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「不幸のバーゲンセール」か、「虐待の連鎖」ならぬ「寄り添いの連鎖」か。

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52ヘルツのクジラたち (単行本) 』町田そのこ氏

 2021年・第18回「本屋大賞」第1位(大賞)作品。

 主人公・貴瑚はずっと母親から虐待を受け、義父が病気になり寝たきりになってからは、その介護を一人でしなくてはならなかった。介護している義父からも罵倒され、心も体もぼろぼろになっていたある日、高校時代の友達、美晴と再会し、美晴の同僚の男性「アンさん」と出会う。アンさんは貴瑚のことを本気で心配し、貴瑚を家族から引き離してくれた。そして今、貴瑚は亡くなった祖母が暮らしていた大分県の海辺の町にやってきている。貴瑚はそこで、母親に虐待され「ムシ」と呼ばれている少年と出会う。少年は中1くらいの年齢だが、幼い頃の母親の虐待がきっかけで喋ることができない。貴瑚は自分と同じ匂いのする少年を放っておくことができず、少年が安心できる場所を見つけるまでは共にいようと決心する―。

 児童虐待だけでなく、ヤングケアラー、トランスジェンダー、恋人間のDVなど、いろんなものを詰め込んだ感じでしたが、作者がインタビューで「いろんな人の声なき声を小説に織り込んでみることにしました」と語っているように、意図的にそうしているのでしょう。「不幸のバーゲンセールか」との批判もあるように、あざとい感じがしなくもないですが、虐待を受けていたのを家族でない他人に救われた主人公が、今度は虐待を受けている子供を救うことで自身も救われるという「虐待の連鎖」ならぬ「寄り添いの連鎖」の構造になっているところがよくて、やはり感動してしまいます。

 トランスジェンダーの中でも「ゼロジェンダー」に近いそれを扱っている点は、本書の前年に「本屋大賞」を受賞した凪良ゆう『流浪の月』('19斎藤美奈子 2.jpg年/東京創元社)を想起させ、「傷ついたティーン」扱っている点では、2020(令和2)年下半期・第164回「芥川賞」受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』('20年/河出書房新社)を想起させられました(『推し、燃ゆ』はこの本書と同年の「本屋大賞」では第9位)。本作は傷ついた女性が虐待されている子供を救おうとする話ですが、こういうメタファミリー的な小説が支持されるのは、家族でも友人でも恋人でもない関係に絆を求める人が多いからではないかと、文芸評論家の斎藤美奈子氏が言っていました。

 タイトルが上手いと思います。「52ヘルツのクジラ」とは、世界で一番孤独だと言われているクジラのことで、他のクジラとは声の周波数が違うため、いくら大声をあげていたとしても、ほかの大勢の仲間にはその声は届かず、世界で一頭だけというそのクジラの存在自体は確認されているものの、姿を見た人はいないと言われているそうです。「クジラたち」とすることで、そうした「52ヘルツのクジラ」に喩えられる"少数者"が世の中にはたくさんいることを示唆しているように思います。

 そう言えば、是枝裕和監督の映画「誰も知らない」('04年/シネカノン)なども、まさにタイトルからして同じ系列であったように思えます。あの映画は育児放棄を描いたものでしたが、母親の失踪後、過酷な状況の中で幼い弟妹の面倒を見る長男に唯一寄り添ったのは、自身が不登校という問題を抱える少女でした。「誰も知らない」は1988年に発生した「巣鴨子供置き去り事件」をモチーフにしていますが、こうしたが家族の問題をテーマとした小説が横溢する今、映画で描かれた世界は今日にも通じるものがあったことを改めて思わせます。

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「八月の狂詩曲」の原作だが、映画とは別物か。3連続候補での芥川賞受賞作「鍋の中」。

I「鍋の中」817.jpg村田喜代子.jpg  八月の狂詩曲 ポスター.jpg
鍋の中』 村田 喜代子 氏(1987)「八月の狂詩曲」['95年/松竹]

 1987(昭和62)年上半期・第97回「芥川賞」受賞作の「鍋の中」ほか、「水中の声」「熱愛」「盟友」を所収。

 ある夏、80歳の鉦おばあさんの住む田舎に四人の孫が同居することになる。わたしこと17歳のたみ子と中学生の信次郎の姉弟、従兄の19歳の縦男とその妹17歳のみな子の四人だ。おばあさんのところにハワイに住む弟の病気が伝えられ、四人の親はハワイに出かけ、子どもたちがおばあさんのところに預けられたのだ。ところが、おばあさんはその弟のことを知らないという。13人いたおばあさんの兄弟たちの12人までは名前は覚えているのだが、この弟の名前だけは出てこない。さらに、おばあさんは精神に異常をきたして座敷牢に入れられた弟や駆け落ちをした兄弟の話をし、子どもたちを不安にさせる。それが真実かどうかも疑わしい。まるでおばあさんの頭の中は「鍋の中」のようにいろいろなものでごった煮になっている―。(「鍋の中」)

八月の狂詩曲 1.jpg 表題作「鍋の中」は、「文學界」昭和62年5月号に発表されたもので、黒澤明監督の「八月の狂詩曲(ラプソディー)」('91年/松竹)の原作としても知られていますが、映画が「反核」「反戦」のメッセージが色濃かったのに対し、原則の方はフォークロア的な雰囲気が強く、映画にはない、主人公の出生の謎などのモチーフもあって、映画とは別物と言えば別物ものでした(作者はこの映画化作品に不満だったそうで、「別冊文藝春秋1991年夏号」に、「ラストで許そう、黒澤明」(『異界飛行』収録)というエッセイを書いている)。
「八月の狂詩曲」['95年/松竹]

吉行 淳之介.jpg 当時の芥川賞違考委員の一人、吉行淳之介は、「予想を上まわる力を見せた」と絶賛し、「登場してくる人物も風物も、そして細部もすべていきいきしている」と評しています(単行本帯に選評あり)。同じく日野啓三は「話の運びの計算されたしなやかさ、文章のとぼけたようなユーモア」に感心していて、自分も読んでそれを感じ、芥川賞受賞作としての水準を満たしているように思いました。この回から女流作家として初めて選考委員に加わった大庭みな子、河野多恵子委員も推して、9人の選考員の中で否定的な意見はほとんどなく、すんなり受賞が決まったという感じです。

 「水中の声」は、表題作の10年前、「文學界」昭和52年3月号に発表されたもので、第7回「九州芸術祭文学賞」受賞作。主人公の、自分の4歳の娘を貯水池での溺死事故故で失った母親が、そうした子を事故で亡くした人たちばかりが集まる子供の事故防止運動のようなことをする団体に引き込まれて、熱心に活動するあまり、世間との間に摩擦を生じていく話。自分だったら、同じ状況におかれても、作中にあるような宗教がかった団体には入らないと思いますが、こればっかりはそうした状況に置かれてみないと分からないかも。テープに残った自分の子の声が水底から(藻の間から!)聞こえるように感じたというのは、ものすごくリアリティを感じました(やや怖いか)。

 「熱愛」は、作者が昭和60年に創刊した「発表」という名の個人誌の第2号に発表され、同人誌推薦作品として「文學界」昭和61年4月号に転載されたもので、1986(昭和61)年上半期・第95回「芥川賞」の候補作。オートバイ好きの主人公がオートバイ仲間と競うが、その相手のオートバイが断崖からどうやら転落したらしい、そのことを事実としてして受け止められないでいる主人公の心理を描いています。読む側に、オートバイの疾走感や、仲間が約束の場所に現れないことへの焦燥感が伝わってきて、上手いと思いました。芥川賞選考では、吉行淳之介が「私は評価した。読んでゆくにしたがって、昂揚を覚えた。外側の世界も心象も、すべて肉体感覚で表現できたあたり、なかなかのものである」と推しましたが、受賞はなりませんでした(この時は受賞作なし)。

