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女性版「池井戸潤」? 主人公が「派遣社員」であることがポイントか。

その名もエスペランサ 徳永.jpgその名もエスペランサ』(2014/03 新潮社)

 本郷苑子29歳。生マジメ、独り暮らし、日課は通い猫のエサやり、目指すは「派遣のプロ」。前の職場で受難、3カ月ぶりの新たな派遣先は、英文事務のはずが、作業服を着せられ部品係とトラブル処理班も兼務、しかもチャラ男に仙人、いびりの鬼がいた。今度の職場もハズレなのかと思った矢先に、社内初の海外プロジェクトの一員に。こんなエンジン工場から新製品エンジン「希望(エスペランサ)」は生まれるのか?

 女性版「池井戸潤」みたいな感じでしょうか。すらすら読めるし、読後感もいい「お仕事小説」でした。終盤の畳み掛け感などは、エンタテイメント性を感じます。取材がしっかりされていることが窺え(ホンダなどが主な取材先か)、それでいて、専門的な話をある程度噛み砕いて、読み物としての面白さ、ピッチを損なわないようにしているように思いました。

 一方で、「ビジネス小説」にありがちですが、主人公を巡る登場人物のキャラクターがやや画一的であるような気がしました。同じく「工場」を舞台にした池井戸潤氏の直木賞受賞作『下町ロケット』('10年/講談社)などと比べると、キャラクター造型の幅や深さに関しては物足りないという印象です。

 ストーリーもおそらく予定調和であろうことが予想され、主人公の恋の予感なども定番。落とし所は大方見えていて、最後に軽いドンデン返しというか逆転劇がありましたが、これすらも予測がついてしまうといった感じでした。但し、だからと言ってカタルシスが全く削がれてしまうというものでもなく、その辺りは、一定の力量レベルにある作者だと思います(しっかりした取材が下支えになっているということもある)。

 この物語はテーマ的には『下町ロケット』と同じく町工場のイノベーションというのがありますが、最大の特徴またはポイントは、主人公が「派遣社員」であるということでしょう。世の中で正規社員と非正規社員の処遇格差がずっと言われ続ける中、この主人公は図らずも仕事にドップリ浸かっていくことによって、派遣社員であるという身分の問題はもう殆ど関係なくなっているといった感じです。

 そのことによって正規社員・非正規社員間の格差問題を韜晦させているということではなく、そうした主人公の変化を通して「仕事って何」みたいなところに踏み込んでいるのがいいです。星3つ半はやや辛目の評価かもしれませんが、今後に更なる期待したいと思います。

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その知らざれざる素顔。三島文学と言うより三島自身に関心がある人にはたいへん興味深い本。

呵呵大将 我が友、三島由紀夫.jpg呵呵大将: 我が友、三島由紀夫』(2013/11 新潮社)三島由紀夫 2.jpg 三島由紀夫(1925-1970)

竹邑類.jpg 昨年('13年)12月11日に脂腺がんのため71歳で亡くなった演出家、振付家の竹邑類(たけむら・るい、1942-2013)による三島由紀夫(1925-1970)との交友録で、'13年11月25日刊行であるため、本書刊行後ひと月もしないうちに著者は亡くなったことになります。三島由紀夫の知らざれざる素顔が窺えて、三島文学と言うより三島由紀夫自身に関心がある人には、たいへん興味深い本ではないでしょうか。

 以前にある作家が、三島由紀夫を偶然レストランで見かけた時のことを書いていましたが、その周囲を寄せ付けないような、他人に隙を見せない張りつめた雰囲気に、「あれを維持するのはさぞ疲れるだろなあ」と思ったといったようなことを書いていました(吉行淳之介だったと思う)。しかし、本書に出てくる三島由紀夫は、子供のように無邪気且つ何事にも好奇心旺盛で、また、「呵呵大笑」に懸けたタイトルの如く、豪放磊落に笑っています。

 著者と三島由紀夫との出会いは、新宿2丁目にあったジャズ喫茶「KIIYO」で、年代はいちいち記されていませんが、著者は二十代そこそこで、三島は三十代後半だったと思われます。「凮月堂」(喫茶店)、「アートシアター新宿文化劇場」(映画館)といった60年代のアンダーグラウンド芸術家の拠点が出てきます。そんな当時の大人の"常識人"の眼から見れば妖しげな場所へ、大作家の三島由紀夫が出没して、若い芸術家の卵たちと交流していたというのが面白いし、また、その様子が愉快に描かれています。

蠍座 右は新宿文化支配人葛井氏、左は三島由紀夫.jpg そうした交流を三島自身も愉しみながら、その一方で、「月」(新潮文庫『花ざかりの森・憂国―自選短編集』所収)や「葡萄パン」(新潮文庫『真夏の死―自選短編集』所収)といった短編作品の素材にもしていて、三島が自ら「新宿ビート族」と名付けたそうした若者たちとの触れ合いには、取材的側面もあったのかもしれません。

「蠍座」前。三島由紀夫と新宿文化支配人・葛井欣士郎

 でも、新宿文化劇場の地下にあったアンダーグラウンド劇場「蠍座」の命名主が三島由紀夫だったということからも窺えるように、そうした当時のサブカルチャー的なものの中に、三島自身、少なからず惹かれるものがあったのかも。三島のサブカルチャーに対する視点と作品の関係については、「戦後〈ユース・サブカルチャーズ〉への一視点 : 三島由紀夫「月」「葡萄パン」論」(中元さおり氏)がウェブで公開されていました。 

