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「死なないで」の有名人メッセージはむしろ有害であると。学級制度廃止は「短期的」解決策?

いじめ加害者を厳罰にせよ (ベスト新書).jpgいじめ加害者を厳罰にせよ (ベスト新書)』  いじめの構造.gif 『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]

 前著『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』('09年/講談社現代新書)が、いじめの社会学的分析として評価が高かった著者が、'11年10月に起きた大津市のいじめ自殺事件が今年('12年)7月になって大きくマスコミで取り上げられるようになったのを受けて著したものです。

 大津の事件は特別のものではないとし、いじめ事件の発生メカニズムを、「市民社会モード」から隔離された「学校モード」の中で、仲間外れにされまいと大勢の「ノリ」や「勢い」に同調するところから起きると解明している点は、前著の流れを引くもので、前著より噛み砕いて書かれています。

 更に、いじめ隠蔽の構造とマスコミ報道について言及していますが、いじめの隠蔽構造は、東日本大震災に伴う福島第一原発事故で責任を回避しようとした原子力ムラと相似形であると述べているのは分かり易く、人の命よりも「教育ムラ」の安泰の方が優先されてしまっているということかと。ナルホド(「大津いじめ自殺事件」のその後の経緯は、まさにそのことを如実に物語っている)。

 本書で特に目を引いたのは、「大津いじめ自殺事件」に際してマスコミが、多くの有名人のコメントを報じ、「報道祭り」の様を呈したことを批判的に捉えていることで、そうした有名人を起用してコメントさせることは殆どの場合が有害であり、諸悪の根源が学校制度にあることから目を逸らし、いじめ問題を「心」の問題にすり替えることになっているとしています(あれ、当の子ども達は読んだのかなあ。大人のカタルシスになっているだけの気もするけれど)。

 著者は、とりわけ「死なないで」といったメッセージは、「警察に行く」など正義のため何をなすべきかという選択肢を超えて、いじめ被害者を逆に一気に「生か死か」という問題に追い詰めることになっており、そのようないじめ被害者に本来与えるべきなのは、「加害者は敵だ」というメッセージであるとしています。

 また、マスコミ報道も、「心の問題」にフォーカスするのではなく、「加害者はいかに処罰されるべきか」という社会正義をこそ報道すべきだと。但し、加害者に対し「あいつら、ムカつく」などと「特定」「晒し」を行うことは、これもまた、いじめを生み出す「群れ」と同じ「ノリ」で盛り上がっているに過ぎず、そうした「ネット愚民」になってはならないとも。

 いじめの解決策については、中長期的な解決策としては1つの学校に生徒を所属させる制度を廃止することを、短期的には学級制度の廃止と、「暴力系のいじめ」には学校への法の導入(法に基づいた加害者の処罰)をすべきだとしています。

 学級制度の廃止は前著でも提言されていたように思いますが、前著がいじめの社会学的分析が主だったのに対し、こちらは主張が前面にきていて、より明確で分かり易いように思いました。

 本書における著者の考え方には概ね賛同しますが、シカトする、悪口を言う、嘲笑するなどの「コミュニケーション操作系のいじめ」については司法の介入は難しいとなると、果たして学級制度の廃止が「短期的」解決策として実現可能なものなのかどうか、実際にそうした試みがなされているのか、却って孤立する子も出てくる可能性があり、そうした子どもを見つけてサポートすることも必要になるのではないか等々、やや考えさせられる点もありました。

 そうした試みや運動や行われれば、ある時期一気に拡がるかもしれないけれど、今のところあまり聞かない...。

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入門書としてまともだが、まとも過ぎてテキスト的で、インパクトが弱い。

いじめで子どもが壊れる前に.jpg  『いじめで子どもが壊れる前に (角川oneテーマ21)』 ['12年]

 '12年7月、前年10月に滋賀県大津市で発生した中学生自殺事件が連日マスメディアで取り上げられるようになったのを受けて刊行された一連の本のうちの1冊で、書いているのは「教育方法学」の専門家(この著者には、『ケータイ世界の子どもたち』('08年/講談社現代新書)などの前著がある)。

