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人間を主人公として書かれた防災史。身を守るため教訓を引き出そうとする姿勢。

天災から日本史を読みなおす1.jpg天災から日本史を読みなおす2.jpg天災から日本史を読みなおす3.jpg 天災から日本史を読みなおす4.jpg
天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

 2015(平成27)年・第63回「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作。

 映画化もされた『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』('03年/新潮新書)の著者が、「天災」という観点から史料を調べ上げ、日本において過去に甚大な被害をもたらした「災い」の実態と、そこから読み取れる災害から命を守る先人の知恵を探ったものです(朝日新聞「be」で「磯田道史の備える歴史学」として2013年4月から2014年9月まで連載していたものを書籍化)。

 やはり日本における天災と言えば最初に来るのは地震であり、最初の2章は地震について割かれ、第3章では土砂崩れ・高潮を取り上げています。第4章では、災害が幕末史に及ぼした影響を考察し、第5章では、津波から生き延びるための先人の知恵を紹介し、最終第6章では、本書が書かれた時点で3年前の出来事であった東日本大震災からどのような教訓が得られるかを考察しています。

 第1章では、豊臣政権を揺るがした二度の大地震として、天正地震(1586年)と伏見地震(1596年)にフォーカスして、史料から何が読み取れるか探り、地震が豊臣から徳川へと人心が映りはじめる切っ掛けになったとしています。専門家の間でどれくらい論じられているのかわかりませんが、これって、なかなかユニークな視点なのではないでしょうか。

 第2章では、やや下って、江戸時代1707(宝永4)年の富士山大噴火と地震の連動性を探り、宝永地震(1707年)の余震が富士山大噴火の引き金になったのではないかと推論しています。本震により全国を襲った宝永津波の高さを様々な史料から最大5メートル超と推測し、さらに余震に関する史料まで当たっているのがスゴイですが、それを富士山大噴火に結びつけるとなると殆ど地震学者並み?(笑)。

 第3章では、安政地震(1857年)後の「山崩れ」や、江戸時代にあった台風による高潮被害などの史料を読み解き、その実態に迫っています。中でも、1680(延宝8)年の台風による高潮は、最大で3メートルを超えるものだったとのこと、因みに、国内観測史上最大の高潮は、伊勢湾台風(1959年)の際の名古屋港の潮位3.89メートルとのことですが(伊勢湾台風の死者・行方不明は5098人で、これも国内観測史上最大)、それに匹敵するものだったことになります。

 全体を通して、過去の天災の記録から、身を守るため教訓を引き出そうとする姿勢が貫かれており、後になるほどそのことに多くのページに書かれています。個人の遺した記録には生々しいものがあり、人間を主人公として書かれた防災史と言えます。一方で、天災に関する公式な記録は意外と少ないのか、それとも、著者が敢えて政治史的要素の強いもの(災害のシズル感の無いもの)は取り上げなかったのか、そのあたりはよく分かりません。

 2011年の東日本大震災が本書執筆の契機となっているかと思われます。ただし、著者の母親は、二歳の時に昭和南海津波に遭って、大人子供を問わず多くの犠牲者が出るなか助かったとのこと、しかも避難途中に一人はぐれて独力で生き延びたというのは二歳児としては奇跡的であり(そこで著者の母親が亡くなっていれば本書も無かったと)、そうしたこともあって災害史はかなり以前から著者の関心テーマであったようです。

 このような歴史学者による研究書が「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作になるのかと思う人もいるかもしれませんが(自分自身も若干そう思う)、過去には同じく歴史学者で今年['20年]亡くなった山本博文(1957-2020)氏の『江戸お留守居役の日記』('91年/読売新聞社、'94年/講談社学術文庫)が同賞を受賞しており(そちらの方が本書よりもっと堅い)、また、岩波新書の『ルポ貧困大国アメリカ』('08年)や『裁判の非情と人情』('08年)といった本も受賞しているので、中公新書である本書の受賞もありなのでしょう(前述のような個人的思い入れが込められて、またその理由が書かれていることもあるし)。

 最近、テレビでの露出が多く、分かりやすい解説が定評の著者ですが、文章も読みやすかったです。

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「教訓としての大地震は、個々の死と生を記録し、見つめることで初めて意味を持つ」

私が見た大津波.jpg私が見た大津波』(2013/02 岩波書店)

 仙台に本社を置く東北ブロック紙「河北新報」が、東日本大震災の1ヵ月後に連載を開始した「私が見た大津波」を本に纏めたもので、この連載は、大津波で被災した人75人に記者が取材して、言葉だけでは伝わり切らない被災の様子を、スケッチブックと色鉛筆を渡して絵で再現してもらったものです。

私が見た大津波0 .JPG 本になる前後あたりにニュース番組の中でも特集で紹介されていましたが、その中で、生後1ヵ月の五男と自宅で被災し、津波によって玄関から大量の水が入り込み、子どもを抱いた瞬間に居間が水で一杯になり、片手で通気口を掴みながらもう片手でわが子を抱え、あと少しで顔が天井に付く高さまで水位が上がったところで水の勢いが止まって助かったという主婦の体験談が絵と一緒に紹介されていて、スゴイ話だなあと思いました。

 本書でその手記の部分を読むと、水中に浮いた椅子を蹴って水を搔き分けて階段から2階にへ逃げ、乳呑児を連れて避難所へ行っても大変だろうと、2階で子供に母乳を与えつつ、本人は加湿器の水を飲みながら3夜過ごしたそうです(最終的には家族と再会出来たのは良かった。三男や四男も自宅にいたらどうなっただろうか)。

