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藤原新也版「老人と海」×「魚影の群れ」みたい。力強いが若干の作り物っぽさも。

大鮃(おひょう).jpg リング・オブ・ブロッガー2.jpg  大鮃 .jpg
大鮃(おひょう)』 リング・オブ・ブロッガー/大鮃 Atlantic halibut 540 pounds (245kg) caught in Norway

オークニー諸島1.jpgオークニー諸島Islands.gif 英国人の父と日本人の母を持ち、ネットを介した翻訳業で生計を立てている30代の男・太古。彼は、オンラインゲーム中毒に悩み、女性恐怖症でもあり、社会と直接交わることを避け、ゲーム中心の生活を送ってきた。カウンセリングに訪れた精神科で、自分が5歳の時に父親を自殺で失くしていると告白した彼は、精神科医から父性的な強さを学ぶ機会を失った可能性があると診断され、父の生まれ故郷の空気に接することを勧められる。かくして太古は、亡き父の故郷、スコットランド最北端に位置するオークニー諸島へと旅立つ。そこで彼は、父親的役割を果たしてくれる老人マークと出会い、更には彼に導かれて、若き日の父の趣味でもあった、大きいもので2メートル以上もあるという大鮃(おひょう)を釣ることに、父と同じ海で挑むことになる―。

 主人公が英国人と日本人のハーフで、引っ籠り気味のゲーマーで、更には外国の地、しかも英国の北の外れを旅する話ということで、最初はやや感情移入しにくいかなと思いましたが、読み進むうちに自然と話に入っていくことが出来ました。むしろ、主人公が「父性」なるものに出会うことができるかという旅の先に、老人に付き従って巨大魚・大鮃を釣りに行くことになるという展開が待ち受けていたというのは、典型的なエディプス・コンプレックスの克服物語、真の大人になるための成長物語であり、感情移入し易かったと言ってもいいかと思います。

 一方で、登場人物が、今まさに主人公が対面している人物も、回想譚に出て来る人物も共にどこか説話的であり、ドラゴンクエストのようなRPGに出て来るような感じで、主人公自身が直面した現実をゲームに重ねているように、まだ、何だかドラクエのようなゲームが続いているようにも感じられました。多分この感触は、話が出来過ぎているような印象から来るのかもしれませんし、作者が意図的にRPGの延長として描いているのかもしれません。

リング・オブ・ブロッガー.jpg とは言え、オークニーの厳しい自然や嵐の中で訪れるリング・オブ・ブロッガーの描写などは簡潔で格調高く、終盤のマークと主人公の二人がかりでの大鮃との格闘には思わず引き込まれ、あたかもヘミングウェイの「老人と海」を想起させるほどに力強いものでした。更には、年少者がベテランに付き従って初めて漁に出るという点では、大間のマグロ漁師に材を取った吉村昭の「魚影の群れ」を思い出したりもしました(藤原新也版「老人と海」とか、藤原新也版「魚影の群れ」といったキャッチをつけたくなる)。ただ、Amazon.comのレビューなどを見ると多くは手放しに絶賛しているのですが、全体を通しては、個人的にはやはりどうしても、若干の作り話っぽさがどこか感じられるのも拭えませんでした。

 因みに本書のiBooks版には、特典として作者がオークニー諸島を訪れた際に撮り下ろした写真や自らが歌うアイルランド民謡「ダニーボーイ」が収録されたフォトムービーがついてくるそうです。作者は写真家でもあるので、写真が付いてきてもいいとは思いますが、こうしたコラボレーションもどこかその"作り物っぽさ"を助長しているような気もしないでもないです。でも、オークニー諸島、行ってみたいのは行ってみたいけれどね。

おひょう.jpg大鮃 -おひょう301.jpg大鮃(halibut)
Alaska(2016.8.7)

 因みに、大鮃(おひょう)の今まで釣り上げられた最大個体は全長4メートルで300キロを超えるものだったそうで、2メートル級のものはちょくちょく釣れるようです。「大きな鮃(ヒラメ)」と書くけれど、目の位置からするとカレイの仲間になります。日本近海にも生息していて、実はスーパーで切り身になっていたり、回転寿司で「エンガワ」として出されていたりしているようです。
      
