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重いテーマ。但し、神の不在や沈黙がテーマではない作品。技巧面でも優れている。

沈黙 遠藤周作 新潮文庫.jpg 沈黙 遠藤周作 新潮文庫.jpg 沈黙 遠藤周作 単行本.jpg 遠藤周作.bmp
沈黙 (新潮文庫)』 /映画「沈黙‐サイレンス‐」タイアップ帯/『沈黙』['63年/新潮社] 遠藤 周作

 1966(昭和41)年度・第2回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 島原の乱が鎮圧されて間もない頃、ポルトガル司祭ロドリゴとガルペは、キリシタン禁制が厳しい日本に潜入するためマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの手引きで五島列島に潜入し、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され殉教する信者たちを前に、ガルペは彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴもキチジローの裏切りで捕らえられ、長崎奉行所でかつての師で棄教したフェレイラと出会い、更にかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。ある日、ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接することとなり、棄教の淵に立たされる―。

 1966(昭和41)年3月刊行の遠藤周作(1923-1996/享年73)の書き下ろし長編小説で、神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題に関して切実な問いを投げかけたとされている作品です。テーマとしては、まず「神はなぜ沈黙しているのか」(或いは「神は本当にいるのか」)という絶対的なテーマと、次に「迫害の中で殉教が必ずしも正しい選択とは言えないのではないか」(棄教という選択もあるのではないか)という相対的なテーマの2つのテーマが考えられるように思いました。

 最初の「神は本当にいるのか」というテーマは、日本に来て多くの信者の苦難を目にしてた主人公のロドリゴ自身が、「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった」と自問しています。但しこのテーマは、確かに大きなテーマですが、一方で、物語を通して主人公にとって神は(ロドリゴの主観においては)否定し得ないア・プリオリな存在であるようにも思えました。更に言えば、「沈黙」というタイトルでありながら、「神はなぜ沈黙しているのか」ということも、直接の本書のテーマには必ずしもなっていないともとれます。そのことは、当初、作者が予定していたタイトルが「ひなたの匂い」だったのが、新潮社側からインパクトが弱いとされて「沈黙」というタイトルを薦められ、それを受け入れたという経緯からも窺えます。

 問題は2番目の「迫害の中で殉教が必ずしも正しい選択とは言えないのではないか」というテーマであり、このテーマは、ロドリゴとガルペの対比だけでなく、何度も踏み絵を踏み、仕舞いにはロドリゴを奉行所に売り渡しながら、それでもなおロドリゴに告解を受け容れてもらうために付き纏うキチジローや、拷問により棄教したかつてのロドリゴの師フェレイラなども入り交じって、やや複雑な位相を示しているように思いました。

 ロドリゴは、自分を売ったキチジローをユダさながらに見做して許す気になれず、また、拷問により棄教し日本の土壌にキリスト教は馴染まないという結論に至ったかつての師フェレイラを背教者と見做して軽蔑します。それらを認めてしまったら、棄教を拒んで殉教したガルペの死(或いはそれ以前の日本人信徒らの死)は何だったとのかという、1番目の問題と同じことになるからだと思われます。但し、ロドリゴにとって神はア・プリオリな存在であり、井上筑後守との問答はあったにせよ、この段階では彼自身は棄教するつもりは全くありません。

 そして、いよいよ自分自身がフェレイラが受けた拷問と同じような拷問を受けると思われる日が到来し、むしろ張り切ってその場に臨むのですが、実際に彼自身は拷問は受けることはなく、実は何日も前から拷問を受けていたのは何度も棄教した信徒らで、ロドリゴが棄教しない限り彼らへの拷問は続き、彼らはそのままでは死ぬであろうという、かつて、ロドリゴの目の前でガルペが置かれたのと同じような究極の選択をしなければならない状況が彼を襲い、結局ロドリゴは彼自身がそうするとは予期していなかった棄教をします(一方、それは、井上筑後守が予測していたことでもあった)。