 60年代後半は、著者も舞台の仕事が増えて、三島との直接交流の機会は少なくなっていったようですが、連絡は取り合っていたようです。「蠍座」のオープンが'67(昭和42)年、本書の中にある、三島由紀夫が聖セバスチャンに扮して篠山紀信のカメラの被写体となったのが'68(昭和43)年、著者に三島から電話があり、制服がカッコいいから見にこいと言われた「楯の会」も'68年に結成されており、それからしばらくして著者は三島の自決('70(昭和45)年)の報に接することになります。まさに、多くの人々の目の前を、慌ただしく駆け抜けていったのが三島由紀夫だったのだなあと。

淀川長治.jpg 故・淀川長治は、三島由紀夫について、「あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由」だと述べていますが、本書を読んで、淀川長治の炯眼を再認識しました。淀川長治は、三島が当時映画界でしかその名を知られていなかった自分対し、初対面できちんと敬意を持って対応してくれたことに感激したようですが、著者が17歳年上の三島を「我が友」と呼ぶところにも、三島の分け隔てをしない人との付き合い方が窺われます。

 また、著者は三島家と家族ぐるみの付き合いがあり、「家庭の幸福は文学の敵」と標榜していた三島ですが(自分が嫌う太宰治とは、この考え方においては自分も同意見であることを自認していた)、実際には、瑶子夫人との間に非常に良い夫婦関係、信頼関係にあったことが窺えたのも興味深かったです。

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大きなモチーフで連作とし纏め上げているのは力量だが、直木賞作品としては物足りない?

鍵のない夢を見る.jpg  辻村深月/鹿島田真希.jpg 第147回「直木賞」「芥川賞」受賞の辻村深月・鹿島田真希両氏[共同]
鍵のない夢を見る』(2012/05 文藝春秋)

 2012(平成24)年上半期・第147回「直木賞」受賞作。

 誰もが顔見知りの小さな町で盗みを繰り返す友達のお母さん(「仁志野町の泥棒」)、結婚をせっつく田舎体質にうんざりしている女の周囲で続くボヤ(「石蕗南地区の放火」)、出会い系サイトで知り合ったDV男との逃避行(「美弥谷団地の逃亡者」)―日常に倦んだ心にふと魔が差した瞬間に生まれる「犯罪」。現代の地方の閉塞感を背景に、ささやかな欲望が引き寄せる奈落を捉えた短編集。

 推理小説ではない犯罪小説というか、文芸小説っぽい感じで、文章は上手いと思ったし、同じような切り口で、細部のモチーフに多様性を持たせつつ、大きなモチーフにおいては綺麗に5編を連作として仕上げているところは、第32回吉川英治文学新人賞を受賞し、映画化もされた『ツナグ』('10年/新潮社)の著者らしいなあと。

 この人、綾辻行人のファンで、ゲーム好きでもあり、「女神転生」や「天外魔境」のファンでもあるとのことで、『ツナグ』はファンタジー系だけど(自分としてはあまり肌が合わない)、この『鍵のない夢を見る』は綾辻行人に倣った"本格推理"という風にはならならず、こうなるわけか。1つ1つの作品にリアリティがありながら、これが5つ並ぶ所がエンタメなのかも。

 個人的には、「芹葉大学の夢と殺人」の、自分の夢に自らを浸食されてしまっている男の描き方が秀逸だと思われ、男女間の心の闇をリアルに描いてどろっとした展開もある中で、冒頭の「仁志野町の泥棒」と、ラストの赤ん坊の"失踪事件"を扱った「君本家の誘拐」で、それぞれの結末にちょっとほっとさせられるかなあという感じ。

 但し、これが「直木賞」受賞作と言われると、選考委員の1人である桐野夏生氏が推したのはこのどろっとした雰囲気からも分かる気がしますが、全体的には若干インパクトに欠けるというか、何となく物足りない(?)感じもしました(桐野夏生氏自身の作品のどろっとした雰囲気ってこの程度じゃないだろうに)。

【2015年文庫化[文春文庫]】

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細かいところでケチをつけたくなるが、基本的には"力作"エンタテインメント。

ジェノサイド 高野和明2.jpgジェノサイド 高野和明1.jpgジェノサイドb.jpg  
ジェノサイド』(2011/03 角川書店)

 2012(平成24)年・第65回「日本推理作家協会賞」(長編及び連作短編集部門)、第2回「山田風太郎」各受賞作。2011 (平成23)年度「週刊文春ミステリー ベスト10」(国内部門)、2012(平成24)年「このミステリーがすごい」(国内編)共に第1位(2012年・第9回「本屋大賞」2位、2012年「ミステリが読みたい!」国内編・第4位)。

 急死したはずの父親から送られてきた一通のメール。それがすべての発端だった。創薬化学を専攻する大学院生・古賀研人は、その不可解な遺書を手掛かりに、隠されていた私設実験室に辿り着く。ウイルス学者だった父は、そこで何を研究しようとしていたのか。同じ頃、特殊部隊出身の傭兵、ジョナサン・イエーガーは、難病に冒された息子の治療費を稼ぐため、ある極秘の依頼を引き受けた。暗殺任務と思しき詳細不明の作戦。事前に明かされたのは、「人類全体に奉仕する仕事」ということだけだった。イエーガーは暗殺チームの一員となり、戦争状態にあるコンゴのジャングル地帯に潜入するが―。(Amazonより引用)