 現代のいじめの状況を俯瞰し、いじめとネット社会の関連をみるとともに(これが著者の得意分野?)、過去の8つのいじめ事件から、なぜそうしたことが繰り返されるのか、活かすべき教訓は何かを探っています。

 取り上げられているのは、今回の大津の事件と同じように「葬式ごっこ」があり、結果的に教師も加担した「中野富士見中事件」(鹿川裕史君自殺事件)('86年)、いじめか犯罪かが問題となった「山形県マット死事件」('93年)、事件後に全国に連鎖的にいじめ自殺を引き起こした「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」(大河内清輝君自殺事件)('94年)、同級生からの恐喝・暴行がエスカレートした「名古屋市五千万円恐喝事件」、いじめ被害者がホームページで校長に訴えた事件('99年)、20年前の中野富士見中の事件同様、教師がいじめに加担する形になった「福岡県中学生自殺事件」('06年)、ネット上のいじめが自殺に繋がった「神戸市高校生自殺事件」('07年)、学級崩壊といじめ自殺の因果関係が窺える「桐生市小学生自殺事件」('10年)―これらにしても、とりわけマスコミで話題になったものに過ぎず、氷山の一角なんだろなあ。なんとまあ、このような悲惨な事件が繰り返されるものだと。

 本書では更に、学校はどう変わっていくべきか、いじめを激減させる対策とは何かを整理し、発達障害といじめの関係や、親がわが子にいじめの兆候をみつけたらどうすればよいかについても書かれています。

 但し、どちらかというと、学校側にとっての「危機管理」としてのいじめ対策に重点が置かれているという印象も。著者の専門上、そうした視点にならざるを得ないのでしょうが。

 学校とは理想を語りたがる組織で、「みんな仲良く」などのスローガンが掲げられ、現実に他の子供たちと仲良くできない生徒がいても、こうした「言霊主義」のもと、いじめなどは話題にしにくくなりやすい、という指摘には一理あるように思いました。

 他にも書かれていることには参考になる部分もありましたが、包括的な内容を1冊の新書に盛り込んだため、個々のテーマの突っ込みが浅く、テキスト的になった気がし、子どものいじめに悩む親などが読んでも、それほど具体的な対処策・解決策が得られないのではないかなあと。

 前著『ケータイ世界の子どもたち』も、読んでいて「教育テレビ番組」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこなかったのですが、本書も入門書としてはまともであるものの、まとも過ぎることからくる、そうした物足りなさがあります。

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国際的に普遍か。いじめには四者のプレーヤーがいる。「イタリアの懲罰事件」は興味深い事例。

森田 洋司 『いじめとは何か』.jpgいじめとは何か―教室の問題、社会の問題 (中公新書)』['10年] 森田 洋司.png 森田洋司 氏 

大津市中学生いじめ自殺事件.jpg 昨年('11年)10月、滋賀県大津市で市立中学2年の少年が自殺した事件が、今年になって事件の概要が明るみに出て日本中が心を痛めていますが、加害者側の少年たちやその保護者らの無反省な態度や、責任逃れの発言を続ける学校側や教育委員会の対応に、国民感情は悲しみかが怒りに変化しつつあるといった様相でしょうか。
 確かに、大津市教育長の一連の記者会見、学校長もそうですが、この市教育長の自らの責任の回避ぶりは目に余ってひどいあなと。これで責任をとって辞めるでもなく、任期満了まで教育長の座に居座り続けるつもりのようですが。

鹿川裕史君自殺事件.png 本書によれば、日本でいじめ問題が最初に社会問題化したのは80年代半ばで、特に'85年は14名がいじめによって自殺したとされ、翌年'86年には、この時期の代表的ないじめ事例として知られる「葬式ごっこ」による鹿川裕史君自殺事件が発生しています。