 「校庭の桜の木につかまり逃げ遅れた人がどうなったか」と手記の中で心配していた記事に対し、「逃げ遅れた人」が名乗り出て無事が分かったというのも、テレビに当人が出ていましたが結構なお年寄りでした。本書の中には、67歳の男性の、腰まで水に浸かりながら7時間電柱にしがみついて助かったという手記もあります(こちらは家屋が濁流に流されてくる中で電柱に掴まっている本人の写真入り)。

 多くの人が、家や車が数多く流されていくのを目撃していますが、ある人は「まるで映画の特撮」のようだったと。家同士ぶつかり、土煙とともに破裂音がしているのを目の当たりにしても、あまりに想像を絶する光景で確かに現実感は無いかも。車での避難中に津波に遭った人の手記も多くあり、どれも本当にパニック映画の一場面のようです。

 渋滞していたために車を捨てて逃げたが、逃げる際に津波が10メートル後ろまで迫っていた男性、集落を車で抜けて自分は助かったものの後続の車はなく、数秒のタイミングで自分が助かった最後だったことを知った男性、車が水に浮かんで流されて倉庫の貨物列車にぶつかって止まり、窓から脱出した母と娘、同じく車が川に浮かんだ木の葉のように流され、ドアガラスを蹴破って脱出した男性、沈みかけていた車の前部が急に浮き上がって助かった女性、車が津波の起こした波に乗り、サーフィンをしているような状態になって助かった男性...等々、九死に一生を得た話ばかりですが、それだけに、車で避難する際に犠牲になった人が多くいたことを想像させます。

私が見た大津波2 .JPG 地震の直後に公園、学校などの避難所に避難して、そこで津波に流されて亡くなった人も多くいたのだなあと。それを避難所の建物の上の階にいて目にした人の手記もあり、とてもこの世の出来事とは思えなかった思えなかったのではないでしょうか。絵を描くことで当時の恐ろしさが甦ってくるというのもあるでしょうが、中には絵を描くことによって気持ちが整理された人もいるようです。

 この連載企画は、河北の当時の報道部長が、70年代に出張で訪れた広島の平和記念資料館で見た、原爆の体験を絵で残そうという企画展に想を得て実現させたもので、まえがきには、「東日本大震災はとりあえず、空前の被災規模をまとめた『数字』で語り継がれ、記憶されていくことになるでしょう。しかし、それは大地震を抽象化して全体像をとらえ、整理したに過ぎません。(中略)大地震の現場は被害者の数だけあります。教訓としての大地震は、そうした個々の死と生を記録し、見つめることで初めて意味を持つと考えています」とあります。

 自分自身、「東日本大震災から〇年〇ヵ月」などとニュースで報じられているのを聞いても(あまりに何度も聞き過ぎて?)、どことなく大震災そのものに対する現実味が薄れてきているような気もし、やはり"語り継ぐこと"こそ大事であり、ニュース報道などには無い力を持つものなのだなあと。
 そうした意味でも本書は、犠牲となった多くの人々への思いを今一度馳せる契機になるともに、大地震を抽象化せず、風化させないための貴重な記録でもあり、更には、日頃の防災のあり方や、いざという際に取るべき最善の方法について改めて考させられるものでもありました。

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震災報道に携わった記者やカメラマンの手記。記事とはまた違った「現場」ドキュメント。

記者は何を見たのか.bmp 『記者は何を見たのか - 3.11東日本大震災

 東日本大震災の取材にあたった読売新聞の被災地の地元勤務の記者、全国の支社・支局から応援取材として投入された記者らの手記により構成されており、原発事故取材とそれに付随する官邸や東電の取材にあたった記者などの手記も含まれていますが、メインは津波災害の取材にあたった記者らの手記で、やはりそれらが一番読み応えありました。

 赴任先の通信部で津波に遭って命からがら高台に逃げたり、孤立して消防庁のヘリで救出されたりした記者らの生々しい体験談もありますが、むしろ手記の多くを占める、応援取材陣として全国各地から現場に入った記者たちの、惨状を目の当たりにして呆然とし、何を伝えるべきか、ただ伝えるだけでいいのか悩みながらも取材にあたる姿勢に共感しました、

 現地に投入されたのは比較的若い記者が多いみたいで、遺族や被災者に感情移入し過ぎてしまって、何を書いてもボツ記事になってしまった記者もいたようで、彼らの殆どが、震災から何日か経て現地入りしているにも関わらず、ある意味、冷静客観的に事実を報道するという身に滲みつき始めたプロ意識が吹き飛ばされるようなくらい、凄まじく且つ悲惨な現地の状況であったことが窺えます。

 手記という体裁をとっているため、途方に暮れ立ち尽くし涙を流しながらも記事を書き続ける、そうした一徹な使命感が感じられる一方で、津波で家族を失った被災者の悲しみの声を伝えきれたのか、自分のやるべきことは外になかったかなどと迷い、自問する記者たちの悩みもストレートに伝わってきます。

 そうしたこともあって、記事にならなかったエピソードや取材後の後日談も多く、新聞記事を読むのとはまた違った「現場」がそこにあったことが感じられ、また、海外にまで配信されることになった写真が撮られた経緯やその後日談もあります。

記者は何を見たのか―3.11東日本大震災.jpg AP通信などを通じて世界中に配信された本書表紙の写真の被写体となった女性は、その後フランスで開催された国際報道写真フェティバルに招待され、支援を呼び掛けるメッセージを伝えることになったとのことですが、写真が撮られたのは、震災2日後の朝、大阪支社から車を駆って12時間かけて宮城県入りした写真部のカメラマンが撮ったもので、その日の夕方、石巻市で、瓦礫の隙間を縫うようにして出てくる人々の中から偶然彼女を見つけ、無意識にシャッターを切ったとのこと、このカメラマンには、「阪神淡路大震災」の際に写真送信を担当する部署に所属していたため、震災を直接には取材しておらず、そのことが16年間「負い目」としてあったとのことです。

