の山賊が住む鈴鹿の山奥には桜の木がたくさん茂っており、山賊はそれらに対し、理由がわからないまま不安を感じている。ある時、山道を非常に美しい女が通り、山賊は、女と一緒にいた旦那を殺して女を自分の妻にする。妻は都から来たもので、山での生活に何かと不平不満を言う。そして遂には山賊を都に連れて行き生活を始める。都での妻は大変楽しそうだった。山賊に頼んで獲ってきてもらった人の首で、ごっこあそびにふけっていた。対する山賊は次第に退屈になり、同時に妻に嫌気もさし始めたため、山へ帰ろうと決める。その旨を伝えると妻は連れて行ってくれと頼む。しかし妻は、一時ついていくものの、いずれまた都に連れ帰ってこようと考えていたのだ。山賊が妻を負ぶって山へ向かう道中、いつの間にか背中にいたのは鬼だった。襲われた山賊は鬼を殺す。しかしそこにあるのは鬼ではなく妻の死体だった。死体は桜の花びらへと変わり、孤独を知った山賊自らも花びらへと変わって消えてゆくのだった―。

IM桜の森の満開の下8.jpg 昭和22(1947)年6月、当時40歳の坂口安吾(1906-1955)が雑誌『肉体』創刊号に発表した短編小説「桜の森の満開の下」(さくらのもりのまんかいのした)は、坂口安吾代表作の一つで、「堕落論」と並んで読まれており、傑作と称されることの多い作品です。

 作品の魅力として、全体を通して情景の美しさが溢れるように感じられる点がありますが、これをビジュアル化するとなると、それぞれが既に抱いている美しいイメージがあるだけに、その期待に応えるのはなかなか難しいということになります。

 実際、多くの漫画家や画家が挑戦していますが、原作を読んで固有のイメージが出来てしまった人を満足させるものは少ないかと思います。画風が少女漫画風(BL系・ツンデレ系)になってしまっているものが多いせいもあるかと思います。

桜の森の満開の下 (ビッグコミックススペシャル).jpg そんな中、2009年に小学館のビッグコミックススペシャルとして刊行された近藤ようこ(1957年生まれ)氏の漫画化作品は、さすがベテランと言うか、比較的原作の雰囲気をよく伝えているように思いました。と言うより、相対比較で言えば、群を抜いていると言っていいかもしれません(このタッチが原作にフィットするとすれば、山岸涼子氏なども描けば結構いい線いくのではないか)。

桜の森の満開の下 (ビッグコミックススペシャル)』['09年]

 実は近藤氏が坂口安吾の作品で最初に漫画化したのは2008年の「夜長姫と耳男」で、近藤氏はその企画が決まった時、大好きな安吾を独り占めできるような気がして武者震いしたそうです。一番描きたいと思っていたのは、耳男が江奈子に耳を切られる場面と、高楼につるされた蛇の死体が揺れる場面だったそうで、これだけでも、「夜長姫と耳男」の原作が「桜の森の満開の下」に劣らず凄まじい話であることは窺えるかと思いますが、「桜の森の満開の下」のあらすじを書いてしまったので、「夜長姫と耳男」の方はここでは内容には触れないでおきます。
桜の森の満開の下 (立東舎 乙女の本棚)
桜の森の満開の下 (立東舎 乙女の本棚).jpg 近藤氏の漫画のほかに、立東舎の「乙女の本棚」シリーズで「桜の森の満開の下」の原文を全て載せた上でそれにカラーで絵をつける形での絵本化をしていますが('19年)、絵が、駆け出しの少女漫画家のパターンでこれも自分にとってはイマイチでした。

 同じ少女漫画風ならば、ホーム社漫画文庫の『コミック版 桜の森の満開の下・夜長姫と耳男』('10年)の方がまだ良かったかも。「桜の森の満開の下」の方の漫画は萩原玲二氏、「夜長姫と耳男」の方はタナカ☆コージ氏が描いています。漫画として割り切って読めば、1冊で両方の作品が読めるので、コスパ的にもますまずだったように思います。

 因みに、近藤氏の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』は共に2017年10月に岩波現代文庫のラインアップに加わっています(お堅い岩波もその実力を認めた!?)。

『桜の森の満開の下』...【2017年文庫化[岩波現代文庫]】/『夜長姫と耳男』...【2017年文庫化[岩波現代文庫]】

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ミステリ(作家)論と文学論、個々の作品批評。安吾節が小気味よい。

IMG_20201127_045035.jpg私の探偵小説 坂口安吾2.jpg
私の探偵小説 (1978年) (角川文庫)

