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それぞれに興味深い、3人の"特別な"男たちの老境を紹介。

江戸人の老い.jpg 『江戸人の老い (PHP新書)』 ['01年]  第8代将軍徳川吉宗.jpg 第8代将軍・徳川吉宗

 「江戸人の」と言っても、著者自らが言うように、3人の"特別な"男たちの老いの風景を描出したもの。

「秋山記行」より.jpg 最初に出てくるのは、70歳で400字詰め原稿用紙に換算して175枚以上あろうという「遺書」を書いた鈴木儀三冶(ぎそうじ)という、中風(脳卒中)の後遺症に伏す隠居老人で、遺書の内容は、家族、とりわけ家業の質屋を老人の後に仕切る娘婿に対する愚痴が溢れているのですが、この、いかにもそこらにいそうな老人のどこが"特別"かというと、実は彼は俳詣・書道・絵画・漢詩などをたしなむ多才の文人で、「牧之」(ぼくし)という号で、各地を巡った記録を残している―。
 その表裏のギャップの意外性が興味深い鈴木牧之こと「儀三冶」、享年73。

鈴木牧之 「秋山記行」より「信越境秋山の図」(野島出版刊 複製版)

 2番目の登場は、8代将軍・徳川吉宗で、ずば抜けた胆力と体力の持ち主であった"暴れん坊将軍"も、62歳で引退し大御所となった後は、中風の後遺症による半身麻痺と言語障害に苦しんでいて、1つ年下で側近中の側近である小笠原石見守政登は、将軍の介護をしつつ、長男の新将軍・家重とその弟・田安宗武との確執など悪い話は大御所の耳には入れまいとしますが―。
 石見守の介護により、大御所・吉宗が一時的に快方に向かうと、それはそれで、事実を大御所に報告していない石見守の心配の種が増え、政務日記の改竄にまで手を染めるという、役人の小心翼々ぶりが滑稽。
 吉宗、享年68(石見守は85歳まで生きた)。

 最後に登場する、寺の住職を退き隠居の身にある十方庵こと大浄敬順は、前2人と違って老いても頗る元気、各地を散策し、68歳になるまでに957話の紀行エッセイを綴った風流人ですが、表向き女人嫌いなようで、実は結構生臭だったというのが面白いです。
 自作の歌や句を所構わず落書きする茶目っ気もありますが、実は透徹した批評眼を持ち、世に溢れる宗教ビジネスなどの偽物文化を戒め、本物の文化が失われていくのを嘆いています(よく歩く点も含め、永井荷風に似てるなあと思ったら、「あとがき」で著者もそれを指摘していた)。
 70を過ぎても郊外をめざして出歩いた敬順ですが、社交嫌いではなく、「孤独を愛する社交好き」という二面性を持っていたそうです。
 
 それぞれに、鈴木牧之(ぼくし)こと鈴木儀三冶の『遺書』、小笠原石見守の『吉宗公御一代記』、大浄敬順の『遊歴雑記』という史料が残っているからこそわかる3人の老境の実像ですが、ちょっと彼らの境遇が異なり過ぎていて寄せ集め感もあるものの、まずまず面白かったです
 個人的に一番面白かったのは、著者の筆の運びに拠るところが大きいのですが鈴木牧之の話、自分も老いたならばこうありたいと思ったのは大浄敬順、といったところでしょうか。

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「男道」の伝統は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれた?

サムライとヤクザ.png 『サムライとヤクザ―「男」の来た道 (ちくま新書 681)』 〔'07年〕

 本書によれば、戦国時代が終わり江戸時代にかけて、「男道」は次第に武士のものではなくなり、「かぶき者」と言われた男たちが戦国時代の余熱のような男気を見せていたのも一時のことで、「武士道」そのものは形式的な役人の作法のようなものに変質していったとのことです。

 では、誰が「男道」を継承したのかと言うと、藩邸が雇い入れた"駕籠かき"など町の男たちだったそうで("火消し"がそうであるというのはよく言われるが、著者は"駕籠かき"の男気を強調している)、こうした男たちの任侠的気質や勇猛果敢ぶりに、かつて武士のものであった「男道」を見出し、密かに賞賛を贈る人が武士階級にもいたようです。

 また、同様の観点から、鼠小僧次郎吉が捕えられた際の堂々とした態度に、平戸藩主・松浦(まつら)静山が『甲子(かっし)夜話』で賛辞を贈っているとも(松浦静山に限らず、同様の例は他にもある)。

 江戸初期に武士の間に流行った「衆道」(男色)の実態(多くがプラトニックラブだったらしいが、生々しい記録もある)についてや、17世紀後期には幕臣も藩士も殆どが、一生の間に抜刀して戦うことなく死を迎えたという話、松宮観山が書いた、"泰平ボケ"した武士のための非常時マニュアル『武備睫毛』とか、興味深い話が盛り沢山。

