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面白かった。鏡子にとって漱石との結婚生活はまさに「闘い」だったのだなあと。

漱石の思い出 (岩波書店).jpg漱石の思い出 (文春文庫).jpg 夏目漱石の妻01.jpg
漱石の思い出 (文春文庫)』 NHK土曜ドラマ「夏目漱石の妻」尾野真千子/長谷川博己)
夏目漱石の妻ges.jpg漱石の思ひ出――附 漱石年譜』['16年/岩波書店]

夏目漱石の 長谷川s.jpg NHK土曜ドラマ「夏目漱石の妻」(出演:尾野真千子、長谷川博己)を偶々見て、結構面白く感じられ(尾野真千子はやはり演技が上手く、長谷川博己も舞台で蜷川幸雄に鍛えられただけのことはあった)、それに触発されてこの原作本を手にしました。

夏目鏡子述 松岡譲筆録『漱石の思ひ出』改造社(初版・昭3年)
漱石の思ひ出 初版 夏目鏡子述 松岡譲筆録 改造社 昭31.jpg
夏目漱石の妻  s.jpg 原作は、夏目漱石(1867-1916/享年49)の妻・夏目鏡子(1877-1963/享年85)が1928(昭和3)年に漱石との結婚生活を口述し、それを漱石の弟子で長女・筆子の夫の松岡譲(1891-1969/享年77)が筆録して雑誌「改造」に連載したもので、1928年11月に『漱石の思ひ出』として改造社から刊行され、その時は60点余りの写真入りであったのが、翌1929(昭和4)年10月に同じカバーデザインで写真を割愛し、代わりに付漱石の思ひ出 単行本 - 200310_.jpg録として年譜を入れた廉価版(普及版)として岩波書店より刊行されました。手元にあるのはその普及版で、'93年刊行の第13刷です(実質的に復刻版だが、オリジナルに手を加えていないため"第13刷"となっている)。'54年に角川文庫で前後編2巻に分けて文庫化され、'66年に1巻に統合、'87年に改版されています。岩波書店版は旧仮名づかいで漢字にはルビがふってあるのに対し、角川文庫版は新仮名づかいになっていますが、どちらで読んでも構わないかと思います(岩波書店版は'03年に第14刷改版を刊行、また今回のドラマ化に合わせて(?)今年['16年]9月に改版されて、こちらは復刻版となっている)。

漱石の思ひ出』['03年/岩波書店(第14刷改版)]

 ドラマを観て、或いは本書を読んで新たに受けた印象としては、これまでの思い込みで「修善寺の大患」以降、漱石の神経衰弱が極度に進行したかのように思っていたのですが、それ以前の英国留学から戻って来た頃(鏡子と結婚して間もない頃)からそうした症状はかなり出ていて、鏡子にとって漱石との結婚生活はまさに「闘い」であったのだなあと改めて思いました。

 『吾輩は猫である』などの作風から"余裕派"などと言われたりしていますが、そこに至るまでに病的なまでの落ち込みや激昂といった精神的な波があり、そうした状況の中で書かれた『吾輩は猫である』は、漱石にとって(また夫婦にとって)ある種ブレークスルーであったという印象を受けました。

漱石と妻_1.jpg それまでの漱石は「DV夫」であり、その暴力は子どもにまでも及び、それはドラマでも描かれていましたが(例えば火鉢の淵に五厘銭があっただけで、ロンドンでの経験と勝手に結びつけて自分が馬鹿にされていると思い込み、娘である筆子を殴ったりした)、「吾輩は猫である」を書き始めてからも、向いの下宿屋の書生に、「おい、探偵君。今日は何時に学校にいくのかね」と呼びかけたりして、書生が自分の事をスパイしていると思い込んだりしているなど(これもドラマで描かれていた)、"病気"が治っていたわけではないのだなあと。英国留学から戻って来て以降は、ずっとそうした"病気"と共存して生きる人生であったのだなあと思いました。

 夫婦の間の出来事としては辛い話ばかりではなく、家に泥棒に入られて衣類など盗まれたけれども、泥棒が捕まってそれらが戻ってきたら、どれも洗濯して綺麗になっていて、コートなどは裾直しがしてあって却って有難かったといった可笑しなエピソードなども多くあり、これもドラマで再現されていましたが、そうしたほのぼのとした話もありながら、ドラマの方は漱石の病的な性癖に纏わる端的な話の方を中心に選んで再現しているため、漱石は確かに「DV夫」ではあったものの、それ以外の何者でもなかったような描かれ方にも若干なっていたようにも思います。

 本書は漱石が亡くなるまで、或いは亡くなった際の後の段取り等も含め語られていますが、ドラマの方は「修善寺の大患」(1910年8月)の後、翌年小康を得て6月に鏡子同伴で長野・善光寺に講演旅行に行ったところで終わっていました。本文385ページの内、修善寺の大患が200ページあたり、善光寺行が250ページあたりであるため、生涯の中で精神状態が比較的安定していた幾つかの時期の1つで話を終わらせたのでしょうか。その翌年には酷いノイローゼが再発し、胃潰瘍も再発しますが、一方で「こころ」「道草」「明暗」といった作品が書かれたのもこの時期以降です。

夏目漱石の妻 尾上e02.jpg 鏡子については悪妻説が根強くあるようですが、これを読むと、確かに言われているように鏡子が産後のヒステリーで精神不安定になった時期もあるようですが、やっぱりどうしょうも無く勝手なのは漱石の方で、それを大きく包み込んでいるのが鏡子であるというのが全体としての印象です。ドラマのラストで(おそらく善光寺への講演旅行に鏡子が同伴した際の一コマかと思われるが)、鏡子が漱石に「坊ちゃん」の中に出てくる"坊っちゃん"を小さい頃から可愛がってくれた下女・清(キヨ)のモデルは私でしょうと問う場面が夏目漱石の妻 last.jpgありますが、これはドラマのオリジナルです。漱石の孫にあた夏目房之介 .jpgる夏目房之介氏が、鏡子の本名がキヨであることに注目して、「坊っちゃん」という作品が漱石から鏡子に宛てたラブレターだったのではないか、と指摘しており、それをドラマに反映させたのではないかと思われます。

 ドラマも面白かったけれども、本も面白く(漱石の小説より面白かったりする)、漱石研究の資料としてもこれを超えるものはないとも言われているようです(刊行時はあまり注目されなかったらしいが)。個人的には特別に漱石ファンということでもないのですが、漱石ファンでなくとも面白く読めると思います。漱石没後100年の節目ということもありますが、この作品に注目しドラマ化をプロデュースした人の見識を評価したいと思います。

夏目漱石の妻 s.jpg「夏目漱石の妻」●演出:柴田岳志/榎戸崇泰●制作統括:吉永証/中村高志●脚本:池端俊策●音楽:清水靖晃●原案:夏目鏡子/松岡譲「漱石の思い出」●出演:尾野真千子/長谷川博己/黒島結菜/満島真之介/竹中直人/舘ひろし●放映:2016/09~10(全4回)●放送局:NHK

【1954年文庫化[角川文庫(『漱石の思ひ出〈前篇・後篇〉』)]/1966年再文庫化[角川文庫(『漱石の思い出(全1巻)』)]/1994年再文庫化[文春文庫(『漱石の思い出』)]】

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シュールな余韻を残す「正太樹をめぐる」。清水宏が映像化した「風の中の子供」。

風の中の子供 坪田.jpg 風の中の子供kazenonaka.jpg 坪田 譲治.jpg 坪田譲治 風の中の子供 vhs.jpg 風の中の子供 dvd.jpg
風の中の子供 (坪田譲治名作選)』/『風の中の子供 他四編』(旺文社文庫)/「風の中の子供 [VHS]」/「風の中の子供 [DVD]

 坪田譲治(1890-1982/享年92)の代表作で1936(昭和11)年9月から11月にかけて朝日新聞夕刊に連載された「風の中の子供」のほか、「正太樹をめぐる」「コマ」「一匹の鮒」「お化けの世界」等の作品と鈴木三重吉についての随筆や「私の童話観」その他評論などを収録し、更に、小川未明、壺井栄、椋鳩十から五木寛之、松谷みよ子などまで、多くの作家の坪田譲治に寄せて書いた文章を掲載しています。

 冒頭の「正太樹をめぐる」は、雑誌「新小説」(春陽堂)の1926(昭和元)年8月1日号に掲載された作品です。あの「風の中の子供」の"善太と三平"と並ぶ坪田作品のもう一人の主役"正太"という子が主人公で、坪田作品らしく、子供である"正太"の視点でその心象が描かれています。学校の教室で授業中に、火事で自分の家が焼けていると思いこみ、母が呼びに来てくれないと怒るが、帰ってみたら家があったので安心し、安心すると母に甘えずにはいられない"正太"―実はこの"正太"という子は「死んでいる」のです。ラストで物語は、息子が今も生きているかのように、"正太"に想いを馳せる母親の視点になりますが、では、それまで"正太"の視点で語られてきた物語はどう捉えるべきか。「それから一月とたたないある日の午後...」という箇所から母親の視線になっており、その間に"正太"に何らかの出来事があって彼は亡くなっていて、その前の物語は"正太"が生きていた時の話であるともとれるし、同時に、「今」母親の脳裏でリアルタイムに展開している物語であるともとれ、非常にシュールな余韻を残します。

 シュールな余韻を残すもう1つのポイントとして、"正太"の授業中の夢想の中に金輪(かねわ)を回す"善太"が登場することで、これはもう、死んでいく少年が死の間際に、金輪を回す少年の姿を見るという、この作品の5年前の1921(大正10)年に発表された小川未明(1882‐1961)の「金の輪」を想起せずにはおれず、金輪を回す少年を見た(夢想した)側の少年の方が幼くして亡くなるという点で一致し、「金の輪」へのオマージュが込められているように思いました。

筒井康隆.jpg風の中の子供 TITLE.jpg 表題作の「風の中の子供」は、あの筒井康隆氏も幼い頃に読んで涙したという傑作ですが、清水宏監督によって1937(昭和12)年に映画化されています。

 善太(葉山正雄)と三平(爆弾小僧)は賢兄愚弟の典型のような兄弟。母親(吉川満子)は、成績優秀でオール甲の兄・善太と対照的に、乙と丙ばかりで甲がひとつもない弟・三平が心配でしょう風の中の子供 映画1.jpgがないが、父(河村黎吉)は結構なことだと思って気にしない。そんな時、父が私文書偽造の容疑で逮捕され、三平は叔父(坂本武)に引き取られることになる―。

風の中の子供 映画2.jpg 父親が私文書偽造の容疑で捕えられたのは、実は会社の政敵の策謀によるもので、坪田譲治自身、家業の島田製作所を兄が継いだものの、以後会社の内紛が続いて兄が自殺したため同社の取締役に就任するも、造反により取締役を突然解任される('33年)といったことを経験しています。そうした経験は「風の中の子供」以外の作品にも反映され風の中の子供 映画3.jpgていますが、こうしたどろどろした大人の世界を童話に持ち込むことについて、本書の中にある「私の童話観」の、「世の童話作家はみな子供を甘やかしているのである。読んでごらんなさい。どれもこれも砂風の中の子供 映画4.jpg糖の味ばかりするのである」「このような童話ばかり読んで、現実を、現実の中の真実を知らずに育つ子供があるとしたらどうであろうか」「色はもっとジミでもいい。光はもっとにぶくていい。美しさは足りなくても、人生の真実を描いてほしいと思うのである」という考えと符合するかと思います。

