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下された判決に過ちがあったのではないか。死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重い。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決.jpg司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決青春の殺人者  dvd.jpg青春の殺人者 デラックス版 [DVD]

 元裁判官である弁護士によって書かれた本書によれば、わが国で冤罪事件が後を絶たないのは、所謂「自白の呪縛」のためばかりではなく、日本の司法の特徴的な面が関わっており、それは、「日本の裁判官は、冤罪危険覚悟で有罪判決を下している」ためであるとのことです。

 日本の職業裁判官は、冤罪の危険領域を知りつつ、それでもなお自分の判断能力を頼りに、薄皮一枚を剥ぐように、或いは薄氷を踏むような思いで有罪・無罪を見極めようとしている、つまり一種の賭けをしているわけであって、そうやって死刑判決さえ出していると―。蓋然性のレベルであっても敢えて「無理に無理を重ねて」死刑判決を下すことがあるから、その内の一部が冤罪になるのは当然と言えば当然と言えると(賭けに全部勝つことはできないのだから)。

 本書では、こうした問題意識を前提に、死刑判決が出されているが冤罪が疑われる案件、有罪らしいが冤罪の主張がなされたことが影響して死刑判決となったと思われる案件、無罪判決が下された後に被告人が同種の猟奇殺人を起こした案件の3つを取り上げて、それぞれの事件及び裁判を、担当した弁護士へのインタビューなども含め検証しています。

 第1章では、'88(昭和63年)に起きた「横浜・鶴見の夫婦強殺事件」が扱われていて、第一発見者に死刑判決が出されたこの事件は、既に最高裁で被告人の死刑が確定し、現在、再審請求中であるとのことです。
著者は、裁判で犯人と第一発見者を区別することがいかに難しいかを説明しつつ、この事件の記録を様々な角度から詳細に検証した結果、被告人を犯人であると断定する確定的な証拠はないのではないか、即ち、証拠上は有罪とすることができないのではないかとし、権力機構の一員としての職業裁判官の思考方法がそこに影を落としているとしています。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決2.jpg 第2章では、'74(昭和49年)に起きた「千葉・市原の両親殺し事件」が扱われていて、当件は、中上健次の小説『蛇淫』や、長谷川和彦の第1回監督作「青春の殺人者」('76年/ATG)のモデルになった事件で、ある家の22歳の長男が、女性との付き合いを両親に反対され、両親を登山ナイフでめった突きにして殺害した(とみなされた)事件。被告人は公判で「父は母により殺され、母は第三者により殺された」と冤罪を主張をしましたが、捜査中の自白の中に「秘密の暴露」(被疑者が真犯人でしか知るはずのない事項を自白すること)があったことが重視され、最高裁で死刑が確定し、こちらも再審請求中。

「青春の殺人者」撮影の合間に談笑する水谷豊、原田美枝子、長谷川和彦、中上健次(本書より)

 著者はこの案件が冤罪である可能性は低いとしながらも、ほぼ同時期に起きた「金属バット両親殺害事件」で懲役13年の刑が宣告されていることと比較し、被告が冤罪を主張したことで、家庭内のいざこざに起因する同類の事件でありながら、量刑にこれだけの差が出たのではないか、このような量刑の決め方は、「被告人が無罪を主張したから(国家権力に反抗したから)、それで死刑にしてしまう」というのと同じではないかとし、判決に疑問を投げかけています。

 第3章では、'68(昭和43)年から'74(昭和49)年にかけて断続発生した、女性を暴行殺害し放火する手口の「首都圏連続女性殺人事件」が扱われていて、容疑者として逮捕された中年男性は、東京地裁で死刑の判決を受けたものの、東京高裁では、逮捕後の過酷な取調べが問題視され、自白の任意性が否定されて無罪とされ、検察も上告を断念し、逮捕から17年目にして無罪確定したという案件。被告人は冤罪犠牲者としてマスコミの注目を浴びますが、その5年後に女児殺人未遂で逮捕され、更に被告人の住む団地1階の庭から成人女性の頭部が見つかり、部屋の冷蔵庫から女性の身体の一部が出て、駐車場からは首なし焼死体が発見され、この猟奇事件の犯人として無期懲役が確定しています。
 一事不再理の原則により、「首都圏連続女性殺人事件」を無罪とした東京高裁判決が正しかったかどうかは永遠の闇へと追いやられてしまうのですが、17年間裁判で争ってきた被告人の弁護人自身が、著者のインタビューに答えて、無罪判決は客観的に見れば誤判であったと言わざるを得ないと述懐しています。

 下された判決に過ちがあったのではないか―死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重く、実際いずれも考えさせられる判決ですが、個人的には、3番目の事件で著者が、「疑わしきは罰せず」は良くも悪しくも「灰色無罪」という考え方に通じるもので、必ずしも真っ白だから無罪というわけではなく、そのあたり「疑わしきは罰せず」と無実とは区別すべきであるとしているのが印象に残りました(この事件の高裁裁判官は、"消極無罪"で対応すべきところを、被告の17年間の拘留を労うなど"積極無罪"と取れる発言をしたとのこと。まあ、裁判官の心証としても"真っ白"だったんだろなあ)。

青春の殺人者 チラシ.jpg 論理の枠組みがしっかりしているだけでなく、文章も上手。2番目の「千葉・市原の両親殺し事件」については、事件の時代背景を描き出すのと併せて、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」('76年)について思い入れを込めて描写していますが(著者は1959年生まれとのこと)、一方で、この映画により「青春の殺人者」のイメージの方が事件の裁判よりも先行して定着してしまったとするとともに、事件―原作―映画の3つの違いを整理しています。

 それによると、事件は市川市で起きたわけですが、この事件から着想を得た中上健次は舞台を自らの故郷に置き換え、リアリティとは無関係にひたすら感覚的に自身に引き寄せて、「路地」(被差別部落)の一面を切り取ったような情念の物語にしていると。実際の原の両親殺し事件の犯人は、千葉県屈指の進学校を卒業した若者で、大学受援に失敗して父親の出資でドライブインをやっていましたが、水準以上の知能の都会的青年だったとのことです。

青春の殺人者0.jpg 一方、実際に事件を取材した長谷川和彦監督は、事件と同じく舞台を都市近郊に戻し、その他の部分でも警察発表等に沿って事件の背景や経過をなぞるとともに、主役にTVドラマ「傷だらけの天使」で本格デビューして人気の出た水谷豊(当時22歳で事件の被告とほぼ同年齢)を起用することで、原作の土着的ムードを払拭するなど、より実際の事件に引き付けて映画を撮っているようです(タイトルバックでは「原作:中上健次『蛇淫』より」となっていたと思う)。

青春の殺人者03.jpg 著者によれば、映画と実際の事件で大きく違うところは、主人公が父親に交際を反対された相手女性(原田美枝子(当時17歳)が演じた)が主人公の幼馴染みになっている点と(実際は風俗嬢であり内縁の夫がいた)、事件では本人が裁判で冤罪を主張した点であるとのことで、映画は主人公が「殺人者」であることが前提となっているため、今の時代であれば人権侵害で問題になっているだろうと(一審死刑判決が出たのは事件の10年後で、裁判中は推定無罪の原則の適用となるため)。実際、裁判で被告は、この映画のイメージの世間への影響について言及し、自分は「青春の殺人者」ではないという訴え方をしたようです。

青春の殺人者2.jpg この「青春の殺人者」については、個人的にはやはりどろっとした感じで馴染みにくさがありましたが、今また観ると、長谷川和彦監の演出はいかにも70年代という感じで、むしろノスタルジー効果を醸し、主人公である息子が父親を殺したことを知って、どうやっ青春の殺人者 原田美枝子.jpgて死体を隠そうかオタオタするうちに、それを見かねた主人公に殺されてしまう母親役(映画では近親相姦的に描かれている)の市原悦子の演技が秀逸、そもそも出ている役者がそう多くはないけれど、主役の若い2人を除いて、脇は皆上手い人ばかりだったなあと。水谷豊には「バンパイヤ」など子役時代もあったはずだが、この作品での演技は今一つ(滑舌はいいが、良すぎて演劇っぽい)、撮影時17歳の原田美枝子は、この時点では演技力よりボディか(しかしながら、水谷豊、原田美枝子ともそれぞれキネマ旬報の主演男優賞・主演女優賞を受賞している)。

長谷川和彦.jpg 長谷川和彦監督(当時30歳)は、この監督デビュー作で'76年の「キネマ旬報ベスト・テン」日本映画ベスト・ワンに輝いていますが、そもそもピンク映画のようなものも含めたシナリオ書きだった彼のところへ、自身の監督作を撮らないかと持ちかけたのはATGの方で、最初はそんなお堅い映画は撮れませんと断ったところを、好きに撮っていいからとプロデューサーに口説かれて撮ったのがこの作品だったとか。

 この人も東大中退のインテリなんだけど(アメリカンフットボール部の主将だった)、この作品の後「太陽を盗んだ男」('79年/東宝)を撮っただけで、それから監督作が全く無いという―どうしたんだろなあ。「青春の殺人者」がキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた際に、長谷川和彦監督自身は「他にいい作品がなかったからでしょう。1位、2位、3位、4位なしの5番目の1位でしょう。そう思っています」と言っており、この謙虚さは、これからもっとすごい作品をばんばん撮るぞという意欲の裏返しだと思ったのだが...。

