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大胆に翻案し、原作以上のもの(現代的なもの)を生み出す黒澤スタイルの典型作。

羅生門 チラシ.bmp「羅生門」デジタル復元・完全版(2008年).jpg羅生門ポスター.jpg 羅生門dvd.jpg 藪の中 講談社文庫.jpg
映画「羅生門」ポスター/「羅生門 [DVD]」/『藪の中 (講談社文庫)』 ['09年]
羅生門 デジタル完全版 [DVD]」['10年]
映画「羅生門」チラシ(左) 

羅生門1.bmp 平安末期、侍(森雅之)が妻(京マチ子)を伴っての旅の途中で、多襄丸という盗賊(三船敏郎)とすれ違うが、妻に惹かれた盗賊は、藪の中に財宝があると言って侍を誘い込み、不意に組みついて侍を木に縄で縛りつけ、その目の前で女を手込めにする。『羅生門』.jpg 翌朝、侍は死骸となって木樵り(志村喬) に発見されるが、女は行方不明に。後に、一体何が起こり何があったのかを3人の当事者達は語るが、それぞれの言い分に食い違いがあり、真実は杳として知れない―。

羅生門2.bmp 1922(大正11)年1月に雑誌「新潮」に発表の芥川の短編「藪の中」が実質的な原作で、1915(大正4)年発表の「羅生門」は、橋本忍と黒澤が脚色し、黒澤がメガホンを取ったこの映画では、冒頭の背景など題材として一部が使われているだけです。

京マチ子 羅生門.jpg 原作は、事件関係者の証言のみで成り立っていて、木樵、旅法師、放免(警官)、媼(女の母)の順に証言しますが、この部分が事件の説明になっている一方で、彼らは状況証拠ばかりを述べて事件の核心には触れません。続いて当事者3人の証言が続き、多襄丸こと盗人が、侍を殺すつもりは無かったが、女に2人が決闘するように言われ、武士の縄を解いて斬り結んだ末に武士を刺し、その間に女は逃げたと証言、一方の女は、清水寺での懺悔において、無念の夫の自害を自分が幇助し、自分も死のうとしたが死に切れなかったと言います。 そして最後に、侍の霊が巫女の口を借りて、妻が盗人を唆して自分を殺させたと―。

「羅生門」.jpg羅生門3.bmp 原作はこれだけで終わってしまっているので、誰の言うことが真実なのかわからないわけですが、霊が語っているだけに、何となく侍の言い分が真実味があるような...(作者である芥川龍之介は犯人が誰かを示唆したのではなく、それが不可知であることを意図したというのが「通説」のようだが)。

羅生門4.bmp京マチ子.jpg 映画では、原作と同様、盗人、女、侍の証言が再現映像と共に続きますが、女の証言が原作とやや異なり、侍の証言はもっと異なり、しかも最後に、杣売(そまふ)、つまり木樵(志村喬)が、実は自分は始終を見ていたと言って証言しますが、この杣売の証言は原作にはありません。

 その杣売(木樵)の証言がまた、それまでの3人の証言と異なるという大胆な設定で、杣売(木樵)の語ったのが真実だとすれば、京マチ子が演じた女が最も強くなっている(怖い存在になっている?)という印象であり、黒澤明はこの作品に、現代的であるとともに相当キツイ「解」を与えたことになるかと思います(その重いムードを救うような、原作には無いラストが用意されてはいるが)。

京マチ子(1959年)[共同通信]

 個人的には、そのことによって原作を超えた映画作品となっていると思われ、黒澤明が名監督とされる1つの証しとなる作品ではないかと。因みに、同様に全く個人的な印象として、原作を超えていると思われる映画化作品を幾つか列挙すると―(黒澤明とヒッチコックはまだまだ他にもありそうだが、とりあえず1監督1作品として)。

