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作者が1度しか書けないようなモチーフを扱って、巧く作品に昇華しているように思った。

その日東京駅五時二十五分発 kaba.jpgその日東京駅五時二十五分発 1.jpg 西川美和.jpg 西川美和 氏(映画監督、脚本家)
その日東京駅五時二十五分発

 主人公の「ぼく」の祖父の回想から始まり、暴君であった祖父の顔を眺めているうちにされこうべが見えるようになって、他の人のも見えるようになったと―。19歳の「ぼく」は、同期の益岡と東京駅から汽車に乗り、それぞれの故郷を目指ことになっていたが、憲兵に脱走兵と間違えられ詰問される。身体が小さく徴兵検査で第二乙種と判定され工場で働いていた「ぼく」だったが、5月半ばに召集令状がきて陸軍通信隊に入ることになった。大阪での訓練の後、東京の通信隊本部に転属、モールス信号の練習に明け暮れていたが、7/27に米国の短波放送でポツダム宣言の発表を受信、その後広島と長崎に新型爆弾が落とされたことが伝えられる中、8/11から機密書類や通信機材の処分が始まり、8/14の夕刻に陸軍通信隊初年兵25名は解散となったのだった。「ぼく」と益岡はまだ殆どの日本人が終戦を知らない中、ひと足早く故郷へ向かう東京駅五時二十五分発の東海道線に乗る―。

 若手映画監督であるとともに、前作『きのうの神さま』が直木賞候補になった著者の作品で、120ぺージほどとそう長くない作品ですが、面白く読めました。

 読み進むうちに「ぼく」の置かれている特異な状況が浮き彫りになってきます。つまり、通信部隊という特殊な部隊の所属であったことから、周囲より早く終戦を知り得て、事前に機密文書の処分や通信機材の破壊など後処理に入り、隊も解散して故郷への帰還命令が出たということで、自分たちはすでに兵隊ではないという意識でいるが、敢えてそれを人には言わない(言ってはならない)という状況です。

 作品のモチーフは、作者の伯父の手記だそうで、実際に1945年の春に召集されて終戦までの3カ月、陸軍の特殊情報部の傘下で通信兵としての訓練を受けていて、8月15日正午の玉音放送の前に終戦を知らされ、前日には故郷に向かった―作者はこうした状況にある種ファンタジー性を感じたようですが、この作者にして人生で1度しか書けないようなモチーフを扱って、巧く作品に昇華しているように思いました(伯父の手記に出会わなければ、この作品も無かったわけだ)。

 「ぼく」は、汽車の中で神風号を見に行ったことを思い出します。飛行機乗りに憧れながらも、徴兵検査第二乙種となり、航空機用のエンジン製造工場で働いていた「ぼく」は、やっと召集されたかと思ったらモールス信号の練習に明け暮れることになって、と思ったら終戦、しかも、初年兵の立場ながら世間一般より早く終戦を知ったという―、こんな「終戦」もあったのかと。

その日東京駅五時二十五分発 omote.jpg 物語は、「ぼく」が故郷・広島に辿りついて、玉音放送の日、原爆で破壊され焼き尽くされた街を目の前に立ちつくす場面へと続いていきます(この少し前に初めて「ぼく」の故郷が広島であることが読者に明かされる。但し、本の帯に「終戦当日、ぼくは故郷広島に向かった。この国が負けたことなんて、とっくに知っていた」と書かれてしまっていたがその日東京駅五時二十五分発 ura.jpg)。変わり果てた故郷の街で「ぼく」は一体何を見てどう感じたか―。

 作者がこの物語を、「夢売るふたり」の撮影が始まる前に書いていたら、その間に東日本大震災が発生したとのことです。何でもかんでも「3.11」に結びつけてしまう風潮はどうかと思う面もありますが、この作品に関しては、作者があとがきで、「2011年の早春という時期に筆を取っていなければ、全く別のものに仕上がっていた」と書いているのがよく分かる気がします。

【2014年文庫化[文春文庫]】

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「●「本屋大賞」 (10位まで)」の インデックッスへ

いろいろ批判や矛盾点はあるかもしれないけれど、「巧いなあ~」と。

沼田 ユリゴコロ1.png 沼田 ユリゴコロ 2.pngユリゴコロ』(2012/04 双葉社)

 2011(平成23)年・第14回「大藪春彦賞」受賞作。2012年・第9回「本屋大賞」第6位。

 不慮の事故で母親を失い、父親も末期の癌に侵されていることを知った亮介は、実家の押入れで「ユリゴコロ」と名付けられた古びたノートを偶然見つけるが、そこに記されていたのは、殺人に取り憑かれた人間の生々しい告白だった。創作なのか、或いは事実に基づく手記なのか、そして書いたのは誰なのか。謎のノートは亮介の人生を一変させる驚愕の事実を孕んでいた―。

 「本屋大賞」で6位かあ。巧いなあと思いました。途中で先が読めたという人もいるけれど、自分には、話が一旦は一段落したかのように思えた後の、最後の展開は全く予想がつきませんでした。

 手記の主が衝動殺人に至る動機が、描写からはよく伝わってこないとか色々と批判はあるかも知れませんが、まあこの辺りはどちらかと言えばホラーサスペンス系で、純文学じゃないんだし、個人的には、「道尾秀介」作品みたいに心理描写に凝らなくてもいいのではと思いました(むしろこの場合、あまり凝らない方がいいのではと)。

 主人公・亮介が、この手記は両親のどちらが書いた小説か何かだろうと考えつつ、内容が現在の自分の家族と通じる部分があり、更に、幼い頃に自分の母親が入れ替わってしまったような記憶があるために疑心暗鬼を深め、不安を駆り立てられる心情の描写などは、むしろ簡潔にして巧みと言えるのでは。

 一番気になったのは、最初の頃の殺人と最後の方の「必殺仕置人」的(?)な殺人が、あまりに質が異なり、繋がらなさ過ぎるという点で、まあ、そうした幾つかの矛盾点を抱えながらも、力技で「救い」のある結末に持っていき、それでいて「こんなの、ありか」と思わせる前に、「巧いなあ~」と思わせてしまうのは、やはり相当の力量なのかも。

 「湊かなえ」作品のように、出てくる人が誰も彼も悪意に満ちているといったこともなく、むしろ"感動物語"と言えるかどうかはともかく、ほっとさせられるような結末になっていて、そうなると今度は、最初に殺された子どもやその親は報われないんじゃないかという見方もあるかも知れませんが、こうしたお話で倫理とか道徳とか言い始めると、楽しめないんだろうなあ。

 概ね気持ち良く騙されたということで、星4つ、としたいところですが、やはり、まるで別人格になった人間が、「平然と人を殺せる」という特質だけ保持していることの不自然さから、星半個マイナス。

【2014年文庫化[双葉文庫]】

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恐るべき内容ながらも、抑制の効いた知的で簡潔・骨太の文体。男性的な印象を受けた。

海神丸3.JPG海神丸 野上.jpg海神丸 野上弥生子.jpg   野上弥生子.jpg 野上弥生子(1885-1985/享年99)
岩波文庫旧版/『海神丸―付・「海神丸」後日物語 (岩波文庫)』 

 1916(大正5)年12月25日早朝、男4人を乗せ、大分県の下の江港から宮崎県の日向寄りの海に散在している島々に向け出航した小帆船・海神丸は、折からの強風に晒され遭難、漂流すること数十日に及び、飢えた2人の船頭は、船長の目を盗んで若い仲間を殺し、その肉を喰おうと企てる―。