江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg 但し、武士の「非戦闘化」、「役人化」を解説した点では、『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』('88年/中公新書)の続きを読んでいるようで、本書のテーマはナンだったかなあと思ったところへ、最後の章で、ヤクザの歴史が出てきました。

 江戸史に限らずこちらでも、著者は歴史資料の読み解きに冴えを見せますが、なぜ今の世において政治家も企業家もヤクザに引け目を感じるのかを、松浦静山の鼠小僧次郎吉に対する賛辞のアナロジーで論じているということのようです、要するに。

 「男道」は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれていたということで、政治家や企業家が彼らを利用するのは、武士が武威を他者に肩代わりさせてきたという歴史的素地があるためとする著者の考察は、面白い視点ではあるけれど、素人の感覚としては、やや強引な導き方という印象も。
 この考察をどう見るかで、本書の評価は分かれるのではないでしょうか。

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「さし腹」という怖〜い復讐方法。討つ者と討たれる者の心の闇に迫る"意欲作"?

かたき討ち―復讐の作法.jpg 『かたき討ち―復讐の作法 (中公新書 1883)

 先妻が後妻に対し、時として女性だけの集団で討ち入る「うらなり打」、遺族が仇敵の処刑を執行する「太刀取」、男色の愛と絆の証として武士道の華と賞賛されたという「衆道敵打」等々、江戸時代の「かたき討ち」という復讐の諸相を、多くの事例を上げて紹介しています。

 一番ぞっとしたのが、切腹の際に仇敵を指名する「さし腹」で、指名された方は、やはり腹を切らなければならないケースが多かったとか。死ぬことが復讐の手段になっているという構図には、やや唖然...。

 「かたき討ち」が、手続さえ踏めば法的に認められていたのは、ベースに「喧嘩両成敗」という発想があり、またその方が後々に禍根を残さずに済んだ、つまり、個別紛争解決の有効な手段と考えられていたようです。
 しかし実際には、仇敵を打った者は、今度は逆に自らが追われる「敵持ち」の立場になったりもし、これではキリが無いなあ。

 「敵持ち」であることはツワモノの証拠であり、結構、武家屋敷で囲われたらしく、これが「囲い者」という言葉の始まりだそうです("愛妾"ではなく"食客"を指す言葉なのだ)。
 しかし、江戸中期以降、「かたき討ち」は次第に演劇化し、実際に行われればそれなりに賞賛されるけれども、一方で、こうした「敵持ち」に駆け込まれた場合の「お引取りいただくためのマニュアル」のようなものができてしまう―。
 江戸前期と、中・後期では、「かたき討ち」のポジショニングがかなり違ってきたようです。

 戦国時代にはさほど無かった「かたき討ち」が江戸初期に急増したのは、失われつつあった戦士のアイデンティティを取り戻そうとする反動形成だったと著者は当初考えていて、仇敵を野放しにしておくことに対する世間からの評価に武士の面子が耐えられないということもあったでしょうが、それにしても、意地だけでここまでやるかと...。
 そこで著者は更に考えを進め、畳の上での死ではなく非命の死こそが本来の"自然死"だという死生観が、当時まだ残っていたためではないかとしています(個人的には少し納得。そうとでも考えないと、命の重さが現在よりもあまりに軽すぎる)。

 一方、「かたき討ち」を行う武士の内的価値観というのは、多分に制度や法によって作られた部分があるのではないかとも思いました。
 その証拠に、父や兄の仇を討つのは認められていましたが、子や妻の仇を討つことは認められておらず、そうすると、実際に子や妻の仇を討った事例も少ない。

 仇の仇を討つなどという場合は、相手が直接的には自分とあまり関係ない人物だったりして、このあたりの、討つ者と討たれる者の心の闇は、著者の言うように、現代人には測り知れないものがある、本書は、そうした闇に迫ろうとした"意欲作"ですが、著者自身がまだ探究途上にあるという印象も。

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花のお江戸には死体がいっぱい!? 刀剣試し斬りの"専門職"の仕事ぶりを紹介。

大江戸死体考.jpg 『大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016))』 〔'99年〕

 本書によると、江戸の町では人の死体というものが生活に身近にあったらしく、町中ではしばしば行き倒れの死体が見られ、水辺には水死体が漂着するなどし、汐入あたりでは水死体を見つけても隅田川の流れに戻してやれば、とりあえず目付に届けなくてもよかったとか。
 小塚原の刑場に行けば、処刑後の死体が野晒しになっていたようですが、本書では、こうした水死・首吊り・心中・刑死などによる死体が当時どう扱われたかに触れ、刀剣試し斬り武芸者「人斬り浅右衛門」を軸に、検死や試し斬りの模様、更には「生き胆」売買といったアンダーワールドな世界を紹介しています。

