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知的冒険をさせてもらったが、途中から著者の牽強付会について行けなくなった。

三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書).jpg三島由紀夫と天皇 (平凡社新書).jpg  「三島由紀夫」とはなにものだったのか 2.jpg「三島由紀夫」とはなにものだったのか2.jpg  三島由紀夫 幻の遺作を読む.jpg
三島由紀夫 ふたつの謎 (集英社新書)』['18年]/菅孝行『三島由紀夫と天皇 (平凡社新書)』['18年]/橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』['02年/新潮社]『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』/井上隆史『三島由紀夫 幻の遺作を読む~もう一つの『豊饒の海』~ (光文社新書)』['10年]

IMG0豊饒の海2.jpgIMG_天人五衰.jpg 昨年['18年]11月に、本書と菅孝行著『三島由紀夫と天皇』(平凡社新書)という三島由紀夫をめぐる新書がほぼ同時に出て、これも「平成」を総括するムーブメントの一環なのでしょうか。とりあえず本書の方を読んでみました。本書の目的は、三島由紀夫をめぐる二つの謎を解くことであるとのことです。その二つの謎とは、一つは、三島由紀夫はなぜ、割腹自殺に至るクーデターのようなことを引き起こしたのかということであり、もう一つは、『豊饒の海』はどうして、あのような破壊的な結末に至ったのかということです。

 三島由紀夫が昭和45年12月25日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げたことについては、これまでも多くの人がその行動の解釈というか、本書の著者同様に謎解きを試みていますが、何か決定的な答えのようなものは出ておらず、個人的には、本書によってもそれが解き明かされたという実感はありませんでした(最初からあまり期待してなかった)。

春の雪 新潮文庫  .jpg 一方の、『豊饒の海』の結末の謎とは、『豊饒の海』第4部「天人五衰」の終盤で、転生の物語の四番目の主人公である安永が実は転生者ではなかったことに加え、何よりもラストで、本多繁邦が今は寺の門跡となった綾倉聡子を訪ねたところ「松枝清顕なる人は知らない」と彼女が言ったことを指すわけですが、確かに、『豊饒の海』第1部「春の雪」で松枝清顕と熱愛を交わしたはずの聡子にそう言われてしまうと、これまでのストーリーはすべて本多の見た幻に過ぎず、まったく無意味だったのかということになり、三島はなぜそうした破壊的な結末を物語の最後にもってきたのか、その不思議を指しています。

 この謎を解くために、著者は、『豊饒の海』だけでなく「仮面の告白」や「金閣寺」など三島の主要作品についても分析をしており、この辺りは興味深く読めました。特に、「仮面の告白」「金閣寺」の代表作2作について、『豊饒の海』の中のとりわけ「春の雪」と重なる部分、違っている部分が明確に意識され、それは自分が個人的に以前から抱いていた感触に近いものでもありましたが、久しぶりに三島作品の巡って知的冒険をさせてもらったたという感じです。

 しかし、著者は、昭和45年12月25日という日が三島由紀夫が自決した日であると同時に『豊饒の海』第4部「天人五衰」の脱稿日とされていることから、この二つの謎を結びつけないと気が済まないようで、途中からかなり牽強付会の気がある分析になっていったような気がします。最後、松枝清顕と天皇が同一視され、綾子が否定した松枝清顕(=天皇)の存在を肯定するために割腹自殺したような論理の流れになっていて、そこまでいく著者の論理過程は半ば理解不能だったというのが正直なところでした(この著者の他の著作を読んでいても同様の事態に陥ることがある。自分の読解力不足のせいもあると思うが)。

 著者が論じていることには論拠のあるものもあれば具体的な論拠のないものもあり、その辺りは著者自身も認識しており、これは論評というより、一つの作品のような本であると思いました。

 論拠が無いということで言えば、例えば、著者は、『豊饒の海』第4部「天人五衰」の結末を、三島がかなり最後の方で思いついたように解釈していますが、、三島がそんな無計画性のもとに作品を書くことはなく、「天人五衰」の結末の謎は、第1部「春の雪」の中にその答えが既に示されているとする文芸評論家もいたように思います。

 更に言えば、物語を繋いできたはずの輪廻転生が本当に無かったと言えるのか、もしかしたら安永だけが20歳での死に失敗しただけかもしれないし、聡子が松枝清顕のことを覚えていないというのも、覚えていないふりをしているともとれなくもないわけであって、こういうのを拾っていくと最初から"不可知論"を指向しているようで何も見い出せなくなってしまうのですが、著者があまりに牽強付会気味に理論展開しているように思え、ついついそうした疑問を抱くと言うか、逆の発想をしてみたくなるような本でした。