野上彌生子集 河出書房 市民文庫 昭和28年初版 野上弥生子.jpg 1922(大正11)年に野上弥生子(1885-1985/享年99)が発表した自身初の長編小説で、作者の地元で実際にあった海難事故に取材しており、本当の船の名は「高吉丸」、但し、57日に及ぶ漂流の末、ミッドウエー付近で日本の貨物船に救助されたというのは事実であり、その他この小説に書かれていることの殆どは事実に即しているとのことです。

野上彌生子集 河出書房 市民文庫 昭和28年初版(「海神丸」「名月」「狐」所収)

 救出された乗組員は3人で、あとの1人は漂流中に"病死"したため水葬に附したというのが乗組員の当時の証言ですが、何故作者が、そこに隠蔽された忌まわしい出来事について知ることが出来たかというと、物語における船長のモデルとなった船頭が、たまたま作者の生家に度々訪ねてくるような間柄で、実家の弟が彼の口から聞いた話を基に、この物語が出来上がったとのことです。

 岩波文庫の「海神丸」に「『海神丸』後日物語」という話が附されていて、作品発表から半世紀の後、海神丸を救助した貨物船の元船員と偶然にも巡り合った経緯が書かれている共に、救出の際の事実がより明確に特定され、更には、船長らの後日譚も書いていますが(作者と船長はこの時点では知己となっている)、この作品を書く前の事件の真相の情報経路は明かしていません(本編を読んでいる間中に疑問に思ったことがもう1つ。この小説が発表されたのは、救出劇から5年ぐらいしか経っていない時であり、殺人事件として世間や警察の間で問題にならなかったのだろうか)。

 大岡昇平の『野火』より四半世紀も前に"人肉食"をテーマとして扱い、恐るべき内容でありながらも(この物語が「少年少女日本文学館」(講談社)に収められているというのもスゴイが)、終始抑制の効いた、知的で、簡潔且つ骨太の文体。作者は造り酒屋の蔵元のお嬢さん育ちだったはずですが、まるで吉村昭の漂流小説を読んでいるような男性的な印象を受けました。

 「大切なのは、美しいのは、貴重なのは知性のみである」とは、作者が、この作品の発表の翌年から、亡くなる半月前まで60年以上に渡って書き続けた日記の中にある言葉であり、作者の冷徹な知性は、「『海神丸』後日物語」において、"人肉食"が実際に行われた可能性を必ずしも否定していません。
 
海神丸 野上弥生子 新藤兼人「人間」.jpg 尚、この作品を基に、新藤兼人監督が「人間」('62年)という作品を撮っていますが、個人的には未見です。

「海神丸」の映画化 「人間」.jpg
人間 [DVD]
乙羽信子/山本圭/殿山泰司/佐藤慶


【1929年文庫化・1970年改版[岩波文庫]】

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「●「日本推理作家協会賞」受賞作」の インデックッスへ

「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話? 前半部分は冗長、後半部分はご都合主義。

乱反射.jpg 『乱反射』 ['09年]

 2010(平成22)年度・第63回「日本推理作家協会賞」受賞作。

 新聞記者・加山聡の2歳になる一人息子は、根腐れしていたため強風で倒れた街路樹の下敷きになって頭に重傷を負い、救急車で病院をたらい回しにされて亡くなってしまうが、この事故死の背景には、複雑に絡み合ったエゴイズムの積み重ねがあり、事故後、加山は、それらの「罪無き罪」の連鎖を辿る―。

 街路樹伐採の反対運動をする"良識派"の主婦、犬の散歩の際にフンの処理をしない尊大な定年退職者、職務への責任感が希薄なアルバイト医、病院の救急外来を空いているという理由だけで頻繁に利用する若者、事なかれ主義の市役所職員、車の運転が苦手な姉と大型車を親にねだる妹―と、事故の遠因となる人物達の日常が描かれますが、約500ページのうち、そうした事故までの経緯の描写だけで300ページあって、かなり冗長な感じがしました(「週刊朝日」に1年間連載されたものだが、連載では読む気にならないなあ)。

 フツーの人々の平凡な日常に潜むエゴイズムというものを描いているのでしょうが、最初から「エゴ」に焦点を当ててしまっているため、それぞれの人物造型が平板と言うか画一的で、文章もあまり上手くないような...。
 ミステリとしても、要するに「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話であり、あまりに蓋然性に依拠し過ぎていて、それでいて、主人公が因果関係を探る際に、ちゃんとその手助けとなる証言者が次々と現れるのは、あまりに御都合主義めいています。

 帯には「全く新しい社会派エンターテインメント」とありますが、着想自体は悪くないと思うし、主人公の新聞記者自身が、自宅ゴミを高速道路のサービスエリアに持ち込むなど、登場人物の多くと同じようなモラル違反をしているという構図も分かりますが、結局、何が描きたかったのかも曖昧のまま終わっている感じがしました(要するに「道徳訓」だったの?)。

 そうした意味では、「社会派」と言われても、個人的はぴんと来ず、それと、やはり、「エンターテインメント」の部分が、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話に依っているわけで、しかも、冗長だったり、御都合主義だったりと。

 北村薫氏が「日本推理作家協会賞」の選考の際に強く推薦していますが、その前に自作の『鷺と雪』が直木賞選考でこの作品と競合して、『鷺と雪』の方が直木賞を獲っているんだよなあ(落選者へのエール?)。 

【2011年文庫化[朝日文庫]】

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地理的バラエティだけでそこそこ楽しめるが、トリックは物足りない。

ミハスの落日.jpg 『ミハスの落日』['07年]ミハスの落日 文庫.jpg 『ミハスの落日 (新潮文庫)』['10年]

 青年ジュアンは、面識の無いアンダルシアの大富豪にある日突然呼び出され、亡くなった母とこの老富豪が絡んでいた過去の未解決の密室殺人事件の真相を聞かされる―。
Mijas is a town in the province of Málaga.
ミハス.jpg 表題作「ミハスの落日」('98年発表)ほか、世界5都市を舞台にしたミステリ短編集で、地理的バラエティだけでそこそこ楽しめますが、それぞれが短編である分、ミステリとしては仕掛けが軽いというか、いかにも作り物という感じが拭えませんでいた(「ミハスの落日」については、作者自身も後書きで、このトリックは「まともに書いていたら噴飯もの」と認めている)。

 それを補う部分が"旅情ミステリ"的要素だということなのでしょうが、例えば表題作は、ミハス自体が観光都市であり、どちらかと言えばメルヘンチックな町で(伝統的なホテルや教会もあるが、観光向けにリニューアルされている)、個人的にも好きな所ですが、この小説のような雰囲気はあまり無いんだよなあ(これも作者自身が後書きで、実際には「日本人観光客もよく行くくらいなので、寂れた田舎町ではない」と書いている)。

 岡惚れした女性客につきまとうビデオショップの店員が主人公の話「ストックホルムの埋み火」('04年)も、必ずしもストックホルムが舞台である必然性は感じられないし...。過去3度の結婚相手が次々と事故死して多額の保険金を受け取った女性の話「サンフランシスコの深い闇」('04年)が、多少翻訳モノっぽい雰囲気が出ていてラストもちょっと意外性があったけれども、これも、別にサンフランシスコでなくとも...。
 