青春の殺人者(長谷川和彦).jpg「青春の殺人者」●制作年:1976年●監督:長谷川和彦●製作:今村昌平/大塚和●脚本:田村孟●撮影:鈴木達夫●音楽:ゴダイゴ●原作:中上健次●時間:132分●出演:水谷豊/内田良平/市原悦子/原田美枝子/白川和子/江藤潤/桃井かおり/地井武男/高山千草/三戸部スエ●公開:1976/10●配給:ATG(評価:★★★☆)

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「犯罪神話」の誤謬や犯罪者の実態を解説。ポピュリズムと厳罰化、人はなぜ罪を犯すのかなどを考察。

2円で刑務所、5億で執行猶予.jpg 『2円で刑務所、5億で執行猶予 (光文社新書)』['09年]

 第1編・前半部分「犯罪と犯罪予防」では、治安といった犯罪現象の分析や科学的な犯罪対策について書かれていて、"少年犯罪は凶悪化し、外国人犯罪も増加の一途を辿っている""日本の治安はどんどん悪化している"といった世間に流布されている「犯罪神話」について、データ分析をもとに、それが事実かどうかを検証しています。

 結局のところ、殺人などの凶悪犯罪は戦後からずっと減少傾向にあり、日本の治安は一貫して安全に保たれており、暴力犯罪という視点から見れば日本は世界で最も安全な国であること、少年犯罪も増加していないことを指摘するとともに、現在問題なのは高齢者犯罪の増加であるとするとともに、こうした「神話」の形成には、マスコミの事件報道の(ワイドショー的な)姿勢が大きく影響しているのではないかとしています。

 これまでもこうした「犯罪神話」の誤謬の指摘には触れたことがありますが、依然、こうした「神話」を根拠に「治安が年々悪化するのは、家庭の教育力が低下したこと、地域のコミュニティが希薄化したこと、なにより個人のモラルが低下していることが原因だ」と言って、本書にもあるように、道徳やモラルを重視した教育をすべきだとか、犯罪者の刑罰を厳しくすべきだという主張をする政治家や識者はいるなあと。

 犯罪を少しでも減らすためにはどのような対策が考えられるかを、米国で実施された防犯プログラムなどの効果を検証しながら、犯罪科学的観点から考察しており、著者の専門は犯罪学であると今更のように気が付いた?(本書を手にするまでは法律家かと思っていた)

 一方で、著者は法務省の矯正機関や保護観察所での勤務経験もあり、第2編・後半部分「刑事政策(刑罰)」では、そうした自らの経験を踏まえながら、刑務所に送られる犯罪者の実態を紹介するとともに、人はなぜ罪を犯すのかという犯罪理論につて考察しています。

 興味深かったのは、法律学や法律家が果たすべき役割とその限界について述べた節で、裁判では真実は明らかにならないとしている点で、著者は「法律家は、論理の組み立てでものを考える。そして、論理的な思考が科学的な思考だと勘違いしやすい」「法律家は、法律の専門家、つまり、問題を法的に処理する専門家であって、社会問題を解決する専門家ではない」としている点で、確かにそういうことなのだろうなあと思いました。

 結局、日本の司法官僚は刑事政策の専門家でもなんでもなく、一般市民と同じレベルでマスコミ世論の影響を受けポピュリズムに流されやすい傾向にあるということになるのかも。

橋下徹.png これは前半部分のマスコミ報道の在り方との問題とも関係してくるわけですが、光市母子殺害事件で、テレビ番組に出演して弁護団を非難し、視聴者に弁護士会への懲戒請求を呼びかけた橋下徹氏の言動が視聴者に支持されことが事例として紹介されており(但し本人は懲戒請求しておらず、江川紹子氏は、結局のところ逆提訴されるのを恐れたのではないかというようなことを言っていた)、彼はその後、大阪府知事選に立候補して知事になり、タレント弁護士から政治家へ転身したわけですが、こうした言動がその追い風になった面はあるかも。

 マスコミ報道によって世論が厳罰化する傾向は海外でも見られるそうで、国際比較上は、まだ日本の司法官僚は、官僚組織の一員としての性格が強い分、ポピュリズムには抵抗力があるそうです(著者はポピュリズムそのものを否定しているのではなく、むしろ健全なポピュリズムをどう形成するかが大事であるとしている。橋本氏型のポピュリズは健全と言えるかなあ)。

 著者も述べているように体系だった本ではないので、何となく纏まりを欠く印象も。但し、受刑者はその殆どが社会的弱者であり、刑務所依存症とでも呼ぶべき、刑務所でしか暮らせないような人もいること(刑務所から出所しても更生のための生活支援や就職支援の援助がなければ結局、刑務所に戻らざるを得ないこと)の指摘など、随所に考えさせられる個所はありました。

 犯罪学・刑事政策入門書といった内容に対し、ややずれを感じる本書のタイトルですが(確かに司法制度の在り方にも問題提起しているが、このタイトルでは「量刑相場」について書かれた本かと思ってしまう)、「これは編集者の助言によって広く本書を手にとってもらいたいという願いから付けられたものである。一見すると5億で執行猶予を批判しているような印象を与えるかもしれない。しかし、(中略)妥当な判決であるお肯定的に評価している」と、まえがきに申し添えられています。

《読書MEMO》
●ある意味、刑事司法手続は、98%の人が不起訴や罰金刑で勝ち抜けるゲームであり、受刑者は、その中で2%弱の負け組なのである。ただし、ここで重要なことは、負け組になる理由は、犯罪の重大性や悪質性とは限らないことである。

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「感情を揺さぶる証拠」が「衆愚」を招く危険性を、実証的に指摘。

量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール1.jpg量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール.jpg
量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール (幻冬舎新書)』['11年] 

 個々の事件の刑は、刑法の定める範囲内で裁判官が様々な状況を考慮して決定するものであり、それを量刑というとのことですが、この量刑にも、基準と結果の関係を中心とした相場があるとのことで、元裁判官によって書かれた本書は、それを実際の判例に沿って分かり易く解き明かしたものです。

 例えば、道路で唾を吐いたとか、山で焚火をしたとか、往来でキャッチボールをしたとか、日常生活でありそうなことが、どういった刑罰に該当するかといった話から始まって、太った女性に「デブ」と言って侮辱罪で拘留された例や、ゴルフ場からロストボールを"大量"に持ち帰って窃盗罪で懲役10カ月の刑に処せられた例などが紹介されています。

 更に、重大事件では量刑相場はどのようになっているかを、殺人事件、傷害致死事件、現住建造物放火事件、強盗致傷・強盗致死事件、婦女暴行致傷・婦女暴行致死事件...といった犯罪の種別ごとにみていますが、同じ種別の事件でも、その内容の違いによって、それぞれに量刑相場があることが分かります。

 例えば、現住建造物放火事件であれば、衝動的な放火で焼死者なしの場合は懲役4年、衝動的な放火で1人焼死の場合は懲役10年、連続放火で焼死者なしの場合は懲役8~13年、連続放火で1人焼死の場合は懲役18~20年、連続放火で2人以上焼死の場合は無期懲役―といった具合に。

 こうなると裁判官は自身の考えに拠るというより、こうした基準をもとに刑の重さを決めていくことになるんじゃないかなあ。まあ「衝動的か計画的か」などの判断において何を証拠として重視するかといったところで、裁量の幅はそれなりにあると言えばあるし、執行猶予を付けるか付けないかなど、更に調整を効かせる部分もあることにはなりますが。

 平成10年以降から最近にかけての刑事事件の判例が殆どで、いろいろな凶悪事件が起きているものだとも改めて思いましたが、新聞記事で事件のことを覚えていても、判決がどうなったかということまでは、話題になった凶悪犯罪の判決を除いてはそう見るものではないから、たいへん興味深く読めました。

 但し、ちょっと以前であれば雑学ネタであるかのようなこうした内容も、裁判員制度が施行されている今日においては、我々一般人も大体の"相場感"を掴んでおいた方がいいのかも(勿論、万が一裁判員に選ばれた暁には、そのあたりは説明があるのだろうけれど)。

 あとがきで、「裁判員制度のもとで、これからは市民感覚を生かした新しい量刑判断が求められているわけですから、これまでの数字をそのまま基準にすることは意味がありません」とし、本書で示したかったのは量刑の全体像であって、これまでの数字をそのまま準用することは意味が無いと念押していますが、本職の裁判官だって、こうした相場に準拠して判決を下してきたのではないかなあ。

 読んでいて、こうした相場自体には概ね合理性があるように思われ、著者もその前提で解説をしているようであるし、むしろ、裁判員の方で、本書に解説されているような考慮すべき要素が、実際の裁判の場面で充分網羅されるか、均衡性が担保されるかということの方が個人的には気になりました。