「三島由紀夫」とはなにものだったのか.jpg 個人的には、今年['19年]1月に亡くなった橋本治氏の第1回「小林秀雄賞」受賞作『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』('02年/新潮社、'05年/新潮文庫)の方が自分との"相性"が良かったという感じですが、橋本治氏のものは三島の「文学」に対する評論であり、彼の思想やそれに基づく行動については触れていないため、本書とは比較ができないかもしれません(三島自身が生前、自らの文学と思想を別物であるとしていたことを思うと、これはこれでいいのではないかと思うが)。

三島由紀夫 幻の遺作を読む.jpg 比べるとすれば、井上隆史著『三島由紀夫 幻の遺作を読む―もう一つの「豊饒の海」』('10年/光文社新書)あたりになるのかもしれません。そちらは、三島の「創作ノート」と『豊饒の海』の重要テーマである仏教の唯識思想に基づいて、三島が当初検討していた幻の第四巻の作品世界を仮構し(つまりあるべき姿の『豊饒の海』というものがあって、それを三島が自ら破壊したのはなぜか、という切り口になっている)、そこから三島の死の意味を探ったものです(本書も『豊饒の海』だけでなく、『仮面の告白』『金閣寺』『鏡子の家』などにも注目している。ただ、これも、仏教思想に寄り過ぎていて、個人的にはピンとこなかったのだが)。

 それにしても、三島由紀夫を論じるとき、その論者たちは皆ものすごく「自分寄り」になる傾向があるように思いました(アニメやオタク文化について論じる人にも似た傾向があるけれど)。そう考えると、橋本治氏の、その方法論は独自というかクセがありますが、三島は読者の思念への「転生」を図ったという論自体は納得性が高かったように思います(比較ができないかもしれないとしながら、結局は比較してしまったが)。

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原発推進もオウムやテロと同じ世界破壊「信仰」?! 相変わらず、もやっとした感じの本。

夢よりも深い覚醒へ9.JPG夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学.jpg            文明の内なる衝突.bmp  不可能性の時代.jpg
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』['12年]『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年]『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』['08年] 

 自分のイマジネーションが著者に追いつかないのか、はたまた単に相性が悪いだけなのか、相変わらず、本当にもやっとした感じの本でした。

 朝日新聞に掲載されていた比較文化学者の田中優子氏の書評によると、タイトルの「夢よりも深い覚醒へ」というのは、著者の師匠である見田宗介の言葉だそうで、悪夢から現実へと覚醒するのではなく、夢よりも深く内在することで覚醒するという意味だそうです。

 著者によれば、阪神・淡路大震災とオウム事件は何かの終りであり、おそらく東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事であったとのことで、要するにこれらは、破局と絶望に一連の流れ上にあると。

 9.11(テロ・アフガニスタン)と3.11(震災・原発事故)を同種の破局であるとして、進化論を持ち出してどちらも「理不尽な絶滅」であるとしているのは、震災とテロを一緒くたにして何だかハルマゲドンを煽っているっぽいなあという気がしたのですが、著者の論点は、まさにこの"同一視"に依拠しています。

 著者が、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題(ナショナリズム)を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いた『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える』('02年/NHKブックス)を著した理由は、9.11テロが世界同時性を持ちながら、日本の知識人にとっては対岸の火事であって実存的問題にならず、著者自身も、社会学者としての無力感に見舞われざるを得なかったとのことからではなかったと思います。

 そうした忸怩たる思いでいたところが、3.11によってやっと著者自身、「理不尽な絶滅」を実感することができたというところでしょうか。前著『不可能性の時代』('08年/岩波新書)に既にその傾向はありましたが、全ての事象を、この「理不尽な絶滅」へ強引に収斂させているという印象を受けました。

 著者は、『文明の内なる衝突』において、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」としていましたが、本書では、世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすれば、原子力もまた、その破壊潜在力への「信仰」ではないかとしています。

 「日本人の戦後史の中で、原子力は、事実上、神のように信仰されていた」とあり、原爆の恐怖を知って間もないはずの日本人が、活発な地震帯の上に50基以上もの原子炉を建設してきたことは、まさに「破壊への欲望」であり、これは、オウム、9.11テロと重なる―という論旨は、個人的にはかなり牽強付会に思えるのですが...。

 マイケル・サンデルの「暴走機関車」の例え話から始まって、原発問題を倫理哲学的に考察し、後半はカント、ヘーゲルを持ち出し、イエス・キリストの思想を持ち出し、「神の國」と現実をいろいろ行ったり来たりしているのですが、これ、サブタイトルにあるように思想哲学の本だったのか―(だとすれば、ある程度の牽強付会はありなのか?)。

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師匠(見田宗介)の本より面白い。但し、後半は、共感するしない以前に、よくワカラナイ...。