 娼婦連続殺人事件の犯人を追う「ジャカルタの黎明」('06年)や、アメリカ人女性旅行客のガイドとして雇われたエジプト人の男が辿る末路を描いた「カイロの残照」('06年)もそうですが、全体的には、犯人の動機や犯行のトリックに無理があり過ぎるように思えました。

 それぞれの都市を現地取材したとのことで、すべて「現地人」を主人公にして書いているという点では意欲的と言うかユニークだと思いましたが、肝心の彼らの視線が何となく日本人観光旅行者的なのが気になり(最後の「カイロの残照」などは、まさに旅行ガイドが主人公)、後書きに作者の観光旅行記みたいなコメントがあると尚更そう感じてしまいます。

 但し、「小説新潮」の"密室特集"とか"警察小説特集"といった要請に沿いながら、そこに自ら"世界の各都市を舞台にした作品"という制約を加えて、南欧・北欧・アメリカ・アジア・アフリカとあちこち飛びながらあまあの連作を構成しているというのは、やはり評価すべき才能なのでしょうか。

 【2010年文庫化[新潮文庫]/2016年再文庫化[創元推理文庫]】

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「●「直木賞」受賞作」の インデックッスへ 「●日本のTVドラマ (90年代~)」の インデックッスへ(「女刑事・音道貴子~凍える牙」)

ミステリとして瑕疵は多いが、設定のユニークさと人間ドラマとしての旨さがある。

凍える牙 乃南アサ著. 新潮社.jpg  凍える牙 新装版.jpg 凍える牙 乃南アサ 文庫.jpg        凍える牙 ドラマ.jpg 
凍える牙 (新潮ミステリー倶楽部)』『凍える牙』『凍える牙 (新潮文庫)』 ['00年] テレビ朝日系 2010年1月30日放映 「女刑事 凍える牙」

 1996(平成8)年上半期・第115回「直木賞」受賞作。

 立川市のファミレスで起きた、男性客の体が突然燃え上がって焼死し、男性には時限発火装置が仕掛けられていて、大型犬のような動物による噛み傷あったという事件の捜査に、"バツイチ"女性刑事・音道貴子はたたき上げの刑事・滝沢保と共に臨むが、滝沢は女性と組まされた不満から貴子に辛く当たる―。

 '10年1月にテレビ朝日系列で、音道貴子役・木村佳乃、滝沢保役・橋爪功で放映されましたが、直木賞作品でありながら、犬に演技させるのが難しいために長らく映像化されなかったのかなと思っていたら、すでに'01年にNHKで天海祐希主演でドラマ化されていた...。

 原作は、犯人の動機やそうした犯行トリックを選んだ理由の脆弱さなど、ミステリとしては瑕疵が多いとも思われますが、何よりも、都会の真ん中で人が次々と野犬のような動物に襲われて亡くなるという設定そのものが、ユニークでインパクトあります(強いて言えば、アーサー・コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』の「日本版」乃至「都会版」といったところか)。
 しかも、女性刑事とベテラン男性刑事が、コンビで捜査に当たる間ずっと折り合いが悪かったのが、事件の経過と共にその関係が少しずつ変わって行く様が、個々が抱える背景も含めた人間ドラマとして旨く描けているように思います。

 終盤は、疾風(はやて)という名の"オオカミ犬"にスポットが当てられ、主人公の音道貴子が疾風に感情移入していくのと併せて、読者をもそれに巻き込んでいき、犯人は結局何のためにこうした犯行を犯したのかという、結果から逆算すると虚しさが残るはずのプロットであるにも関わらず、感動ストーリーに仕上がっています(実際、作者の巧みな筆捌きにノセられ、自分も感動した)。

 テレビ朝日版のドラマでは、木村佳乃、橋爪功ともに悪くない演技で、特に橋爪功はベテランの味を出していたような気がします(原作とはイメージが異なるが)。
 それよりも驚いたのは、犬がちゃんと"演技"していたことで、でも考えてみれば犬が"演技"するはずはないわけであって、演技とは観客の感情移入で成立するものだということを思い知らされました。
 このドラマの"犬"が登場する場面で用いられているモンタージュ手法が巧妙なのか、それとも、もともと見る側に動物に感情移入し擬人化しがちな素因があるのか...?

女刑事 凍える牙   .jpg凍える牙 ドラマ.jpg「女刑事・音道貴子~凍える牙」●演出:藤田明二●制作:河瀬光/横塚孝弘/藤本一彦●脚本:佐伯俊道●音楽:鈴木ヤスヨシ●原作:乃南アサ「凍える牙」●出演:木村佳乃/橋爪功/小野武彦/布施博/平山浩行/内藤剛志/津川雅彦/金田明夫/勝野洋/前田健●放映:2010/01(全1回)●放送局:テレビ朝日

 【1996年単行本・2007年新装版[新潮社]/2000年文庫化[新潮文庫]】

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独身OLの一人旅。悪くはないが、中篇でまとめた方がスッキリいったのでは。

うつくしい人 西加奈子.jpg 『うつくしい人』 (2009/02 幻冬舎)  西 加奈子.jpg 西 加奈子 氏

 32歳の独身OLの私は、他人の苛立ちに怯えながら周囲への注意を払い続けるような会社での日々に疲れ、退職をして気分転換に瀬戸内の離島のリゾートホテルへ旅に行くが、そこには、ホテル・バーテンダーの坂崎という男が働いていて、彼は冴えないけれども何となく私を安心させる。一方、暇と金を持て余しているドイツ人のマティアスという男が滞在客としていて、私と坂崎、マティアスは、ふとしたことから互いの距離を接近させる―。

 最初は、何か暗いムードの文芸小説という感じで、主人公の自意識との葛藤みたいなものに付き合わされているような感じも無くなく、更に主人公の姉に対する葛藤のような話が出てきて、ますます神経症的になってくるので、西加奈子ってこんな作風の人だったかなあと―。

 でも、一見風変わりなマティアスや坂崎の抱えているものが明らかになるにつれて、逆に「私」の方には何かゆとりが出てきたみたいで、出版社の口上に「非日常な瀬戸内海の島のホテルで出会った三人を動かす、圧倒的な日常の奇跡。心に迫る傑作長編!」とありますが、これはやや大袈裟、最後はまあ無難なところに落ち着いたという感じかなあ。

 主人公同様に作者自身が自意識と自己嫌悪に悩まされている時期にこの作品を書き始め、書き終えた時には、最悪の状況を脱していたというようなことがあとがきに書かれていますが、確かに、書くことによって自己セラピーしているような印象も受けます。

 そのためか、それほど長い作品でもないのにやや冗長に思える部分もあり、全体としてはそれほど悪くはないのですが、モチーフ的にも見ても、長編よりも中篇程度で纏めた方がスッキリいったのではないかと。

 作中に、本に挟まっていたという1枚の写真を探すため、夜中に3人がホテルの図書室の本を片っ端から開き始めるという場面があり、余談になりますが、ホテルに図書室があるのって、たまに出くわすといいなあと思います。

かんぽの宿.jpg 高級リゾートホテルではないですが、連泊が原則の湯治型の「かんぽの宿」に以前に宿泊した際に、公立図書館の処分本または滞在客が置いていった本などを集めたと思われる図書室がホテル内にあり、蔵書3,000冊と結構充実していて(自室への貸し出し可)、シーズンオフののんびりとした雰囲気の中で集中して読書できたことを、この小説を読みながらずっと思い出していました(オフとは言え、宿泊客の数の何倍もの従業員がいて無聊を託っているというのは、経営上、やや問題があるのではとも思ったが)。

