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「魔術的リアリズム」の真骨頂。『百年の孤独』の余韻を引いているような作品群。

エレンディラ サンリオ文庫.pngエレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)エレンディラ ちくま文庫.jpgエレンディラ (ちくま文庫)

 14歳の美少女エレンディラは、両親を早く亡くし祖母に育てられたが、自らの過失による火事で家を焼き、その償いとして、祖母とテント生活の旅をしながら売春させられる。テントの前には男達が群がり商売は繁盛、祖母が1日に何十人もの客を取らせるため、エレンディラはボロボロになってしまうが、何度か逃げ出す機会があったものの、結局は自分から祖母の元に戻っていく―。(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」

 ボリビアの作家、G・ガルシア=マルケス(1928-)が1978年に発表した作品集で、中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の他に、「大きな翼のある、ひどく年取った男」「失われた時の海」「この世でいちばん美しい水死人」「愛の彼方の変わることなき死」「幽霊船の最後の航海」「奇跡の行商人、善人のブラカマン」の各短篇6作を所収。

 民話や伝承のエピソードがベースになった作品が多く含まれているそうですが、「魔術的リアリズム」の作家と呼ばれるように、現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、独特の神話的な作風を生んでおり、それが、砂漠とジャングルと海が隣接するボリビアの風土を背景にしたものであるだけに、なおさらにエキゾチックなイマジネーションを駆りたてます。

美しい水死人.jpg 「大きな翼のある、ひどく年取った男」で、地上に堕ちて着て、村人に奇妙な見世物のように扱われる、老いた"天使"を描いたかと思うと、「この世でいちばん美しい水死人」では、村に漂着した"土左衛門"の美しさを村の女達が賛美するという、ちょっと日常では考えられないと言うか、人々の日常の中に非日常、非現実がいきなり入り込んだような話が続きます。

美しい水死人―ラテンアメリカ文学アンソロジー (福武文庫)

 「大人のための残酷な童話」として書かれたそうですが、個人的には、「愛の彼方の変わることなき死」と「奇跡の行商人、善人のブラカマン」が面白かったです。

 「愛の彼方の変わることなき死」は、上院議員オナシモ・サンチェスが、選挙運動期間中に少女と淫行に及ぶというもので、彼は、そのことがスキャンダルとなり、6ヵ月と11日後に自らが死ぬことになることを正確に予知しながらも、まさに今、少女を傍に侍らせているのですが、自らの宿命に抗し得ない人物を描いているように思いました。

 「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は、奇跡を起こすと言ってインチキ商品を売り歩く悪徳商人ブラカマンに師事したばかりにひどい目に遭う「ぼく」の話ですが、このブラカマンというのが、最初は単なるインチキ男に過ぎないのが、だんだんその行為が本当に超常現象的になってきて、「ぼく」にまで神のような力が備わってしまうというもの。

 この作家は、何だか、極端に常軌を逸した話が好きなんだなあ(それが面白いところでもあるが)。もう、こうなってくると、人間的にいい人だとか悪い人だとかいう道徳的なことは超越してしまい、また、あまりに乾いているため、悲惨さや残酷さといったものも超えてしまっている感じです。

 それは「エレンディラ」(Erendira)にも言え、エレンディラは、彼女を救おうとする美男子だがややひ弱な青年ウリセスとの恋に落ち、ついに祖母を殺そうとしますが、これが、大量に毒を盛った誕生祝いのケーキをまるごと食べても死なず(髪の毛は全部抜けるが)、こうなるともう魔女に近い。更に、爆弾でも死なず、鬘(かつら)が黒焦げになっているだけというのは、まるでカトゥーン・アニメのようなユーモア。

 最後は、ウリセスが肉包丁で祖母に止めを刺しますが、祖母の死を確認したエレンディラは何処かへ去って行き、ウリセスはただ泣くばかり―。
 エレンディラが自分を虐待し続けてきた祖母に、深層心理では深く依存していたことが窺え、神話的であると同時に、人間心理の本質を突いた作品でもあります(虐待被害者にとって、虐待者が同時に庇護者でもあるというのは、現実にもあるなあ)。

エレンディラ95.jpgエレンディラ 映画.jpgエレンディラ 映画チラシ.bmp 「エレンディラ」は、1983年にルイ・グエッラ監督によりイレーネ・パパス(祖母役)主演で映画化され、日本でも公開されましたが、チェックしていたものの見損なってしまい、今はビデオも絶版となりDVD化もされていないということで、やはり、こうした映画は、観ることが出来るその時に観ておくべきだったなあと今更ながらに思います。