 著者は、一点だけ、死刑か無期懲役かについては量刑相場で決める事柄ではなく、死刑の宣告はそれ以外の量刑と全く別次元の問題であるとしています(死刑は一瞬で命を奪うものであるから、自由を奪う期間の長さで刑を決める自由刑とは別物。無期懲役の一つ上に死刑があるわけではない―と)。

 この死刑に処するかどうかの判断問題については、著者の近著『死刑と正義』('12年/講談社現代新書)で、かなり深く突っ込んで扱っていますので、関心がある人にはお薦め
です。

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「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえた良書。

死刑と正義 (講談社現代新書).jpg  『死刑と正義 (講談社現代新書)』['12年] 森 炎.png 森 炎 氏(略歴下記)

 極刑である「死刑」とは一体どのような基準で決まるかを元裁判官が考察した本で、近年の法廷では、凶悪事件において極刑でやむを得ないかどうかを判断する際に、「永山基準」というものが、裁判官だけでなく検察も弁護側も含め援用されていることは一般にも知られるところですが、この「永山基準」というのは、①犯罪の性質、②動機、計画性など、③犯行態様、執拗さ・残虐性など、④結果の重大さ、特に殺害被害者数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、犯行時に未成年など、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目を考慮することだそうです。

 本書によれば、裁判員制度が始まる前の最近10年間(1999-2008)の死刑求刑刑事事件における死刑判決率は、「三人以上殺害」の場合は94%、「二人殺害」の場合は73%、「一人殺害」の場合は0.2%で(ここまでは、殺害被害者数が圧倒的な決め手になっていることが窺える)、「二人殺害」について更に見ると、金銭的目的がある場合は82%、金銭的目的が無い場合は52%であるそうですが、著者は、そもそも「永山基準」のような形式論理から「死刑」という結論を導き出して良いものか、という疑問を、共同体原理における正義とは何かといったような死刑制度の根源的(哲学的・道徳倫理学的・社会学的...etc.)意味合いを考察しつつ、読者に投げかけています。

 著者は死刑の意義(価値)を条件付きで肯定しているものの、価値化された死刑の議論を進めるにあたっては、その中に空間の差異というものがあるはずだとし、これを「死刑空間」と呼んで、①「市民生活と極限的犯罪の融合」(ある日、突然、家族が殺されたら)、②「大量殺人と社会的防衛」(秋葉原通り魔事件は死刑で終わりか)、③「永劫回帰する犯罪傾向」(殺人の前刑を終えてまた殺人をくりかえしたら)、④「閉じられた空間の重罪」(親族間や知人間の殺人に社会はどう対処すべきか)、⑤「金銭目的と犯行計画性の秩序」(身代金目的誘拐殺人は特別か)という5つの観点から、実際の凶悪事件とその裁判例を挙げて、人命の価値以外にどのような価値が加わったとき、死刑かそうではないかが分かれるかを示しています。

 しかし、その結論を導くには、これら5つの「死刑空間」ごとの事件の差異を見るだけでは十分ではなく、更に、「変形する死刑空間」として、A「被告人の恵まれない環境」、B「心の問題、心の闇と死刑」、C「少年という免罪符」、D「死刑の功利主義」という5つの視点を提起しています。

 5つの「死刑空間」はそれら同士で重なり合ったりすることもあり、更に、AからDの視点とも結びつくことがある―しかも、単に強弱・濃淡の問題ではなく、それぞれがそこに価値観が入り込む問題であるという、こうした複雑な位相の中で、死刑とすべき客観的要素を公正に導き出すことは、極めて困難であるように思いました(本書には、これまでの死刑判決の根拠の脆弱さや矛盾を解き明かし、最高裁判決を批判的に捉えている箇所もあったりする)。

 著者はこうした考察を通して、詰まるところ死刑の超越論的根拠はないとしていますが(多くの哲学者や思想家の名前が出てくるが、著者の考えに最も近いのはニーチェかも)、本書は、死刑廃止か死刑存置かということを超えて、そのことには敢えて踏み込まず、現実に死刑制度というものがあり、死刑は「正義」であり「善」であるという価値判断が成り立っているという前提のもと(但し、そこには"力の感情"が含まれているとしている)、今、従来は司法の権限であった「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえつつ本書を著していて、良質の啓蒙書とも言えます。

 裁判員制度がスタートして3年以上が経ち、この間、死刑判決は若干の増加傾向にあるようですが、犯罪及び死刑にこれだけの複雑な位相があるとすれば裁判官が悩むのは無理もなく、一方、市民裁判官である裁判員が、どこまでこの本に書かれているようなことを考察し、なおかつ、裁判官が提示する判断材料にただ従うのではなく、自らの価値判断を成し得るか、そもそも、裁判官がそれだけの「判断材料」を公正に裁判員に示しているのか、疑問も残るところです。

 最近、玉石混淆気味の講談社現代新書ですが、これは「玉」の部類の本。

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森炎(もり・ほのお) 
1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

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「殺人」より「結婚詐欺」にウェイトが置かれた裁判のような印象を受ける傍聴記。

毒婦。 木嶋佳苗.jpg 『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』 (2012/04 朝日新聞出版)

 肉体と結婚をちらつかせて男たちから1億円以上もだまし取り、3人の男を練炭で殺害したとして死刑判決を受けた木嶋佳苗被告の100日に及んだ裁判では、彼女のファッションまでもが話題となり、自身のセックスについて赤裸々に語ったことで、日本中が騒然となった―。

 「週刊朝日」に連載された'12年1月から始まった木嶋佳苗被告の35回に及んだ審理の公判傍聴記で、著者はコラムニストであり、本書のトーンも一般的に堅いイメージのある「傍聴記」とは異なり、「傍聴コラム」といった感じ。

 巷で「劇場型裁判」と言われた、そのどの面が「劇場型」だったかが雰囲気的に分かる内容でしたが、タイトルが「毒婦」となっているように、その「劇場」の「出演者」や「観客」を観察しながらも、著者自らも「観客」と一体化している部分もあり、その辺りの著者のスタンスがよく分かりませんでした。

 著者自身は「女性の目線」を意識して書いたわけではないとしながらも「男性に目線」にならないように注意したとあり、結局、決して美人とはいえない容姿で、何人もの男を手玉に取ることが出来た理由を探ることに終始しているようにも思いました(これでは「女性週刊誌」の視点と変わらない)。

 終りの方には、木嶋佳苗の故郷・北海道別海町や事件関係者などへの取材内容もあって、彼女が小倉千加子氏の本の愛読者であったとか、そこそこ丁寧に取材はされていいますが、末尾には上野千鶴子氏の「援交世代から思想が生まれると思っていた。生んだのは木嶋佳苗だったのね」という言葉が紹介されたりもして、こんな方向性の落とし込みでいいのかなあ。

 木嶋被告とはどんな人物なのかを知ろうという熱意は伝わってきますが、被害者の男性達の姿(もうプライバシーも何もあったものじゃない)から「男性の求める理想の女性像とは何か」みたいな方向に行ったリもして、結局最後はややモヤっとした感じ。

 まあ、彼女がどのような人物なのかを、そう簡単に決めつけることもできないし、決めつけてもあまり意味が無いような気もしますが。

 「稀代の婚活詐欺師」と言っても、結婚詐欺師は男女にわたって世に沢山いるだろうし、やはり何と言っても彼女の特異な点は、その行為の落とし込み所が全て、男性に睡眠薬を飲ませて練炭を用いて殺害するという「殺人」行為であるということに尽きるでしょう。

 彼女の周辺で不審死を遂げている男性は6人(この裁判の対象になっていない3人の事件は民事的にはどうなるのだろうか)。まるで超過密スケジュールで「仕事」をこなしていくように、男性を取り込んでは殺人を繰り返していますが、どこか、その"手際の良さ"に感服してしまっているところが、本書の根柢にあるように思われました。

 こうした裁判においては、「動機」よりも成した「行為」そのものの方を重視すべきではないかな。「事故」ではなく「故殺」であることが客観的に立証されることが最優先であると思うのですが、裁判自体が「動機」の方に関心が行き過ぎて、"心理戦"の様相を呈しているようにも思いました(その"心理戦"において"堂々としている" 木嶋被告に、更に感服してしまっているキライも本書にはある)。

 裁判員制度下では、こうした事件は、「動機」から容疑者の"非人間性"を炙り出す(併せて、同時に被害者の"無念"を露わにする)という、こうした法廷戦略になりがちなのか。一審判決は死刑だったけれども、印象的には検察側の戦略はあまり上手くいっていないように思えました。

 結局「殺人」事件の裁判ではなく、「結婚詐欺」事件の裁判みたいになっている印象を受けるのは、あくまでも著者の傍聴内容からのピックアップの仕方が偏っているからであり、実際の審理は"文脈的"にはもっとマトモで、必ずしも著者がピックアップしているようなことばかりではなかったこのではないかという気もしたのですが、法廷で自身の名器自慢などを堂々と語られると、注目・関心がそちらの方へどっと流れてしまうというのはあるのかも。

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密度の濃いドキュメントであり、裁判の公判分析という点でも優れた1冊。