【2011年文庫化[幻冬舎文庫]】

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「萌え」論という言うより、日本人論、比較文化論に近いが、それなりに楽しめた。

鳴海 丈 萌えの起源.jpg「萌え」の起源.jpg「萌え」の起源 (PHP新書) (PHP新書 628)』['09年]四コマ漫画―北斎から「萌え」まで.jpg四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)』['09年]

bannpaiya .JPG美少女」の現代史.jpg 時代小説家が「萌え」の起源を探るという本ですが、著者が熱烈な手塚治虫ファンであることもあって、著者によればやはり手塚作品が「萌え」の原点に来るようです。

 ササキバラ・ゴウ氏の『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』('04年/講談社現代新書)も、手塚作品(テレビアニメ「海のトリトン」)に「萌え」の起源を見出していましたが、本書で著者は、「リボンの騎士」の男装で活躍するサファイア姫、「バンパイヤ」の狼に変身する岩根山ルリ子(手塚作品では初めて女性のヌードが描かれたものであるらしい)、『火の鳥2772』の女性型アンドロイド・オルガなど、「変身するヒロイン」にその起源があるとしています。

『バンパイヤ』(秋田文庫版第1巻211pより)
       
松山容子 (「琴姫七変化」)/志穂美悦子
松山容子.jpg志穂美悦子2.jpg志穂美悦子.jpg そして、それ以前の「変身するヒロイン」の系譜として、著者が造詣の深い女剣劇のスターに着目し、こちらは松山容子(60年代は「琴姫七変化」のイメージが強いが、70年代は"ボンカレー"のCMのイメージか...)、更には志穂美悦子などへと連なっていくとのこと。著者によれば、こうしたヒロインが愛されるのは、「日本人は性の垣根が低く、人間でないものとの境界もないに等しい」という背景があり、それが手塚作品の特異なヒロイン像にも繋がっているとしています。

 「萌え」マンガのその後の進化を辿りつつ、話は次第に日本文化論のような様相を呈してきて、更にマンガ、アニメだけでなく、日本映画を多く取り上げ、そのヒーロー、ヒロイン像から、日本人の価値観、美意識など精神構造を考察するような内容になっています。

 結局、本のかなりの部分は、古い日本映画に着目したような話になっていますが、観ていない映画が多かったので、それはそれで楽しめ、それらの中に見られる主人公の価値観や行動原理が、現代アニメのヒーローやヒロインにも照射されていることを示すことで、多少、マンガ・アニメ論に戻っているのかなあという感じ。でも、日本映画の主人公とハリウッド映画の主人公の違いなどが再三(わかりやすく)論じられていて、全体としてはやはり「比較文化論」「日本人論」に近い本と言えるような気がします。

 ササキバラ・ゴウ氏の本もそうでしたが、マンガ・アニメについて論じる場合、自らの"接触"体験に近いところで論じられることが多いような気がし、そうした中でも「萌え」について論じるとなると、尚更その傾向が強まるのではないかと。著者で言えば、手塚ファンであるから手塚作品がきて、また時代小説家であることから女剣劇が出てきて、アクション小説も書いているから志穂美悦子といった具合に...(その他にも多数のマンガ・アニメ・映画が紹介されてはいるが)。しかも、実際に著者の書いているライトノベル時代劇には、女剣士がよく登場する...。一般論と言うより、著者個人の思い入れを感じないわいけにはいきませんでした(自分自身の「萌え遍歴」を綴った?)。

 但し、未見の日本の映画作品の要所要所の解説は楽しめ、「仇討ち」をテーマにしたものなど、日本人の精神性を端的に表して特異とも思えるものもあり、そのうちの幾つかは、機会があれば是非観てみたいと思いました。

hokusai manga.jpg 尚、本書第1章で解説されいる手塚治虫以前のマンガの歴史は、本書にも名前の挙がっている漫画研究家・清水勲氏(帝京平成大学教授)の『四コマ漫画―北斎から「萌え」まで』('09年/岩波新書)に四コマ漫画の歴史が詳しく書かれています。清水氏の『四コマ漫画』によると、手塚治虫のメディア(新聞)デビューも、新聞の四コマ漫画であったことがわかります。

 『北斎漫画』(左)から説き始め、体裁は学術研究書に近いものの、テーマがマンガであるだけにとっつき易く、その他にも、『サザエさん』のオリジナルは、福岡の地方紙「夕刊フクニチ」の連載漫画で、磯野家が東京へ引越したところで連載を打ち切られた(作者の長谷川町子自身が東京へ引っ越したため)とか、気軽に楽しめる薀蓄話が多くありました。
  
    
       
                
松山容子2.jpg松山容子1.jpg「琴姫七変化」●演出:組田秋造●制作:松本常保●脚本:尾形十三雄/西沢治/友田大助●音楽:山田志郎●原作:松村楢宏● 出演:松山容子/秋葉浩介/田中春男/栗塚旭/野崎善彦/国友和歌子/海江田譲二/松本錦四郎/名和宏/佐治田恵子/入川保則/乃木年雄/沢琴姫七変化e02.gif井譲二/手琴姫七変化7.jpg塚茂夫/花村菊江/乗松ひろみ(扇ひろ子)/朝倉彩子●放映:1960/12~1962/12(全105回)●放送局:読売テレビ

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「サブカルの人」だが、小説一本に注力したら結構な数の読者を獲得するかも。

真理先生.jpg 『真理先生』 (2009/01 青林工藝舎)Let's go 幸福菩薩.jpg『Let's go 幸福菩薩』 ['85年/JICC出版(絶版漫画)]

 本書の著者・根本敬氏は、80年代に「ガロ」でデビューした漫画家で(自称「特殊漫画家」(?))、蛭子能収氏のプロダクションに籍を置く傍ら、漫画だけでなくエッセイから映像プロデュース、音楽評論まで幅広く手掛け、「サブカル(チャー)の人」と言った方が分かりが早い感じの人。
 '08年にそれに相応しい「みうらじゅん賞」を受賞し、この賞は、イラストレーターのみうらじゅん氏が勝手に定めた賞ですが、これまでの受賞者では、いとうせいこう、泉麻人、安斎肇、山田五郎などの各氏がいて、本書の帯に推薦文を書いているリリー・フランキー氏もその1人と言えば、何となくこの人の系譜がわかりそうな感じもします(但し同賞は、最近では叶姉妹、ギャル曽根、サミュエル・L・ジャクソンなども受賞対象となっていて、何だかよく分からない賞になりつつあるが)。

 本書は著者のもう何冊目かになるエッセイ集ですが(随分とすっきりした表紙になったなあ)、真ん中に中篇小説が収められていて、これがやたらに面白かったです。
 エッセイも、日常の出来事や時事批評的なものから哲学的な思索まで話題の対象は広く、かなり話があちこち飛躍して、それらが錯綜している感じ。それにサブ・カルチャー的な話題が絡んでややマニアックな面もあり、この"書きなぐり"風は計算づくなのか、それとも本当に"書きなぐって"いるのか、よく分かりません(水木しげると赤塚不二夫を、それぞれ違った意味で尊敬していることは分かった)。