 殆ど先入観無しで読み始めたため、最初はフレデリック・フォーサイスの『戦争の犬たち』のような傭兵モノかと思いましたが、新人類の出現がストーリーの核になっていて、SFだったのかと...。但し、「人類史における大量殺戮は人間そのものの性によるものなのか」というテーマに加え、薬学や生命学、或いは軍事や兵器、ピグミーの生活などについてマニアックなくらい色々調べ込んでいるみたいで、そうしたテーマ並びに豊富な情報の醸す重厚感はありました。

 現生人類を超える種の誕生ということについても、人類進化の大きな区切りが、2500万年前(類人猿の誕生)、150万年前(直立二足歩行の原人類ホモ・エレクトズの誕生)、20万年前(ネアンデルタール旧人類の誕生)、4万年前(言語の使用)、5千年前(文字の発明)というように一桁ごとに短くなる非連続で起きていて、類人猿→原人類間が2000万年以上もかかったのに、原人類→旧人類間が200万年程度、旧人類→新人類間が15万年とスパンが短くなっていて、新人類が誕生して現代までが5万年ということを考え合わせると、そろそろ「新・新人類」が出てきてもおかしくないという見方もできます。

 Amazonのレビューなどを見ると、すぐに銃で人を殺そうとする日本人が出てくるなど、日本人を悪く描いているようで気に入らないとか、作者の人種的偏見が作中人物に反映されているとかいたもののありましたが、個人的には、どちらかと言うと日本人だけをよく描こうとはしていないことの結果で、それほど偏っているようには思いませんでした。

 歴史観的にも、南京大虐殺の捉え方などに批判があるようですが、個人的にはむしろジンギスカンを殺戮者の代表格として扱っているのがやや疑問。モンゴル帝国は宗教的宥和策をとったからこそあれだけ版図拡大が可能だったわけで、これはオスマン帝国についても言えることであり、宗教戦争について言えば、ヨーロッパ人の方がよほど殺戮を繰り返してきたのではないかな。

 ストーリーの流れとしては、細部を諸々マニアックに語り過ぎて、前半は話の流れそのものが緩慢な感じがしましたが、中盤から後半にかけては、東京、アメリカ、コンゴで起きていることが連動して、畳み掛けるような感じでテンポは悪くなかったかなあと。

 ただ、プロット的にちょっと理由付けが弱いのではないかと思われる部分があり、例えば、核コントロールに用いている暗号を解読される恐れがあるという理由だけで新人類を駆逐しようとするかなあ。新人類が近親交配の劣勢遺伝を取り除くために創薬ソフトを開発するというのもあまりピンとこないし、そのソフトが、難病の子の命を救うことにもなるというのもご都合主義のように見えてしまいます。

 イエーガーの難病の息子に対する思い入れは分かるけれども、古賀研人のたまたま病院で見かけた難病の女の子に対する思い入れは、やや強引と言うか安易な印象も受けました。同じ病気の子どもは他にも大勢いるでしょう。この子だけ、たまたまタイムリミットがこのお話の展開に合致したということ?

 世間一般の評価が高いだけに、逆に見方が厳しくなってしまうというのはあり、細かいところでケチをつけましたが、基本的には、エンタテインメントの"力作"であると思います。

 この作品の新人類って、映画「E.T.」の宇宙人を彷彿させるね。あっちは植物学者で、こっちは単なる子どもだけど、その知能は確かに現生人類を遥かに凌駕している。一個体でこれだけスゴイ能力を有するとなると、新人類の99%が大量殺戮など決して思いつきもしない平和主義者であっても、1%でも破壊主義的な性質を持った'変種'がいれば、その1%によって簡単に種そのものを絶滅に追い込むことが出来てしまうのではないかな。以前、「理科室でも作れる原子爆弾」という話題がありましたが、進み過ぎた文明というのは、あまり長続きしない気がするなあ。

 【2013年文庫化[角川文庫(上・下)]】

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「天皇制と身分制度についての影絵文学」と言うより、「ドストエフスキー的三角関係」。

蒲田行進曲 単行本.jpg 蒲田行進曲 dvd.jpg 蒲田行進曲 文庫.jpg   蒲田行進曲09.jpg
蒲田行進曲 (1981年)』(装丁・挿画:和田誠)「蒲田行進曲 [DVD]」『蒲田行進曲 (1982年) (角川文庫)』(映画タイアップカバー)
 1981(昭和56)年下半期・第86回「直木賞」受賞作。

 映画「新撰組」で主役を演じることになった「銀四郎」と、その恋人で、かつてのスター女優「小夏」、そして銀四郎を慕う大部屋の「ヤス」―銀四郎は、妊娠した小夏をヤスに押しつけ、小夏は銀四郎を諦めヤスを愛しようし、ヤスは「大好きな銀ちゃん」の言うままに、お腹の赤ん坊ごと小夏を引き受け、小夏との家庭を築いていこうとする―。

つかこうへい.jpg 先月('10年7月)肺がんで亡くなった、つかこうへい(1948‐2010/享年62)の直木賞受賞作で、同じ初期の代表作『小説熱海殺人事件』もそうですが、舞台の方が先行していて('80年11月初演)、その舞台作品を小説化したものです。

 直木賞受賞当時、すでに舞台で上演されて好評を博していたため、今さら「直木賞」という感じもしなくは無かったですが、こんな形での受賞もありなのかと。但し、ノベライゼーションでありながらも、文章のテンポはすごく良く、これはやはり脚本家、演出家としての才能とは別個の、1つの才能だったのかも。

