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'60年代のアメリカに留学記。"異邦人の憂鬱"とでも言うべき感情が素直に記されている。
『アメリカ感情旅行 (岩波新書 青版)』 〔'62年〕
作家・安岡章太郎がロックフェラー財団の招きにより、'60年から翌年にかけて半年間アメリカに留学した際のことを綴った日記風の紀行文ですが、留学先に選んだヴァンダビルト大学のあるテネシーの州都ナッシュヴィルは、公民権運動の勃興期にあたる当時においては、黒人を入れない映画館があったり(それに対する学生の抗議運動なども本書で描かれている)、また近辺には、黒人に選挙権を与えていない町が未だ残っていたりしています(テネシーの南のジョージア・アラバマ・ミシシッピ・ルイジアナの4州は更に遅れていたと思われる)。
40歳の留学生である安岡は、自分たち夫妻に親切にしてくれる人の中にも、黒人に対するあからさまな偏見があり、また、それを堂々と口外することに戸惑う一方、黄色人種である自分は彼らにどう見られているのだろうかということを強く意識せざるを得なくなりますが、そうした"異邦人の憂鬱"とでも言うべき感情が素直に記されています。
滞米中、常に人から見られているという意識から逃れられなかったとありますが、ニューヨークのような都会に行ったときの方が、そうした不安感から解放されているのは、何となくわかる気がしました。
テネシーは、いわゆる「北部」に接した「南部」ですが(実際、安岡はここで、自販機のコーラが凍るといった厳しい寒さを体験する)、南北戦争の余韻とも思えるような、人々の「北部」への敵愾心は彼を驚かせ、ますます混乱させます。
一方で、たまたま巡業でやってきた「リングリング・サーカス」を見て"痛く"感動し、住民の日常に触れるにつれ次第に彼らとの間にあった自身との隔たりを融解させていきます(ロバート・アルトマン監督(1925-2006)の映画「ナッシュビル」にもあったようにカントリーのメッカでもあるのに、そうした方面の記述がないのが不思議ですが)。
再読して、自分が初めてアメリカの南部に行ったときのことを思い出し、ナッシュヴィルは"何もない町"だと本書にありますが、テキサスの州都オースティンも、同じく何もない町だったなあと(アメリカの場合、州都だから賑わっているというわけでもないらしい。日本でも、県庁所在地の一部にそういう例はあるが)。
文中に「病気になりそうなほどの土地の広大さ」という表現がありましたが、テキサス州だけで日本の面積の1.8倍という想像がつかないような広さであり、こうした土地面積の感覚の違いが国民性に与える影響というのは、やはり少なからずあるように思いました。