 それに比べると、ある男の一代記(性遍歴が主)である「小説」は、「河村さんだけど、アレは奥さんの方の姓でね、元々は加藤さん。フルネームは河村清定」なんて調子でいきなり入っていくところから、後で思えば巧妙に計算されていたように思え、最後はやや漫画チックでしたが、途中意外な展開もあり、とにかく登場人物が生き生きと描かれていて、更に文章のリズムが良く、野坂昭如のデビュー当時の小説を読むように楽しませてもらいました。
 敢えて「小説」とし、特にタイトルをつけていないのは、本人は"素人の習作"のつもりだからなのでしょうか。小説としては"玄人はだし"だと思うのですが。

 小説を読み終えて、またエッセイを読むと、エッセイも小説っぽいリズムであることに気づき、道理でエッセイから小説に移った時に、変に作ったという印象が無かったわけだ...(実際には、先に述べたように巧みに計算されているのだが)。

 この人、暫くの間は小説一本に注力したら結構な数の読者を獲得するかも。メジャーになり過ぎることを嫌う固定ファンがいるかも知れないけれど。

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「色好み」を自ら体現したのは紫式部よりも清少納言、更にその上をいった和泉式部。

色好みの構造―王朝文化の深層.jpg 色好みの構造 ― 王朝文化の深層.jpg      中村真一郎.jpg 中村真一郎 (1918-1997/享年79)
色好みの構造―王朝文化の深層 (岩波新書 黄版 319)』['85年]

色好みの構造4.JPG タイトルからくるイメージとは異なり、かなりカッチリした内容の王朝文化論―、ではあるけれども、テーマが「色好み」であるだけに面白く読めました。
 
 著者によれば、平安朝における「色好み」という愛の形(性的習慣)は、今日から見ると、ほとんど特異で非常識なものであり、それは平安朝の生んだ愛の理想形であるとのことで、例えば、男が1人の女だけを盲目的に愛するのは、一種の病人でありモノマニアとして見られたとのこと。

 日本人の美意識は平安朝において完成し、以降は解体期であるとの見通しを著者は持っていて、平安朝の美意識を頂点とすれば、近世の「つきづきし」などもそのバリエーションに過ぎず、その美意識と不可分の関係にある「色好み」という"文明理想"は日本の伝統の根に潜み、今日でも我々の観念生活の中に残存しているかも知れないとのこと。

 しかし、「色好み」の頂点とされる『源氏物語』などの平安王朝文学を今日読み説くにあたっては、以降の儒教思想の影響、本居宣長の道徳的自然主義や明治期の日本的自然主義の影響などを経て、常に倫理観的なバイアスがかかったものにならざるを得なかったのではないかと。

 典型例が、光源氏が多数の女性に惹かれたのは「人間的弱さ」からであり、本来は1人の女性に対し貞節を守るべきだが、人間とは欲望に弱いものであり...とか、彼は1人1人の女性に対しては誠実だった...とかいったものですが、近代的感覚によって、光源氏の「色好み」の生活を現代の倫理観に調和させるのは無理があるというのが著者の主張です。

 著者によれば、平安期において「色好み」は隠しておきたい欠陥ではなく、1つの文明的価値であり美徳であったと。
 『源氏物語』の登場人物には実在のモデルが多くいて、それは当時週刊誌のように廻し読みされる「スキャンダル集」だったが、読者男女は、次は自分たちの秘事が暴かれるのではないか、この物語のモデルとなる名誉に浴したいものだ、という期待のもとに、新巻を待ち焦がれていたというのです。

 しかし、『紫式部日記』から察せられる紫式部自身の恋愛観は典型的な「色好み」とは言えず、むしろ、それを体現していたのは『枕草子』の清少納言だったというのが大変面白い指摘で、清少納言は相当な"発展家"だったみたい(作品においても、『枕草子』の「おかし」は『源氏物語』の「あわれ」よりも知的遊戯性の度合いが高いと著者は見る)。

 更にその上をいく「色好み」の女流は、『和泉式部日記』の和泉式部で、紫式部より遥かに気安く男性と付き合い、それを平然と人に見せびらかすとともに、清少納言のように色事の風情を楽しむだけでなく、いちいち相手に深入りし、情熱の燃え上がりを見せるというタイプだったらしいです。

 因みに、「色好み」の要件の第1は和歌の才能で、いかに優れた(凝った)恋歌が詠めるかということのようなので、ただ好色なだけではダメみたい。

  
 【2005年アンコール復刊[岩波新書]】

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「家族」の持つ宗教性? と言うより、ただタチが悪いだけの宗教団体ではないか、これでは。

暗鬼.jpg       暗鬼 角川文庫.jpg           ローズマリーの赤ちゃん』(1968).jpg
暗鬼 (文春文庫)』〔'01年〕 『暗鬼 (角川文庫)』〔'93年〕  「ローズマリーの赤ちゃん [DVD]

 主人公の法子が結婚し、新たに住まうことになった夫の実家は、夫の両親、弟妹、祖父母、曾祖母の住む大家族だったが、皆いい人ばかりのように思えた。しかし法子はある日、近所で起きた心中事件に、夫の家族たちが関与しているらしいという疑いを抱かざるを得なくなる―。

 著者の得意分野であるサイコ・ミステリーで、「家族」というものがかつて持っていた宗教性のようなものがテーマになっているらしいと。...でも、読んでみてかなりガックリ。これでは、かなり低レベルでタチの悪い宗教団体ではないか。折伏といい、何といい...。主人公がなんでこんな家族を捨てて、さっさと逃げ出さないのか不思議。ミステリーで主人公が鈍いというのは脱力します。それでも、結末はどうなるのかという残された唯一の関心だけで最後まで読みましたが、いきなり漫画チックで俗っぽい展開になったりして。

ローズマリーの赤ちゃん』(1968)2.jpgRosemary's Baby.jpg 主人公が夫の家族から薬草を飲ませられるところは、ロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」('68年/米)を思い出しましたが、終わり方もちょっと似ているかも。
        
ローズマリーの赤ちゃん5.jpg 「ローズマリーの赤ちゃん」はアイラ・レヴィン(1929-2007.11.12)ローズマリーの赤ちゃん1jpg.jpg同名小説の映画化で、主人公の若妻ローズマリー(ミア・ファーロー)が役者志望の夫・ガイ(ジョン・カサヴェテス)と共に越してきたニューヨークのアパート(ジョン・レノン夫妻のいた"ダコタハウス"が撮影に使われている)で、隣人の老夫婦(シドニー・ブラックマー/ルース・ゴードン)にお節介なほど世話をやかれ、彼女が妊娠すると身体にいいからと薬草エキスのようなものを飲まされるという―。

 『暗鬼』も「ローズマリーの赤ちゃん」も共に個人的にはあまり後味が良くなかったけれども、「ローズマリーの赤ちゃん」のラスト(ミア・ファーローの"母性に目覚めた"表情)の方が怖いかも(ミア・ファーローは、自分が出演した映画のうちこの作品だけは、自分で観直すことはないと言っていたそうだ)。

「ローズマリーの赤ちゃん」(ポスター)
ローズマリーの赤ちゃん(ポスター).jpgローズマリーの赤ちゃん.jpg あの映画のミア・ファーローの疑心暗鬼ぶりには、ポランスキーならではの説得力があったように思え、映画として好きではないのですが(カルト教団に取り込まれた人間の話になっている?)、ホラームービー通の間でクラシックとしての評価が高いのはそれなりに理解でき、それに比べると、『暗鬼』の主人公はタルい...。

