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ベストセラー日本人論2冊。組織論的にも多くの示唆を含む『タテ社会の人間関係』。今一つ分からない『日本人とユダヤ人』。
タテ社会の人間関係1.jpg タテ社会の人間関係2.jpgタテ社会の人間関係★中根千枝.jpg タテ社会の人間関係3.jpg
タテ社会の人間関係―単一社会の理論 (1967年) (講談社現代新書)』『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)
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日本人とユダヤ人』['70年]『日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)』['71年]『日本人とユダヤ人 (山本七平ライブラリー)』['97年]『日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))』['04年]
Iタテ社会の人間関係 日本人とユダヤ人.jpg 『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』は、社会人類学者の中根千枝氏が1967年に出版した日本論であり、半世紀以上を経た今も読み継がれているロングセラーです。よく「日本はタテ社会だ」と言われますが、その本質を、日本社会の構造、組織のあり方という観点から説明したものです。

 著者によれば、日本人の集団意識は「場」に置かれており、日本のように「場」を基盤とした社会集団には、異なる資格を持つ者が内包されているため、家や部落、企業組織、官僚組織といった強力かつ恒久的な枠が必要とされるとのことです。そこで、日本的集団は、構成員のエモーショナルな全面的参加により一体感を醸成し、集団の肥大化に伴い、「タテ」の組織を形成するのだとしています。

 著者は、社会集団を構成する要因は、「資格」と「場」の2つに大別されるとし、「資格」とは、氏や素性、学歴、地位、職業、経済的立場、男女といった属性を指して、こうした属性を基準に構成された社会集団を「資格による集団」と呼び(職業集団や父系血縁集団、カースト集団などがその例)、一方、「場による社会集団」とは、地域や所属機関のような一定の枠によって個人が集団を構成する場合を指すとのこと(例えば、「○○村の成員」、「○○大学の者」など)。資格と場のいずれの機能が優先されるかは、その社会の人々の価値観と密接に関係するが、例えば、インド人の集団意識はカーストに象徴されるように、「資格」によって規定されているのに対し、日本人の集団意識は「場」に置かれているとのことです。

 だから日本人は、職種(=資格)よりも、A社、B大学といった自分の属する職場(=場)を優先して、自分の社会的位置づけを説明するのだと。それはつまり、日本人にとっては、「場」=「会社・大学」という枠が、集団構成や集団認識において重要な役割を果たしているからであり、とりわけ、会社は個人が雇用契約を結んだ対象という認識ではなく、「私の会社・われわれの会社」というふうに、自己と切り離せない拠り所のように認識されているのだとしています。

 この特殊な集団認識を代表するのは、日本社会に浸透している「イエ(家)」の概念であり、著者の定義する「家」とは、家族成員と家族以外の成員を含んだ生活共同体・経営体という「枠」の設定によって作られる社会集団であるとのことですが、この「家」集団内における人間関係は、他の人間関係よりも優先され、例えば、他の家に嫁いだ娘・姉妹よりも、他の家から入ってきた嫁のほうが「家の者」として重視されるが、これは、同じ両親から生まれた兄弟姉妹という「資格」に基づいた関係が永続するインド社会とはかけ離れているとのことです。

 社会人類学というのは当時聞き馴れない領域でしたが、本書の目的は、人々のつき合い方や同一集団内における上下関係の意識といった、社会に内在する基本原理を抽象化した「社会構造」に着目し、日本社会の特徴を解き明かすことにあったとのことで、ある種、構造主義的人類学の手法に通じるものがあるように思いました。

 前記の通り、著者によれば、日本社会では、「場」、つまり会社や大学という枠が集団構成や集団認識において重要な役割を果たし、こうした社会では、「ウチの者」「ヨソ者」を差別する意識が強まり、親分・子分関係、官僚組織によって象徴される「タテ」の関係が発達し、序列偏重の組織を形成するとのこと。こうしたメカニズムは、年次や派閥がものをいう組織、前任者の顔色を窺って改革を断行できない経営者といった諸問題に繋がっていると言え、これは今も根本的に変わっていないように思います。組織論的に見ても、今の社会に通じる多くの示唆を含む名著であると思ます。

山本七平(1921-1991)
山本七平.jpg 『日本人とユダヤ人』はイザヤ・ベンダサン名義で1970年に山本書店より刊行された本で、ベストセラーという意味では『タテ社会の人間関係』以上に売れ、『日本人と○○人』といった題名の比較型日本人論が一時流行したほどですが、やがて著者は山本書店の店主で、ベンダサン名義の作品の日本語訳者と称してきた山本七平(1921-1991/享年69)であることが明らかになり、'04年に、今は無き新書レーベルの「角川oneテーマ21」には著者名「山本七平」として収められました(解説にも「イザヤは山本のペンネーム」という旨が明記されている)。