検証 秋田「連続」児童殺人事件.jpg検証 秋田「連続」児童殺人事件』['09年/無明舎出版] 畠山鈴香.jpg 畠山鈴香 無期囚

 '06(平成18)年の4月から5月にかけて起きた「秋田連続児童殺人事件」を、地元紙・北奥羽新聞の記者らが、事件発生から、畠山鈴香被告の無期懲役刑が確定するまでを追ったドキュメント(仙台高裁秋田支部の控訴審判決に対し畠山鈴香被告が上告を取り下げたのは、'09(平成21)年5月のこと)。

 本書のベースになっているのは、北奥羽新聞で '07(平成19)年1月から2年ほど続いた連載で、能代市に本拠があるこの新聞社の本社記者は11名しかおらず、地元ネタだけで日々の紙面を埋めているような新聞とのことですが、マスコミ大手が事件発生当初に陥ったセンセーショナリズムを排した、極めてきっちりした取材内容であり、事件後1年を経て地元民への取材及び連載を開始したというのは、"正解"だったかも知れないと思わせるものでした。

 マスコミ被害に苦しめられながらも、事件の衝撃からの回復の兆しが見せ始め、子どもを守るため具体的な対策を取り始めた地元の人々の様子や、今なお癒えぬ事件被害者の遺族の心情など、伝えているものは多いのですが、やはり本書の核となるのは、120回の連載のうち80余回を占めた公判の傍聴記と判決の検証ではないかと思います。

秋田「連続」児童殺人事件.jpg 裁判で最大の争点となったのは、被告の娘・彩香さんの死が殺人であったのか過失であったのかということと、引き続き起こした豪憲君殺害事件の動機であり、とりわけ前者は、彩香さんに対する疎ましさと嫌悪の極限で殺意が生じたと主張する検察側と、彩香さんが欄干の上で抱きついてきたために、スキンシップ障害から思わず払いのけてしまったという弁護側で、真っ向から対立します。

 加えて、被告の精神鑑定をした精神科医による、彩香さんの死は「無理心中未遂」、豪憲君殺人は「強制殉死」といった説などが出てきて、この説は法廷で採用されることはありませんでしたが、人格障害者の起こした事件を裁くことの難しさを考えさせられました。

 結局、同じ医師による、彩香さんの"事故"後に被告は「突発性健忘」に陥ったという見方は、「記憶の抑圧」があったということを裁判所も認めてはいるものの、弁護側の主張する、彩香さんの死は"事故"だったとの見方は否定し、殺人事件であったとの見方を判示していますが、豪憲君殺害に繋がる動機の説明として使えそうな部分だけ抽出したという気がしなくもなく、被告の心の闇を解明することに時間を費やすよりも、被害者遺族の感情を考慮して、結審を急いだような印象を受けました。

 その他にも、必ずしも明快に解明されたとは言えない弁護側と検察側の対立点の1つとして、「自白の任意性」の問題があり、被告のようなタイプの人格障害の場合、相手の言いなりになって事実でもないことを認める傾向が時にあるようですが、ここでも判決は、調書には信頼性があると断定しています。

 一方で、被告は、彩香さんの死を悲しむものの、豪憲君の死については両親の苦しみが理解できないでいる様子であり、そうした被告が、刑の重みをどれほどの反省の念をもって受け止めることができるのかという疑問も残ります。

 記者の筆致は、弁護側、検察側、裁判所、精神科医などのそれぞれの主張の何れかに偏ることなく、それぞれに距離を置きながら対比させてその相違点を明らかにするとともに、内在する矛盾点や疑問点については鋭く疑義を挟むものとなっています。

 彩香さんの死が必ずしも十分に解明されたとは言えないという観点から、本書のタイトルも、「連続」児童殺人事件という具合に"連続"にカギ括弧がついていますが、但しこれは記者らが、彩香さんの死は殺人事件ではなかったという独自の結論に至ったということではありません。

 版元は小さな出版社ですが、密度の濃いドキュメントであり、裁判の公判分析という点でも優れた1冊。
 本書を通して事件をより深く知ることが出来たものの、結局、被告の心の闇は必ずしも十分に解明されていないというのが個人的な実感で、無期囚となった被告自身が語り始めるまでは自分達の取材は終わらないという結語にも、真摯な取材姿勢と併せて、そのことが窺えます。

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特殊な障害を持つ人に対する社会的フォローや更正の在り方について考えさえられた。

死刑でいいです.jpg死刑でいいです- 孤立が生んだ二つの殺人』['09年] 山地悠紀夫.jpg 山地悠紀夫 元死刑囚

 '00年に16歳で自分の母親を殺害し、少年院を出た後、'05年に面識のない27歳と19歳の姉妹を刺殺、取り調べや公判で「死刑でいい」と語って、'09年7月に25歳で死刑が執行された山地悠紀夫の、2つの殺人事件とその人生を追ったルポルタージュで、編著者は共同通信大阪社会部の記者。べースになっているのは、ブロック紙・地方紙に連載された特集記事で、'09年1月に「新聞労連ジャーナリズム大賞」の第3回「疋田桂一郎賞」を受賞していますが、単行本に編纂中に、山地の死刑が執行されたことになります。

 山地は少年院で広汎性発達障害のひとつである「アスペルガー症候群」と診断されていて、著者は、発達障害と犯罪とが直接結びつく訳ではないとしつつも、障害が孤立につながるリスク要因の1つであると考えおり、山地の場合、障害に加えて、悲惨な家庭環境や少年院を出てからの社会的支援の無さなどが重なり、そうした状況が彼を追い詰めたのではないかとしているようです。

 実際の公判では、広汎性発達障害ではなく「人格障害」であるとの精神鑑定が採用され、死刑判決が下ったわけですが、連載時のタイトルが「『反省』がわからない」というものであることからしても、他人に共感するといったことが困難なアスペルガー症候群の特徴が、山地に強く備わっていたことを窺わせるものとなっています。

 こうした見方は、単に著者の独断によるものではなく、事件に関わった或いは同じような事件を扱ったことがある鑑定医や弁護士など専門家を取材しており、また、山地の人生がどのようなものであったかについては、担任教諭、友人、弁護士、少年院の仲間、更には、少年院を出た後にその世界に入ったゴト師にまで及んでいて、一方で、被害者の遺族・関係者にも取材していて、山地の罪や被害者の感情を決してを軽んじるものとはなっていません。

 その上で本書を読んで思うのは、やはり山地の心の闇が解明されないままに彼の刑が執行されたように思われ、その事が残念な気がしました(山地自身にしてみれば、「刑死」という形の「自殺」だったのかも知れないが)。
 元家裁調査官の藤川洋子氏が、発達障害の傾向を踏まえたうえで、「反省なき更正」型矯正教育を提唱しているのが強く印象に残りました。

 藤川氏のみならず、カウンセラーや精神科医、弁護士など専門家に対する、新聞連載を読んだうえでの感想を聞いたインタビューは、かなり突っ込んだものになっていて、そこからは、死刑制度の在り方と併せて本書が提起しているもう1つの課題である、少年院から社会に出た後の社会福祉的フォローの問題が浮き彫りにされています。

 本書では、発達障害に対する偏見を除くために、そうした障害を持つ人達の支援グループの活動が紹介されていますが、山地のことを、理解しがたい特殊な犯罪者として社会的排除の対象とした事件当時のマスコミや世論の論調にも問題はあったのでしょう。
 しかし、2つの殺人事件を犯す前に、山地自身がそれぞれ発していたSOSを、十分に理解し受け止めることができなかった社会の在り方の方が、問題の根深さという意味では最も深刻なのかも知れないと思いました。

 【2013年文庫化[新潮文庫]】

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「判例勉強会の取りまとめ」みたいな感じの本?

日本をダメにした10の裁判.jpg 『日本をダメにした10の裁判 (日経プレミアシリーズ 4)』 ['08年]

 若手の弁護士やロースクール出身者4人による共著で、冒頭に有名な労働裁判2例が出ていたので思わず買ってしまいましたが、何か新しい切り口でもあるのかと思いきや、意外とオーソドックスと言うか、すでに巷で言われていることが書いてあるだけのように思いました。

 解雇権濫用法理のリーディングケースとなった「東洋酸素事件」を以って、日本の労働社会における解雇の障壁を高くしたとか、転勤命令についての会社側の裁量権を大幅に認めた「東亜ペイント事件」はワークライフバランスが言われる現代には合わないとか、労働判例の勉強をしたことがある人の多くが以前から感じていることではないでしょうか。

 「東洋酸素事件」の解説の終わりにある、正社員の既得権を守り過ぎたがために、非正規社員は冷遇され、「正社員の親とパラサイトの子」という構図が出来上がっていることの問題も、労働法学者がすでに指摘していることであり、「皮肉な結果ではないか」で終わるのではなく、そこから先の展開が欲しかった気がします。

 代理母事件や痴漢冤罪、企業と政治の癒着...etc.後に続く判例についても同様で、判例解説としても論考としてもスッキリし過ぎているような...。

 個人的に、多少とも我が意を得たのは、国家公務員が事件の加害者になっても、多くの場合、個人が賠償請求の対象にはならず、国家賠償法により国が代償するという「公務員バリア」に疑念を呈した部分で、社会保険庁の職員の懈怠の問題などに関連づけているのもナルホドね、そういうことかと。

