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死の家の記録、罪と罰、白痴、悪霊、カラマーゾフの兄弟の5作品の人物造型や創作技法を"講義"。

小説家が読むドストエフスキー.jpg 『小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)』 ['06年] 加賀乙彦(かが おとひこ).jpg 加賀乙彦 氏(略歴下記)

 カトリック作家の加賀乙彦氏が、朝日カルチャーセンターで、ドストエフスキーの諸作品について、その作品構造や伏線の張り方、人物の造型法やストーリーとプロットの関係などを、小説家の立場から、創作の技法や文体の特徴に力点を置いて講義したものを、テープ起こしして新書に纏めたもの。
 『死の家の記録』、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の5作品の文庫版をテキストとしていますが、内容も平易で、語り言葉のまま活字化しており、読んでいて、カルチャーセンターに通っているような気分になります。

ドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ』('73年/中公新書)では、精神科医という立場からドストエフスキーの癲癇という病に注目しながらも、実質的には、多くの特異な性格の登場人物の分類や分析、それらの創造のヒントはどこにあったのか、といったことに力点が置かれていたような気がしましたが、それは、本書についても感じられ、講義の前半分(『死の家の記録』『罪と罰』)では、特にそう感じました。

 大作『白痴』『悪霊』については、登場人物の関係の持たせ方などにも着目し、『カラマーゾフの兄弟』の講義で、やや宗教的な問題に突っ込んで話している感じ。
 但し、全般的には、一般向けの"文学講義"ということもあってか、ツルゲーネフやトルストイといった作家たちの作品との比較、日本の作家や文学作品に影響を与えている部分などにも話が及んでおり、更には、ドストエフスキーの人生そのものや、その作家としての生活ぶりも紹介していて、そうした幅広さの分、作品自体の分析はやや通り一遍になったきらいも。

 そうした意味では、いかにもカルチャーセンターでの講義という感じもしなくはないですが、作品自体を丁寧に再構築してくれていて、内容を思い出すのにちょうど良く、ドストエフスキー作品に対するバフチンの分析(「ポリフォーニー」や「カーニバル的」といったこと)やベルジャーエフの言説(「キリスト教的な愛」+「ロシア的な愛」といったこと)をわかり易く要約してくれたりしていているのも有り難い点。
 難解とされる『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の部分の解説なども極めて平易で、入門書としては悪くなく、むしろお薦め、但し、原作を読まないことにはどうしょうもないけれど(受講生は、講義の前に読んで"予習"して講義に臨むということになっていたのではないかと思われるが)。
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加賀 乙彦
1929年、東京生まれ。本名・小木貞孝。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)の他、『フランドルの冬』『宣告』『湿原』『永遠の都』『雲の都(第一部 広場、第二部 時計台)』など著書多数。

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文豪の創作の秘密を、"てんかん"という持病を軸に、病跡学的観点から解明。

加賀 乙彦 『ドストエフスキイ』.jpgドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ (中公新書 338)』['73年]嫌われるのが怖い 精神医学講義.jpg 『嫌われるのが怖い―精神医学講義 (1981年)』 朝日出版社(朝日レクチャーブックス)

 作家であり精神科医でもある著者が、文豪ドストエフスキーの創作の秘密を、彼の癲癇という持病を軸に、病跡学的観点から解き明かしたもの。
 何せ、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読んで、医師としてのキャリアを刑務所の監察医からスタートすることを決心したぐらいドストエフスキーに入れ込んだ人であり、精神医学の大家・笠原嘉氏との対談『嫌われるのが怖い-精神医学講座』('81年/朝日出版社)の中でも、「病跡学にもし存在価値があるとするならば、ドストエフスキーとてんかんとの関係を文学創造の核に据えて考察することこそ、大事だと思います」と繰り返しています。

死刑囚の記録2.jpg また、監察医としての経験を通して書かれた『死刑囚の記録』('80年/中公新書)の中では、「死刑囚」と「無期囚」で拘禁ノイローゼの現れ方が、「死刑囚」には躁状態や爆発発作となって現れ、「無期囚」には拘禁ボケが見られるとしていますが、その前に書かれた本書('73年)で既に、ドストエフスキーの癲癇発作の前に異常な生命力の高揚と発作後の無気力を、それぞれ死刑囚の心理、無期囚の心理に似ているとしています。