 銀四郎とヤスのサド・マゾ的と言っていい捻じれた関係は、ちょっと読んでいてきつかったけれども、直木賞の選評で、選考委員の1人である五木寛之氏が、これを「天皇制と身分制度についての影絵文学」としているのには、そういう読み方もあるのかと、感心するやら、ややビックリするやら。
 個人的には、むしろ、ドストエフスキーの小説の登場人物によくある、「自分のかなわないライバルに対し、自尊心を否定してライバルを尊敬しそれに同一化しようとする行為」に思えましたが(『永遠の夫』のトルソーツキイみたいな)。

 '82年秋には、作者自身の脚本、「仁義なき戦い」シリーズの深作欣二(1930‐2003/享年72)監督によって映画化され、原作通り、ラストのヤス(平田満)の「階段落ち」に向けてテンポのいい展開、但し、銀四郎(風間杜夫)の演技のノリがヤクザのそれにも思えてしまうのは、やはり監督が監督だからでしょうか。

蒲田行進曲 松坂慶子.jpg 小夏を演じた松坂慶子は当時30歳で、小説の中での小夏の年齢と同じであり(自称27歳だが3歳サバを読んでいる)、この作品で、日本アカデミー賞主演女優賞、キネマ旬報主演女優賞、 毎日映画コンクール主演女優賞を受賞しています。

蒲田行進曲 ed.jpg 作品そのものも、キネマ旬報ベスト・テンの1位となるなど多くの賞を受賞していますが、舞台で根岸季衣が演じていたのを松坂慶子にした段階で、オリジナルの持つ毒のようなものがかなり薄まったかなあ。"楽屋落ち"的なエンディン映画 蒲田行進曲.jpgグなどにしても、アットホームな感じだし。

「蒲田行進曲」●制作年:1982年●監督:深作欣二●製作:角川春樹●脚本:つかこうへい●音楽:甲斐正人●原作:つかこうへい「蒲田行進曲」●時間:106分●出演:風間杜夫/松坂慶子/平田満/高見知佳/原田大二郎/蟹江敬三/清水昭博/岡本麗/汐路章/榎木兵衛/清川虹子●公開:1982/10●配給:松竹●最初に観た場所:池袋・文芸地下(83-01-08)●2回目:北千住・シネマブルースタジオ(11-03-06)(評価:★★★)●併映(1回目):「この子の七つのお祝いに」(増村保造) 

 【1982年文庫化[角川文庫]】

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庄内藩・酒田の足軽目付(地方警察)の活躍を『御用帳』から抽出。

足軽目付犯科帳.jpg 『足軽目付犯科帳―近世酒田湊の事件簿 (中公新書)』 ['05年]

 本書によれば、江戸時代に海運都市として栄えた庄内藩・酒田は、徳川氏の三河以来の重臣である酒井家の所領で、町政の拠点・亀ヶ崎城は城内の敷地に30人前後の町奉行や御徒目付など武士が、城下に足軽たちが住んでそうですが、足軽の小頭(小リーダー)から更に抜きん出た者が足軽目付となったそうです。

 足軽目付は藩政における下級ライン管理職みたいなもので、それでも7石前後の微禄に1石の御役手当が付き、成績次第では加増の望みもあったとのこと(「役職手当」ってこの頃からあったんだあ)、仕事内容は現在の巡査長と市役所職員を兼ねたようものので、本書は、時代小説作家である著者が、古戸道具屋の店先に10冊積まれていた『亀ヶ崎足軽目付御用帳』をたまたま掘り出したことを契機に、この、足軽目付が残した当時の「地方警察の事件簿」にあたるような史料から、当時の足軽目付たちの活躍ぶりを抜き出したものです。

伊予小松藩会所日記.jpg 本書の前に読んだ、増川宏一氏の『伊予小松藩会所日記』('01年/集英社新書)も地方都市の事件簿的要素があり、こういうのが時代小説のネタ本になるのだろうなあと思いました。
 本書は、著者自身が、「時代小説の作者とって、ネタ本を公開することは、自らの首を絞めるようなものだ」と書いていて、まさにそうした中身であり、盗難・殺人・詐欺・汚職といった犯罪事件から見世物興業を巡る騒動や女性が絡む醜聞事件まで、内容はバラエティに富んでいます。

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世.jpg目明し金十郎の生涯.jpg 中公新書には、『目明し金十郎の生涯-江戸時代庶民生活の実像』(阿部善雄/'81年)『元禄御畳奉行の日記-尾張藩士の見た浮世』(神坂次郎/'84年)など、以前からこうした藩の記録や個人の日記を読み解く趣意の本が何冊かあります。
 特に、本書と同じく時代小説作家が著わした後者は、かつてベストセラーになりましたが、本書も、『御用帳』に書かれている内容を解り易く解説するとともに、作家としての技量でシズル感を損なわないように書かれているように思いました。

 但し、事件の犯人が捕まったかどうかとか事後談的な話は、『御用帳』に記録のない限り、「どうなったかという報告はない」といった一言で済ませていて、ある意味、本書を書くにあたって小説家と言うよりは歴史家(史料研究者)の立場として臨んだとも言えます。

 しかし、そのために、1つ1つの事件が点描写になってしまって、話同士の線的な繋がりが弱いきらいもあり、膨大な史料から、「天明」期の小久保彦兵衛という"頑固親父"的な足軽目付が扱ったものを軸に事件を抽出するなどの工夫はなされていますが、『元禄御畳奉行の日記』や『目明し金十郎の生涯』が共に一気に読めてしまうような流れとインパクトだったのと比べると、こちらは個人的には、流れはやや滞り気味でインパクトも弱かったかも。