 ただ、全体としてはやはり、「判例勉強会の取り纏め」みたいな感じが拭いきれなかったなあ。その分、ある程度、勉強(復習)にはなりましたが。

2008年06月04日 日経朝刊.jpg 2008年6月4日 日経朝刊

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「感情を揺さぶる証拠」が「衆愚」を招く危険性を、実証的に指摘。

ニッポンの岐路裁判員制度.jpg 『ニッポンの岐路裁判員制度~脳から考える「感情と刑事裁判」~ (新書y)』 ['09年]

 '09年5月から裁判員制度がスタートし、それに先駆けて賛否両論、多くの議論があり、書籍も多く出版されましたが、本書も単なる制度の入門書では無いという意味ではその一環にあるとも言えます。

 但し類書と異なるのは、著者が作曲家・指揮者であり、東大の物理学科卒であり、大学でマルチメディア論を教えていると言う、まさにマルチ人間ではあるものの、取り敢えず「司法」に関しては"素人"であるということでしょうか。

 更に、著者は、自らを、裁判員制度に対して賛成・反対どちらの立場でもないとし、敢えて言えば「裁判員制度現実派」であるとのことで、実際に「模擬裁判」の見学ツアーに参加したり、賛成・反対両派の意見を取材していますが、そうした観点から、裁判員制度における裁判の進め方で考えられる幾つかの問題点を指摘しています。

 その核となるのが、「感情を揺さぶる証拠を認めるか」というもので、この問題のケーススタディとして、米国のビデオ証拠判例を取り上げており、これは、サラ・ウィアーという女性(当時19歳)が惨殺された事件の裁判で、生前の被害者の思い出(誕生パーティ、ピクニック、卒業式など)を編集した20分ほどのビデオが提出され、このビデオの編集したのは、被害者の養母で、自身も弁護士である女性ですが、彼女による被害者の生涯を振り返っての朗読が、アイルランドのシンガーソングライター、エンヤの曲とともに流れるというもの。

 被告には死刑判決が下りましたが、この音楽付きビデオが陪審員の心を動かして正確な判断を誤らせたとして、被告は判決の無効を訴え、その後10年以上にわたって争われたものの、'08年に米国最高裁は、「音楽付き思い出ビデオ」は被害者の証拠として採用されうるとの判断を下したとのこと。

 人間が物事から受ける印象が、視覚などの外部情報によっていかに左右され易いものであるかを(「いかにマインド・コントロールされ易いか」とも換言できる)、著者はプレゼンテーションの技法でもって、検察側の「論告・求刑」モデルなどに当て嵌め解説していますが、"解説"と言うより"実証"してみせていると言った方がいいかと思えるぐらい説得力がありました("マルチメディア、メディアリテラシー論教授"の面目躍如!)。

ニッポンの岐路裁判員制度 帯.jpg 因みに、帯にある「性奴隷」の文字は、'08年4月に東京都江東区のマンションで起きた若い女性の惨殺・死体遺棄事件(当初は証拠死体が見つからず、「現代の神隠し事件」と呼ばれた)で、被告の犯行動機の中にあった言葉を検察側が実際にプレートにしたもので、この事件の審理においても、被害女性の愛くるしい赤ちゃんの頃の表情や、子ども時代のスナップ、楽しかった学生時代のアルバム写真などが、モニターに次々映し出される一方、被告が被害者の遺体を捨てたマンションのゴミ箱や、ゴミが運ばれていく埋立地の写真なども映し出されたとのこと(この裁判は裁判員によるものではないが、「わかりやすさ」を目指す裁判員制度の予行演習的な意味合いもあったようだ)。

 著者は、本書の末尾において、この「性奴隷」という3文字を黒字と赤字の両方で示してみせていますが、確かに著者の言う通り、同じ文字でも全く印象が異なり、結局、プレゼンテーション次第で裁判員に大きく異なる印象を与えることが可能であることを示唆しています。

 何気なく手にした本でしたが、結果として、深く考えさせられ、一方で、裁判員制度は是か非かという議論に隠れて、こうしたマインド・コントロール的な証拠提出の問題について、巷ではさほど論じられていないように思われるのが気がかり。

 著者の"中立的"な立場とは裏腹に("中立的"な立場に沿って?)、本の帯には「民主か? 衆愚か?」ともあり、本書を読む限りにおいては、何らかの規制やルール作りをしないと「衆愚」に転ぶ可能性が高いことを、本書自体が訴えているようにも思えました。

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「重くはない」ことが、必ずしも「軽い」ということにはならない。刑罰の背景にある社会特質。

日本の刑罰は重いか軽いか.jpg 『日本の刑罰は重いか軽いか (集英社新書 438B)』 ['08年]

法廷.png 中国・米国・日本の刑罰制度を比較しており、冒頭、刑罰とは何か、なぜこの3国の制度を比較するのかなど、やや理屈っぽく感じられましたが、タイトルに呼応する、第3章の「日本の刑罰は重いのか」、第4章の「日本の刑罰は軽いのか」にきて、ぐっと興味を引かれました。

 経済犯罪について、米国の会社経営者の場合は終身刑の宣告もあり得て、中国だと死刑もあるのに対し、執行猶予付きで済むのが日本の経営陣(インサイダー取引きなども同様)、薬物犯罪だと、アヘン戦争の苦い経験を持つ中国は非常に厳しく、売買を仲介しただけで死刑になることもあり、米国も終身刑を辞さないが、日本は普通の刑罰で済んでしまう―こうして見ると、「日本の刑罰は軽い」ということになりそうですが、確かに「重くはない」が、「軽い」ということには必ずしもならないようです。

 と言うのは、軽犯罪については、中国法では「小さなこと」を相手にしないとのことで、刑法の中で犯罪として定められているのはあくまで「大きなこと」だけ。これに対し、小さなことも漏らさず網羅するのが日本法で、条例レベルだと、迷惑防止条例などがその例。一方、米国は、小さなことに関心を払ったり払わなかったり、時期や地域、事柄によってムラがあるそうです(米国が発祥のストーカー規制法やセクハラ規制法も、州によって設けていない州もある)。

 米国は、死刑適用だけでなく法執行全般に偶然さが伴う、所謂「撒餌式」の法執行で(「FOXクライムチャンネル」で婦人警官が売春婦に変装して男性を検挙しているのを放映していたけれど、ああした"囮捜査"などは「撒餌式」の典型。本書によれば、人件費のかかる割には効果が得られてないらしい)、一方、中国は「キャンペーン式」、一定の期間や地域において特定の犯罪に厳罰が適用されるということで、まるで、「交通安全強化月間」みたいだなあと(但し、たまたまその時期に引っかかると、死刑になったりするから怖い)。これに対し、日本は犯罪の適用が広範な、言わば「魚網式」の法執行であり、そういう意味では、日本の刑罰は決して「軽い」とは言えないと著者は言っています。

 結局、刑罰の背景にはそれぞれの社会特質があり、「権力社会」中国、「法律社会」米国、「文化社会」日本、という著者の分析は、スンナリ腑に落ちる結論でした。

 中国の人民陪審員として、死刑判決を言い渡された被告の様や、銃弾で脳の飛び散った処刑後の姿に立会い(中国は世界の死刑執行の8割を占めると言われる)、裁判官志望から法学研究者に進路を転じたという著者の述懐には、死刑制度について考えさえられる点もありました。

《読書MEMO》
●米国の刑事事件は90%が司法取引で処理され、公式な裁判にはならない。残り10%のうち、約5%は裁判官による裁判で審理され、陪審による裁判になる刑事事件はせいぜい約5%程度(86p)
●中国の死刑罪名の約半分は、経済や金銭のための死刑罪名(97p)
●今の日本では、国民の8割近くが死刑の存置に賛成しているが、これほど高い死刑支持率を保っているのは、日本の死刑執行は(中略)極めて密室的やり方で行われ、ごく少数の関係者以外には誰も死刑執行の場面や状況を見ることも知ることもできないからであろう。もし死刑囚に対する絞首の生々しい場面や過程を一般国民が見聞きできるようになったら、日本での死刑支持率はかなり下がるのではないか(220p)

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茶化し気味のタイトルだが、読んでみて「量刑相場」の問題などいろいろ考えさせられた。

裁判官の爆笑お言葉集.jpg 『裁判官の爆笑お言葉集 (幻冬舎新書 な 3-1)』 ['07年3月] 狂った裁判官.jpg 井上薫 『狂った裁判官 (幻冬舎新書 い 2-1)』 ['07年3月]

 裁判官は、建前は「法の声のみを語るべき」とされていますが、法廷ではしばしば「説諭」や「付言」という形でその肉声が聞かれることがあり、本書では、私情を抑えきれず思わずこぼれたその本音などを(勿論、事前にじっくり練られたものもあるが)拾っていて、茶化し気味のタイトルに反して、読んでみて考えさせられるものがありました。