 清水宏監督は、比較的忠実に原作を再現していますが(曲馬団の少年の話だけは、善太と三平シリーズの別の話から持ってきたのではないか)、話が暗くならないのは、善太と三平を活き活きと描いているためで、兄弟が畳の上でオリンピックの水泳とその中継の真似事をする場面などはしっかり再現していました(1936年のベルリン大会200m平泳ぎで、前畑秀子が風の中の子供 映画02.jpg日本人女性初の五輪金メダルを獲っていた)。叔父の家に預けられた三平は、腕白が過ぎて叔父の手に負えず戻されてしまうのですが、その原因となった出来事の1つに、川で盥を舟の代わりにして遊んでいて、そのままどんどん川下り状態になって流されていってしまった事件があり、「畳水泳」どころか、この「川流れ」も、実地で再現していたのにはやや驚きました。ロケ主義、リアリズム重視の清水宏監督の本領発揮というか、今だったら撮れないだろうなあ。そうしたことも含め、オリジナルのストーリーを大事にし、自然の中で伸び伸びと遊び育つ子供を映像的に上手く撮ることで、原作の持ち味は生かしていたように思います。

風の中の子供s.jpg 笠智衆がチョイ役(巡査役)で出演していますが、老け役でなかったため、逆に最初は気がつきませんでした。

「風の中の子」●制作年:1937年●監督:清水宏●脚本:斎藤良輔●撮影:斎藤正夫●音楽:伊藤宣二●原作:坪田譲二「風の中の子供」●時間:68分●出演:河村黎吉/吉川満子/葉山正雄/爆弾小僧/坂本武/岡村文子/末松孝行/長船タヅコ/突貫小僧/若林広雄/ 谷麗光/隼珍吉/石山隆嗣/アメリカ小僧/仲英之助/笠智衆/長尾寛●公開:1937/11●配給:松竹大船(評価★★★☆)

風の中の子供 角川.jpg風の中の子供 坪田譲治 ジュニア版日本の文学.jpg「風の中の子供」...【1938年単行本[竹村書房]/1949年文庫化[新潮文庫/1956年再文庫化[角川文庫]/1971年再文庫化[潮文庫]/1975年再文庫化[旺文社文庫(『風の中の子供 他四編』)]/1983年再文庫化[ポプラ文庫]】

角川文庫/ポプラ社文庫
 
《読書MEMO》
●「風の中の子供」...1936(昭和11)年9月~11月「東京朝日新聞(夕刊)」連載
●「正太樹をめぐる」...1926(昭和元)年雑誌「新小説」(春陽堂)8月1日号掲載

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恐るべき内容ながらも、抑制の効いた知的で簡潔・骨太の文体。男性的な印象を受けた。

海神丸3.JPG海神丸 野上.jpg海神丸 野上弥生子.jpg   野上弥生子.jpg 野上弥生子(1885-1985/享年99)
岩波文庫旧版/『海神丸―付・「海神丸」後日物語 (岩波文庫)』 

野上彌生子集 河出書房 市民文庫 昭和28年初版 野上弥生子.jpg 1916(大正5)年12月25日早朝、男4人を乗せ、大分県の下の江港から宮崎県の日向寄りの海に散在している島々に向け出航した小帆船・海神丸は、折からの強風に晒され遭難、漂流すること数十日に及び、飢えた2人の船頭は、船長の目を盗んで若い仲間を殺し、その肉を喰おうと企てる―。

野上彌生子集 河出書房 市民文庫 昭和28年初版(「海神丸」「名月」「狐」所収)

 1922(大正11)年に野上弥生子(1885-1985/享年99)が発表した自身初の長編小説で、作者の地元で実際にあった海難事故に取材しており、本当の船の名は「高吉丸」、但し、57日に及ぶ漂流の末、ミッドウエー付近で日本の貨物船に救助されたというのは事実であり、その他この小説に書かれていることの殆どは事実に即しているとのことです。

 救出された乗組員は3人で、あとの1人は漂流中に"病死"したため水葬に附したというのが乗組員の当時の証言ですが、何故作者が、そこに隠蔽された忌まわしい出来事について知ることが出来たかというと、物語における船長のモデルとなった船頭が、たまたま作者の生家に度々訪ねてくるような間柄で、実家の弟が彼の口から聞いた話を基に、この物語が出来上がったとのことです。

 岩波文庫の「海神丸」に「『海神丸』後日物語」という話が附されていて、作品発表から半世紀の後、海神丸を救助した貨物船の元船員と偶然にも巡り合った経緯が書かれている共に、救出の際の事実がより明確に特定され、更には、船長らの後日譚も書いていますが(作者と船長はこの時点では知己となっている)、この作品を書く前の事件の真相の情報経路は明かしていません(本編を読んでいる間中に疑問に思ったことがもう1つ。この小説が発表されたのは、救出劇から5年ぐらいしか経っていない時であり、殺人事件として世間や警察の間で問題にならなかったのだろうか)。

 大岡昇平の『野火』より四半世紀も前に"人肉食"をテーマとして扱い、恐るべき内容でありながらも(この物語が「少年少女日本文学館」(講談社)に収められているというのもスゴイが)、終始抑制の効いた、知的で、簡潔且つ骨太の文体。作者は造り酒屋の蔵元のお嬢さん育ちだったはずですが、まるで吉村昭の漂流小説を読んでいるような男性的な印象を受けました。

 「大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」とは、作者が、この作品の発表の翌年から、亡くなる半月前まで60年以上に渡って書き続けた日記の中にある言葉であり、作者の冷徹な知性は、「『海神丸』後日物語」において、"人肉食"が実際に行われた可能性を必ずしも否定していません。
 
海神丸 野上弥生子 新藤兼人「人間」.jpg 尚、この作品を基に、新藤兼人監督が「人間」('62年)という作品を撮っていますが、個人的には未見です。

「海神丸」の映画化 「人間」.jpg
人間 [DVD]
乙羽信子/山本圭/殿山泰司/佐藤慶


【1929年文庫化・1970年改版[岩波文庫]/1962年再文庫化[角川文庫]】

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照明や建築物だけでなく、食器・食物、能・文楽、美人などにまで及ぶ「陰翳礼讃」論。

谷崎 潤一郎 『陰翳礼讃』 創元社.jpg陰翳礼讃 中公文庫.jpg    陰翳礼讃 東京をおもう.jpg
陰翳礼讃 (中公文庫)』 『陰翳礼讃 東京をおもう (中公クラシックス (J5))
『陰翳礼讃』 創元社(1943)

 「陰翳礼讃」は、谷崎潤一郎(1886-1965)が1933(昭和8)年12月から翌年にかけて雑誌「経済往来」に発表した随筆で、日本人の美意識とは「陰」や「仄暗さ」を条件に入れて発達してきたものであり、明るさよりも翳りを、光よりも闇との調和を重視してきたものであると分析しているものですが、建築やインテリア、照明の仕事に携わる人には長らく必読の書のように言われてきて、特に今で言う照明デザイナーのような職種の人は、その仕事につくや先輩から読むように言われたという話も聞きますが、今はどうなのでしょうか。

吉行 淳之介.jpg 昭和50年初版の文庫本の解説で、吉行淳之介が30数年ぶりに読み返したとありますが、著者がこれを書いた頃は、電気による照明が人々の暮らしに浸透しつつあり、何でもより明るく照らし、生活の中から闇の部分を消し去るということが進行中乃至完了したばかりの頃であったのに対し、吉行がこの解説を書いた頃には、もう随分前から電気照明が当たり前になっており、そのため、逆にその「照明」に注目した点が、吉行にとっては'盲点'だったとしています。

 著者は、翳の中の光の微細な変化を美として生活に嵌め込んでいた時代を"懐かしむ"が如く著しているわけですが(元に戻せと言っても"今更不可能事"であり"愚痴"に過ぎないとも言っている)、それでは今の時代に読んでどうかというと、やはり日本人の心の底に綿々とある美意識を鋭く衝いているように思われ、実際、最近でも「ランプの宿」など人気があることからみても、西洋とは異なる、日本人に普遍的な心性をよく捉えているのではないかと思いました。

 中公文庫版は、「陰翳礼讃」のほかに、「瀬惰の説」(昭和5年発表)、「恋愛及び色情」(昭和6年発表)、「客ぎらい」(昭和23年発表)、「旅のいろいろ」、「厠のいろいろ」(共に昭和10年発表)の5篇の随想を所収していますが、他の随想にも概ね"陰翳礼讃"というコンセプトが貫かれており、「瀬惰の説」では、「怠ける」ということに対する日本人と西洋人の考え方の違いから、日常の生活姿勢における両者の美意識の違いを、「恋愛及び色情」では、「源氏物語」に代表される日本の古典文学を通して、日本人に特徴的な恋愛観や性愛観に踏み込んで論じていて、両篇とも、「陰翳礼讃」に匹敵する洞察の深さが見られます。

 さらっと書いていながらも格調高い「陰翳礼讃」や「恋愛及び色情」に比べると、「旅のいろいろ」「厠のいろいろ」は、それらより若干柔らかいタッチの随想ですが、例えば「厠のいろいろ」で述べられている"トイレット考"は、「陰翳礼讃」の中に既に見られます。

 但し、今回、自分自身も読み直してみて改めて感じたのは、触れている事柄の範囲の広さが、やはり「陰翳礼讃」は広いなあと。照明や建築物だけでなく、食器・食物、能・文楽、美人などにまで及び、「瀬惰の説」「恋愛及び色情」の後に発表されていることから見ても、著者の美意識、美学の集大成、エッセンスと言えるものではないでしょうか。

 漆器や味噌汁の色合いは暗闇においてこそ調和し、仏像や金屏風は薄暗い中で間接照明の機能を果たしていたのではないか、といった考察は実に卓見、羊羹(!)から日本人女性の肌の色まで、全て"陰翳礼讃"というコンセプトで論じ切っていて、それでいて充分な説得力があるのは、やはりスゴイことではないかと思います。

《読書MEMO》
●「かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる」(文庫初版24p)。

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「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、著者の意図がより明確に。
堕落論 銀座出版社 1947年6月初版.gif 堕落論 角川文庫.jpg 堕落論 角川文庫2.jpg  坂口 安吾  .jpg
堕落論 (1947年)』/『堕落論』(角川文庫・旧版)/『堕落論 (角川文庫クラシックス)』 坂口 安吾(1946年12月、蒲田区安方町の自宅二階にて)

 昭和21(1946)年4月、当時40歳の坂口安吾(1906-1955)が発表した「堕落論」は、文庫で十数ページばかりのエッセイですが、戦争が終わって半年も経たない内に書かれたとは思えないくらい、当時の世相の混沌を透過して世間を見据え、日本人の心性というものを抉っており、久しぶりの読み返しでしたが、その洞察眼の鋭さに改めて感服させられました。

 人間は堕落する生き物あり、ならばとことん堕落せよと説いていることから、人生論的エッセイという印象がありましたが、こうして読み返してみると、ヒト個人と日本をパラレルに論じていて、日本人論、日本文化論的な要素も結構あったかも。

 武士道に関する記述において、仇討が、仇討の法則と法則に規定された名誉だけによるものだったという指摘などは鋭く、「生きて捕虜の恥を受けるべからず」というのも同じ事であり、日本人は実はこういう規定がないと、戦闘に駆りたてられない心性の民族なのだと(戦争中にはこれが「玉砕」の発想に繋がってしまったのではないか)。

 その考え方を敷衍させ、天皇制を「極めて日本的な(独創的な)政治的作品」と見ているのが興味深く、日本の政治家達(武士や貴族)は、自己の隆盛を約束する手段として、絶対君主の必要を嗅ぎ付けたのだとし、だから天皇は、社会的に忘れられた時にすら、政治的に担ぎだされてくると指摘しています(豊臣秀吉が衆楽に行幸を仰いだように)。

 戦時下の米軍の爆撃に大いに恐怖を感じていたことを告白しながらも、「偉大な破壊を愛していた」とも言い、「あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが充満していた。(中略)偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない」とし、「だが、堕落ということの驚くべき平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持ちがする」としています。