 「盟友」は、「文學界」昭和61年9月号に発表されたもので、、1986(昭和61)年下半期・第96回「芥川賞」の候補作。主人公の高校生が、学校の懲罰として便所掃除をさせられるうちに、便所掃除に「開眼」し、また、同じ立場の生徒と盟友関係になっていく様を描いたものです。「鍋の中」とはまた異なるユーモアを感じましたが、芥川賞かどうかとなるとやや弱いでしょうか。吉行淳之介も、「前回の「熱愛」ほどには、私をわくわくさせてくれなかった」「それにしても、この作者がいつも少年ばかり書く理由は、まだ私には分からない」と(この時も受賞作なし)。でも、昔の学校は、懲罰ならずとも、生徒が便所掃除していたなあ(今だと、読む世代によって、懐かしさを覚える世代と、ぴんとこない世代があるのでは)。

 ということで、「熱愛」「盟友」と連続で芥川賞候補になり、「鍋の中」で3連続目で受賞したわけですが、やはり「鍋の中」が一番でしょうか。それに比べると、「熱愛」「盟友」も悪くはないですが、「熱愛」はある状況の主人公の心理を突き詰めたもので"習作"のような印象を受けました。

そうしたら、吉行淳之介と同じく当時の芥川賞選考委員だった三浦哲郎が、「熱愛」の選評で、「緊迫した文体が快いリズムを刻んで、なかなか読ませる。ただ、多用されている比喩のなかに、言葉を選びそこねて曖昧になっている個所が散見されて、結局この作品を好ましい習作の一つと思わざるを得なかったのは、惜しかった」と述べていました。三浦哲郎は、「盟友」については 「次作を期待しよう」との短いコメントを寄せているだけですが、作者はその期待に応えたことになります。

【1990年文庫化[文春文庫]】

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前半はメタ小説として面白かったが、後半は漫画「ONE PIECE」になってしまった。

熱帯.jpg熱帯』(2018/11 文藝春秋)

 2019(平成31)年・第6回「高校生直木賞(大賞)」(同実行委員会主催、文部科学省ほか後援)受賞作。2018(平成30)年下半期・第160回「直木賞」候補作。2019(平成31)年・第16回「本屋大賞」第4位。

 「汝にかかわりなきことを語るなかれ」という謎めいた警句から始まる一冊の本『熱帯』。この本に惹かれ、探し求める作家の森見登美彦氏はある日、奇妙な催し「沈黙読書会」でこの本の秘密を知る女性と出会う。そこで彼女は「この本を最後まで読んだ人間はいないんです」と言うが、この言葉の真意とは? 秘密を解き明かすべく集結した「学団」のメンバーは、神出鬼没の古本屋台「暴夜書房」、鍵を握る飴色のカードボックスと「部屋の中の部屋」...。幻の本をめぐる冒険はいつしか妄想の大海原を駆けめぐり、謎の源流へと向かう―。

 かつてAmazonサイト内にあったマトグロッソ(今は独立している出版社イースト・プレスが運営するWeb文芸誌)に連載されていた作品で、作者が連載を抱えすぎて心身症を発症したため中断していましたが、それが作者が復活して完結させたもの、作者の『夜は短し歩あるけよ乙女』('06年/角川書店)、『夜行』('16年/小学館)に続いて3度目の「直木賞」候補にもなっています。

 ただし、個人的には、前半はメタ小説として面白かったのですがで(主人公は「スランプに陥っている作家・森見登美彦氏」)、後半は漫画「ONE PIECE」みたいになってしまっていて、リアルなイメージが全然湧きませんでした(『夜よるは短し歩あるけよ乙女』のアニメ版を観てしまったことも影響している?)。Amazon.comのレビューを見ると、固定的なファンと思われる人々から絶賛されている一方、一部からは「才能が枯渇したか」などとも評されています(個人的には、後者の意見に近い印象を持ってしまったのだが)。

 「直木賞」の方は、大衆選考会での推薦文には、「現実と空想の境界が曖昧になる構成が見事」「森見ワールドに何回でも浸らせてくださる」といった評が並んでいますが、本選考では強く推す人がいなかったようです。

 林真理子氏が、「読者をぐるぐると迷路の中に誘い込んだ。その混乱が大好きという人もたくさんいるであろうが、私は楽しめなかった」「読者も一緒になってイマジネーションを楽しむ作品なのだろうが、私は従いていけなかった」と述べていますが、自分の感想もこれに近かったでしょうか。

 東野圭吾氏などは、「本作には○も△も×も付けられなかった。この作品の何を楽しめばいいのか、まるでわからなかったからだ」「候補になっているのだから、ほかの人にはわかる美点があるに違いない。それが全く見えないのは、私に文学的素養がないからだろう。つまり本作は純文学なのだ。たぶん」と言っていて、これって半ば皮肉が込められているのではないでしょうか(笑)。

【2012年文庫化[文春文庫]】

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「神谷(メンター)ではなく、"僕"(メンティ)を見事に描き出した」(小川洋子氏)。豊胸手術がなければ◎。

火花.jpg火花 文庫.jpg  又吉直樹 芥川賞受賞.jpg
火花 (文春文庫)』 NHK「ニュースウオッチ9」(平成27年7月16日)より

火花』(表紙装丁画:西川美穂「イマスカ」)

 2015(平成27)年上半期・第153回「芥川賞」受賞作。2016年・第13回「本屋大賞」第10位。

 売れない芸人・徳永は、熱海の花火大会で、先輩芸人・神谷と電撃的な出会いを果たす。徳永は神谷の弟子になることを志願すると、「俺の伝記を書く」という条件で受け入れられた。奇想の天才でありながら、人間味に溢れる神谷に徳永は惹かれていき、神谷もまた徳永に心を開き、神谷は徳永に笑いの哲学を伝授しようとする―。

火花es.jpg文學界5_pho01.jpg 文藝春秋の雑誌「文學界」2015年2月号に掲載された、現役お笑い芸人"ピース・又吉"の純文学小説ですが、デビュー作で芥川賞受賞というのもスゴイなあ(あの石原慎太郎の「太陽の季節」さえもデビュー作ではなかったし)。2015年3月に単行本が刊行され、2015年8月時点で累計発行部数239万部を突破、村上龍氏の『限りなく透明に近いブルー』を抜き、芥川賞受賞作品として歴代第1位になったそうです(既に文庫化されており、文庫も併せると300万部を超えている)。

 芥川賞の選考では、宮本輝、川上弘美の両選考委員が強く推し、高樹のぶ子、奥泉光の両選考委員が受賞に否定的でしたが、残りの委員のうち、山田詠美、小川洋子、島田雅彦氏の3氏が受賞に賛成したため、これで9人の選考委員のうち5人が推したことになり、比較的すんなり決まったのではないでしょうか。新潮社主催の「三島由紀夫賞」の候補になりながら受賞しなかったことも、プラスに作用した気がしますが、「太陽の季節」が獲った「文學界新人賞」については、この作品は候補にもなっていないのはどうしてでしょうか。

芥川賞の偏差値.jpg小谷野敦.jpg 小谷野敦氏が近著『芥川賞の偏差値』('17年/二見書房)で、この「火花」の1年後に芥川賞を受賞した村田沙耶香氏の「コンビニ人間」を偏差値72として最高評価をしていますが、「火花」は偏差値49という評価です。但し、芥川賞作品だけで偏差値を決めているわけではないためか、全部の芥川賞作品の中では上位3分の1くらいの位置にある評価ということになっています(因みに「限りなく透明に近いブルー」は偏差値44、「太陽の季節」は偏差値38)。