首斬り朝.jpg 「人斬り浅右衛門」こと「山田浅右衛門」は、綱淵謙錠の小説『斬』や柴田錬三郎の『首斬り浅右衛門』、そして何よりも小池一夫原作の劇画『首斬り朝』で知られていますが、「浅右衛門」とは1人の人物ではなく、御様御用(おためしごよう、刀剣試し斬りの"専門職")として将軍家の御用を務める山田家の当主が、江戸初期から明治維新まで8代に渡って名乗ったもの(歴代8人いたということ)。
 処刑後の罪人の死体などで刀剣の切れ味を試す「ヒトキリ」が本職で、実際の処刑に該当する「クビキリ」は"アルバイト"だったとのことです。

刑吏の社会史.jpg 身分は浪人でしたが、周囲から極度に忌み嫌われていたわけでもなく、刀剣鑑定の専門家でもあったため幕府の中枢人物との交遊もあったようで、この辺りは、阿部謹也『刑吏の社会史』(中公新書)にあるように中世ヨーロッパの刑吏が市民から賤しまれたのとは随分異なるなあと思いました(正確には、「浅右衛門」は刑吏ではないが、時として同じ役割を担ったことになる)。
 一族は、死体を供養するために三ノ輪(小塚原付近)に寺を建立したりしている、一方で、山田家が平河町に比較的大きな屋敷を構える生活が出来たのは、死者の臓器を薬として"専売"していたため( 所謂「生き胆」売買)だったらしい。

 かなりマニアックで、多少グロテスクでもありますが、語り口は軽妙、平凡社新書の初期ラインアップの中ではベストセラーになった本。
 著者の本はときどき史料と話題が氾濫し、消化不良を起こしそうになることがありますが、後書きにもあるように、この本については余分な史料を削ぎ落とすよう努めたということで、それが成功しています。

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武士作法が、何のために、どのように形成され、武士社会にどんな影響をもたらしたかを探る。

江戸藩邸物語.jpg江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg 『江戸藩邸物語―戦場から街角へ (中公新書)』 〔'88年〕

 "17世紀後半以降における武士社会の新しい作法"がどのように形成されたかを、福島・守山藩の江戸藩邸記録「守山御日記」や旗本・天野長重の教訓的備忘録「思忠志集」など多くの史料から辿っています。

江戸藩邸物語8.jpg 本書によれば、戦乱の時代が終わり徳川泰平の世を迎えても、自らの誇りが傷つけられれば恥辱を晴らすためには死をも厭わないという武士の意地は生きていて、ちょっとした揉め事や些細な喧嘩でも、斬り合いや切腹沙汰に発展してしまうことが多かったようです。

 しかし、例えば、道ですれ違いざまに刀鞘が触れたというだけで命の遣り取りになってしまう(所謂"鞘当て"の語源)というのではたまらないという訳で、そうしたトラブル防止策として江戸藩邸では、"辻で他藩の者とぶつかった場合の作法"など、武士としての礼儀作法のプロトコルを定め、藩士を教化したようです。

 それは、他藩や幕府との無用のトラブルを避けたいという藩邸の思惑でもあったわけですが、遅刻・欠勤の規約や水撒きの作法から(今で言えば"就業規則"か)、駆け込み人の断り方まで(いったん中に這入られてしまえば徹底して匿うというのはどこかの国の大使館と似ている)、何やかや仔細にわたり、そうした手続きやルールを遵守することが武士の武士たる所以のようになってきたようで、これは武士の官僚化と言ってもいいのかも(今の我々が職場マナーとか礼儀作法と呼んでいるもののルーツが窺えて興味深い)。

 後半では、江戸の町に頻発した「火事」や悲喜劇の源であった「生類」憐れみの令が藩邸の閉鎖性・独立性を切り崩す契機になったという考察や、著者が造詣の深い当時の「男色」の流行とその衰退、また、当時「死(死体)」がどのように扱われていたのかなどの興味深い話があり、ただし、個別的エピソードを出来るだけ並べた本書の手法は、世相を鮮明に浮かび上がらせる効果を出す一方で、途中ちょっと食傷きみにも(もともと、多くのジャンルの話を1冊の新書に盛り込み過ぎ?)。

 天野長重の「武士道とは長生きすることと見つけたり」的な人生観が、マイナーでその後においても注目されることはなかったにせよ、江戸前期にこんな人もいたのだと思うと、少しほっとした気持ちになります。
 長重の時代には未だ、つまらない事で命の遣り取りをする―つまり「街角に戦場を持ち込んでいる」武士がそれだけ多くいたということだともとれますが。

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