エレンディラ 舞台.jpg蜷川幸雄.jpg '07年に蜷川幸雄氏により舞台化されていますが、オリジナルの「エレンディラ」の話に「大きな翼のある、ひどく年取った男」の話を織り込んで、ウリセスを天使にするという、相当に手を加えた脚色になっているようです(祖母役は嵯川哲朗)。

 「エレンディラ」の中にも、上院議員オナシモ・サンチェスや悪徳商人ブラカマンの名が出てくるように、これらの話がある土地で同じ時期に起きた出来事であるかのような構成になって、『百年の孤独』('72年発表)の余韻を引いているような作品という印象を持ちました(短篇については、これらの作品の何れかが『百年の孤独』に挿入されていても不自然ではないかも)。

エレンディラ VHS.jpg

 
 
 
 
 
 
 

 【1988年再文庫化[ちくま文庫]】

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満90歳の誕生日に...。しっとりしたユーモアと明るく旺盛な生命力が感じられた。

わが悲しき娼婦たちの思い出.jpg  Memories of My Melancholy.jpg                   眠れる美女 川端.jpg
わが悲しき娼婦たちの思い出 (2004)』新潮社(2006)/英語版(2005) 川端康成『眠れる美女 (新潮文庫)

 新聞の名物コラムニストである主人公の「私」は、独身で馬面、醜男の老人ではあるが、50代までに500人超の娼婦を相手したツワモノ、但し、最近は永らくご無沙汰していて、90歳を目前にして、「満90歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしよう」と考え、密かに営まれる娼館の14歳の生娘の娼婦のもとへと通う―。

ガブリエル・ガルシア=マルケス .jpg 1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が2004年に発表した中編小説(原題: Memorias de mis putas tristes)で、2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ(1936年生まれ)の代表作『緑の家』も、並行する複数の物語の舞台の1つが娼館でしたが、南米の娼館って、ちょっとイメージしにくかったかなあ。
ガブリエル・ガルシア=マルケス

川端康成YO.jpg むしろ、この物語に出てくる娼館は、ガルシア=マルケス自身がこの作品を書く契機となった(冒頭にその一節が引用されている)川端康成の『眠れる美女』に出てくる、秘密裏に営まれる小さな娼家に近い感じでしょうか。主人公を手引きする女主人の存在も似ていますが、『眠れる美女』の女主人の方は何だか秘密めいた感じなのに対し、こちらはいかにも"ヤリ手婆(ババア)"という感じで、ユーモラスでさえあります。
川端康成

 同様に、この主人公自身にも、老人らしからぬ活気と、何とはなしにユーモラスな感じが漂い、娼家で少女を傍らに、ずっと昔に交流のあった女達のことを想うのは『眠れる美女』の江口老人と同じですが、江口老人が自らの女性遍歴を振り返りつつ、次第に自身の老醜と死を想ってペシミスティックな情緒に浸るのに対し、この物語の主人公は、老人特有の厭世的な気分に捉われているものの、娼家通いをする内に、だんだん元気になっていくような...。

 娼家に通い始めた最初の頃こそ、少女に指一本触れられないまま一夜を明かしたりしますが、『眠れる美女』の江口老人が最後まで少女を眺めるに留まっているのに対し(冒頭の引用にあるように、少女に触れてはいけないというのが『眠れる美女』の娼家のルールなのだが)、こちらはだんだんアクティブになっていき、当初の思いを遂げるとともに、"恋狂い"になってきます。

 江口老人の少女への接し方が、ネクロフィリア(屍体性愛)乃至アガルマトフィリア(人形愛)的であるのに比べると、こちらは、健全と言えば健全。でも90歳なんだよなあ。フィクションにしてもスゴイね。

 調べてみると、川端康成が『眠れる美女』を書き始めたのは60歳の頃で、江口老人は67歳という設定、一方、ガルシア=マルケスがこの作品を発表したのは76歳で、主人公は90歳、相手にする少女は何と14歳。ラテン系民族と日本人の気質の違い(肉食系 vs.草食系?)を感じます。

 この老人、少女との恋愛記を新聞の日曜版(!)に書いて好評を博したり、娼家で起きた有名人の殺人事件に巻き込まれ、行方をくらました少女のことを案じたりと、90歳にして、なかなか忙しそうです。