芥川賞の偏差値

 個人的には、良かったと思います。ある種「メンター小説」だなあと思いました。伊集院静氏の『いねむり先生』('11年/集英社)には及びませんが、こういうの、タイプ的に好きかも。作者は、お笑い芸人の世界を知ってほしかったというようなことをどこかで言っていましたが、この世界の上下関係の厳しさなどは、バライティのネタなどになっていたりして、意外と知られてしまっているのではないでしょうか。

 やはり、面白かったのは(小谷野敦氏の『芥川賞の偏差値』は面白いかどうかを重視しているようだが)、先輩芸人・神谷のキャラクターの描かれ方でしょう。個人的には、「天才」とは世の中に受け入れられてこその「天才」だと考えます。その考えで行けば、神谷は売れていないから今の所「天才」ではいないわけで(無名時代の「天才」と言えなくもないが)、どちらかと言うと「本物」と言った方がいいのかなあ。生き方として"漫才師"というのを見せてくれているように思われ、その部分において、読む前の予想や期待を超えていました(作者は、作者自身は人を笑わせるプロ芸人で、神谷はその意味ではプロではないと考えているようだ。それでも神谷のセリフやギャグで編集者が笑った箇所があれば、その部分はすべてカットしたそうだ)。

高樹のぶ子.jpg 面白かったことは面白かったけれども、終盤に神谷に豊胸手術をさせたのはどうしてなのでしょう。もう神谷のキャラに十分驚かされたのに、作者はまだ足りないと思ったのでしょうか。芥川賞受賞に反対した高樹のぶ子氏も、反対理由を、「優れたところは他の選者に譲る。私が最後まで×を付けたのは、破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ」としています。作者は、神谷を壊れゆくキャラとして描いたのでしょうか。

小川洋子.jpg それでも、個人的には星4つ(○)で、終盤の豊胸手術がなければ◎でした。神谷に目が行きがちですが、小川洋子氏が、「『火花』の語り手が私は好きだ」「他人を無条件に丸ごと肯定できる彼だからこそ、天才気取りの詐欺師的理屈屋、神谷の存在をここまで深く掘り下げられたのだろう。『火花』の成功は、神谷ではなく、"僕"を見事に描き出した点にある」としているのは、穿った見方だと思いました。メンターの描かれ方もさることながら、メンティのそれ方が決め手になっているということでしょう。ラストに不満があっても△ではなく○になる理由は、根底に小川洋子氏が指摘するような面があるためかもしれないと思いました。

火花 映画 チラシ.jpg火花 映画_02.jpg板尾創路 監督「火花」2017年11月 全国東宝系公開。
徳永 - 菅田将暉
神谷 - 桐谷健太


【2017年文庫化[文春文庫]】

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芥川賞作品の中ではかなり面白い方であり、根底には作者の技量があるように思った。

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コンビニ人間』 『海の見える理髪店』で直木賞受賞の荻原浩氏と村田沙耶香氏[産経ニュース]コンビニ人間 (文春文庫)』['18年]

 2016(平成28)年上半期・第155回「芥川賞」受賞作。2017年・第14回「本屋大賞」第9位。

 私こと古倉恵子は、子供の頃から「変わった子」と思われていた。自らの言動で周囲を困惑させてしまうため、黙って言われたことをするよう心掛けていた。そんな私はある日コンビニのバイトに出会い、マニュアルで全て行動する仕事を天職と感じるようになって、大学時代から今日まで18年間コンビニで働き続けている。しかし年齢を重ね、結婚せずに36歳となった今の自分のことを、周囲は奇異に思っているのが感じられる。そんなある日、35歳で職歴もない白羽が新人バイトとして入って来て、彼は婚活を目的にバイトを始めたのだという。しかし白羽は女性客へのストーカー行為で解雇される。恵子は、懲りもせず女性を待ち伏せする白羽に声を掛け、恋愛感情はないが一緒に暮らすことを提案する。「同棲している男性がいる」ことが、恋愛をしないことの言い訳になると思ったのだ。その白羽は、自分にコンビニのバイトを辞めさせ、就職させて自らの借金を返させようとする。だが、就職のための面接に向かう途中で訪れたコンビニで、私は本社の社員を装って、困っているバイトに手を貸す。そして、コンビニで働くことを自らの体が求めているのだと感じるのだった―。

 「文學界」2016年6月号に掲載された小説で、作者は新人かと思ったら、三島由紀夫賞を筆頭とする幾つかの賞を受賞した作家であり、そうでありながらコンビニエンス・ストアで週3回働いているそうな(芥川賞受賞会見の日も働いたというから、コンビ二で働くことがある種"精神安定剤"的効果をもたらすのかも)。主人公は、一定のルーティンへの強いこだわりなど発達障害的傾向があるように思いましたが、その辺りがよく描けているように思いました。でも、これ、自分の経験だったのでしょうか?

 作者の"コンビニ愛"の地が出ている感じもしましたが、自分の経験だから書きやすいというわけでもなく、自分の経験に近いからこそ対象化するのは逆に難しいと言えるかも。そうした意味では、慎重に"満を持して"書いた作品なのかもしれません。遅ればせながら、芥川賞おめでとうございますと言いたくなります。

 読後感も爽やかでしたが、「私は、人間である以上に、コンビニ店員なんです」なんて主人公の台詞は、芥川賞と言うよりちょっと直木賞っぽい感じもありました。でも、これまでの芥川賞作品の中ではかなり面白い方であり、根底には作者の技量があるように思いました。芥川賞の選評で川上弘美氏が、「おそろしくて、可笑しくて、可愛くて、大胆で、緻密。圧倒的でした」とし、「選評で"可愛い"という言葉を初めて使いました」と括弧書きしていました。

 芥川賞のすべての選者が推したわけではないですが、山田詠美氏は、「コンビニという小さな世界を題材にしながら、小説の面白さの全てが詰まっている。十年以上選考委員を務めてきて、候補作を読んで笑ったのは初めてだった」と評価し、村上龍氏も、「この十年、現代をここまで描いた受賞作は無い」と評価しています。

小谷野敦.jpg 芥川賞の選者以外では、辛口批評で知られる作家で比較文学者の小谷野敦氏が、『芥川賞の偏差値』('17年/二見書房)などで「本作のように面白い作品が芥川賞を受賞することは稀であり、同賞の歴代受賞作品でもトップクラスの面白さだ」と評しています。別のところでの小澤英実氏との対談では、「『コンビニ人間』は、単純に「面白い」と文庫新刊 コンビニ人間2.jpgいうことでいいと思いますね。川上弘美が何か意味付けをしようとしていたけれど、意味付けなんてしない方がいい」と言っていて、そんなものかもしれないなあと。

 個人的にも◎ですが、後は時間が経ってどれぐらい記憶に残るかなあというところでしょうか(芥川賞作品って意外と記憶に残らないものもあったりするので)。そうした意味では、"意味付け"することにも意味があるのではないかという気もしなくはありません。ただ、芥川賞作品としては『火花』以来の売れ行きだそうですから、世間的には記憶に残る作品となるのかもしれません。

【2018年文庫化[文春文庫]】

《読書MEMO》
芥川賞の偏差値0810.JPG芥川賞の偏差値 .jpg小谷野敦『芥川賞の偏差値』('17年/二見書房)

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読み始めた時は地味な話だなあと思ったが、終盤に押し寄せてくるような感動があった。