 一方、本書によれば、世界で初めて子どもたちの「いじめ」問題に気付き、研究を始めたのはスウェーデンの学校医ハイネマンだとされ、60年代から70年代のことで、それがノルウェーとデンマークでも関心を呼び(ノルウェーでは'82年に3人の少年が同一加害者グループのいじめにより相次いで自殺する事件が発生し、社会問題化した。日本とノルウェーはいじめ問題の先進国だそうだ)、更にいじめ問題への関心はイギリスに飛び火し、90年代半ばにヨーロッパ全域に広がる一方、その頃アメリカでもいじめ自殺が多発して、重大な社会問題とみなされるようになったとのこと('99年に発生した、多くの生徒が犠牲になったコロンバイン高校銃撃事件は、背景にいじめがあったとされている)、本書ではそういたいじめ問題に対する各国の対応と日本のそれを国際比較的に解説していますが、結局、いじめ問題というのは国際的に一定の普遍性を有するものなのだなあと。

大河内清輝君自殺事件.jpg 日本では1994年に、愛知県の大河内清輝君自殺事件を契機に、いじめによる深刻な被害が再びクローズアップされ、社会問題化するという「第二の波」が訪れ、更に、2005年、2006年にいじめ自殺が相次いで「第三の波」が発生したとのこと。本書では、そうした「波」ごとの国や社会の対応を社会学的見地も交え分析していますが、そこからは、理想と現実のギャップが窺えるように個人的には思いました(現実が理想通りに運べば、第二、第三の波、或いは今回の(第四の波を起こしている?)大津市の事件のようなことは起きないはず)。

大河内清輝君自殺事件で鹿川裕史君の父親・鹿川雅弘氏(青少年育成連合会副理事長)が大河内家を弔問(1994) 

 日本におけるいじめ問題への対応は、全体を通して一つの流れとして、加害者側の行為責任を問うべきとする意見が早くからあったにも関わらず、大河内清輝君の事件ぐらいまでは、報道も被害者の状況に向けられ、2000年代になってやっと「社会的責任能力」の育成や「学校の抱え込み」の問題などが具体的に検討されるに至っているようです。

 こうした流れで見ると、今回の大津市の事件は、被害者の氏名は伏され、一方、アクシデントによるものとは言え、加害者側の氏名はネットに流出し、バッシング現象を引き起こしていて、国民感情がこの流れを先取りしている観はあります。

 本書後半は、いじめとは何かを社会学的に分析し(著者の専門は教育社会学、犯罪社会学、社会病理学。評論的な発言をする社会学者と違って、「いじめ問題」が専門の学者と言える)、その解決の糸口を探っていますが、内外の研究者の見解や諸外国の取り組みなども紹介しながら中立・客観的立場で論を進めており、同じ中公新書に池田由子氏の『児童虐待―ゆがんだ親子関係』('87年)という「児童虐待」に関する準古典的テキストがありますが、本書は「いじめ問題」において同様なポジショニングを占める本であると言えるかもしれません(共に中公新書らしいかっちりした内容)。


 本書によれば、いじめにおいては「加害者」「被害者」「傍観者」「観衆」の四者のプレーヤーがいて、「傍観者」は見て見ぬふりをする者で、「観衆」は面白がって観ている者であり、ここに「仲裁者」が出てくれば「被害者」は救われるが、「傍観者」や「観衆」は、「仲裁者」が出にくい環境を作ったり、「加害者」を容認したりすることがあり、かなり影響力を持つとのことです。

 また、いじめを見て見ぬふりする「傍観者」は、ヨーロッパの国々でも日本と同じように小学校の学年が上がるごとに増え続けますが、中1・中2あたりを境にして減り始め、いじめの仲裁しようとする「仲裁者」が増え始めるのに対し、日本では中学生になっても、一貫して「仲裁者」は減り続け、「傍観者」が増えつづける傾向があるとのことです。


 紹介されている海外の事例の中に、新聞記事(日経)からの引用ですが「イタリアの懲罰事件」というのがあって、イタリアで2006年に子どもの自殺を契機にいじめが社会問題化する中、中学校で同級生の男子生徒を「ゲイ」呼ばわりして男子トイレに入れさせなかった生徒に、罰として「僕は馬鹿だ」とノートに100回書かせた女性教員を、父親が「過剰懲罰」だと告訴、2万5000ユーロの賠償請求をしたのに対し、検察庁は教員に懲役2ヵ月を求刑したが、裁判所は無罪の判決を下したとのこと。