 とは言え、酒井湊の当時の賑わいが聞こえてくるような内容で、本書自体が貴重な参考資料であることには違いないと思います。

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個人的推測で書かれている部分が多い。"自由訳「魏志倭人伝」"がいい。

古代日本はどう誕生したか プレイブックス.jpg
古代"日本"はどう誕生したか―封印されてきた古代史の謎』〔'99年〕豊田有恒氏.jpg 豊田有恒 氏

 著者の本は最近あまり読んでいませんが、昔は100%SF作家だった―と思う。それが、古代史研究の方に傾倒し(この頃までは何冊か読んでいた)、その後、韓国問題研究へとスライド、最初は親韓派だったけれど、いつの間にか嫌韓(厭韓)派になっている...(「古代史」物もまだ書いていますが)。

吉野ヶ里遺跡.jpg三内丸山遺跡.jpg もともと学問的進路(慶大医学部中退)や職業選択(手塚治虫作品の脚本作家だった)においても紆余曲折があった人で、いろいろ周辺事情もあったようですが、自分の興味や嗜好に素直だとも言えるのかも。

 80年代終わりから90年代にかけて三内丸山遺跡(縄文文化・青森市/写真左)や吉野ヶ里遺跡(弥生文化・佐賀県神埼郡/写真右)の発掘調査が進み、90年代後半にかけて古代史ブームが起きましたが、著者もそうしたブームを後押しした一人。
 ただし、著者に言わせれば、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観に対する過剰反省から抜け出せておらず、左翼研究者の自虐史観によって歪められているということで、それが本書のサブタイトル"封印されてきた古代史"ということに繋がるようです。

 縄文時代の始まりが5千年ぐらい引き上げられ1万6,500年前とされたことから始まり(これは当時、既に「新たな定説」となっていた)、古代中国における「倭人」の位置づけの高さ、日本語のオリジナリティ、日本神話のイマジネーションの高さ、古墳文化の素晴らしさなど、古代日本文化に対する礼賛が続きます。
 話題は広いけれども、個人的推測で書かれている部分も多く、大学教授ではあるけれども何となく在野の香りがする人。ただし、本書は読み物としては、歴史の〈いろいろな見方〉をわかりやすく示していると思います(〈新事実〉ではなく)。

 本書で一番気に入ったのは、「魏志倭人伝」で邪馬台国について書かれている箇所(漢字2千字足らず)を「ですます調」で現代語訳している部分で(本書で12ページ相当に膨らんでいる)、紀元3世紀の邪馬台国人の姿や風習が鮮やかに浮かび上がってきます。
 "自由訳「魏志倭人伝」"といったところか。やっぱり、作家だなあ。

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やや出来すぎた人物像だが、ビジネスパーソンが読めば、グッとくる部分は多い「小説」。

小説 上杉鷹山.JPG 小説上杉鷹山 上巻.jpg 小説上杉鷹山下巻.jpg     小説上杉鷹山.jpg 
小説 上杉鷹山〈上巻〉〈下巻〉』 ['83年]/『全一冊 小説 上杉鷹山 (集英社文庫)』 ['96年]

 財政難に一時は廃藩の話まで出た米沢藩を再興した藩主・上杉治憲(はるのり、隠居後は鷹山)の話で、この人、戦前は国定教科書に取り上げられていた人物ですが、本書にもあるとおり、故J・F・ケネディ大統領が最も尊敬する日本人としてその名を挙げた人でもあります。

 米沢織、絹製品、漆器、紅茶、鯉、一刀彫などの今に至る米沢の名産品は、みなこの人の産業政策の賜物だそうですが、こうした企業で言えば多角化経営みたいなものが本当に実を結んだのは、鷹山亡き後で、在命中の実績としては、天明大飢饉の際に1人の餓死者も出さなかった(本当かなあ)ことが最大のものと言えるのではないでしょうか。

 その名を後世に残しているのは、「徳」を政治の基本に置き、それを経済に結びつけようと考え、倹約を推奨するけども「生きた金」は積極的に使い、それは「領民を富ませるため」だったという、徳治主義的な政治哲学の実践者であったから。
 ケネディが鷹山を知るきっかけとなった本の著者である内村鑑三流に言えば、「愛と信頼」の政治ということになり、本書にも「愛」という言葉が何度か出てきますが、江戸時代に「愛」という言葉の概念が今のような形であったかどうか、個人的にはやや疑問。

 それと、実際に高徳の人物であったとは伝えられていますが、ちょっと完璧に描きすぎている感じもして、35歳で隠居したのは、次代を育てるというよりは、財政難の折、参勤交代を免がれるための戦略だった(藩主が代わった年は免除される)というのが通説のようです。

 藩政改革の道程は平坦ではなく、、反発する旧弊な重役たちとの確執など、企業小説を呼んでいるような面白さはあります。ときどき、「今の経営行動パターに合せれば」という感じで「企業目標の設定」「それに必要な情報の公開」とか箇条書きで説明が出てくるのが、社内研修テキストみたいでお節介のような気もしましたが。
 人物の描き方もプロトタイプという感じですが、それでも佐藤文四郎とかにスポットを当て、その好漢ぶりを生き生き描いているのは、素直に爽快感を感じました。

 テレビ番組『知ってるつもり!?」』で鷹山がフューチャーされたこともあり、本書はベストセラーとなりましたが、やはり企業の中で、改革派と抵抗勢力の間にいるようなビジネスパーソンが読めば、グッとくる部分は多い「小説」であることには違いありません。

 【1995年文庫化[学陽社・人物文庫(上・下)]/1996年再文庫化[集英社文庫(全1冊)]】

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人や生き物、自然に対する感性が、少女のように無垢でみずみずしい。