 写真の中では、園児5人が犠牲になった幼稚園バスの、そのぐしゃぐしゃになった車体の前で手を合わせ、園児らの名前を一人一人呼び続ける女性を撮った写真に心打たれましたが、この写真も、海外の通信社を経て世界中に配信されたとのこと―震災から10日後に北海道支社から応援取材のため現地に入ったカメラマンが、現地入りした翌日に撮ったものです。

 カメラマンにはカメラマンとしての「現場」との出会いがあり、記者らには記者らのそれがある―記者ら自身は、遺体を発見しても収容できないため放置するほかないような状況があったりして無力感に襲われる一方で、被災者たちが自分たちに救援を求めているのではなく(それは市職員や消防団員に求めている)、自分たちの体験した話を聞いて欲しいと思っているらしいことが次第に感じられるようになり、そのことが取材の動機づけになっているようにも思えました。

 個人的には、原発事故取材に付随する官邸や東電の取材に関する手記は、こうした手記とはやや異質で、極端に言えば、「津波」災害の取材に絞って1冊の本にしても良かったように思います(新聞社の内部政策上、そういう訳にはいかないのだろうが)。

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TV等では報じられない「遺体」というものを通し、それに関わった人々を描いた重厚なルポ。

遺体―震災、津波の果てに.bmp 『遺体―震災、津波の果てに』   石井 光太.bmp 石井光太 氏(略歴下記)

 東日本大震災のマスコミ報道などを見ていて、2万人近くの死者・行方不明者が出たと分かっていても今一つ実感がないのは、あまりにも膨大な犠牲者数であることもさることながら、自分たちがその一人一人の死に一度も直に触れてはいないということもあるのかも知れず、従って、どの町で何人亡くなったとかいった具合に数量的にブレイクダウンされていっても質的にはぴんとこないため、その非現実感が解消されにくいのかも知れません。

 TV報道などでは、当然のことながら死者の姿(遺体)が映し出されることはなく、また、遺体収容所(安置所)の様子さえも殆ど映像として流れることは無かった―遺体をTV映像として流すのは禁忌であるし、安置所の様子さえ写さないのも様々な配慮があってのことだと思いますが、そうしたことも実感の希薄さに繋がっているのかも知れません。

 本書は、ルポライターが震災直後に釜石市の被災現場に入り、被災者や救出・復旧活動にあたった人びと約200人を取材したものがベースになっていますが、とりわけ何らかの形で仕事として「遺体」に関わった人びとを抽出し、彼らの体験をドキュメントとして再現したものです。

 登場するのは、遺体の捜索・収容にあたった民生委員や市職員、消防団員や自衛隊員、安置所で検死やDNAサンプルの採取にあった医師や歯形の記録保存・照合にあたった歯科医師、葬送にあたった僧侶などで、後半は、火葬しきれない遺体を土葬するかどうかの判断を巡り、市職員らが苦渋の選択を迫られる場面もありますが、それぞれ人数を絞って、同一人物が時系列で何度か登場する形をとっており、そのため、細切れ感の無い、重層的で"重い"ルポルタージュとなっています。

 溺死した際の苦悶の表情を浮かべたままの遺体、瞼や鼻、口腔内に砂が詰まった遺体、搬送中に振動で口から海水や血液を放出する遺体、死後硬直で四肢曲がったまま戻らなくなった遺体、腐敗により気泡を発する遺体、津波の後に発生した火災により焼かれて炭のようになった遺体―読んでいてしばし言葉を失うというか、実際、本書に登場する僧侶でさえ、「神も仏も無い」という被災者の言葉に思わず頷いてしまいそうになるという―。

 自分の腕から流れ去った乳飲み子の遺体の前で泣き崩れる母親や、自分のよく知る人が目の前で津波に流された人もいれば、遺体収容にあった地元関係者の多くが、自分の知己・知人を遺体としてあちらこちらで見つけてしまうという事態に直面したりと、想像を絶する過酷な現実に向き合わされたのだなあと。

 こうした局面における宗教者の役割は大きいと改めて思いましたが、自ら遺体安置所の管理人になるべく名乗り出た民生委員が、前述の乳飲み子を亡くした母親の前で、遺体に向かって「ママは相太君のことを必死で守ろうとしたんだよ。自分を犠牲にしてでも助けたいと思っていたんだけど、どうしてもだめだった...相太君はいい子だからわかるよな。こんなやさしいママに恵まれてよかったな。短い間だけどあえて嬉しかったろ。また生まれ変わって会いにくるんだぞ」と語りかける場面は、この人こそ宗教者ではないかと。

 多くの同僚が精神的に参ってし映画「遺体」.jpgまい脱落していく中、最後まで頑張り通した市職員もいて、こうした人たちも含め、常識では耐えられないほどの精神的苦痛や苦悩に苛まれながらも、職責以上のことを果たした人が何人もいたのだなあと思わされました。

 全て関係者の目を通して書かれていて、ライターの主観を抑制した淡々とした筆致であるだけに逆に胸に迫るものがあり、単にTV等が禁忌として報じていない部分を露わにするという目的で書かれたものではなく、その時その場で起きた「生と死」のドキュメントをありのままに伝えることで、こうしたカタストロフィー的局面に直面した際の人間の不可能性と可能性といったものを描き出し、また読む者にそのことを考えさせる、重厚なルポルタージュでした。