羊と鋼の森1.jpg羊と鋼の森2.jpg  羊と鋼の森 本屋対象.jpg
羊と鋼の森』(2015/09 文藝春秋) 宮下 奈都 氏

 2016(平成28)年・第13回「本屋大賞」第1位作品。

 北海道の高校2年生の外村(とむら)は、調律師が調律した体育館のピアノの音色を聞いて森の景色を奏でるような錯覚にとらわれ、高校卒業後、専門学校で調律を学び、江藤楽器に就職する。江藤楽器は10名ばかりの小さな店で、調律師は4名。入社5か月過ぎ頃、外村は、7年先輩の柳に同行して顧客の佐倉宅に行き、調律を見学する。柳の調律が終わり、高校生の和音(かずね)がピアノを弾くと、その奏でる音色は美しく、外村は鳥肌が立つ。和音は、妹の由仁(ゆに)がすぐに帰って来るので待ってほしいと言い、ほどなく帰宅した由仁も色彩に溢れたピアノを弾く。柳は由仁のピアノを絶賛する一方で、和音のピアノを普通と評するが、外村には和音のピアノは明らかに特別だった。ある日、外村が社用車に乗っていると由仁と偶然会い、ピアノのラの音が出なくなったが、柳が仕事で立て込んで今日は行けないと言われたと言う。柳は恋人に指輪を渡すことになっていた。外村は佐倉家へ行き、フレンジを調整してピアノを直す。和音と由仁は喜んだが、帰ろうとする外村に、2人は調律も依頼する。外村は柳の仕事だと思ったが、2人の演奏を聴いて胸が熱くなっており、調律を始める―が上手くいかず、やればやるほど音がずれる。偶々電話があった柳に事情を話し、柳が調律し直すことに。外村が調律に失敗して逆に親しみを感じたのか、時々和音と由仁が江藤楽器に顔を出すようになる。外村はベテラン板鳥の調律を見学する機会に恵まれる。ドイツから巨匠ピアニストが来日し、板鳥が指名されたのだ。板鳥が鍵盤を鳴らし始めると、外村の心臓が高鳴り、この音があれば生きていけるとさえ思う。佐倉家からピアノの調律をキャンセルする電話があり、母親が、娘がピアノを弾けない状態なので調律は見送りたいとのこと。由仁が店に現れ、ピアノを弾くときだけ指が動かないと言い、自分が弾けなくなった分まで和音が弾かなくてはいけないとも言う。佐倉家から再び調律の依頼があり、外村と柳が向い、柳が以前と同じように調律した。由仁は、自分たちは前と同じじゃないと不服を口にし、外村はどう思うか尋ねる。外村は弾いてもらわないと分からないとし、「試しに弾いてみてもらえますか」と言うと、和音は毅然とした態度で演奏を始める。弾き終わると、和音は「心配かけてごめんなさい」「私、ピアノを始めることにした」と言う。母親が「ピアノで食べていける人なんてひと握りの人だけよ」と諌めると、和音は静かに微笑み、「ピアノで食べていこうなんて思ってない」「ピアノを食べて生きていくんだよ」と答える。柳の結婚披露パーティで、和音がピアノを弾き、外村が調律することになる。外村は、パーティの前日に時間かけ調律した。早朝の人のいないリハーサルでは完璧だったものの、ホールでスタッフが作業を始めると音にキレがなくなった。家庭のピアノの調律しかしたことがなかった外村は、環境を考慮していなかったことに気づく。由仁にも協力してもらい、外村は調律し直した。パーティでは、和音は若草色のドレスを着てピアノを弾き、経験豊富な先輩調律師の秋野が初めて外村を褒める。外村は、自分が和音のピアノを調律することで和音のピアノをもっとよくしたいと思った。和音は絶対にいいピアニストになると信じる外村は、やはり自分はコンサートチューナーを目指さすべきだと思った―。

 読み始めた時は、何だか地味な話だなあと思いましたが、終盤に向けて押し寄せてくるような感動がありました。専門職系と言うか、お仕事系の話なので、同じ「本屋大賞」の先輩格にあたる三浦しをん氏の辞書編纂をモチーフにした『舟を編む』(2011年/光文社、第9回「本屋大賞」第1位作品)と似た雰囲気があるように思いましたが、読み進むうちに、ああ、これ大人のメルヘンだなあという感じがして、むしろ、第1回「本屋大賞」の小川洋子氏の『博士の愛した数式』(2003年/新潮社)や、同作者のチェスの天才少年をモチーフにした『猫を抱いて象と泳ぐ』(2009年/文藝春秋)の系譜のようにも感じたりしました(「羊と鋼の森」というタイトルがまさにメルヘン的)。

 直木賞の候補にもなりましたが、強く推した選考委員(◎)が2名(北方謙三、伊集院静両氏)いたものの、他の委員の、古典的な成長小説だとか、純文学としてはともかく大衆文学としてはどうかといったネガティブな評価もあり、結局、強く推した選考委員が1名しかいなかったものの、しいて明確に否定する人がいなかった青山文平氏の『つまをめとらば』に直木賞は持って行かれました(青山文平氏が67歳で2回目の候補、宮下奈都氏が49歳で初めての候補、ということも影響したのか。『つまをめとらば』も佳作ではあるが)。

 Amazon.comなどで一般の評価を見ると、直木賞の選考さながらに評価が割れているみたいです。特に、音楽やピアノや或いは調律そのものに詳しい人(つまり調律師)から、調律師の仕事の実際と異なるとの批判が多いようですが、小説としての決定的な瑕疵に当たるのかどうか。調律や調律師のことをよく知らないから、却って引っ掛からずに気持ちよく読めたというのはあるかもしれませんが(そのことをよく知る人からすればそのことが大きな問題なのかもしれないが)、行間から湧き出る瑞々しさのようなものはやはり作者の力量ではないかと思いました。

【2018年文庫化[文春文庫]】

羊と鋼の森 映画 01.jpg羊と鋼の森 映画02.jpg映画「羊と鋼の森」('18年/東宝)
監督:橋本光二郎/脚本:金子ありさ
出演:山﨑賢人/鈴木亮平/上白石萌音/上白石萌歌/堀内敬子/仲里依紗/城田優/森永悠希/佐野勇斗/光石研/吉行和子/三浦友和

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大人のための癒し系ファンタジーといった感じ。モデルが実在するというのは強い。

虹の岬の喫茶店 単行本.jpg 単行本(左)   虹の岬の喫茶店 文庫.jpg
(カバーイラスト:加藤美紀)/『虹の岬の喫茶店 (幻冬舎文庫)』/映画チラシ
文庫本(下)
虹の岬の喫茶店森沢明夫.jpg トンネルを抜けたら、ガードレールの切れ目をすぐ左折。雑草の生える荒地を進むと、小さな岬の先端に、ふいに喫茶店が現れる。そこには、とびきりおいしいコーヒーとお客さんの人生にそっと寄り添うような音楽を選曲してくれるおばあさんがいた。彼女は一人で喫茶店を切り盛りしながら、ときおり窓から海を眺め、何かを待ち続けていた。その喫茶店に引き寄せられるように集まる人々―妻をなくしたばかりの夫と幼い娘、卒業後の進路に悩む男子大学生、やむにやまれぬ事情で喫茶店へ盗みに入った泥棒など―心に傷を抱えた彼らの人生は、その喫茶店とおばあさんとの出逢いで、変化し始める。心がやわらかさを取り戻す―(「BOOK」データベースより)。
                  
 岬の先端に立つ喫茶店に集まる人々と女店主の交流を描いたこの作品ですが、モデルとなった「岬」のブログのフォト.jpg 大人のための癒し系ファンタジーといった感じでしょうか。6話から成る連作の各話がそれぞれの登場人物の目から語られており、前半3話は、岬の喫茶店をたまたま訪れた人の話(妻を亡くした陶芸作家と娘、就職活動中の学生、さらに泥棒に入った砥ぎ屋もいるが)になっていますが、後半3話は、常連客のタニさん、店主・柏木悦子の甥・浩司、そして悦子自身の話となっています。