富士日記 上巻.jpg 富士日記 中巻.jpg 富士日記下巻.jpg カバー:武田泰淳氏画帖より   武田百合子.jpg
富士日記〈上〉 (中公文庫)』『富士日記〈中〉 (中公文庫)』『富士日記〈下〉 (中公文庫)』『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子 (KAWADE夢ムック)』 ['04年]

富士日記 武田百合子.jpg 1977(昭和52)年・第17回「田村俊子賞」受賞作。

 作家・武田泰淳夫人であった著者が、富士山麓の山荘で夫と過ごした13年間(昭和39年から昭和51年、泰淳の亡くなる少し前まで)の日々を綴った日記ですが、著者は大正14年生まれなので、昭和年数と年齢がほぼ重なり、40歳代を通して書かれたものであることがわかり、それにしては、人や生き物、自然に対する感性が、まるで少女のように無垢でみずみずしい!

 ものを書くのは好きでなかったとのことですが、夫に「その日に買ったものと値段と天気だけでもいいから日記を書け」と言われて書き始めたそうで、実際に、買ったものとその値段(車のガソリン代まで書いてある)や朝・昼・晩何を食べたかなどが細かく書かれていて、それが山荘生活の雑事(この日記は便所の修理工事の話から始まる)の淡々たる記述と相俟って、〈人間が生活している〉ということの実感がよく伝わってきます。

 夏場はよく河口湖や西湖で泳いでいて、そんな湖が近くにある山荘生活も羨ましいけれど、1つの日記帳に夫も娘も書き込んでいて、むしろ、そうした家族関係そのものに憧れを持つ読者の方が多いのではないでしょうか(泰淳の記述が随筆調なのに対し、百合子の記述はまさに"日記"であるのが面白い)。

 大岡昇平などの盟友や村松友視などの編集者がしばしば山荘を訪ねて来るのですが、そうした人たちを見る目も、石工や職人など市井の人を見る目も、この人は分け隔てなく、また文章自体にもまったく衒いがありません。

 泰淳亡き後たまたま世に出たこの文章を、埴谷雄高、水上勤など多くの作家が絶賛しましたが、まず常に読者を意識している作家には書けない文章であるのと、夫・泰淳に対する温かい眼差しもさることながら、作家の夫人であるということを超えて、彼女個人としての可愛らしくて率直な人間性に対する思い入れもあったのかも知れません。

 その後文筆活動に入ってからは、エッセイでむしろ女性ファンを多く獲得し、'93年の没後も、'04年には雑誌「文藝」の別冊ムックで特集が組まれ、そこにも多くの有名作家が寄稿するなど、ほとんど伝説的存在となっています。
 
 【1977年単行本〔中央公論社(『富士日記-不二小大居百花庵日記(上・下)』)〕/1981年文庫化・1997年改版版[中公文庫(上・中・下)]】

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導入部分にはリアリティあり。だんだん技巧がアザトサにみえてくる。

田口 ランディ 『コンセント』.jpg コンセント.jpg  『コンセント』 (2000/05 幻冬舎)

 ある日、アパートの一室で腐乱死体となって発見された兄。兄はなぜ引きこもり、生きることをやめたのか。
 兄の死臭を嗅いで依頼、自分の不思議な能力を自覚することになる主人公の朝倉ユキは、かつての指導教授であるカウンセラーのもとを訪ねる―。

 著者の兄は実際に自殺したということで、導入部分での「現場」の描写や主人公の心理描写にはすごくリアリティを感じたし、葬儀社の人や清掃会社の人のなんだか割り切っているような話にも、「ああ、現実こうなんだろうな」と思わせるものがありました。

 中盤のカウンセリングの話も、それなりの知識と現実をベースに書かれているようで、かつての指導教授として登場する男についても、こんないい加減なカウンセラーが実際にいるのかどうかは知りませんが、物語としては許せる範囲内であり、個人的にはそこそこ面白かったのです。
 
 しかし、話が次第にシャーマニズムやチャネリング的なものに向かうにつれて、タイトルの「コンセント」の意味が明らかになる一方、それまでのリアリティは急速に色褪せ、個人的な関心はどんどん薄れていったというのが正直なところです。

 受ける人には受けるだろうけれど、キワモノ感は拭えず、読者受けを狙って施されたような技巧が、アザトサに見えてしまう部分がかなりあったように思いました。
 
 【2001年文庫化[幻冬舎文庫]】

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「実験」が主なのか、エンタテインメントが主なのか、どっちでもいいのかも知れないが...。

君が代は千代に八千代に.jpg君が代は千代に八千代に君が代は千代に八千代に2.jpg 文春文庫 一億三千万人のための小説教室.jpg『一億三千万人のための小説教室』 岩波新書

 エロ・グロ・ナンセンス満載の13篇で、特に冒頭の「Mama told me」などは、初めての人には抵抗があるかも知れませんが、ある程度"高橋ワールド"に馴染んでいる読者には、「やり過ぎかな」という感じもややあるものの、ほぼ予定調和の範囲内ではないでしょうか。

 気になったのは、同時期に『一億三千万人のための小説教室』('02年/岩波新書)を上梓しており、その中で「波乱万丈のストーリー」小説というものに否定的な立場であったように思うのですが、「実験小説」群とも思えるこれらの(何れも文芸誌「文學界」にて発表された)作品の中に、結構ストーリー的に面白いものがあり、「チェンジ」などは自分でもいけると思ったのか連作になっていたりすることで、「実験」が主なのか、エンタテインメントが主なのか、よくわからない。

