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『手紙』『さまよう刃』より重層的。"そっとしておいてあげれば良かったのに"と思ってしまう。

虚ろな十字架 .jpg 虚ろな十字架 文庫.jpg
虚ろな十字架』『虚ろな十字架 (光文社文庫)

 11年前、小学校2年生の娘を強盗に殺害された中原道正は、当時の担当刑事だった佐山の訪問を受け、今度は離婚した元妻の小夜子までも刺殺されたことを知る。小夜子殺害の犯人である68歳の無職の男・町村はすぐに出頭した。中原と小夜子とは、娘殺害の犯人・蛭川が死刑になることだけを望んで、裁判を一緒に戦った過去があった。そして、中原も小夜子も、「たとえ犯人が死刑になろうとも娘は戻らない」という虚しい事実に直面したのだった。蛭川に死刑判決が出た後に離婚した二人は、その後は互い連絡し合うこともなかったが、中原は、町村の死刑を望む小夜子の両親の相談に乗るうち、小夜子が離婚後も犯罪被害者遺族の立場から死刑廃止反対を訴え精力的に行動していたことを知る。それは、娘の死を乗り越えるためという目的は同じだったが、そのために中原が選んだ道とは正反対であった。自首してきた町村は情状酌量となりそうで、とても死刑判決は出そうにもない。しかし孫と、今また娘までも殺された小夜子の母は死刑求刑を願い、中原も元夫として関わって行くことになる。一方、町村の娘婿である慶明大学病院の小児科医・仁科史也は、町村の娘・花恵と離婚して町村たちと縁を切るよう母親から迫られていたが、なぜか断固としてこれに応じようとはしなかった―。

 「ミリオンセラーを記録し、映像化も評判となった『手紙』『さまよう刃』の二作から10年あまり。より深化した思索と、圧倒的な密度、そして予想もつかない展開。私たちはまた、答えの出ない問いに立ち尽くす」―と版元の口上にあります。『手紙』('03年/毎日新聞社)は犯罪加害者の家族の視点から書かれており、『さまよう刃』('04年/集英社)は犯罪被害者の視点から書かれていましたが、この『虚ろな十字架』は、両者の立場が交錯する重層的な構造になっており、更に、仁科史也をはじめとする登場人物が抱える過去を巡ってのミステリー(謎解き)的な要素も、以前の2作に比べて濃いように思いました。

虚ろな十字架ド.jpg 登場人物の中で"探偵"的な役割を果たしているのは、かつて娘を殺害され、妻と離婚し、今はペット葬儀屋を営む中原道正です。なぜ彼が、仁科史也が抱える過去の秘密に気づいたのかよく分からなかったけれど(こういうのはアガサ・クリスティの作品などでは珍しいことではないが)、テーマの重さと筋立ての巧みさのお蔭で、その点はあまり気になりませんでした。

 テーマは重いと思います。非情にやるせない結末ですが、死刑制度の在り方について(更に大きく捉えれば"罪と罰"について)何か結論的な方向へ持って行くのではなく、課題を投げかけるような終わり方になっているように思いました。但し、「うつろな十字架」というタイトルをわざわざ補足説明するかのように、「死刑は無力だ。娘を殺されたら、あなたは犯人に何を望みますか」とか、「憎む人間が処刑されたら気が済むのか!? そんなことなないでしょう 東野圭吾」と言った言葉が、広告のフレーズや本の帯にあったりしますが...。

 そうした言葉の影響を受けたわけではないですが、『手紙』『さまよう刃』と併せて見てみると、作者の基本的スタンスとして、過度の「不寛容」は新たな悲劇を招く恐れがあると警鐘を鳴らしているようにも思えました。犯人の死刑を望まない被害者家族は殆どいないと言われるし、死刑制度の最大の存置理由は、遺族の報復感情の充足にあるのではないかと個人的にも思っていますが(死刑制度が犯罪抑止力になったという統計的な裏付けはないし、当該犯人の再犯防止を図るのであれば「終身刑」制度の導入で足ることになる)、たとえ犯人が死刑になったとしても、中原のように後には虚しさだけが残るということもあるのかもしれません。この小説のやるせない結末は、逆に読者に、"そっとしておいてあげれば良かったのに"という感情を惹き起こさせるものでもあり(実際、個人的にはそうした感情に駆られた)、ズバリそれが作者の意図だったなどとは言い切れませんが、作品の1つのミソだったのかも。そうしたことも計算に入れて、敢えてラストで当事者に自首させる結末にしているように思いました。

【2017年文庫化[光文社新書]】

《読書MEMO》
●個人的評価
『手紙』...............★★★☆
『さまよう刃』......★★★
『虚ろな十字架』...★★★★

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部分々々の筆力は大いにあるが、全体の構成としてはどうなのか。

イノセント・デイズ 単行本.jpgイノセント・デイズ n.jpgイノセント・デイズ 単行本2.jpg  イノセント・デイズ 文庫.jpg
イノセント・デイズ』(2014/08 新潮社) 『イノセント・デイズ (新潮文庫)

早見 和真 『イノセント・デイズ』ド.jpg 2014(平成26)年下期・第2回「新井賞」、2015(平成27)年・第68回「日本推理作家協会賞」(長編及び連作短編集部門)受賞作。

 30歳の田中幸乃は、元恋人に対する執拗なストーカーの末にその家に放火して妻と1歳の双子を死なせた罪で死刑を宣言されていた。凶悪事件の背景には何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人、刑務官ら彼女の人生に関わった人々の追想から世論の虚妄と哀しい真実が浮かび上がる。そして、幼馴染みの弁護士たちが再審を求めて奔走するが彼女は―。

 「第一部・事件前夜」と「第二部・判決以後」の二部構成で、第一部で、田中幸乃の人生に関わったさまざまな人々の回想から、彼女の悲惨な人生の歩みが浮き彫りになっていきます。従って、彼女がいかにして死刑に値する罪を犯すような人間になってしまったのかを、ある種"環境論"的に解析していく小説だと思って読み進めていました。そして、そのプロセスは非常に重いものでした。

 ところが終盤になって、それまでミステリだとは思わずに読んでいたのに"どんでん返し"があって、事件の真犯人は別にいるらしいと...。しかしながら彼女は自ら弁明することなく刑に臨もうとしているため、それはどうしてなのかということがポイントになってきますが、強いて言えば、信じた人から裏切られ続けた人生の果てに、田中幸乃はいつしかもうすべてを終わらせてしまいたいと願うようになり、死刑になることが自動的に自分の命を終わらせることができるチャンスだったということなのでしょう。誰かの身代わりで死刑になるのかと思っていたらそうではなくて、自分のためだったのかあ。意外性はありましたが、それまで描かれていたことが必ずしも彼女のそうした心境を十分に裏付ける伏線になっておらず、結局(彼女の内面については)よく分からないまま読み終えたという感じです。

 死刑制度に対して問題提起しているともとれますが(主人公の仮のモデルは林真須美死刑囚であるそうだが)、そうなるとやや主題が分裂気味という気もするし、部分々々の筆力は大いにあると思いましたが、全体の構成としてはどうなのかという気がしました。

 「日本推理作家協会賞」の選考(選考委員は大沢在昌・北方謙三・真保裕一・田中芳樹・道尾秀介の各氏)でも、あまりにも暗く、救いがないということで選考委員が皆迷ったみたいで、無理に受賞者を出した印象が無きしも非ずという感じでした。

角田光代  .jpg それでも直木賞候補にもなっているのですが、直木賞選考では更に選評は厳しくなり、やはり直木賞は取れなかったようです。選考委員では角田光代氏が「序盤から読み手を小説世界に引きずり込む力を持っている。(中略)けれども読み進むにつれて現実味が薄れていくように感じた」「そうしてやっぱりラストに納得がいかないのである。いや、この小説はこの小説で完結しているので、ラストに異を唱えるのは間違っているとわかるのだが、死を望み、このようにすんなりと受け入れるほどの強いものが、幸乃にあるようには私には思えなかった」と述べていますが、自分の感想もそれに近いでしょうか。

 因みに、かつて「死刑大国」と言われたアメリカ(世界の死刑執行の8割を占めるという中国とは比較にならないが)でも死刑廃止の流れがあり、'07年から'14年の間だけでも新たに6州が死刑を廃止していますが、死刑廃止の理由として、十分に審議されないまま死刑が執行されたことがあったりして、その中には執行した後に真犯人が現われ、無実の人間を処刑してしまったと後で判ったケースもあるようです(1973年以降、無実の罪で死刑判決が出た人のうち、少なくとも142人は、死刑が執行される前に釈放になったという。一方で、誤って処刑され、死刑執行後に無罪判決が出された人も何人もいる)。

 アメリカではそうした誤審が死刑廃止の大きな契機になっているわけで、もし、この小説のようなことが実際に起きて、この小説の中に出て来る主人公の幼馴染みや弁護士のような人が頑張れば、死刑制度を見直す機運は高まるかもしれないと思います。そうした意味では、この小説の終わりからまた新たな物語が始まるような気もしました。

 筆力としては○ですが、構成としては残念ながら△でしょうか。言い方を変えれば、構成としては△だが、筆力としては注目すべきものがあって○であるとも言え、迷いながら「日本推理作家協会賞」に選んだ選考委員の気持ちが分からなくもないです(結局、自分も○にした)。