Mia Farrow in ROSEMARY'S BABY
ローズマリーの赤ちゃんMia Farrow.jpg「ローズマリーの赤ちゃん」●原題:ROSEMARY'S BABY●制作年:1968年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ロマン・ポランスキー●製作:ウィリアム・キャッスル●撮影:ウィリアム・フレイカー●音楽:クリストファー(クシシュトフ)・コメダ●原作:アイラ・レヴィン「ローズマリーの赤ちゃん」●時間:136分●出演:ミア・ファロー/ジョン・カサヴェテス/ルース・ゴードン/シドニー・ブラックマー/モーリス・ローズマリーの赤ちゃんルース・ゴードン.jpgエバンス●日本公開:1969/01●配給:パラマウント●最初に観た場所:新宿シアターアプル(86-04-06)(評価:★★★)

ルース・ゴードン(アカデミー助演女優賞)
 
 【2001年文庫化[文春文庫]】 

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嗜好からくるイメージをここまで物語として膨らませることができるものかと、ちょっと感心。『痴人の愛』と少しダブった。

家畜人ヤプー (1970年)2.jpg 家畜人ヤプー (1970年).jpg 家畜人ヤプー角川文庫版.jpg 『劇画家畜人ヤプー「快楽の超SM文明」編』.jpg
家畜人ヤプー (1970年)』(挿画・装本:宇野亜喜良)/['70年/都市出版社]/『家畜人ヤプー』 角川文庫改訂増補決定版(カバー・イラスト:村上芳正)['72年]/『劇画家畜人ヤプー「快楽の超SM文明」編 (3巻)』['14年/電子書籍版]

 ドイツのとある森の中で、麟一郎とその婚約者クララは謎の飛行船を見つけるが、それは2000年後の宇宙大帝国イースから来て不時着したもので、2人はその飛行船で、白人至上主義、女権主義のイースに連れて行かれる。イースでは、白人が支配層で黒人はみな奴隷、そして日本人はヤプーという"家畜人"の扱いを受けていて、ヤプーは皮膚をはじめとして体を改造され、人間椅子、畜人犬、畜人馬、河童、自慰機械、肉便器などに改造されている―。

奇譚クラブ 昭和33年2月号.png 1956年より『奇譚クラブ』に「ある夢想家の手帖から」というタイトルで連載され、その後断続的に書き継がれた長編小説で、自分が読んだ角川文庫版も、文庫化に際して加筆・修正されたものであるとのこと。

 作者の「沼正三」は正体不明の作家で、現職エリート判事K氏だったという説が有力ですが、自分の社会的立場は伏せる一方で、角川文庫版の巻末に、「捕虜生活中、ある運命から白人女性に対して被虐的性感を抱くことを強制されるような境遇に置かれ、性的異常者として復員して来た」と、その嗜好の原因を明かしています。

 自らの性的嗜好からくるイメージをここまで物語として膨らませることができるものかと、嫌悪を超えてちょっと感心してしまうし、ぺダンティックな要素を含んだ文脈や全体の構築力から、作者が相当の知識人であることが窺えますが、『奇譚クラブ』という雑誌が初出であることからもわかるように、「表現すること」自体が目的として書かれたものであるような気もします(同じような嗜好を持った人には評価の対象になり得るだろうが、一般的には、「奇書」と見られているのではないか)。

三島由紀夫.jpg 生前の三島由紀夫がこの作品に強い関心を示し、版元を通じて「沼正三」に会おうとしたらしいですが、三島の全集の"しおり"に「沼正三」が寄稿していて、"沼氏"は編集部と「沼正三」の"仲介役"のフリをして三島に会ったとあります。しかし、この"仲介役"の人物は別に実在していて、時に自ら「沼正三」を名乗り、実際『続・家畜人ヤプー』はこの人の筆によるものらしいというからややこしい(三島は晩年、自分は「沼正三」が誰だか知っていると言っていたそうですが...)。

家畜人ヤプー〈第1巻〉 (幻冬舎アウトロー文庫)』 (コミック/全5巻)['99年]
家畜人ヤプー 第1巻.jpg石森章太郎 家畜人ヤプー.jpg かつて石森章太郎が本作を劇画化し、'83(昭和58年)1月に辰巳出版より刊行されていますが(最近では江川達也のものがある)、石森章太郎のものは、ストーリーは原作に忠実ながらも「サイボーグ009」みたいなタッチなので、SFっぽく(元来はSFという形を「借りているだけ」の作品だが)、原作の、あの"肉便器"に尻の皮膚が触れたときのウェットな感覚の描写のようなものは伝わってきません。

劇画 家畜人ヤプー 宇宙帝国への招待編』 石森章太郎・作 ('83年/辰巳出版) 昭和58年1月左開き版(初版)/昭和58年6月右開き版(5版)

 それでも、原作の中にある西洋へのコンプレックスと女性へのコンプレックスの一体化を再認識させられ(文庫解説にある作者の西洋&女性コンプレックスの元となった捕虜体験は、個人的には、会田雄次の『アーロン収容所』を想起させた)、そう言えば谷崎の『痴人の愛』についてもそうした読み解きをする見方があることを思い出しました。 

家畜人ヤプー 改訂増補限定版.bmp 【1970年単行本[都市出版社](挿画:宮崎保之)/1970年改訂増補限定版・1971年改訂増補限定版特別再販[都市出版社](挿画・装本:村上芳正)/1970年単行本・1971年改訂増補普及版[都市出版社](挿画・装本:宇野亜喜良)/1972年改訂増補決定版[都市出版社](挿画・装本:村上芳正)/1972年文庫化(改訂増補決定版)[角川文庫](カバー・イラスト:村上芳正)/1975年初版本愛憎版[出帆社](装幀:勝川浩二/挿画:宮崎保之)/1984年限定愛蔵版[角川書店](画:村上昴)/1991年改訂増補完全復刻版[スコラ](挿画・装本:宇野亜喜良)/1992年最終増補決定版[大田出版(全3巻)](装幀・画:奥村靫正)/1999年再文庫化[幻冬舎アウトロー文庫(全5巻)](カバーデザイン:金子國義)】

『家畜人ヤプー』改訂増補限定版(1971年・都市出版社/挿画・装本:村上芳正) 
                                      
                                            
家畜人ヤプー石森 復刻版.jpg 劇画家畜人ヤプー2.jpg
劇画家畜人ヤプー【復刻版】』『劇画家畜人ヤプー2【復刻版】』 
 
《読書MEMO》
沼正三『家畜人ヤプー』.gif「捕虜生活中、ある運命から白人女性に対して被虐的性感を抱くことを強制されるような境遇に置かれ、性的異常者として復員して来た。(中略)以来20余年間の異端者の悩みは、同じ性向を有する者にしかわかるまい。昼の私は人と議論して負けることを知らなかったが、夜の私は女に辱められることに陶酔した。犬となって美女の足先に戯れることが、馬となって女騎士に駆り立てられることが、その想念だけでも快感を与えてくれた。被虐と汚辱の空想の行きつくところに汚物愛好も当然存在した。/祖国が白人の軍隊に占領されているという事態が、そのまま捕虜時代の体験に短絡し、私は、白人による日本の屈辱という観念自体に興奮を覚えるようになって行った。」(角川文庫版627p)