 『博士の愛した数式』('03年/新潮社)に先駆けて「素数」や「オイラーの公式」を取り上げていたり、『蛇にピアス』('04年/新潮社)に先駆けてスプリット・タンをモチーフにするなど才気煥発、「Mama told me」のファンキーなリズムは詩人・谷川俊太郎が褒めているし、その他にも会話文を多くして難読漢字を使用しないなど、全作を通じての周到な計算も窺えます。

 「実験」が主なのか、エンタテインメントが主なのか、はたまた"別の意図"があるのか、あまりこだわらなくてもいいのかも知れないけれど(筒井康隆の初期作品にも、これらが混在していたわけだし)、この人、サービス精神が旺盛すぎるのかも。
 "別の意図"があるとすれば、「この日本という国に生きねばならぬ人たちについて書く」(文庫版自著解説)ということでしょうが、本書に関して言えば、その意気込みはやや空転している印象を受けました。
 
 他の作家もそうですが、初期のいい作品がどんどん絶版になっている(または書店で入手しにくくなっている)のが可哀想...。
 
 【2005年文庫化[文春文庫]】

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『邪宗門』に繋がるテーマ。小説としてはさほど面白くなく、『邪宗門』のエンタテインメント性を再認識。

堕落1.jpg     堕落 高橋和巳.jpg   堕落.jpg 
堕落 (1969年)』/『堕落 (新潮文庫)』〔'82年〕/『堕落 (講談社文芸文庫)』〔'95年〕

 主人公の青木隆造は、かつて〈満州〉国建設に青春を賭けた男で、戦後は福祉事業団「兼愛園」の園長となり混血児の世話をしているが、「兼愛園」での業績が表象されたとき、彼の中で何かが"崩壊"し、施設の女性職員に次々と手をつけるなどして"堕落"の道を歩むこととなる―。

 なぜ彼が表彰されたことを契機に自己崩壊したのかは説明されておらず、一方で、満州国において国家建設の幻想に破れ、妻や子を犠牲にしたことで、嚝野のようなイメージが彼の心を支配し、彼にとって偽善である奉仕活動の最中にも、その失った時間の痛みが彼の心を侵食していたという推測は成り立つのかも知れません。

 共同体もしくは国家幻想に破れるというモチーフは、『邪宗門』('66年)に繋がるもので(本書単行本の刊行は『邪宗門』より後だが、発表は『邪宗門』執筆中の'65年)、国家が国家を裁き得るかという問題を提起しているように思えますが、夢破れた後も生き続けなければならなかった人間の内面に重きを置いている感じがします。

 彼はその後、「兼愛園」を見捨て、さらには愛人までも裏切る―、こうした主人公の"堕落"の描き方には、硬質な筆致の中にもセンチメンタルなものが感じられ、"破滅の美学"という点でも『邪宗門』に繋がるものがあるように思えますが、彼を取り巻く女性ともども(もともと彼女たちは、意図して俗なる存在として描かれているようだが)、あまり好きになれない人物像でした。

 今回が初読でしたが、"インテリゲンチャの苦悩"というやつなのか? 小説としてはそれほど面白いとは言えず(自分自身が"インテリゲンチャ"から程遠いためか?)、こうして見ると『邪宗門』という一見重厚な作品が、エンタテインメント的要素をふんだんに含んだものであったことが却って浮き彫りになったような気がしました。
 
 【1982年文庫化[新潮文庫]/1995年再文庫化[講談社文芸文庫]】

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ナショナリズムと宗教の類似と相克。生きるとは何かということ充分に考えさせる作品。

邪宗門 上下.jpg 邪宗門 上.gif 邪宗門下.gif 高橋和巳.jpg  高橋和巳 (1931-1971/享年39)
邪宗門〈上〉 (1966年)』『邪宗門〈下〉 (1966年)』 新潮文庫 /『邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)』『邪宗門〈下〉 (朝日文芸文庫)

 昭和初期、千葉潔という孤児少年が、京都の山間のとある駅に降り立ったところから物語は始まり、潔は地元宗教団体「ひのもと救霊会」に拾われ、様々な経験を経てやがて「救霊会」の女性教主の後継者になり、教団は現世の世直しを掲げてその規模を拡張するが、戦時下において反天皇制を標榜する教団に、当然のことながら国家が介入し、教団内部の信徒の裏切りなどもあって、教団は壊滅への道を辿る―。

 作者・高橋和巳(1931-1971)は、「天才的な一人の宗教的指導者とその教団の組織過程を通じて、現代が持つもろもろの矛盾と、宗教というものが人間存在に対してもつ意味とを追求」(『邪宗門』作者の言葉)したとのことで、大本教をモデルにしたと一般には言われていますが、ある種の実験的なユートピア共同体のイメージに小説としての血肉を与えるために、大本教や天理教の歴史を参照したというのが正解でしょう。

 作中の"もともとは一庶民"だった女性教主というのは、大本教、天理教と重なり、戦前・戦中・戦後の弾圧の歴史も大本教のそれと符号しますが、「救霊会」の教義は、作者が執筆当時傾倒していたインド仏教の一派に近いと見られていて、宗教を通じて国家とは何か、そこにおける個人とは何かということを問うているこの作品は、だからと言って宗教を単なる道具立てとして用いているのではないことは確かです。