 徳川幕府が赤穂四十七士に切腹を命じたのは、彼ら生き延びて堕落し、美名を汚すことがあってはならぬという慮りであり、人は生きている限り堕落するものであると。但し、「戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。(中略)人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことは出来ない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない」と言っているように、「堕落」を肯定的に捉えています。

坂口安吾-風と光と戦争と.jpg これを同年(昭和21年)12月に発表の「続堕落論」と併せて読むと、まず「続堕落論」では、満州事変から始まる天皇を無視した軍部の独走を、「最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた」としてより直截に批判するとともに、「たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、という。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ! 我ら国民は戦争をやめたくて仕方なかったのではないか」と、より手厳しくなっています。

 更に、「私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全な道義」から転落し、裸となって真実の台地へ降り立たなければならない。我々は「健全な道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない」とし、「天皇制だの武士道だの(中略) かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出直す必要がある」としています。 『坂口安吾: 風と光と戦争と (文藝別冊/KAWADE夢ムック)

 但し、「堕落論」の末尾で、「だが人間は永遠に墜ちぬくことはできないだろう(中略)墜ちぬくためには弱すぎる。(中略)武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく墜ちる道を墜ちきることが必要なのだ。そして人のごとく日本もまた墜ちることが必要であろう。墜ちる道を墜ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」としていたのと同じく、「続堕落論」の末尾でも、「人間は無限に墜ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かララクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるだろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ」としています。

 こうして見ると「堕落論」と「続堕落論」の趣旨は同じであり、一貫してある種"反語"的に論じられているため、自分自身、著者の意図をどこまで本当に把握し得ているのか心許無さも若干ありますが、「堕落論」と「続堕落論」の両方を読み比べることで、より著者の言わんとするところが明確に見えてくるように思いました。


 銀座出版社刊行の昭和22年版は、古書店を廻れば今でも入手可能(ベストセラーとなったため相当数刷られた?)ですが、文庫では、「日本文化私観」「青春論」「堕落論」「続堕落論」「デカダン文学論」「戯作者文学論」「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」「大衆の反逆」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」の13篇を収めた「角川文庫」が定番でしょうか。
 2011年に角川の「ハルキ文庫」の一環として創刊された「280円文庫」は、デフレ時代を反映してかその名の通りの価格で手頃であり、一応こちらも「堕落論」「続堕落論」「青春論」「恋愛論」の4篇を収録しています。

【1957年再文庫化・2007年改版[角川文庫]/1990年再文庫化[集英社文庫]/2000年再文庫化[新潮文庫]/2008年再文庫化[岩波文庫(『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』)]/2011年再文庫化[280円文庫(ハルキ文庫)]】

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原作より訓話的かつ現実的(解説的)。大人の鑑賞にも耐え得る作品にするための戦略か。

風の又三郎 vhs.jpg風の又三郎 映画1.jpg風の又三郎 片山明彦.jpg 童話集  風の又三郎.bmp
「風の又三郎」'40年 日活 /片山明彦(又三郎) 「童話集 風の又三郎 他十八篇 (岩波文庫)

風の又三郎 [VHS]」日活文芸コレクション(1997)

風の又三郎 1940vhs.jpg 北海道から東北の山間の小学校へ転校してきた5年生の少年・高田三郎(片山明彦)に、地元の子供達は、転校してきた日が二百十日であったため「風の又三郎」という綽名を付ける。新参者に興味を示し、一緒に遊んだりしながらも距離を置く子供達―ある日、ガキ大将の一郎(大泉滉)が相撲を挑み、三郎少年は投げ飛ばされてしまう。調子に乗ったガキ大将が「くやしかったら風を呼んでみろ」とからかった直後、本当に大風が吹き、台風が来襲する。そして、その翌日、彼は別の学校へ転校していったため、子供達は少年が本物の「風の又三郎」だったのだと確信する―。

『風の又三郎』2.jpg  宮澤賢治(1896‐1933)による原作は、作者没後の1934(昭和9)年に発表されたもので、大正年中に書いたものをコラージュして1931(昭和6)年から1933(昭和8)年の間に成ったものとされており、これまで何度か映画化されていますが、最初に映画化された島耕二(1901‐1986)監督のこの作品が、最も原作の雰囲気を伝えているとされているようです。

『風の又三郎』1.jpg風の又三郎1940年.jpg 前半部分は野山を廻って遊ぶ子供達を生き生きと描いた野外シーンが殆どで、そうした中、子供達は三郎(片山明彦)との距離を狭めたり(子供達が三郎少年を守ろうとする場面もある)、また遠ざけたりを繰り返します。

風の又三郎 1940.bmp 最初、教師が詰襟っぽい制服姿で出てきたので、時代設定を映画制作時の昭和15年に置き換えたのかと思いましたが、そうではなく原作通りでした(学校も藁ぶき屋根! 但し「分校」なのだが)。洋服の三郎少年に対し地元の子供達は着物姿であるため、映像で観るとよりその対比が際立ち、冒頭で既に三郎少年と子供達は一つになることはないような予感がしてしまいました。実際に原作も、子供達が自らのコミュニティ(「地元の子供」という1つの村社会)で結束して部外者を排除したプロセスを描いたととれなくもありません(その場合「又三郎」そのものに"魔的"な意味合いが加味される)。

 映画でも、「台風」が子供の成長の通過儀礼としての象徴的役割を果たしているように思いましたが、"魔的"な体験をくぐり抜けた(三郎少年と同学年の嘉助(星野和正)については特にそのことが言える)ことと併せて、三郎少年が去った後の子供達の「もっと一緒に遊びたかった」という言葉の中に自責の念のようなものも感じられ、その分、"大人になった"という捉え方もできるかもしれません(ある意味、訓話的。まさか、疎開してきた子とは仲良くしましょうという意味ではないと思うが-この映画は太平洋戦争勃発の前年に作られているわけだし)。

 映像技術的には、子供達が牧場で悪戯して馬群が野を駆けだすシーンは圧巻、モノクロ映画の良さが滲み風の又三郎d6.jpg風の又三郎L.jpg風の又三郎Z.jpg出ています。一方で、嘉助が霧の中で迷って昏倒した際に、三郎少年がガラスのマントを着て空を飛ぶ姿を見る場面で、「ガラスのマント」が濡れたビニールにしか見えなかったりもしますが、とにかく特撮からアニメまで駆使して頑張ってるなあという感じ。

【映画チラシ】風の又三郎島耕二注文の多い料理.jpg 最も原作と異なると感じたのは、原作は、三郎少年は「風の又三郎」だったかも知れない的な、子供達の心象に沿った捉え方も出来る終わり方をしていますが、映画では、例えば、「風を呼んでみろ」と言われた時に三郎少年がちらっと空模様を窺ったりする演出があるなど(『三国志』吉川英治版「諸葛孔明」か)、彼が「風の又三郎」ではないことをはっきりさせている点でしょうか(言わば単なる頭のいい子に過ぎない)。

 彼が2週間足らずでまた転校していたのも、その地のモリブデン(当時日本の軍用ヘルメット等の素材として需要があった)の鉱脈がさほどのものでなかったことが判明したため鉱山技師の父が次の調査地へ赴任することになったのが理由であることが教師の言葉から解り、賢治は後期作品ほどリアリズムの色彩が濃くなりますが(三郎少年のような垢抜けた子が、こんな田舎の子と接触することになる状況設定としては巧み)、映画は更に現実的(解説的)に作られていると言えるかも。

 そのことと、子供達、とりわけ嘉助が「又三郎」信奉を深めていくこととは別に描いており(最後は一郎(大泉滉)も"信奉者"に巻き込み、この部分はある意味原作に近い)、大人の鑑賞にも耐え得る作品に仕上げながら、子供の夢をも壊さないという1つの戦略かなとも思いました。

 賢治が教え子(沢里武治)に作曲を頼んだが成らなかったという「どっどどどどうど」の唄(ピアニスト・杉原泰蔵による作曲)が聴けます(NHK教育テレビ「にほんごであそぼ」の野村萬斎のとは随分違うなあ)。

風の又三郎 映画2.jpg『風の又三郎』.jpg大泉 晃.gif 三郎少年を演じた片山明彦(1926-2014/享年86)は島耕二監督の実子、子供達のリーダーで学校で唯一の6年生の一郎を演じているのは大泉滉(1925‐1998/享年73)、そのほか、嘉助の姉(原作には出てこない)役で風見章子(1921‐2016/享年95)が出演しています。

左:大泉滉(一郎)/右:片山明彦(三郎)

 1957(昭和32)年に村山新治監督、1989(平成元)年に伊藤俊也監督によりリメイク作品が撮られています。

風の又三郎y8sA.jpg神保町シアター.jpg「風の又三郎」●制作年:1940年●監督:島耕二●脚本:永見隆二/池慎太郎●撮影:相坂操一●音楽:杉原泰蔵●時間:98分●出演:片山明彦/星野和正/大泉滉/風見章子/中田弘二/北竜二/林寛/見明凡太郎/西島悌四朗/飛田喜佐夫/小泉忠/久見京子/中島利夫/南沢昌平/杉俊成/大坪政俊/河合英一/田中康子/南沢すみ子/川島笑子/美野礼子●公開:1940/10●配給:日活●最初に観た場所:神保町シアター(10-07-24)(評価:★★★☆) 神保町シアター 2007(平成19)年7月14日オープン

片山明彦

「風の又三郎 ガラスのマント」(1989年/監督:伊藤俊也)
「風の又三郎」1940年 日活.jpg風の又三郎 [VHS]500_.jpg

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「ブルジョア作家」志賀直哉にリアリズム表現を学んだ小林多喜二。

映画「小林多喜二」.png蟹工船 1929.jpg  蟹工船・党生活者 文庫旧版.jpg蟹工船、党生活者.jpg     
1929(昭和4)年9月戦旗社(ほるぷ出版・復刻版) 『蟹工船・党生活者 (新潮文庫)』 [旧版/'08年新装版]

映画「小林多喜二」 パンフレット (山本圭/中野良子)

 非正規雇用の増大とそれに伴うワーキングプア問題を背景に'08年は「『蟹工船』ブーム」の年となり、新潮文庫版だけで50万部以上のベストセラーになったとのことで、文庫出版の関係会社勤務の知人の話では、このブームのお陰で会社業績を持ち直したとか。自分も新潮文庫の新版を購入して久しぶりに読み直してみましたが、まず活字が大きくなっていることが目につき、かなり読み易くなったように思います。

 1929(昭和4)年発表の「蟹工船」は小林多喜二(1903‐1933/享年29)がプロレタリア文芸誌「戦旗」に発表したもので、カムチャッカ沖でのカニ操漁とその缶詰加工に携わる漁夫らの過酷な労働の実態および監督者に対する蜂起と挫折が描かれています。労働者のための啓蒙書、ストライキ活動(サボタージュ)のテキストのように読める面もある一方、蟹工船の航海や船内の模様が実に生き生きと描かれていてシズル感があり、その筆力は、画家を目指す漁師を描いた有島武郎の「生れ出づる悩み」('18年)や、船員経験のあった葉山嘉樹の「海に生くる人々」('26年)などのそれを凌駕しているように思いました。

志賀直哉 .jpg 小林多喜二はこの小説により発表の同年には勤務先の北海道拓殖銀行を辞め、翌'30年には不敬罪で逮捕・起訴され'31年には共産党に入党していますが、入党直後に志賀直哉(1883‐1971)の奈良の自邸を訪ね、創作の指導を仰いでいます。徳永直.png当時プロレタリア文学作家というのは結構な数がいて、「戦旗」で活躍した作家には徳永直(1899‐1958)などもいますが、今世紀になっても圧倒的に読まれ続けているのが、ブルジョア作家と言われた志賀直哉にリアリズム表現を学んだ小林多喜二であるというのが興味深いです(志賀直哉には労働者シンパだった時期があり、それが原因で資本家の父との間に確執が生じた)。