2012年映画化 「遺体 明日への十日間」(2013年2月公開)
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石井 光太
1977(昭和52)年、東京生まれ。海外ルポをはじめとして貧困、医療、戦争、文化などをテーマに執筆。アジアの障害者や物乞いを追った『物乞う仏陀』、イスラームの性や売春を取材した『神の棄てた裸体』、世界最貧困層の生活を写真やイラストをつけて解説した『絶対貧困』、インドで体を傷つけられて物乞いをさせられる子供を描いた『レンタルチャイルド』、世界のスラムや路上生活者に関する写真エッセー集『地を這う祈り』など多数。

【2014年文庫化[新潮文庫]】

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津波災害を撮ったグラフ誌の中では、その凄まじさにおいて一段抜けている。

巨大津波が襲った 3・11大震災.jpg河北新報 巨大津波が襲った1.jpg     河北新報のいちばん長い日.gif
巨大津波が襲った3・11大震災―発生から10日間の記録 緊急出版特別報道写真集』(2011/04 河北新報社)/『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(2011/10 文藝春秋)
岩手日報社 特別報道写真集 平成の三陸大津波 東日本大震災 岩手の記録
岩手日報社 特別報道写真集.jpg '11年4月上旬刊行で、個人的には、かなり後になって大型書店で見つけたのですが、これまで見たどのグラフ誌よりも、津波災害の凄まじさ、恐ろしさを如実に伝えるものとなっているように思いました。

 とりわけ、宮古市の職員が市役所の5階から撮影したという、海岸沿いの国道に津波が押し寄せた瞬間の写真は、これほどはっきり津波と襲来を映したものは数少ないのではないかと思われ、この場面の前後26分間がビデオ撮影もされていて、「科学映像館」のサイトで公開されています(このシークエンスは、岩手日報宮古支局のカメラマンも同じ場所から撮影しており、『岩手日報社 特別報道写真集 平成の三陸大津波―東日本大震災 岩手の記録』('11年6月/メディア・パル)の表紙にも使われ、本編で連続写真として掲載されている)。


 写真で津波の先端が隆起して見えるのは、高さ4メートルの防潮壁を今まさに乗り越えたことによるものであって、防潮壁があることによって、それを乗り越えた際に津波の勢いが増したようにも思えます。

 津波の高さには様々な測り方があるようですが(確かに厳密に"高さ"を規定するのは難しいと思う)、「東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ」の資料によると、「津波が駈け上がった高さ」は、宮古市で39.2メートルとなっており、これは、大船渡市で記録した40.0メートルに次ぐものとなっています(調査機関・測定ポイント・測り方の違いによって数字は異なる)。

河北新報 巨大津波が襲った2.jpg この他にも、大津波が陸に押し寄せて家屋を飲み込む瞬間(名取市)や、一夜明けて壊滅的な被害を受けた町の様子(南三陸町)など、生々しい写真が多くあります。

 地元紙らしく、最後には、復興へ向けて皆で力を合わせ、前向きに取り組もうとする人々の姿もとらえていますが、本誌そのものが震災後10日間にフォーカスしているため、やはり、大部分を占める各地の被害の爪後を記録した写真が、ただただ重苦しく胸に迫ってきます。

 東日本大震災の報道写真集は、3月下旬に中央紙の系列出版社や出版局で、『復刊アサヒグラフ 東北関東大震災 2011年 3/30号』(3/23)、『サンデー毎日緊急増刊 東日本大震災 2011年 4/2号』(3/24)などのグラフ誌が刊行され、続いて、震災後1ヵ月を区切りとして4月下旬に、産経新聞社が『闘う日本 東日本大震災1カ月の全記録』(4/22)、朝日新聞社が『報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災』(4/28)をそれぞれ刊行し、読売新聞社も『東日本大震災―読売新聞報道写真集』を4月下旬に刊行しています。

 この河北新報社のものは、解説記事を最小限に抑えて写真をメインに据え、それぞれの写真に簡単なキャプションを付すに留めていますが、それが却って写真の迫力、震災の凄まじさを如実に伝えるものとなっています。

 だったら他の「グラフ誌」も同じではないか、ということになりますが、やはり地元紙らしく、被災地の目線に立った写真が多いように思われ、これを撮影した際の記者やカメラマンの胸中を思うと、見ているだけで胸が詰まります。

 一方で、空撮写真も多く、被災時の地域の姿を記録しようという記者達の執念が感じられますが、後に刊行されTVドラマにもなった震災ドキュメント『河北新報のいちばん長い日―震災下の地元紙』(2011/10 文藝春秋)を読むと、震災当日は自社ヘリコプターが使えず、他社のヘリの末席にカメラマン1人だけが同乗させてもらって写真を撮ったとのことです。

 また、同書を読むと、当時の号外は協力社・新潟日報の支援を受けて発行し、翌日以降の朝刊の刊行も、記事取材・印刷ともに困難を極める中で成し遂げられたとのことで、取材には地元の利があったと思われがちですが、実は自分たちも被災しため大変だったようです(震災翌日から3日間のトップ紙面が本誌巻末に掲載されている)。

 雑誌「アエラ」が4月下旬に『東日本大震災 レンズが震えた 世界のフォトグラファーの決定版写真集』という増刊号を出しましたが、松岡正剛氏が、こっちの河北版の方が胸に迫る、というようなことを書いていたように思います。

 「悲劇」を有名写真家が撮ると「芸術」になってしまうことがあり、それがいいのか悪いのか、という議論は、報道写真家の間では、例えばナチスによるユダヤ人虐殺の悲劇乃至その爪後を撮った写真を巡っての論争などがあったように思います。

 松岡氏は、「アエラ」の有名写真家の写真は、その「悲劇」の部分を写真家自身が吸収してしまっているのではないか、というようなこととを言っていたように思いますが、この河北新報の写真は、記者やカメラマンが写すだけで精一杯で、「悲劇」を吸収しきれないまま次の現場に行き、またそこで「悲劇」を見るということの繰り返しの中で撮られたもののように思いました。