・監督:溝口健二「雨月物語」('53年/大映)>原作:上田秋成『雨月物語』
・監督:ビリー・ワイルダー「情婦」('57年/米))>原作:アガサ・クリスティ『検察側の証人』
・監督:アルフレッド・ヒッチコック 「サイコ」('60年/米)>原作:ロバート・ブロック『気ちがい(サイコ)』
・監督:ロベール・ブレッソン「少女ムシェット」('67年/仏)>原作:ジョルジュ・ベルナノス『少女ムーシェット』
・監督:スティーヴン・スピルバーグ「ジョーズ」('75年/米)>原作:ピーター・ベンチリー『ジョーズ』

 この「羅生門」は、ストーリーの巧みさもさることながら、それはいつも観終わった後で思うことであって、観ている間は、森の樹々の葉を貫くように射す眩い陽光に代表されるような、白黒のコントラストの強い映像が陶酔的というか、眩暈を催させるような効果があり(宮川一夫のカメラがいい)、あまり思考力の方は働かないというのが実際のところですが、高田馬場のACTミニシアターでは、そうした自分のような人(感覚・情緒的映画観賞者?)のためを思ってか、上映後にスタッフが、ドナルド・リチーによる論理的な読み解きを解説してくれました(アットホームなミニシアターだったなあ、ここ。毎回、五円玉とミルキー飴をくれたし)。

Rashômon(1950) 「羅生門」(1950) 日本映画初のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞受賞。
Rashômon(1950).jpg
 
 

羅生門 志村喬.jpg羅生門 加東大介.jpg「羅生門」●制作年:1950年●監督:黒澤明●製作:箕浦甚吾●脚本:黒澤明/橋本忍●撮影:宮川一夫●音楽:早坂文雄●原作:芥川龍之介「藪の中」●時間:88分●出演:三船敏郎/森雅之/京マチ子/志村喬/千秋実/上田吉ニ郎/加東大介/本間文子●公開:1950/08●配給:大羅生門-00.jpg映●最初に観た場所:高田馬ACTミニ・シアター.jpgACTミニ・シアター2.jpg早稲田通りビル.jpg場ACTミニシアター(84-12-09)(評価:★★★★☆)●併映:「デルス・ウザーラ」(黒澤明)
高田馬場(西早稲田)ACTミニシアター 1970年代開館。2000(平成12)年頃 閉館(活動休止)

 芥川の「藪の中」と「羅生門」は、岩波文庫、新潮文庫、角川文庫、ちくま文庫などで、それぞれ別々の本(短編集)に収められていますが("やのまん"の『芥川龍之介 羅生門―デカい活字の千円文学!』 ('09年)という単行本に両方が収められていた)、'09年に講談社文庫で両方が1冊入ったもの(タイトルは『藪の中』)が出ました(講談社が製作に加わっている映画「TAJOMARU(多襄丸)」の公開に合わせてか。「藪の中」を原作とするこの映画(要するに「羅生門」のリメイク)の評価は散々なものだったらしいが)。

ACTミニシアターのチラシ.gifACTミニシアターのチラシ http://d.hatena.ne.jp/oyama_noboruko/20070519/p1 大山昇子氏「女おいどん日記」より

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寓意は定型的だが、芥川の本領が発揮されている作品。大正モダンの香りが漂う絵。

魔術.jpg 『魔術 (日本の童話名作選シリーズ)』 (2005/03 偕成社)

宮本 順子(絵) 『魔術―日本の童話名作選シリーズ』.jpg 2005(平成17)年3月の偕成社刊。原作は1920(大正9)年に芥川龍之介(1892-1927)が雑誌「赤い鳥」に発表した、芥川の所謂「年少文学」というべき作品の1つで、同じ系譜に「蜘蛛の糸」や「杜子春」などがありますが、本書の絵を画いている挿画家の宮本順子氏は、この偕成社の「日本の童話名作選」シリーズでは他に同じく芥川作品である「トロッコ」の絵も手掛けています。