えんがわ.jpg

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身体的な旅と精神的な旅の連動。ガン死を遂げた兄への想いなどを通して「祈り」を考察。

なにも願わない 手を合わせる.jpg 『なにも願わない手を合わせる』 ['03年/東京書籍] なにも願わない手を合わせる.jpg 『なにも願わない手を合わせる (文春文庫)』 〔'06年〕

藤原 新也 『なにも願わない 手を合わせる』.jpg 四国霊場巡りから始まる写文集で、著者は父、母と肉親が他界するたびに四国の地を訪れてきたといい、今回は兄を亡くしての旅路。

 全東洋街道』('81年)も終着点は高野山だったし、いずれこの人は抹香臭い方向に傾倒していくのかなあと、表題のせいもあってやや固定観念で捉えてしまっていましたが、読んでみて、まさに「なにも願わない 手を合わせる」というこの表題こそ、本書が、「祈願」するという人間行為の「祈」と「願」を分かち、ただ「祈る」だけという行為の先にあるものを体感的に考察した試みであることを、端的に表したものであることに気づきました(思えば人は、手を合わせたら何かを願ってしまう習性があるかも。あるいは、願い事のためにしか手を合わせないということか)。

 50代でガン死を遂げた兄との、幼い頃の犬を飼った思い出や、あるいは亡くなる直前の食事の思い出などは、読む者の胸を打ちます。
 その他にも、さまざまな形で亡くなった死者たちへの想いは、それぞれに切ないものですが、死者というのは自分の心の中にいるものであり、本書は、自分自身の中にいる死者との対話といった趣があり、そして、それは、祈るという行為とも重なることなのだろうなあと。
 そうした思い出を反芻することで、自らを浄化している自分がいる―、そのことを著者は冷静に捉えていると感じました。

 四国霊場八十八ヶ所を"踏破する"といったものではなく、自分の過去に旅しているという感じでしょうか。ただし、"身体的な旅"と"精神的な旅"は連動していて、現実の旅においても出会いや発見があります。
 暗い話が多いかというとそうでもなく、夫婦で四国へ旅に来た老女が途中で連れ添いに死なれ(やっぱり暗い?)、「寺で死んで本当にありがたかった。何から何までお寺さんがやってくれて、きれいさっぱり成仏でしたわ」なんてあっけらかんとしているはかえって面白いけれども、結構ホントそうかもと思わされたりしました。

 後半、一部に、近年著者が追っている渋谷系の少女などを巡っての社会批評的なコメントが入ったりして、本全体としてのテーマがやや拡散的になったきらいがあるのが、個人的には残念。
 
 【2006年文庫化[文春文庫]】

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'80年代初頭の日本社会を独自の視点で鋭く考察。でも、インドの話がやっぱり良かったりして...。

藤原 新也 『東京漂流』単行本.jpg東京漂流 朝日文庫.jpg         全東洋街道 上.jpg 全東洋街道 下.jpg
東京漂流』朝日文芸文庫〔'90年〕 『全東洋街道』集英社文庫
『東京漂流』['83年‣情報センター出版局]

kafu藤原 新也 『東京漂流』3.jpg 写真家である著者が10数年に及ぶインドほか各地の放浪の総括として、トルコからインド、チベット、東南アジアを経由して、最後は高野山で終わる旅をし、それを記した写文集全東洋街道を上梓したのが'81年。その後、著者は東京に住まい、今度は視線を国内に向け、'80年代に入ったばかりの日本社会を独自の視点で鋭く考察した随想が本書です。

 著者は、'60年代の高度成長の時代に対し、'70年代を利己主義(ミーイズム)の時代、'80年代ニューファミリーが台頭する「ブンカの時代」とし、電化製品などに代表されたかつての「三種の神器」は、「フランスパンとブランデーとレギュラーコーヒー」にとって代わられたのではないかと。すでに旧「三種の神器」を手に入れ、自足してもよいはずの日本人が、経済が低成長期に入っても休まずに働き続けたのは、まだ「家」を手に入れてなかったからと(ナルホド)。田園調布に家が建つ」という漫才のフレーズが流行る一方で、持ち家を手にした時には家族の絆は消えていて、そうしたことを'80年11月に起きた「金属バット両親撲殺事件」に象徴させて述べる語り口は、ある意味、わかりやすいものです。

ka藤原 新也 『東京漂流』.jpg 久しぶりに読み返して、他の著者の写文集に比べ、写真がずっと少ないことに気がつきましたが、洗練化、偽善化された社会からはみ出した者が起こしたと分析する「深川通り魔殺人事件」の川俣軍司の写真や、雑誌「フライデー」の連載打ち切りの原因となった、「ヒト食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」というコピーのついたインドで人の死体を野犬が食べている写真など、1枚1枚がキョーレツに印象に残っています。

