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著者の「殉死」についての考察の原点とも言える本。もっと早く文庫化して欲しかった。

殉死の構造 学術文庫.jpg 『殉死の構造 (講談社学術文庫)』 殉死の構造 (叢書 死の文化).jpg殉死の構造 (叢書 死の文化)』['93年]

 '08年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'93年に弘文堂から「叢書・死の文化」の1冊として書き下ろされ、その後の著者の「殉死」について考察した本の原点とも言えるものであり、15年を経ての文庫化ということになります。

 森鷗外の『阿部一族』は、明治天皇に殉死した乃木希典の事件が契機となって書かれたそうですが、乃木が殉死したのは、明治天皇への忠義のためとか、西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われ、明治天皇の慰留により命を助けられたことを苦にしたためというものではなく、日露戦争の旅順攻防戦で多くの犠牲者を出した責任感からだと考えられるとしていて(司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、日本戦争史において、乃木ほど多くの兵士を無駄死にさせた無能将軍はないとしている)、個人的にはそうあって欲しいと思いますが、ならば何故そう言わなかったのかなあ。乃木流に考えても、「陛下の軍人」を何万も死なせたわけだし。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg その『阿部一族』に出てくる殉死騒動は、鷗外が参照した史料そのものに脚色があり、実は阿部弥一右衛門はしっかり他の者と一緒に殉死していたというのは、武士と世間-なぜ死に急ぐのか』('03年/中公新書)にもありました。
 また、所謂「忠臣蔵」での赤穂浪士たちの死を覚悟した討ち入りが、主君への忠誠によるものというより、自らの武士の一分、つまり面子のためのものであったということも、『武士と世間』ほか、幾つかの新書本で触れています。

 江戸初期に小姓に殉死が多く見られたのは、心中する男女間の心性と同じものが、時に男色関係にあった主君と小姓の間にあったためだそうです。
 しかし、それほど寵愛もされなかった下級武士にも殉死者が少なくなかったのは、「殉死」のルーツは、戦国時代から江戸初期に引き継がれた「かぶき者」という荒々しい武断的な風潮にあり、戦国時代が終わって戦いの場を失った武士たちが、その「武士のアイデンティ」の発露として、主君が亡くなった際に追い腹を切るということが流行のようになったためであるとのこと。

 また「世間」も、このような戦国的武士像を武士に求めていたため、死ぬべき時にしなないと「武士の一分」が立たないということになり、元禄期の殉死になると、自分自身の意地と共に、こうした世間の評判に対する顧慮が、その大きな動機要因になっていたと考えられるとしています。

 「学術文庫」ですが読み易いです。但し、前述の通り、後で書かれたこの著者の本を何冊か読んでしまったので、自分にとっては"繰り返し"になってしまい、新味が薄かったのも正直な感想です(その分、星1つ減。もっと早く文庫化して欲しかった)。

 文中に、神坂次郎氏の元禄御畳奉行の日記』('84年/中公新書)氏家幹人氏の江戸藩邸物語』('88年/中公新書)を参照している部分がありますが、著者自身も『参勤交代』(98年/講談社現代新書)を皮切りに、一般読者向けの新書本を著わすようになり、夕刊紙の連載などもしています。

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第2部・第3部は、「武士道」と『葉隠』のそれぞれに対する著者の考え方のエッセンス。

『葉隠』の武士道.gif 『『葉隠』の武士道―誤解された「死狂ひ」の思想 (PHP新書)』 ['01年]

 全3部構成で、第1部「鍋島家の家風」で『葉隠』の口述者・山本常朝の属した鍋島藩の家風について解説し、第2部「武士を取り巻く世界」で、『葉隠』を中心に、当時の武士らしさとはどのようなものであったかを探り、第3部「『葉隠』の「思想」」で、「鍋島家」と「武士社会・世間」というそれらの背景ベースに、『葉隠』の根底にある思想の実態を批判的に検証しています。
 今回は再読でしたが、読んでいて、かなり驚いたり、目から鱗が落ちる思いをしたはずなのに、細かい内容は結構忘れているものだなあと。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg 第2部「武士を取り巻く世界」では、武士にとって戦場で手柄をあげることも討ち死にすることも同等に名誉なことであり、そのために、江戸時代に入っても、死ぬ(法的に処罰を受ける)とわかっていて争い(喧嘩を含む)に臨むケースもあり、要する、に面子にこだわっただけ命は軽かったし、その「武士の一分」は、価値観としては、法の論理(喧嘩両成敗など)をも上回るものだったということが書かれています。