イノセント・デイズ ドラマ.jpgWOWOW連続ドラマW「イノセント・デイズ」(全6回・2018年3月18日~4月22日)
監督 - 石川慶
企画 - 妻夫木聡、井上衛、鈴木俊明
プロデューサー - 井上衛、橘佑香里、平部隆明
脚本 - 後藤法子
音楽 - 窪田ミナ
製作 - WOWOW、ホリプロ

【2017年文庫化[新潮文庫]】

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下された判決に過ちがあったのではないか。死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重い。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決.jpg司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決青春の殺人者  dvd.jpg青春の殺人者 デラックス版 [DVD]

 元裁判官である弁護士によって書かれた本書によれば、わが国で冤罪事件が後を絶たないのは、所謂「自白の呪縛」のためばかりではなく、日本の司法の特徴的な面が関わっており、それは、「日本の裁判官は、冤罪危険覚悟で有罪判決を下している」ためであるとのことです。

 日本の職業裁判官は、冤罪の危険領域を知りつつ、それでもなお自分の判断能力を頼りに、薄皮一枚を剥ぐように、或いは薄氷を踏むような思いで有罪・無罪を見極めようとしている、つまり一種の賭けをしているわけであって、そうやって死刑判決さえ出していると―。蓋然性のレベルであっても敢えて「無理に無理を重ねて」死刑判決を下すことがあるから、その内の一部が冤罪になるのは当然と言えば当然と言えると(賭けに全部勝つことはできないのだから)。

 本書では、こうした問題意識を前提に、死刑判決が出されているが冤罪が疑われる案件、有罪らしいが冤罪の主張がなされたことが影響して死刑判決となったと思われる案件、無罪判決が下された後に被告人が同種の猟奇殺人を起こした案件の3つを取り上げて、それぞれの事件及び裁判を、担当した弁護士へのインタビューなども含め検証しています。

 第1章では、'88(昭和63年)に起きた「横浜・鶴見の夫婦強殺事件」が扱われていて、第一発見者に死刑判決が出されたこの事件は、既に最高裁で被告人の死刑が確定し、現在、再審請求中であるとのことです。
著者は、裁判で犯人と第一発見者を区別することがいかに難しいかを説明しつつ、この事件の記録を様々な角度から詳細に検証した結果、被告人を犯人であると断定する確定的な証拠はないのではないか、即ち、証拠上は有罪とすることができないのではないかとし、権力機構の一員としての職業裁判官の思考方法がそこに影を落としているとしています。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決2.jpg 第2章では、'74(昭和49)年に起きた「千葉・市原の両親殺し事件」が扱われていて、当件は、中上健次の小説『蛇淫』や、長谷川和彦の第1回監督作の「青春の殺人者」('76年/ATG)のモデルになった事件であり、ある家の22歳の長男が、女性との付き合いを両親に反対され、両親を登山ナイフでめった突きにして殺害した(とみなされた)事件。被告人は公判で「父は母により殺され、母は第三者により殺された」と冤罪を主張をしましたが、捜査中の自白の中に「秘密の暴露」(被疑者が真犯人でしか知るはずのない事項を自白すること)があったことが重視され、最高裁で死刑が確定し、こちらも再審請求中です。

「青春の殺人者」撮影の合間に談笑する水谷豊、原田美枝子、長谷川和彦、中上健次(本書より)

 著者はこの案件が冤罪である可能性は低いとしながらも、ほぼ同時期に起きた「金属バット両親殺害事件」で懲役13年の刑が宣告されていることと比較し、被告が冤罪を主張したことで、家庭内のいざこざに起因する同類の事件でありながら、量刑にこれだけの差が出たのではないか、このような量刑の決め方は、「被告人が無罪を主張したから(国家権力に反抗したから)、それで死刑にしてしまう」というのと同じではないかとし、判決に疑問を投げかけています。

 第3章では、'68(昭和43)年から'74(昭和49)年にかけて断続発生した、女性を暴行殺害し放火する手口の「首都圏連続女性殺人事件」が扱われていて、容疑者として逮捕された中年男性は、東京地裁で死刑の判決を受けたものの、東京高裁では、逮捕後の過酷な取調べが問題視され、自白の任意性が否定されて無罪とされ、検察も上告を断念し、逮捕から17年目にして無罪確定したという案件。被告人は冤罪犠牲者としてマスコミの注目を浴びますが、その5年後に女児殺人未遂で逮捕され、更に被告人の住む団地1階の庭から成人女性の頭部が見つかり、部屋の冷蔵庫から女性の身体の一部が出て、駐車場からは首なし焼死体が発見され、この猟奇事件の犯人として無期懲役が確定しています。
 一事不再理の原則により、「首都圏連続女性殺人事件」を無罪とした東京高裁判決が正しかったかどうかは永遠の闇へと追いやられてしまうのですが、17年間裁判で争ってきた被告人の弁護人自身が、著者のインタビューに答えて、無罪判決は客観的に見れば誤判であったと言わざるを得ないと述懐しています。

 下された判決に過ちがあったのではないか―死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重く、実際いずれも考えさせられる判決ですが、個人的には、3番目の事件で著者が、「疑わしきは罰せず」は良くも悪しくも「灰色無罪」という考え方に通じるもので、必ずしも真っ白だから無罪というわけではなく、そのあたり「疑わしきは罰せず」と無実とは区別すべきであるとしているのが印象に残りました(この事件の高裁裁判官は、"消極無罪"で対応すべきところを、被告の17年間の拘留を労うなど"積極無罪"と取れる発言をしたとのこと。まあ、裁判官の心証としても"真っ白"だったんだろなあ)。

青春の殺人者 チラシ.jpg 論理の枠組みがしっかりしているだけでなく、文章も上手。2番目の「千葉・市原の両親殺し事件」については、事件の時代背景を描き出すのと併せて、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」('76年)について思い入れを込めて描写していますが(著者は1959年生まれとのこと)、一方で、この映画により「青春の殺人者」のイメージの方が事件の裁判よりも先行して定着してしまったとするとともに、事件―原作―映画の3つの違いを整理しています。

 それによると、事件は市川市で起きたわけですが、この事件から着想を得た中上健次は舞台を自らの故郷に置き換え、リアリティとは無関係にひたすら感覚的に自身に引き寄せて、「路地」(被差別部落)の一面を切り取ったような情念の物語にしていると。実際の原の両親殺し事件の犯人は、千葉県屈指の進学校を卒業した若者で、大学受援に失敗して父親の出資でドライブインをやっていましたが、水準以上の知能の都会的青年だったとのことです。

青春の殺人者01.jpg 一方、実際に事件を取材した長谷川和彦監督は、事件と同じく舞台を都市近郊に戻し、その他の部分でも警察発表等に沿って事件の背景や経過をなぞるとともに、主役にTVドラマ「傷だらけの天使」で本格デビューして人気の出た水谷豊(当時22歳で事件の被告とほぼ同年齢)を起用することで、原作の土着的ムードを払拭するなど、より実際の事件に引き付けて映画を撮っているようです(タイトルバックでは「原作:中上健次『蛇淫』より」となっていたと思う)。

青春の殺人者031.jpg 著者によれば、映画と実際の事件で大きく違うところは、主人公が父親に交際を反対された相手女性(原田美枝子(当時17歳)が演じた)が主人公の幼馴染みになっている点と(実際は風俗嬢であり内縁の夫がいた)、事件では本人が裁判で冤罪を主張した点であるとのことで、映画は主人公が「殺人者」であることが前提となっているため、今の時代であれば人権侵害で問題になっているだろうと(一審死刑判決が出たのは事件の10年後で、裁判中は推定無罪の原則の適用となるため)。実際、裁判で被告は、この映画のイメージの世間への影響について言及し、自分は「青春の殺人者」ではないという訴え方をしたようです。

青春の殺人者21.jpg この「青春の殺人者」については、個人的にはやはりどろっとした感じで馴染みにくさがありましたが、今また観ると、長谷川和彦監の演出はいかにも70年代という感じで、むしろノスタルジー効果を醸し、主人公である息子が父親を殺したことを知って、どうやっ青春の殺人者 原田美枝子1.jpgて死体を隠そうかオタオタするうちに、それを見かねた主人公に殺されてしまう母親役(映画では近親相姦的に描かれている)の市原悦子(1936-2019/享年82)の演技が秀逸、そもそも出ている役者がそう多くはないけれど、主役の若い2人を除いて、脇は皆上手い人ばかりだったなあと。水谷豊には「バンパイヤ」('68-'69年)など子役時代もあったはずだが、この作品での演技は今一つ(滑舌はいいが、良すぎて演劇っぽい)、撮影時17歳の原田美枝子は、この時点では演技力よりボディか(しかしながら、水谷豊、原田美枝子ともそれぞれキネマ旬報の主演男優賞・主演女優賞を受賞している)。

長谷川和彦.jpg 長谷川和彦監督(当時30歳)は、この監督デビュー作で'76年の「キネマ旬報ベスト・テン」日本映画ベスト・ワンに輝いていますが、そもそもピンク映画のようなものも含めたシナリオ書きだった彼のところへ、自身の監督作を撮らないかと持ちかけたのはATGの方で、最初はそんなお堅い映画は撮れませんと断ったところを、好きに撮っていいからとプロデューサーに口説かれて撮ったのがこの作品だったとか。