 従って以降は、そのようにして「転んだ」司祭であるロドリゴがキリスト者たり得るのか、神は殉教した人々だけでなく、ロドリゴとも共に在るのか―といったことがテーマになっているように思われます。例えばこのテーマは、彼がそれまで汚らわしいものでも見るように捉えていたキチジローにも当て嵌まるテーマであり、ロドリゴにとっては非常に皮肉なテーマでもあるように思いました。

 作者のロドリゴの描き方は、婉曲的ではあるものの、神はまたロドリゴの傍にも在るといったものになっているように思われましたが、このことが、この小説がキリスト教会から非難されることになったり、作者のキリスト教観は非常に母性的なものであって、これは日本人特有のキリスト教観、或いは作者独自のキリスト教観であるといった批判や議論に繋がっていったのでしょう。

 但し、作者自身はそうした議論を喚起するためにこうした小説を書いたのではなく、おそらく作者は、どんな苦難の中でも「私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と声をかけてくれる、「人生の同伴者たるイエス」乃至は「母なる神」を描きたかったのではないかと思います。

 感動作であり、重いテーマの作品(但し、先にも述べたように、神の不在や沈黙がテーマではないと思われる)ですが、技巧面も優れていると思いました。この作品のモチーフは古文書から得ているそうですが、ポルトガル人であるロドリゴのモデルになった司祭は実はイタリア人であって、ポルトガル人であるフェレイラのモデルになった人物との間に師弟関係どころか接触さえなかったのを、二人を同国人にして師弟関係にし、物語上の二人の対比を際立たせたりするなど、ストーリーテラーとしての作者の巧みさが光ります。また、物語の前半を、ロドリゴが本国に宛てた書簡という形で純粋な主観で描き、後半を、ロドリゴの心象を描きながらも三人称の半客観で描き、エピローグを古文書の形を借りた純粋客観で描いているといった構成も巧みであると思いました。

4遠藤 周作 『沈黙』.jpg沈黙 サイレンス.jpg 以前に読んで、結構「重い」と感じられたせいか暫く読み返さないでいたのですが、マーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙-サイレンス-」('16年/米)の公開を機に読み直しました。もともとそれほど長い小説でもないのですが、とにかく一気に読める密度の濃い作品であると、改めて感じました。

マーティン・スコセッシ監督 「沈黙 -サイレンス-」 (16年/米) (2017/01 KADOKAWA) ★★★★☆

【1981年文庫化[新潮文庫]】

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センセーショナリズムを排しつつも、「読み物」としての意匠が凝らされれている。

『海と毒薬』.JPG海と毒薬1.jpg  海と毒薬2.jpg  遠藤 周作 『海と毒薬』.png
海と毒薬 (新潮文庫)』『海と毒薬 (角川文庫)』『海と毒薬 (講談社文庫)

海と毒薬 映画.jpg 1958(昭和33)年・第12回「毎日出版文化賞」(文学・芸術部門)並びに1959(昭和34)年・第5回「新潮社文学賞」受賞作であり、映画化もされました。

 戦争末期、九州の大学の付属病院内で、病院内の権力闘争と戦争を口実に、外国人捕虜を生きたまま解剖した医師たちの行為を通して、日本人の原罪意識の在り様を浮き彫りにした作品とされています。

映画「海と毒薬」の一場面 ('86年/監督・脚本:熊井啓、出演:奥田瑛二(勝呂)/渡辺謙(戸田)/田村高廣(橋本))

『海と毒薬』['58年/文藝春秋新社]
海と毒薬 <長篇小説> 1.jpg 遠藤周作(1923- 1996/享年73)作品の久しぶりの読み返しでしたが、初読の時とやや印象が違いました。やはり最初に読んだ学生の頃は、実際の事件をベースにしているという衝撃から、こんなことがあったのかという驚きの方が先行したのかも知れません。再読して、センセーショナリズムを排しつつも、「読み物」としての構成に意匠が凝らされていると思いました。

 主人公の「私」が引っ越した地で、「勝呂」という、腕は確かだが無愛想で一風変わった中年の町医者を知り、更に、彼には、大学病院の研究生時代、外国人捕虜の生体解剖実験に関わった過去があったことを知るというイントロが30ページあって、続いて、時代が戦争末期の大学病院に暗転するという―(ここで、主人公は「私」から「勝呂」にバトンタッチされる)。