中等新国語1.jpg 因みにこの偕成社のシリーズ、表紙カバーの折り返しにある既刊案内では、シリーズ名の頭に「大人の絵本」と付されていて、カッコして小さく「小学中級以上のお子様にも」とあります。
 この「魔術」という作品は、昭和40年代頃には、光村図書出版の『中等新国語』、つまり中学の「国語」の教科書(中学1年生用)に使用されていました。

魔術2.jpg インド人に魔術を教えてもらう青年を通して、人間の欲深さと弱さを描いた作品で、童話のミッションである定型的な寓意を含んでいるものですが、宮本順子氏は、「この『魔術』という話は、誰しもが潜在意識の中に持ちうるデジャブ、すなわち、既視感そのもののように思えます。遠いどこかの私が、主人公といつの間にか重なってゆくのです」と述べています。

 改めて読んでみて、そのあたりの夢と現(うつつ)の継ぎ目などに、短篇小説の名手と言われた芥川の本領がよく発揮されている作品だなあと。
 主人公の私にせがまれ条件付きで魔法を教えてあげることにしたインド人ミスラ君のセリフが、「お婆サン。お婆サン。今夜ハお客様ガお泊リニナルカラ...」と、突然その一文だけカタカナ表記になるところです。

文学シネマ 芥川 魔術.jpg 先に原作を読んでいると、絵本になった時に、どれだけ絵が良くても自分の作品イメージとの食い違いが大きくて気に入らないことがありますが、この宮本順子氏の絵は比較的しっくりきました。

 若い主人公が葉巻を嗜んでいたり、銀座の倶楽部(クラブ)で骨牌(カルタ)をしたりする様などに大正モダンの香りが漂い(絵自体も日本画素材と洋画手法の和洋折衷)、物語が終わった後に、降りしきる雨に打たれる竹林の向こうに西洋館の見える絵などがあるのも、結末の余韻を含んで効果的だと思われました。

TBS 2010年2月16日放映 「BUNGO-日本文学シネマ」 芥川龍之介「魔術」(主演:塚本高史)

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ユーモアに救われている「河童」。痛々しさがしんどい「歯車」。

『河童・或阿呆の一生』 (新潮文庫) 芥川 龍之介.jpg河童・或阿呆の一生_.jpg河童・或阿呆の一生』新潮文庫 Kappa by Akutagawa.jpg "Kappa" by Akutagawa

 1925(大正14)年発表の「大道寺信輔の半生」をはじめ、芥川龍之介(1892-1927)の晩年作品を収めた新潮文庫版は、ほかに、「玄鶴山房」、「蜃気楼」、「河童」、「或阿呆の一生」、「歯車」を所収していますが、この4篇は、芥川が亡くなった1927(昭和2)年に発表されたものです。

河童・或阿呆の一生2.jpg この中で最も一般に親しまれているのは、彼の命日を"河童忌"と呼ぶぐらいだから、「河童」でしょう。
 河童の国に行った男の話ですが、その話が精神病者の口を通して語られるという枠組みは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を想起させます。
 穂高山を登山中の男がひょんなことから河童の国に迷い込むという前半のシュールな感じがいい。そして次第に、擬人化された河童の社会を通しての、作者自身が置かれた社会に対する風刺が主となります。そこには、資本主義の足音、国家権力による統制強化の予兆が感じられ、人口統制によって仕事に溢れた河童は食用に屠殺されてしまうなどといった設定は、近未来SFのようでもあります。

新潮文庫 〔初版〕

 「大道寺信輔の半生」を読むと、青年期までの自己の精神史とも言えるこの自伝的作品の中で、西洋世紀末の文芸の感化とは別に、プロレタリア運動の影響も感じられ、それがその2年後に発表した「河童」における資本家や国家権力者の戯画化などにも現れているようです。
 しかし「河童」では、芸術家も同じように揶揄されていて、結局この世のものはみんな(自分も含め)唾棄すべきものばかりという厭世感もあり、そう、これも芥川が自殺した年の作品であることには違いないなあと.。