 そう言えば、『眠れる美女』の中にも、同じ娼家で有名人が亡くなり、女主人が事件を秘匿する手配をした挿話がありましたが、ここまで『眠れる美女』のモチーフをなぞっておきながらも、老人のタイプとしては、両作品の主人公はかなり異なり、この物語の主人公は、生へのエネルギーを充満させて91歳を迎え、更に100歳に向け明るく未来を見据えています(ラテン気質か)。

 少女娼婦相手ということで、フェニミズム的に見てどうかというのもあるかも知れませんが(メキシコの映画会社がこの作品を映画化しようとしたら、小児性愛や児童買春を美化することになるとして、市民団体が反対したそうだ)、個人的には、しっとりした(微笑ましい)ユーモアと明るく旺盛な生命力が感じられた作品でした。

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幻想短編集だが、前半部分は日本の純文学みたいで、後半は南米的。「六時に来た女」が面白い。

青い犬の目(単行本).jpg   青い犬の目(文庫).jpg        青い犬の目 1997.jpg
青い犬の目』['90年]/『青い犬の目―死をめぐる11の短篇 (福武文庫)』['94年]/スペイン語ペーパーバック(1997)

 しばらく前まで、自分が死んだものだと信じきっていたので、彼は幸せだった。死者という、動かしようのない状況に置かれているので、幸せなはずだった。ところが生者というものは、すべてを諦めて、生きたままで地中に埋められるわけにはいかないのだ。それなのに四肢は動かそうとしても、全く反応しない。彼は自分自身を表現できず、そのことが彼の恐怖を一層つのらせた。生と死の最大の恐怖だった―。(「三度目の諦め」)

 1962年に刊行されたガブリエル・ガルシア=マルケスの初期短編集(11編を所収)ですが、実際にこれらの作品が書かれたのは、1955年に刊行された短編集『落葉』とほぼ同じ頃のようです。

 冒頭の「三度目の諦め」は、7歳の少年の頃に死んでから、棺桶の中で生きる屍として成長し続けた男が、25歳となってこれ以上の成長しなくなると、それまで彼の面倒をみていた母親が面倒をみることをやめ、彼は自らの死をやっと受け容れるというミステリアスな話。

 死んでからも意識があるという設定は、吉村昭の初期作品「少女架刑」などを想起させられましたが、ガルシア=マルケスって最初の頃は、こうしたカフカ的な、乃至は、日本の純文学によく見られるような幻想的な、或いは意識過剰な作品を書いていたのだなあ(大江健三郎―村上龍―金原ひとみ・吉村萬壱 etc...といった流れに見られるような。吉村昭も初期は純文学系だったし)。

青い犬の目 ペーパーバック.jpg 文庫版の副題にあるように、以下、主に死をモチーフとした作品が続きますが、「青い犬の目」と言ってくれる男を捜している女と、そういう女を探していた「ぼく」との会話を描いた表題作「青い犬の目」を分岐点に、後半部分の作品は少し毛色が変わって、ホセのレストランに毎晩6時に来る女とホセとの会話を綴った「六時に来た女」などは、ヘミングウェイの「殺し屋」のみたいなハードボイルド・トーンで(これは"幻想短編"というこの短編集全体のトーンからも外れているが)、それでいてペーソスを含んだストーリーが面白かったです(結局、この話に出てくる女は男に何を頼んでいるかというと、○○○○作りなのだ)。

スペイン語ペーパーバック

 その他では、少年の時に馬に蹴られ頭がおかしくなって馬小屋に閉じ込められている黒人と、彼がいつも蓄音機をかけてあげていた精神異常の少女の繋がりを描いた「天使を待たせた黒人、ナボ」や、イシチドリに襲われて目が見えなくなった3人の男達の話「イシチドリの夜」などが、南米風の説話的な雰囲気の中にも切ないユーモアがあって、個人的には好みでした。

 最後の「マコンドに降る雨を見たイザベルの独白」などは、そのまま『百年の孤独』の中の一挿話としてあってもおかしくないトーン。
 それらの後半部の作品に比べると、前半部の作品は、いかにも「習作」という感じがしなくもないですが、ガルシア=マルケス研究者にとっては多分、前半の作品が「注目」なのだろうなあ。
 作品の性質的にも順番的にもその中間にある「青い犬の目」が、この短編集の表題になっているということなのか。

 【1994年文庫化[福武文庫(『青い犬の目―死をめぐる11の短篇』)]】 

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記者時代の小説っぽいルポルタージュ集。「杭につながれて四年」などはまさに奇譚。