 医者を探すという極めて日常的な描写から始まって、読者に勝呂という男に自然に関心を持たせ、その男に纏わる過去の暗い出来事を暗示させるという展開は、文芸作品というより、まるで推理小説の導入部のようです。

 「勝呂」が主人公になってからも、淡々とした筆致で、大学病院内の学部長選挙を巡る医師たちの動きや患者に接する姿勢などが描かれ、次第に、登場人物のそれぞれのものの考え方が見えきますが、勝呂は、最も若くて良心的な医師として描かれています。

 やがて、外国人捕虜3名の生体解剖実験を行うので、それにおいて一定の役割と責任を担えという話が、上司から勝呂と同僚の戸田の2人に降りかかってきますが、いきなり事件の核心には入らず、その前に、極めて冷徹で合理的なものの考え方をする戸田の子供時代の出来事の回想が入り、読者が勝呂と戸田のものの考え方を十分に対比的に把握したと思われる時点で、生体解剖実験の場面に移っていきます。

 タイトルの意味も含め、この作品のテーマについてはもう書き尽くされた観がありますが、「日本人とは」ということに直結しているため、作者のキリスト教観を意識したり"予習"しなくとも、単独の作品として、その深みを味わい、また、普遍的な問題意識を喚起させられるものであるように思います。

 今回再読して興味深かったのは、合理主義者で冷徹な優等生である戸田の小学校時代の回想の中に(時にそれは"ズルさ"や"妬み"として表れる)、多分に作者自身が反映されていうように思えたことでした。

海と毒薬 <長篇小説> 4.jpg

 【1960年文庫化[新潮文庫]/1960年再文庫化・2004年改版[角川文庫]/1971年再文庫化[講談社文庫]】

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聖書の中のエピソードを、当時のイスラエル人の暮らしぶりも踏まえ分かり易く解説した三浦版。

三浦 綾子3.JPG新約聖書入門02.jpg三浦綾子 新約聖書入門.jpg旧約聖書入門.jpg 「氷点.jpg
新約聖書入門―心の糧を求める人へ (知恵の森文庫)』 ['84年]/『旧約聖書入門―光と愛を求めて (カッパ・ブックス)』 ['74年/'95年復刻版]/テレビ朝日系「氷点」('06年)
新約聖書入門―心の糧を求める人へ (カッパ・ブックス)』['77年]
三浦綾子2.jpg

 映画やドラマにもなった『氷点』で知られる作家・三浦綾子(1922‐1999/享年77)による聖書入門で、同じカッパ・ブックスの『旧約聖書入門-光と愛を求めて』('74年/光文社)の姉妹本でもあり(現在は共に光文社文庫に収められれいる)、カッパ・ブックスのカバー折り返しに佐古純一郎氏が書いているように、「自分自身の生き様を引っ提げて新約聖書にぶつかっている」本です。
                 
私のイエス 日本人のための聖書入門.jpg遠藤周作.bmp ノン・ブックにあった遠藤周作(1923‐1996/享年73)の『私のイエス-日本人のための聖書入門』('76年/祥伝社)(現在はノン・ポシェット)が、「奇跡」とは何かということを軸に遠藤周作の独自のキリスト教に対する考え方を反映していて興味深いですが、"イエスの復活"というものに対する解釈とは別に(遠藤周作は、"復活"を無理に信じる必要はないと述べている)、イエスを裏切った者や"転びバテレン"に対する独自の見解(これは代表作『沈黙』などのテーマと連なる)で賛否両論を引き起こしたのに対し(特に教会側は否定的乃至"無視"という評価だったように思う)、こちらの三浦綾子のものはオーソドックスと言えばオーソドックスと言えるかもしれません。
                        