不可能性の時代.jpg 『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』 ['08年]  社会学入門−人間と社会の未来.jpg 見田宗介 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['06年]

 著者は東大の見田宗介ゼミ出身の社会学者ですが、見田氏が'90年代に、戦後の時代を「現実」の反対語により「理想の時代」('45〜'60年)、「夢の時代」('60〜'75年)、「虚構の時代」('75〜'90年)と区分したのを受け、本書ではこれを補強解説していて、この部分は比較的わかり易いし、師匠の近著『社会学入門』('06年/岩波新書)よりもむしろ興味深く読めました。

 学者で言えば柳田國男・折口信夫から東浩紀・吉見俊哉まで触れ、創作で言えば、浦沢直樹の『20世紀少年』の読み解きから、松本清張『砂の器』と水上勉の『飢餓海峡』の類似点指摘まで、事件で言えば、三島由紀夫事件からオウム事件まで、或いは少年N(永山則夫)から少年A(酒鬼薔薇聖斗)まで幅広く触れていて、見田氏の言う「社会学」という学問が「なんでもあり」の学問であることをよく表しているという点では、こっちの方がむしろ「社会学入門」と言えるかも知れません。

 但し、部分部分でナルホドと思わせられる点はあったものの(例えば、柳田國男が戦後に復活を求めた「家」は、結果的に「マイホーム」に置き換わってしまった(内田隆三)とか)、他者からの引用の部分にむしろ感応させられたかも。
宮崎勤死刑囚.jpg 著者はそれらにまたひとひねり加えていて、オタク論においては、東浩紀や大塚英志を参照しながらも、M(宮崎勤)の事件をもとに独自の身体論や疎外論を展開していますが、この辺りから(共感する部分もあったことは確かだが)牽強付会気味なものを感じ始めて個人的にはついていけなくなり、酒鬼薔薇事件('97年2月)後まもなく永山則夫の処刑(同年8月)が行われたということが、秋葉原通り魔事件('08年6月)から10日もしないうちに宮崎勤死刑囚の処刑が行われたことにダブったのが、一番のインパクトだったりして...(本旨ではない細部に目が行きがちになってしまう)。

 本書において見田宗介の忠実な後継者であるようにも見える著者は、「虚構の時代」の次に来たものを「不可能性の時代」とし、現代社会の特徴として「現実から逃避」するのではなく、「現実へと逃避」する者たちがいること、大衆文化の中で、破壊的な「現実」への嗜好や期待が広く共有されていること(218p)を捉え、それはむしろ、真の〈現実〉、真の〈破局〉に向き合うことを回避する社会傾向だとしていて、こうした"逃避"の行き先である「現実嗜好」、或はその裏返しとしての「破局嗜好」は、真の破局を直視することを避けようとするものであると―(そう述べているように思った)。
 破局への嗜好を、真の〈破局〉を直視することで断ち切ることに、普遍的な連帯への手掛かり(可能性)があるといった論旨でしょうか。

文明の内なる衝突.jpg 著者の本を読むのは、『文明の内なる衝突』('02年/NHKブックス)に次いで2冊目ですが、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いたこの本においても、テロリズムとナショナリズムの同位性などの着眼点は面白かったが、解決の手掛かりが抽象的であるように思えました。
 今回もテーマの一部としてこの問題は扱われていますが、対象とする問題の範囲が広い分、結論の抽象度は更に高まったように思います。
 後半部分は、共感するしない以前に、ワカラナイ部分が多すぎたというのが正直なところです。

《読書MEMO》
●現代社会は、二つのベクトル―現実への逃避と極端な虚構化―へと引き裂かれているように見える。(中略)究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこにあるのかという想定が、何かに対する、つまり〈現実〉に対する最後の隠蔽ではないか。(中略)一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している(165-166p)

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イスラーム原理主義とグローバル化する資本主義の共通項を指摘。

文明の内なる衝突.bmp                      サミュエル・ハンチントン 文明の衝突.jpg
文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年] /サミュエル・ハンチントン『文明の衝突

9-11_Statue_of_Liberty_and_WTC_fire.jpg 社会学者である著者が、「イスラーム原理主義者」による9・11テロ後に、テロを前にしたときの社会哲学の無力を悟り、またこれが社会哲学の試金石となるであろうという思いで書き下ろした本で、テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というサミュエル・ハンチントンの概念を援用して読み説くとともに(ハンチントンは冷戦時代にこの概念を提唱したのだが)、テロがもたらした社会環境の閉塞状況に対しての「解決」の道(可能性)を著者なりに考察したもの。
September 11, 2001 attacks