幸福な無名時代.jpg 幸福な無名時代 文庫.jpg
幸福な無名時代 (NONFICTION VINTAGE)』['91年] 『幸福な無名時代 (ちくま文庫)』['95年]

 コロンビア出身の作家で、新聞記者出身でもあるガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が、1958年当時、雑誌記者(特派員)として隣国ベネズエラの首都カラカスに滞在した際に遭遇した、ぺレス・ヒメネス独裁政権の崩壊と当時の民衆の生活に取材したルポルタージュ。

 作者の「ジャーナリズム作品全集」から13本の記事を抜粋して訳出されていますが、何れも、1958年の1月から8月までのほぼ半年間に書かれたものであり、この年のベネズエラは、1月の独裁政権崩壊後も、8月に今度は軍事クーデターの企てがあるなど、騒乱が続いていたようです。

 欧米の大手通信社の取材力や速報性に一雑誌記者としてはとても太刀打ちできないと考えたガルシア=マルケスは、客観報道は自らもそれら通信社のものを参照し、政変等で動きまわった政治家や司祭など、個々の人物に焦点を当て、人間ドラマとして記事を再構築することを意図していたようです。

 確かに、ポリティック・ダイナミクスで動く政変絡みの記事も、彼の手にかかると、1人1人の人物が関与した人間ドラマになる―しかも、この約半年の間でも、後になればなるほど小説っぽくなっていくのが窺えて興味深いです。

 但し、個人的により面白かったのは、政治事件を扱ったものよりも、社会的事件や市中の珍しい話を取り上げたものであり、「杭につながれて四年」などはまさにそう。
 妻と喧嘩して家を飛び出した若者が30年ぶりに家に戻った話で、家を出てから農園で出稼ぎ労働していたら、インディオに囚われ杭につながれて4年を過ごし、そこを逃れてからも各地を転々とし、戻ってみると、生まれたことも知らなかった子に孫ができていたという―何だか『百年の孤独』にありそうな話だなあ。

 「潜伏からの帰還」という、反政府革命のリーダーが、捕まった後、完璧な脱獄を遂げ、避暑地で悠々と日光浴をし、ホテルのダンス・ホールで踊り、豪華客船に乗り込んだと思いきや、今度は、映画館から出てきたりして、女性と民衆に助けられながら、逃げおうせてしまうという話もスゴイ。 
 何だか、こうした「事実は小説より奇なり」みたいな話が好きそうだなあ、この人。
 
 「1958年6月6日、干上がったカラカス」は、年初からの降水量の減少で貯水池の水量が減り続け、5月、6月に入っても雨は一滴も降らず、水不足により人々の生活が混乱する様を切実に描いていますが、この記事は実は4月に書かれていて、フェイクに近いある種「パニック小説」みたいなものであり、一方で、こうしたスタイルを通して、社会構造やインフラの問題点を浮き彫りにしているわけです。

 生活のために記事を書いているけれども、創作の方へ行きたくて仕方がない、むしろ、創作のトレーニングとして記事を書いている風が窺えるのが興味深いです。

 因みに、この頃は既に、彼の第1短編集『落葉』は発刊済みで、ベネズエラへの移住にはその印税の一部が充てられていたそうですが、後にノーベル文学書を受賞するこの作家の当時の暮らしぶりは、「時間はあるは金が無い」状態だったそうです(原題は「私が幸福で無名だった頃」)。

 【1995年文庫化[ちくま文庫]】 

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カットバック構成は見事。推理小説っぽさもあるが、謎が解けないところが「文学」的乃至「神話」的?

予告された殺人の記録00_.jpg予告された殺人の記録.jpg               予告された殺人の記録 新潮文庫.jpg
予告された殺人の記録 (新潮・現代世界の文学)』['83年] 『予告された殺人の記録 (新潮文庫)』['97年]

 カリブ海沿岸ボリビアの閉鎖的な冠婚葬祭。町をあげての婚礼は、衆人環視のカーニバルである。嫁入り前の妹を傷モノにされていた事実を突き止めた双子の兄弟は、妹の相手サンティアゴ・ナサールの殺害を宣言していた―。

予告された殺人の記録 1998.png 1981年にコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が発表した中編小説で、『百年の孤独』のような幻想的な文学作品とは異なり、まさに「記録」文学のような文体であり、初期の『幸福な無名時代』に収められているルポルタージュ的作品の文体に似ていると思いました。もともと新聞記者から作家になった人ですが、『幸福な無名時代』に収められているものは1958年に発表された文章で、そこにまた回帰しているのが興味深いです。

スペイン語ペーパーバック(1998)