 著者によれば、赤穂浪士の討ち入りなども、主君の怨念を晴らすためではなく、そのままでは浪士たちが武士としての面目を保てないがためになされたということで、この第2部の部分は、著者の『武士と世間―なぜ死に急ぐのか』('03年/ 中公新書)(個人的評価 ★★★★☆)にそのまま引き継がれています。

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 一方、第3部「『葉隠』の「思想」」では、『葉隠』という書の背後に見え隠れする功利主義や自己弁護を抽出し、鍋島綱茂が常朝に必ずしも信を置いていなかったことを、著者自身も頷けるとしていますが、要するに、『葉隠』というのは、隠遁した老人が説く処世術に過ぎず、そこにあるのは見せかけの忠義または傍観者的態度だと手厳しい非難をしていますが、この部分は。著者の『男の嫉妬―武士道の論理と心理』('05年/ ちくま新書)(個人的評価 ★★★)に引き継がれているように思います。

 但し、『男の嫉妬』の方は、そうした『葉隠』の記述に、常朝という人の持つ、根拠が脆弱な割には高いプライドだけでなく、「男の嫉妬心」が窺えるとしていて、その心性に踏み込んでいて、個人的には、果たしてそこまで言えるかなあとも思いました。
 その点、本書は、そこまではさほど踏み込んでおらず、『葉隠』は姑息な「ただのことば」として孤立して、「我々は、『葉隠』を決して評価してはならない」という結語で終わっているだけで、こちらの方が、論としてすっきりしているように思えます。

葉隠入門.png また、本書でも俎上に上っている三島由紀夫『葉隠入門―武士道は生きている』('67年/カッパ・ブックス)(個人的評価 ★★★☆)については、確かに三島は、『葉隠』の理想の武士像に自分を重ねて、アナクロ的な死を選んだのかも知れませんが、『葉隠』の処生術的な要素は充分に認識していて、むしろそれを面白がっている風でもあります。
 三島はその部分と「死に狂い」の部分を分けて(或いは表裏で)考えたのではないでしょうか。『葉隠』にエピキュリアニズムさえ見ています。
 但し、そのエピキュリアニズムは「一念を持って生きよ」というストイシズムの裏返しであり、小事に煩わされたりトラブルに巻き込まれることなく、大事に敢然とした行動がとれるよう備えよという解釈だと思うのですが。

サムライとヤクザ.png 本書を読んでいて、「喧嘩」を介して、武士の論理とやくざの論理に共通項が見られる(自己の面子が潰され時に、しかるべき報復ができるかどうかという価値観)との記述があり、これも、著者がどこか別のところでも書いていたのではないかと思ったら、著者の本ではなく、氏家幹人氏の『サムライとヤクザ-「男」の来た道』('07年/ちくま新書)(個人的評価 ★★★)でした(タイトルそのものだった)。
 氏家氏の本を読んだと時はやや疑問符だったけれど、やはりそうなのかなあ。

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武士道のを説く者の裏側にある嫉妬心。男の嫉妬は、屁理屈を伴う?

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 『男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)』 〔'05年〕 山本 博文氏.jpg 山本 博文 氏(東京大学史料編纂所 教授/略歴下記)

 江戸時代のエリート階層であった武士がその価値観・倫理観の拠り所とした武士道ですが、その実践や評価をめぐっては、背後に「男の嫉妬」の心理が働いていたことを、多くの史料を読み解きながら明かしています。

 例えば、江戸初期の辛口御意見番・大久保彦左衛門が、「崩れ口の武辺」(退却する敵を追って仕留めた武勲)で出世した者を貶しているのは、自らが戦国時代に激戦を生き抜いたプライドがあるためで、中途半端な「武辺」で出世する輩を批判する背後には、著者の言うように、ある種の嫉妬心もあったのかも。

 著者によれば、「男の嫉妬」とは彦左衛門の例のように、かくあるべきというそれぞれの正義感や自負心に裏打ちされたものだったということで、そのため多少理不尽であってもある面では理屈が通っているため、容認され続けてきたということです。

 和田秀樹氏の『嫉妬学』('03年/日経BP社)を引き、「男の嫉妬」には、「あいつに負けてなるか」と相手を乗り越えようとする積極的動機付けに繋がる「ジェラシー型」の嫉妬と、ただ相手を羨み足を引っぱろうとする「エンビー型」の嫉妬があり、"鬼平"こと長谷川平蔵の後任だった森山孝盛の、人気者だった平蔵に対する批判などは、「エンビー型」であると。