 この人も東大中退のインテリなのですが(アメリカンフットボール部の主将だった)、この作品の後「太陽を盗んだ男」('79年/東宝)を撮っただけで、それから監督作が全く無いというのはどうしたんだろなあ。「青春の殺人者」がキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた際に、長谷川和彦監督自身は「他にいい作品がなかったからでしょう。1位、2位、3位、4位なしの5番目の1位でしょう。そう思っています」と言っており、この謙虚さは、これからもっとすごい作品をばんばん撮るぞという意欲の裏返しだと思ったのだが...。

「青春の殺人者」図2.jpg青春の殺人者(長谷川和彦).jpg「青春の殺人者」●制作年:1976年●監督:長谷川和彦●製作:今村昌平/大塚和●脚本:田村孟●撮影:鈴木達夫●音楽:ゴダイゴ●原作:中上健次●時間:132分●出演:水谷豊/内田良平/市原悦子/原田美枝子/白川和子/江藤潤/桃井かおり/地井武男/高山千草/三戸部スエ●公開:1976/10●配給:ATG(評価:★★★☆)
「青春の殺人者」p図2.jpg

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「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえた良書。

死刑と正義 (講談社現代新書).jpg  『死刑と正義 (講談社現代新書)』['12年] 森 炎.png 森 炎 氏(略歴下記)

 極刑である「死刑」とは一体どのような基準で決まるかを元裁判官が考察した本で、近年の法廷では、凶悪事件において極刑でやむを得ないかどうかを判断する際に、「永山基準」というものが、裁判官だけでなく検察も弁護側も含め援用されていることは一般にも知られるところですが、この「永山基準」というのは、①犯罪の性質、②動機、計画性など、③犯行態様、執拗さ・残虐性など、④結果の重大さ、特に殺害被害者数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、犯行時に未成年など、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目を考慮することだそうです。

 本書によれば、裁判員制度が始まる前の最近10年間(1999-2008)の死刑求刑刑事事件における死刑判決率は、「三人以上殺害」の場合は94%、「二人殺害」の場合は73%、「一人殺害」の場合は0.2%で(ここまでは、殺害被害者数が圧倒的な決め手になっていることが窺える)、「二人殺害」について更に見ると、金銭的目的がある場合は82%、金銭的目的が無い場合は52%であるそうですが、著者は、そもそも「永山基準」のような形式論理から「死刑」という結論を導き出して良いものか、という疑問を、共同体原理における正義とは何かといったような死刑制度の根源的(哲学的・道徳倫理学的・社会学的...etc.)意味合いを考察しつつ、読者に投げかけています。

 著者は死刑の意義(価値)を条件付きで肯定しているものの、価値化された死刑の議論を進めるにあたっては、その中に空間の差異というものがあるはずだとし、これを「死刑空間」と呼んで、①「市民生活と極限的犯罪の融合」(ある日、突然、家族が殺されたら)、②「大量殺人と社会的防衛」(秋葉原通り魔事件は死刑で終わりか)、③「永劫回帰する犯罪傾向」(殺人の前刑を終えてまた殺人をくりかえしたら)、④「閉じられた空間の重罪」(親族間や知人間の殺人に社会はどう対処すべきか)、⑤「金銭目的と犯行計画性の秩序」(身代金目的誘拐殺人は特別か)という5つの観点から、実際の凶悪事件とその裁判例を挙げて、人命の価値以外にどのような価値が加わったとき、死刑かそうではないかが分かれるかを示しています。

 しかし、その結論を導くには、これら5つの「死刑空間」ごとの事件の差異を見るだけでは十分ではなく、更に、「変形する死刑空間」として、A「被告人の恵まれない環境」、B「心の問題、心の闇と死刑」、C「少年という免罪符」、D「死刑の功利主義」という5つの視点を提起しています。

 5つの「死刑空間」はそれら同士で重なり合ったりすることもあり、更に、AからDの視点とも結びつくことがある―しかも、単に強弱・濃淡の問題ではなく、それぞれがそこに価値観が入り込む問題であるという、こうした複雑な位相の中で、死刑とすべき客観的要素を公正に導き出すことは、極めて困難であるように思いました(本書には、これまでの死刑判決の根拠の脆弱さや矛盾を解き明かし、最高裁判決を批判的に捉えている箇所もあったりする)。

 著者はこうした考察を通して、詰まるところ死刑の超越論的根拠はないとしていますが(多くの哲学者や思想家の名前が出てくるが、著者の考えに最も近いのはニーチェかも)、本書は、死刑廃止か死刑存置かということを超えて、そのことには敢えて踏み込まず、現実に死刑制度というものがあり、死刑は「正義」であり「善」であるという価値判断が成り立っているという前提のもと(但し、そこには"力の感情"が含まれているとしている)、今、従来は司法の権限であった「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえつつ本書を著していて、良質の啓蒙書とも言えます。

 裁判員制度がスタートして3年以上が経ち、この間、死刑判決は若干の増加傾向にあるようですが、犯罪及び死刑にこれだけの複雑な位相があるとすれば裁判官が悩むのは無理もなく、一方、市民裁判官である裁判員が、どこまでこの本に書かれているようなことを考察し、なおかつ、裁判官が提示する判断材料にただ従うのではなく、自らの価値判断を成し得るか、そもそも、裁判官がそれだけの「判断材料」を公正に裁判員に示しているのか、疑問も残るところです。

 最近、玉石混淆気味の講談社現代新書ですが、これは「玉」の部類の本。

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森炎(もり・ほのお) 
1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

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特殊な障害を持つ人に対する社会的フォローや更正の在り方について考えさえられた。

死刑でいいです .jpg死刑でいいです.jpg  山地悠紀夫.jpg 山地悠紀夫 元死刑囚
死刑でいいです- 孤立が生んだ二つの殺人』['09年]

 '00年に16歳で自分の母親を殺害し、少年院を出た後、'05年に面識のない27歳と19歳の姉妹を刺殺、取り調べや公判で「死刑でいい」と語って、'09年7月に25歳で死刑が執行された山地悠紀夫の、2つの殺人事件とその人生を追ったルポルタージュで、編著者は共同通信大阪社会部の記者。べースになっているのは、ブロック紙・地方紙に連載された特集記事で、'09年1月に「新聞労連ジャーナリズム大賞」の第3回「疋田桂一郎賞」を受賞していますが、単行本に編纂中に、山地の死刑が執行されたことになります。

 山地は少年院で広汎性発達障害のひとつである「アスペルガー症候群」と診断されていて、著者は、発達障害と犯罪とが直接結びつく訳ではないとしつつも、障害が孤立につながるリスク要因の1つであると考えおり、山地の場合、障害に加えて、悲惨な家庭環境や少年院を出てからの社会的支援の無さなどが重なり、そうした状況が彼を追い詰めたのではないかとしているようです。

 実際の公判では、広汎性発達障害ではなく「人格障害」であるとの精神鑑定が採用され、死刑判決が下ったわけですが、連載時のタイトルが「『反省』がわからない」というものであることからしても、他人に共感するといったことが困難なアスペルガー症候群の特徴が、山地に強く備わっていたことを窺わせるものとなっています。

 こうした見方は、単に著者の独断によるものではなく、事件に関わった或いは同じような事件を扱ったことがある鑑定医や弁護士など専門家を取材しており、また、山地の人生がどのようなものであったかについては、担任教諭、友人、弁護士、少年院の仲間、更には、少年院を出た後にその世界に入ったゴト師にまで及んでいて、一方で、被害者の遺族・関係者にも取材していて、山地の罪や被害者の感情を決してを軽んじるものとはなっていません。

 その上で本書を読んで思うのは、やはり山地の心の闇が解明されないままに彼の刑が執行されたように思われ、その事が残念な気がしました(山地自身にしてみれば、「刑死」という形の「自殺」だったのかも知れないが)。
 元家裁調査官の藤川洋子氏が、発達障害の傾向を踏まえたうえで、「反省なき更正」型矯正教育を提唱しているのが強く印象に残りました。

 藤川氏のみならず、カウンセラーや精神科医、弁護士など専門家に対する、新聞連載を読んだうえでの感想を聞いたインタビューは、かなり突っ込んだものになっていて、そこからは、死刑制度の在り方と併せて本書が提起しているもう1つの課題である、少年院から社会に出た後の社会福祉的フォローの問題が浮き彫りにされています。

 本書では、発達障害に対する偏見を除くために、そうした障害を持つ人達の支援グループの活動が紹介されていますが、山地のことを、理解しがたい特殊な犯罪者として社会的排除の対象とした事件当時のマスコミや世論の論調にも問題はあったのでしょう。
 しかし、2つの殺人事件を犯す前に、山地自身がそれぞれ発していたSOSを、十分に理解し受け止めることができなかった社会の在り方の方が、問題の根深さという意味では最も深刻なのかも知れないと思いました。

 【2013年文庫化[新潮文庫]】

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死刑の実態だけなく、被害者遺族、元裁判官などを広く取材。考えさえられる点が多かった。

死刑 読売新聞社会部.jpg 『死刑』 ['09年]