 ドストエフスキーが18歳の時に、潜在的に期待していた父の死が実際に起こったことが、彼の癲癇発症の引き金となったとするフロイト説を、卓見としながらも一部批判していますが、結局、彼が若い頃から癲癇気質を示していたのか、何歳の時に最初の発作を経験したのか、といったことはよくわからないわけで、この辺りが、既に亡くなっている天才の病理を研究する病跡学の限界なのか、その後も病跡学というのは精神医学の中で亜流の位置づけをされているような気がします。

永遠のドストエフスキー.jpg 自分自身、本書を最初に読んだときは、ドストエフスキーの天才性の秘密に触れた気がして目からウロコの思いでしたが、その後、精神医学者ではなく文学者である中村健之介氏が、『永遠のドストエフスキー』('04年/中公新書)の中で、癲癇もさることながらドストエフスキーの異常なまでの心配性や被害妄想に着目しており、こちらの方がより説得力があるようにも思えました。

 但し、今回本書を読み直してみると、後半は病理としての癲癇にばかり執着するのではなく、性格学的なトータルな分析がされていて、また、登場人物と作者との関係性においても、作家らしい考察がなされていることを再認識しました(ドストエフスキーには登場人物に自分を投影させているという意識はなかったと、著者は考えているのが興味深い)。

 また本書の中でも、「私は病的な現象がすべて深遠で神聖だなどと言おうとしているのではない。癲癇者でありながら何一つ自分の体験から深い人間的意味をひきだすことのできぬ人も世には大勢いる。と言うよりほとんどの癲癇者はそうである。それに反して、ただ一人ドストエフスキイだけが癲癇という病的現象から深い透徹した人間的意味を発見し、それを文学に形象化することに成功した」(52p)のだとしています。

 これは、最近注目されているサバン症候群などにも当て嵌まる気がし、極めて稀な例ですが、異常なまでに高い言語能力を有するマルチ・リンガルのサバン症候群の人が、実は若い頃に側頭葉癲癇を発症し、「共感覚」という特殊な能力を獲得していたらしいことが、最近の脳科学の臨床例などでわかっている―。これとて、その患者が文学作品を編み出す素因には全くならないわけですが、やっぱり、癲癇という病気はその人の言語能力に何らかの影響を与えることがあるのではないかと思わせる話である気がします。

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死刑囚の置かれた実態を知るとともに、死刑制度の是非について考えさせられた。

死刑囚の記録2.jpg加賀乙彦  『死刑囚の記録』.jpg 死刑囚の記録.jpg
死刑囚の記録 (中公新書 (565))』〔'80年〕

 著者は医学部を卒業後まもなく東京拘置所の医官となりましたが、本書は、著者が20代の後半に接した多くの死刑囚たちの記録であり、極限状況における彼らの言葉や行動、心理を精神科医の視点で淡々と記録する一方で、死刑囚との触れあい、心の交流も描かれていて、宗教に帰依した死刑囚が、執行の前日に著者に書き送った書簡などは心打つものがあります。

 しかし、こうした宗教者的悟りの境地で最期を迎える死刑囚は、本書で紹介されている中のほんの一握りで、多くの死刑囚が拘禁ノイローゼのような状況に陥っていて、症状には強度の被害妄想など幾つかのパターンはありますが、刑罰の目的の1つに犯罪者を悔悟させるということがあるとすれば、死刑制度についてはその機能を充分には果たさないように思えました。

 著者が拘置所に勤務する契機となったある死刑囚との面談で、著者はその死刑囚が語る真犯人説にすっかり騙されますが(そもそも、"真犯人"なるものが架空の存在だった)、そうした経験を糧にし、予断を交えないように慎重に対処しながらも、多くの死刑囚を見るうちに、その何人かについては免罪であるかもしれないという印象を拭いきれずにいます。

 また、拘置所内で暴発的行為を繰り返す死刑囚の中には、単なる拘禁ノイローゼではなく器質障害が疑われる者もいて、刑罰の理由である犯罪行為そのものが、それにより引き起こされた可能性も考えられることを示唆していて、実際に公判時の精神鑑定などを見ると、精神科医によって意見がまちまちであったりする、こうした曖昧な報告をもとに死刑が執行されることに対しての疑問も感じました。

 著者は、死刑は"執行に至るまでの過程において"残虐であるとして、制度そのものに異を唱えていますが、実際、毎日24時間の「生」しか保証されていないとすれば(死刑の執行は、かつては前日、今は当日の朝に告知される)、死刑囚の多くが、「改心」云々以前に躁鬱状態に陥るのは無理からぬことだと思いました。