 その中には、心情的には重い刑を言い渡したいのに、「量刑相場」がそれを許さないという板ばさみ状態での判決に伴ったものが結構あって、裁判官がその「説諭」等に、反省の足りない被告人に対する痛烈な批判のメッセージを込めるといったことは、それなりに司法の役割の一端でもあるように思いますが、その良心に従い独立してその職権を行使すべきである裁判官が、自らの内部で量刑の軽さとのバランスをとろうとしているようにもとれるところに、「量刑相場」問題の複雑さがあるように思いました(一方、被告人を更生させるための思いやりのある発言も、本書には多く収録されている)。

裁判官はなぜ誤るのか.jpg そもそも、日本の裁判では、裁判官が法廷以外で被告人と話すことはなく、元判事の秋山賢三・弁護士が著した『裁判官はなぜ誤るのか』('02年/岩波新書)にも、「エリート意識は強いが世間のことはよく知らず、ましてや公判まで直接面談することも無い被告人の犯罪に至る心情等には理解を寄せがたい」こと、「受動的な姿勢と形式マニュアル主義から、検察の調書を鵜呑みにしがち」なことなどが指摘されていましたが、本書を読むと、真っ当な人も多いのだなあと(真っ当であってもらわないと困るが)。

 著者は、司法試験受験を7度失敗したのに懲りて、司法ライターに転じたとのことで、本書が初めての新書らしいですが、その視点に斜に構えた感じは無く、冷静かつ概ね客観的であるように思え、また、緩急の効いた文章も旨いです(これ、要点をかいつまんで纏めるのは結構、訓練が要るのではないか)。

 同時期に幻冬舎新書で刊行された、元判事・井上薫氏の『狂った裁判官』の方は、現在の司法制度の実情を解説するとともに、その問題点を挙げて批判したものですが、本当に著者の言う"ひどい"事態がしばしばあることなのかやや疑問で、著者が再任拒否された恨み辛みが先行しているような感じもし、斜に構えているのはむしろこちらの方かも。
 どちらか1冊と言えば、この『お言葉集』の方がお薦め、と言うより、司法制度を考える上で(興味本位から入っても構わないので)、多くの人に手にして欲しい本です(そのつもりでつけたのであろうタイトルには、内容との違和感を感じるが)。

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検察官の仕事を如実に伝えるが、「国民の期待に応える」ということで考えさせられる点も。

ドキュメント検察官 揺れ動く「正義」.jpg 『ドキュメント検察官―揺れ動く「正義」 (中公新書)』 〔'06年〕

東京地検特捜部.jpg 「検察」と言えば政官界汚職事件などの不正に鋭く切り込んで脚光を浴びる"特捜部"をすぐイメージしがちですが、本書では、それだけでなく全国の地検などに取材し、我々が普段接することのない検察官の仕事の全貌を如実に伝えてくれています。

 そこには、"「秋霜烈日」の理想を胸に"と帯にあるように、犯罪被害者の代理人的立場で、彼らの無念を晴らそうと捜査に奔走する「正義」の実践者の姿もあれば、裁判員制度の施行に向けて、迅速で解りやすい審理のあり方を模索する姿、更には死刑執行の立会いにおいて(これも検察官の仕事)、これは国家による殺人ではないかと悩む姿などが見られます。
 捜査だけが彼らの仕事ではなく、選抜された幹部(候補)は、法務省において、法案の根回しといった国会対策や司法行政に絡む仕事もしているのです。

 検察が告訴した事件の99.9%が有罪となっていて、日本におけるこの数字は諸外国と比べても飛び抜けて高いとのことで、これは検察の優秀さ、確実に有罪であるとの見通しが無ければ告訴しないという慎重さの現れだと思いますが、一方で、裁判が始まると、あらかじめ想定した判決から遡及して事件を組み立ててしまう怖れもあるのではないかという気もしました。

 犯罪被害者が自らの無念を晴らそうとする際に、検事に期待するしかないという状況もあるかと思いますが、検事も被害者たちの期待に応えるべく奮闘するという図式がそこにはあり、その結果「遺族感情」と「正義」がダブってしまう―、このことが、政治的・社会的事件においても敷衍されていて、国民感情によって検察が積極的に動いたり、或いは消極的だったりすることがあるのではないかと、個人的には思いました(副題に"揺れ動く「正義」とあるが、これは、検察は今まで自らが信じてきた「正義」に則って行動してきたが、これからはそれだけでは国民の支持・理解は得られないのでは、という意味で使われているようだが...)。"

 中公新書の『ドキュメント弁護士』('00年)、『ドキュメント裁判官』('02年)に続く読売新聞連載シリーズの新書化で、前作から4年をぶりの刊行ということからも「検察」を取材することの大変さが窺えますが、1回に2,3の話を盛り込んだ連載をほぼ焼き写して新書化しているため、カバーしている領域は広いが、1冊の本として読んだ際に"細切れ感"が拭えないのが残念。

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日本の法科大学院とは似て非なるもの。エリート生成過程を通して見えるアメリカ社会。

アメリカン・ロイヤーの誕生.jpgアメリカン・ロイヤーの誕生 2.jpg      阿川尚之.jpg 阿川 尚之 氏(慶大教授)
アメリカン・ロイヤーの誕生―ジョージタウン・ロー・スクール留学記 (中公新書)』 〔'86年〕

 著者は、大学を卒業してソニーに入社後、アメリカでの弁護士資格取得を思い立ち、休職願いを会社に受け入れてもらってジョージタウン・ロー・スクールに入学する―、本書はその留学3年間('81-'84年)の奮闘記。

 文章が生き生きしていて旨いのは、さすが作家・阿川弘之の息子だけあるということか(著者は、慶応大学を中退、ジョージタウン大学の外国人枠で外交政策学部卒業した後、ソニーに入社したというのがそれまでの経歴)。

 アメリカでは、学部は専門教育の場とは考えられていないようで、ビジネス・スクール(履修期間2年)、ロー・スクール(同3年)、メディカル・スクール(同4年)などが別に設けられていて、'04年からスタートした日本の法科大学院は、ロー・スクールを参考に制度作りしたのは明らかですが(日本の場合、法学"未修"者は3年、"既修"者は2年)、あちらでは、そもそも"既修"という概念が無いし(全員が"未修"ということ)、"本家"のものは多くの面で日本のものとは似て非なるものという感じがしました。

 入学試験は一斉テストで、論理パズルのような問題。著者はハーバードなど8校に出願し4勝4敗、結局、高校時代に留学経験のあるジョージタウン大学のロー・スクールを選びますが、入ってからが大変です。

ペーパー・チェイス poster.jpgぺ―パーチェイス.jpgThe Paper Chase (1973).jpg 本書でも引き合いにされていますが、まさにジェームズ・ブリッジス監督の映画「ペーパーチェイス」('73年/米)の世界です(原作('70年)はジョン・ジェイ・オズボーン・ジュニアが自らの体験を綴った同名小説、主演は「ジョニーは戦場へ行った」のティモシー・ボトムズと、後にTV番組「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」の主役となるリンゼイ・ワグナー)。
ペーパー・チェイス [DVD]
"The Paper Chase" (1973)

Lindsay-Wagner-and-Timothy-Bottoms-300x225.jpg「ペーパーチェイス」●原題:THE PAPER CHASE●制作年:1973年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ジェームズ・ブリッジス●製作:ロバート・C・トンプソン/ロドニック・ポール●撮影:ゴードン・ウィリス●音楽:ジョン・ウィリアムス●時間:118分●出演:ティモシー・ボトムズ/リンゼイ・ワグナー/ジョン・ハウスマン/グラハム・ベケル/エドワード・ハーマン/ボブ・リディアード/クレイグ・リチャード・ネルソン/ジェームズ・ノートン/レジーナ・バフ●日本公開:1974/03●配給:20世紀フォックス(評価:★★★☆)

 アメリカの司法は徹底した判例主義だけれど、州によって法律が違ったりするので尚更のこと大変そう。それと、映画同様、先生のタイプは様々ですが、全体としては実戦に近い形でのカリキュラムが多く組まれているようです。

 本書では、1年次の学年末試験と2年次のサマー・アソシエイト(事務所実習)が重点的に描かれていますが、それらの過程において学生たちは厳しい評価を受け、卒業後にどのランクのファームから引き合いがあるかが大体決まってしまうらしく、一方、卒業後に受ける司法試験は形式的なものに近いようです。

 学校の試験を受けるのに"ウェーバー"カードを提出しなければならなかったり(大リーグの選手移籍契約の時によく聞くが、要するに"訴権放棄"条項。落第しても文句がつけられない)、どの自主学習グループに入れるかが勝ち組・負け組となる重要な分かれ目だったりし、著者自身も「競争病」の徴候を自覚し、難所とされる最初の学年末試験を終えるまでは、出所を待つ刑務所の囚人のような気持ちだったとしています。

 著者がロー・スクールのJ.D.(法律博士)コースに入った'81年に比べれば、最近ではMBAブームほどでないにしても、あちらで弁護士資格を取る人も増えているようですし、日本にある外資系の法律事務所から留学している日本人弁護士もいますが、こうした場合はLL.M.と呼ばれる法学修士コース(履修期間1年)だったりすることが多いようで、やはり、ネイティブと同じ条件で3年学んだ体験は今でも貴重かも。