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取材現場の様子を生々しく伝えるとともに、報道の使命、地元紙の役割を考えさせられる。

河北新報のいちばん長い日.gif『河北新報のいちばん長い日』.jpg  明日をあきらめないド.jpg
河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(2011/10 文藝春秋)『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (文春文庫)』「明日をあきらめない...がれきの中の新聞社~河北新報の いちばん長い日~」テレビ東京系列 '12年3月4日放映(出演:渡辺篤郎・小池栄子・斉藤由貴)
河北新報社のネットワーク
河北新報社のネットワーク.jpg 仙台に本社を置く東北地方のブロック紙・河北新報社(この新聞社は一力家のオーナー会社なんだよね)の東日本大震災ドキュメントで、被災地の真っただ中にあるブロック紙の記者達が、震災のその時、何を考え、どう行動し、またそれぞれの取材先で何を感じたかを、切迫感を持って生々しく伝えるものとなっています。

 同社は「東日本大震災」報道で'11年度新聞協会賞をを受賞していますが、本書の内容はTVドラマ化され、「明日をあきらめない...がれきの中の新聞社~河北新報の いちばん長い日~」としてテレビ東京系列で'12年3月4日、BSジャパンで3月11にそれぞれ放映されています(見られなかった。再放送しないかなあ)。

 震災発生の日を軸にドキュメンタリー風に描かれていて、まず、震災で河北の本社自体が被災し、ホストコンピュータが倒れてサーバー機能が麻痺し、この一大事に明日の朝刊が出せるかどうかという難局に彼らは直面したわけで、離れた場所にある印刷所が耐震設計で大地震に持ちこたえても、情報インフラが機能しなければ、どうどうしょうもないのだなあと。

 協力社である新潟新報社の協力申し出を受け、震災当日の夜になって何とか号外を出しますが、夜更けにもかかわらず、避難所では多くの人が号外を求め、あっという間に無くなったとのこと、やはり、こうした非常事態で一番皆が欲しいものは情報なんだなあ。翌日の朝刊も何とか出せる見込みとなったものの、そうした号外や朝刊に載せる記事取材そのものが、また困難を極めたことがよくわかります。

河北新報 2011年3月12日朝刊
河北新報 110312朝刊.jpg 更には、ロジスティックの寸断から、引き続き新聞が刊行できるかどうかという危機にも見舞われ、それは新聞用紙・インキ等の資材の問題に限ったことではなく、取材のためのガソリンや社員の食糧の調達などに及んだわけですが、これも社員が知恵を出し合い、協力し合って苦境を乗り越えていきます。

 むしろ記者達が戸惑うのは、制約された取材環境の中で、取材先での被害の生々しい惨状をどう伝えるかということであり、また、彼らが苦しむのは、次々と被災規模の甚大さが明らかになっていく中で、犠牲者や被災者に対して直接的には何もしてやれぬというもどかしい思いと葛藤しながら、取材をやり遂げなければならないというジレンマに於いてです(特に、幼い子供が犠牲になったケースでは、その一つ一つが記者の心を激しく動揺させたことが分かる)。

 そうした記者らの思いは、震災の翌々日には宮城県警が、死者数が万単位になるとの見通しを発表した際に、翌日の朝刊の見出しで、デスクが見出しを「死者『万単位』に」とするか「犠牲『万単位』に」とするかで迷ったといったことにも表れているように思いました。

 結局、全国紙など各紙が「死者」という言葉を使ったのに対し、河北だけ「犠牲」という言葉を用いたわけですが、「果たして正しい判断だったのかどうか、今でも答えが出ません」と。

 新聞販売店の店主の、津波による、ほぼ殉職と言っていい死にも胸を打たれました(小さな販売店というのは家族経営なんだなあ。新聞を配りに出た息子達が助かったのが救いだったが)。被害の甚大だった地域でも、復旧も緒に就かない内に配達を再開する販売店主も出てきますが、やはり、それも、荒れ野のようになってしまったその地域内にも、情報を求める人が少数ながらもいるという使命感からなのでしょう。

 福島第一原発事故の甚大さの露見により、引き続き震災・津波の被災状況に報道のウェイトを置くか、原発事故報道に比重を切り替えるかの判断を迫られますが、全国紙等他の新聞が原発事故報道にウェイトを切り替えたのに対し、河北は、原発事故報道もするが、被災した人々の報道も軽んじない、或いはそうした人々に向けた情報提供も怠らないという方針を貫き通します。

 また、原発事故により、それを現地で取材する記者の安全保持の問題も突き付けられますが、そうした中、自発的に現地取材を申し出る者、現地を離れざるを得なかった者など、記者の間にも様々なドラマがあったことが窺えます。

 こうした非常事態時における新聞の紙面づくりの難しさというものが、よく伝わってきました。淡々と情報だけを流すのではなく、現場で起きた犠牲者の悲劇や、今現に苦しんでいる被災者の生の様子を伝える署名記事を増やし、一方で、例えば原発事故に関しては、「原発が爆発」したのか「建屋が爆発」したのか正確を期すといったような冷静さの保持に努める―そのことを誇らしげに語るのではなく、そのことすら、実際にその時メルトダウンは起きていたのだから、「原発が爆発」でも良かったのではないかと、今も答えを出せないでいるデスクの姿に、真摯さを感じました。

 石巻で震災から9日ぶりに80歳の祖母と16歳の少年が救出された際には、取材車の運転手の趣味でやっている無線に偶然、救出活動の消防無線が入り、現場感のある記事となって、これはトップ紙面で大きく取り上げられました。