 一方で、無期囚が起伏のない日々の中で躁鬱が欠落し「拘禁ボケ」状態に退行する傾向が見られるのに対し、死刑囚や重罪被告は、生への貪欲な執着を示し、却って密度の濃い日々を送る傾向が見られる(それが創作であったり妄想の構築あったり、再審請求準備であったりと対象は様々だが)という著者の報告は、興味深いものであると同時に、自らを振り返って、日々どれだけ「死」を想って密度の濃い日々を送ろうとしているだろうかと考えさせられるものでもありました。

死刑囚と無期囚の心理.bmp 尚、この死刑囚と無期囚の拘禁状態における心理変化の違いにについて著者は、本名「小木貞孝」名で上梓された『死刑囚と無期囚の心理』('74年/金剛出版)の中でも学術的見地から詳説されています(この本は'08年に同出版社から加賀乙彦名義で復刻刊行された)

死刑囚と無期囚の心理

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「死」がより明確な時間的期限をもって示されるならば、死刑は殺人よりも残酷であるかも。

加賀 乙彦 『宣告 (上)』.jpg 加賀 乙彦 『宣告 (下)』.jpg 宣告 ((上)) (P+D BOOKS).jpg 宣告 ((中)) (P+D BOOKS)_.jpg 宣告 ((下)) (P+D BOOKS).jpg
宣告 上巻』『宣告 下巻』 ['79年/新潮社]宣告 ((上)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((中)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((下)) (P+D BOOKS)』['19年]
新潮文庫 (全3巻)
宣告1.jpg宣告2.jpg宣告.jpg 1979(昭和54)年・第11回「日本文学大賞」(新潮文芸振興会主催)受賞作。

 ドストエフスキーは『白痴』の中で、「死刑は殺人よりも残酷である」と主人公に言わせていますが、それは、死刑囚には予め自分が殺されることが100%わかっているからです。この小説は、独房の中での何時訪れるかわからない"その時"を待つ主人公を中心に描かれているため、感情移入せざるを得ず、読み進むにつれて読むのが辛くなりました。ラストがどうなるかは、主人公も読者もわかっているからです。

死刑囚の記録.jpg 著者による『死刑囚の記録』('80年/中公新書)を読むと、主人公のモデルとなった人をはじめ、宗教者の境地に達した死刑囚もいたようですが、被害妄想、ノイローゼ、ヒステリーといった病的症状や、「早く殺してくれ」といった刹那主義に陥るなどのケースの方が多く、それらの例もこの小説に多々反映されているように思いました。自分はまず主人公のようにはなれないと思いますし、そうすると、動物のように自分を後退させ、何らかの病理状態に"逃避"するということになるのだろうか...。                               
死刑囚の記録 (中公新書 (565))』 ['80年]

 ある意味「死刑は殺人よりも残酷である」という思いに、読めば(かなり高い確率で)駆られることになるヘビーな小説ですが、死刑と無期刑の差が受刑者にとっていかに大きかということも、当たり前のことですが改めて感じました。さらに、執行のその時には、世間に公表されることなく国家によって殺されていくことを思うと、死刑執行の"密室性"の問題などについても考えさせられます。

 現状日本には、無期刑というものはあるものの"終身刑"というものは無く、無期の場合、一定期間が経過すれば仮出獄となるようです(ただし"出所"ではなく"仮出獄"であり、死ぬまで保護観察下にある)。一方、死刑囚は100人以上いて、その多くが小菅の東京拘置所にいるのですが、死刑が確定してから長期の年月が経過している死刑囚も多いようです。   

 だからと言って、"死刑"が部分的に"終身刑"の役割も負っていると考えるのは、安易なのかもしれません。誰にどのような基準で実際に死刑が執行されるのか、共犯者の刑が確定しないと刑の執行はされないなどの基準はあるようですが、細かいことはよくわからないし、死刑囚ら自身にもわからないのではないか、それでは、そのことを明確するのがいいのかどうか、"100%"死ぬ(国家によって"殺される")ことがより明確な時間的期限をもって示されるのであれば、そのとき「死刑は殺人よりも残酷である」ということになるのかも知れません。

 【1982年文庫化・2003年改訂[新潮文庫(上・中・下)]/2019年[小学館・P+D BOOKS(上・中・下)]】

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