  '08年から'09年に読売新聞社会面に4部構成で連載された特集「死刑」に加筆して纏めたもので、第1章では、死刑囚に対する刑の執行がどのように行われるかが、第2章では、たとえ加害者が死刑に処せられても癒されることのない被害遺族の思いが、第3章では、死刑を選択した元裁判官の判断の重さと彼らにかかる心理的重圧が描かれ、最後の第4章では、今後の死刑制度のあり方を諸外国との制度比較の中で模索しています。

 本書自体は、死刑廃止を訴えているわけでも存置論を唱えているわけでもなく、死刑制度の関係者の声を広く集め(延べ約380人を取材)、それを読者の前に投げかけるというスタイルをとっていますが、取り上げられているケースの1つ1つは、簡潔ながらも何れも重いものでした。

 これまで自分が読んだ死刑制度に関する本の多くが、"知られざる"処刑の現実を描いて、「国家」が人の命を奪うことの意味を問う傾向にありましたが、本書も第1章では、"死刑の変遷と現実"を追うと共に、様々な死刑囚や苦悩する刑務官の姿などを取材しています。

 この中では、執行当日の朝になって告知することが、本当に死刑囚の苦しみを減じることになっているのかという問題提起が考えさせられました(昔は、拘置所の取り計らいで数日前に告知し、死刑囚同士の"お別れ会"のようなこともあったという)。

読売新聞連載「死刑」 第2部・かえらぬ命・(5)より.jpg 本書の特徴的な点は、類書が、被害者遺族の感情については事件ごとの付随的な記述に止まる傾向がある中で、第2章「かえらぬ命」で、被害者遺族を綿密に取材し、その声を数多く集めていることでしょう。

2008年12月16日付 読売新聞朝刊

 その中にある、「死刑が執行されて10年経っても、犯人が許せない。犯人は死刑になったら終わりだが、私たちは死ぬまで事件を引きずって生きていく。無期懲役にされたようなものだ」という言葉は重く、加害者がまだ生きていると思うだけでやるせない憤りを覚えるというのが大方の被害者遺族の感情である一方で、加害者に死刑が執行されたことによって被害者遺族が何か達成感のようなものを得たかというと、必ずしもそうではないことが窺えます。

 中には、加害者を極刑に処することを望まず、生きて償って欲しいと思っている遺族もいて、親兄弟を殺された場合と我が子を殺された場合、或いは、事件直後と時間が経過してからなどにおいて、遺族感情にはかなり幅があるように思えました。

 加害者からの謝罪の手紙の封を切ることさえしない遺族が多い一方で、そうした手紙を読んだことを契機に、加害者に会って直接の謝罪の言葉を聞きたいと考えるようになり、刑が確定しても、希望する遺族には加害者と会える仕組みを作るべきだと思うようになったという遺族の言葉には考えさせられました。

 日本の場合、被害者と加害者の接見及び確定囚との接見は許されていませんが、死刑囚の男性と若い女性の交流を描いた韓国の作家・孔枝泳(コン・ジヨン)『私たち幸せな時間』(蓮池薫:訳/'07年/新潮社)には、そうした場面が出てきます(小説の主人公は処刑されるが、韓国では'98年以降は執行が停止されている)。

 第3章では、これまで守秘異義務上、殆ど取り上げられることのなかった、死刑判決を言い渡した裁判官の心情が取材されていて、これも貴重な証言集だと思いました。

 この中で、名古屋で姉妹が6人の犯行グループに拉致され、生きたまま焼き殺された「ドラム缶殺人事件」(2000年4月(平成12年)事件発生)で、主犯格の2人に死刑判決を下した名古屋高裁の裁判長の証言が出てきますが(共に最高裁で死刑が確定し'09年1月執行)、犯人グループ内での力関係を疑問の残らないところまで調べ上げるため、一審(死刑判決)より更に踏み込んで精査したことが書かれています。

 一方で、今日('10年2月16日)の朝日新聞社会面の特集「死刑と無期の境」では、この事件の死刑囚の1人を取り上げ、カトリックの洗礼を受け、本人は刑を受け入れる覚悟はしていたものの、「命令されてやったことを裁判長に分かってもらえれば無期懲役にできたのではないか」という担当弁護士の後悔のコメントが紹介されています。

 隠されている部分が多いだけに、どういった取材記事に触れるかによって、事件や死刑囚に対するイメージがかなり異なってくる面もあるように思いました。

【2013年文庫化[中公文庫(『死刑 - 究極の罰の真実』)]】

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死刑廃止論者に転じた弁護士作家の省察。社会契約としての死刑制度とその適正運用の困難さを考えさせられた。

『極刑―死刑をめぐる一法律家の思索』.jpg極刑 死刑をめぐる一法律家の思索.jpg  Ultimate Punishment1.jpg  Scott Turow.jpg Scott Turow
極刑 死刑をめぐる一法律家の思索』['05年] "Ultimate Punishment: A Lawyers Reflections on Dealing With the Death Penalty" ['04年/ペーパーバック版]

無罪 二宮馨訳.jpg推定無罪 上.jpg '90年代の米国のサスペンス小説界で最も人気を得た作家と言えば、弁護士出身のジョン・グリシャムで、『評決のとき』『法律事務所』『ペリカン文書』などのリーガル・サスペンスは映画化作品としても知られていますが、同じ弁護士出身のベストセラー作家でも、弁護士としての実績では、『推定無罪』『立証責任』『無罪 INNOCENT』などの著者であり、また本書(原題:Ultimate Punishment: A Lawyer's Reflections on Dealing With the Death Penalty )の著者でもあるスコット・トゥロー(Scott Turow)の方が上のようです。

 2005年原著刊行の本書にも取り上げられている、トゥローが作家活動をしながら手掛けた2件の事件の内1つは、死刑囚の冤罪を立証して無罪に導いたもので(この事件をベースに『死刑判決』というリーガル・サスペンスを書いている)、もう1つは、一旦は死刑が確定した被告について、量刑の不均衡を訴え再審に持ち込み、懲役刑に減刑したというもの―まさに「やり手」と言うしかありません。

 本書はトゥローが、当初は、死刑制度に敢えて反対はしないものの、死刑制度が必要であるとも明言しかねるという曖昧な態度であったものが、次第と死刑廃止論に傾いていく過程を、上記2つの事件を巡る経験や、イリノイ州の「死刑査問委員会」のメンバーに指名されてからの見聞と考察を交えて記したもの。

 日本の死刑反対論者が書いたものに比べると、「正義はきちんと行われているか」「量刑に不均衡はないか」ということにウェイトが置かれているように思われ、これは「犯罪大国」であり「死刑大国」であるアメリカであるからこそ、より問題視されるのでしょう(特にイリノイ州では数多くの冤罪や量刑不当があった)。要するに著者は、その点に確信が持てないことから、死刑廃止論者になっていったことが窺えます。

 本書に幾つかその例が出てくるように、アメリカでは、何十人もの人間を残忍な方法で殺害した殺人鬼のような犯罪者が時折現われますが、そうした矯正不能と思われる人間を処刑せずに生かしておくことになっても、「無辜の民を殺してしまう誤り」を選ぶぐらいならば、「生かしておく誤り」の方を選ぶと。

 一方で、死刑から懲役刑に減刑された囚人の改心が目覚しいものであったことを例にあげ、罪者の改心の可能性を奪ってしまうことになる死刑制度には反対であるという論じ方もしていて、この点は、日本の一部の死刑反対論者の論と通じる処があります。

 但し、アメリカは州によって死刑制度があったり無かったりし、またイリノイ州のように制度があっても執行が停止された州などもあるわけで、そうなると大量殺人を犯しても生かされている犯罪者もいれば、偶発的な殺人で死刑に処せられた犯罪者もいたりし、この辺りの矛盾については、著者自身が州内での量刑不均衡の次に考えなければならない問題なのでしょう。翻訳者も解説において、9.11同時多発テロ以降の当局の司法審査を経ない長期の身柄拘束への批判がされていないことなどへの不満を漏らしています。

 個人的には、ケーススタディとして考えさせられる部分はあり、遺族の報復・仕返しの観点から死刑を選択するのではなく、それは副次的に考えられなければならないとする論などには頷かされる面もありましたが、犯罪や司法などのそもそものバックグラウンドが日本とは違う面もあるとの印象も受けました。

 しかしながら、死刑制度は極めて安定した秩序に依存するのであり、死刑制度存置派の人たちは、死刑があるから秩序が落ち着いていると考えるが、これは事実と異なるというトゥロー自身の主張には、頷かされるものがありました。

 つまり、これまで死刑の犯罪抑止効果を学問的に支持してきたのは、「社会的選択は、報償物に応じて合理的に意思決定する人々による行為である」と信じる自由主義市場経済学者らが中心だったとし、彼らの考え方によれば、合理的な意思決定が出来れば、人は自分を死に至らしめる危機に追い込むような選択はしないだろうから(人を殺せば死刑になるのは分かっているのだから)、合理的選択は死刑を回避する道を選ぶ-これが、彼らの理屈であるとし、その論理からすれば死刑になる人は少なくなり、やがていなくなって死刑制度の存在も無意味になるが、人間の行動は自由主義経済学者らが考えるほど合理的でも単純でもないとしています(つまり、"割に合わない"犯罪行為を犯す人が後を絶たないということ)。