 小林多喜二は、「戦旗」の中心メンバーだった蔵原惟人(1902-1991)の「プロレタリア・レアリズム」の考えを最も忠実に具現化した作家であり、「真実」を愛する文学者は「前衛」(=共産党員)でなければならないという考え方を優等生的に実践したように思え、1932(昭和7)年発表の「党生活者」における党のための自らを犠牲にして生きる主人公は、その極致であるように思えます。

 エスピオナージ小説と似た感じでも読めるこの作品は、実際この小説の発表の翌年に小林多喜二が特高警察のスパイによって捕まり虐殺されているだけに緊迫感があり、一方で、仲間と連絡を取り合う際に"雑談"もせず事務的に事を済ますやり方に主人公が欲求不満になっているのは多喜二自身の心境だったのでしょう(もし多喜二が長生きすれば、当時の蔵原惟人の特異な思想から離れていったのではないか)。

「小林多喜二」.bmp「小林多喜二」映画1シーン.jpg  「党生活者」の内容は殆ど小林多喜二が自らが体験したことに基づくものと思われ(この小説は、多喜二が執筆過程において逮捕され虐殺死したため、前編で終わっている)、今井正(1912‐1991)監督の映画「小林多喜二」('74年/多喜二プロダクション)は、この「党生活者」をかなりの部分において参照して作られていたように思います。

映画「小林多喜二」チラシ/スチール(山本圭/中野良子)

多喜二文学碑l.jpg 小説の中では特高警察の眼を逃れるため同志の女性の家に匿って貰っていたようになっていますが、映画では、通っていた廓の薄幸の酌婦・田口タキ(当時17歳)を足抜けさせて内縁の妻にした作りとなっていて、これは実際にあったことですが、但しその頃は多喜二はまだ拓銀に勤めていたわけであり、特高警察に本格マークされる前のことと思われます。映画は、室内シーンなどにおいて、周辺の照明を抑えスポットライトを当てたような映像で、時代のムードを旨く醸し出していた佳作でしたが、映画の最後に、小林多喜二の文学碑の建立に、思想的立場の全く異なる伊藤整が尽力したことが紹介されていました(伊藤整は小樽高商(現小樽商大)の1学年後輩だった。因みに、先に述べた志賀直哉も、多喜二の文学碑建立の発起人に名を連ねている)。

「小林多喜二文学碑」(小樽市)

映画 蟹工船.jpg (尚、多喜二の生涯を描いた映画では、池田博穂監督のドキュメンタリー映画「時代(とき)を撃て・多喜二」('08年)や北海道放送のTVドキュメンタリー「いのちの記憶-小林多喜二・二十九年の人生」('08年)などがあり、また「蟹工船」そのものも、'53年に俳優の山村聡が監督している作品がある外、'09年に再度の映画化が予定されている。)

映画「蟹工船」 ポスター(山村聡:監督)
 

小林 多喜二.jpg芥川龍之介.gif 小林多喜二は1930年に上京してからは、芥川龍之介(1892‐1927)を真似した髪形にしていたそうですが(前年に東大生だった宮本顕治が芥川龍之介を批判した「敗北の文学」を発表しているのだが)、女性にはかなりモテたようで、また、普段から冗談で周囲を笑わすことの多い人柄だったとのこと、この重い雰囲気の両作品にも、随所にユーモラスな表現が見受けられます。
小林多喜二(左)/芥川龍之介(右)

小林多喜二 映画.jpg「小林多喜二」●制作年:1974年●監督:今井正●製作:伊藤武郎/内山義今井正監督「小林多喜二」.jpg重●脚本:主題歌 屍をつみかさねなば  EP .jpg勝山俊介●撮影:中尾駿一郎●音楽:いずみたく●時間:119分●出演:山本圭/中野良子/森幹太/北林谷栄/南清貴/佐藤オリエ/森居利昭/富士真奈美/津田京子/杉山とく子/寺田誠/滝田裕介/長山藍子/下絛正巳/地井武男●公開:1974/02●配給:多喜二プロダクション(評価:★★★★)
映画チラシ「小林多喜二」監督 今井正 出演 山本圭、中野良子/映画 小林多喜二 主題歌 横内正 [屍をつみかさねなば]

【1953年文庫化・2003年改版・2008年新装版[新潮文庫]/1954年再文庫化・1968年改版・2008年新装版[角川文庫]/1967年再文庫化・2003年改版[岩波文庫(『蟹工船、一九二八・三・一五』)]/1973年再文庫[講談社文庫]】

《読書MEMO》
●「蟹工船」...1929(昭和4)年 ★★★★☆
●「党生活者」...1932(昭和7)年 ★★★★

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「夫婦愛」というより「人類愛」を感じた表題作。不思議な味わいがある短編集。

聖ヨハネ病院にて (新潮文庫) 上林 暁 (1949).jpg聖ヨハネ病院にて 上林暁.jpg 『聖ヨハネ病院にて (新潮文庫)』 上林暁.jpg 上林 暁 (かんばやし・あかつき)

 上林暁(1902‐1980/享年77)の短編集で、表題作「聖ヨハネ病院にて」の他、「薔薇盗人」「天草土産」「野」「二閑人交游圖」「小便小儈」「明月記」を収録。

 1946(昭和21)年作の「聖ヨハネ病院にて」は、重度の精神病を患い入院している妻を泊まり込みで看病する夫の話で、実際に作者の妻の繁子は1939年に発病して、何度か転院した後1946年5月に38歳で亡くなっています(「聖ヨハネ会桜町病院」は、亡くなる前年の9月から11月初めまで在院した)。

 この作品を読む限り、妻が入院するまで、主人公の「僕」はそれほど妻のことをいつも気にかけていたようには思えず、また、妻が入院してからは、眼も不自由で、自分の始末も侭ならず、汚物で衣服を汚す妻に辟易している様子さえ窺え、何でもかんでも口に入れてしまう(「僕」の弁当まで食べてしまう)妻と口論になったりしています。

 一方で、そうした妻のことを小説のネタにしている自分を嘲っているような面も窺え、妻が亡くなったら書くことがなくなってしまうことを心配し、また、そうした打算的な心配をしている自分の姿勢を自己批判していたりしています。
 そうした気が滅入るような精神的下方スパイルの中で、「僕」はある日、病院で行われるミサに出席し、そこに集う精神病者らの中で疎外感のようなものを感じながらも、「自分はいかなる基督教徒よりも基督教徒的でありたい」という思いに包まれ、そのためには、もっと妻にやさしくしてあげようと思う―。

日本文学全集 31 尾崎一雄・上林暁・永井龍男.jpg 「神」に依らない信仰とでも言うか、眼も見えず、自分の始末もできない妻を「神」と看做し、それに尽くすことに自らの魂の救済を見出しているということになるのでしょうか。
 「神々しいまでの夫婦愛」を描いた作品とされるものですが、個人的には、「夫婦愛」というより「隣人愛」「人類愛」に近いものを感じました。

 上林暁は、戦前から戦後にかけて活動した作家であり、また、志賀直哉などの系譜を引く私小説家で、同時代同系統の作家では尾崎一雄(1899‐1983)、永井龍男(1904‐1990)などがいますが、『暗夜行路』を著した志賀直哉などと異なり、長編は1作も書いておらず、創作集は全て短編集、それも、その大部分は自身や家族、友人に関することがその作品のモチーフになっていて、かなり典型的な私小説家であると言えます。

日本文学全集〈31〉尾崎一雄,上林暁,永井竜男―カラー版 河出書房(1969年)

 「聖ヨハネ病院にて」は主人公の感情の浮き沈みがかなり赤裸々に吐露されていますが、他の作品はどちらかと言うと日常を淡々と描いた地味な作品が多く、読者受けよりも自分の文学的姿勢を大切にしている感じがします。

 そうした中、病いの妹のために学校の花壇から薔薇の花を盗んだ少年の話「薔薇盗人」('32年)などは寓話的なリリシズムが感じられ(この作品で川端康成の推奨を得た)、また、三島由紀夫が絶賛したという「野」('40年)には、不確定な自分の内面を見据えようとする真摯な姿勢が感じられますが、将棋などを通しての作家仲間との交遊を描いた「二閑人交游圖」('41年)には、自らを対象化した淡々とした描写の中に、明るいユーモアも感じられ、これはこれで個人的には好きな作品。

 「私小説」に対して、何となくせせこましくて面白くないものが多いというイメージがある中で、この人の作品は不思議な味わいがあり、この作品集は新潮文庫の復刻版として'93年に復刊されたものの1つでもありますが、敢えて旧字旧仮名のままであることも、味わいを深めているように思いました(「彌撒」の読み方がすぐに思い浮かばなかったが)。

《読書MEMO》
●「薔薇盗人」...1932(昭和7)年8月発表★★★★
● 「野」...1940(昭和15)年1月発表★★★☆
● 「二閑人交游圖」...1941(昭和16)年1月発表★★★★
● 「明月記」...1942(昭和17)年11月発表★★★☆
● 「聖ヨハネ病院にて」...1946(昭和21)年5月発表★★★★

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「ホラー・メルヘン」みたいな感じ。時代が違えばホラー作家になっていたかも。

セメント樽の中の手紙.jpg葉山 嘉樹 『セメント樽の中の手紙』.jpg  葉山嘉樹.jpg  セメント樽の中の手紙2.jpgセメント樽の中の手紙1.jpg
葉山嘉樹 (1894‐1945/享年51)/「DS文学全集」('07年/任天堂)
セメント樽の中の手紙 (角川文庫)』 ['08年]

 表題作は、1926(大正15)年1月にプロレタリア文芸誌「文芸戦線」に発表されたもので、「DS文学全集」('07年/任天堂)にも収められていますが、まさかこの作品が、この表題での文庫で読めるとは思いませんでした。やはり、昨今の世の中を反映して、「ワーキングプア問題」→「『蟹工船』(小林多喜二)ブーム」→「プロレタリア文学」という流れできているのか。

 愛人がセメント製造の機械に巻き込まれ、形が無くなってしまったから、その愛人はそのセメントがどこで使われるか知りたいと思い、彼の血と骨の混ざったセメントの樽に手紙を入れ、セメント樽を空けた人に連絡してくれるよう書き記す―。

 資本主義の生産機構の人間蔑視を巧みに象徴化させていますが、実際に、葉山嘉樹(1894‐1945)は、名古屋のセメント工場勤務時代に、職工が防塵室に落ちて死亡した事故を契機に労働組合の結成を図り、そのセメント会社を首になっています(1921年)。

 とは言え、こうした形で作品化されると、何となく、「ホラー・メルヘン」みたいな感じになっているような気がしないでもなく、続く「淫売婦」なども、作り話っぽさが抜けきれないように思えました。

 他に角川文庫に同録されている「労働者の居ない船」「牢獄の半日」「集浚渫船」などを読み進むにつれその傾向は強く感じられ、「死屍を食う男」などは、完全にホラー小説。中村光夫によれば、葉山嘉樹は新時代を代表する社会主義の使徒として文壇に迎えられましたが、その私生活は、どんな破滅型芸術家にも劣らぬほど「デーモニッシュ」であったとのこと(中村光夫『日本の現代小説』('68年/岩波新書))、時代が違えばホラー作家になっていたかも。

 「志賀直哉」一辺倒だった文学青年・小林多喜二が、プロレタリア文学へ大きく方向転換するほどに影響を受けた作家ですが、これに続いた多くのプロレタリア文学作家で、今もなお読まれているのが、ブルジョア作家「志賀直哉」を創作の師とした小林多喜二のみであることは皮肉なことです。

 一方の葉山嘉樹は、プロレタリア作家として小林多喜二の次に名前の挙がる作家の1人ですが、代表作と言えるのは、この「セメント樽の中の手紙」くらいしかないのでは(平野謙にその観念性を批判された長編「海に生くる人々」などもあるが)。

 「セメント樽の中の手紙」は文庫本で僅か5ページ強しかなく、国語の教科書にも収められたことがありますが、セメント樽を空けて手紙を見つけた男が、酒をあおるだけで何もアクションを起こさないところで終わっているのが却って余韻があっていいように思えます(学校でわざわざ「その時男はどう思ったのか」みたいな「読み方指導」などしない方がいいような気がする)。個人的には、抑制が効いた表題作だけ星4つで、あとの作品は星3つかな。

木版漫画 「セメント樽の中の手紙01.jpg木版漫画 「セメント樽の中の手紙02.jpg 藤宮史 版画  「木版漫画 セメント樽の中の手紙」(原作:葉山嘉樹)[黒猫堂出版]

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童話と言うよりもある種"幻想文学"。それにマッチした画調。いわさきちひろの影響も?