 この時イタリアの新聞には「親に『私は馬鹿だ』と一万回書かせろ」「この親にしてこの子あり」という教員に同情的な投書が相次いだとのことで、著者は、「保護者は養育の第一義的責任を負う主体であると、社会から常に期待されている」「教師へ無罪判決が下されたのは、教師の責任と主体性を尊重する判決が示されたことを意味する」としています。

 著者は、事件には固有の背景があり、そのまま一般化するには慎重を要すとしながらも、「権限と義務、さらに責任についての意識が希薄になりがちな日本の教育現場にとっては、参考にすべき点が多い」としていますが、今回の大津市の事件を通して見ると、まさにその通りだと言える、興味深い事例のように思いました。

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読みどころは、「いじめ」問題にフォーカスした第1章か。

友だち地獄.jpg 『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)』 ['08年]

 著者によれば、現在の若者達は、「優しい関係」の維持を最優先にして、極めて注意深く気を遣い合いながら、なるべく衝突を避けよう慎重に人間関係を営んでおり、その結果、「優しい関係」そのものが、山本七平言うところの「空気」の流れを支配し力を持つため、その空気の下での人間関係のキツさに苦しみ、生きづらさを抱え込むようになっているとのことです。

 全5章構成の第1章では、「いじめ」問題にフォーカスし、そうした「優しい関係」がいじめを生み出すとしていて、「優しい関係」を無傷に保つために、皆が一様にコミュニケーションに没入する結果、集団のノリについていけない者や冷めた態度をとる者がいじめの対象となり、一方で、対人距離を測れず接近しすぎる者も、空気を読めない(KYな)者として、いじめの対象になるとしています。

 以下、第2章では、「リストカット」にフォーカスし、高野悦子『二十歳の原点』南条あや『卒業式まで死にません』を比べつつ、若者の「生きづらさ」の歴史的変遷を辿り、その背後にある自己と身体の関係を探るとともに、第3章では、「ひきこもり」にフォーカスし、或るひきこもり青年が発した「自分地獄」という言葉を手掛かりに、「ケータイ小説」ブームなどから窺える、現在の若者達の人間関係の特徴、純粋さへの憧れと人間関係への過剰な依存を指摘し、そこから第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」へと繋げ、更に第5章で「ネットによる集団自殺」を取り上げ、それはケータイ的な繋がりの延長線上にあるものだとしています。

いじめの構造.gif 個人的には、第1章の「優しい関係」を維持しようする集団力学がいじめを生み出すとした部分が最もしっくりきて、陰惨ないじめが(被害者側も含め)"遊びモード"で行われるということをよく説明しているように思え、同じ社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』('09年/講談社現代新書)が、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が場の情報となり、それがいじめを引き起こすとしているのと共通するものを感じました(章後半の、若者はなぜ「むかつく」のかということについては、『いじめの構造』の方がよく説明されているように思う)。

 但し、第2章以下で様々な社会現象を扱うにあたって、「優しい関係」というキーワードで全てを説明するのはやや無理があるようにも思われ、第2章の高野悦子と南条あやの「身体性」の違いの問題、第3章の若者が希求する「純粋性」の問題などは、それぞれ単独の論考として読んだ方がいいように思えました。

近頃の若者はなぜダメなのか.jpg 第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」は、博報堂生活総研の原田曜平氏の近著『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』('10年/光文社新書) などに比べれば、社会学者らしい洞察が見られる分析ではあったものの、ここでも身体論が出てくるのにはやや辟易しました(「計算機も脳の延長である」とした養老孟司氏の『唯脳論』風に言えば、ケータイは身体の延長と言うよりもむしろ脳の延長ではないか)。

 全体として章が進むにつれて、他書物からの引用も多くなり、それらを引きつつ、牽強付会気味に仮説と「検証」を組み合わせているような感じもしました(文章的には破綻しておらず、むしろキッチリしていて且つ読み易く、その辺りは巧みなのだが、類似する論旨の他書を引いても検証したことにならないのでは)。

 まあ、こうやって仮説を立てていくのが、社会学者の仕事の1つなのでしょうが、検証面がちょっと弱い気もしました。
 著者の頭の中ではしっかり整合性がとれているのだろうけれど、読む側としては、社会における若者そのものよりも、むしろ社会学者の若者観のトレンドが分かったという感じでしょうか。