 トゥローによれば、死刑制度が在るアメリカの一部の州や日本は、むしろ極めて安定した秩序の内部から生じる安全意識から死刑制度があるのであって、そこには、自分を含め誰でも被害者になり得るという不安意識は強化されているが、自分が加害者になるもしれないという意識は薄められている、つまり、全ての人は死刑を安全のため、防衛のため、公平な復讐のための利益であるとしか見ないが、死刑制度とは本来は、「もし私が他人の生命を侵した時は、私の生命が奪われることに同意します」という宣言であると-(その自覚が極刑の必要を叫ぶ人に必ずしもあるかどうかは疑問があるということか)。

 トゥローは、こうした「社会契約」としての死刑制度を念頭に置きつつ、「今後も常に極刑の必要性を求めて叫ぶケースが現れることだろう。しかしそれは本当の問題ではないのだ。それに代わる重要な問題とは、無実の者や死刑に値しない者に刑を適用してしまうことなく、非常にまれな死刑にふさわしいケースを適正に取り扱う司法制度を構築することが可能かどうか、ということである」として、死刑不要論を説いているわけです。

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死刑制度の入門書(立場的には反対派)。現在に続く執行逓増の潮流を予見的に捉えていた。
なぜ「死刑」は隠されるのか?.jpg なぜ「死刑」は隠されるのか2.jpg
なぜ「死刑」は隠されるのか? (宝島新書)』 ['01年]

 本書を読んだのは'01年刊行後の間もない頃ですが、この本に引用されている、連続企業爆破事件の死刑確定囚・大道寺将司の手記(「キタコブシ」'96.10.31)にある"獄中の隣人"で、北関東での幼女誘拐殺害事件で「一審・二審とも無期判決」を受けながらも冤罪を訴え続けている人というのは、菅家利和氏ではないでしょうか。

冤罪.jpg 「足利幼女殺害事件」で殺人罪に問われ無期懲役刑として17年半服役した(逮捕から数えると19年)後に、今回の再審請求(過去には棄却され続けた)でDNA鑑定が誤りだった可能性が高いとして、今年('09年)6月に釈放された人です。

 大道寺死刑囚は彼のことを、警察官や検察官から「お前が殺したんだろう」と決めつけられたら反論できないくらい気が小さくて、自己主張するような人ではない上に、「以前、ぼくは彼をかなりの難聴者だと思ったことがあります。というのは、看守や雑役囚が彼に話しかける時、一度では済まず、必ず二度三度、同じことを繰り返すからです」と書いていて、それほど耳が遠くて弁護士との意思疎通が問題なく行われたかどうかにも疑念を呈しています。

冤罪 ある日、私は犯人にされた』 ['09年]

 う〜ん、最初読んだ時は、"蓋然性"の問題としてしか捉えていなかったけれど、ホントに冤罪だったわけで、今改めて読むと恐ろしい、これは最大の人権侵害だなあと。これが死刑囚で執行済みだったら大変なことになっていたと(20年近くも拘留したことでさえ、取り返しのつかないことだが)。

 本書は朝日新聞の記者が長年の取材をもとに死刑制度について書いたもので、死刑制度の入門書として読め、但し、著者は「死刑廃止運動のために執筆したものではない」としているものの、死刑制度には反対の立場であることは、本書の内容から窺えます。

 "解説的な部分"とは別に、「被害者感情」のみを極大化し、応報主義、厳罰主義を唱えるマスコミや、それに踊らされる世間が、実質的に「死刑制度」を支えているというのが"主張部分"のポイントで、そもそも殺人事件の場合は被害者は亡くなっているわけで、「被害者遺族感情」を問題にすべきだが、その被害者遺族の感情というのは多様で、また、時間の経過とともに変化する場合もあることを例証しています(この部分は考えさせられた)。

 「被害者の人権」=「加害者の処罰」にはならないはずだと言うのは理解でき、「被害者感情」の増幅が死刑制度の矛盾点を見えにくくさせているというのは確かだと思いますが、著者は別のところでの発言の一部が「被害者には人権は無い」と言っていると字義通りにとられてバッシングに遭っており、もう少し、上手に持論を展開できなかったものかと。

 著者の論には様々な意見もあるかと思うし、表題の「なぜ隠されているのか?」ということに本書が必ずしも充分に応えているようには思えませんが、本書で着目している、90年代前半の3年間続いた執行ゼロ状態から、後藤田正晴が法務大臣になってからの執行の復活と年2回の複数執行は、現在に続く執行逓増の潮流を予見的に捉えていたように思われます。

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死刑と無期の間に終身刑があるのか? 新たな知識と様々な示唆に富む1冊。

終身刑の死角.jpg 『終身刑の死角 (新書y)』 ['09年]

 本書は、'08年5月に「量刑制度を考える超党派の会」(最高顧問:森喜朗、会長:加藤紘一、副会長:鳩山由紀夫/亀井静香/古賀誠/中川秀直/浜四津敏子)が発足し、「終身刑」の導入を法案化しようとする動きがあるのに対し、終身刑の導入に反対の立場をとる法社会学者が緊急執筆したもの。

 急遽の執筆とは言え、かっちりした内容で、第1章で凶悪犯罪の実態を(犯罪は増加も凶悪化もしていない)、第2章で日本の刑務所の基本姿勢(「なるべく入れない、できるだけ早く出す」)を、第3章で日本の死刑制度がどのように運用されてきたかを、第4章で無期刑囚の実態や仮釈放制度の運用状況などを解説し、前半3分の2をそれらに費やしたうえで、「仮釈放なしの終身刑」が抱える矛盾点を指摘し、持論を展開していますが、お陰で、死刑囚は刑務所ではなく拘置所に入れられるという基本的なことも含め、初めて知ったことが多かったです。

 第1章では、(これは前著『日本の殺人』('09年/ちくま新書)でも指摘されていたが)凶悪犯罪が、世間のイメージとは逆に、実は減少化傾向にあること併せて、犯罪の稚拙化を指摘しているのが興味深かったです(ひったくり犯罪は、鮮やかに遂行されれば窃盗だが、相手をケガさせてしまうと、強盗致傷になると)。

 第2章では、警察から検察庁への送検数は年間220万件もあるものの、このうち起訴されるのは14万件で、執行猶予なしの実刑判決により刑務所に入るのは3万人しかおらず、しかも、初めて入所するのはその半数、さらに、その半数が執行猶予中の再犯者で、純粋な初犯ではないという事実にへーっと。
 アメリカでは日本の60倍の200万人が刑務所に入っているとのことで、国土面積の違いもありますが、まず、経費が、受刑者1人当たり300万円かかり、長期刑になると1人1億円以上かかるというのが、「なるべく入れない、できるだけ早く出す」理由の1つであるようです。

 第3章では、死刑の執行の実態や何人殺したら死刑になるのかといったことが書かれていて、死刑に犯罪抑止効果はないとしつつ、「執行も含めて、ごく少数の死刑が存在する」という制度適用が望ましいと、死刑制度の存置意義は認めています。

 第4章では、無期囚の受刑生活を解説する一方、仮釈放は激減し、年間数人しかいないことから長期入所の無期刑囚が増え、刑務所が"福祉施設"化し、受刑者の死を看取るのが刑務官の仕事の1つになってしまっていると。
 死刑を免れて無期になった受刑者が獄中自殺したケースも紹介されていて、死刑と「仮釈放なしの終身刑」はどちらが厳しいなのか、簡単には結論が出せないともしています。

 そうしたことを踏まえて、「仮釈放なしの終身刑」というものを導入しようとしている政治家たちが、どれだけ刑務所や受刑者の実態を解ってそれを言っているのか、また、裁判員制度で死刑を回避する傾向が予測される、その受け皿として終身刑を設けることの非合理を指摘しています。

 著者は犯罪学が専門でもあり、「仮釈放なしの終身刑」が導入された場合、受刑者の更正やその扱いが非常に難しいものとなることを、「生きがい」や「目的」を失った受刑者心理の側面からも考察しており、また、刑務所内の秩序維持のためにそうした受刑者を厚遇するとなると、今度は、死刑に次ぐ重い刑罰のはずだったものが、実態は乖離したものになることも危惧されると。

 刑罰とは何かということを、被害者心理の多様性、時間的変化も含めて、或いは、伝統的な日本社会との関係性においても考察しており、心理的考察が入る分、個人的には100%著者の意見に賛成というわけではないですが、様々な示唆に富む1冊でした。

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「死刑の現場」からのドキュメント。「制度を残し、執行させない努力を刑務官は全身全霊をもって行う」と。

元刑務官が明かす死刑はいかに執行されるか.jpg  元刑務官が明かす死刑のすべて.jpg
元刑務官が明かす死刑はいかに執行されるか―実録 死刑囚の処遇から処刑まで』['03年]/『元刑務官が明かす死刑のすべて』 ['06年](文庫化本)

 '94年退職するまでの27年間、全国8ヵ所の刑務所に勤務し、死刑執行現場にも立ち会ったことのある元刑務官による、刑務所と刑務官の仕事の様子、死刑囚監房とそこに住まう死刑囚の処遇その他置かれている状況の実態、さらに処刑の実際について書かれたドキュメント。