赤い蝋燭と人魚.jpg 『赤い蝋燭と人魚』 (2002/01 偕成社) 赤い蝋燭と人魚2.jpg
赤い蝋燭と人魚』天佑社1921(大正10)年刊の複製
赤い蝋燭と人魚 天佑社1921(大正10)年刊の複製.jpg 2002(平成14)年刊行で、1921(大正10)年発表の小川未明(1882‐1961)の代表作『赤い蝋燭と人魚』に、絵本作家の酒井駒子氏が絵を画いたもの。

 この作品は、個人的には童話と言うよりもある種"幻想文学"に近い作品だと思うのですが、最初は「東京朝日新聞」に連載され、挿画は朝日の漫画記者だった岡本一平(岡本太郎の父)が担当したとのこと、どんな挿絵だったのか知り得ませんが、当初から文も絵も「大人のための童話」として描かれたということでしょうか。

 物語は、ある町に老夫婦がいて、そこに異世界からの訪問者(この場合は人魚の赤子)が来る、その結果その町に起きた出来事とは―という、未明童話の典型とも言えるストーリー。
 老夫婦は人魚の子を神からの授かりと考え自分たちの娘のように育てるが、娘が描いた絵のついた蝋燭が非常に売れたため、とうとう金に目が眩み、人魚を珍獣のような扱いで香具師に売り飛ばしてしまう。
 娘を人間界に託したつもりだった母親の人魚は、人間に裏切られた思いでその蝋燭を買い取り、そして町に対し――という復讐譚ともとれるものです。

「赤い蝋燭と人魚」.jpg これまでに多くの画家や絵本作家がこの作品を絵本化しており、いわさきちひろ(1918‐1974)によるもの('75年/童心社)はモノクロで、絵というより挿画かデッサンに近いですが、がんに冒されていた彼女の未完の遺作となった作品でもあり、また最近では、たかしたかこ(高志孝子)氏によるもの('99年/偕成社)などの人気が高いようです。

いわさき ちひろ 『赤い蝋燭と人魚』 (1975年)

 画風の違いはそれぞれありますが、酒井駒子氏も含めたこの3人に共通するのは、母子の愛情の繋がりを描いた作品群があることで、子を想う母親の気持ちの強さがモチーフの1つとなっているこの作品を絵にするうえでピッタリかも。
 ただ、この作品に漂う寂寥感や不気味さの部分を表すうえでは、ミステリーの表紙画などを手掛けている酒井氏の画風が(最近の『三番目の魔女』や『魂食らい』のカバー絵などを見てもそうですが)、一番合っているのではないかと。                   
 酒井駒子氏のこうした翳りのあるバージョンの絵は(特に人魚の娘の表情などは)いわさきちひろの影響を受けているようにも思え(絶筆となったこの物語の絵本化を、酒井氏が引き継いだようにも思える)、やはりいわさきちひろの影響というのは絵本の世界ではかなり大きいのではないかと思いました。

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切ないがファンタジックでもあるストーリーの雰囲気をよく醸している絵。

ごんぎつね.jpg 『ごんぎつね (日本の童話名作選)』 新美南吉.jpg 新美南吉(1913-1943/享年29)

 1986(昭和61)年の刊行で、1932(昭和7)年1月号の「赤い鳥」に新美南吉(1913‐1943)が発表した彼の代表作「ごん狐」に、イラストレーターの黒井健氏が絵を画いたものですが、刊行来50万部以上売れているロングセラーであり、DVD化もされています(DVDの語りは大滝秀治)。

 近年の派手な色使いが多い絵本の中では珍しく柔らかなタッチであり、また、人物や"ごん"を遠景として描く手法は、哀しく切ないけれどもファンタジックな要素もあるこのお話の雰囲気をよく醸し出しています。
 黒井氏は「ごんぎつね」の他に南吉のもう1つの代表作「てぶくろをかいに」も絵本化を手掛けていますが、こちらも原作の世界を違和感なく表しており、南吉の作品は多くの絵本作家にとって手掛けてみたいものであると思われますが、なかなか黒井氏のものに拮抗する絵本は出にくいのではないかとさえ思わせます。

「ごんぎつね」の直筆原稿.jpg 原作「権狐」は、南吉18歳の時の投稿作品で、「赤い鳥」創刊者の鈴木三重吉の目にとまり、同誌に掲載されましたが(因みに三重吉は、同誌に投稿された宮沢賢治の作品は全く認めず、全てボツにした)、この三重吉という人、他人の原稿を雑誌掲載前にどんどん勝手に手直しすることで有名だったようです。

 「ごんぎつね」直筆原稿

 この作品は、三重吉によって先ず、タイトルの表記を「ごん狐」と改められ、例えば、冒頭の
 「これは、私が小さいときに、村の茂平といふおぢいさんからきいたお話です」(絵本では新かな使い)とあるのは、元々は―、
 「茂助と云ふお爺さんが、私達の小さかつた時、村にゐました。「茂助爺」と私達は呼んでゐました。茂助爺は、年とつてゐて、仕事が出来ないから子守ばかりしてゐました。若衆倉の前の日溜で、私達はよく茂助爺と遊びました。私はもう茂助爺の顔を覚えてゐません。唯、茂助爺が、夏みかんの皮をむく時の手の大きかつた事だけ覚えてゐます。茂助爺は、若い時、猟師だつたさうです。私が、次にお話するのは、私が小さかつた時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです」
 という長いものだったのを、彼が手直したそうです(随分スッキリさせたものだ)。

「ごんぎつね」の殿様 中山家と新美南吉.jpg 東京外国語学校英文科に学び、その後女学校の教師などをしていた南吉は29歳で夭逝しますが、生涯に3度の恋をしたことが知られており、最後の恋の相手が、先ほどの冒頭文に続く「むかしは、私たちの村のちかくの、中山といふところに小さなお城があつて、中山さまといふおとのさまが、をられたさうです」とある「中山家」の六女ちゑだったとのこと。
 中山家とは家族ぐるみの付き合いがあり、彼の童話の多くは中山家の長老が語る民話がベースになっているとの説もありますが、結局、ちゑとは結婚に至らなかったのは、自分の余命を悟って創作に専念したかったのではないかと、自分は勝手に想像しています。

新美南吉記念館(愛知県半田市)特別展ポスター(2006年7月-9月)
 
 
 

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宮沢賢治の集大成であり、読めば読むほど謎に満ちた作品。

銀河鉄道の夜  s16 新潮社.jpg銀河鉄道の夜 童話集 他十四編.jpg  新編 銀河鉄道の夜.jpg 新編銀河鉄道の夜 (新潮文庫).jpg
童話集 銀河鉄道の夜』岩波文庫/『新編銀河鉄道の夜』新潮文庫 [旧版/2009年限定カバー版]

『銀河鉄道の夜』1941(昭和16)年新潮社

オーディオブック(CD) 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」.png 1924(大正13)年頃に初稿が成ったされる宮沢賢治(1896‐1933)の「銀河鉄道の夜」は、37歳で亡くなった彼の晩年まで改稿が重ねられ、完成までに10年位かかっていることになります("生前未発表"のため、これで完成しているのかどうかもよくわからないという)。
 最後(第4稿)の頃には既に病臥と一時回復を繰り返す生活だったわけですが、研ぎ澄まされた感性、みずみずしい叙情、達観した宗教観が窺える一方、現実と幻想の巧妙なバランスと融合ぶり(完全な幻想物語だった初稿に比べ、最終稿は「授業」「活版所」など"現実"部分の比重が大きくなった)や、幅広い自然科学の事象の表象的用い方などに理知的なものが感じられ、賢治の集大成と呼ぶにふさわしい作品だと思います。
アイオーディオブック(CD) 「銀河鉄道の夜」

 カムパネルラとジョバンニのシンクロニティ(共時性)がモチーフになっていますが、再読してみると、タイタニック号を思わせる乗客の話から、列車がどういう人を乗せているのかがその時点で察せられ、また、人々の宗教の違いを表している部分があるなど、いろいろと再認識することもありました。
 一方ラストの、息子を今亡くしたばかりのカムパネルラの父が、ジョバンニにかけた言葉の内容など、テーマに深く関わると思われる謎から、ジョバンニの父親の本当の仕事は何かとか、カムパネルラが自らを犠牲にして助けたザネリという子は男の子なのか女の子なのかといったトリビアルな謎まで、新たな謎も浮かんできます。

銀河鉄道の夜 藤城.jpg         銀河鉄道の夜 (大型本).jpg               銀河鉄道の夜 田原.jpg 
藤城清治/影絵と文       東逸子/絵                     田原田鶴子/絵
銀河鉄道の夜 藤城清治.jpg  銀河鉄道の夜 東逸子.jpg  銀河鉄道の夜 田原田鶴子.jpg

 絵本化したものでは、影絵作家の藤城清治氏のもの('82年/講談社)が、文章を小さな子にも読み聞かせできるようにうまくまとめていて、絵の方もさすがという感じ、ただし、完全に"藤城ワールド"という印象も(評価 ★★★☆)。
 原文を生かしたまま絵を入れたものでは、東逸子氏の挿画のもの('93年/くもん出版)がいいかなあという感じで、人物はやや少女マンガみたいだけれど、透明感のある背景は素晴らしい(評価 ★★★★)。
 田原田鶴子氏の油彩画によるもの('00年/偕成社)も美しいし、何と言っても挿入画の点数が多いのが嬉しいですが、一方で、ここまでリアルに描かれると、やはり自分の当初のイメージとはいろいろな点でズレがあるような感じも受けなくもなかったです(評価 ★★★☆)。

 【1951年文庫化・1966年文庫改訂[岩波文庫(『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』)]/1971年再文庫化[講談社文庫(『銀河鉄道の夜、風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編』)]/1981年再文庫化[旺文社文庫]/1982年再文庫化[ポプラ社文庫]/1985年再文庫化[偕成社文庫]/1989年再文庫化[新潮文庫(『新編銀河鉄道の夜』)]/1990年再文庫化[集英社文庫]/1996年再文庫化[角川文庫]/1996年再文庫化[扶桑社文庫]/2000年再文庫化[岩波児童文庫]など】

《読書MEMO》
●「銀河鉄道の夜」...1922(大正11)年頃〜1932(昭和7)年頃執筆

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豊かな知識に裏打ちされながらも、知に走ることなく読者をキッチリ堪能させる。

李陵・山月記.jpg 『李陵・山月記 (新潮文庫)』  Nakajima_Atsushi.jpg 中島 敦 (1909-1942/享年33)
(表紙版画:原田維夫)