 でも、本作はやはり文章で勝負している感じ。国内の経済社会動向とそこに生きる日本人の価値観の分析も確かに鋭いけれど、インドの旅で病に感染している子どもたちに接吻していた女性の行為についてのらい病病院の婦長との対話などは、救いとは何かを考えさせられ、ミーイズムとか偽善とかいう問題のレベルを超えていて(彼岸の差がある)感動します。

kafu藤原 新也 『東京漂流』2.jpg
 
 【1990年文庫化[新潮文庫]/1995年文庫化[朝日文芸文庫]】

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今自分が生きている人生や世界について考えさせられる旅記録。トルコ、チベットが特に印象的。

全東洋街道 写真集.jpg 全東洋街道 上.jpg 全東洋街道 下.jpg    月刊PB1980年10月号.jpg月間PLAYBOY.jpg月刊PLAYBOY2.jpg
単行本 ['81年/集英社]/『全東洋街道 上 (1)  (2) (集英社文庫)』 〔'82年〕/「月刊PLAYBOY」'80年7月号・9月号・10月号
全東洋街道00.jpg藤原新也.jpg 写真家・藤原新也氏によるトルコ・イスタンブールからインド、チベットを経由して東南アジアに渡り、香港、上海を経て最後に日本・高野山で終る約400日の旅の記録で、「月刊PLAYBOY」の創刊5周年企画として1980年7月号から1981年6月号まで12回にわたって連載されたものがオリジナルですが、藤原氏の一方的な意見が通り実行された企画だそうで、そのせいか写真も文章もいいです。(1982(昭和57)年・第23回「毎日芸術賞」受賞)

全東洋街道1.jpg 旅の記録というものを通して、今自分が生きている世界や人生とはどういったものであるのか、その普遍性や特殊性(例えば日本という国で生活しているということ)を、また違った視点から考えさせられます。

 アジアと一口に言っても実に多様な文化と価値観が存在し、我々の生活や常識がその一部分のものでしかないこと、そして我々は日常において敢えてそのことを意識しないようにし、世界は均質であるという幻想の中で生きているのかも知れないと思いました。
 そうやって麻痺させられた認識の前にこうした写真集を見せられると、それは何かイリュージョンのような怪しい輝きを放って見えます。
 しかしそれは、例えばトルコの脂っぽい羊料理やチベットの修行僧の土くれのような食事についての写真や記述により、この世に現にあるものとして我々に迫り、もしかしたら我々の生活の方がイリュージョンではないかという不安をかきたてます。

帯付き単行本 ['81年]

全東洋街道01.jpg そうした非日常的"な感覚にどっぷり浸ることができるという意味では、東南アジアとかはともかく、トルコやチベットなど今後なかなか行けそうもないような地域の写真が、自分には特に興味深く印象に残りました。
 
 著者は帰国後、雑誌「フライデー」に「東京漂流」の連載をスタートしますが、インドで犬が人の死体を喰っている写真をサントリーの広告タイアップ頁に載せて連載を降ろされてしまいます(その内容は、東京漂流』(情報センター出版局/'83年、朝日文芸文庫/'95年)で見ることができる)。

東京漂流.jpg乳の海.jpg 同じ'80年代の著書『乳の海』('84年/情報センター出版局、'95年/朝日文芸文庫)で、日本的管理社会の中で自我喪失に陥った若者が自己回復の荒療治としてカルト宗教に走ることを予言的に示していた著者は、バブルの時代においても醒めていた数少ない文化人の1人だったかも知れません。

 【1981年単行本[集英社]/1982年文庫化[集英社文庫(上・下)]】

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