 前半部分を読むと、八方塞がりの状況にある死刑囚の心理状況と併せて、中には気の毒とも思える死刑囚もいることが書かれていて、死刑制度というものが犯罪者の贖罪意識と必ずしも結びついていないことや、裁判そのものに対する著者の疑念のようなものが伝わってきます。

 著者は死刑制度に反対なのかと思わされますが、一方で、中盤に挿入された長めのノンフィクション・ノベル『死刑囚監房物語』では、刑務官を顎でこき使うような倣岸な男性死刑囚や、犯した罪を悔いる様子もなく、ところが審理においてはうって変わって神妙ぶった演技してみせる女性未決囚などが登場し、そうした囚人に対する著者の苦々しい思いも伝わってきます。

 このノンフィクション・ノベルのパートにおいては、そうした様々な刑務所内の腐敗も描かれていますが、刑務所長や刑務官の間での出世を巡る利害の対立や人事抗争なども描かれていて、ちょっと「企業小説」風になり過ぎた感じもし、全てモデルがいて実際にあったことをベースに書いたとのことで、小説形式にせざるを得なかったのは分かりますが、ややテーマずれしたというか、テーマが拡散した感じも。

 とは言え、本書全体からは、「死刑の現場」を知らずに死刑の是非を論じる学者や人権団体に対する憤り、国民はもっとその「現場」に思いを馳せるべきだとの主張が伝わってきて、では、結局、著者自身はどう考えているのかというと、矯正職員としての著者の先輩にあたる大学教授の「死刑制度は人類と獣類とを区別するレフリー、分岐点」として存在すべきで、「人類自身の戒めとして、錘しとして、法として掲げつづけて置くことが、人類の叡智であり、見識であり、人間の尊厳と考える」との「制度必要論」を強く支持しながらも、「死刑制度は存続させ、処刑の反対」を訴えています。

 死刑囚を更正させるのが仕事、しかし、更正した死刑囚の首に縄を架けるのも仕事、その矛盾に悩みつつ、終身刑という制度が出来ると、今度は裁判官は終身刑を乱発し、刑務所はパンク状態になるだろうとして反対しています。

終身刑の死角.jpg 終身刑を設けなくとも、無期懲役という刑の運用の仕方で、終身刑の機能は果たせると(本書によれば、毎年100人以上の高齢受刑者が獄中で病死しているとのこと)。
 『日本の殺人』('09年/ちくま新書)の著者・河合幹雄氏によれば、'07年に無期刑囚で仮釈放が認められたのは30年服役の1人だけで、獄中に1600人の無期囚がいるとのことです(『終身刑の死角』('09年/洋泉社新書y))。

 「制度を残し、執行させない努力を刑務官は全身全霊をもって行うのである。島秋人さんのような死刑囚なら社会も喜んで受け入れてくれるだろう。終身刑がない日本の制度は素晴らしいのだ」と。

 その、「心から被害者と遺族に謝罪し、赦されて天国に行った」と言われている死刑囚の1人、島秋人の歌集から―。
 
 無期なれば今の君なしと弁護士の 言葉憶いつつ冬陽浴びをり

 【2006年文庫化[文春文庫(『元刑務官が明かす死刑のすべて』)]】

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オウム一本でいった方が纏まりがあったかも。執行の基準も国民に開示すべきではないか。

私が見た21の死刑判決.jpg 『私が見た21の死刑判決 (文春新書)』 ['09年]

 「21の死刑判決」と言っても、それは著者が今まで見てきた死刑判決の数であって、本書で触れているのはその全てではないです。第2章で池袋通り魔事件、光市母子殺害事件、畠山鈴香事件の3つに触れてはいるものの、全体としては殆どがオウム真理教事件についてであり(この事件だけでも13名に死刑判決が下されているのだが)、その他の"有名事件"も合間または終章に織り込まれていますが、それらについては新聞報道などから拾ってきていると思われるものもあります。

 オウム事件については、林郁夫のような無期懲役の例についての記述もあり、またこの事件は他の事件と性格を異にするところも大であるため、いっそのこと、オウム事件一本でいった方が纏まりがあったかも。

光市母子殺人事件.jpg 纏まりと言えば、著者自身が傍聴して感じたことや判決への憶測、それが下された後の印象などが書かれてはいるものの(光市母子殺害事件の弁護士に対しては、「忌憚のないところをいえば、この弁護士たちが少年を殺したに等しいと思っており、"人権派"に名を借りた"死に神""と呼びたくなる」と明言している)、全体としての死刑制度に対する考え方が見えてこないため、そうした意味でも、やや纏まりがないかなあと思ったりもしました。

 但し、オウム事件でのそれぞれの被告の審理の様子と下された判決を通して、無期懲役と死刑の分かれ目となったのは何かを考察し、また、そうした量刑に対して時に疑問を挟んだりしている(「投げかけている」というレベルだが)のには、読む側としても考えさせられる部分がありました(被告側からすれば、裁判官の当たり外れがある、ということではないかとか)。

 更に、裁判で証人に立った被害者遺族の証言がリアルに描写されていて、それらが心に響くと共に、それがまた裁判官の心証に影響を及ぼしているのではないかと思われるフシもあるように思えました。
 しかも、遺族個々に、その思いの表出方法が異なるのが本書ではよく分かり、林郁夫の公判でみられたように、被告に極刑を望まない遺族もいたし...。
 一方で、林泰男のように、「被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」と裁判官からさえも同情されながらも、死刑判決だった被告もいたわけですが(彼については、警察関係者から、大変な母親思いの性格だと聞かされたことがある)。

 本書では死刑と無期の分かれ目に焦点が当てられていますが、このオウム裁判で思うのは、死刑囚に死刑が本当に執行されるのかということです(されればいいと積極的に思っているわけではない)。
 70年代の「連合赤軍事件」や「連続企業爆破事件」の死刑囚は、'09年現在いまだに1人も刑の執行はされておらず、この両事件は、「思想的確信犯」的事件の要素があることと、犯行後に逃走し(或いは海外逃亡し)捕まっていないメンバーがいるということで共通していて、オウム事件にもこのことがほぼ当て嵌まります。
 強盗殺人などを犯した死刑囚は、近年、刑が確定してから執行までの期間が短くなっているようですが、刑の執行の基準を国民に開示すべきではないかなあ。

(●オウム真理教事件の死刑囚については、1996年から16年にわたって逃亡中であった平田信、高橋克也、菊地直子が2012年に逮捕され、2018年1月の高橋克也の無期懲役確定によりオウム事件の刑事裁判は終結、確定死刑囚13名のうち、2018年7月6日に7名、同月26日に6名の刑が執行された。)

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宮﨑勤、小林薫、宅間守の心の闇に迫るとともに、審理の在り方や死刑制度への疑念を呈す。

ドキュメント死刑囚.jpg ドキュメント死刑囚2.jpg  篠田 博之.jpg 篠田博之 氏(月刊「創」編集長)
ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)』['08年]

 幼女連続殺害事件の宮﨑勤元死刑囚、 奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(2013年2月21日、大阪拘置所で死刑執行)、大阪教育大学附属池田小学校襲撃事件の宅間守元死刑囚の3人にほぼ的を絞った取材であり、しかも、宮﨑勤、小林薫とは、著者は手紙の遣り取りがあっただけに、彼らにとって死とは何なのか、その凶行は特殊な人間の特殊な犯罪だったのか、極刑をもって犯罪者を裁くとはどういうことなのか

 読み進むうちに、それぞれの事件や本人の性格の共通点(例えば3人とも激しく父親を憎悪していた)、相違点が浮き彫りにされてきますが、著者自身、彼らの「心の闇」が解明されたとは考えておらず、むしろ、宅間守にしても宮﨑勤にしても、そいうものが明かされないまま刑が執行されてしまったことへの慙愧の念と、こうしたやり方が果たして同タイプの犯罪の抑止効果に繋がるのかという疑念が、彼らの犯行や生い立ち、裁判の経過についての(トーンはあくまでも)冷静なルポルタージュの紙背から滲んでくるように思いました。

宮崎勤死刑囚.jpg 宮﨑勤の精神鑑定は、当初の「人格障害」だが「精神病」ではないというものに抗して弁護側が依頼した3人の鑑定人の見解が、「多重人格説」(2名)と「精神分裂病」(1名)に分かれ、本人の「ネズミ人間」供述と相俟って「多重人格説」の方が有名になりましたが、「人格障害」は免罪効を有さないという現在の法廷の潮流があるものの、個人的には一連の供述を見る限り、「人格障害」が昂じて「精神病様態」を示しているように思えました(但し、犯行時からそうであったのか、拘禁されてそうなったのは分からないが)。

小林薫.jpg 小林薫については、殺害された被害者が少女1名であるにも関わらず死刑が確定しているわけですが、「死刑になりたい」という供述が先にあって、後から「少女が亡くなったのは事故だった」という矛盾する(しかし、可能性としては考えられなくも無い)供述があったのを、弁護側が、今更それを言っても却って裁判官の心証を悪くするとの判断から、その部分の検証を法廷で行うことを回避し、結局は死刑判決が下ってしまっているわけで、個人的には、死刑回避と言うより真相究明という点で、弁護の在り方に疑問を感じました。