 1943(昭和18)年発表の「李陵」は、中島敦(1909‐1942)のおそらく最後の作品と思われるもので(「李陵」というタイトルは、作者の死後、遺稿を受け取った深田久弥が最も無難な題名を選び命名したもの)、前漢・武帝の時代に匈奴と戦って敗れ虜囚となった李陵と、李陵を弁護して武帝の怒りを買い宮刑に処せられるも「史記」の編纂に情熱を注いだ司馬遷の生涯を併せて描いていて、淡々とした筆致の際にも、運命に翻弄された両者への作者の思い入れが切々と滲み出る作品です。

 とりわけ李陵について、同じく匈奴に囚われながらも祖国への忠節を貫いた武人・蘇武との対比において、最初は単于(匈奴の王)からの仕官の誘いを拒みつつも、誤報により祖国で裏切り者扱いにされて家族を殺され、やがて単于の娘を娶り左賢王となる彼の、蘇武のような傑人になれない自己に対する鬱屈が痛々しく、大方の人はこうした過酷な状況では蘇武のように生きるのは難しく、李陵のように中途半端な生き方をせざるを得ないのだろうけれど、これも紛れのない1つの人生なのだろうなあと思いました。

キャット・ピープル.jpg変身.jpg 「山月記」は多分作者の最も有名な小説で、文体に無駄が無く美麗であることもあって国語教科書などでもよく採り上げられていますが、結構モチーフとしては幻想譚という感じで、作者はカフカの「変身」などを既に読んでいたそうですが、個人的には映画「キャットピープル」(リメイク版)などを思い出したりしました(詩人・李徴がトラに変身するところなどの描写は、簡潔だが生き生きしている)。

 「弟子」は孔子と子路の交わりを人間臭く描いていて、一方「名人伝」も中国の古譚に材を得た作品ですが、名人同士が矢を放ってひじりがぶつかり合うなど、ここまでくるともうアニメの世界さえ超えている感じで(「HERO」('02年/中国・香港)など最近の特撮チャイニーズ・アクション映画みたい)、結末も含め少し笑えます。

山月記・弟子・李陵ほか三編 講談社文庫 .jpg 新潮文庫版にはありませんが、この人には「文字禍」や「木乃伊」といった古代エジプトやアッシリアに材を得た作品もあり、特に「木乃伊」(かつて講談社文庫版(『山月記・弟子・李陵ほか三編』)で読んだが絶版になり、その後ちくま文庫版(「ちくま日本の文12」)などに所収)は、前世の自分のミイラと遭遇してそのミイラの生きていた時に転生し、さらにそれがまた前世の自分のミイラと遭遇し...というタイムトラベルSFみたいな話で、面白かったです。

 豊かな知識に裏打ちされながらも、知に走ることなく読者をキッチリ堪能させる作品群であり、もっと長生きして欲しかったなあ、ホントに。

李陵・山月記 弟子・名人伝.jpg李陵・弟子・名人伝 .jpg 【1952年文庫化[角川文庫(『李陵・弟子・名人伝』)]/1967年再文庫化・1989年改版[旺文社文庫(『李陵・弟子・山月記』)]/1968年再文庫化[角川文庫(『李陵・山月記・弟子・名人伝』)]/1969年再文庫化[新潮文庫(『李陵・山月記』)]/1973年再文庫化[講談社文庫(『山月記・弟子・李陵ほか三編』)]/1993年再文庫化[集英社文庫(『山月記・李陵』)]/1994年再文庫化[岩波文庫(『李陵・山月記 他九篇』)]/1995年再文庫化・1999年改版[角川文庫(『李陵・山月記・弟子・名人伝』)]/2000年再文庫化[小学館文庫(『李陵・山月記』)]/2012年再文庫化[ハルキ文庫(『李陵・山月記』)]】

《読書MEMO》
●「山月記」「名人伝」...1942(昭和17)年発表
●「弟子」「李陵」...1943(昭和18)年発表

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迷宮「玉の井」を三重構造で描くことで、作品自体を迷宮化している。

ぼく東綺譚.jpg 濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)_.jpg 東綺譚.jpg 「墨東綺譚」の挿画(木村荘八).jpg
ぼく東綺譚 (新潮文庫)』『濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)』『墨東綺譚 (角川文庫)』朝日新聞連載の『濹東綺譚』の挿画(木村荘八)

『濹東綺譚』1937 2.jpg濹東綺譚(ぼくとうきだん) 永井荷風.jpg 1937(昭和12)年に発表された永井荷風(1879‐1959)58歳の頃の作品で(朝日新聞連載)、向島玉の井の私娼街に取材に行った58歳の作家〈わたくし〉大江匡と、26歳の娼婦・お雪の出会いから別れまでの短い期間の出来事を描いています。

永井荷風『濹東綺譚』昭和12年初版(装幀:永井荷風/挿画:木村荘八)

永井 荷風.gif 昭和初期の下町情緒たっぷりで、浅草から向島まで散策する主人公を(よく歩く!)、地図で追いながら読むのもいいですが(「吉原」ではなく「玉の井」だから「濹東」)、「玉の井」と名のつくものが地図上から殆ど抹消されているためわかりにくいかも知れません。でも、土地勘が無くとも、流麗な筆致の描写を通して、梅雨から秋にかけての江戸名残りの季節風物が堪能できます。

永井荷風

映画濹東綺譚.jpg 〈わたくし〉は、種田という男を主人公に玉の井を舞台にした小説を書いているところという設定なっていて、その小説が劇中劇のような形で進行していき、では〈わたくし〉=〈作者(荷風)〉かと言うと必ずしもそうではなく、時に〈わたくし〉が小説論を述べたかと思うと、今度は〈作者〉が小説論的注釈をしたりと、〈作者(荷風)〉―〈わたくし(大江)〉―〈書きかけ小説の主人公(種田)〉という凝った三重構造になっており、加えて、文末に「作者贅言(ぜいげん)」というエッセイ風の文章(「贅言」の「贅」は贅肉の贅であり、要するに作者の無駄口という意味なのだが、辛映画濹東綺譚 (2).jpg辣な社会批評となっている)が付いているからややこしいと言えばややこしいかもしれません(「〈わたくし(大江)」としたが、大江が驟雨がきっかけで偶然お雪と知り合ったという設定にコメントしている「わたくし」は明らかに永井荷風自身ではないか)。

濹東綺譚 映画49.jpg '60年に豊田四郎監督、山本富士子、芥川比呂志主演で、'92年に新藤兼人監督、墨田ユキ、津川雅彦出演で映画化されていますが、新藤兼人監督作では、そうしたややこしさもあってか、津川雅彦演じる〈主人公〉を〈荷風〉そのものにしてしまっています。

映画「濹東綺譚」(1992)監督:新藤兼人/主演:墨田ユキ・津川雅彦

 荷風は外国語学校除籍という学歴しか無かったものの慶應義塾大学の教授を務めたりして、素養的にはインテリですが、この小説では衒学的記述は少なく、むしろ「玉の井」をラビラント(迷宮)として描くと同時に小説の構成も迷宮的にしているというアナロジイに、独特のインテリジェンスを感じます。

 高級官僚の子に生まれながらドロップアウトし、外遊先でも娼館に通ったというのも面白いですが、この"色街小説"は日華事変の年に新聞連載しているわけで、私小説批判で知られた中村光夫も、一見単なる私小説にも見えるこの作品を、「時勢の勢いに対する痛烈な批判者の立場を終始くずさぬ作者の姿勢が、圧政のなかで口を封じられた知識階級の読者に、一脈の清涼感を与えた」と評価しています。「作者贅言」では、そうした全体主義的ムードを批判する反骨精神とともに、「玉の井」への〈江戸風情〉的愛着と急変する「銀座」界隈への文化的失望が直接的に表わされています。

偏奇館.jpg 作品中に、前年廃止された京成白髭線の玉ノ井駅の記述がありますが、「玉の井」も今はほとんどその痕跡がありません。また、荷風が中年期を過ごした麻布の家(『断腸亭日乗』に出てくる偏奇館)も、現在の地下鉄「六本木一丁目」駅前の「泉ガーデンタワー」裏手に当たり、当然のことながら家跡どころか当時の街の面影もまったくありません(一応、こじんまりとした石碑はある)。

濹東綺譚 岩波文庫 挿画16.jpg濹東綺譚 岩波文庫 挿画6.jpg 因みに、この作品は個人的には今回「新潮文庫」版で読み返しましたが、木村荘八の挿画が50葉以上掲載されている「岩波文庫」版が改版されて読み易くなったので、そちらがお奨めです。

挿画:木村荘八
  

濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫) 200_.jpg墨東綺譚 (角川文庫)0_.jpgぼく東綺譚 新潮文庫.jpg 【1947年文庫化・1991年改版[岩波文庫]/1951年再文庫化・1978年改版[新潮文庫]/1959年再文庫化・1992年改版[角川文庫]/1977年再文庫化[旺文社文庫(『濹東綺譚・ひかげの花』)]/1991年・2001年復刻版[岩波書店]/2009年再文庫化年改版[角川文庫]】
ぼく東綺譚 (新潮文庫)』(新カバー版)
墨東綺譚 (角川文庫)』(新解説・新装版)
濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)』(木村荘八挿画入り)

《読書MEMO》
●「濹東綺譚」...1937(昭和12)年発表

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自らの幼年期が、子どもの目線、子どものみが持つ感覚で描かれている不思議な作品。

銀の匙 岩波文庫2.jpg銀の匙.jpg 銀の匙w.jpg 銀の匙2.jpg銀の匙 角川文庫 新版.jpg 中勘助.jpg 中 勘助 
銀の匙 (岩波文庫)』/『銀の匙 (ワイド版岩波文庫)』/『銀の匙 (角川文庫)』(旧カバー・新カバー)

銀の匙 中勘助 岩波書店 大正15年 初版.jpg 1911(明治44)年に前編が書かれた「銀の匙」は(後編が書かれたのは1913年)、それまで詩作などを中心に創作活動をしていた中勘助(1985‐1965)が、一高・東大時代の師である夏目漱石に勧められて20代半ばで初めて書いた散文であり、書斎の引き出しの小箱の中にしまった銀の小匙にまつわる思い出から始まるこの自伝的作品は漱石に絶賛され、その推挙により、前編は1913年、後編は1915年に朝日新聞に連載されました。

『銀の匙』 中勘助 岩波書店 1926(大正15)年 初版

 文章が凛然として美しく、子どもの世界を子どもの目線で活写しています。まぎれもなく大人の書いた文章ですが、時にぶっきらぼうとも思える終わり方などもしていて、子どもの日記を読んでいるような錯覚、とまでいかなくとも、それに近い感覚に陥りました。

 病弱・気弱な伯母さんっ子として育った幼年期の思い出の数々が、目の前で起きている出来事のように再現され、そこに滲むセンシビリティも子どものみが持つものであり、一方で、大人になった作者によってノスタルジックに「美化された過去」というものも感じますが、その美しさがまた読み手の共感をそそり、一体どこまで計算されて書かれているのか、不思議というか、"怪しさ"さえ覚えました。

 心理学の仮説では、〈幼児期の記憶〉は思春期に入ると急速に忘れ去られるが、実は深層心理にしっかり残っていて、大人になっても消えていないという考えがありますが、作者は、思春期以降も意識から無意識へと消え去ろうとする記憶を何度も抽出・反復していたのではないかと思われ、これは、病弱な幼年期を送った人に特徴的なことではないか。

 今でいう小学校低学年ぐらいの頃の出来事がとりわけ生き生きと、みずみずしく描かれていてます。
 ただし、思春期に入る頃から結構この人、気力・体力とも充実してきたようで、1913(大正2)年から書かれた後編では、子どもながらに立派な反戦少年に(日清戦争だから古い話だが)なっていて、軍国思想に染まりながらエリートコースを歩む兄と訣別する―、そして伯母との再会。