 本書で一番こてんぱにやられているのが、『葉隠』の山本常朝で、主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物言っていて、これも裏返せば「嫉妬心」の表れであると。

 戦乱の世が去り、泰平の時代が続くと、まったく身分の違う者の出世は気にならないが、同格者同士がそれまで年功序列で処遇されていた中で、誰か1人だけ抜擢人事の対象になったりすると、「エンビー型」嫉妬が噴出したようで、この辺りは、今の日本のサラリーマン社会と変わりません。

 江戸武士の武士道意識の話と、階層社会での出世と周囲の感情という現代に通じる話が相俟って、サラリーマンが通勤途上で読むにはちょうどよいぐらいの内容と読みやすさですが、個人的には、著者の今までの本とネタがかなり被っていて、新味に乏しかった...。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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史料から浮かび上がる武士道の本質。武士こそ最も「世間」に左右されていた。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg 『武士と世間 なぜ死に急ぐのか 中公新書 1703』 〔'03年〕  武士道.jpg 新渡戸稲造 『武士道 (岩波文庫)』 (矢内原忠雄訳)

 新渡戸稲造(1862-1933)の『武士道』に「サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?」という副題をつけたのは歴史家の奈良本辰也(1913-2001)ですが、本書の著者によれば、『武士道』は、武士道の理想を語ることに偏りすぎているためその「?」に答えるものとなってはおらず、武士の高い倫理性や無私の精神は、実は「内面的な倫理観」よりもむしろ「武士の世間」からの強い圧力によって形成されたものであると―。本書では、多くの史料からそのことを明らかにしています。

 武士にとって戦場で手柄をあげることも討ち死にすることも同等に名誉なことであり、そのために、死ぬとわかって戦に臨むケースもあり、また、主君が亡くなったときに殉死するのは「名誉ある死」のチャンスであり、強く制止されたにも関わらず追い腹を切った下級武士も多くいたようです。

 赤穂浪士の例を見ても、少なくとも討ち入りメンバーに加わり最後まで残った志士たちは、死ぬことを当然と思い切っていたようですが、その根底においては、この場を逃れた場合は、家の面目は潰れ、自分も武士として生きていくことは出来ないという、忠誠心よりむしろ世間に対し面目を立てることの方が動機付けとなっていたことが窺えます。

 殉死すべきと思われる人物が殉死しなかった場合、世間から冷ややかな眼でみられたということで、武士というのもたいへんだなあという印象を受け、これでは、武士の「義理」ではなく世間体のために死ぬようなものではないかとも思いましたが、こうした感想も現代人の感覚に基づくものらしく、「義理」や「武士の一分」は内的な倫理意識としてあり、それが「世間」の評価と一致していたのだと。
 井原西鶴の小説に描かれる武士などを見ても、個人のメンタリティとしては、「武士としての義理」と「世間に対する義理」は未分化だったようです。

 「武士の一分」というのは、主従関係から離れた個人の面子みたいなものですが、やはり名誉意識であるには違いなく、面白いのは、西鶴の『武家義理物語』の中に、同じ内面的倫理観である「一分」と「義理」とが相克する仇討物があり、ここでは「義理」が上に格付けされているようです。

 赤穂の義士たちも、幕府の裁定に従うという「義理」に反して自らの「一分」を貫いたために切腹せざるを得なかったともとれますが、「義理」にしろ「一分」にしろ、「世間」の眼が背後にあったと本書は結論づけていて、強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが、最も「世間」に左右されていたという本書の指摘は、ある意味刺激的なものでした。

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世間に人気のあった平蔵がなぜ町奉行になれなかったのかを解明。

鬼平と出世 旗本たちの昇進競争.jpg 『鬼平と出世―旗本たちの昇進競争 (講談社現代新書)』〔'02年〕 旗本たちの昇進競争 鬼平と出世.jpg 『旗本たちの昇進競争―鬼平と出世 (角川ソフィア文庫 337 シリーズ江戸学)』〔'07年〕

 池波正太郎が「鬼平犯科帳」シリーズのモデルとした旗本の長谷川平蔵(1745-1795)は、1787年から8年間、火付盗賊改を務めていますが、当時の噂話を集めた『よしの冊子』をもとに、彼の仕事ぶりや世間の評判、上司の評価などを読み解き、世間に人気のあった彼がなぜ町奉行になれなかったのかを解き明かしています。