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テレビ芸能人の分析に長けていた著者の真骨頂。

ナンシー関大コラム.jpg 『ナンシー関 大コラム』 (2004/02 世界文化社)

 著者が亡くなった後に、新進・既存のコラムニストたちが辛口ぶりを発揮すると「ナンシー関の後継か」などと言われることがありますが、これは一種の期待願望であって、死後も次々と出版されている著者自身の書いたものを読むと、コレを超えるのは容易ではないという気がします。

 '04年に順次刊行された「大コラム-テレビ芸能人編」「超コラム-テレビCM編」「激コラム-世情編」というシリーズの1冊ですが、「テレビ芸能人編」であるこの本が一番面白かった。と言うか、「テレビCM編」「世情編」となるにつれて"意外と"さほど面白くなくなってきました。

 テレビ芸能人・文化人を見ていて、何か感じる違和感やウソ臭さの背後にあるものを鋭く見抜くとともに、それを的確な言葉で表現してくれていたなあと。やはりこの点が著者の真骨頂ではなかったかと思います。
 文芸評論家の鹿島茂氏は彼女の面白さを、フローべールの『紋切型辞典』(岩波文庫)に近いと言ってましたが、これって大絶賛しているということですね(鹿島氏はフランス文学者でもある)。

 そして多分、テレビに映し出されるものに対する眼力を曇らせないようにするために、自らの私生活における文化芸能人的なものを(そうした人種との接触を含め)、極力排していたのではないかと思います。一種、"節制"生活のような感じで。

 ちょっと興味深いのは、こき下ろすばかりでなく、ジャイアント馬場を「葉巻が似合う稀な日本人」としたり(プロレス雑誌に寄稿したものではありましたが)、それから、大食い選手権のチャンピオンに男女を問わず感嘆の意を表していて、また違った一面を知った気がしました。
 多くの面で"節制"しているわけだから、これぐらいは自分の嗜好を出しちゃってもいいのかも...。

《読書MEMO》
●糸井重里...見るのが辛い80年代の亡霊
●加藤晴彦...女性客の愛玩タレント
●高田万由子...皇室側の人のように振舞う根拠は?
●中谷彰宏...まだいた「トレンドウミ男」

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これから面白くなるところだったのに、「平成の2大散文家」唯一の共著になってしまった。

リリー&ナンシーの小さなスナック.jpg 『リリー&ナンシーの小さなスナック』 小さなスナック.jpg 文春文庫 (『小さなスナック』)
(ブックデザイン:坂本志保)

 雑誌「クレア」に連載されたナンシー関の対談で、10年前から大月隆寛、町山広美氏を相手に続いて、リリー・フランキー氏が3人目の対談相手だったわけですが、これが一番面白いと言うか、かなりユルイ感じもありますが、将来に向けての可能性を秘めていたような気がします。

 しかし、この対談の中で「10年後も間違い無く消しゴムを彫っている」と将来予測していたナンシーが、第24回対談の前日に急逝し('02年6月)、それまでの23回の対談を収めた本書が、リリー&ナンシーの唯一の共著になってしまいました。
 文芸評論家の福田和也氏などは、この2人を「平成の2大散文家」と評しているぐらいで、対談もこれからもっと面白くなると思われたところだったから、残念。

 それぞれの対談にテーマはあって無いようなものですが、いい感じの言葉のキャッチボールで、それぞれのイラストと版画が楽しめるのもいいです。
 言葉の端々に双方の鋭い感性が窺える一方、ナンシー関が意外と率直にテレビドラマで泣いたりすることを告白していたり(泣いたイコール感動しているではないと言っていることが肝要ですが)、時にどこか自虐的であったりし、またリリー・フランキー氏に対して優しい先輩のように包容的でもあったりして、彼女の新たな一面を見た気がしました。
 
 それだけに、末尾のリリー・フランキー氏の追悼文も哀しく、無念さを増します。
 この追悼文には詳しく書かれていませんが、次の対談予定場所だった、ナンシー関の馴染みの焼肉店(ここの女性経営者とは経営者が屋台の時代からナンシー関は親しくしていて、亡くなる1週間前にも来ていた)をリリー・フランキー氏が訪れ、対談で出す予定だった料理を全部出すようママに頼み、お店の人たちと追悼会をしたそうです。

 リリー・フランキー氏が亡くなった母親の思い出を綴った『東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜』('05年/扶桑社)でブレイクしたのは、ナンシー関の死の3年後で、母親を亡くしたたのは、この対談が始まる少し前だったのではないだろうか。
 
ナンシー関-没後10年おかえりナンシー.jpg【2005年文庫化[文春文庫(『小さなスナック』)]】

     

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「自分を欺いて賢人ぶるより、たとえ浅薄でも感じたことを正直に書く」姿勢。

甘茶日記.jpg  『甘茶日記』 (2005/11 毎日新聞社)

 「サンデー毎日」連載コラムの'05年分('04年11月〜'05年11月掲載分)を収録。

 最初に読んだのは'96年版の『クダラン』('02年/文春文庫)で、社会問題については素人の立場から素朴な疑問を呈し(いい意味で、素人を装ったプロとも言えるが)、映画などの文化芸能ネタでは「通」ぶりを発揮していている、そのバランスが自分の好みに合っていましたが、その後もの批評のスタンスは変わっていないようです。

 『クダラン』('96年)以降も、『無茶な人びと』('97年)、『厭々日記』('98年)、『へなへな日記』('99年)、『くすだま日記』('00年)、『ほぼ地獄。ほぼ天国。』('01年)、『あんまりな』('02年)、『まんざら』('03年)、『ここに幸あり』('04年)、そしてこの『甘茶日記』('05年)、さらに『よろしく青空』('06年)と続いていて(タイトルだけ見るとシリーズだとわかりにくいのが玉に瑕)、'06年に20周年企画として自選集『コラム絵巻-20年SPECIAL』を刊行しています。

 その間、政治・社会問題に関してはいろいろと評論家などから突っ込みを入れられていますが(突っ込まれても仕方がないものも多々あった)、継続の陰には、本書にある「自分を欺いて賢人ぶるより、たとえ浅薄でも感じたことを正直に書くべきだと思う」(徳岡孝夫)という信条があったのでしょう。

livedoor_top02.jpg 一応の下調べをしながらも知ったかぶらず、言うべきことは言うがわからないところは断定せず "疑問符"にとどめている(評論ではなくコラムであるからこそ許されるスタンスなのかも知れないが)、その姿勢には好感が持てます。

 '05年も、ライブドアのニッポン放送をめぐる株争奪戦や、福知山線の脱線事故など色々あったわけですが、その時だけ議論が盛り上がって、その後どうなっちゃったの、というような批判精神を忘れていないのもいいです。

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社会問題について素朴な疑問を呈し、文化芸能ネタでは「通」ぶりを発揮。

クダラン.jpg 『クダラン』 (1996/12 毎日新聞社)   クダラン2.jpg 『クダラン (文春文庫)』 〔'02年〕

 「サンデー毎日」連載コラムの年鑑型単行本で、'96年分を収録していますが、この単行本シリーズは、毎年その年の12月に刊行されるため、年末に今年も色々あったなあ、と振り返るのに丁度よい本です。