作品のモデルとなった音楽と珈琲の店「岬」のブログフォト

 版元の口上に「心がやわらかさを取り戻す感涙の長編小説」とありましたが、作者の作品はカジュアル系とも言われているようで、無理矢理"感涙"ものに仕上げようとしないとこところがいいのではないかなあ。よく読むと、ラストが冒頭の謎解きのようになっているようにも読めるなど、作者のオリジナリティも活かされているように思われます。敢えて言えば、主要登場人物が結局"いい人"ばかりなのが、まあ癒し系ファンタジーとしては自ずとそうなるのでしょうが、やっぱりファンタジーの世界かな、で終わってしまいそうな危惧も。

ふしぎな岬の物語 (2014).jpg吉永小百合 モントリオール.jpg その点において、モデルとなった喫茶店が実在するというのは、たとえどれだけ虚構化されていようと、一つ強みだなあと思いました。吉永小百合がプロデュースから参画して映画化され(原作候補は10作ぐらいあったらしいが、吉永小百合の強い推挙でこの作品に決まったらしい)、「ふしぎな岬の物語」として今月('14年11月)から公開されましたが、公開前に、第38回モントリオール世界映画祭で審査員特別賞グランプリ受賞というオマケがつきました。
「ふしぎな岬の物語」ポスター 題字・絵:和田 誠(吉永小百合がオファー)

 まだ観ていませんが、吉永小百合は、山田(洋次)組で「母べえ」('08年/松竹)に出るよりも、成島(出)組でこうした映画に出る方がやり易かったのではないでしょうか。作品的にも(先入観もあるかもしれないが)母親役より未亡人役の方が合っているように思います。

 モントリオール世界映画祭は、カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの三大映画祭より格下であり、さらに同じカナダのトロント国際映画祭よりも落ちると言われ、一方で、'80年に「遥かなる山の呼び声 」が審査員特別賞、'83年に「天城越え」で田中裕子が主演女優賞、'96年に「眠る男」が審査員特別賞グランプリ、'99年に「鉄道員」で高倉健が主演男優賞、'08年に「おくりびと」が最優秀作品賞受賞、'10年に「悪人」で深津絵里が最優秀女優賞、'11年に「わが母の記」が審査員特別賞グランプリを受賞するなど、日本の映画及び日本人が受賞し易い映画祭でもあるとも言われています。今回も、呉美保監督の「そこのみにて光輝く」が最優秀監督賞を受賞しており、日本映画はW受賞となっています。ただ、「おくりびと」がその後アカデミー賞の外国語映画賞したりしているケースもあり、海外の映画祭に出品して評価を問うこと自体は良いことではないかなと思います(それで賞が貰えれば尚の事)。吉永小百合が受賞後のロングスピーチをフランス語でこなしたのは立派、阿部寛の方は英語でした(トロント~モントリオールは東京~大阪ぐらいの距離だが、トロントのあるオンタリオ州の公用語は英語なのに対し、モントリオールのあるケベック州の公用語はフランス語)。吉永小百合、最初から賞を獲るつもりでモントリオールに乗り込んだ?

【2013年文庫化[幻冬舎文庫]】

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家族にも明かさなかった恋人とその死。いろいろな見方はあるが、「謎はいくつも残る」。

『向田邦子の恋文』.JPG向田邦子の恋文 単行本.jpg  向田邦子2.jpg 向田 邦子(むこうだ くにこ、1929-1981/享年51)
向田邦子の恋文

 前半部分は、向田邦子の遺品の中から見つかった、彼女とその恋人N氏との間の手紙と、N氏の日記の一部であり、後半部分は向田邦子の妹である著者が、その手紙が見つかり発表に至った経緯を軸に、当時の姉や家族のこと或いは姉が亡くなった後のことを書いたエッセイとなっています。特に前半部分の向田邦子とN氏の間の手紙から、いかに二人の絆が強かったか、とりわけ向田邦子のN氏に対する想いの強さがじわりと伝わってくるように思いました。

 これら手紙は1963(昭和38)年から翌年にかけて書かれたもので、当時34歳だった向田邦子は、急成長の売れっ子脚本家としてホテルに缶詰め状態で、ホテルの便箋に恋文を書いてホテルから手紙を出し、またホテル気付で相手の手紙を受け取るといったこともあり、但し、収録されている手紙は圧倒的に向田邦子からN氏宛のものが多く、N氏のもとに急に会いに行けなくなった際には電報を打ったりしています。

 一方、N氏の文章として収録されてものは、N氏の日記の部分が殆どを占めます。この日記にはテレビ番組評などもありますが、どこへ買い物に行って何を買ったとか、昼食や夕食に何を食べたとか、自らの日常を"生活記録"風にテイクノートしている部分がかなり占めます。

 このN氏の日記は(収録されている部分では)1963(昭和38)年11月から始まり、N氏は翌年の2月に自死しているため、向田邦子は多忙を極めるなか、この短い期間内にこれだけの手紙を出しているということからも、病気療養中のN氏への向田邦子の気遣いが窺えます。

 不思議なのは、N氏の日記の内容が、自死した日とされるその前日まで、それまでの日記のトーンと全く変わらないことであり、自死した前日は番組の短い感想や、買物に出かけたこと、昼食や夕食に食べたものなどが"生活記録"風簡単に書かれているだけであり、前々日も「邦子来り、夕食は豆腐...」といった調子であることで、快癒の見通しが立たない病いであったにしても、その自死は向田邦子にとってもあまりに突然のものではなかったかと思われます。

太田光2.jpg 従って、この出来事を、"献身した男性に裏切られた"経験と解し、「後の向田作品は男性に対する復讐が根底にある」という説が出てくるのも、まあ、むべなるかなという気はします(その筆頭が「爆笑問題」の太田光か)。でも、それもあくまでも推測であって、本当のことは分からないのでは、とも思います。

 向田邦子とN氏の関係は、彼女が24、5歳の頃から35歳まで10年間続いたようで、N氏は向田邦子より13歳年上のカメラマン(妻帯者)でしたが、脳卒中の後遺症で最後の2年間は仕事も出来ず、母親と高円寺の自宅に居たとのことです。そのような状況下で、向田邦子は売れっ子の脚本家としての多忙な時間の合間に手紙を書き、訪れては食事の支度をし、またホテルへ戻って仕事をするという生活を送っていたことになります。

 しかし、もっと驚くべきことは、そうした向田邦子とN氏の関係を邦子の家族は殆ど感知していなかったということで(とりわけ、年の離れた妹である筆者は全く知らなかった)、N氏のこともその死も向田邦子が家族に伏せていたというのは、随分徹底して秘密にしていたのだなあと。一方で、向田家の天沼の実家から歩いて30分ほどの場所で、母親と息子(N氏)とその恋人(向田邦子)という"疑似家族"的な生活形態が形成されていたことになるわけです(N氏は妻とは完全別居状態にあった)。

向田邦子の恋文2.jpg 著者は、20代の向田邦子が旅先の宿で籐椅子に腰かけている写真を見て、テーブルの上に二つの茶碗が出ていることなどから、それがN氏との二人旅だったとのではないかと確信し、そこまで好きだったら駆け落ちでも何でもすればよかったのに...と思わずにいられなかったとしていますが、それでも彼女が向田家に居続けたのは、長女として家を支えていかなければならないという思いがあったのではないかともしています。
 但し、向田邦子が結婚というものに対して憧憬ばかりでなく、それとアンビバレントな感情をも抱いていたことはその作品からも窺い知ることが出来るため、この辺りも、結婚したくて出来なかったのか、そうした繋がりを回避していたのかは、結局のところ分かりかねるのではないでしょうか。筆者自身、「謎はいくつも残る」としていますが、その通りだと思います。