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「群生秩序」という視点から、社会学的に「いじめの構造」を鋭く分析。

いじめの構造.gifいじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]内藤 朝雄.png 内藤朝雄 氏

 いじめが何故起こるのかということを社会学的に分析した本で、著者には『いじめの社会理論』('07年/柏書房)という本書で展開されている分析のベースとなっている本がありますが、個人的はその本は読了していないものの、本書を読めば、大体、著者の考え方は解るのでは。

 自分が以前に読んだ本田由紀・後藤和智両氏との共著『「ニート」って言うな!』('06年/光文社新書)の中で著者は、「最近の若者は働く意欲を欠いている」「コミュニケーション能力に問題があり他者との関わりを苦手とする」「凶悪犯罪に走りやすい」といった根拠の希薄な「青少年ネガティブ・キャンペーン」と相俟って「ニート」が大衆の憎悪と不安の標的とされていることを指摘していて、なかなか明快な分析であると思ったのですが、本書においても、既存の「いじめ問題」に対する教育学者や評論家の論調の非論理・不整合を指摘しつつ、この問題に対し、より社会学者らしい突っ込んだ分析を展開しています。

 著者によれば、いじめの場においては、市民社会の秩序の観点から見れば秩序が解体していることになるが、(著者の命名による)「群生秩序」というもの、つまり群れの勢い(ノリ)による秩序という観点から見れば、むしろ「秩序の過重」が見られるとのこと。また、寄生虫が宿主の行動様式を狂わせることを喩えに、学校という小社会の中では、社会が寄生虫化することが起こりうるとも。

 つまり、学校の集団生活によって「生徒にされた人たち」の間では、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が、場の情報(「友だち」の群れの情報)となって、それが個の中に入ると、個の内的モード(行動様式)をいじめモードに切り替えてしまい、内的モードの切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が更に次の時点の生徒達の内的モードを切り替えるということが繰り返され、心理と社会が誘導し合うグループが生じるのだといいます。

 「生徒にされた人たち」は、存在していること自体が落ちつかないという不全感(むかつき)を抱いていて、それが群れを介して誤作動することで全能感に切り替わり、全能感を味わうための暴力の筋書きに沿ってなされるのがいじめ行為であり、逆にいじめの対象が逆らったりしてこの全能感が否定されると、更なる暴発が発生することになると。

 全能感の類型などを細かく定義しており、個人的には必ずしも全て100%納得できた説明ではなかったのですが、実際に起きた様々な(どうしたこうしたことが起きてしまうのだろうという陰惨な)いじめ事件をケーススタディとして、それらに対して一定の解を与える手法で分析を進めているため、それなりの説得力を感じました。

 とりわけ、「投影同一化」という心理的作用によって、いじめがいじめる側の過去の体験の「癒し」となっているという分析は腑に落ち(この論理で児童虐待における「虐待の連鎖」のメカニズムも説明できるのではないか)、また、いじめられる側のいじめる側に呼応してしまうメカニズムについても解説されています(往々にして、加害者だけでなく、被害者や教師も、ある種のメンバーシップに取り込まれていることになる)。

 抽象的な社会・心理学的理論だけ展開して終わるのではなく、打開策も示されていて、短期的政策としては、「学校の法化」(学校内治外法権を廃し、学校内の事も市民社会同様に法に委ねること)と「学級制度の廃止」(とりわけコミュニケーション操作系のいじめに対して)を掲げています。

 本書にあるように、教師までもがこうしたメンバーシップに取り込まれているような状況ならば、学校は聖域だというのは却って危険な考え方であるということになり、また、学級という濃密な人間関係の場がいじめの原因になっているのならば、そうしたものを解体するなり結びつきを弱める方向で検討してみるのも、問題解決へ向けての足掛かりになるのではないかと思われました(どこかの学校で実験的にやらないかなあ)。

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大人が読んでもギョッとさせられるが、いじめ問題からグローバルな視点への展開が特徴的。

leif kristiansson not my fault.jpgわたしのせいじゃない.jpg  たんじょうび.jpg
Not My Fault』1st English Ed版['03年] 『わたしのせいじゃない―せきにんについて (あなたへ)』['96年] 『たんじょうび―ゆたかな国とまずしい国 (あなたへ)