 しかし、国家体制からの"与えられた民主主義"というものを否定したかにも思えるこの作品は、宗教という枠を超えて、昭和40年代に全共闘世代の圧倒的支持を得ました。
 今はそうした自らの思想に直結させて本作を読み解く読者は少ないと思われるものの、ナショナリズムと宗教の類似と相克(ゆえに教団が擬似国家化すると、弾圧が強まる)といった普遍的なテーマをも孕んでいるように思えます。

 その他にも―、
 正義とは何か―(この作品から導き出される答えは無いが、少なくともそれは絶対的なものでなく相対的なものであり、それを絶対化したところから共同体の崩壊が始まる)、
 思想とは何か―(潔自身は宗教人になりきれないながらも教団の思想に殉ずるかたちとなる)、
 恋愛とは何か―(この作品には多くの献身的な宗教人たる女性が登場し、潔と行動を共にすることでそれぞれに悲惨な最期を迎えるが、それは信仰よりも恋愛に殉じているように見える)、
 といった様々なテーマを含んだ作品であり、良く言えば"重層構造"ということですが、盛り込みすぎて小説としては破綻しているようにも思えるフシもあります(作者が耽読したドストエフスキーの作品にも同じ傾向があるなあと)。
 それでいて、千葉潔や教団幹部の壮絶な生き様を通して、生きるとは何かということを読者に充分に考えさせる作品だと思います。
 
 【1971年文庫化[講談社文庫(上・下)]/1977年再文庫化[新潮文庫(上・下)]/1993年再文庫化[朝日文芸文庫(上・下)]】

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30代女性と60代男性の恋愛? リアリティはあったように思うが、何を書きたかったのか?

単行本しょっぱいドライブ.jpg 『しょっぱいドライブ』〔'03年〕しょっぱいドライブ.jpgしょっぱいドライブ 文庫.jpg 『しょっぱいドライブ (文春文庫 (た58-2))』 〔'06年〕 

 2002(平成14)年下半期・第128回「芥川賞」受賞作。

 港町に暮らす34歳の独身女性「わたし」が、既婚60代男性の「九十九さん」とデートして同棲に至るまでの話に、「わたし」が以前に30歳にして初めて付き合った男性である小劇団を主宰する「遊さん」の話が挿入されています。

  "へなちょこ"の痩せ老人「九十九さん」を筆頭に登場人物が地味で、なりゆきに任せているような生き方にもメリハリが無く、物語としても、クライマックスが意図的に回避されているかのようにだらだらと流れていく感じがしました。

 村上龍に「私の元気を奪った」と評されたのも無理からぬところかと思いましたが、普通は小説の主人公などになり得ないような人たちを描いて、叙述を簡素化した性描写や男女の会話などにはかえってリアリティがあったように思えます(それなりに筆力はあるということか)。

 30代女性と60代男性の恋愛?ということで、川上弘美の『センセイの鞄』('01年/平凡社)の裏バージョンみたいですが、この小説の主人公の方が覚めている感じ。
 個人的には、冒頭のわたしと九十九さんの海辺のデート(ドライブ)から、ずっと昔の芥川賞作品『三匹の蟹』(大庭みな子)などを連想しました(舞台となった土地も状況設定も全然異なるが)。
 
 でも、『センセイの鞄』ほどの「癒し感」も『三匹の蟹』ほどの「閉塞感」も、この小説は無いのではないだろうか。
 「しょっぱい」と言うより「しょぼい」感じがしないでもない...。作品自体が。

 何を書きたかったのかよくわからないまま、 九十九さんの「幻想」とわたしの「打算」のギャップだけが結構心に引っ掛かる...。
 登場人物に対する作者の悪意のようなものさえ感じられその中に「わたし」も含まれている、しいて言えばそれが「しょっぱい」感じかなあ。

 【2006年文庫化[文春文庫]】

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小説に対する真摯な姿勢を感じたが、パッチワーク的印象も。

一億三千万人のための小説教室.jpg  『一億三千万人のための小説教室』 岩波新書 〔'02年〕

 評判はいいし、実際に読んでみると面白い、でも読んだ後それほど残らない本というのがたまにあり、本書は自分にとってそうした部類に入るかも知れません。

 内容は、小説作法ではなく、「小説とは何か」というある種の文学論だと思えるし、ユーモアのある筆致の紙背にも、小説というものに対する著者の"生一本"とでも言っていいような真摯な姿勢が窺えました。
 しかし一方で、良い小説を書く前にまず良い読み手でなければならない、という自説に沿って小説の「楽しみ方」を示すことが、同時に「書き方」を示すことに踏み込んでいるような気もして、その辺の混在感がインパクトの弱さに繋がっているのではないだろうかとも。

文章読本さん江.jpg この本もともとは、NHKの各界著名人が母校の小学校で授業をするという番組企画からスタートしているようですが、著者は本稿執筆中に斎藤美奈子氏の『文章読本さん江』('02年2月 筑摩書房刊/小林秀雄賞受賞)を読み、
 「この『文章読本さん江』の誕生によって、我が国におけるすべての「文章読本」はその息の根を止められたのである」
 とこれを絶賛していて、併せて本稿を全面的に書き直す必要を感じたようで、その辺りがこうしたパッチワーク的印象になっている原因かなという気もしました。
 
 「模倣」することの意義については、それなりに納得性がありましたが、今までにもこうした考え方はいろいろな人によって示されていたような気がします。
 事例の採りあげ方などから、ブンガクの現況をより広い視野で読者に知らしめようという著者の意図を感じましたが、随所に見られる過剰なサービス精神が個人的にはやや気になりました。
 頭のいい著者のことですから、こうしたこともすべて計算のうえでやっているのかも知れませんが...。

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