宅間守.jpg 宅間守については、ハナから本人が「早く死刑にしてくれ」と言っており、先の2人以上に人格的に崩壊している印象を表面上は受けますが、一方で、弁護人などに書いた手紙を読むと、極めて反社会的な内容でありながらもきっちり自己完結していて、著者が言うように彼の精神は最後まで崩壊していなかったわけで、そうなると、結果として、国家が本人の自殺幇助をしたともとれます(但し、宅間については、アメリカで銃乱射事件を起こす犯人にしばしばみられる脳腫瘍が、彼らと同じ部位にあったという説もある)。

 著者は、こうした人間に死刑を宣告することは、罪を償わせるどころか、処罰にさえなっていないのではないかと疑問を呈していますが、まさにその通りだと思いました。
 "贖罪意識"の希薄性という意味では、「コミケ」の開催日を気にしていたという宮﨑勤にしても、殆ど自棄になっているとしか思えない小林薫にしても、同じことが言えるでしょう。

 43ページにある宮﨑勤の幼い頃の屈託の無い写真が印象に残りました(この少年が、将来において重大な犯罪を犯し、死刑に処せられたのだと)。
 本書を読んで感じたのは、社会的にいじめられたとか弱者であったということ以前に、家族との愛情の絆が断ち切られたとき、彼らは深い絶望にかられ、閉ざされた闇の世界の住人になるであって、そうしたメカニズムをもっと解明することが、犯罪の抑止に繋がるのではないかと。

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死刑制度の非道・不合理を訴えた「序」の方が、ストレートに響いた気もする。

死刑囚最後の日』.jpg死刑囚最後の日.gif 「死刑囚最後の日」.jpg 死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 ).jpg Victor Hugo.jpg
死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)』['82年改版]/ 電子書籍版 (グーテンベルク21/斎藤正直:訳)/死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 Aユ 1-1)』['18年](小倉孝誠:訳)/Victor Hugo(1802-1885)

LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE.jpg 1829年2月に"著者名無し"で刊行されたヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の小説で、ある男が死刑判決を受け、それが執行されるまでの心境を、男の告白という形式でドキュメンタリー風に綴ったもの。文庫で170ページほどの薄い本ですが、内容はテーマ通りに重いものです。
 裁判の時は、男は弁護士が求めた終身刑になるぐらいなら死刑の方がマシだと考えていたのが、死刑執行が迫るにつれ終身刑でもいいからと赦免を望むようになり、ギロチン刑による処刑の直前には、僅か5分間の執行猶予さえ求めるようになる―。

 当時の監獄や徒刑囚、死刑執行の様子などがよくわかりますが、留置されている場所からパリ市中を通ってグレーブの刑場へ行き、そこで公開処刑されるというのは、日本の江戸時代の市中引き回しと似ていると思いました。

"Le dernier jour d'un condamné"

The Last Day of a Condemned Man.jpg 監獄で鎖に繋がれながらもインキと紙とペンを与えられ、それにより自らの精神的苦悶を記したという設定ですが、表題通り、処刑当日の朝から午後4時の執行までの男の心境が作品の大部を占め、この部分は「手記」としてではなく、小説としての「独白」でしか成立し得ないわけで、この点がちょっと引っ掛かりました。

 娘や家族との最後の別れに絶望したりしながらも、全体のトーンとしては、意外と男が冷静に周囲を観察し、また周囲の人と話しているような気がして、こんなに冷静でいられるものかなあとも(自分が、今日の夕方にはこの世からいなくなるということが実感できないでいる様子ともとれるが)。

 但し、この作品以前には、こうした死刑囚の心理に深く触れた文学というのは無かったわけで、ドストエフスキーなどもこの作品を自らの創作の参考にしたらしいです(尤も、ドストエフスキー自身が死刑宣告を受け、執行の直前までいった経験の持ち主だったわけだが)。

The Last Day of a Condemned Man

 ヴィクトル・ユーゴーはこの作品の執筆当時26歳で、この時既にロマン派の詩人・作家としての名声を得ていましたが、この作品には死刑廃止論(死刑慎重論)という彼の政治的・社会的思想が込められており、但し、その考え方が世論に受け入れられるかどうかを見るために、「文学」という形式をとり、且つ匿名で発表したとのこと。

 世評の支持を得たとして、本編刊行の3年後に、実名を公表して添えた長めの序文(本編の後に付されている)の方は、死刑執行の残虐さ・非道を事例でリアルに伝える一方で、「社会共同体からの排除」「社会的復讐」「見せしめ・訓育」などの死刑制度擁護論の論拠を理路整然と論破し、死刑制度の不合理を「切実」且つ「現実論的」に訴える政治・社会評論になっていて、こちらの方がむしろ個人的にはストレートに胸と頭に響きました。

 "現実論的"部分で興味深かったのは、「まず確信犯の死刑から廃止せよ」と段階的廃止を主張している点などです。現在の日本でも「連続企業爆破事件」「連合赤軍事件」「オウム真理教事件」の死刑囚は'08年現在、誰も死刑が執行されていないという実態はありますが...(日本政府はユーゴーの考え方に沿っているのか?)。(●「オウム真理教事件」の死刑囚は、2018(平成30)年7月6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人の計13人の刑が執行された。翌2019年5月1日、元号が平成から令和へと改元。)

宣告1.jpg 凶悪犯罪が目立つ昨今、死刑容認論が大勢を占めるようですが、このユーゴーの「序」と加賀乙彦『宣告』を読むと、かなりの人が死刑廃止論に傾くような気がするけれども、どうでしょうか。

加賀乙彦 『宣告 (上・中・下) (新潮文庫)』 


 【1950年文庫化・1982年改版[岩波文庫]/1971年再文庫化[潮文庫]/2018年再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

《読書MEMO》
●「序」より
「死刑を廃止せよというのではなく、慎重に論議すべきである。すくなとも裁判官が陪審らに『被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか』という問いかけをすることにし、『被告は情熱によって行動した』と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい」

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死刑囚の置かれた実態を知るとともに、死刑制度の是非について考えさせられた。

死刑囚の記録2.jpg加賀乙彦  『死刑囚の記録』.jpg 死刑囚の記録.jpg
死刑囚の記録 (中公新書 (565))』〔'80年〕

 著者は医学部を卒業後まもなく東京拘置所の医官となりましたが、本書は、著者が20代の後半に接した多くの死刑囚たちの記録であり、極限状況における彼らの言葉や行動、心理を精神科医の視点で淡々と記録する一方で、死刑囚との触れあい、心の交流も描かれていて、宗教に帰依した死刑囚が、執行の前日に著者に書き送った書簡などは心打つものがあります。

 しかし、こうした宗教者的悟りの境地で最期を迎える死刑囚は、本書で紹介されている中のほんの一握りで、多くの死刑囚が拘禁ノイローゼのような状況に陥っていて、症状には強度の被害妄想など幾つかのパターンはありますが、刑罰の目的の1つに犯罪者を悔悟させるということがあるとすれば、死刑制度についてはその機能を充分には果たさないように思えました。

 著者が拘置所に勤務する契機となったある死刑囚との面談で、著者はその死刑囚が語る真犯人説にすっかり騙されますが(そもそも、"真犯人"なるものが架空の存在だった)、そうした経験を糧にし、予断を交えないように慎重に対処しながらも、多くの死刑囚を見るうちに、その何人かについては免罪であるかもしれないという印象を拭いきれずにいます。

 また、拘置所内で暴発的行為を繰り返す死刑囚の中には、単なる拘禁ノイローゼではなく器質障害が疑われる者もいて、刑罰の理由である犯罪行為そのものが、それにより引き起こされた可能性も考えられることを示唆していて、実際に公判時の精神鑑定などを見ると、精神科医によって意見がまちまちであったりする、こうした曖昧な報告をもとに死刑が執行されることに対しての疑問も感じました。

 著者は、死刑は"執行に至るまでの過程において"残虐であるとして、制度そのものに異を唱えていますが、実際、毎日24時間の「生」しか保証されていないとすれば(死刑の執行は、かつては前日、今は当日の朝に告知される)、死刑囚の多くが、「改心」云々以前に躁鬱状態に陥るのは無理からぬことだと思いました。

 一方で、無期囚が起伏のない日々の中で躁鬱が欠落し「拘禁ボケ」状態に退行する傾向が見られるのに対し、死刑囚や重罪被告は、生への貪欲な執着を示し、却って密度の濃い日々を送る傾向が見られる(それが創作であったり妄想の構築あったり、再審請求準備であったりと対象は様々だが)という著者の報告は、興味深いものであると同時に、自らを振り返って、日々どれだけ「死」を想って密度の濃い日々を送ろうとしているだろうかと考えさせられるものでもありました。

死刑囚と無期囚の心理.bmp 尚、この死刑囚と無期囚の拘禁状態における心理変化の違いにについて著者は、本名「小木貞孝」名で上梓された『死刑囚と無期囚の心理』('74年/金剛出版)の中でも学術的見地から詳説されています(この本は'08年に同出版社から加賀乙彦名義で復刻刊行された)

死刑囚と無期囚の心理

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読みやすくはないが、死刑制度の歴史的意味合いを探るうえでは好著。

刑吏の社会史.jpg                   阿部謹也.jpg  阿部 謹也 (1935-2006/享年71)
刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活 (中公新書 (518))』〔'78年〕