 漱石は、後編は前編に比して更に良いと褒めたようですが、やはり、後編の「物語」っぽいつくりや立派に振舞いすぎる少年像よりも、それとは違った意味で"創作の怪しさ"が感じられる前編の方がいいです。

 因みに、中勘助の初恋の相手は同い年の野上弥生子だったとされていますが、富岡多恵子の『中勘助の恋』('93年/創元社、'00年/平凡社ライブラリー)によると、モテ男だった彼は、野上彌生子をはじめ多くの女性からプロポーズされたがその全てを断り、友人の娘(幼女)たちに恋着、幼女らにラブレターを書き、大きくなったら結婚しようと言って膝に乗せ頬にキスする一方、陰で彼女らを「ぼくのペット」と呼んでいたそうな(人は見かけによらない...)。

銀の匙 1926.jpg銀の匙 1926-2.jpg 【1926年単行本[岩波書店]/1935年文庫化・1962年・1999年改版[岩波文庫]/1988年再文庫化[角川文庫]/1992年再文庫化〔ちくま日本文学全集〕/2012年再文庫化[小学館文庫]】

《読書MEMO》
●「銀の匙」...1911(明治44)年前編発表、1913(大正2)‐1914(大正3)年後編「朝日新聞」連載

銀の匙

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卓越した繊細な感性。「檸檬」もいいが、湯ヶ島時代の作品「冬の蝿」がよりいい。
梶井 基次郎 『檸檬』 武蔵野書院 1931.jpg
檸檬.jpg 檸檬2.jpg 檸檬・冬の日.jpg 檸檬 アイ文庫オーディオブック.jpg  梶井 基次郎.jpg 
檸檬』新潮文庫〔旧版/新版〕/岩波文庫/アイ文庫オーディオブック「檸檬」/梶井基次郎(1901-32/享年31)
梶井 基次郎 『檸檬』 武蔵野書院(1931年5月)[復刻版]

 1925(大正14)年に発表された梶井基次郎(1901‐1932)の「檸檬」は、「えたいの知れない不吉な塊りが私の心を終始圧えつけていた」という書き出しの通り、既に独特のタナトスの影を落としていて、以降の作品にも、芥川の晩年の作品「歯車」のような暗いムードが漂っています。

 しかし「檸檬」は、鮮烈な描写と想像力、そしてラストの何か吹っ切った感じが明るく、その点が、彼の命日を"檸檬忌"と呼ぶほどに親しまれる作品である理由ではないでしょうか(吉行淳之介は梶井の小説を評価しながらも、本作の題は「檸檬」よりも「レモン」の方が良いと書いている)。

梶井基次郎「檸檬」1.jpg この作品の"レモン"のイメージは頭から離れません。但し、今までレモンを直接本の上に置いたイメージがありましたが(いくつかの文庫の表紙デザインもそのようになっている)、今回読み直してみて、ちょうど作者がレモンをテニスボールに見立てているように、テニスボールケースのような円筒状の容器に入れて、乱雑に積み重ねた本の上にそれを立てるように置いたというのが、正しかった...。
TBS 2010年2月17日放映 「BUNGO-日本文学シネマ」 梶井基次郎「檸檬」(主演:佐藤隆太)

 更に、「私」が入った本屋は、設定上、洋書・輸入雑貨も多く扱う「丸善」でなければならなかったのだろうけれど、自分は「日本橋の丸善」だと長く記憶違いしてて、正しくは「京都河原町の丸善」だったわけで(この河原町店は'05年に閉店したとのこと)、読み直していろいろ気づいた点がありました。

 梶井基次郎は知られている通りの"ゴリラ顔"ですが、外見に似合わず?小さい頃から病弱で、作品に見られる近代文学の中でも卓越した繊細な感性は、そうしたところからも来るものだと思います。
 ただし、若い彼の京都時代の生活はかなりの無頼ぶりで、自らの神経を尖鋭化するためにわざと不健康で退廃的な生活に向かったように思え、実際、肺をこじらせて東大英文科を中退し、川端康成がいた天城湯ヶ島温泉へ転地しています。

 新潮文庫版は執筆順に20の短篇を収めていますが、後半の湯ヶ島時代の作品はその清澄さを増している印象があり、評価の高い「冬の日」や、浪漫主義の香りがする「桜の樹の下には」もさることながら、「冬の蝿とは何か?」で始まる「冬の蝿」が個人的には良く感じられ、志賀直哉の「城の崎にて」と("湯治文学"?同士)読み比べると興味深いです。

 晩年近い作品である「愛撫」「交尾」に猫が出てきますが、川端康成の小動物を描いた短篇を思い出しました(梶井の方が、描写が理科系っぽいけれど)。
 最後の「のん気な患者」は、ブラック・ユーモア風でもありますが、作者自身が現実に死と直面しているため、"ブラック"が"ユーモア"を凌駕している感じがします。

『檸檬』 (新潮文庫) 梶井 基次郎.jpg 【1954年文庫化[岩波文庫(『檸檬、冬の日 他9篇』)]/1967年文庫改版・1985年改版[新潮文庫]/1972年再文庫化[旺文社文庫(『檸檬・ある心の風景 他』)]/1986年再文庫化[ちくま文庫(『檸檬-梶井基次郎全集 全1巻』)]/1989年再文庫化[角川文庫(『檸檬・城のある町にて』)]/1991年再文庫化[集英社文庫]/2011年再文庫化[280円文庫(ハルキ文庫)]/2013年再文庫化[角川文庫(『檸檬』)]】

檸檬 (新潮文庫)

《読書MEMO》
●「檸檬」...1924(大正13)年執筆、 1925(大正14)年発表 ★★★★☆「えたいの知れない不吉な塊りが私の心を終始圧えつけていた」
●「冬の日」...1927(昭和2)年執筆 ★★★★「季節は冬至に間もなかった」
●「桜の樹の下には」...1927(昭和2)年執筆 ★★★★「桜の樹の下には屍体が眠っている!」
●「冬の蝿」...1928(昭和3)年執筆 ★★★★☆「冬の蝿とは何か?」
●「愛撫」...1930(昭和5)年執筆 ★★★★「猫の耳というものはまことに可笑しなものである」
●「のん気な患者」...1931(昭和6)年執筆 ★★★★「吉田は肺が悪い」

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たった4ページの掌編「金の輪」の美しさと情感に見る、作者の亡き子への思い。
日本幻想文学集成13・小川未明.jpg     小川未明童話集.jpg     小川未明童話集 (岩波文庫)200_.jpg
小川未明 初夏の空で笑う女 (日本幻想文学集成)』['92年]/『小川未明童話集 (新潮文庫)』['51年初版/'81年改版]/『小川未明童話集 (岩波文庫)』['96年]

 1919(大正8)年発表の小川未明(1882‐1961)の僅か4ページの掌編「金の輪」は、実に不思議な印象を残す作品です。

 長く病に臥していた太郎は、ようやく床を出られるようになったが、友達もおらず、1人しょんぼり家先に立っていた。太郎はある日、往来を2つの「金の輪」を重ねて転がして遊ぶ見知らぬ少年を見かけ、少年は太郎の方を見て微笑む。次の日もまた同じ「金の輪」を転がす少年を見かけ、彼はまた太郎を見て懐かしそうに微笑む。太郎はその夜、少年と友達になり「金の輪」を1つ分けてもらって、いつまでも一緒にそれを転がして遊ぶ夢を見る。そして結末1行―。その唐突さにも関わらず、なぜか心に滲みる美しさと郷愁にも似た情感を漂わせた作品です。

子どもの宇宙.jpg 心理学者の河合隼雄氏は、7歳の死は薄幸だが、一方で死は太郎にとって素晴らしいものであり、太郎の7歳の死は、他人の70歳の死に匹敵する重みを持つと『子どもの宇宙』('87年/岩波新書)の中で書いています。しかし自分としては、この作品は、作者の亡くなったわが子へのレクイエムのように思われ、生き残った側の切ない思い入れが「創作」に昇華したものであると感じずにはおれません。

小川 未明 (おがわ みめい) 1982-1961.jpg 小川未明(1882‐1961)は20代終わりから30代の時だけ旺盛な創作活動をし、昭和以降ほとんど新作は発表せず、児童文学界の重鎮的存在で在りながら、過去の作品群の作風を"子ども向けのヒューマニズム"と揶揄された時期もあります(宮沢賢治作品が「大人の童話」と言われるのと対照的に)。

 本書には、代表作「赤いろうそくと人魚」など20数編が収められていますが、海の向こうから来た漂泊者を村人が冷たくあしらったところ、村が廃れてしまうというようなパターンのお話が幾つかあり、勧善懲悪と言えば勧善懲悪、しかしその"懲悪"の度合いは、童話の教育的効果としては異質であり、怨念的であったり神話的であったりします。

小川 未明 (1982-1961/享年79)

 しかし本全集のように、幻想文学という切り口でその作品を捉えると(この全集には、童話作家ではもう1人宮沢賢治も入っているが)、この人の作品の場合よりシックリくるような気がします。

【「光の輪」は『小川未明童話集』('51年/新潮文庫)、『小川未明童話集』('96年/岩波文庫)のほか以下などにも所収】

未明童話-心の芽そのほか.jpg 新日本少年少女文学全集16-小川未明集.jpg 小川未明童話集2.jpg 小川未明童話集 心に残るロングセラー名作10話.jpg
【『未明童話-心の芽そのほか』 文寿堂出版 ['48年]/『新日本少年少女文学全集16-小川未明集』 ポプラ社 ['65年]/『小川未明童話集』 旺文社文庫 ['74年]/『小川未明童話集―心に残るロングセラー名作10話』 世界文化社 ['04年]】

《読書MEMO》
●「金の輪」...1919(大正8)年発表 ★★★★☆

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「夢十夜」の系譜を引くアンソロジー。面白さで言えば「件(くだん)」が一番。

冥土(福武文庫).jpg 『冥途 (福武文庫)』 冥途・旅順入城式.jpg 『冥途・旅順入城式 (岩波文庫)』 冥途.jpg冥途』 〔'02年/パロル舎/画:金井田 英津子〕

『冥途』 三笠書房版 ['34年初版]/ 『冥途』 芝書店版 ['49年初版]
内田 百閒.jpg冥途 三笠書房.jpg内田百閒『冥途』 昭和24年10月 芝書店.jpg 1921(大正10)年発表、翌年単行本刊行の『冥途』は、内田百閒(1989‐1971)が最初に発表したアンソロジーで、「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」など16篇の短篇からなりますが(福武文庫版は18篇所収)、何れも作者自身の見た夢をモチーフにしたと思われ、師匠であった漱石の「夢十夜」の系譜を引くものです。
 自分が読んだ福武文庫版('94年)は現在は絶版となり、短篇集2集を収めた岩波文庫版(『冥途・旅順入城式』('90年))の前半部分が福武文庫版と同じラインアップとなっています。

 表題作の「冥途」は、ビードロの記憶に託されたノスタルジックな抒情が良かったですが、面白さで言えば「件(くだん)」が一番だと思いました。
 牛に似た化け物「件」に変身してしまった「私」は、人々に予言をした後3日後に死ぬ運命にあるという―、これはカフカかと思わせるような不条理な設定ですが、村人にせっつかれても肝心の予言が思い浮かばないといところから、土俗民話的な雰囲気にユーモアと哀感の入り混じったものになっていきます。

 こうしたシュールな雰囲気がわりと楽しく、自分が江戸時代の戯作者・山東京伝の書生になっていて、そこへ訪れた客の姿が蟻だったとか(「山東京伝」)、自分の先生が馬の鍼灸師で、先生の弟が実は馬だったとかとか(「尽頭子」)、そういうかなりスラップスティックなものもあれば、女の子が老婆になる話(「柳藻」)や狐に化かされる話(「短夜」)など、怪談として十分に完結しているものもあり、「創作」の入れ方の度合いが作品ごとに異なる気もしました。