 推理ファンを自任し、自ら「不連続殺人事件」「復員殺人事件」「能面の秘密」などの作品を生んだ坂口安吾(1906-1955/享年49)の、推理小説に関する全エッセイを収録したもの。第一部は表題作「私の探偵小説」(昭和22年6月発表)を含むミステリ及びミステリ作家論で、第二部、第三部は主に文学論、個々の作品批評(文学賞の選評を含む)という体裁になっています。

 「推理小説は、作者と読者の知恵比べを楽しむゲームである」とし、「謎の手がかりを全部読者に知らせること」「謎を複雑にするために人間性を不当にゆがめぬこと」などのルールを説いていますが、言っていることはすごくまともだと思いました。でも、現代でも通じることを早くから言っているのはさすがと言えるかも。

シタフォードの秘密  ハヤカワ・ミステリ文庫.jpg また、海外・国外の推理作家を評価していますが、海外の作家では、アガサ・クリスティ、エラリー・クイーンを高く評価しており、これもまともではないでしょうか。クリスティの天分は「脅威のほかない」とし、その作品では、「『吹雪の山荘』のトリックほど非凡なものはない」と高く評価していますが、これって『シタフォードの秘密』のことだと思います(この作品、「江戸川乱歩が選んだクリスティ作品ベスト8」 に入っている)。「この二人を除くと、あとは天分が落ちるようだ」とし、むしろ、日本の推理作家で、「横溝君を世界のベストテン以上、ベストファイブにランクしうる才能であると思っている」として横溝正史を高く評価しています(以上、主に第一部「推理小説論」(昭和25年発表)より)。

 第二部、第三部では、推理作家に限らず、幅広く作家論、文学論を展開しながら、文学の本質を自由、芸術、反逆といったさまざまなテーマに絡めて論じています。また、戯作性と思想性は共存し得るとし、一方で、自然派や私小説を"綴方"と称して批判しています。さらに、国語論・敬語論・文章論も、いずれも現実の生活に即したものであるべきだという、ある種プラグマティックなものの見方が、この作家の特徴であることを改めて感じました。

志賀直哉_02.jpg 具体的には、「志賀直哉に文学の問題はない」(昭和23年発表)において、志賀直哉を、その「一生には、生死を賭したアガキや脱出などはない」とし、「位置の安定だけが、彼の問題であり」、それだけにすぎなかったとしています。夏目漱石についても、「その思惟の根は(中略)わが周囲を肯定し、それを合理化して安定をもとめる以上に深まることはなかった」と批判的ですが、表題から窺えるように、志賀直哉が最大の批判対象となっています。

志賀直哉

 また「戦後文章論」(昭和26年発表)では、漫画家の文章を評価していて、近藤日出造や清水崑、横山兄弟の皆が文章上手であると褒め、サザエさ安岡章太郎2.jpgん(長谷川町子)も「絵はあまりお上手ではないが、文章は相当うまいし、特に思いつきが卓抜だ」という評価の仕方をしているのが興味深いです。作家では、「今度の芥川賞の候補にのぼった安岡章太郎という人のが甚だ新鮮なもので」あったと。ただし、「大岡(昇平)三島(由紀夫)両所のように後世おそるべしというところがない」とも。「大岡三島両所の文章は批評家にわからぬような文章や小説ではないね」とし、「甚だしく多くの人に理解される可能性を含んでいますよ」と述べています。

安岡章太郎

 因みに、第三部に「芥川賞」の選評があり(著者は、第21回(昭和24年上半期)から通算5年半、選考委員を務めた)、田宮虎彦への授賞に反対していますが(第23回か)、「候補にあげられたことは、甚しく意外であった」とし、「その作品が不当に埋れているわけではなくて、多くの読者の目にもふれ、評者の目にもふれている」「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でももっと古狸の檀君でも候補にいれなければならないし、かく言う私も、候補に入れてもらわなければならない」としています。

 「堕落論」もそうですが、安吾節と言うのか、スカッと言い切っているところが小気味よいのですが、細かいところを見ていくと、それはそれでいろいろ興味深いです。

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「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、著者の意図がより明確に。
堕落論 銀座出版社 1947年6月初版.gif 堕落論 角川文庫.jpg 堕落論 角川文庫2.jpg  坂口 安吾  .jpg
堕落論 (1947年)』/『堕落論』(角川文庫・旧版)/『堕落論 (角川文庫クラシックス)』 坂口 安吾(1946年12月、蒲田区安方町の自宅二階にて)

坂口 安吾 『堕落論』2.jpg 昭和21(1946)年4月、当時40歳の坂口安吾(1906-1955)が発表した「堕落論」は、文庫で十数ページばかりのエッセイですが、戦争が終わって半年も経たない内に書かれたとは思えないくらい、当時の世相堕落論0.JPGの混沌を透過して世間を見据え、日本人の心性というものを抉っており、久しぶりの読み返しでしたが、その洞察眼の鋭さに改めて感服させられました。