 それでもまだ、ほのぼのとしたユーモアと、作者の視線が外界に向けられていることに救われている「河童」に比べ、「或阿呆の一生」は、「大道寺」と同じく自伝的ですが、詩的であったり寓意的であったりもする51の断章は、自身の〈漠然とした不安〉を対象化するための切羽詰まった努力ともとれ、「歯車」に至っては、ただもう死ぬことのみを希求する自身の意識の流れを"自己精神病理学"的に綴っている感じもします。

 両作品とも「河童」より研ぎ澄まされていて芸術性も高い、ということになるのかも知れませんが、この「痛々しさ」(特に「歯車」)に寄り沿うのはかなりシンドイ。但し、誰かがビジネスパーソンは「歯車」のような「後ろ向きの作品」は読んではならないとか書いていましたが、それはどうかと思います。

 【1950年文庫化・2003年改版[岩波文庫(『河童 他二篇』)]/1966年再文庫化[旺文社文庫]/1968年再文庫化・1989年改版[新潮文庫]/1969年再文庫化[角川文庫(『或阿呆の一生・侏儒の言葉』)]/1972年再文庫化[講談社文庫(『河童、歯車、或阿保の一生』)]/1992年再文庫化[集英社文庫(『河童』)]】

《読書MEMO》
●「大道寺信輔の半生」...1925(大正14)年発表
●「河童」...1927(昭和2)年発表★★★★☆「どうかKappaと発音して下さい」
●「或阿保の一生」...1927(昭和2)年発表★★★★☆「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
●「歯車」...1927(昭和2)年発表★★★★「僕は芸術的良心を始め、どう云う良心も持っていない。僕の持っているのは神経だけである」

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「わたしは良心を持っていない。持っているのは神経ばかりである」と。

侏儒の言葉.gif       侏儒の言葉.jpg          侏儒の言葉・西方の人.jpg
侏儒の言葉 (岩波文庫 緑 70-4)』旧版/『侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)』改定版/新潮文庫

 1923(大正12)年に創刊された「文藝春秋」の創刊号から連載された芥川龍之介(1892-1927)の箴言集で、新潮文庫版では、3年間続いた連載の打ち切り後に死後発表された部分が〈遺稿〉として区切られています。

侏儒の言葉.bmp 「侏儒の言葉」は、以前読んだときには、芥川の思想が凝結されているような気がして、文学というのは贅肉をそぎ落としていくと最後は思想になっちゃうのかなと思ったりしたのですが、後世の文芸評論家のこの作品に対する評価は今ひとつのようで、「西方の人」と併録されている新潮文庫版の解説では、「西方の人」を買っているわりには「侏儒の言葉」に対しては、「断片的に捕らえられた"人生"とか"神"とかは、結局は言葉の問題に過ぎなくなっており、そこに芥川の晩年の問題が露呈されている」としています(岩波文庫の解説の中村真一郎は、そのことを踏まえながらも高い評価をしている)。

『侏儒の言葉』 (1927(昭和2)年/文藝春秋社)

 「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。ただわたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである」と〈序〉にもあり、今思えば、断想集に近いものと言ってよかったのかも知れません。
                                  
 「道徳は常に古着である」
 「忍従はロマンティックな卑屈である」
 「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」
 「我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である」
 「最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである」
 等々、逆説的な社会風刺と遊戯的なレトリックが入り混じった感じですが(有名な「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うには莫迦々々しい。重大に扱わなければ危険である」などもそう)、もっと自分の感性をダイレクトに書いているようなのもあり、
 「モオパスサンは氷に似ている。もっともときには氷砂糖にも似ている」
 なんて言われてもちょっとねえという感じも。

 「わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである」
 彼が最も信じていたのは自分の「神経」であり、最後にはこの言葉に帰結するのかもと思いましたが、普通の人間でも時としてこういう気分になることがあるかも。

侏儒の言葉.jpg 【1932年文庫化・1950年改版・1968年改版・2003年改版[岩波文庫(『侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な』)]/1968年再文庫化[新潮文庫(『侏儒の言葉・西方の人』)]/1969年再文庫化[角川文庫(『或阿呆の一生・侏儒の言葉』)]/1981年再文庫化[旺文社文庫(『羅生門、鼻、侏儒の言葉 他』)]】