 単に"アメリカン・ロイヤーの誕生"と言うより、"アメリカン・エリートの生成"過程を通して、アメリカ社会が垣間見える好著ですが、自分自身が日本の法科大学院の実情をもっと知っていれば、より楽しめたかも。

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肩の力を抜いて楽しめる法律入門または法律クイズ&エッセイ。

刑法面白事典.jpg 『刑法面白事典―ハンカチをしけば和姦になるという常識のウソ』 〔'77年〕 刑法おもしろ事典.jpg 『刑法おもしろ事典』 〔中公文庫/'96年改版版〕

 新聞記者から弁護士になり、その後推理作家となった著者の、法律入門書シリーズの1冊で、「他人のカサを間違えて持ち帰ったら、罪になる?」「バラを1本盗んでも窃盗になる?」「ケンカをして誰がケガをさせたのかわからない。こんな事件はどう処理される?」「無銭飲食・無銭宿泊も頭の使い方で罪にならない?」「雪の降る深夜に路上に寝ている男をはねたら」などの問いに対し選択肢から正解を選ぶクイズ形式をとりつつ、実際の刑事事件の例をもとに、刑法の考え方をわかりやすく解説しています。

刑法面白事典3.jpg 著者のこのシリーズには『憲法面白事典』、『民法面白事典』などもあり、それぞれ「楽しみながらわかる最高の法規の常識とウソ」、「飲み屋のツケは1年で時効という常識のウソ」というサブタイトルがついていて、本書のサブタイトルは「ハンカチをしけば和姦になるという常識のウソ」というものですが、何れも文庫化(中公文庫)される際に、サブタイトルは外したようです(『民法』、『刑法』のサブタイトルは面白いと思ったけれど)。

民法入門.jpg 本書の刊行は'77年ですが、刊行後5年間で100刷以上増刷していて、弁護士である推理作家がこうした一般向けの法律入門書を書いた例では、さらに一昔前の、元検事だった佐賀潜(1914‐1970)の法律入門書シリーズがあり、こちらは『民法入門-金と女で失敗しないために』、『刑法入門-臭い飯を食わないために』(共に光文社カッパ・ビジネス)が'68年にベストセラー2位と3位になったほか、商法・税法から労働法や道路交通法まで広くカバーしています。

 民法については国家試験受験の際に、和久版『民法面白事典』と佐賀版『民法入門』の両方を読み、文学部出の自分にとってどちらも役に立ちましたが(勉強中の適度な息抜き?)、参考書という観点で見れば、和久版の方がやや読み物(エッセイ)的な感じで、佐賀版の方がカッチリした内容だったかも。

 本書、和久版『刑法面白事典』にも、ケーススタディのQ&Aの他に、法律用語の読み方クイズとか、江戸時代の刑罰についてやロッキード疑獄の新聞記事をどう読むかといったトピック、実際にあった珍事件とその結末(いかにも元新聞記者らしい)などが挿入されていますが、刑法については全く試験を離れて読んだため、これはこれで楽しめました。

 【1986年文庫化・1996年文庫改版[中公文庫]】

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読みやすくはないが、死刑制度の歴史的意味合いを探るうえでは好著。

刑吏の社会史.jpg                   阿部謹也.jpg  阿部 謹也 (1935-2006/享年71)
刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活 (中公新書 (518))』〔'78年〕

 '06年に急逝したヨーロッパ中世史学の泰斗・阿部謹也(1935‐2006)の初期の著作で、「刑吏」の社会的位置づけの変遷を追うことで、中・近世ヨーロッパにおける都市の発展とそこにおける市民の誕生及びその意識生成を追っています。
 かつての盟友で、日本中世史学の雄であった網野善彦(1928‐2004)の『日本中世の民衆像-平民と職人』('80年/岩波新書)などを想起しましたが、「刑吏」という特殊な職業に焦点を当てているのが本書の特徴。

 もともと「処刑」というものは、犯罪によって生じた人力では修復不能な村社会の「傷を癒す」ための神聖な儀式であり、畏怖の対象でありながらも全員がそれを供犠として承認していた(よって、処刑は全社会的な参加型の儀式だった)とのこと。
 当初は原告が処刑人であったりしたのが、12・13世紀ヨーロッパにおいて「刑吏」が職業化し、キリスト教の普及によって「処刑」の"聖性"は失われ"怖れ"のみが残り、その結果、14・15世紀の都市において「刑吏」は賤民として蔑まれ、市民との結婚どころか酒場で同席することも汚らわしいとされ、18・19世紀までの長きに渡り市民権を持てなかった―らしいです。

 本書中盤においては、絞首、車裂き、斬首、水没、生き埋め、沼沢に沈める、投石、火刑、突き刺し、突き落とし、四つ裂き、釘の樽、内臓開きなど様々な処刑の様が解説されていて(後半では「拷問」の諸相が紹介されている)、かなりマニアックな雰囲気も漂う本ですが、例えば絞首には樫の木を使うとか処刑の手続が細かく規定されていたり、仮に罪人が死ななかった場合でもそこで執行はお終いになる(死に至らしめることが目的ではなく、あくまで一回性のものだった)といったことなどからも、「処刑」の「儀式性」が窺えて興味深かったです。

 必ずしも読みやすい構成の本ではないですが、「処刑」が、罪人の処罰よりも社会秩序の回復が目的であり、死刑囚に処刑前に豪華な食事を振舞う「刑吏による宴席」(食欲が無くても無理矢理食べさせた)などの慣習を見ても、都市の発展によりその目的は、特定の遺族や村人の癒しを目的としたものから市民(共同体)の癒しを目的としたものに変容しただけで、残された者の「癒し」を目的としたものであることに変わりはなく、そのため「儀式性」は長く保たれたことがわかります。
 何のために死刑制度があるのか、その歴史的意味合いを探るうえでは好著ではないかと思います。

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「過労自殺」に注目が集まる契機となった本。教訓としての「電通事件」。

過労自殺.jpg 『過労自殺 (岩波新書)』 〔'98年〕

Bridge、templateId=blob.jpg 本書刊行は'98年で、その頃「過労死」という言葉はすでに定着していましたが、「過労自殺」という言葉はまだ一般には浸透しておらず、本書は「過労自殺」というものに注目が集まる契機となった本と言ってもいいのではないかと思います。

 冒頭に何例か過労自殺事件が紹介されていますが、その中でも有名なのが、著者自身も弁護士として関わった「電通事件」でしょう。
 自殺した社員(24歳のラジオ部員)の残業時間が月平均で147時間(8カ月の平均)あったというのも異常ですが、会社ぐるみの残業隠蔽や、当人に対し、靴の中にビールを注いで無理やり飲ませるような陰湿ないじめがあったことが記されています。

 事件そのものの発生は'91(平成2)年で、電通の対応に不満を持った遺族が'93(平成5)年に2億2千万円の損害賠償請求訴訟を起こし(電通がきちんと誠意ある対応をしていれば訴訟にはならなかったと著者は言っている)、'96(平成8)年3月、東京地裁は電通側に1億2千万円の支払を命じていて、それが'97(平成9)年9月の東京高裁判決では3割の過失相殺を認め、約9千万円の支払命令となっています。

 本書105ページを見ると、'95〜'97年度の過労自殺の労災申請は、それぞれ10件、11件、22件で、それに対し認定件数は各0件、1件、2件しかなく、電通事件も労災申請を認めなかった労基署の判断が退けられたという形をとっていますが、それがそのまま損害賠償命令に直結したのがある意味画期的でした(しかも金額が大きい。因みに'06年度の「過労自殺」の労災認定件数は66件にも及んでいる)。

 さらに、本書刊行後の話ですが、'00(平成12)年の最高裁小法廷判決では、2審判決の(本人の自己管理能力欠如による)過失相殺を誤りとし、電通に対し約1億7千万円の支払い命令を下しており、上場を目前に控えた電通は、やっと法廷闘争を断念して判決を受け入れ、遺族との和解交渉へと移ります。

 企業が労務上の危機管理や事件に対する適切な初期対応を怠ると、いかに膨大な時間的・金銭的・対社会的損失を被るかということの、典型的な例だと思います。

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「凶悪犯」を厳罰に処すという予め想定された結論に向かう裁判。

自閉症裁判2.jpg  『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 (2005/03 洋泉社)

 '01年4月に浅草で発生した女子短大生殺人事件は、「レッサーパンダ帽の男」による凶悪な犯行として世間を騒がせましたが、男が高等養護学校の出身者で知的障害があり、自閉症の疑いが強いことは、当初マスコミでは報道されませんでした。

 本書はこの事件の東京地裁判決(無期懲役)に至るまでの3年間の公判を追ったルポルタージュですが、審理過程で、男が「自閉症者」なのか「自閉的傾向」があるに過ぎないのかで、弁護側と検察側の分析医の間で激しい意見の対立があったことや、更には、判決に大きな影響を与えた警察の調書が、取調官の先入観による"作文"的要素が強いものであることなどを、本書を読んで知りました。