堕落論 (新潮文庫)』(今後の寺院生活に対する私考/FARCEに就て/文学のふるさと/日本文化私観/芸道地に堕つ/堕落論/天皇小論/続堕落論/特攻隊に捧ぐ/教祖の文学〔ほか〕)

堕落論』(角川文庫・旧版)(日本文化私観/青春論/堕落論/続堕落論/デカダン文学論/戯作者文学論/悪妻論/恋愛論/エゴイズム小論/欲望について/大阪の反逆/教祖の文学/ 不良少年とキリスト)
   
 人間は堕落する生き物あり、ならばとことん堕落せよと説いていることから、人生論的エッセイという印象がありましたが、こうして読み返してみると、ヒト個人と日本をパラレルに論じていて、日本人論、日本文化論的な要素も結構あったかも。

 武士道に関する記述において、仇討が、仇討の法則と法則に規定された名誉だけによるものだったという指摘などは鋭く、「生きて捕虜の恥を受けるべからず」というのも同じ事であり、日本人は実はこういう規定がないと、戦闘に駆りたてられない心性の民族なのだと(戦争中にはこれが「玉砕」の発想に繋がってしまったのではないか)。

 その考え方を敷衍させ、天皇制を「極めて日本的な(独創的な)政治的作品」と見ているのが興味深く、日本の政治家達(武士や貴族)は、自己の隆盛を約束する手段として、絶対君主の必要を嗅ぎ付けたのだとし、だから天皇は、社会的に忘れられた時にすら、政治的に担ぎだされてくると指摘しています(豊臣秀吉が衆楽に行幸を仰いだように)。

 戦時下の米軍の爆撃に大いに恐怖を感じていたことを告白しながらも、「偉大な破壊を愛していた」とも言い、「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが充満していた。(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない」とし、「だが、堕落ということの驚くべき平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持ちがする」としています。

 徳川幕府が赤穂四十七士に切腹を命じたのは、彼ら生き延びて堕落し、美名を汚すことがあってはならぬという慮りであり、人は生きている限り堕落するものであると。但し、「戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。(中略)人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことは出来ない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と言っているように、「堕落」を肯定的に捉えています。

坂口安吾-風と光と戦争と.jpg これを同年(昭和21年)12月に発表の「続堕落論」と併せて読むと、まず「続堕落論」では、満州事変から始まる天皇を無視した軍部の独走を、「最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた」としてより直截に批判するとともに、「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、という。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ! 我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか」と、より手厳しくなっています。

 更に、「私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全な道義」から転落し、裸となって真実の台地へ降り立たなければならない。我々は「健全な道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない」とし、「天皇制だの武士道だの(中略) かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出直す必要がある」としています。 『坂口安吾: 風と光と戦争と (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

 但し、「堕落論」の末尾で、「だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう(中略)墜ちぬくためには弱すぎる。(中略)武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ。そして人のごとく日本もまた墜ちることが必要であろう。墜ちる道を墜ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」としていたのと同じく、「続堕落論」の末尾でも、「人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かララクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるだろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ」としています。

堕落論_5623.JPG こうして見ると「堕落論」と「続堕落論」の趣旨は同じであり、一貫してある種"反語"的に論じられているため、自分自身、著者の意図をどこまで本当に把握し得ているのか心許無さも若干ありますが、「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、より著者の言わんとするところが明確に見えてくるように思いました。


 銀座出版社刊行の昭和22年版は、古書店を廻れば今でも入手可能(ベストセラーとなったため相当数刷られた?)ですが、文庫では、「日本文化私観」「青春論」「堕落論」「続堕落論」「デカダン文学論」「戯作者文学論」「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」「大衆の反逆」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」の13篇を収めた「角川文庫」が定番でしょうか。

 今年['11年]4月に角川の「ハルキ文庫」の一環として創刊された「280円文庫」は、デフレ時代を反映してかその名の通りの価格で手頃であり、一応こちらも「堕落論」「続堕落論」「青春論」「恋愛論」の4篇を収録しています。

【1957年再文庫化・2007年改版[角川文庫]/1990年再文庫化[集英社文庫]/2000年再文庫化[新潮文庫]/2008年再文庫化[岩波文庫(『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』)]/2011年再文庫化[280円文庫(ハルキ文庫)]】

《読書MEMO》
●角川文庫版収録分・各発表年月
「日本文化論」昭和17年3月発表
「青春論」昭和17年7月発表
「堕落論」昭和21年4月発表
「続堕落論」不明
「デカダン文化論」昭和21年10月発表
「戯作者文学論」昭和22年1月発表
「悪再論」不明
「恋愛論」不明
「エゴイズム論」不明
「欲望について」昭和21年9月発表
「大阪の反逆」昭和22年4月発表
「教祖の文学」昭和21年6月発表
「不良少年とキリスト」昭和22年7月発表

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