 筆者が、それまで開けなかった向田邦子の恋文が入った封筒を初めて開いたのは、こうした姉の知らざれざる側面に徐々に触れた後のことで、向田邦子が1981(昭和56)年に航空機事故で亡くなってから20年を経ていました。2001(平成13)年にNHKの衛生放送が没後20年のドキュメンタリー番組を作ることになったのが契機で、この時、番組スタッフの調べで、N氏のことや彼が自死を遂げたことを初めて知ったとのことです。本書刊行の2年後の2004(平成16)年には、この「恋文」を巡る向田邦子を主人公とした話そのものが、久世光彦(1935-2006)の演出によりTBSで単発ドラマ化されましたが、個人的には未見です(本人が存命していればドラマ化はありえなかったろうなあ)。

【2005年文庫化[新潮文庫]】

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巻き込まれ型ワンナイト・ムービーみたいだったのが、次第にマンガみたいな感じになり...。

夜は短し歩けよ乙女2.jpg夜は短し歩けよ乙女.jpg  after-hours-martin-scorsese.jpg アフター・アワーズ.jpg 「アフター・アワーズ」00.jpg
夜は短し歩けよ乙女』['06年](カバー絵:中村佑介)「アフター・アワーズ 特別版 [DVD]」グリフィン・ダン/ロザンナ・アークェット カンヌ国際映画祭「監督賞」、インディペンデント・スピリット賞「作品賞」受賞作

 2007(平成19)年度・第20回「山本周五郎賞」受賞作。2010(平成22)年・第3回「大学読書人大賞」も受賞。

 「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めるが、先輩の想いに気づかない彼女は、頻発する"偶然の出逢い"にも「奇遇ですねえ!」と言うばかり。そんな2人を、個性的な曲者たちと珍事件の数々が待ち受ける―。

 4つの連作から成る構成で、表題に呼応する第1章は、「黒髪の乙女」の後をつけた主人公が、予期せぬ展開でドタバタの一夜を送るという何だかシュールな展開が面白かったです。

Griffin Dunne & Rosanna Arquette in 'After Hours'
「アフター・アワーズ」01.jpgIアフター・アワーズ1.jpg これを読み、マーチン・スコセッシ監督の「アフター・アワーズ」('85年/米)という、若いサラリーマンが、ふとしたことから大都会ニューヨークで悪夢のような奇妙な一夜を体験する、言わば「巻き込まれ型」ブラック・コメディの傑作を思い出しました(スコセッシが大学生の書いた脚本を映画化したという。カンヌ国際映画祭「監督賞」、インディペンデント・スピリット賞「作品賞」受賞作)。 

アフター・アワーズ 1985.jpg グリフィン・ダン演じる主人公の青年がコーヒーショップでロザンナ・アークェット演じる美女に声を掛けられたきっかけが、彼が読んでいたヘンリー・『アフター・アワーズ』(1985).jpgミラーの『北回帰線』だったというのが、何となく洒落ているとともに、主人公のその後の災厄に被って象徴的でした(『北回帰線』の中にも、こうした奇怪な一夜の体験話が多く出てくる)。映画「アフター・アワーズ」の方は、そのハチャメチャに不条理な一夜が明け、主人公がボロボロになって会社に出社する(気がついたら会社の前にいたという)ところで終わる"ワンナイト・ムービー"です。

夜は短し歩けよ乙女 角川文庫.jpg 一方、この小説は、このハチャメチャな一夜の話が第1章で、第2章になると、主人公は訳の分らない闇鍋会のようなものに参加していて、これがまた第1章に輪をかけてシュール―なんだけれども、次第にマンガみたいな感じになってきて(実際、漫画化されているが)、う〜ん、どうなのかなあ。少しやり過ぎのような気も。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)

 山本周五郎賞だけでなく、2007(平成19)年・第4回「本屋大賞」で2位に入っていて、読者受けも良かったようですが、プライドが高い割にはオクテの男子が、意中の女子を射止めようと苦悶・苦闘するのをユーモラスに描いた、所謂「童貞小説」の類かなと(こういう類の小説、昔の高校生向け学習雑誌によく"息抜き"的に掲載されていていた)。

 京都の町、学園祭、バンカラ気質というノスタルジックでレトロっぽい味付けが効いていて、古本マニアの奇妙な"生態"などの描き方も面白いし、文体にもちょっと変わった個性がありますが、この文体に関しては自分にはやや合わなかったかも。主人公の男子とヒロインの女子が交互に、同じ様に「私」という一人称で語っているため、しばしばシークエンスがわからなくなってしまい、今一つ話に身が入らないことがありましたが、自分の注意力の無さ故か?(他の読者は全く抵抗を感じなかったのかなあ)

(●2017年に「劇場版クレヨンしんちゃんシリーズ」の湯浅政明監督によりアニメーション映画化された。登場人物は比較的原夜は短し歩けよ乙女 映画title.jpg作に忠実だが、より漫画チックにデフォルメされている。星野源吹き替えの男性主人公よりも、花澤香菜吹き替えのマドンナ役の"黒髪の乙女"の方が実質的な主人公になっている夜は短し歩けよ乙女 映画01.jpg。モダンでカ夜は短し歩けよ乙女 映画00.jpgラフルでダイナミックなアニメーションは観ていて飽きないが、アニメーションの世界を見せることの方が主となってしまった感じ。一応、〈ワン・ナイト・ムービー(ストーリー)〉のスタイルは原作を継承(第1章だけでなく全部を"一夜"に詰め込んでいる)しているが、ストーリーはなぜかあまり印象に残らないし、京風情など原作の独特の雰囲気も弱まった。映画の方が好きな人もいるようだが、コアな森見登美彦のファンにとっては、映画は原作とは"別もの"に思えるのではないか。因みに、この作品は、「オタワ国際アニメーション映画祭」にて長編アニメ部門グランプリを受賞している。)
 

「アフター・アワーズ」021.jpg 
グリフィン・ダン演じる主人公の青年がコーヒーショップでヘンリー・ミラーの『北回帰線』を読んでいると、ロザンナ・アークェット演じる美女に声を掛けられる...。(「アフター・アワーズ」)  
 
IMG_1158.jpgIアフター・アワーズ9.jpg「アフター・アワーズ」●原題:AFTER HOURS●制作年:1985年●制作国:アメリカ●監督:マーチン・スコセッシ●製作:エイミー・ロビンソン/グリフィン・ダン/ロバート・F・コールズベリー●脚本:ジョセフ・ミニオン●撮影:ミハエル・バルハウス●音楽:ハワード・ショア●時間:97分●出演:グリフィン・ダン/ロザンナ・アークェット/テリー・ガー/ヴァーナ・ブルーム/リンダ・フィオレンティ下高井戸京王2.jpgーノ/ジョン・ハード/キャサリン・オハラ/ロバート・プランケット/ウィル・パットン/ディック・ミラー●日本公開:1986下高井戸シネマ.jpg下高井戸東映.jpg/06●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:下高井戸京王(86-10-11)(評価:★★★★☆)●併映:「カイロの紫のバラ」(ウディ・アレン)

下高井戸京王 (京王下高井戸東映(東映系封切館)→1980年下高井戸京王(名画座)→1986年建物をリニューアル→1988年下高井戸シネマ) 