 内容は、ユダヤ人と対比することによって日本人というものを考察している日本人論であり、この中では著書のイザヤ・ベンダサンは日本育ちのユダヤ人ということになっています。

 著者が、ユダヤ人との対比において指摘する日本人の特性として、四季に追われた生活と農業とそこから生まれるなせばなるという哲学や、模範を選び、それを真似ることで生きてきた隣百姓の論理、大声をあげるほど無視され、沈黙のうちに進んでいく政治的天才、法律があっても、必ず拘束されるわけではない、それを超えて存在する法外の法に従うという実態などを挙げていて、それなりに説得力があるように思いました。

 ただ、著者はさらに突き進み、日本人の論理の中心に据えられた「人間」という概念を、そのような日本人の特徴をユダヤ人との対比で考察しながら、日本人は、決して無宗教ではなく、「人間」を中心とした一つの巨大な宗教集団なのだという結論を導き出しますが、このあたりから個人的にはよく分からなくなりました。

 著者は、日本人は、無宗教である人が多いと言われるが、実際にはそうではなく、自分自身の宗教をそれを意識すらしないほどに体に染み込ませているという意味で、日本教は世界中のどこよりも強い、強烈な一つの宗教なのだという著者の論理は、受け容れられる人とそうでない人で分かれるのではないかと思いました。

 著者の論理で言えば、キリスト教であっても、仏教であっても、それは全て日本教に組み込まれており、日本人はどんなに頑張っても結局、日本教徒でしかありえず、日本人の究極の概念は、神よりもまず人間であり、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できないということです。

 普段意識しない日本人という枠組みを、本書によって考える機会を与えられたのは確かで、実際、多くの人がこの本に共感し、「山本学」という学問(?)まで流行ったくらいですが、個人的には「今一つ分からない」といった印象であり、それは当時も今も変わっていません(今振り返ると、随分と難しい本がベストセラーになったものだなあという気もする)。

51Aにせユダヤ人と日本人.jpg 本書に対する批判として、宗教学者、神学博士の浅見定雄氏の『にせユダヤ人と日本人』('83年)があり、それによれば、「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードは実際にはあり得ない話であり(英語版『日本人とユダヤ人』では完全にこのエピソードがカットされている)、「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであるとのことです。「日本人は安全と水を無料だと思っている」というベンダサンの警告は当時鮮烈でしたが、その対比としての、安全のために高級ホテル暮らしをするユダヤ人夫婦という話が「あり得ない話」ならば、説得力は落ちるのではないでしょうか(それとも、これも山本教徒にとっては、そんなことはどうでもいいことなのか)。

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人 (1983年)
       
比較文化論の試み.jpg日本人の人生観.jpg 個人的には著者の書いたものを全否定するわけではなく、講談社学術文庫に収められた『比較文化論の試み』('75年)は多くの気づきを与えてくれて良かったし(この本は最初に読んだときはそうでもなかったが、読み直してみて、鋭い指摘をしているのではないかと思った)、『日本人の人生観』('78年)もまずまずでした(こちらは、ユダヤ・キリスト教文化圏の歴史観・人生観と日本人のそれを対比させている)。一方で、『日本人と中国人』などは、知識人、読書人で絶賛する人は多いですが、自分にはよく分かりませんでした。

 浅見定雄氏は、山本七平は、自分でもよくわかっていないことを、わからないまま書き連ね、収拾がつかなくなると決まって「読者にはおのずからお分かりいただけるだろう」というふうに書いて、よくわからないのは読者の頭が悪いからだと思わせるごまかしのテクニックを使っているとも指摘していますが、全てがそうでないにしても、『日本人と中国人』などは『日本人とユダヤ人』以上に自分にとってはその類でした。

 ただ、その『日本人と中国人』についても、内田樹氏などは、「決して体系的な記述ではないし、推敲も十分ではなく、完成度の高い書物とは言いがたい」としながらも、「随所に驚嘆すべき卓見がちりばめられていることは間違いない。何より、ここに書かれている山本の懸念のほとんどすべてが現代日本において現実化していることを知れば、読者はその炯眼に敬意を表する他ないだろう」としていて、こんな見方もあるのだなあと。自分が頭が悪いのか、はたまた、この人の場合、書いたものによって相性が良かったり悪かったりするのでしょうか。

『日本人とユダヤ人』...【1971年文庫化[角川ソフィア文庫]/1997年選書[山本七平ライブラリー]/2004年新書化[角川oneテーマ21]】

《読書MEMO》
●『タテ社会の人間関係』
・単一社会―頼りになる集団はただ1つ(p64)
・タテの関係は親分。子分関係、官僚組織によって象徴される(p71)
・リーダーは一人に限られ、交代が困難(p122)
・日本のリーダーの主要任務は和の維持(p162)
・論理を敬遠して感情を楽しむ(p181)