 〈わたし〉がかつて住んでいた田舎町で30年前に起きたこの事件は、〈わたし〉の友人サンティアゴ・ナサールが、犯人も場所も時間も殺害方法も動機に至るまで、その町の住人のほとんどに予め知らされていた中で、本人だけがそのことを知らされずに、兄弟にめった斬りにされ惨殺されたというもので、この事件を〈わたし〉が、当時の関係者や記録を調べ、何があったのかを明らかにしようとするという体裁をとっています。

予告された殺人の記録 映画.jpg 事件の経過を、5つの視座・視点で再構成しているため、カットッバック的にそれらが重なり、手法的には丁度、娯楽映画であるスタンリー・キューブリックの「現金に体を張れ」('56年)や、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」('94年)を想起しました。

 確かに文学の世界でこの種のカットッバック手法はあまり使われていないように思いますが、この作品はある意味、エンタテインメントなのかも(本国でもこの小説は、作者の他の作品よりも大きな活字で出版されているらしい)。

 因みに、この作品自体も1987年にフランチェスコ・ロージ監督によりイタリア・フランス合作映画化されています(出演:ルパート・エヴェレット/オルネラ・ムーティ/ジャン・マリア・ボロンテ)。

予告された殺人の記録 2006.jpg 構成はとにかく見事。最後の最後に被害者の死の場面が出てくるのが衝撃的で、「腸に泥がついたのを気にして、手で落としたほどだったよ」というのが生々しく、これが語り部を通して語られることで、時間を超えた神話のような雰囲気を醸しているのが、いかにもガルシア=マルケスといったところでしょうか。

スペイン語ペーパーバック(2006)

 誰もがサンティアゴ・ナサールが殺されることを知っているにも関わらず、誰もそのことを彼に教えない、しかも兄弟達は、ホントは復讐殺人なんかしたくないのに誰も止めてくれないのでやらざるを得なくなってしまっている―というのは、まさに共同体の悲劇であり崩壊の予兆でもあるという、そうした点でも、作者の他の作品に繋がるテーマを孕んでいると言えるかも知れません。

 但し、個人的にはむしろ、推理小説的な面白さを強く感じ、もしもサンティアゴ・ナサールが加害者だとすれば、当然罪の意識はあろうかと思われ(元来いい人みたいだし)、全く疾しさも身の危険も感じること無く翌朝から町中へ出かけるとは考えにくく、一方、「傷モノにされた妹」は、当夜サンティアゴ・ナサールを加害者として名指ししつつも、何年もたってからの<わたし>の問いに対しては、何も語ろうとはしない―だから、この謎は解けないのですが、解けないところが「文学」乃至は「神話」なのかなあ(解けてしまえば「推理小説」そのものになってしまうのかも)。
 
 【1997年文庫化[新潮文庫]】 

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「男系/女系/非嫡子系」複合の家系小説? 構成力と無数の挿話が醸す不思議な力に圧倒された。

百年の孤独 新潮社.jpg百年の孤独 改訳版.jpg 百年の孤独 2006.jpg  Gabriel GarciaMarquez.jpg Gabriel Jose Garcia Marquez
百年の孤独 (新潮・現代世界の文学)』['72年]『百年の孤独』['99年]『百年の孤独』['06年]

百年の孤独 1976.jpg 1967年に発表されたコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)の代表的長編小説で、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの夫婦を始祖とするブエンディア一族が蜃気楼の村マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を描いています。

"Cien Años de Soledad"(1967)

 寺山修司(1935-1983)が「旅芸人の記録」('75年/ギリシャ)の監督テオ・アンゲロプロス(1935-)との対談で、この小説を話題にして2人で盛り上がっていた記憶があり、「旅芸人の記録」の日本公開が1979年ですから、多分その頃のことだと思います。

 松岡正剛氏は、寺山修司からこれを読まないかぎりは絶交しかねないという勢いで読むことを勧められていたものの手つかずでいたのが、後になって読んでみてもっと早く読むべきだったと思ったそうです。
 今回が初読であった自分も、同様の後悔をしました(圧倒されるような海外文学作品に新たに出会えたという点では、ある意味で僥倖とも言えるが)。

百年の孤独 png 「マコンド」は作者が創作した架空の村ですが(時折出てくる実在の地名からすると、コロンビアでもカリブ海よりの方か)、こうした設定は、作者が影響を受けた作家の1人であるというフォークナーが、『八月の光』などで「ジェファソン」という架空の町を舞台にストーリーを展開しているのと似ています。