夜は短し歩けよ乙女 映画04.jpg夜は短し歩けよ乙女 映画ポスター.jpg「夜は短し歩けよ乙女」●●制作年:2017年●監督:湯浅政明●脚本:上田誠●キャラクター原案:中村佑介●音楽:大島ミチル(主題歌:ASIAN KUNG-FU GENERATION「荒野を歩け」)●原作:森見登美彦●時間:93分●声の出演:星野源/花澤香菜/神谷浩史/秋山竜次(ロバート)/中井和哉/甲斐田裕子/吉野裕行/新妻聖子/諏訪部順一/悠木碧/檜山修之/山路和弘/麦人●公開:2017/04●配給:東宝映像事業部●最初に観た場所:TOHOシネマズ西新井(17-04-13)(評価:★★★)
TOHOシネマズ西新井 2007年11月6日「アリオ西新井」内にオープン(10スクリーン 1,775+(20)席)。
TOHOシネマズ 西新井 ario.jpgSCREEN 1 106+(2) 3.5×8.3m デジタル5.1ch
SCREEN 2 111+(2) 3.4×8.2m デジタル5.1ch
SCREEN 3 111+(2) 3.4×8.2m デジタル5.1ch
SCREEN 4 135+(2) 3.5×8.5m デジタル5.1ch
SCREEN 5 410+(2) 7.0×16.9m デジタル5.1ch
SCREEN 6 146+(2) 3.7×9.0m デジタル5.1ch
SCREEN 7 148+(2) 3.7×8.9m デジタル5.1ch
SCREEN 8 80+(2) 4.1×9.9m MX4D® デジタル5.1ch
SCREEN 9 183+(2) 4.1×9.9m デジタル5.1ch
SCREEN 10 345+(2) 4.8×11.6m デジタル5.1ch

 【2008年文庫化[角川文庫]】

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死刑執行に携わる看守を主人公とし、日常と非日常、生と死の対比を描いて秀逸。

夏の流れ2.jpg 夏の流れ・正午なり 丸山健二.jpg 夏の流れ.jpg
夏の流れ』['67年]/『夏の流れ・正午(まひる)なり (講談社文庫)』 ['73年]/『夏の流れ―丸山健二初期作品集 (講談社文芸文庫)』 〔'05年〕

 1966(昭和41)年度下期・第23回「文學界新人賞」及び1966(昭和41)年下半期・第56回「芥川賞」受賞作(講談社文芸文庫版の帯にある「毎日出版文化賞受賞」は、「講談社文芸文庫」自体が第58回(2004年)毎日出版文化賞(企画部門)を受賞したことによるもの)。

 主人公は刑務所に勤める看守で、死刑執行もその仕事に含まれているのですが、そうした看守の刑務所の中での世間から隔絶した "日常"と、刑務所の外での市民としての日常を対照的に描き、デビュー作にして芥川賞を受賞した作品(しかも23歳1カ月という当時の歴代最年少受賞)。

 とりわけ死刑執行の"その日・その時"のハードボイルドタッチな描き方は話題を呼んだようですが、本当に秀逸なのは、小説の中にある対比の構成ではないでしょうか。

 "仕事"前の休日に釣りにいく話をしている看守たちや"仕事"を終えて家に帰る主人公(家には新たな命を宿した妻がいる)と、刑を目前に抗い、退行し、死んでいく死刑囚。仕事に馴染めず1回も刑の執行を経験せずに辞めていく若い看守と、儀式的に淡々と刑を執り行うベテランの上司らの対比(主人公はその中間にあると言えるかも)などが、抑制された文章で描かれています。

 特に、"仕事"によって与えられた特別休暇で子どもたちを海水浴に連れて行く主人公と、そこで語られる妻との辞めた若い看守をめぐる短い会話などには、非日常が日常を侵食する毒のようなものが含まれていました。
 一度読んだら、忘れられない作品の1つだと思います。

 当時芥川賞選考委員だった三島由紀夫は「男性的ないい文章であり、いい作品である」としながらも、「23歳という作者の年齢を考えると、あんまり落着きすぎ、節度がありすぎ、若々しい過剰なイヤらしいものが少なすぎるのが気にならぬではない」としていて、文芸誌へ最初に応募した作品が本作だったわけで、無名の新人の実力を1作で判断するのはかなり難しいことだったのかもと思わせます(文体については後に、篠田一士が講談社文庫版の解説で、ヘミングウェイを想起させると高く評価しています)。

正午なり 00.jpg 作者の初期の中・短編作品にはこうした生と死が対比的に描かれるものが多い一方、講談社文庫版に併収されている中篇「正午(まひる)なり」のような、ある種の帰郷小説のようなものも多く、後者のモチーフはその後の作品でもリフレインされていて、実際作者は文壇とは交わらず、都会を離れ安曇野に定住していることはよく知られている通りです。

「正午なり」1978年映画化(監督:後藤幸一)出演:金田賢一/田村幸司/結城しのぶ/原田芳雄/若杉愛/津山登志子/手塚理美/南田洋子/長門裕之/絵沢萠子
 
 【1973年文庫化[講談社文庫(『夏の流れ・正午なり』)]/2005年再文庫化[講談社文芸文庫(『夏の流れ-丸山健二初期作品集』)]】

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「河内十人斬り」の惨劇に材を得た作品。終局の描写は素晴らしいが...。

告白.jpg  『告白』['05年/中央公論新社]河内音頭 河内十人斬.jpg「河内音頭 河内十人斬」CD

 2005(平成17)年度・第41回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 明治26年に河内水分で、農家の長男・城戸熊太郎が、妻を寝取られた恨み、金を騙し取られた恨みから、同じく村の者に恨みを抱くその舎弟・谷弥五郎と共謀し、村人10人を惨殺したという事件(「河内十人斬り」という任侠的な敵討ち物語として、河内音頭のスタンダードナンバーにもなっている)を題材にしたもの。

 単行本の帯には「人は人をなぜ殺すのか」とあり、かなり重苦しい雰囲気の物語かと思いきや、酒と博打の生活から抜け出せないダメ男・熊太郎を、河内弁と独特の"町田節"で落語みたいにユーモラスに描いていて、そのアカンタレぶりに対する作者の愛着のようなものが滲み出ています。

 熊太郎という男は言わばヤクザ者ですが、もともと進んで悪事を働くような人物ではなく、他人を思いやることもできる人間なのに、いつも他人に誤解され、割を食って損ばかりしている、それを自分では、自分が思弁的な人間であり、自分の心情をうまく言葉にできないためだ感じている人物です。

 小説の中では随所にその熊太郎のねちっこい"思弁"が内的独白として語られ、その彼が凶行に及んだ最後の最後で、思っていることを言葉にしようとする、そこにタイトルの『告白』の意味があるということでしょう。

 カタストロフィに向かう終局の描写は素晴らしく、そこに至るまでのユーモラスなプロセスは、対比的な効果を高めることに寄与しているとは思いますが、進展がないまま同じような出来事が続いているような印象もあり、やや冗長な感じがします。

 ただし、人物造型といい語り口といい"町田ワールド"ならではのユニークさで、読み終えてみれば力作には違いないとの感想は持ちましたが、テーマ的には、「人は人をなぜ殺すのか」と言うより、「熊太郎はなぜ人を殺したのか」という話であるように思えました。
 
●朝日新聞・識者120人が選んだ「平成の30冊」(2019.3)
1位「1Q84」(村上春樹、2009)
2位「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、2006)
3位「告白」(町田康、2005)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)

 【2008文庫化[中公文庫]】

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文体やフレーム破壊にパワーを感じる一方、構成的には今ひとつ。

舞城 王太郎 『阿修羅ガール』1.jpg舞城 王太郎 『阿修羅ガール』2.jpg舞城 王太郎 『阿修羅ガール』3.jpg  阿修羅ガール2.jpg
阿修羅ガール』〔'03年/新潮社〕 『阿修羅ガール (新潮文庫)』〔'05年〕

 2003(平成15)年・第16回「三島由紀夫賞」受賞作。

 女子高生のアイコは、好きでもないクラスメイトの佐野とセックスしてしまい、行為のあと嫌悪感に陥り、相手を蹴飛ばしてホテルから飛び出す―。
 「減るもんじゃねーだろうとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心」と、ナンかテンポいい書き出しだなあと思って第1部を読み始めましたが、小気味良い女子高生の独白体も、ホントは佐野なんかより陽治が好きで...といった陳腐な純愛話と学園内スケバン抗争ばかりがだらだら続いて、さすがに少し飽きてくる...と思ったら途中から佐野の行方不明に始まり色々と騒ぎは大きくなって、ミステリー仕立てに加えてスラップステッィクな感じに。