 一方、震災から3週間後に共同通信のスクープとして公表された、南三陸町の防災センターの屋上に避難した30人もの人の多くが津波に浚われ、次の瞬間には10人程度になってしまう連続写真は、「この写真を地元の人が見たら、多分もたないと思います」との現地取材班の記者の一言で、共同通信加盟社の多くが載せたこのスクープ写真を河北は載せなかったとのこと。「地域に寄り添う」という地元紙としての基本姿勢を感じさせられるエピソードでした。

 その他にも、震災翌日、他社のヘリコプターから建物の屋上に避難し助け求める人々の姿が見えたが、その時実際に何が起きていて、その後どうなったのかという事実が2ヵ月後に判明したという話など、生々しいエピソードが数多く紹介されています。

 一方で、紙面づくりをする上で、「私が見た大津波」という読者に語ってもらうコーナーを設けるなど(ここで語られるエピソードがまた生々しいのだが)、様々な工夫を凝らしたことも書かれています。

 本書のベースは社員に対する詳細なアンケートのようですが、そぎ落とされたエピソードも多くあったのではないでしょうか。時間をかけて内容や構成を吟味したものと思われ、丸々一冊、無駄な箇所がありません。

 ぐいぐい引き込まれ、一気に読めてしまうとともに、報道の使命とは何か、地元紙の役割とは何かを考えさせられる本であり、後世に残るノンフィクションかと思います。

明日をあきらめない がれきの中の新聞社.jpg '11年12月、優れた文化活動に携わった個人や団体に贈られる「第59回菊池寛賞」に、河北新報社と石巻日日新聞社が選ばれました。

明日をあきらめない がれきの中の新聞社.jpgテレビ東京 「明日をあきらめない...がれきの中の新聞社 ~河北新報のいちばん長い日~」 第8回 「日本放送文化大賞」 グランプリ受賞
明日をあきらめない がれきの中の新聞社2.jpg【キャスト】 渡部篤郎/小池栄子/田中要次/長谷川朝晴/戸次重幸/伊藤正之/金山一彦/小木茂光/宇梶剛士/中原丈雄/鶴見辰吾/渡辺いっけい/西岡馬/斉藤由貴  ナビゲーター...池上彰

【2014年文庫化[文春文庫]】

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朝日版は「写真集」、産経版は「記録」として、それぞれ"保存版"に値する内容。

津波の町に生きる.jpg 『津波の町に生きる―ルポルタージュ3・11大津波 釜石の悲劇と挑戦』(2011/12 本の泉社)

釜石IMG_2803.JPG 著者は岩手県石巻市の出身で、東日本大震災による津波で108人の児童の内74人が死亡・行方不明となった大川小学校は郷里に近く、その大川小学校の悲報と併せて、同じ岩手県の釜石市の鵜住居(うのずまい)小学校と釜石東中学校で、登校児童・生徒は全員が無事に避難し、一人の死者も出さなかったという、所謂"釜石の奇跡"とマスコミが報じたニュースに接します。

釜石IMG_2783.JPG 大川小学校の悲劇の痛みを胸に秘めつつ、著者は、どのようにすれば津波災害から児童・生徒の命を守ることができるのかを検証するために釜石市を訪れ、鵜住居小学校と釜石東中学校の児童・生徒の避難の経緯やその背景にあったものを、学校関係者などに具(つぶさ)に取材したルポルタージュが本書です。

釜石IMG_2798.JPG その結果、中学生が小学生を高所へ誘導し、全員が津波の難を逃れたという"釜石の奇跡"は、実は"奇跡"などではなく、普段からそうした訓練をしていた成果の現れであったことがわかります(震災時に先生が「訓練通りだよ」と生徒に声掛けしたが、その"訓練"とは、中学生が小学生の避難を助ける小中学校合同避難訓練を指す)。

釜石IMG_2791.JPG そうした避難訓練だけでなく、釜石市の小中学校では、防災教育も必須授業として教育カリキュラムに織り込むなどしており、そのことが、市内の小中学校全14校の児童・生徒の生存率がほぼ100%近いものであったという、今回の結果に結びついたこと、とりわけ釜石市の中でも、死者・行方不明者が居住人口6014名の1割近くの574名と、最も被害の大きかった鵜住居地区において(これに次ぐのが釜石地区の居住人口6971名に対し死者・行方不明者240名)、周囲の惨状の中で、この両校の登校児童・生徒の"全員無事" が際立って目立ったものとなったことなどが浮き彫りになってきます。

(写真は何れも震災から約1年後の2012年3月25日、釜石東中学校内及びその近辺にて撮影)

釜石IMG_2788.JPG 歴史を振り返ると、明治三陸地震津波では、現在の釜石市にあたる釜石町・鵜住居村・唐丹村で津波前人口12665名に対し6477名と半数以上もの死者を出しており、こうした過去の被災から得た教訓が、"教育努力"によって実地の場で生かされたことになります。

 また、市内にある津波に関する多くの石碑なども訪ね歩いており、「津波てんでこ」という言葉に象徴されるように、町全体の風土として、そうした過去の教訓を将来に継承していこうという土壌があることが窺えました。

釜石IMG_2789.JPG 振り却って大川小学校のケースをみると、地震発生を受けて児童は全員校庭に避難したものの、そこから先の避難先が具体的に特定されていなかったため、どこへ逃げるか議論している内に避難が遅れ、津波に襲われたという―いち早く「山さ逃げよう」と言った児童もいたとのことですが、そうしたことが事実なのかどうかも分からないし、著者自身も、何故すぐ裏手にある山の方へ逃げなかったのかとの疑問を抱きつつも、大川小学校の教職員を責めることはできないとしています。