スペイン語ペーパーバック(1999)

 様々な出来事が、しかもその一片で1つの小説になりそうな話がどのページにもぎっしり詰まっていて、その中には、ジプシーが村に持ち込んだ空飛ぶ絨毯とか、洗濯物のシーツと一緒に風で飛ばされて昇天してしまった美人娘とか、死者と会話する子とか、かなりシュールな挿話も多く含まれています。

 この作品は、マコンドの100年を描いたという以上に、7世代に渡るブエンディア一族の物語であるように思われ、新開地での村の創設を思い立ったホセ・アルカディオ・ブエンディア(個人的には、セルバンテスのドン・キ・ホーテと少し似ているところがあるような気がした。妄想癖だけでなく、実行力がある点がキ・ホーテと異なるが)を皮切りに、次々と個性的な人々が登場します。

百年の孤独 ペーパーバック.bmp そして、その息子兄弟であるホセ・アルカディオとアウレリャノ・ブエンディア大佐(「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになった」と冒頭にあり、『予告された殺人の記録』と似たような書き出しなのだが...)に代表されるように、マッチョで粗暴な一面と革命家としてのヒロイック資質が、更には一部に学究者または職人的執着心が、同じくアルカディオ乃至アウレリャノと名付けられる子孫たちにそれぞれ引き継がれていきます。

スペイン語ペーパーバック(2006)

 となると、一見「男系小説」のようですが、一族の男たちは、放蕩の旅に出て、或いは革命の英雄となって村に戻ってくるものの、晩年は抜け殻のような余生を生きることになるというのが1つのパターンとしてあり、一方、ウルスラを初めとする女性たちは、その子アマランタにしても、更に2世代下った姻族に当たるフェルナンダしても、むしろこちらの方が一族を仕切る大黒柱であるかのように家族の中で存在感を示し、その資質もまた、ウルスラ乃至アマランタという名とともに引き継がれていきます。

百年の孤独 jpg ウルスラが120歳ぐらいまで生きて、一族の歴史に常に君臨しており、そうした意味ではむしろ「女系小説」言えるかも知れませんが、更に、ピラル・テルネラというホセ・アルカディオとアウレリャノ・ブエンディアの第2世代の兄弟両方と関係して一族の家系に絡む女性がいて、この女性もウルスラと同じくらい長生きします。

スペイン語ハードカバー(2007)

 同じように第4世代のセグンド兄弟と関係するペトラ・コテスという女性が出てきますが(兄弟の兄の名はホセ・アルカディオ、弟の名はアウレリャノということで、ややこしいったらありゃしないと言いたくなるが)、ここにも一定のフラクタル構造がみてとれます(「非嫡子系」とでも言うべきか)。

 村に文明の利器を持ち込んだジプシー、メルキアデスの「一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる」という予言が当たったことを第6世代のアウレリャノ・バビロニアが知ったとき―。

 いやあ、凄い構成力。作者は、本書出版後に、「42の矛盾」を見つけたが再販でも修正せず、「6つの重大な誤り」については、誰一人それを指摘する人がいなかったと言っていますが、この辺りの言い草は、作者のユーモアある茶目っ気ではないかなあと(それを探そうとするフリークがいるかも知れないが)。

One Hundred Years of Solitude.jpg 細部の構成力もさることながら、ちょうどエミール・ゾラの『居酒屋』、『ナナ』、『ジェルミナール』などの作品群がルーゴン家、マッカール家など3つの家系に纏わる5世代の話として位置づけられる「ルーゴン・マッカール双書」のようなものが、『百年の孤独』という一作品に集約されているような密度とスケールを感じます(運命論的なところもゾラと似ている。ゾラの場合、彼自身が信じていた遺伝子的決定論の色が濃いが)

英語版ハードカバー

 よくもまあ、こんなにどんどこどんどこ奇妙な話が出てくるものだと感嘆させられますが、それらの1つ1つに執着せず、どんどん先に進んでいく―そのことによって、壮大な小宇宙を形成しているような作品とでも言うべきか。

ガルシア・マルケス.jpg 神話的または伝承説話的な雰囲気を醸しつつも、それでいて読みやすく、人の生き死にとはどういったものか、一族とは何か(大家族を扱っている点では、近代日本文学とダブる面もある?)といったことを身近に感じさせ考えさせてくれる、不思議な力を持った作品でもあるように思いました。

ガルシア・マルケス

 【1972年単行本・1999年改訳版・2006年改装版[新潮社]】 

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