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ユダヤ・キリスト教圏との歴史観の違いから来る人生観の違いを指摘。

日本人の人生観.jpg   比較文化論の試み.jpg 山本七平.jpg 山本 七平(1921-1991/享年69)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)』〔'78年〕 『比較文化論の試み』講談社学術文庫〔'76年〕

 同じ著者の比較文化論の試み』('76年/講談社学術文庫)を読んで、日本で常識とされているものをまず疑ってみるその切り口に改めて感心させられ、もっと論じられても良い人なのかもと思い、一般はともかく学者とかには敬遠されているのかなとも思いつつ、本書に読み進みました(著者は'81年、第29回「菊池寛賞」受賞)。

 こちらの方は、日本人の変わり身の早さや画一指向を、その歴史観と人生観の関わりから考察したもので、講演がベースの語り口でありながら、内容的にはややわかりにくい面もありました。

 要するに、旧約聖書から始まるユダヤ・キリスト教文化圏の歴史観には、終末を想定した始まりがあり、人生とはその全体の歴史の中のあるパートを生きることであり、トータルの歴史の最後にある、まさにその「最後の審判」の際に、改めてその個々の人生の意味が問われるものであるとの前提があるとのこと。
 つまり、個人の人生が人間全体の歴史とベタで重なっているという感じでしょうか。

 それに対し、日本人の歴史観は始まりも終わりも無いただの流れであり、個々の人生は意識としてはそうした流れの「外」にあり、「世渡り」とか"今"に対応することが重要な要素となっていると...。 
 
 鴨長明の「方丈記」冒頭にある「行く川の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず」というフレーズは、結構日本人の心情に共感を呼ぶものですが、著者は、このとき長明は川の流れの中ではなくて川岸にいて川の流れを傍観しているとし、それが歴史の流れの「外」にいることを象徴していると述べています。
 
 前著『比較文化論の試み』よりやや難解で、それは自らの知識の無さによるものですが、加えて、今まであまり考えてみなかったことを言われている気がするというのも、要因としてあるかも知れません。
 今後、歴史関係の本などを読む際には、こうした視点を応用的に意識して読むと、また違った面が見えてくるかもと思いました。

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読み直してみて、鋭い指摘をしていたのではないかと...。

『比較文化論の試み』.JPG比較文化論の試み.jpg 山本七平.jpg 山本 七平(1921-1991/享年69)
比較文化論の試み』講談社学術文庫〔'76年〕

日本人とユダヤ人.jpg 往年のベストセラー『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)の著者〈イザヤ・ベンダサン〉が〈山本七平〉であったことは周知であり、'04年に「角川oneテーマ21」で出た新書版の方では著者名が「山本七平」になっていますが、やはり最初はダマされた気がした読者も多かったようです。

 加えて生前は彼のユダヤ学や聖書学が誤謬だらけだという指摘があったり、左派系文化人との論争で押され気味だったりして、亡くなる前も'91年に亡くなった後も、意外と数多いこの人の著作を積極的に読むことはありませんでした。

 しかし、最近本書を再読し、「文化的生存の道は、自らの文化を他文化と相対化することにより再把握することから始まる」ということを中心とした99ページしかない講演集ですが、なかなかの指摘だなあと感心した次第です。

豚の報い.jpg 「聖地」に臨在感を感じる民族もいれば、日本人のようにあまり感じない民族もいる。一方、「神棚」や「骨」には日本人は独自の臨在感を感じる―。
 ここまでの指摘が個人的にははすごくわかる気がし、特に以前に読んだ作家・又吉栄喜氏の芥川賞受賞小説『豚の報い』('96年/文芸春秋)の中に、そのことを想起させる場面があったように思いました。

 この小説の主人公は、海で死んだ父の骨を拾うことに執着していて、海で死んだ人間は、島のしきたりで12年間埋葬することが出来ず野ざらしにされているのを、12年目の年に彼は父の遺骨を風葬地に見つけ、そこにウタキ(御嶽)を作り、"神となった"父の「骨」としばしそこに佇むのですが、「御嶽」も「神棚」も神の家でしょうし、主人公の心情もわかる気がしました。

 でも著者は、どうしてそう感じるか、その理由を考えないのが日本人であるとし、これが他の民族のことが理解できない理由でもあるとしており、その指摘には「ハッとさせられる」ものがあると思いました。

 何か、この人、日本人を「ハッとさせる」名人みたいな感じもするのですが、まさに著者の真骨頂は、日本で常識とされているものをまず疑ってみるその切り口にあるわけで、そのために引用するユダヤ学などに多少の粗さがあっても、新たな視点を示して個々の硬直化しがちな思考を解きほぐす効用はあるかと。

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