 それが第2部に入ると、「崖」「森」「グルグル魔人」の「三門」構成で、「崖」ではアイコは「三途の川」上空にいて、「いくな。もどれ」といった陽治からのメールメッセージ(文中、巨大活字で書かれている)を受けていて、ここまでは、「何でもあり」の中にも1つの流れがあって、まあまあ面白かったです。

 でも「森」「グルグル魔人」で、意図的にそうした小説的な流れを断ち切っているかのように思え、それがあまり効果的だったとは思えませんでした(特に「森」は唐突すぎた)。
 結局、何だかよくわからないうちに終わってしまって、と思ったら第3部があって、しっかり第1部と第2部の「三門」のそれぞれの関係を解説しているので、親切と言えば親切なのですが、小説としてこれはどうなのだろうか。

 アイコの成長物語だとしても(である必要もなかったと思うが)、第3部の語り手は第1部よりずっと老けた感じがして繋がらないし...。
 文体にも、どんどん自らのフレームを破壊していく様にもパワーを感じますが、構成的にはうまくいっていないような気がしました。
 
 【2005年文庫化[新潮文庫]】

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別に「家族介護」の問題を社会提起しようとしたのではなく...。

介護入門.jpg 『介護入門』 (2004/08 文藝春秋)       モブ・ノリオ.jpg モブ・ノリオ氏

 2004(平成16)年度上期・第98回「文學界新人賞」、2004(平成16)年上半期・第131回「芥川賞」受賞作。

 「家族介護」の現場をリアルに描いていて、加えて主人公が元マリファナ中毒だったり、文体が"ラップ調"だったりする取り合わせでも話題になった作品ですが、読み始めてすぐに町田康の"パンク調"とか"ビート調"と言われる文体の小説を連想しました。
 著者が語っているのをどこかで読んだ記憶がありますが、影響を受けた作家に町田氏の名も挙げていて、バンド活動をしていた点でも通じるせいか、町田氏のことを「町田町蔵さん」と呼んでいました。

 この小説の主人公が世間に悪態をつきながらも、自身は経済力のある親にパラサイト的に保護されている点も、町田氏の芥川賞受賞作『きれぎれ』の主人公と似ている。
 別に「家族介護」の問題を社会に提起しようとしたのが狙いではなく、『きれぎれ』と同じく、閉塞状況の中で何とか自分自身を取り戻そうとしている1個の人間の思念を描いているのだと思いましたが、それとは別に、主人公の祖母に対する愛情みたいなものが逆説的にじわ〜と伝わってくるのが、この作品の妙でしょうか。

 確かにリズムをつけて読んだ方が読みやすい感じもしますが、非常に計算してと言うかむしろ苦心して文体を作っているぎこちなさも感じました。
 "ラップ調"と言っても必ずしも韻を踏んでいるわけではないので、 読んでいて単なる「棒読み」みたくなってしまう。"YO、朋輩(ニガー)"とか出てくるたびに、「そうそう、ラップ調だった、ラップ調」と我に返るのですが...。

 さほど長くない作品なのに途中で横滑りしていてような中だるみ感もありましたが、一定の力量とひたむきさのようなものが感じられ、この作品は自分の体験に近いところで書いているようですが、今後どういう方向にいくのかなあという点での関心は持てました。

 【2007年文庫化[文春文庫]】

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野坂昭如ばりの文体と諧謔ぶり? 読んで何が残るか? 何れも今ひとつ。

きれぎれ.gifきれぎれ』 ['00年] きれぎれ.jpg  『きれぎれ』 文春文庫  町田康.png  町田 康 氏

 2000(平成12)年上半期・第123回「芥川賞」受賞作。

 さっぱり仕事をしない万年金欠男の日常を描いています。
 肉親や名ばかりの友人に金策に回らざるを得ない屈折した心理、元ランパブ嬢の妻への屈折した愛情などが、現実と妄想の中で展開していく―。

 芥川賞の選考では、宮本輝が猛反対し、石原慎太郎が強く推したようですが、わかる気がします。
 文体がユニークなことで「ビート派」とか言われる作家ですが、「きれぎれ」について言えば、かなり「メロディ」も重視し、計算して書いたように見えます。
 しかし文体も諧謔ぶりも、例えば、野坂昭如ばりとでも言うか、ただし、野坂昭如の初期作品などの強烈さには及ばないという気がします。

 日常生活における人間心理の闇の部分、常識化されていない部分を描くのが文学の役割の一つであるという「定式」があるのか、芥川賞受賞作にはいろいろな意味で極端な人物が登場したりしていて、その受け入れやすさで好きな人嫌いな人に分かれがちです(自分自身も、多分に登場人物の好き嫌いで作品を見ている部分はあります)。

 その点「きれぎれ」の主人公は、バブル崩壊後の世相を反映したキャラクターに思え、「勝ち組・負け組」で言えば「負け組」とわかりやすい方だと思います。
 攻撃的であるが屈折していて、そのくせ青空のように突き抜けたところがあるため、作品としては読み手に適度に受け入れられやすいのではないでしょうか。
 ただ読んで何が残るかというと、この作品については個人的には今ひとつでした。

 作者自身はパンクロックを「あらゆる現実を否認しながらその果てに現れる虚無と戯れるがごとき音楽」(『群像』'01年5月号「人生の野坂昭如」)と定義していて、この小説もむしろ「音楽」や「詩」に近いのかも―と思ったりもしました。
 
 【2004年文庫化[文春文庫]】

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ホステスたちと南の島へ厄払いに。楽天的なパワーを感じる"亜熱帯"小説。

豚の報い.jpg 『豚の報い』 (1996/02 文芸春秋)  豚の報い movie.jpg 1999年映画化 (監督:崔洋一)

 1995(平成7)年下半期・第114回「芥川賞」受賞作。

 大学生の正吉(しょうきち)は、沖縄・浦添のスナックのホステスたち3人と、生まれ故郷の真謝島にウガン(御願=祈祷)にいくことになる。
 それは、ある日スナックに闖入した豚のためにホステスの1人が失神してしまい、マブイ(魂)を落としたために、ユタ(霊能者)のことに詳しい正吉を伴って、島のウタキ(御獄=霊場)でその厄払いをしようというものだ。
 他の女たちもそれぞれに過去の問題を抱えて、まとめて皆で厄落としをしようというのだ。
 しかし、正吉にとってそれは、12年前に漁で亡くなり、島の風習で風葬された父の骨を拾いにいく旅でもあった―。

 ホステスたちがケバケバしくかつ騒々しく、そのうえ負っているものが重くて、読み始めはちょっと引いてしまいます。
 しかも、現地で豚の内臓料理を食べて全員下痢状態になってしまう―猥雑さに、さらに汚辱がプラスされる。
 でも逆に、このあたりから女たちの弱さや強さが見えてきて、みんな一生懸命生きているのだという健気さのようなものを感じるようになってきました。
 
 一方、正吉は父の遺骨と対面し、12年間海を見てきた骨を見て、父は神になったと感じ、ここを御獄(霊場)にしようとする―。その心理、なんとなく感覚的にわかりました。
 ホステスらに、行こうとしている霊場が父の遺骨の場所であることをつい正直に話してしまうが、彼女らもそれでいいという...。みんないい人たちなのだなあ。 
 ラストのユーモラスな掛け合いは、お祓いがうまくいくことを予感させます。

 著者のこの作品に限って言えば、沖縄文学というより、楽天的なパワーを感じる"亜熱帯"小説という印象を受けました。
 崔洋一監督・脚本、小澤征悦主演で映画化もされていますが、ビデオ化された後DVD化された途端に廃盤になったのは、評判の方が今一つだったためか?

 【1999年文庫化[文春文庫]】

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