 ただし、実際に自分が本書を読んだのは、'02年刊行の文春文庫版で、その間に6年の"時差があり、文庫化にあたって、コラムによっては〈P.S.〉として、その後の動きなどが書き加えられている、それらをまた今、思い出すように再読しているという...。

 社会問題などの時事ネタと、映画・本・古典芸能などの文化芸能ネタの配分バランスがほどよく、社会問題については素人の立場から素朴な疑問を呈し、映画をはじめ文化芸能ネタでは「通」ぶりを発揮していています。

 雑誌連載は'85年からスタートしており、所謂"アグネス論争"なども、林真理子 vs.上野千鶴子というイメージがありますが、発端となったのは、この連載での"アグネス批判"を林真理子が支持したことから始まっているらしいです。

abe.gif 本書でとりあげている'96年の話題には、君島家騒動、ミドリ十字土下座謝罪、TBS騒動などがありましたが(もうかなり忘れちゃったなあ)、ものごとの責任のとり方に結構こだわっているのに、「TBSは死んだ」と自ら言いながら、その後もキャスターとして居座った人のことは、どういうわけか特に書いていない、一方で、安部英(たけし)・前帝京大副学長の"哀しくおぞましい"笑い顔に着目したりしていますが、この部分は感覚的に共感するところアリで、男性コラムストはあまりこんなこと書かないのではないかと思いました(その安部老人も亡くなってしまったけれど、事件そのものは忘れてはならない事件です)。

 全体としてはむしろ、専門の映画評や、ややマニアックな猟書遍歴が楽しく、女性月刊誌 「クレア」連載のエッセイが文庫にして150ページ分併録されているのもお得で、こちらの方は、芸能ネタに対する切り込みの鋭さがより発揮されている感じです。

 "オヤジを貶しながらオヤジ受けを狙っている"コラムストとの批評もありますが、読者ターゲットによって使い分けている感じで、女性誌に書くときは、ときどき軽い自虐ネタも入れている(そうした点では、酒井順子などの先駆者に当たるのか?)、でも、そうしたことも含め、楽しく読めました。

 酒井順子の『負け犬の遠吠え』('03年/講談社)に照らすと、中野翠の場合、歌舞伎とか落語とか、完全にこの頃から、「負け犬」の趣味に嵌まっている感じで、しかも自虐ネタまで...。
 しかし、自分たちのことを、反語的な意味が込められているにせよ「負け犬」と呼んだ酒井順子に対し、中野翠は、どこかで専業主婦をバッサリ切っていたはずで、この対照は、両者の年齢とキャリアの違いによるものなのでしょう。

 【2002年文庫化[文春文庫]】

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「●「芥川賞」受賞作」の インデックッスへ

遺棄され埋められた経験を持つ主人公。読後感は悪くないが、無難な起承転結に収まった?

土の中の子供.jpg  『土の中の子供』 (2005/07 新潮社)

 2005(平成17)年上半期・第133回「芥川賞」受賞作。

 幼い頃に養父母に虐待され、遺棄されて土に埋められた経験を持つ主人公の青年は、わざと暴走族に袋叩きになる状況に身を置いたり、執拗に高い所から落ちるイメージに固執し、それを実行しようとしたりする―。

 読み始めは『ハリガネムシ』や『蛇にピアス』を思い出し、「また"自虐"か」という感じも。芥川賞って何か選択式の「お題」でもあるのだろうか? まさか。

 ただ読み進むと、文章が特に修飾的なわけではないけれど、均質の緊張感が維持されていて、AC(アダルトチルドレン)を素材とした通俗的センセーショナリズムの作為は感じられず、著者が真摯に主人公の内面世界を描こうとしているのが感じられました("純文学"感、あります)。

 虐待を受けた子が大人になったときの心象風景や自らの存在の希薄感がどのようなものなのか、自分に本当のところはわかりませんが、一般に言う「高い所の恐怖」というのは、サルトル流に言えば、「高い所に上ると自ら飛び降りるのではないかという不安」であり、主人公の志向も、「落ちる」こと自体より、それを「確認する」ことに重きがあるような気がしました。
 ただし、ここまで心象を「言語化」しているということは、既に「対象化」しているということでもあり、リアルタイムな感じがあまりしないのです。

 偶然の出来事がその「確認」と「再生」の契機となりますが、精神分析でいう「対面法」によるトラウマの克服と同じサイコ・ダイナミックスに見えました。
 カウチ(長椅子)の上でのイメージ想起によってではなく、現実体験(もっと現実的には、これも小説家によるイメージなのですが)を通してそれが起きたというだけでは。
 結果、読後感は悪くないのですが、無難な、どこかで見たことあるような起承転結に収まった気もして、"芥川賞作品"としてどうなんだろうかとも。

 【2007年文庫化[新潮文庫]】

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「●「芥川賞」受賞作」の インデックッスへ

表題作よりは、併録の「サイドカーに犬」の方が若干好みだが...。

猛スピードで母は 単行本.jpg 猛スピードで母は.jpg  サイドカーに犬.jpg サイドカーに犬  文學界.jpg
猛スピードで母は』〔'02年〕『猛スピードで母は (文春文庫)』〔'05年〕 「サイドカーに犬 [DVD]」〔'07年〕

 2001(平成13)年下半期・第126回「芥川賞」受賞作。

 表題作「猛スピードで母は」は、北海道M市に暮らす母子家庭の話で、母親は結婚に失敗して地元に戻り、市の貸与金の返済督促の仕事をしていますが、過去に恋人のような男は何人かいたものの再婚には至っていない、そうした母親を小学校高学年の息子の目線で、息子自身の学校生活のことなども交えながら淡々と描いています。

 母親の粗野な口ぶりや態度と、息子の醒めた感情を通して、逆に両者の家族的"絆"のようなものが感じられ、センチメンタルと言うか時にパセティックだけど、子どもの内面的成長と平衡を保っているため暗くならないでいる。(★★★☆)
 芥川賞の選評で、村上龍が「家族の求心力が失われている時代に、勇気を与えてくれる重要な作品」(褒め過ぎ?,)としたのに対し、石原慎太郎は「文学の魅力の絶対条件としてのカタルシスがいっこうにありはしない」(身も蓋も無い?)と否定的でした。

 併録の「サイドカーに犬」は、それまでコラム活動などもしていた著者の文壇デビュー作(文學界新人賞・芥川賞候補作)で、父親の無節操のため母親が家出し、代わりに、残された小学4年の姉とその弟のもとに父の愛人がやって来た際の話を、大人になった姉の振り返り視点から描いていますが、飾り気のない文章で、その分描かれる状況にどんどん吸い込まれるように読めました。(★★★★)

 「猛スピードで...」が母親の逞しさを描いているとすれば、「サイドカー...」は、愛人も母親も併せた女性の強さのようなものが感じられ、小説の終わり方もより締まっている感じがしました(これをカタルシスと言って良いのかどうか、わかりませんが)。

サイドカーに犬 2.jpgサイドカーに犬 1シーン.jpg 表題作よりは「サイドカーに犬」の方が若干好みですが(と思ったら、こっちの方が2007年に映画化された(根岸吉太郎監督、竹内結子・ミムラ主演))、両方の作品とも力量を感じる一方で(特に、「サイドカー...」の女性目線へのなり切りぶりは秀逸)、芥川賞とは少し合わないような気もしました。

 【2005年文庫化[文春文庫]】

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