 著者は養護学校教員を21年間務めた後に'01年4月にフリージャーナリストになった人で、経歴上、弁護寄りの立場から裁判を見るのは自然なことですが、敢えて被害者側の家族に対しても真摯に取材し、その悲しみの大きさを伝え、男が負わねばならない「罪と罰」の重さを示しています。
 しかし同時に、男が持つ「障害」への理解のないまま進行する裁判の在り方が、同種の犯行の防止に効果があるのだろうかという疑問を呈しています。

 実際に本書を読むと、この裁判は、「凶悪犯」を厳罰に処すという予め想定された結論に向かっているようですが、男がどこまで「罪」を理解しているのかは疑問で(それが「反省の色もない」ということになってしまう)、その場合の「罰」とは何かということを考えさせられます。

 性格破綻者の父親が支配する男の家庭環境は極めて悲惨なものでしたが、男自身に福祉を求める意思能力がなく、硬直した福祉行政の中で孤立し、事件に至ったことは被害者にとっても男にとっても不幸なことだったと思います。
 その中で、それまで男を含め家族を1人家族を支えていた男の妹が、公判中にガン死したというのは、更に悲しさを増す出来事でした。

 事件が起きたゆえに、それまで何ら福祉的支援を受けていなっかた重病の妹が家にいることが明らかになり、民間の「法外」福祉団体のスタッフによっ"救出"され、最後の何ヶ月だけある程度好きなことができたというのが救いですが、それすらも事件があったゆえのことであることを思うと、複雑な気持ちになります。
 
 裁判の結果(判決よりも過程)に対する無力感は禁じ得ませんが、裁判の在り方、福祉行政の在り方に問題を提起し、自閉症についての理解を訴えるとともに、若くして亡くなった2人の女性への鎮魂の書ともなっています。

 【2008年文庫化[朝日文庫]】

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一般からは見えにくい裁判官という「人間」に内側から踏み込んだ1冊。

裁判官はなぜ誤るのか.jpg 『裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書)』 〔'02年〕 秋山賢三.bmp 秋山 賢三 氏 (弁護士)

 元判事である著者が、裁判官の置かれている状況をもとに、日本ではなぜ起訴された人間が無罪になる確率が諸外国に比べ低いのか、また、なぜ刑事裁判で冤罪事件が発生するのかなどを考察したもの。

 その生活が一般の市民生活から隔絶し、その結果エリート意識は強いが世間のことはよく知らず、ましてや公判まで直接面談することも無い被告人の犯罪に至る心情等には理解を寄せがたいこと、受動的な姿勢と形式マニュアル主義から、検察の調書を鵜呑みにしがちなことなどが指摘されています。

 一方で、絶対数が少ないため1人当たりの業務量は多く、仕事を自宅に持ち帰っての判決書きに追われ、結局こうした「過重労働」を回避するためには手抜きにならざるを得ず、また、身分保障されていると言っても有形無形の圧力があり、そうしたことから小役人化せざるを得ないとも。

 著者自身が関わったケースとして、再審・無罪が確定した「徳島ラジオ商殺し事件」('53年発生、被害者の内縁の妻だった被告女性はいったん懲役刑が確定したが、再審請求により'85年無罪判決。しかし当の女性はすでに亡くなっていた)、再審請求中の「袴田事件」('66年に発生した味噌製造会社の役員一家4人が殺され自宅が放火された事件で、従業員で元プロボクサーの袴田氏の死刑が、'80年に最高裁で確定)、最高裁へ上告した「長崎事件」を代表とする痴漢冤罪事件などが取り上げられています。

 誤審の背景には、裁判官の「罪を犯した者を逃がしていいのか?」という意識が 「疑わしきは被告人の利益に」という〈推定無罪〉の原則を凌駕してしまっている実態があるという著者の分析は、自身の経験からくるだけに説得力があるものです。

 司法改革はやらねばならないことだとは思いますが、弁護士の数を増やすことが裁判官の質の低下を招き、訴訟の迅速化を図ることが冤罪の多発を招く恐れもあることを考えると、なかなか制度だけですべての問題を解決するのは難しく、裁判官1人1人の人間性に依拠する部分は大きいと思いましたが、本書はまさに、一般からは見えにくい裁判官という「人間」に、内側から踏み込んだ1冊です。

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裁判は、判決から"事実"を組み立てていくフィションかという問い。

フィクションとしての裁判877.JPG大岡昇平・大野正男.jpgフィクションとしての裁判.jpg
フィクションとしての裁判―臨床法学講義 (1979年)』朝日レクチャーブックス

 弁護士として砂川事件やサド「悪徳の栄え」事件等で長年活躍してきた大野正男(1927-2006)は、その後最高裁判事になっていますが、本書は弁護士時代に作家の大岡昇平(1909‐1988)と対談したもので、'79年に「朝日レクチャーブックス」の1冊として出版されています。

事件.jpg 過去の「文学裁判」や大岡氏の小説『事件』(大野氏は大岡氏がこの小説を執筆する際の法律顧問を務めた)をたたき台に、裁判における事実認定とは何か、冤罪事件はなぜ起きて誤判の原因はどこにあるのか、さらに「正義」と何か、裁判官は「神の眼」になりうるのかといったところまで突っ込んで語られています。結論的には、裁判とは判決から遡及的に"事実"を組み立てていくフィショナルな作業であるともとれるという観点から、「臨床法学」教育の大切さを訴えています。

大岡 昇平『事件』

 対談過程で、大岡氏が『事件』の創作の秘密を明かしているのが興味深く、また今まであまり知らなかった冤罪事件について知ることができました(「加藤新一老事件」の場合、62年ぶりに無罪になったというのは驚き。裁判で費やした一生だなあと)。

 「陪審制」についても論じられていて(昭和3年から昭和18年まで、日本にも陪審制度があったとは知らなかった)、両者とも導入に前向きですが、裁判官が審議に加わる「参審制」の場合は、参審員の裁判官に対する過剰な敬意が個々の判断を誤導してしまう恐れがあるというのは、日本人の性向を踏まえた鋭い指摘だと思いました(裁判員制度も「参審制」だけど、大丈夫か?)。

 「陪審制」をモチーフにした推理小説などが紹介されているのも興味深く、陪審員の中に殺人経験のある女性がいて、彼女は"経験者"しか知りえないことを知っている被告が殺人犯であると察するけれども、自らを守るために無罪を主張するといった話(ポストゲート『十二人の評決』)や、裁判官が真犯人だったという話とかの紹介が面白く読めました。

 本書は残念ながら絶版中で、この対談の一部は大岡の全集の中の対談集『対談』('96年/筑摩書房)に収められていますが、両者の対談の面白さや奥深さは、こうした抄録では充分に伝わってこない。
 司法制度改革に関連する話題もなどもとり上げているので、文庫化してほしいと思っています。

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冤罪事件が起きる原因を検証。ヒッチコック映画か小説のような話も。

後藤昌次郎著『冤罪』 .jpg  『冤罪 (1979年)』 岩波新書  誤まった裁判  ―八つの刑事事件―.gif 上田誠吉/後藤昌次郎 『誤まった裁判―八つの刑事事件 (1960年) (岩波新書)

 本書では、清水事件、青梅事件、弘前事件という3つの冤罪事件をとりあげ、冤罪事件がどのようにして起きるかを検証しています。

 何れも昭和20年代に起きた古い事件ですが、〈青梅(列車妨害)事件〉は自然事故が政治犯罪に仕立て上げられた事件として、また〈弘前(大学教授夫人殺人)事件〉は、後で真犯人が名乗り出た事件として有名で、真犯人が名乗り出る経緯などはちょっとドラマチックでした。

「間違えられた男」.jpg この2事件に比べると、冒頭に取り上げられている〈清水(郵便局)事件〉というのは、郵便局員が書留から小切手を抜き取った容疑で起訴されたという、あまり知られていない "小粒の"事件ですが、ある局員が犯人であると誤認される発端が、たった1人の人間のカン違い証言にあり、まるでヒッチコックの 「間違えられた男」のような話。

 結局、被告人自身が「警察も検察も裁判所も頼りにせず」、弁護士と協力して真犯人を突き止めるのですが、まるで推理小説のような話ですけれど、実際にあったことなのです。
 この事件で、真犯人の方が冤罪だった局員の当初の刑より量刑が軽かったというのも、考えさせられます。
 冤罪を訴え続けた人は、改悛の情が無いと見られ、刑がより重くなったということでしょう。

 著者の前著(上田誠吉氏との共著)『誤まった裁判-八つの刑事事件』('60年/岩波新書)が1冊で三鷹事件、松川事件、八海事件など8つの冤罪事件を扱っていたのに対し、本書は事件そのものは3つに絞って、事件ごとの公判記録などを丹念に追っていて、それだけに、偏見捜査、証拠の捏造、官憲の証拠隠滅と偽証、裁判官の予断と偏見などの要因が複合されて冤罪事件の原因となるということがよくわかります。

 事件が風化しつつあり、関係者の多くが亡くなっているとは言え、前著ともども絶版になってるのが残念。

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