侏儒の言葉・文芸的な、余りに文芸的な (岩波文庫)

《読書MEMO》
●「侏儒の言葉」...1923(大正12)年〜1927(昭和2)年発表

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「年少文学」と言われる作品群だが、「杜子春」などのラストは秀逸。「蜜柑」も印象に残った。

蜘蛛の糸・杜子春.jpg  『蜘蛛の糸・杜子春』 新潮文庫 〔旧版〕  蜘蛛の糸・杜子春2.jpg 新潮文庫 〔新版〕

 1918(大正7)年に発表された「蜘蛛の糸」をはじめ、「魔術」「杜子春」「トロッコ」など、芥川龍之介(1892-1927)の所謂 「年少文学」と言われている作品10篇が、発表順に収められています。

蜘蛛の糸  アイ文庫オーディオブック.jpg 「蜘蛛の糸」はあまりに有名なストーリーで、パロディ(筒井康隆など)もあるぐらい、一方「杜子春」は、あらすじを一部忘れてしまっていましたが、読み直して改めてラストの仙人の粋な計らいが良く、少年の好奇心と恐怖体験を描いた「トロッコ」も、白い犬があることをきっかけに"黒い犬"になってしまうことにより経験する不条理を描いた「白」も、テーマは別だけれども同じようにラストがいいです。
アイ文庫オーディオブック「蜘蛛の糸」

 何かこう「うまい」だけではなく、ほんわりさせられたり、結構深いものがあったりで、短篇小説はやはりラストが決め手になることが多いなあと。

魔術 パンローリング.jpg 教科書で読んだ記憶はありますが〈国語〉ではなく〈道徳〉の教科書でだったような気もする「魔術」などのように、道徳的・倫理的とも言える寓意が込められているものが結構あり、童話の要諦を押えているという感じですが、話のネタ元の豊富さとその加工においても随一でしょう。
パンローリング「魔術」

 芥川は、最初は作家ではなく文学者になるつもりだったらしく、西洋文学を完全に自分のものとして消化した最初の作家と言われていますが、それでいて中国や日本の古典からも多くを引いていて、未だどこから持ってきのか、ネタ元がよくわからないものもあるらしいです。                  

蜜柑.jpg たった数ページの掌編「蜜柑」は、こうした寓話的作品群のなかで少し異色で、すごく印象に残りました(ラストが決め手という点では、他の作品に通じるものがあるが)。
 偶然、汽車に同乗した薄汚い少女が、汽車がトンネルに差し掛かっているのに必死で窓を開けようとするので、主人公はイラつくが、しかし最後は、その理由がわかり―。
 芥川の実体験らしいですが、プロレタリア文学の影響もあるのでしょうか。ヒューマン・タッチですが、最後に持つ者と持たざる者の立場が逆転しているようにもとれました。
アイ文庫オーディオブック「蜜柑」

 芥川の短篇のいくつかは、現在"オーディオブック"として刊行されているので、通勤途中にiPodなどで聴くのもオツかも。

魔術.jpg 【1968年再文庫化[新潮文庫]/1990年再文庫化[岩波文庫(『蜘蛛の糸・杜子春・トロッコ 他十七篇』)]/1997年再文庫化[中公文庫(『羅生門 蜘蛛の糸 杜子春 外十八篇』)]/2005年再文庫化[ポプラポケット文庫(『蜘蛛の糸』)]/2011年再文庫化[280円文庫(ハルキ文庫)(『蜘蛛の糸』)]】

《読書MEMO》
●「蜘蛛の糸」...1918(大正7)年発表
●「犬と笛」「蜜柑」...1919(大正8)年発表
●「魔術」「杜子春」...1920(大正9)年発表
●「トロッコ」「仙人」...1922(大正11)年発表
●「白」...1923(大正12)年発表

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