 本書によれば、実際に彼には実力があり、また、不正には厳しく部下や弱者には慈悲深いその姿勢は、周囲や世間から歓迎されたようですが、一方で、前科者を目明しとして使用したり、スタンドプレイが多いことで、一部に反感も買っていたようです。

 何よりも、田沼意次失脚後に権力者となった松平定信が、平蔵の功績は認めたものの「山師」的人物というふうに彼を見ていて、平蔵本人は、出世して私腹を肥やそうというのではなく、世に貢献したいという気持ちで出世を強く望んでいましたが、上司とそりが合わなくてはどうしようもなく、頭打ちになってしまったようです。

 まあ世にライバルは多くいたようで、本書後半でスポットが当てられている平蔵の後任の、平蔵とは異なる知性派タイプの森山孝盛も、猟官活動を熱心にやったにも関わらず、町奉行になれないで終わっています(平蔵とは逆に、その杓子定規な性格が評価面で災いしたとも言える)。

 田沼時代に森山の同僚が、同格者に対する接待の席でブランド羊羹の1つ格下の羊羹を出して後で詮索された話などは、人望獲得を巡る悲喜劇と言え、江戸時代の"サラリーマン"も、出世しようとするならば、なかなか大変だったのだなあと。

サラリーマン武士道 江戸のカネ・女・出世.jpg 『サラリーマン武士道』('01年/講談社現代新書)に続く週刊誌連載コラムの新書化で、内容と共に黒鉄ヒロシの絵も楽しめ、また本書では、長谷川平蔵と森山孝盛の2人に焦点を絞っているために、コラムとコラムの繋がりがスムーズで一気に読めます。

 現代のサラリーマン生活との類似による身近さ、読みやすさのためか、'07年には、『旗本たちの昇進競争』(角川ソフィア文庫)として文庫化されています。

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「幕府が大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪うため」は俗説似すぎないと。

参勤交代.jpg参勤交代2.jpg 『参勤交代 (講談社現代新書)』〔'98年〕 江戸お留守居役の日記.jpg 江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫).jpg 『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸』〔'94年/講談社文庫〕/『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫)』〔'03年〕

日本橋 参勤交代 広重.jpg 著者は、東京大学史料編纂所の先生で、「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞した『江戸お留守居役の日記』('91年/読売新聞社、'94年/講談社文庫)が、"エッセイ"のわりには結構アカデミックだったのに対し(その後、講談社学術文庫に収録)、近年の著作はかなりわかりやすいものが多いような気がします。

歌川広重「東海道五十三次」(日本橋)

 ただし、史料の読み込みは当然のことながらしっかりしていて、本書では、大名が江戸と各藩を往復した参勤交代制度の成立やその変遷、大名行列の実態や道中でのトラブルの対応・予防などがどのように行われたかが、史料を丁寧に読み込み、わかりやすく解説されています。                  

参勤交代2.jpg 参勤交代の行列は、加賀前田家などの最大規模のもので数千人、遠方の藩だと江戸まで1箇月以上の旅程となり、その費用は現在価値で数億円にもなったことを、詳細な史料から細かく試算しています。今でも「加賀百万石祭り」など各地の祭りで大名行列が再現されていますが、当時デモンストレーション的要素もあって、徳川吉宗などは簡素化を図ったようですが、なかなかそうもいかなかったらしいです。

 しかし、参勤交代の費用を藩財政の中に置いて考えると、その費用は確かに巨額ですが、財政全体に占める割合は数パーセントに過ぎず、幕府が諸大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪おうとしたためだというのは俗説に過ぎないとのことです。

 参勤交代は、大名の幕府への服従儀礼であり、幕府はこれにより諸藩の地方分権の強化を抑え、中央集権体制を260年維持することができたと見るのが、正しい見方のようです(政権安定期の将軍・吉宗には、その辺りの目的認識があまり実感としてなかった?)。

 ただし、著者が作成した藩の損益計算書から読み取れるのは、江戸藩邸をはじめ出先機関の維持費が諸藩の財政を圧迫していている点で、参勤交代制を「行列」ではなく「制度」として捉えた場合、やはり、本来目的とは別に、諸藩の財政に大きな負担を強いていた制度であったことには違いないように思えます。

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