不是我的錯.jpg スウェーデンの作家レイフ・クリスチャンソン(Leif Kristiansson)による「あなたへ」と題したシリーズの6冊目で(原題:Det var inte mitt fel /Not My Fault)、1973年の原著刊行か(奥付では1976年。途中で版元が変わっている?邦訳の刊行は1996年)。

中国語版

 1人の男の子がいじめられて泣いていて、それについての15人の子供たちの「始まりは知らない」「みんながやったんだもの」といった言い訳が続く。
そして最後に「わたしのせいじゃない?」という問いかけがあって、世界で繰り広げられている戦争や飢餓、環境汚染などを象徴的に示した写真が続く―。

 シンプルな絵本の後にいきなり核実験の写真などが出てくるため、大人が読んでもギョッとさせられますが、日常の「小さな無責任」が、時として恐ろしい現実に繋がること、世界中で起きている悲惨な出来事が「見て見ぬふり」によって支えられていることを表しているかと思います。

わたしのいもうと.jpg 同じく「いじめ」をテーマとして扱った松谷みよ子氏のわたしのいもうと』('87年/偕成社)がいじめを受けた本人とその家族の苦しみに焦点を当てているのに対し、こちらはいじめる側の責任逃れを追及していますが、一気に世界規模の問題に関連づけるというグローバルな視点が特徴的と言えば特徴的。

 作者は学校の社会科の教師だったそうですが、スウェーデンでは学校の授業もこんな具合にやっているのかなあ(やってそうな気がするが)。
 外国の新聞は国際記事が1面に来ることが多いのに対し、日本の場合、中央紙でも政局の動向とか内政記事がトップに来るのが殆どで、殺人事件などあればそれをトップに持って来て読者の関心を引き付ける新聞社もある―そういうことを思うと、国外に眼を向けるといった習慣を身につける機会が日本の教育現場では不足していて、そうしたことが、大人が読むところの新聞における紙面構成にも反映されているのかもと思ったりもしました(国際問題より殺人事件に関する情報の需要度の方が高い?)。

 『わたしのいもうと』に「読み解きマニュアル」のようなものがあるということに関してはやや違和感を覚えましたが、子供がショックだけを受けても...ということがあるのかも。
 一方、日本で本書を授業教材として用いる場合は、別な意味で、それこそ教師による十分な補足説明が必要だろうなあと思います(感想文を書かせたら「犯人は○番目の子だと思う」といった類のものがあったという話を聞いたことがある。本文と写真がリンクしていない)。

 「あなたへ」はシリーズ15冊全て訳出されていて、その多くがほんわりした読後感で終わるものであり、この『わたしのせいじゃない』の終わり方はやや特異(但し、本書の次の第7冊『たんじょうび』なども最後に報道写真が来るパターン)。
子供に与えるならば、シリーズを何冊か纏めて読ませ、この作者の"読み手に自分で考えさせる"という趣旨と言うか作風を掴ませたうえでの方がいいかも。文字面を追って読むだけだったら、あまりにあっさり読めてしまう文字数だけに。

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事実だったのかと思うとかなり重い。本人だけでなく家族をも苦しめる"いじめ"。

わたしのいもうと.jpg 『わたしのいもうと (新編・絵本平和のために)』 (1987/12 偕成社)

『わたしのいもうと』.jpg 1987(昭和62)年に刊行された絵本で、児童文学者である作者のもとへ届いたある手紙がもとになっており、その手紙には、小学4年の妹が転校した学校でいじめに遭い、その後に心を病んで亡くなったということが姉の立場から綴られていたとのことで、事実だったのかと思うとかなり重いです。

 妹には体中につねられたあとがあり、学校へ行けなくなって食べ物も食べられなくなり、母親は必死で、唇にスープを流し込み、抱きしめて一緒に眠り、その時は何とか妹は命をとりとめる―。