 '06年に急逝したヨーロッパ中世史学の泰斗・阿部謹也(1935‐2006)の初期の著作で、「刑吏」の社会的位置づけの変遷を追うことで、中・近世ヨーロッパにおける都市の発展とそこにおける市民の誕生及びその意識生成を追っています。
 かつての盟友で、日本中世史学の雄であった網野善彦(1928‐2004)の『日本中世の民衆像-平民と職人』('80年/岩波新書)などを想起しましたが、「刑吏」という特殊な職業に焦点を当てているのが本書の特徴。

 もともと「処刑」というものは、犯罪によって生じた人力では修復不能な村社会の「傷を癒す」ための神聖な儀式であり、畏怖の対象でありながらも全員がそれを供犠として承認していた(よって、処刑は全社会的な参加型の儀式だった)とのこと。
 当初は原告が処刑人であったりしたのが、12・13世紀ヨーロッパにおいて「刑吏」が職業化し、キリスト教の普及によって「処刑」の"聖性"は失われ"怖れ"のみが残り、その結果、14・15世紀の都市において「刑吏」は賤民として蔑まれ、市民との結婚どころか酒場で同席することも汚らわしいとされ、18・19世紀までの長きに渡り市民権を持てなかった―らしいです。

 本書中盤においては、絞首、車裂き、斬首、水没、生き埋め、沼沢に沈める、投石、火刑、突き刺し、突き落とし、四つ裂き、釘の樽、内臓開きなど様々な処刑の様が解説されていて(後半では「拷問」の諸相が紹介されている)、かなりマニアックな雰囲気も漂う本ですが、例えば絞首には樫の木を使うとか処刑の手続が細かく規定されていたり、仮に罪人が死ななかった場合でもそこで執行はお終いになる(死に至らしめることが目的ではなく、あくまで一回性のものだった)といったことなどからも、「処刑」の「儀式性」が窺えて興味深かったです。

 必ずしも読みやすい構成の本ではないですが、「処刑」が、罪人の処罰よりも社会秩序の回復が目的であり、死刑囚に処刑前に豪華な食事を振舞う「刑吏による宴席」(食欲が無くても無理矢理食べさせた)などの慣習を見ても、都市の発展によりその目的は、特定の遺族や村人の癒しを目的としたものから市民(共同体)の癒しを目的としたものに変容しただけで、残された者の「癒し」を目的としたものであることに変わりはなく、そのため「儀式性」は長く保たれたことがわかります。
 何のために死刑制度があるのか、その歴史的意味合いを探るうえでは好著ではないかと思います。

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死刑執行に携わる看守を主人公とし、日常と非日常、生と死の対比を描いて秀逸。

夏の流れ2.jpg 夏の流れ・正午なり 丸山健二.jpg 夏の流れ.jpg
夏の流れ』['67年]/『夏の流れ・正午(まひる)なり (講談社文庫)』 ['73年]/『夏の流れ―丸山健二初期作品集 (講談社文芸文庫)』 〔'05年〕

 1966(昭和41)年度下期・第23回「文學界新人賞」及び1966(昭和41)年下半期・第56回「芥川賞」受賞作(講談社文芸文庫版の帯にある「毎日出版文化賞受賞」は、「講談社文芸文庫」自体が第58回(2004年)毎日出版文化賞(企画部門)を受賞したことによるもの)。

 主人公は刑務所に勤める看守で、死刑執行もその仕事に含まれているのですが、そうした看守の刑務所の中での世間から隔絶した "日常"と、刑務所の外での市民としての日常を対照的に描き、デビュー作にして芥川賞を受賞した作品(しかも23歳1カ月という当時の歴代最年少受賞)。

 とりわけ死刑執行の"その日・その時"のハードボイルドタッチな描き方は話題を呼んだようですが、本当に秀逸なのは、小説の中にある対比の構成ではないでしょうか。

 "仕事"前の休日に釣りにいく話をしている看守たちや"仕事"を終えて家に帰る主人公(家には新たな命を宿した妻がいる)と、刑を目前に抗い、退行し、死んでいく死刑囚。仕事に馴染めず1回も刑の執行を経験せずに辞めていく若い看守と、儀式的に淡々と刑を執り行うベテランの上司らの対比(主人公はその中間にあると言えるかも)などが、抑制された文章で描かれています。

 特に、"仕事"によって与えられた特別休暇で子どもたちを海水浴に連れて行く主人公と、そこで語られる妻との辞めた若い看守をめぐる短い会話などには、非日常が日常を侵食する毒のようなものが含まれていました。
 一度読んだら、忘れられない作品の1つだと思います。

 当時芥川賞選考委員だった三島由紀夫は「男性的ないい文章であり、いい作品である」としながらも、「23歳という作者の年齢を考えると、あんまり落着きすぎ、節度がありすぎ、若々しい過剰なイヤらしいものが少なすぎるのが気にならぬではない」としていて、文芸誌へ最初に応募した作品が本作だったわけで、無名の新人の実力を1作で判断するのはかなり難しいことだったのかもと思わせます(文体については後に、篠田一士が講談社文庫版の解説で、ヘミングウェイを想起させると高く評価しています)。

正午なり 00.jpg 作者の初期の中・短編作品にはこうした生と死が対比的に描かれるものが多い一方、講談社文庫版に併収されている中篇「正午(まひる)なり」のような、ある種の帰郷小説のようなものも多く、後者のモチーフはその後の作品でもリフレインされていて、実際作者は文壇とは交わらず、都会を離れ安曇野に定住していることはよく知られている通りです。

「正午なり」1978年映画化(監督:後藤幸一)出演:金田賢一/田村幸司/結城しのぶ/原田芳雄/若杉愛/津山登志子/手塚理美/南田洋子/長門裕之/絵沢萠子
 
 【1973年文庫化[講談社文庫(『夏の流れ・正午なり』)]/2005年再文庫化[講談社文芸文庫(『夏の流れ-丸山健二初期作品集』)]】

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「死」がより明確な時間的期限をもって示されるならば、死刑は殺人よりも残酷であるかも。

加賀 乙彦 『宣告 (上)』.jpg 加賀 乙彦 『宣告 (下)』.jpg 宣告 ((上)) (P+D BOOKS).jpg 宣告 ((中)) (P+D BOOKS)_.jpg 宣告 ((下)) (P+D BOOKS).jpg
宣告 上巻』『宣告 下巻』 ['79年/新潮社]宣告 ((上)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((中)) (P+D BOOKS)』『宣告 ((下)) (P+D BOOKS)』['19年]
新潮文庫 (全3巻)
宣告1.jpg宣告2.jpg宣告.jpg 1979(昭和54)年・第11回「日本文学大賞」(新潮文芸振興会主催)受賞作。

 ドストエフスキーは『白痴』の中で、「死刑は殺人よりも残酷である」と主人公に言わせていますが、それは、死刑囚には予め自分が殺されることが100%わかっているからです。この小説は、独房の中での何時訪れるかわからない"その時"を待つ主人公を中心に描かれているため、感情移入せざるを得ず、読み進むにつれて読むのが辛くなりました。ラストがどうなるかは、主人公も読者もわかっているからです。

死刑囚の記録.jpg 著者による『死刑囚の記録』('80年/中公新書)を読むと、主人公のモデルとなった人をはじめ、宗教者の境地に達した死刑囚もいたようですが、被害妄想、ノイローゼ、ヒステリーといった病的症状や、「早く殺してくれ」といった刹那主義に陥るなどのケースの方が多く、それらの例もこの小説に多々反映されているように思いました。自分はまず主人公のようにはなれないと思いますし、そうすると、動物のように自分を後退させ、何らかの病理状態に"逃避"するということになるのだろうか...。                               
死刑囚の記録 (中公新書 (565))』 ['80年]

 ある意味「死刑は殺人よりも残酷である」という思いに、読めば(かなり高い確率で)駆られることになるヘビーな小説ですが、死刑と無期刑の差が受刑者にとっていかに大きかということも、当たり前のことですが改めて感じました。さらに、執行のその時には、世間に公表されることなく国家によって殺されていくことを思うと、死刑執行の"密室性"の問題などについても考えさせられます。

 現状日本には、無期刑というものはあるものの"終身刑"というものは無く、無期の場合、一定期間が経過すれば仮出獄となるようです(ただし"出所"ではなく"仮出獄"であり、死ぬまで保護観察下にある)。一方、死刑囚は100人以上いて、その多くが小菅の東京拘置所にいるのですが、死刑が確定してから長期の年月が経過している死刑囚も多いようです。   

 だからと言って、"死刑"が部分的に"終身刑"の役割も負っていると考えるのは、安易なのかもしれません。誰にどのような基準で実際に死刑が執行されるのか、共犯者の刑が確定しないと刑の執行はされないなどの基準はあるようですが、細かいことはよくわからないし、死刑囚ら自身にもわからないのではないか、それでは、そのことを明確するのがいいのかどうか、"100%"死ぬ(国家によって"殺される")ことがより明確な時間的期限をもって示されるのであれば、そのとき「死刑は殺人よりも残酷である」ということになるのかも知れません。

 【1982年文庫化・2003年改訂[新潮文庫(上・中・下)]/2019年[小学館・P+D BOOKS(上・中・下)]】

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