 イスラーム原理主義とグローバル化する資本主義の対立を、その背後にある共通項で捉えているのが大きな特徴ですが、9・11テロ後のアメリカのナショナリズムの高揚を見ると、それほど突飛な着眼点とは思えず、むしろ受け入れられやすいのでは。世界貿易センタービルで亡くなった消防士でも国家のために「殉死」した英雄ということになっているけれど、彼らはまさか直後にビルごと倒壊するとは思ってなくて救出活動に向かったわけです。

 '04年に亡くなったスーザン・ソンタグの、「アメリカ人は臆病である。テロリストは身体ごとビルにぶつかっていったのに、アメリカ軍は遠くからミサイルを撃つだけだ」というコメントが多くのアメリカ人の怒りを買った背景に、アメリカ人のテロリストに対する憧憬とコンプレックスがあるというのはなかなか穿った見方のように思えました。

 映画「インデペンデンス・デイ」が引き合いに出されていますが、「アルマゲドン」などもそうかもしれません(それぞれ'96年と'98年の作品で、共に9・11テロ以前に作られたものだが)。「インデペンデンス・デイ」「アルマゲドン」共に優れたSF映画に与えられる「サターンSF賞」を受賞していますが、SFXにはお金がかかっていっという感じでした。

インデペンデンス・デイ1.jpg 「インデペンデンス・デイ」('96年/米)は、本国では独立記念日の週に公開されたそうですが、昔の(ベトナム戦争時の)飛行機乗りが最新鋭のジェット戦闘機を操縦できるものかなあと疑念を抱かざるを得ず、大統領(湾岸戦争の戦闘パイロットだったという設定)が飛行編隊の先頭を切って巨大UFOに戦いを臨むと言う絶対にあり得ない設定でした(9・11の時は、ブッシュ大統領は緊急避難して、暫く居所を明らかにしていなかったではないか)。

アルマゲドン1.jpg 一方、「アルマゲドン」('98年/米)で石油掘削員が立向かう相手は巨大UFOではなく巨大隕石(小惑星)ですが、新型スペースシャトルの名前が「インディペンデンス号 」と「フリーダム号」で、この映画も独立記念日の週に公開されています(個人的には、ブルース・ウィリス演じる"部下想いのリーダー"が、出立する前に政府にいろいろ要求を突きつけるシーンが、やたら臭いこともあって好きになれなかった。実際、ブルース・ウィリスはこの作品で、「ゴールデンラズベリー賞」の"最低男優賞"と「スティンカーズ最悪映画賞」の"最悪の主演男優賞"をダブル受賞している)。

 2作とも独立記念日の週に公開されている点に、やはり何らかの意図を感じざるを得ないなあと。

1dollar_C.jpg 著者は、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」と見ており、そう捉えると、確かにいろいろなものが見えてくるという気がしました(確かに1ドル札の裏にピラミッドの絵がある なあ、と改めてビックリ)。
 
 "赦し"を前提とした「無償の贈与」という著者の「解決」案は甘っちょろいととられるかも知れませんが、レヴィ=ストロースの贈与論などに準拠しての考察であり、最後にある「羞恥」というものついての考察も(著者はこれを「無償の贈与」の前提条件として定位しようとしているようだが)、イランの映画監督マフマルバフの、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という言葉の意味がこのことでわかり、個人的には興味深いものでした。

「インデペンデンス・デイ」2.jpgインデペンデンス・デイ.jpg「インデペンデンス・デイ」●原題:INDEPENDENCE DAY●制作年:1996年●制作国:アメリカ●監督:ローランド・エメリッヒ●脚本:ディーン・デヴリン/ローランド・エメリッヒ●撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ●音楽:デヴィッド・アーノルド●時間:145分●出演者:ジェフ・ゴールドブラム/ビル・プルマン/ウィル・スミス/ランディ・クエイド/メアリー・マクドネル/ジャド・ハーシュ/ロバート・ロジア●日本公開:1996/12●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:有楽町・日本劇場(96-12-27)(評価:★★☆)

アルマゲドン09.jpgアルマゲドン.jpg「アルマゲドン」●原題:ARMAGEDDON●制作年:1998年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・ベイ●製作:ジェリー・ブラッカイマー/ゲイル・アン・ハード/マイケル・ベイ●脚本:ジョナサン・ヘンズリー/J・J・エイブラムス●撮影:ジョン・シュワルツマン●音楽:トレヴァー・ラビン●時間:150分●出演:ブルース・ウィリス/ベン・アフレック/リヴ・タイラー/ビリー・ボブ・ソーントン/ウィル・パットン/ピーター・ストーメア●日本公開:1998/12●配給:ブエナ・ビスタ・インターナショナル・ジャパン(評価:★★)


【2011年文庫化[河出文庫]】

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