 多分、夢を「正確に」書き写すという行為の中に、イメージの断片を繋ぎ合わせていくうえで否応無く「創作」的要素が入るということを作者はよくわかっていて、そうなれば夢を書き写すという行為そのものが創作となるわけで、どこまで「創作」を入れるかというその辺りの線引きに厳密さは求めず、夢で得た鮮烈なイメージを損なわないまま言葉にどう置き換えるかといことに専念したのでは。
 夢が深層心理の表れであるとしても、そこから一義的に意味が読めてしまうような内容にはしたくないという方針だったのではないかという気がするですが、どうなのでしょうか。

 【1939年文庫化[新潮文庫(『冥途・旅順入城式』)]/1981年再文庫化[旺文社文庫(『冥途・旅順入城式』)]/1990年再文庫化[岩波文庫(『冥途・旅順入城式』)]/1991年再文庫化[ちくま文庫(『ちくま日本文学全集』)]/1994年再文庫化[福武文庫(『冥途』)]/2002年再文庫化[ちくま文庫(『冥途』)]

《読書MEMO》
●「冥途」「山東京伝」「花火」「件」「土手」「豹」...1921(大正10)年発表(翌年、単行本)

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「小さき者へ」がいい。作家自身よりも残された者の方が逞しかった気もする。

小さき者へ・生まれいずる悩み.jpg小さき者へ・生れ出ずる悩み2.jpg 小さき者へ・生れ出づる悩み.jpg 小さき者へ.jpg 有島 武郎.jpg 有島武郎(1878‐1923)
小さき者へ・生れ出ずる悩み (岩波文庫)』(旧版・新版)/『小さき者へ・生れ出づる悩み』新潮文庫/アイ文庫オーディオブック「小さき者へ」

 1918(大正7)年に発表された有島武郎(1878‐1923)の「小さき者へ」は、母親(つまり有島の妻)を結核により失った幼い3人のわが子らへの作者の手紙の形式をとっていて、「お前たちは見るに痛ましい人生の芽生えだ」としながらも、「前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ、恐れない者の前に道は開ける。行け。勇んで。小さきものよ」という結語は力強いものです。
 亡くなった母親の子どもたちへの愛情が、作家の抑制の効いた(よく読むとセンチメンタリズムとリアリズムが混ざっている)文章を通してひしひしと伝わってくる一方で、より不幸な死に方をした知人の死をも想えとするところに、作者らしさを感じます。

中等新国語3.jpg 同年発表の「生れ出ずる悩み」は、画家を志す青年が「私」を訪ねてくる冒頭の部分が国語教科書などでよくとりあげられているほど、吟味された美しい文章です(昭和40年代から50年代にかけて、光村図書出版の『中等新国語』、つまり中学の「国語」の教科書(中学3年生用)に使用されていた)。

 高級官僚の子に生まれながら小説家を志した自身を、労働と芸術の狭間で苦悶する青年に投影しているのが感じられる一方で、個人的には、漁師である青年のような生粋の労働者になりえない自分と対比するあまり、青年を物語の中で美化しすぎている気もし、危うささえ感じます。

 文学的には「生れ出ずる悩み」の方が評価は高い? 対し「小さき者へ」は、文庫本で15ページ程の掌編で、かつ「これって文学なの」みたいな感想もあるかと思いますが、個人的には、センチメンタリズムの中にも、わが子を一人前の人格として見る凛とした個人主義の精神が窺えて好きな作品です(なかなか、こんな親にはなれないが)。
 
 有島は、志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、また自らの農場を開放するなどの活動もしますが、後にそうした活動にも創作にも行き詰まり感を見せ、45歳で女性記者と心中自殺します。
                                                
木田金次郎2.jpg木田金次郎.jpg 一方、「生れ出ずる悩み」のモデルとなった木田金次郎(1893‐1962)は、この事件を契機に漁師をやめ画家として生きる決意をします(描き溜めた作品1,500点が岩内大火(1954年)で焼失したというのは残念、美術館の彼の作品を見ると、力強く少しゴッホっぽい)。

木田金次郎(1893‐1962/享年69)とその作品(岩内マリンパーク・木田金次郎美術館)

森雅之.gif さらに、「小さき者へ」で語られる側となった子のうち、長男は映画俳優の森雅之(1911-1973)で、黒澤明監督の羅生門」('50年/大映)や溝口健二監督の雨月物語」('53年/大映)、成瀬巳喜男監督の「浮雲」('55年/東宝)などの名作に主演していますが、その娘・ 中島葵.jpg中島葵(1945-1991/子宮頸癌のため死去、享年45)もテレビドラマや映画(大島渚の「愛のコリーダ」など)で活躍した女優でした(不倫相手との間の子であったという事情ため父親=森雅之から認知されなかった。生涯独身)。何だか、残された者の方が逞しかったような気もする...。

中島 葵 in 「愛のコリーダ」

 【1940年文庫化・1962年・2004年改版[岩波文庫]/1955年再文庫化・1980年・2003年改版[新潮文庫(『小さき者へ・生れ出づる悩み』)]/1966年再文庫化[旺文社文庫(『生れ出づる悩み』)]】

《読書MEMO》
●「小さき者へ」...1918(大正7)年発表 ★★★★
●「生れ出ずる悩み」...1918(大正7)年発表 ★★★

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逆境の中、ひたむき、愚直に生きる人間像。悲恋物語だが、爽やかさも覚える「柳橋物語」。

柳橋物語・むかしも今も.jpg 『柳橋物語・むかしも今も (新潮文庫)』(カバー:岡田嘉夫)                         
明暦の大火(「江戸火事図会」江戸東京博物館)
明暦の大火.jpg 1946(昭和21)年発表の「柳橋物語」は、上方に働きに出る〈庄吉〉に、幼さゆえの恋情で「待っているわ」と夫婦約束をした〈おせん〉が、江戸の大火(明暦の大火・1657年)で生活のすべてを失って記憶喪失になるまでショックを受ながらも、逃げのびる際に拾った赤子をわが子のように育てるものの、上方から戻った庄吉はそれを見て彼女の不義理ととる―という、たたみかけるような逆境に翻弄される一女性の人生を描いたもの。

 逆境においても常にひたむきなおせんもそうですが、普段は粗野なスタイルでしか彼女に接することができず、庄吉一途の彼女に嫌われながも、大火の混乱の中、彼女を助けつつ死んでいく幸太や、無愛想だが被災後の彼女の生活をこまめに助ける松造など、印象に残る登場人物が多かったです。庄吉さえも本来は悪い人物ではなく、この作品は運命のいたずらがもたらした悲恋の物語と言えますが、最後におせんは死者である幸太と捨て子だった幸太郎とで、固い絆で結ばれた家族を形成しようとしているようで、その決意に爽やかさを覚える読者も多いのではないでしょうか。

 下町の人情と風俗を巧みに描いている点はさすがですが、その合間に1703年から翌年にかけての赤穂浪士の切腹、江戸大火、元禄地震、利根川洪水などの史実が盛り込まれていて、とりわけ主人公たちの運命を大きく変える明暦の大火の描写は、被災者の目線に立った臨場感溢れるものになっています。この作品が昭和21年に発表されたことを思うと、戦災の記憶を蘇らせながら読んだ読者も当時多かったのでは。

 1949(昭和24)年発表の「むかしも今も」は、グズで愚直な指物師〈直吉〉が、傾きかけた親方の商売とその家の娘〈おまき〉を懸命に守ろうと努力する話で、直吉のおまきに対する献身は、おまきが後に目を病んで三味線で生計を立てようとするところなども含め、山本周五郎版『春琴抄』といった趣きもある作品。最後におまきは直吉に心を開きますが、そこに至るまでの過程は、『春琴抄』の佐助以上にストイックであるとも言え、そのためラストは「柳橋物語」以上にストレートなカタルシスがあります。

 「むかしも今も」の直吉の人物像は後年の『さぶ』に繋がるような気がし、一方「柳橋物語」は、より初期の『小説 日本婦道記』の流れを引いている感じもしますが、作品の厚み、凄みのような部分では「柳橋物語」の方が1枚上であるような気がします。

 【1964年文庫化・1987年改版〔新潮文庫〕】

《読書MEMO》
●「柳橋物語」...1946(昭和21)年発表 ★★★★☆
●「むかしも今も」...1949(昭和24)年発表 ★★★★

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司馬遼太郎の『新選組血風録』、浅田次郎の『壬生義士伝』のネタ本。聞き書きの文体に、かえって生々しさが。

新選組始末記.jpg 勝海舟.jpg『勝海舟』 新潮文庫(全6巻)子母澤寛.jpg 子母澤 寛 (1892-1968/享年76)
新選組始末記 (中公文庫)』 (カバー画:蓬田やすひろ) 

 子母澤寛の作品は以前に『勝海舟』('46年第1巻刊行、'68年/新潮文庫(全6巻))を読みましたが(子母澤寛はこの作品や勝海舟の父・勝小吉を主人公とした『父子(おやこ)鷹』('55-'56年発表、'64年/新潮文庫(上・下)、後に講談社文庫)などで第10回(1962年)「菊池寛賞」を受賞)、司馬遼太郎と同じく新聞記者出身であるこの人の文章は、司馬作品とはまた異なる淡々としたテンポがあり、読み進むにつれて勝海舟の偉大さがじわじわと伝わってくる感じで、坂本竜馬や西郷隆盛といった維新のスター達も、結局は勝海舟の掌の上で走り回っていたのではないかという思いにさせられます(文庫本で3,000ページ以上あるので、なかなか読み直す機会が無いが...)。

新選組始末記 昭和3年8月 萬里閣書房.jpg 一方この『新選組始末記』は、1928(昭和3)年刊行の子母澤寛の初出版作品で、作者が東京日日新聞(毎日新聞)の社会部記者時代に特集記事のために新選組について調べたものがベースになっており、作者も"巷説漫談或いは史実"を書いたと述べているように、〈小説〉というより〈記録〉に近いスタイルです。
 とりわけ、そのころまだ存命していた新選組関係者を丹念に取材しており、その抑制された聞き書きの文体には、かえって生々しさがあったりもします。

『新選組始末記』 萬里閣書房 (昭和3年8月)

新 選 組 血 風 録.jpg 子母澤寛はその後、『新選組遺聞』、『新選組物語』を書き、いわゆる「新選組三部作」といわれるこれらの作品は、司馬遼太郎など多くの作家の参考文献となります(司馬遼太郎は、子母澤寛本人に予め断った上で「新選組三部作」からネタを抽出し、独自の創作を加えて『新選組血風録』('64年/中央公論新社)を書いた)。

 子母澤寛は「歴史を書くつもりなどはない」とも本書緒言で述べていて、そこには「体験者によって語られる歴史」というもうひとつの歴史観があるようにも思うのですが、後に本書の中に自らの創作が少なからず含まれていることを明かしています。

浅田次郎.jpg壬生義士伝.jpg 近年では浅田次郎氏が『壬生義士伝(上・下)』('00年/文藝春秋)で『新選組物語』の吉村貫一郎の話をさらに膨らませて書いていますが、『新選組物語』にある吉村貫一郎の最期が子母澤寛の創作であるとすれば、浅田次郎は"二重加工"していることになるのではないかと...。
 浅田次郎氏は「新選組三部作」に創作が含まれていることを知ってかえって自由な気持ちになったと言っていますが、それはそれでいいとして、むしろ、『壬生義士伝』において浅田氏が「新選組三部作」から得た最大の着想は、この「聞き書き」というスタイルだったのではないかと、両著を読み比べて思った次第です。

 【1969年文庫化[角川文庫]/1977年再文庫化[中公文庫]/2013年再文庫化[新人物文庫]】

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