 釜石にしろ石巻にしろ、震災後1年を経ても、津波の爪痕は大きく、特に釜石の瓦礫の撤去は遅れていますが、人々は災害の後も津波の町に生き、また生きつづけなければならない―そうした人々の苦悩と苦闘を追うと共に、大災害に際して子供達の命を守る方法はあるのかを真摯に探っており、とりわけ教育関係者に読んで欲しい本ですが、一般の人が読んでも教えられることの多い本です。

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ソーシャルメディアの活躍と「公式報道」のていたらく、海外の報道と日本のマスコミ報道のギャップ。

震災と情報 岩波新書.jpg 『震災と情報――あのとき何が伝わったか (岩波新書)

 東日本大震災の発生直後、警報も届かずに津波で命を落とした人は数多くいたわけで、更に、電話の不通など情報経路の寸断は首都圏にまで及び、また、その後も繰り返される政府発表の「安全神話」的報道を、どこまで信じたらいいのかも分からず、首都圏にいてもこうした状況でしたから、被災した現地にいた人の混乱と不安は、尚のこと大きなものだったでしょう。

 本書は、ソフトウェア生成系や情報ネットワークが専門である理学博士の著者が、震災後の情報伝達のあり方、マスコミ報道とインターネットやモバイル機器を通しての報道のスピードや正確さのギャップなどを、再検証したものですが、興味深いのは、震災後「最初の1時間」「最初の24時間」「最初の1週間」「最初の1ヵ月」「最初の6ヵ月」というように、何れも震災直後を起点としてスパンのみ変えて、そのスパンの長さに沿ったイシューを追っている点です。

 尚且つ、報道された事実を克明に織り込み、一つ一つのイシューについてはそれほど深く突っ込まず、情報を「数」の面で多く拾っていて、そうした「数」の集積から、実態を浮かび上がらせようとしており、こうした"記録"の残し方も一つの方法かと思いました。

 最初の1時間は、主に大津波警報がどのように伝わったかなどが検証されていますが、福島第一原発事故が明るみになってからは、やはり原発事故報道が本書の大部分を占め、最後は「日本では原子力発電は終わらせよう。地震の多い日本では、リスクが巨大すぎて商業的発電方式として合理的コストに見合わないからである」との言葉で締め括られており、やはりこの辺りは岩波系か。

 振り返ってみると、原発事故発生当初から、ソーシャルメディアを含む海外の報道と、所謂「公式報道」に近い日本のマスコミ報道に、事の重大さに対する認識の度合いに大きな温度差があったことが窺えます。

 淡々と記している中にも、日本のテレビと原子力工学者が、毎回「ただちに心配することはない」を繰り返したことにはさすがに義憤を覚えているようで、「現時点で特に心配する必要はないと言っていると、一号機建屋の爆発が起こる。爆発が起こっても、これは作業の一環でわざと起こした爆発かもしれないと擁護的に説明する。いよいよ水素爆発だったということになると、今度は爆発によって外部へ放射性物質が漏洩することはないだろうと言う。やがて放射性物質が外部へ出たことがわかると、今度は放出量は人体に影響がない範囲だろうと言う」と―確かにこの通りだったなあ。憤りを感じない方がおかしいよ。

 保育園や心身障害児施設の子供達が緊急避難先の公民館で孤立し、電話が繋がらないため園長が電子メールでロンドンの家族に連絡し、家族からの救援要請が東京都副知事に届いて救援のヘリコプターが来たとか、停車した電車の中で、乗客が携帯ワンセグ放送で津波が迫っているのを知り、乗り合わせていた若い巡査らが乗客を避難誘導して全員無事だったとか、インターネット等が人命を救った話はあったなあ。

 極めつけは、NHKテレビで災害放送を見ていた広島の中学生が、テレビ・ラジオに接することのできない被災現地の人々のために、ユ―ストリームのサイトを利用して自宅からNHKをライブ中継したというもので、著作権法違反ではないかとのと問い合わせがNHKにあったけれども、担当者が、自分の責任において容認すると発信したそうです。

 この他にも、様々なケースでこうしたソーシャルメディアが活用された一方で、政府の避難勧告やSPEEDIなどのデータ公表の遅れにより、多くの人が、高濃度放射能汚染地域からの初期避難が遅れたり、放射性物質の飛んでいく風下の方へ避難したりしたわけで、今考えると、国の罪は重いと言うか、情報は自分で集めなければならないということなのか。

 日本のマスコミの政府や東電の話をそのまま横流ししているような報道姿勢に早くから不信を抱いていた外国人特派員らは、テレビに出ている擁護的な原子力工学専門家の説明とは違う説明を聞くために、3月15日には、原子炉格納容器の元設計者・後藤政志氏を講師に招いて講演会を開催し、4月25日の原子力安全・保安院と東電による海外メディア向けの合同記者会見の参加者はゼロ、保安院と東電は、誰もいない記者席に向かって説明を行ったとのことです。

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「●写真集」の インデックッスへ

朝日版は「写真集」、産経版は「記録」として、それぞれ"保存版"に値する内容。

報道写真全記録 東日本大震災.jpg                 闘う日本 東日本大震災1カ月の全記録.jpg
朝日新聞社『報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災』 産経新聞社『闘う日本 東日本大震災1カ月の全記録

 '11年3月11日発生の東日本大震災の翌月4月下旬頃には、新聞社各社が報道写真集を出し、また震災報道にフィーチャーした縮刷版や関連のグラフ誌なども前後して刊行されましたが、個人的には、朝日新聞社と産経新聞社からそれぞれ刊行のこの2冊が目につきました。