 「いじめた子たちは中学生になって、セーラーふくでかよいます。ふざけっこしながら、かばんをふりまわしながら。
 でも、いもうとはずうっとへやにとじこもって、本もよみません。おんがくもききません。だまって、どこかを見ているのです。ふりむいてもくれないのです。
 そしてまた、としつきがたち、いもうとをいじめた子たちは高校生。まどのそとをとおっていきます。わらいながら、おしゃべりしながら...。
 このごろいもうとは、おりがみをおるようになりました。あかいつる、あおいつる、しろいつる、つるにうずまって。でも、やっぱりふりむいてはくれないのです。口をきいてくれないのです。」

 いじめられた妹が鶴を折るのは、彼女が生きるために選んだ方法であったとも言え、それに対して母親も泣きながら隣の部屋で鶴を折るしか彼女の気持ちを共有する術が無いというのがやるせないですが、結局、妹は最後に"生きるのをやめる"ことを選択する―。
 「わたしをいじめたひとたちは もう わたしを わすれてしまったでしょうね」という言葉を残して。

 子の苦しみを共に分かち合い切れなかった母親の哀しみや、それらを見続けた姉の苦悩が伝わってくる一方で、かつての級友らが妹をいじめて何の良心の呵責も感じることなく生を謳歌していることに対する理不尽さを、姉が強く感じていることも窺えます。

 小学校中学年以上向きとのことですが、大人が読んでも考えさせられることの多い絵本であり、むしろ、これだけストレートな内容だと、子供に対するこの絵本の与え方は難しいと言えるかも。
 教育現場などでは、道徳の時間に副読本として使用することもあるようですが、"読み方マニュアル"みたいなものが出来てしまうことに対しても、個人的にはやや違和感があります。

 しかし現実には、こうしたいじめは、今もかつてより高い頻度で発生しているわけで、学校の授業で読み解きを行うのは必要なことかも(図書室に置きっ放しになっているよりはいい)。
 家庭内だと、親が読んでいつか子供に聞かせようと思っていても、なかなかそうした状況にならないのではないかなあ、内容が重すぎて。

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全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているのだが...。

ケータイ世界の子どもたち.jpg 『ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944) 』 ['08年]

魔法のiらんど.jpg 今は小学生ぐらいから "ケータイ・デビュー"することがごく普通になってきていますが、親が日常で使っているのを見れば、子どもも自然とそうなるのでしょう。中学生などは、自宅からでも置き電話を使わず、メールで友だちと連絡を取り合うことが普通みたいだし...。
 つまり彼らは、電話としてよりも、メールやゲームでケータイを使用しているわけですが、本書を読んで、小中学生にとってケータイの世界が、かなりウェイトが大きいものになっているということがわかりました。
 本書で「人気ベスト3」として紹介されている、「モバゲータウン」や「プロフ」、多くの"ケータイ小説"を生んでいる「魔法のiらんど」など、それぞれに凄い数の利用者がいるわけです。

 著者が本書執筆中の'08年3月に、千葉県柏市で「プロフ」の書き込みを巡って中学生同士の殺人未遂事件があり、本書刊行とほぼ同時期の'08年5月には、政府の「教育再生懇談会」が、「小中学生の携帯電話使用に関して何らかの使用制限をするべき」との提言を出していて、著者も、文科省の「ネット安全安心全国推進会議」とかいうものの委員であるらしい。
 本書でも、ケータイが犯罪に使われた例をあげ、子どものコミュニケーション能力の伸長に支障をきたす原因となっているような論調が見られたので、最後に、「だから、子どもにケータイを持たせるのはやめましょう」と訴える、その系の"御用学者"かなとも思いましたが、読み終えてみると必ずしもそうでもなかったみたい。

 地域で行われている子どもたちのケータイの利用を抑制する運動なども紹介していますが、どちらかと言うと著者自身は、親には、子どもにケータイを持たせる際に、危険性もあることの注意を促し、濫用させないようにする約束事を定めるのがよいとし、行政や企業にはフィルタリングの徹底を求め、全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているといった感じでしょうか。

 但し、現代の教育やしつけの問題への言及が拡がり過ぎて(著者の専門は教育学)、それら全てをケータイを起点にして論じるのはちょっと強引に感じられ、それでも言っていることはまあまあ正論なのかも知れませんが、「教育テレビ」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこない。
 「モバゲー」を問題ありとする一方で、やたら「魔法のiらんど」の肩を持っているように思われる点も、少し気になりました。

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