 自分自身がキリストの愛によって泥沼から救われ泥流地帯 三浦 綾子.jpgたとの思いを持つ著者は、聖書を自らの良心のバロメーターとしていると言うように、聖書と真正面から向かい合い、それを自分自身の信仰生活の糧にしようとする姿勢が前面に出ていて、読み比べると、両方ともそれぞれに遠藤文学、三浦文学と呼応しているのが興味深いです(遠藤周作は、病院で手も足もない子が生まれてきたりすることに出会うと神の不在を考えずにはおれなかったといったことを述べているが(これも『沈黙』のテーマに通じる)、三浦綾子の、大正15年の十勝岳噴火とそれに伴う火山泥流(ラハール)にまつわる物語『泥流地帯』などでも、「真面目に生きてきた自分たちがなぜこんな目に合うのか」といった、同様の観点からの問いかけがある)。
泥流地帯 (1977年)』('77年/新潮社)

 一般向けの「聖書入門」と言うよりは、すでに信仰生活に入って聖書を一通り読んでいる人のための「再入門」に近い面もありますが、聖書の中のエピソードを極めて分かり易く再現し、その背景にある意味を、当時のイスラエルの人々の暮らしや風俗をも踏まえて解説しているのは親切だと思いました。

 例えば、芥川龍之介が短編小説の極地だと激賞した「放蕩息子の帰還」(ルカによる福音書)のエピソードの解説などは、素人的視点に立ち返って息子を迎えた父親の行動の謎を解き明かすと共に、息子が豚を飼って暮らしていた、その"豚を飼う"ということが、ユダヤ人にとっては遊女を買うよりも堕落した行為であった、つまり、そこまで息子は落ちぶれていたということを表すと解説しています。

 1日働いた者も1時間しか働かなかった者も同じ賃金だったという葡萄園の労働者の話(マタイによる福音書)の背景には、当時イスラエルは不況で、結果として1時間しか働かなかった者も、実はその日は朝から職を求めて「立ちんぼ」していたという事情があり、一方で、雨季の前に葡萄を収穫する必要があったという逼迫した状況が農園主にはあったとか、イエスがなぜ盲人に泥をこね、シロアムに池へ行って洗うように言ったのか(ヨハネによる福音書)、シロアムの池は神殿からどのぐらいの距離があったのか、などといった話は、なかなか興味深かったです。

三浦綾子「塩狩峠」.jpg 三浦文学で、こうした著者の信仰に端的に呼応した作品としては、大勢の乗客を乗せた客車が暴走した際に、自らの命を犠牲にしてそれを止めた青年の実話を基にした『塩狩峠』('68年/新潮社)がありますが、子供の頃に家にあったその本を読み、単純に主人公はカッコいいなあと思っていました。

 でも、大人になって、そんなことする人って今の世の中に果たしているだろうかという現実的な想いでいたところ、'01年にJR新大久保駅でホームから転落した男性を助けようとした韓国人男子留学生が命を落とす事件があり、その時、真っ先にこの小説を思い出しました。

塩狩峠』 ['68年/新潮社]

氷点  1.jpg氷点  内藤洋子.jpg珠氷点  新.jpg 因みに、冒頭に挙げた「氷点」のTVドラマ版は、最初にドラマ化された'66年のもの(主演:内藤洋子、新珠三千代、芦田伸介)が"原罪"というテーマに沿った重厚さを最も備えていて、その後に作られたものを引き離しているのではないでしょうか。夏枝(新珠三千代)の冷酷さが怖く、卒業式で陽子(内藤洋子)に白紙の原稿を読ませるよう仕組むが...。前年に黒澤明監督「赤ひげ」('65年/東宝)で映画デビューした内藤洋子は、この初出演ドラマで一躍スターダムへ駆け上がりました。

氷点  タイトル.jpg「氷点」●演出:北代博●脚本:楠田芳子●音楽:山本直純●原作:三浦綾子●出演:内藤洋子/新珠三千代/芦田伸介/市原悦子/田村高廣/北村和夫/岸田森●放映:1966/01~1967/04(全13回)●放送局:NET(現テレビ朝日)

 『新約聖書入門』...【1984年文庫化[知恵の森文庫]】 『私のイエス』...【1988年文庫化[ノン・ポシェット)]】 

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