朝日新聞社『報道写真全記録』.bmp 朝日版は「写真集」と銘打っているだけあって、大判誌面全体を使った写真が、自然災害の脅威とその被害の甚大さを生々しく伝えており、被災した人々のうちひしがれた様子も痛々しく(廃墟と化した街を背に路上に座り込む女性の写真は海外にも配信されたが、その他にも、「愛娘たちの遺体が見つかった現場近くでお菓子やジュースをまく母親ら」などの写真は涙をそそる)、その中で何とか復興への光明を見出そうと懸命な人々の姿に、思わず感動を誘われました。

大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で、女性 が道路に座り込んで涙を流していた=3月13日午前10時57分 / 朝日新聞 恒成利幸撮影

 新聞本紙で報道された記事・データ部分は中ほどに纏める形になっていて、そこには、震災後1ヵ月間の新聞報道の時系列に沿った形での記事や被害マップがありますが、時間と共に把握された被害状況がどんどん拡がっていく様が手にとるようにわかり、一度新聞で見たことがあるとは言え、振り返ってみると更に生々しく感じられました。

 産経版は「写真集」ではなく「記録」と銘打っていますが、こちらも写真の点数は多く、但し、殆どが記事との組み合わせになっている構成。1つ1つの写真のキャプションも丁寧で、福島第一原発事故の事故後1ヵ月の推移だけでも詳しく纏められており、その他、原発事故現場で復旧にあたった人々の様子や(「保安院の人たちは逃げた」とある)、チェルノブイリの現況なども記されています。

 更に、「子供たちが、消えた」として、石巻市立大川小学校にフォーカスした写真群があり、その惨状には思わず目を覆いたくなりますが、やはり、正視し、記憶しておくべきことなのでしょう。

 「闘う日本」と題しているように、産経版の方が、被災した人、復旧に当たる人、外国から救援に駆け付けた人など「人」をよく撮っているし、首都圏のパニック状況や、過去の震災の記録など、写真や記事のテーマの切り口も多角的で、本書のための新たな編纂努力が窺えるように思いました。

 但し、朝日版の大判写真の迫力は、やはりストレートに訴えるものがあり、朝日版は「写真集」、産経版は「記録」として、それぞれ"保存版"に値する内容だと思います。

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一度に2万人以上の命を奪った明治の大津波などを科学的視点で検証。どの話も凄まじい。

0海の壁―三陸沿岸大津波.jpg海の壁 三陸海岸大津波1.jpg     三陸海岸大津波2.jpg   三陸海岸大津波.jpg
海の壁―三陸沿岸大津波 (1970年)』『三陸海岸大津波 (中公文庫)』〔'84年〕『三陸海岸大津波 (文春文庫)』〔'04年〕

村昭『三陸海岸大津波』.jpg 過去に東北・三陸海岸を襲った津波のうち、とりわけ被害の大きかった明治29年の津波、昭和8年の津波、チリ地震津波(昭和35年)の3つについて、三陸地方を愛した作家・吉村昭(1927‐2006)がルポルタージュしたもので、最初に読んだ中公新書版『海の壁』は紐栞付きで160ページぐらい(一気に読めて紐栞は使わなかったと思う)。

 吉村氏は本書執筆当時40代前半で、村役場・気象台などの記録を精力的に収集し、イメージしにくい大津波の性質や実態を科学的視点で分析・検証し、一瞬にして肉親と生死を分かち生き残った人の証言などを交え、大津波のの模様を生々しく再現しています(カットバック手法は、著者の小説とも似ているが、文庫化にあたり改題したのは、ノンフィクションであることを強調したかったのか? 「海の壁」っていいタイトルだと思うけれど...)。 

海の壁 三陸海岸大津波2.jpg 3大津波のそれぞれの死者数は、1896(明治29)年の津波が26,360人、1933(昭和8)年が2,995人、1960(昭和35)年が105人で、災害記録としては、昭和8年津波のものが、親・兄弟を失った子供の作文などが多く紹介されていて胸が痛む箇所が多かったですが、スケールとしては、津波の高さ24.4mを記録し、多くの村を壊滅させ、2万人以上の人命を奪った明治29年の津波の話が、どれをとっても凄まじい。

 その中には、津波の中、刑務所から辛うじて脱出した囚人たちの中に、生存者の救出に尽力した者がいたというヒューマンな話から、風呂桶に入ったまま激浪とともに700mも流されたが助かった、という奇跡のような話までありますが、津波の波高記録が10m、20mだった所でも、皆一様に、それ以上の大津波だったと証言しています。
 事実、海抜50mにある民家を押し流していて、入り江に入ると津波は勢いを増すため、こうした波高記録は当てにならず(普通、人間の証言の方が大袈裟だと考えがちだが)明治の大津波の科学的解明は充分ではなかったと、著者は書いています(この大津波の波高記録の最高は、最終的には38.2mとなっているが、一説には50m以上とも)。

 明治の大津波と昭和8年の大津波では、大津波の前には沿岸漁村で大豊漁があるという、昔から言われている地震の"前兆"があり、また、津波が"発光"していたという証言が多々あるのも不思議で、これらの現象は今もって科学的に充分には解明されていないようです。

 一方、チリ地震の津波は、日本では地震の揺れは感知されず、しかも第1派と第2波の間隔がたいへん長いもので、このタイプはこのタイプで不気味ですが('06年のスマトラ沖地震を想起させる)、第2波が到来する前の対処の仕方が被害の明暗を分けるということが、本書でわかります。

津波を防ぐための水門「びゅうお」(静岡県・沼津港).jpg 先日、静岡・沼津の津波防災水門「びゅうお」を見てきましたが、あそこは立派。でも、こうした設備のある港は、日本でも僅かでしょう。

津波を防ぐための水門「びゅうお」(静岡県・沼津港)

 【1984年文庫化[中公文庫(『三陸海岸大津波』)]/2004年再文庫化[文春文庫(『三陸海岸大津波』)]】

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